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いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第36週

2024年11月30日 18時00分00秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第36週

■ 今週のよその猫

■ 今週の筑豊境

■ 今週の草木花実

■ 今週の訳あり

70玉(小玉)、10kg、3,400円。

竹城青果(楽天市場 site

■ 今週の訳ありりんごが運んでくれた山形情報:芋煮は女の仕事か

 6月に放送されたNHKのクローズアップ現代で、山形出身という女性が「東京が令和だったら、地方は江戸時代」と話したことに衝撃を受けている。

■ 今週の久しぶりに食べた

「オムライス(ビーフシチューソース)」(ガスト) この商品、相当以前からあると思う。ネットで見たら、販売休止していたが復活したとのこと。

■ 今週の丼

福岡県の北九州市の西に遠賀川というのが南北に流れていて日本海へ注いでいる。その河口の街が芦屋町。あの神戸の芦屋と同じ字ではあるが、違う街。海鮮丼の店が多いと知る。「九州でイカと来れば呼子ですな。 しかし、知名度は低いのですが「芦屋」のイカも相当ウマい」とネットにあった。行ってみた。

特盛イカ月見丼 味処 大丸、福岡県遠賀郡芦屋町高浜町 (食べログ

アオリイカ。出汁がかかっていて、このまま食べる。

■ 今週のアクセスページ

札幌に"北極熊"がいた頃;1948-1950
米陸軍・北極熊連隊はバターン死の行軍の残党. 1948年おらほの街に;第31歩兵連隊、キャンプ・クロフォードへ

■ 今週の空似

チャイナ出身の呉軍華という中国の政治・経済/日中関係/米中関係を専門とする研究員(出典)がいる。今週みたら、江青が「入っていて」、ぎょっとした。

 

今、改めて気づいたのだが、この呉さん、1983年の復旦大学卒業。ということは1979年入学組だ。チャイナで1979年入学組といえば、それまで文革で大学が閉鎖されていたのが再開された頃であり、それまで大学に入るの待っていた若者が入試に殺到した頃だ。この頃大学に入ったチャイニーズは、科挙の伝統をもつチャイナ史上にいても、最強の秀才たちだ。呉さんはそのひとりなのだ。

■ 今週のレコンキスタ史跡探訪

現・航空自衛隊芦屋基地


Google map

この芦屋基地は占領時代も Ashiya Air Baseと呼ばれた。占領時代、米陸軍の駐屯地(camp)はよく米軍名で呼ばれたが(キャンプ・ドレイク、とかキャンプ・マクギルとか、そして、キャンプ・クロフォードとか)、米空軍の英語名で呼ばれるのはJohnson基地くらいではないだろうか?あと、福岡はキャンプ・ハカタ(通称ブレディ・エア・ベース)。一方、横田、立川、板付などは日本語の地名をそのまま使っている。

さて、このAshiya Air Baseは朝鮮戦争の時、大盛況であったとのこと。朝鮮戦争が始まり、休戦協定が結ばれる3年間(1950-1953)に空輸された兵員は300万人、負傷兵は30万人、物資は70万トンと推定されるとのこと。さらにこの朝鮮半島への出撃基地え働いていた日本人従業員はピーク時には1万人を越えた(出典、”前方支援”の立場もあり得た日本の”後方支援”、佐々木隆爾 [wiki]、『歴史群像シリーズ 朝鮮戦争(下)』)。

ここで兵員300万人とある。これは延べ人数と思われる。朝鮮戦争での米軍出兵数は33万人(wiki)とある。米軍は日本での休養を行っていたので、その往復の人数も含まれているのだろう。

■ 今週の役瓦

瓦ぶきの家には必ず役瓦があるはずだ。この家の役瓦は「鬼」なのか、長年の風雨で丸まった元鬼なのか、そもそも鬼瓦ではなかったのか、わからない。下記、基地外ハウスに続く:

■ 今週の基地外ハウス

下の航空写真の「1」の建物。

立川の基地外ハウス ↓

愚記事(昭和記念公園2019、砂川口から出て基地外の米軍ハウス(維新もの)を見た)より

下の航空写真の「1」の建物。側面。


航空写真、左:1960年代、右:現在

上の航空写真の「2」の建物。公式 web site.  Google [米軍住宅リノベーションのカフェ ottimo]

上の航空写真の「3」の建物3件のうちの1件。3軒健在。

▼ その基地外性

航空写真で見ると、赤矢印の幅をもった境界が基地の外壁。左が基地内。基地内にも住宅らしき建物が見える。おそらく、基地内だけでは住宅が足りずに、基地外にも米軍ハウスを建てたのだろう。土地は基地外でも、一部、国有地を使ったと推定できる。米軍ハウス撤去後の土地えあろう↓。

 それまで(朝鮮戦争が始まるまで)は13しかなかった飲食店が、開戦から9月までの間に、「女」のいるハウスが400戸、キャバレーなどが24軒に増えた。
 それまでほとんどなかった貸間兼業農家が1951年には317戸にのぼり、新築家屋は50年に289戸、51年には106戸にもなり、建材が底をつくまでになった。基地がどれほど慰安婦を必要としたかを示している。(同上、佐々木隆爾)

■ 今週の訃報、あるいは、なつかしい本の話

 

訃報(google)。

猪口孝、『世界変動の見方』1994年。30年前の本だ。この頃「ちくま新書」が刊行され始めた。この本は4番目。なお1番目は今村仁司の『貨幣とは何だろうか』である。

さて、この本では1994年時点での今後の日米関係を予想した項でいくつか考えられうるシナリオを論じている。そのひとつが「アメリカの徹底的反日化」。

 アメリカの徹底的反日化自体はいまだにありうる選択肢である。とりわけ日本のバブル経済崩壊までは、アメリカの反日世論は急激に増大していた。バブル崩壊後は少しおさまっているかのようにもみえるが、対日不信感は基本的に引き潮になったとはみにくい。むしろアメリカ社会の内部矛盾が退潮にならない限り、そしてアメリカ経済の競争力低下に対して実効を挙げる政策がとられない限り、対日不信の感情はなかなか消滅はしないだろう。幸いアメリカ経済が復調しつつあり、技術革新でもはっきり活力を回復した様子である。したがって対日不信も沈静化しつつあるといえる。

失われた30年が始まった頃だ。その後、日米関係がよくなった、21世紀になってますますよくなったのは、日本が衰退したからだ。

この本のまえがきの最後に、「こいのぼりの歌をピアノを囲んで 四人で合唱しながら」とある。 哀しい話だ。

■ 今週返した本

■ 今週の「なぜ本を読むと貧乏になるのか?」

堀江貴文氏「京大なんか行くのバカ」、京大卒女性文芸評論家に

このYouTubeの19分頃。 文字起こし↓

堀江氏が「そんな経済状況悪いと思う?」と質問。三宅氏が「悪いと思いませんか?」と聞き返すと、堀江氏は「なんでなんで?」とさらに質問した。

三宅氏はそれに対し「私、京大出身なので、私の友達はけっこう割とエリートが多いんですけど、それでも“生活が厳しいから子供産むのやめとこうかな”と思ったりする人が多いです」などと答えた。

