おはようございます。「大震災1か月の検証」が新聞で始まりました。目立つのは、責任逃れが先に立つための決断の遅れ、情報隠しです。さまざまな局面で「誠実さ」の欠如があらわになりました。
生き生き箕面通信855(110410)をお届けします。
・東電は「国有化」するしかない
東電は、賠償責任がないそうです。「原子力損害賠償法」によると、第3条に但し書きで、「その損害が異常に巨大な天災地変または社会的動乱によって生じたものであるときは、この限りではない」と、「責任を免れる手だて」はちゃ~んと先手を打って決めているのです。抜け目なく、「但し書き」をもぐり込ませていたのです。賠償を免れる事態を想定して手を打っているのだから、それなら「想定外」ではないはずですが、東電が言明したのは「想定外」でした。都合が悪いことは「想定外」で、「損害賠償責任」には聞く耳持たず。「損害賠償は国にお任せ」と澄ました顔です。テレビカメラの前でだけは神妙な顔をして見せますが、演出にすぎず、まったく誠実さがありません。
政府は、「直ちに健康に問題はない」と繰り返す一方、「(20から30キロ圏内の人は)自主避難してください」と、住んでいる人に判断を預けてしまいました。政府が責任放棄しているような場面が目立ちます。いくつもの組織がばらばらに動いて、情報もばらばら、肝心のところに迅速な手が打てていないもどかしさ。対応の幼稚さがきわだっています。ここにも誠実さは見えません。
私たち一般の人間が国のリーダーたちに求めているのは、「誠実さ」です。どんな自然災害や困難が降りかかってきても、リーダーたちが誠心誠意、国民のことを考えて先頭に立ち身を粉にして努力してくれていると感じることができれば、一般の人間もみんな奮い立つことができます。
肝心のその「信頼感」が大きく損なわれていることが、今回改めて明らかになりました。「信頼感」という一見理知的ではなく、情緒的な言葉ですが、これが問題の根源に横たわっています。
そもそも、原子力を利用するにあたっては、安全性がぎりぎりまで追究されるべきでした。ところが、原発反対運動をどうごまかすかに目が向きすぎ、あとはいかに費用を抑えて建設するか、といういわば安全性を軽視するなかで原子力利用を強行してきたのでした。東大原子力工学の教授のみなさん
を研究費補助などでまるごと”買収”する形が常態となり、安全性への基準づくりが行われてきました。津波対策の必要性が指摘されても、「建設コストが高くなるから、いらない」と無視しました。
「原子力利用反対の立場の人たちの意見にも耳を傾けるべきだ」「内部告発を重視すべきだ」という意見もすべて切り捨ててきました。そのあげくのとがめを一辺に受けることになったのです。人間のおごりに対する自然のしっぺ返し、警告だったと受け取ることが必要です。
「もし」をあえて立てるなら、もし誠実に津波対策をほどこしていれば、結果はどうだったでしょう。東北電力の女川原発では、スマトラ大地震の津波被害を見て急きょ電源を防御する対策を取り、かろうじて間に合いました。
「誠実さ」を求めてもなかなかそうはいきません。となれば、システムを作り安全を確保するしかありません。エネルギーを確保するシステムは、自然エネルギー、再生可能エネルギーの利用へ方向転換すべきです。
いまある原子力発電はどうするか。これを管理するシステムとしては、国内の稼働中の原発54基すべてを国有化して、安全対策を強化しつつ、すべて廃炉へもっていく。わたしたちは、思い切った「この国のかたち」を追求すべき歴史の転換点に立っています。
原子力から撤退する場合、再び火力、つまり石油や天然ガスなどの化石燃料に戻るようでは、あまりに知恵がなさすぎます。再生可能エネルギーを利用させていただくという姿勢で、総力をあげて研究開発に取り組みましょう。エコポイントや補助金制度を強化して、それぞれの家庭が太陽光発電などを利用できるように促しましょう。
お釈迦さまやキリストさん、孔子さんがみなさん同じように説かれたのは、「誠実な生き方」だったといえるのではないでしょうか。宇宙へロケットを飛ばし、万能細胞を生み出すまでに科学技術は目覚ましい勢いで進んでいるようですが、そのかげでややもすると忘れ、打ち捨てられかねないのが、「誠実さ」。この”歯止め”がかからなくなるとき、人間という生物は暴走を始めます。東電の経営陣は信用ができません。賠償もできません。東電は国有化するほかないのではないでしょうか。同時に、日本の原発は、すべて国有化し、誠実にコントロールしつつ廃炉にもっていきましょう。
