いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第26週

2024年09月21日 18時00分00秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第26週

■ 今週のよその猫

■ 今週の筑豊境

■ 今週の道産原料、あるいは、岐阜県大垣産 餡

松下製餡所 web site

■ 今週の半額、あるいは、生まれて2度目


食べ終わって気づいたのだが、おいらは、ふぐを口にするのが生まれて初めてだ。噛み応えがあり、やや口に残る食感。ふぐというは専門店でしか食べられないと思っていた。(愚記事)

■ 今週の訃報:宋彬彬/宋要武@元紅衛兵のアメリカ人

愚ブログの記事のアクセス数で、訃報がわかることがある。今週、記事「詫 び る 老 「老紅衛兵」、あるいは、“要武”の顛末」にアクセス数が多かった。何かあったらしい。


詫 び る 老 「老紅衛兵」、あるいは、“要武”の顛末

わかった。死んだらしい。

中国の文化大革命(1966~76年)当時、教師殴打など暴力を主導した「紅衛兵」の象徴的人物、宋彬彬が16日(現地時間)、米ニューヨークで持病のため死亡した。享年77歳。google


毛沢東に紅衛兵の腕章を「授ける」宋彬彬/宋要武 [wiki]

■ 今週わかったこと、三島由紀夫、福田信之、中辻和彦(盾の会)講演の日時

愚記事・新しい街でもぶどう記録;第438週で言及した三島由紀夫の写真;

NHKスペシャル「三島由紀夫〜50年目の素顔〜」の動画を見た。三島は晩年に複数の大学に出向き学生と対話しようとしていたとあった。つまり、あの東大駒場の学生たちとの討論は一連の三島の若者対話の一コマだったのだ。あの東大「全共闘」@駒場だけではなかったのだ。この動画の48分のところである大学(〇橋大学、一橋か?)での講演の写真があった。そこに福田信之 [1]の名前があった。主催の「日文研」というのは、恐らく名前から邪推して、反共右翼系団体か? 時期は1970年頃だろう。つまり、福田信之の東京教育大学時代だ。筑波移転でもめていた頃か?

場所と日時がわかった。

昭和43年/1968年 9月、一橋大学・日本文化研究所主催の討論集会『国家革新の原理』らしい。

山本舜勝、『三島由紀夫 憂悶の祖国防衛賦』1980年、(Amazon) の年表より。

■ 今週のまさかの福沢諭吉、あるいは、諭吉の夢の実現、はたまた、小泉信三の正嫡性

福沢諭吉は毀誉豹変が激しい。特に問題となっているのは諭吉主宰の新聞社の社説だ。支那、朝鮮に対する論評がひどいという件。毀派からすれば、複座諭吉こそアジア蔑視、のちのアジア侵略のイデオローグということになる。誉派は、社説はすべてを諭吉が書いているわけではない、特に、石河幹明がひどいことを書いたのだという。

安川・平山論争:論争は「福澤諭吉がアジア諸国を蔑視していたかどうか」が問題となっておこなわれた。さらに、福澤がアジア諸国を蔑視していた証拠とされる「時事新報論集」は無署名の論説から成るため、「時事新報の無署名論説を福澤が執筆したのかどうか」も議論された。wiki

さて、その社説に「圧制もまた愉快なる哉(かな)」というものがあるらしい。こういっている(文章は雁屋哲が現代語訳したもの)

我が帝国日本も、幾億万円の貿易を行って幾百千艘の軍艦を備え、日章旗を支那印度の海面に翻して、遠くは西洋の諸港にも出入りし、大いに国威を輝かす勢いを得たら、支那人などを御すること英国人と同じようにするだけでなく、その英国人をも奴隷のように圧制して、その手足を束縛しよう、と言う血気の獣心を押さえることが出来なかった。引用元

諭吉は1901年に死んでいる。諭吉の死後41年後の世界だ↓

 
左:シンガポールで降伏する英兵、右:泰緬(タイメン)鉄道で酷使される豪兵(絵出典

上の絵はたまたま豪兵だが、「英国人をも奴隷のように圧制」した⇒(Google: Thai-Burma Railway british soldiers forced labor)。

▼ はたまた、小泉信三の正嫡性

小泉信三は戦後皇室で皇太子の教育を担った。小泉についてのある伝記の副題は「天皇の師として、自由主義者として」とある(Amazon)。なお、三島由紀夫は週刊誌天皇をつくったのは小泉信三として、戦後の皇室(三島が気に入らない)を形作った「元凶」としている。

しかし、小泉信三は戦時中は「気狂い」だった。ここで「気狂い」とは諭吉の言葉だ。定義をみよう。

幕末に諭吉は、外国船に無差別砲撃をした長州から帰った大村益次郎に向かい、「如何だッて、この世の中に攘夷なんて丸で気狂いの沙汰じゃないか」といった。

戦時中、小泉信三は大村益次郎のように「気狂い」だったのだ。



小泉信三は戦時中の慶応の塾長であった。上記のように激情的「攘夷」になったとのこと。激情的「攘夷」は諭吉が最も嫌ったものにほかならない。学生を戦場に送る立場であった。戊辰戦争のとき、上野の戦闘を「紅旗征戎吾が事に非ず」と講義を行った諭吉のような贅沢は与えられなかった。というか、諭吉もやらなかった政府への参画を「内閣顧問」として行っていたと清沢の証言でわかる。愚記事

でも、おいらは、今週知ったさ。攘夷はダメだけど、圧制による奴隷化は望むところであったと。「気狂い」のように無差別砲撃はダメだが、圧制による奴隷化はOKってこと(???)

■ 今週返した本