ホリエモンは京大行くのがバカというより、「私たち、京大出たエリートなんですけど、生活が苦しい」とこの京大出の文芸評論家・三宅香帆が答えたことに応答して、京大=エリート=生活が楽であるべきという考えを批判したもの。

この話の流れとして京大とか全然関係なく、ホリエモンは「若者の経済状態は悪いのですか?」と聞いた。もし、三宅香帆が本当の「エリート」ならば、大空幸星のように?、若者の中の苦境の人を「針小棒大」に挙証すればいいのだ。ところが、よりによってエリートの私たち京大卒が生活が苦しいならば、他は推して知るべし的な回答をしたこと。これにホリエモンは切れたのであろう。文芸評論家・三宅香帆、世間知らずだな。


三島由紀夫とディズニーランド、あるいは、三島の好きなアメリカ

2024年11月25日 19時24分12秒 | 日本事情

最近わからないのが、なぜディズニーランドが好きだった三島由紀夫が憂国なのか?である。

そもそも、三島由紀夫はアメリカが好きだった。米国の悪口を云っているのを見たことがない。特に、ディズニーランドが好きで自衛隊襲撃の直前までディズニーランドに子供を連れていく気だった。

三島由紀夫がディズニーランドが好きであったことの証左は三島の川端康成に宛てた手紙(1960-1961年頃)にある;

ロスでは、生憎共和党の選挙本部のホテルに、ニクソン氏と同居してしまい、食事のサーヴィスもめちゃちゃくちゃに遅く、選挙さわぎでホテル中が煮立っていて、とんだトバッチリを喰いました。しかしディズニー・ランドはとても面白く、世の中にこんな面白いところがあるかと思いました。(川端康成・三島由紀夫『川端康成 三島由紀夫 往復書簡』新潮社、平成9年。大塚英志、「ミッキー・マウスと三島由紀夫の身体」、『越境する三島由紀夫 三島由紀夫研究⑩』より孫引き)

さらに松村剛の三島伝では昭和44年・1969年頃、「子どもたちをアメリカのディズニー・ランドにつれて行く約束になっていてね」と松村に云ったとされている。なお、この発言について「子どものはなしを彼が口にするのをきいたのも、この夜が最初だった」と云っている。

この三島由紀夫とディズニーランドの関係について言及し、考察しているのは、おいらが知る限り、大塚英志だけである。大塚が紹介する三島のアメリカ賛美の文章;

アメリカの商業美術が、超現実主義や抽象主義にいかに口ざわりのいい糖衣をかぶせてしまうか、その好例は大雑誌の広告欄にふんだんに見られる。かくて現代的な美の普遍的な様式が、とにもかくにも生活全般のなかに生きていると感じられるのはアメリカだけで、生きた様式というに足るものをもっているのは、世界中でアメリカの商業美術だけかもしれないのである。通信販売が様式の普及と伝搬に貢献し、人びとがコンフォルミズムとそれを呼ぼうが呼ぶまいが、アメリカの厖大な中産階級を通じて、家庭や台所の設計にまで、あのものやわらかな、快適な、適度に冷たい色彩と意匠の美的様式が広がっている。(中略)ジェット機から電気冷蔵庫にいたる機能主義のデザインが、ちゃんと所を得た様式として感じられるのはアメリカだけであろう。(孫引き:元は三島由紀夫「美に逆らうもの」)[なお、旧かなづかいは、いか@が勝手に改変]

文章全体は読んでいないのでわからないが、大塚英志は、『ミッキー・マウスと三島由紀夫の身体』の中で、「アメリカの美をこう賛美する」と云って上記引用を紹介している。

三島由紀夫とディズニー文化との出会いは、大塚英志によれば、戦前昭和8年に三島が小学校3年生の時見た映画とのこと。本格的なディズニー文化への傾倒は1951年(昭和26年)米国など「世界漫遊旅行」に出かけたとき出発直後の太平洋航路の船上での毎夜の映画上映であった。『シンデレラ』が記憶に残っているとしている。さらに「ディズニーの漫画で、『不思議の国のアリス』の気違い兎と気違い帽子屋のパーティーの場面は、私を大よろこびさせた。『ダンボの』の酩酊のファンタジーおよかった」と云っているとのこと(大塚英志、同上)。

大塚英志の指摘は、三島由紀夫がアメリカを賛美する鍵概念は、メカニズム。上記「ジェット機から電気冷蔵庫にいたる機能主義のデザインが、ちゃんと所を得た様式として感じられるのはアメリカだけであろう」はメカニズムの現れだ。大塚英志の上論文ではこのメカニズムが主題だ。

さて、この三島由紀夫が賛美している「アメリカの厖大な中産階級」のアメリカは三島の身近にあったはずである。家庭や台所の設計にまで、あのものやわらかな、快適な、適度に冷たい色彩と意匠の美的様式 これだろう↓


『デペンデント・ハウス 連合軍家族用住宅集区』より
(愚記事:横浜市の思い出:最後に借りた本『デペンデント ハウス 連合軍家族用住宅集區』GHQ DESIGN BRANCH JAPANESE STAFF/商工省工藝指導所編 1948年)

おいらの、単細胞的認識による、戦後日本像というのは、上記「ワイントンハイツ」のような「アメリカ人のような暮らし」を目指したというもの。かつて、おいらは書いた;

敗戦後の日本人の少なからずが、アメリカ人のように暮らしたいと願い、実現させたのが高度成長を経た戦後日本なのだろう。日本人をして、「アメリカ人のように暮らしたいと願」わせしめたのが「ワシントンハイツ」。(愚記事:米国的生き方 [American Way of Life] としての児童公園、あるいは、パクリ元の判明

この敗戦国民日本人の希望:「アメリカ人のように暮らしたい」というを実現させたのが経済成長であり、その結果が経済大国だ。

ところで、三島由紀夫と云えば、下記文言がよく言及される;

このまま行ったら日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう

でも、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残ったものは、三島が「称賛」した「アメリカの美」を追求した結果ではないのか?

さらに、三島が死んで10年あまりの年月はかかったが、ディズニーランドは日本にできた!


11月25日関連記事

2018;・「6月に三島由紀夫全集を購入されたお客様、お伝えしたい事があります。」
2015;・江藤淳が、三島由紀夫を「殺した」のか?
2012; ・「全共闘C」さんが、誰であるかわかった。
2010; ・武士漂流時代 「余った三河武士」はどうなるか?
2009; ・画面で告白 in English、あるいは45歳で隠れること
2008; ・(無題)
2007; ・初霜の時期

▼ 猫とカレーライス

ありし日のしろちゃん

しろちゃんはカレーが好きだった。おいらが食べ終わったカレーの皿に残ったカレーをなめていた。これは猫に悪いらしい(先ほどカレーをひと舐めしてしまったのですが大丈夫でしょうか)。今日、11月25日は「猫とカレーの日」だ。 ~♪~君も僕も猫も みんな好きだね カレーライスが ~♪~

ただし、これまで縁があった/ある猫は、しろちゃん以外、誰もカレーに見向きはしない。


筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第35週

2024年11月23日 18時37分51秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第35週

■ 今週の筑豊境

■ 今週の花実

■ 今週の端役

巻物の端っこ。

たっぷり上穴子の 湯葉巻き:はま寿司
上穴子や野菜を湯葉で巻いた「たっぷり上穴子の湯葉巻き」 ↓広告画像

Yahoo知恵袋:「巻き寿司の端っこが好き」っていう人よくいますが、あれはどういう気持ちで言っているんでしょうか?

