生き生き箕面通信

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1996 ・集団的自衛権を使うことが本当に日本人を守る道なのか

2014-06-11 09:42:23 | 政治

お早うございます。
生き生き箕面通信1996(140611)をお届けします。

・集団的自衛権を使うことが本当に日本人を守る道なのか

 安倍首相の集団的自衛権を使えるようにしようとする執念は、理性的かつ冷静 な思考や行動範囲をはるかに超え、狂気じみた水準に達したように見えます。

 「何が何でも憲法解釈を変えて、今国会中に集団的自衛権を使えるようにするんだ」という執念。昨日6月10には、公明党との調整担当を任せている副総裁の高村正彦氏が協議経過を報告に来たのを機に、「今国会中に閣議決定できる段取りにしろ」と、改めて強い命令を発しました。

 いまさらいうまでもなく、日本には本来、歴代の内閣が日本のあるべき姿に照らして苦労しながら積み上げてきた理念があったはずです。「二度と戦争はしない。日本は『平和国家の道』を進む」という、いわば国民的合意を得た理念です。この理念は、多大な犠牲を払った末にもたらされた「戦後最大の宝」だったはずです。

 その宝を、安倍という一人の男の執念によって、いまや風前のともし火、踏みつぶされる寸前です。

 集団的自衛権を行使したいというなら、それを野放しにする前に、まず考えなければならないことがあるはずです。それは、「日本の平和と国民の生命、安全、暮らしを守るために最も必要なことは何か」です。

 戦争の準備をする前に、戦争を回避する方策を考え、どうしたら周辺の国々と友好親善関係を深めることができるか。それを、一生懸命に考え取り組むのが、政治家の本来の使命ではないでしょうか。いまは、どうしたら平和を築くことができるのか、についてはほったらかしです。

 口先では、「私の対話のドアはいつもオープンです」といいます。しかし、それは、「私は『靖国参拝』はする。それに条件を付けずに来てください」ということです。

 相手が嫌がることはしておいて、それに文句をつけずにやって来いという姿勢。これではテーブルにつけるわけがありません。

 靖国参拝について、安倍氏は「心の問題」であり、「国のために戦で生命を落とされた方々に尊崇の誠をささげるのはごく当たり前のこと。どこの国のリーダーもやっていることだ」と、主張しています。

 しかし、日本では、A級戦犯が合祀されて以来、天皇が靖国参拝を取りやめたことはつとに知られた事実です。なぜ、天皇は靖国参拝をいまなお自制しているのでしょうか。

 同盟国のアメリカはオバマ大統領が、わざわざケリー、ヘーゲルという国務、国防の両長官を訪日させて、千鳥ヶ淵の国立墓苑にお参りさせ、「まちがっても靖国参拝はしてくださるなよ」と明瞭なメッセージを送りました。ところが、安倍首相はそれから間もなくの昨年末、あっけらかんと靖国参拝をやってのけました。

 靖国参拝は、安倍首相にとっては、単に「心の問題」などではなく、「先の戦争は、日本は悪くなかった」という戦後秩序の否定、つまり歴史修正主義という”安倍流思想”(ちゃちな思想ですが)にもとづくもののようです。

 日本との主戦場となり、何百万人もの犠牲者を出す結果となった中国の立場に立てば、歴史修正主義のシンボルであるA級戦犯合祀の靖国参拝が認められないのは当たり前といえます。このさい、中国は当初は靖国参拝にクレームはつけていなかった、などは末枝末葉のあげ足取りにすぎません。

 安倍氏は、「集団的自衛権を行使できるようにすることが抑止力になり、平和を確実にできるのだ」と力説します。本当でしょうか。仮に、尖閣周辺で中国と銃撃戦が勃発すれば、力と力の応酬になるのは目に見えています。それが、平和を築く道でしょうか。

 そんなことにやっきになるより、「靖国に参拝することはない」と表明し、「首脳同士の話し合いをしましょう」といえば済むことです。お金もかからず、平和への道筋が拓かれる可能性が高いのです。

 それがわかっていながら、安倍首相とそれを取り巻く権力集団は、集団的自衛権に走ろうとしています。ったく、度し難いご仁らです。