いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

彼はなぜ風采の上がらない人間が背筋のしっかり伸びた英国将校を

2007年05月18日 20時25分46秒 | インド・3回目・シンガポール

シンガポール陥落とは、何であるのか?

数千、(万?)の毛唐さんを生け捕りにした。

近代で、これほどの毛唐さんを生け捕りにした「有色」民族はいない。



- -私は両親や祖父から英国の優越性を前提とした社会を自然のこととして受け入れるような教育を受けて育った。私の記憶では、言葉であろうと行動であろうと、白人の優越性に疑問を差しはさんだ現地人はいない。英語による教育を受けたアジア人で、英国人と平等の地位を求めて、毅然と闘う人はいなかった。一方で私は中国でしか教育を受けていない華人たちが、実は英国植民地支配の内側には組み込まれず、その枠外にいたことも知らなかった。中国から派遣された教師も白人の優越性を受け入れていなかった。大英帝国の美徳や使命を受け入れるように教育を受けていなければ、吹き込まれていなかったからである。私は戦争が終わってからこうした華人の実態を深く知ることになる。
 以上、述べてきたことが、13万の英国兵、インド兵、オーストラリア兵を向こうに回し、日本が11万の兵力を動員して攻撃し獲得したマラヤとシンガポールの実情だった。人々が驚き、動転し、それに愚かさが入り交じった70日間で、シンガポールの英国植民地社会は、英国人が優秀だという虚構とともに吹き飛んだのである。アジア人は砲撃が始まるとうろたえると思われていたが、実際には冷静で犠牲を受け入れ死んでいった。これとは対照的に日本軍の爆撃や砲撃が始まると、まっさきにテーブルの下に潜り込んだのは白人のボスたちだった。41年12月16日、暗闇の中、アジア人を見捨ててペナン島からシンガポールへ脱出したのは白人公務員や民間人だった。英国軍は壊せるものは何でも破壊して退却していった。英国人は病院、公共建物をはじめ重要な施設は無人のまま放置したのだった。火事を消す消防士もいなければ水道を管理する役人もいない。責任がある立場の白人はみんな逃げた。自分たちだけは無事に逃げようとあわてふためく白人を見て、アジア人たちは白人が利己主義で臆病なことを見てとったのである。このような話の多くは明らかに誇張されておりバランスはとれていなかったとしても、事柄の本質はその中にあった。アジア人は白人のリーダーシップに期待していたけれど、白人にはその期待に応える力はなかったのだ。 - -

- - 私の祖父のリー・ホンレンは7月に病気の症状が悪化し、私が日本語学校を卒業した3週間後に他界した。その前、私は祖父が養女と住んでいたプラス・バサー・ロードを何度も訪ねた。祖父に会うのは本当につらかった。彼の病気が重いためだけではなく、祖父がよりどころにしていた世界、つまり英国と英国にまつわるすべてが崩壊してしまったからだ。英国の海軍、船長、規律、優越性などが見慣れない顔をした日本人によって粉砕されてしまったからだ。彼はなぜ風采の上がらない人間が背筋のしっかり伸びた英国将校をうち破ることができたのかどうしても理解できなかった。日本がどうやって英国が誇る軍艦プリンス・オブ・ウェールズとレパレスを撃沈し、英国艦隊を粉砕したのか、英空軍機を撃墜し、11万の兵力でシンガポールを2週間で包囲し13万人の英国軍を捕虜にできたのか。彼が昏睡状態になるにつれ私は、祖父は戦争が起きる前に死んでいればよかったのに、と思わざるをえなかった。 - -


『リー・クワンユー回顧録』

以上、ブログ;右翼討伐委員会殿より勝手にコピペさせていただきました。もとより著作権はリークワンユーセンセおよび翻訳出版者にあるのですが、もしブログ;右翼討伐委員会殿が手入力されたのであれば、その労を、討伐されるべきウヨのおいらとすても、多とすべきだと存じます。

■シロソ砦での展示










むしろ、この毛唐さんたちの笑顔が、罰あたりのおいらにでさえ、悲しさを誘う。

▼毛唐さんとは、やるか!、やられるか!しかないと、おいらは、おもうべな。