■ 今週のイカ

ヤリイカ:はま寿司

■ 今週のイタリア産、あるいは、手を変え塩を変え

シチリア産の塩使用。

表面のカリカリとした食感と生地のサックリとした食感のコントラストに、コクのあるキャラメルの味わいがマッチしている。シチリア産天日塩を加えることで、キャラメルの風味を引き立て、すっきりとした後味に仕上げた。

ブルボン、シチリア産天日塩を練り込んだ「塩キャラメルクッキー」発売

産地別塩シリーズ: スペイン産の塩。 淡路島の塩

■ 今週の a still life (静物画像)


訳あり洋梨

■ 今週の訳あり洋梨が運んでくれた山形情報

山形から来る訳あり洋梨は、新聞紙に守られ送られてくる。御丁寧に全国紙ではなく山形新聞を使ってくれる。過去の偉業は、訳あり面子が運んだ、本間さまの訃報である。今年も特ダネがないかな?と思い、丸まった緩衝材の新聞をほどき、延ばし、目を皿にして、読んだ。本間さま情報はなかったが、鮎子さま情報があった;

おいらが好きな日本語:緊急来酒。来酒とは山形県の酒田に来ることらしい。
おいらのイメージは酒場で強面の酔っ払いが「酒もってこい!」とくだをまき、慌てた店員が酒を持って来るといったもの。

 愚記事:東アジア太子党の時代より

さて、この前の総選挙で石破さんは緊急来酒してくれたのだろうか?(むしろ、迷惑だから断ったんだろうなぁ)

■ 今週の「豚のように幸福に熟睡

愚ブログの度重なるお題は、おいらがKOとアメリカが嫌いなことである。もちろんこれはおいらのねたみ・ひがみ根性に発したもので、こちらに原因があるのであって、KOさまやアメリカさまは、やはり、「王者(おうじゃ)」であらせられるに違いない。


愚記事より

さて、そんなおいらが幸せだ。KO出世襲議員の筆頭あった石破さんの「育ち」の悪さが露呈したからである。これは全く意外だった。全く、予想もしなかった。 KO出の世襲議員は、〇は悪いかもしれないが、あるいは鮎子さまの事例で明らかになったように我がままで気に入らないと権力を振るう傲慢なパワハラ議員だったりすることは、十分予想できた。つまり、〇や性格は悪いかもしれないが、まさか、育ちが悪いとは思われないであろう。ところが、こともあろうに、石破さんのものの食べ方。これはひどい。本当においらは驚いている。こんな育ちが悪いとは思わなかった。匹夫のおいらもこういう食べ方はしない。箸は持ててないし、茶碗に指をつこんでいる。さらには、この食事作法だけでなく、外国首脳との挨拶など日本人の社会人としても劣悪だ。

▼ 熟睡させてくれるKO2

■ 今週のアクセス

今日はつくば記念日;松竹梅のつくば戦後開拓集落について

何があったのだろうか?

■ 今週見つけた《奴ら》の中の《俺たち》、あるいは、1945.8.30,  Atsugi

フィリピンから子猿が来たこの日、この場所。これまで《奴ら》が写った画像しか見たことがことがなかったが、《俺たち》を見つけた。《奴ら》が撮ったのだ。ソース

白腕章は、受け入れ担当者の印。軍刀を握っているのが哀しい。

もちろん、この我らが敗残日本兵3人らが目の当たりにした光景はこれだ;

■ 今週気づいたビンゴと元キャンプ・クロフォード住民

 愚記事より

AC&W SQDN=Air Control and Warning Squadron。
848th Air Control and Warning Squadron(Google
北海道にもいたとある(リンク元)。 奥尻島の米軍施設

去年、横浜市内の駅のホームでスカジャンの絵柄からこの米空軍組織を知った。そして、今週、この組織に属していた人が、札幌郊外の米軍基地、キャンプ・クロフォードのハウジングエリアに住んでいたと知る。


848th Air Control and Warning Squadron/第848航空管制警戒飛行隊のネット掲示板 ソース

勤務地は「サイト45」とある。調べた。下記情報で、石狩当別がわかった;

どうやら、勤務地は当別だ。毎日、通ったのだろうか?


バルーン印の阿蘇岩山に米軍のレーダーサイトがあった。現在は空自が管理。地図中の青〇がキャンプ・クロフォード、赤丸がキャンプ・千歳。千歳は米空軍が1975年まで駐屯。昔、キャンプ・クロフォードから千歳基地まで米軍の毎日バスがあったとネットでみたことがある。バスの時刻表が載っていた。残念なことに保存するのを忘れてしまった。

航空自衛隊 第45警戒隊の沿革

■ 今週の訃報、あるいは、死蔵本を開く

阿川尚之さん死去 慶応大名誉教授、知米派として知られ駐米公使もgoogle

愚ブログを始めた年にすでに言及している:アメリカが嫌いですか 阿川尚之の著作のタイトル。おいらは読んだことがない。 その後、ブックオフかどこかで100円で買って、死蔵していた。今日、少し、読んだ。

 

阿川尚之が学部(ジョージタウン大学)時代を過ごした1970年代中頃は、今でいうラストベルトも錆はじめという段階か?この本はDC(インテリの街、政治都市)での生活といくばくかの旅行が書かれていて、のちのトランプ支持者となる「21世紀初頭の普通のアメリカ人」は出てこない。出てくるのは、貧困家庭から工場に勤めたのち大学に進み物理学の博士でNASAで働くユダヤ人のマルキンさん。もっとも、当世のヴァンスに境遇が似てるかもしれない。やはり、大統領が変わっても、変わらない”普通のアメリカ”を知っていますか。???