生き生き箕面通信855(110410)をお届けします。
・東電は「国有化」するしかない
東電は、賠償責任がないそうです。「原子力損害賠償法」によると、第3条に但し書きで、「その損害が異常に巨大な天災地変または社会的動乱によって生じたものであるときは、この限りではない」と、「責任を免れる手だて」はちゃ~んと先手を打って決めているのです。抜け目なく、「但し書き」をもぐり込ませていたのです。賠償を免れる事態を想定して手を打っているのだから、それなら「想定外」ではないはずですが、東電が言明したのは「想定外」でした。都合が悪いことは「想定外」で、「損害賠償責任」には聞く耳持たず。「損害賠償は国にお任せ」と澄ました顔です。テレビカメラの前でだけは神妙な顔をして見せますが、演出にすぎず、まったく誠実さがありません。
政府は、「直ちに健康に問題はない」と繰り返す一方、「(20から30キロ圏内の人は)自主避難してください」と、住んでいる人に判断を預けてしまいました。政府が責任放棄しているような場面が目立ちます。いくつもの組織がばらばらに動いて、情報もばらばら、肝心のところに迅速な手が打てていないもどかしさ。対応の幼稚さがきわだっています。ここにも誠実さは見えません。
私たち一般の人間が国のリーダーたちに求めているのは、「誠実さ」です。どんな自然災害や困難が降りかかってきても、リーダーたちが誠心誠意、国民のことを考えて先頭に立ち身を粉にして努力してくれていると感じることができれば、一般の人間もみんな奮い立つことができます。
肝心のその「信頼感」が大きく損なわれていることが、今回改めて明らかになりました。「信頼感」という一見理知的ではなく、情緒的な言葉ですが、これが問題の根源に横たわっています。
そもそも、原子力を利用するにあたっては、安全性がぎりぎりまで追究されるべきでした。ところが、原発反対運動をどうごまかすかに目が向きすぎ、あとはいかに費用を抑えて建設するか、といういわば安全性を軽視するなかで原子力利用を強行してきたのでした。東大原子力工学の教授のみなさん
を研究費補助などでまるごと”買収”する形が常態となり、安全性への基準づくりが行われてきました。津波対策の必要性が指摘されても、「建設コストが高くなるから、いらない」と無視しました。
「原子力利用反対の立場の人たちの意見にも耳を傾けるべきだ」「内部告発を重視すべきだ」という意見もすべて切り捨ててきました。そのあげくのとがめを一辺に受けることになったのです。人間のおごりに対する自然のしっぺ返し、警告だったと受け取ることが必要です。
「もし」をあえて立てるなら、もし誠実に津波対策をほどこしていれば、結果はどうだったでしょう。東北電力の女川原発では、スマトラ大地震の津波被害を見て急きょ電源を防御する対策を取り、かろうじて間に合いました。
「誠実さ」を求めてもなかなかそうはいきません。となれば、システムを作り安全を確保するしかありません。エネルギーを確保するシステムは、自然エネルギー、再生可能エネルギーの利用へ方向転換すべきです。
いまある原子力発電はどうするか。これを管理するシステムとしては、国内の稼働中の原発54基すべてを国有化して、安全対策を強化しつつ、すべて廃炉へもっていく。わたしたちは、思い切った「この国のかたち」を追求すべき歴史の転換点に立っています。
原子力から撤退する場合、再び火力、つまり石油や天然ガスなどの化石燃料に戻るようでは、あまりに知恵がなさすぎます。再生可能エネルギーを利用させていただくという姿勢で、総力をあげて研究開発に取り組みましょう。エコポイントや補助金制度を強化して、それぞれの家庭が太陽光発電などを利用できるように促しましょう。
お釈迦さまやキリストさん、孔子さんがみなさん同じように説かれたのは、「誠実な生き方」だったといえるのではないでしょうか。宇宙へロケットを飛ばし、万能細胞を生み出すまでに科学技術は目覚ましい勢いで進んでいるようですが、そのかげでややもすると忘れ、打ち捨てられかねないのが、「誠実さ」。この”歯止め”がかからなくなるとき、人間という生物は暴走を始めます。東電の経営陣は信用ができません。賠償もできません。東電は国有化するほかないのではないでしょうか。同時に、日本の原発は、すべて国有化し、誠実にコントロールしつつ廃炉にもっていきましょう。