西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

ル・コルビュジェの「メッセージ」(BS・TBS)見る-2サヴォア邸への道

2012-01-08 | 住まい・建築と庭
コルの最初の建築設計と言えるのは、「ファレ邸」(1907年)であろうか。

で、コルは23歳の時(1910年)建築のあり方を実地に学ぶために「東方への旅」を敢行する。そして、アテネでは丘の上のパルテノン神殿に、ローマでは町中(まちなか)のパンテオンなどに感銘を受けている。パリに来てオーギュスト・ペレ設計のRC(鉄筋コンクリート)のアパート(1903年)にも感銘を受け、ペレ事務所で修業することになる。

1917年(この年はロシア革命の年)「シュオブ邸」(スイス、ラショード・フォン)の設計、同年パリに事務所を構える(30歳)、オザンファンのアトリエである。

コルは美術学校の出身で絵画も日常的に描いている。このころ、ピカソの批判もしている。後々、絵画を描くことと建築の構想・設計と密接不可分だったとの証言もある。

また、言葉を駆使して論陣もはった。雑誌『エスプリヌーボー』(新精神)を発刊、ここに自説を掲載するためペンネームとしてル・コルビュジェを使うようになり、以後これが彼の通り名となった。(彼の顔が「鳥顔」だったのでフランス語の”コルブ”(カラス!)を使ったと言われている。)

当時(1917年)、革新的な住宅構法として「ドミノ・システム」の構想を発表している。ドミノ・システムとは、RCの床板の上に柱だけ立てて上階の床板を支えるというもので、構造体としての壁をなくした画期的アイデアだった。

この構想は実際には、1920年代の「クック邸」(1926年)を経て有名なポワシイの「サヴォア邸」(1931年)に至って完全に実現した。

この間、ヨーロッパでは、1924年オランダのユトレヒトでリートフェルトが「シュレーダー邸」を数学的原理に基づいて厳密に構成した。またドイツではヴァルター・グロピウスが1925年に「近代建築学校」の「バウハウス」の初代校長になり、2代目に後にアメリカで活躍するミース・ファンデル・ローエがついた。

これらの動きを受けてコルは、1928年に「近代建築五原則」を発表した。
すなわち①ピロティ(上階床支え柱)の採用・・・これによって地表面は公共に開放され、建築機能は2階以上で実現、②屋上庭園の設置・・・地表にあった庭園を屋上にもっていく、③横長の窓、④自由な平面、⑤自由な立面 である。

これらは、明確に過去の様式建築を否定し、だれが読んでも趣旨明晰であったので、その後大きな影響を与えた。

上述の「サヴォア邸」は、「ドミノ・システム」や、それを発展させた「近代建築五原則」に最も合致する実例と言えよう。

ただ、この時代のピロティは、スマートでほっそりしており、他の壁面と同じく白く塗られていた。いわゆる「ホワイト・キューブ(White cube)」の時代だった。(続く)

写真は、サヴォア邸・・・場所はパリ近郊のポアシイ

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