なお、2004年の上記愚記事を書いた時点では知らなかったのだが、ジョージタウン大学というのはあの「人道への罪」の元祖イエズス会の大学であり、19世紀に至っても大学が奴隷売買で収益を上げていた(ソース:自供文書)。1838年。ペリー来航のわずか15年前。こんな国から「脅されて」外交条約を結んだんだよ、日本は。

■ 今週知った集団:九州ジプシー(Kyushu Gypsies)

「九州ジプシー」という日本語をググると、出てこない。むしろ出てくるのは、ジプシー・ローズ。この有名なストリッパーは福岡県大牟田の出身。だから九州ジプシーでヒットしたのだろう。

九州ジプシーとは朝鮮戦争勃発で米空軍が急遽編成した航空輸送部隊。

1950 年に朝鮮戦争が勃発すると、米国極東空軍は陸軍を支援するために航空貨物資産の編成を急いだ。これらの資産の中でも特に重要だったのが、戦場から負傷兵を避難させるための航空機だった。これらの航空機は、整備されていない荒れた韓国の飛行場から離陸し、乗客を日本海を越えて日本最南端の島、九州まで運んだ。米軍はここで高度な医療施設を維持していた。
 
アメリカ製のダグラス C-47 ダコタ (別名「グーニーバード」) は、その数の多さから、この空輸活動の主力機となった。日本各地から C-47 が集められ、臨時飛行隊「九州ジプシー」が編成された。この名前は、飛行隊の当初の作戦基地が日本列島最南端にあったことを反映している。(ソース)
九州から朝鮮半島を任務のため転戦したらしい。
 
■ 今週のキリ番


筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第34週

2024年11月16日 18時19分38秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第34週

■ 今週のよその猫

■ 今週の訳あり1

山形県の「洋梨」。5Kg, 1980円。


竹城青果

■ 今週の訳あり洋梨が運んでくれた文化財情報


訳あり洋梨を包んでいた山形新聞

・文化遺産オンライン 小嶋総本店店舗兼主屋
弊社店舗兼主屋など12件、文化財へ 国文化審答申、県内登録208件に。

■ 今週の訳あり2

すべてが、でかい。 愛媛産、15Kg、2300円。

■ 今週のアクセス:キャンプ・クロフォード4部作への閲覧多し

札幌郊外の「アメリカン・スクール」(1946-1958);道庁から9km;敷地は牧場をつぶしたのだ。
札幌郊外の"ワシントンハイツ";幻と現(うつつ)の五輪を挟む敗戦・占領・DH(ディペンデント・ハウス)
札幌、キャンプ・クロフォードにおける定山渓鉄道からの引き込み線; Do you know the way to Korea, in the Camp Crawford ?、
札幌郊外米軍キャンプクロフォードのペンタゴンと定山渓鉄道引込線の車両のカラー画像

■ 今週のアクセス

今週アクセス数が多かったページ:新しい街でもぶどう記録;第377週

ページ内のどの内容を目当てにアクセスしてきたが不明であるが、おそらく、有吉佐和子、『非色』だろうか?

■ 今週のダブルバインド(二重拘束)の片側

トランプ政権で国家情報長官になるとされるトゥルシ・ギャバード(wiki)(元陸軍少佐)が去年、日本に防衛努力を要請すると、そのうちハワイに責めてくるぞ!と警告していた。

ダブルバインドとは、矛盾する2つのメッセージを同時に受け取ることで、どちらの指示も受け入れられず、不審を抱いたりストレスを感じる状態です。日本語では「二重拘束」とも呼ばれます。google

■ 今週返した本

『証言三島由紀夫・福田恒存たった一度の対決』
『沖縄文学選』

▼ 『証言三島由紀夫・福田恒存たった一度の対決』

三島由紀夫と福田恒存が対談した。1967年・昭和42年、雑誌「論争ジャーナル」[wiki]においてだ。これが公開された二人だけの対談の唯一のものとのこと。集団対談でのものが別途ある(「現代日本人の思想」という座談会:後述)。二人は演劇についての見解で疎遠になったらしく、この1967年の対談では冒頭にそのことに振れ、今日はおてやわらかにと言い合っている。この対談は現在『若きサムライのために』(文春文庫)に入っている。今週返した『証言三島由紀夫・福田恒存たった一度の対決』はこの対談についての持丸博[1]と佐藤松男の対談。佐藤松男は日大出身。大学紛争で反左翼運動を行い、福田恒存に師事した。

持丸博は盾の会の初代学生長であり三島の側近であった。ただし、歴史認識、すなわち二・二六事件の決起における昭和天皇の拒否を認めるか認めないかで意見が分かれるなど思想の相違が明らかになった。持丸博は、元もと、「論争ジャーナル」という右派学生が創った雑誌の編集人。『論争ジャーナル』を作ったのは、中辻和彦。三島は原稿料を取らずに、この雑誌に貢献した。しかし、三島と中辻和彦が仲違いした。原因は中辻の性格が奔放であったことと田中清玄からの資金援助を受けた/受けようとしたことであると、持丸は言っている。三島は中辻と絶交した。三島は中辻と絶縁したが、持丸には期待していた。三島の費用負担で、盾の会の専従にならないかと打診があった。持丸は断った。そして、盾の会と論争ジャーナルの両方と縁を切った。この時持丸は中辻に同調し三島から離れた。その理由は中辻と持丸は平泉澄一門で、昭和天皇による226事件鎮圧を支持。その国体観の相違で、持丸は三島と袂を分かったというのだ。

[1] 持丸博の妻は松浦芳子。彼女の『自決より四十年 今よみがえる三島由紀夫』については愚記事に書いた。

★ 三島由紀夫と持丸博との関係

三島と持丸博との関係は微妙なものである。すなわち、持丸との決別後に三島は森田必勝と死ぬ。ここで、持丸との決別後に三島は森田必勝と「心中」するという視点で見れば、持丸博の特異な立場がわかる。

 実のところ、私は長いこと森田氏が一緒に自刃したことについて複雑な気持ちを持っていました。そこで一昨年、小賀正義氏(盾の会二期生、市ヶ谷事件に参加、二人の自決を見とどけ、人質の益田総監を解放後、縛につく。裁判で懲役四年の判決を受く)に会うために彼の住む和歌山を訪ね、事件に関するある質問をしました。(中略)それは、あの場で三島先生が最後に「森田お前はやめろ」と叫んだということでしたので、その真偽のほどを確かめたかったからでした。彼の答えは、やはり予想通りでした。 『証言三島由紀夫・福田恒存たった一度の対決』持丸博の証言

しかしながら、この発言は、小賀正義宛の三島由紀夫の命令書の一部、下記と整合的でない;

今回の事件は楯の会隊長たる三島が計画、立案、命令し、学生長森田必勝が参画したるものである。三島の自刃は隊長としての責任上当然のことなるも、森田必勝の自刃は自ら進んで楯の会全会員および現下日本の憂国の志を抱く青年層を代表して、身自ら範をたれて青年の心意気を示さんとする鬼神を哭(な)かしむる凛烈(りんれつ)の行為である。

 三島はともあれ森田の精神を後世に向かって恢弘せよ。 (全文

すなわち、三島は森田の死を起こるものだとの認識で生前に命令書を書いている。「森田お前はやめろ」という三島の発言とこの命令書は整合性がないのではないか?

あと、持丸博は、宮崎正弘の証言に苦言を呈している。

★ 「暗渠(あんきょ)で西洋に通じている」問題、あるいは、なぜこの二人は米国の悪意を直視できないのか?、はたまた、偽毛唐

福田恒存は三島由紀夫の死について当時何もいわなかった。昭和63年・1988年に「福田恒存全集 第六巻」の巻末の覚書で三島の死について言及している。その言及の冒頭で福田が三島に言われた苦言/嫌味について述べている;

 さて、昭和四十三年の一月、原書房の企画で国民講座「日本人の再建」のなかの一冊、「現代日本人の思想」という座談会を、会田雄次、大島康正、鯖田豊之、西義之、林健太郎、福田信之、三島由紀夫、村松剛の諸氏とともに試みたことがある。どんな話をしたか全く覚えていないが、その席上でか、その後の食事の時にか、私は三島に「福田さんは暗渠で西洋に通じているのでしょう」と、まるで不義密通を質すかのような調子で決め附けられたことがある。先日、たまたまその話が「日本人の再建」であり、座談会が「現代日本人の思想」というからには、どう考えても三島はそれを良い意味で言ったのではなく、未だに西洋の亡霊と縁を切れずにいると男という意味合いで言ったのに相違ない。それに対してどう考えてたか、それも全く記憶にないが、私には三島の「国粋主義」こそ、彼の譬喩を借りれば、「暗渠で日に通じている」としか思えない。

この福田の発言に佐藤と持丸がコメントしている;

福田恒存が三島由紀夫から「福田さんは暗渠で西洋に通じているでせう」ということを言われたそうです。これを福田は良い意味で言ったのではなく、あなたは、未だに西洋の亡霊と縁が切れずにいるのではないかと、まるで不義密通を質されるかのようなことを言われた。(要約)

 それに対して、福田先生は、むしろ三島の国粋主義こそが、彼の譬喩を借りれば「暗渠で日本に通じている」と書いていますが、これは、三島の国粋主義こそ彼の譬喩を借りれば「暗渠で西洋に通じている」の間違いではないかと思います。おそらく書き損じがあったのではないか。これはどう読んでも、三島の国粋主義こそ「暗渠で西洋に通じている」でなければ意味が通じないのです。
 福田恒存読者の多くは、これをそのまま素直に捉えているようです。しかし、これを「日本に通じている」と捉えると文章としてもつながらなくなるし、三島由紀夫に不義密通していると質されたのに対して、これじゃ有効なカウンターパンチになっていないわけです。あくまでも三島由紀夫に反論しているのですから、それならば三島のほうこそが暗渠で西洋に通じているのだという意味だと思いますね。(佐藤)

持丸:「暗渠で西洋に通じている」、ことの当否は別にして三島先生らしい表現ですね。それに対する福田先生の反論は、佐藤さんのおっしゃる通り、文脈から言っても、三島の国粋主義こそ「暗渠で西洋に通じている」と解すべきでしょう。

佐藤・持丸は「暗渠で日本に通じている」は「暗渠で西洋に通じている」の福田の書き間違えと主張する。そうだろうか?福田は変な家に住んでさんざん稽古した英語を話し英語人に自己喧伝しノーベル賞を希求して「西洋」からの承認を求めさらにはディズニーランドが大好きな三島由紀夫は暗渠でなく太陽に照らされた明々白々たる人工水路で西洋に通じているのが一目瞭然であることを自明の前提として、偽毛唐でしかありえない三島由紀夫の異常行動の動機は「日本」から由来するのではないかと云いたいのだ。「暗渠で日本に通じている」。なぜなら、偽毛唐は偽物であることに居心地が悪く、つい「日本」を希求し、窒息に絶えられず「日本」を吸ってしまうのだ。吸ったのが二二六事件とその周辺思想であり、天に拒まれ死んでいく思想に捕らわれた。これを生来の自傷自殺願望が「憂国」思想とそのための死という症状として発作が出たと云ってもよい。「暗渠で日本に通じている」。

なお、佐藤は福田恒存が西洋化にも日本回帰にも走らず、自分を維持したことを称賛している。さて、この本で注目すべきことは佐藤松男が日米安保条約は幻想であると言明していること。現在(2010年頃)の日米同盟の深化(イラク派兵など)は日本の米国への従属化であるとして、米国・米軍の手足として使われるだけだと云っている。日米安保も発動されるかは米国大統領/議会の意志/承認が必要なので実際に発動されるかは疑問だと指摘している。そして、核の傘の幻想を指摘。これこそ日本保守の原則であり、佐藤はそういう人だとわかる。

ただし、憲法・安保体制という日本が米国の保護領となっているのは、憲法改正を民主的に実行することは事実上に不可能=日本の軍事権放棄状態の継続、これが原因で日本が米軍の駐屯を求めざる得ない結果できた安保条約は、講和条約後も米国が日本を米軍天国にしたい米国の意志の結果である。

福田恒存は憲法改正を民主的に実行することは事実上に不可能と認識しながら、これを制定した米国の意図=悪意を認めないのが不思議だ。さらにそれを指摘しない佐藤松男も不思議だ。この頃福田恒存が云っていたのは「アメリカを孤立させるな」である。

■ (ネタバレ注意)『沖縄文学選』に収録の『カクテルパーティー』大城立裕

1967年に沖縄出身の作家が初めて芥川賞を受賞した小説。今借りている本、マイク・モラスキー著『占領の記憶/記憶の占領』のある章に出てくる。その章はこの『カクテルパーティー』と小島信夫、『アメリカンスクール』(1954年、芥川賞)が評されている。『カクテルパーティー』は読んだことがなかったので、借りて読んだ。この本の要旨はこの作品を文庫としてを出している岩波書店のweb siteにある;

米軍統治下の沖縄を舞台にし,米軍属に暴行を受けた娘を持つ主人公が,不利だと分かっている裁判に事件を訴えることを決意するまでの展開を描いた物語である.そのテーマ性と,沖縄の近現代史が重層的に織り込まれた物語は,九五年の事件をはじめとした数々の基地被害をほうふつさせるだけではなく,依然基地の重圧が押し付けられている沖縄をめぐる複雑な政治状況をも浮かび上がらせる.その意味においてこの小説は,決して単なる古色めいた「古典」にはなることはなく,同時代的な緊張を読む者に強いてくる.
――本書「解説」(本浜秀彦)より

娘を米兵に強姦されるという話ではあるが、その父たる男はかつては支那大陸への兵隊として出陣していたことがあり(つまりは、日帝侵略兵士であった)、そして、娘の件を相談した中国人弁護士に日帝侵略を糾弾される話。

なお、この作品の芥川賞の評価で選定委員であった三島由紀夫の評;

他の審査委員は褒めるだろうから、私は(引用者中略)欠点をはっきりと述べておく。」「「広場の孤独」以来の常套で、主人公が良心的で反省的でまじめで被害者で……というキャラクタリゼーションが気に入らぬ。このことが作品の説得力を弱めている、という風に私には感じられた。」「主人公の社交能力の欠如が、事件をこじらせる一因でもあろうが、作者はそれをすべて大きな政治的パズルの中へ融かし込んでしまう。」(引用元:)

一方、一番誉めているのが大岡昇平;

困難な沖縄の状況の下で、これだけの作品が出たということは、慶賀すべきことである。内地にはない深刻な状況が取扱われていて、切迫した小説的興味を生み出している。」「この作品の下には、表面に出ていない、多くのものがある、という感じである。それをどういう風に書きあらわすか、に作者の将来の問題がかかっていると思われる。」(引用元:同上)

この小説の主題についてではなく、気づいた些細な点について書く。

大城立裕さん、芥川賞受賞作「カクテル・パーティー」を語る 「米琉親善」の仮面はぐ
読書メーター 『カクテル・パーティー』

★ 米軍住宅の曲線道路

この小説『カクテルパーティー』には多くのことが多くの人に語られているらしいのだが、この点、米軍住宅の曲線道路についての言及はあるのだろうか?おいらは、そうだよね、沖縄もそうなのか、と思った。

 ゲートをはいると、きれいに舗装された道が二手にわかれて、ハウスの立ちならんだ奥へ流れていた。奥のほうで、また幾手かに岐れて、基地住宅[ベースハウジング]、あるいは沖縄の住民のよびかたによれば「家族部隊」とよばれるハウスたちをつないえいる。この道路設計がくせもので、直線でなく曲がりくねっているものだから、十年前にひどいめにあったことがある。はやり今日のように蒸し暑い午後だった。(中略)
・・・私は少年の頃から、知らない道の方角だけを見定めて歩きまわるという、妙な趣味をもっていた。いわば、ささやかな探検趣味である。私はゲートをすべりこんで歩きだした。ところが誤算に気づいたのは、およそ二十分ほど歩いたところか。私の計算では、ほぼ直線に突っきれば十五分、ぶらぶら見物しながらでも二十分、というつもりだったのに、三十分ほど歩いても東端の金網らしきものは見えないのだ。私は、おなじ道をぐるぐるまわっていた。ハウスはどれもおなじ形をしていて、たまに植えこみの形ちがっていたりするだけだ。洗濯物の色やかたちで、おなじところへ舞いもどっていることに気がついた。外人やメイドたちは、私をみてもなんの表情もみせなかったが、道をみうしなったとき、ふと恐怖がきた。 (大城立裕、『カクテルパーティー』)

おいらはかつて指摘した;両住宅地とも曲線道路で特徴づけられる(愚記事:札幌郊外の"ワシントンハイツ";幻と現(うつつ)の五輪を挟む敗戦・占領・DH(ディペンデント・ハウス)

★「華青闘告発」以前に芥川賞作品に現れたる日帝批判

愚記事:「村上春樹、『1973年のピンボール』に現れたる「華青闘告発」的視点」で書いたことだが、絓秀実さんによると1970年7月7日の「華青闘告発」が、マイノリティーによる対抗運動の初めての勃発として、重要だそうだ。すなわち、1970年に在日中国人たちが対支日帝侵略(侵華)の責任、むしろ一般日本人の責任、特に没批判的な日本人左翼を糾弾しはじめたというのである。

でも、1967年の芥川賞受賞作品の『カクテルパーティー』には中国人による告発が出てくる;

(中国人・孫)「あなたは何の悪いこともしなかったとおっしゃりたいのでしょうが、あなたの眼の前で日本人が中国人にたいしてとっている態度にあなたが批判的でありながら無関心をよそおったことはありませんか」
(日本人・小川)「それはしかし、あなたがいまこの土地でとっていらっしゃる態度と同じだ」
(中国人・孫)「そうです。恥ずかしいと思います。私もいずれは懺悔しなければなるまいと考えています。それでもしかし、私はあなたがたの責任を追及しなければならない。(以下略)」

現実ではない。小説の中での話だ。でも、文学評論家はこういう作品の中の「その無定見な日本人意識を前提にしていた新左翼など「革命」運動参加者に「コペルニクス的転回」をくらわした」話にも言及すべきではなかったか?

★ 強姦と逆襲

三島由紀夫がこの大城立裕『カクテルパーティー』大城立裕を嫌った理由は、主人公を被害者と設定としたことだろう。これは小説=作り話において、米兵が強姦者とされている。作品のために設定=つくられたのだ。三島はこういう「作り」を嫌ったのではないか?こう設定してしまうと、もう、向こうが悪で、こちらが被害者。そして、被害者というのは、論理的にはすぐそうにはならないのだが、正義であり、さらには復讐権を付与され、その実行が正義の名の元に実行されることが、物語において、期待される。三島はそう考えて、嫌ったのではないだろうか?相手の悪魔化。これは彼の趣味の問題だが、三島は弱者と被害者、そして彼らの被害者意識に基づく行動が嫌いだ。さらには、強姦事件というのはその立証が困難である。でも、この作品、大城立裕『カクテルパーティー』は興味深い。犯された娘が米兵に逆襲して米兵に怪我を負わせる。そのせいで米占領軍に告訴される。ただし、この米兵への犯罪という行為が彼女の被害性を証明することとなる。なぜなら和姦なら、その後傷害を負わせないからである。
 それにしても、米兵を犯行者としての強姦というのは小説=作り話としても、ベタというか、とってつけたような受難の話である。相手を悪魔化する。米軍支配を批判するにしても、その米軍を強姦者と設定することは安易、やりすぎ、といえるかもしれない。
 しかしながら、この大城立裕『カクテルパーティー』がその後も存在意義を認められるのは1995年の沖縄米兵少女暴行事件(wiki)が現実に起きたことだ。
 ところで、現実性というと、沖縄では1853年に「ウイリアム・ボード事件」が起きた。この事件は、ペリー提督率いる米国海軍艦隊が琉球王国に来航した時、水兵のウイリアム・ボードが民家に押し入り54歳の女性を強姦した。注目すべきはその後の経緯。事件を知った近所の琉球人が逆襲。ウイリアム・ボードを捉えようとするもウイリアム・ボードは海に転落し、溺死する。この事件を受けて、米国が取った態度は、ウイリアム・ボードを追い詰めた琉球人を処罰することを琉球王国に武力威嚇を含め求めたことだ。(ペリー艦隊の来航と女性犯罪)⇒ ウイリアム・ボード事件
 この1853年の事件における米国の態度は、大城立裕『カクテルパーティー』において、米軍占領府が強姦された主人公の娘を米兵への傷害で告訴したことと同じである。
 大城立裕『カクテルパーティー』がその後も存在意義を認められると書いたが、今に至るまで存在意義を認められつづけるというのが沖縄の現状だ。今年2024年には「16歳未満の少女を誘拐し性的暴行を加えたとして、わいせつ目的誘拐と不同意性交の罪に問われた米空軍兵長ブレノン・ワシントン被告(25)」(google)が裁判中だ。被告の主張は未成年であったことは知らずかつ和姦であったというものらしい。そこで興味深いのは、米国人というのは初めて会った言葉の通じない相手とセックスするということだ。年齢がわかるほど相手の素性は気にしないということだ。

★ 仏桑花を知る

 愚記事より

大城立裕『カクテルパーティー』に、仏桑花なる花が出てくる。ハイビスカスだ。

 

 


散歩:北九州市八幡東区七条⇒ 戸畑区・市立美術館⇒ 八幡東区・JRスペースワールド駅

2024年11月10日 15時34分26秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)


google map

北九州市で新幹線が停まるのは小倉。小倉の西の方に八幡がある。製鉄所の八幡。製鉄所は海岸近くにある/あったが、背後に山があり、さらにその背後に平地がある。その山に北九州市立美術館がある。平地から美術館の山を越え、海岸のJRスペースワールド駅まで散歩した。ところで、北九州市立美術館の位置は戸畑区に属する。


1.八幡東区荒生田2丁目、バス停:七条、2.戸畑区東鞘ケ谷町8、3.市立美術館、4.戸畑バイパス下トンネル、5.白川町、6.枝光1丁目、7.アウトレット、8.イオンモール、9.JRスペースワールド駅


航空写真 現在


航空写真 1960年代

■ 1.八幡東区荒生田2丁目

■ 3.北九州市立美術館


北九州市立美術館。磯崎新 [wiki] 設計。

市立美術館は上部に突き出た二つの直方体が特徴で、「丘の上の双眼鏡」とも呼ばれる。大分県出身の建築家・磯崎新さんが設計し、1974年に完成。磯崎さんが2019年に「建築界のノーベル賞」と言われる米プリツカー賞を受け、改めて注目された。(大野博昭 眼前の風景が絵画のよう 磯崎新さんが設計した北九州市立美術館の「美」

北九州市立美術館開館50周年記念 大コレクション展 ―あの時、この場所で。―(web site


2025年1月4日ー3月16日 開催予定 web siteはまだ

■ ⇒ 美術館の山を海側へ下る

■ 4.戸畑バイパス下トンネル

■ 5.白川町

■ 6.枝光1丁目

■ 7.アウトレット、

■ 8.イオンモール

50歳代半ばを過ぎたが、今までブラック・フライデーを知らなかった。カナダで暮らしていた時はハロウインの現物は見たが、ブラック・フライデーなんて知らなかった。

現在↑、 ↓ 1960年代 工場多し

■ 9.JRスペースワールド駅

この日、「起業祭」ということで、人出が多かった。

明治34年(1901年)から続くまつり起業祭八幡

明治34年(1901年)、官営八幡製鐵所の作業開始式から始まった起業祭。
昭和60年に市民のまつりに生まれ変わった「まつり起業祭八幡」は本年で36回目を迎えました。
この市民参加の「まつり起業祭八幡」は、市民の連帯感を深め、明るく住みよい、
元気あるまちづくりに寄与するとともに、北九州市の活性化と国際化を図ることを目的としています。web site

■ まとめ 通過街

北九州市 
八幡東区 荒生田、高見
戸畑区 西鞘ケ谷町、
八幡東区 日の出、枝光本町、東田


筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第33週

2024年11月09日 19時06分09秒 | 武相境

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第33週

■ 今週のよその猫

■ 今週の筑豊境

■ 今週の花


四季桜

エドヒガンとマメザクラの雑種と推定されるコヒガン系の桜です。秋は10月頃から咲き始め、暖かいところでは冬の間も少しずつ咲きつづけます。個体により花色や花の大きさなどに変異があり、各地で独特の名が付けられていることが多い桜です。ソース

■ 今週知った英語:yard signs [google] (ヤードサイン)、あるいは、思い出した

米国大統領選の報道で、ヤードサインという言葉を知った。自分の庭に広告の板を立てるのだ。



トランプ支持者増加の理由は?大越がインフルエンサー直撃 米大統領選オハイオ州【報道ステーション】(2024年11月1日)

そういえば、見たことがあると思いだした。20年前だ。

オハイオ②:北米出張42

ブッシュ&チェイニー・コンビ。(wiki)一方の民主党の大統領候補は、ジョン・ケリー。実は、彼は今。バイデン政権でアメリカ合衆国気候問題担当大統領特使の「要職」にある。

 地図のシンシナティはオハイオ州

■ 今週の他人丼、いや、合い盛り丼らしい


資さんうどん、牛・鶏天とじ丼+ミニうどん(web site)。ミニぼたもち。

他人丼というのは牛や鶏卵、あるいは豚と鶏卵などを材料にしてひとつの鍋で同時につくるもの。資さんうどん、牛・鶏天とじ丼は牛丼に別途揚げた鶏天を加えたものらしい。これを合い盛り丼というのだ。

■ 今週の購書

 越境する世界文学(Amazon

九州に来て初めての購書。ホミ・バーバの模倣論/擬態論(google)について知りたく、贖う。ホミ・バーバの模倣論/擬態論が偽毛唐と関係があるのか、ないのか知りたいと思ったからだ。

■ 今週の催し物

北九州市立美術館開館50周年記念 大コレクション展 ―あの時、この場所で。―(web site

大野博昭 眼前の風景が絵画のよう 磯崎新さんが設計した北九州市立美術館の「美」

▼ 今週のひゃっほー

青柳喜兵衛 「天翔ける神々」 1937

▼ 今週の非招集

クロード・モネ 「睡蓮、柳の反映」 1916  

今、東京で、モネの企画展示会をやっているらしい(web site)。この「睡蓮、柳の反映」は呼ばれなかったのだ。

▼ 今週の女性像

楠目成照 「少女像」 1922      楠目は藤島武二(google)の弟子。

▼ 今週の命令

『戦旗』(せんき)は、1928年5月から1931年12月にかけて刊行されていた日本の文芸雑誌である。全41号。プロレタリア文学の作品の重要な発表舞台となっていた。wiki

▼ 今週の撮影禁止、あるいは、多作での同定困難


草間彌生「南瓜」 1981  北九州市立美術館蔵

草間彌生の「南瓜」作品はたくさんある(google)。今回の展示で上記作品を見ることができた。でも、撮影禁止。今、ネット上でこの作品の画像を得ようとすると、草間彌生の「南瓜」作品はたくさんあって、すぐには拾えなかった。実際に見て印象的だったのは地のモザイク模様。丁寧で、黒字に黄線が印象的だった。水玉と幾何学的に対照をなしているのだ。

■ 今週の昭和の成仏のために

福岡県北九州市八幡東区枝光本町9−23 白川町市営住宅

■ 今週のユダヤ人問題によせて

 

なぜ、われわれ日本人は、彼らの「~♪~負けて悔しい~♪~花いちもんめ~♪~」の呪詛を、「公共の電波」を経て、聞かねばならないのか?

 

 


佐賀県散歩:名護屋城址

2024年11月06日 17時29分45秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

呼子に泊まった翌日朝、バスで名護屋城址に移動。途中、バス車中から伊達政宗陣屋跡を見る。バスは昭和バスだ。名護屋とは「豊臣秀吉は、肥前名護屋の地に大陸への出兵拠点となる城を築き、全国の諸大名たちを集めて、まちをつくりました。世界最大規模を誇った、7年間のみ存在した、人口20万人を超える幻の都市。引用元)」。


A.呼子、B.伊達政宗陣屋跡、1.道の駅桃山天下市、2.佐賀県立名護屋城博物館、3.名護屋城址

■ B.伊達政宗陣屋跡

走行中のバスの中から見る

■ 1.道の駅桃山天下市

佐賀県唐津市鎮西町名護屋1859 桃山天下市 (web site

道の駅桃山天下市は、呼子より3キロの国道204号沿いにあり、特別史跡名護屋城跡の玄関口に位置しています。 さらに3キロ先には海の渚百選の波戸岬があり、海中展望塔では自然の魚と海底を見ることができます。 駅では鎮西町でとれた新鮮な農産物、水産物等を豊富に揃え、食事処ではイカ活造定食等の活魚料理が楽しめます。 (九州の道の駅、桃山天下市)

うにご飯というものを見た。買わなかった。どうやらウニは火が通っているらしい。

▼ 呼子でつくられるイカの塩辛のイカの原産地は?

■ 2.佐賀県立名護屋城博物館

佐賀県立名護屋城博物館は、特別史跡「名護屋城跡並びに陣跡」の保存整備事業と、文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)及び日本列島と朝鮮半島との長い交流の歴史を調査・研究・展示紹介し、日韓の学術・文化の交流拠点となることを目的として平成5年10月に開館しました。web site 施設案内

特別史跡「名護屋城跡並びに陣跡」は、文禄・慶長の役の出兵基地であり、不幸な歴史の証人ではありますが、日本の歴史上、最大規模の城郭関係遺跡群という特徴ももっています。名護屋城博物館では、地元自治体とも協力しながら、名護屋城跡のほか、諸大名の陣跡、関連遺跡の発掘調査・保存整備に取り組んでいます。(同上)

不幸な歴史の証人なのだ。

 正面切って、朝鮮侵略とは書いてない。「世界史用語」では朝鮮侵略だ;

16世紀末、2度行われた豊臣秀吉の朝鮮侵略。日本では文禄・慶長の役、朝鮮では壬辰・丁酉の倭乱という。1592年、朝鮮に侵攻した倭軍は平壌まで進んだが、朝鮮の義兵の抵抗と明の援軍によって反撃を受け、さらに李舜臣指揮の朝鮮水軍によって補給路を断たれたため苦戦、一旦講和した。1597年に再び侵攻し、朝鮮南部で朝鮮・明の連合軍と戦った。98年、秀吉の死によって撤退し、戦争は終わったが豊臣政権は間もなく倒れ、朝鮮の国土は荒廃し、明もまた間もなく清によって滅ぼされる。またこのとき捕虜となって日本に連行された朝鮮人によって、日本の朱子学の興隆、陶芸技術の飛躍的発展などがもたらされた。世界史の窓

楊柳観音像(もちろん複製)が撮影禁止だったので、遠くから撮影。

楊柳観音像 鏡神社 web site


2. 歴史の中の名護屋城 2. 歴史の中の名護屋城 (web site


黄金の茶室 web site

▼ ばったり、姜沆(かんはん)

藤原惺窩(wiki)と姜沆(wiki)[右]。

愚ブログの標題を『看猫録』という。 もちろんこれは朝鮮儒者・姜沆(カンハン)の『看羊録』からのパクリだ(愚記事)。 看羊とは羊を看ることであるが、これは前漢時代の儒者・蘓武(wiki)が匈奴に抑留された時にしていたことだ。この故事を朝鮮儒者・姜沆が本歌とした。(愚記事より)

「ばったり」ということもないのだ。「このとき(文禄・慶長の役)捕虜となって日本に連行された朝鮮人によって、日本の朱子学の興隆、陶芸技術の飛躍的発展などがもたらされた」のだから、朝鮮儒者の姜沆が、おいらを待っていても不思議ではないのだ。

▼ 草庵茶室

山里丸の草庵茶室跡:草庵茶室とは、萱や藁などで屋根を葺いた簡素なつくりの茶室です。「茶の湯」でわび茶が主流となる16世紀以降には、多く建てられるようになりました。

 名護屋城では秀吉が山里丸に草庵茶室を建てています。博多の豪商神屋宗湛が記した『宗湛日記』の天正20年(1592)11月17日の記述には、山里丸の茶室は柱や、そのほか壁なども竹で造られ、四畳半の広さであったことが記されています。平成9年(1997)の山里丸の発掘調査で飛石と草庵茶室と思われる掘立柱建物跡が確認されて、秀吉の茶室の発見として話題となっています。「黄金の茶室」とは、趣が違い侘びさびを感じさせる茶室です。(佐賀県 web site: 豊臣秀吉の 草庵茶室 (復元)を展示・公開します

 

■ 3.名護屋城址

  • 名護屋城は豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際して出兵拠点として築かれた城です。
  • 1592(文禄元)年の開戦から秀吉の死で諸大名が 撤退するまで、7年の間大陸侵攻の拠点となりました。
  • 城の面積は約17ヘクタールにおよび、当時では大坂城に次ぐ規模を誇りました。
  • 周囲には130以上に上る諸大名の陣屋が構築され、全国から20万人を超える人々が集ったとされています。
  • 現在、名護屋城跡と23箇所の陣跡が国の特別史跡に指定されています。 (ソース:名護屋城とは

■ 名護屋城址 ⇒ 唐津、大手口バスセンター

バス停、名護屋城博物館入口(google map



大手口(唐津バスセンター)[google map]

■ 唐津駅


唐津市近代図書館 (google)

▼ 唐津駅ホーム 筑肥線

博多へ向かう。


筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第32週

2024年11月02日 18時00分00秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第32週

■ 先週のよその猫

■ 今週の筑豊境

■ 今週の花

アメリカからの外来植物であるセイタカアワダチソウは日本で消長があるらしい。昔は2mを優に超える背丈だった気がする。

■ 今週の「幕府参り」、あるいは、実家帰り

中谷防衛相、在日米軍司令官と面会 横田基地で

中谷元防衛相は1日、米軍横田基地(東京都福生市など)で在日米軍のジョスト司令官と面会した。北朝鮮が10月31日に弾道ミサイルを発射したことを受けて、自衛隊と在日米軍が連携して地域の平和と安定に貢献していくと確認した。日米同盟の抑止力・対処力の強化が不可欠だとの認識を共有した。ソース

中谷防衛相といえば自衛官出身だ。自衛隊といえばそもそもマ元(マッカーサー元帥)の命令で出来た組織警察予備隊が元祖である。「自衛隊は、アメリカの日本人によるアメリカのための兵力」という人もいる(江藤淳)。

そうなのだ、自衛隊の実父はマ元なのだ。実父の実家の在日米軍に里帰りしたのだ。

・以前は、「横田幕府」って言葉をしばしばネットで見たのだが、今日、ググってもそんなにヒットしなかった。X(横田幕府)にはそれなりにあった。

■ 今週の道産品入り

丸美屋、温 茶碗蒸し2個入り

■ 今週の輸入原料、あるいは、呼子のイカは南米産

呼子朝市通り お徳用しゅうまいの原料のイカの産地は?

いか(ペルー産、チリ産)   有限会社 木屋 web site

■ 今週の半額、あるいは、中国製造粒あん

塩豆大福(リョーユーパン)[商品紹介]

■ 今週の半額2


丸美屋 炒めて旨い チャプチェ 袋入 210g

「春雨」と「調味ソース」がセットになった、3人前。ボリュームたっぷり便利なメニューです。
玉ねぎとピーマンですぐできる、春雨と調味ソースのセット商品です。牛の薄切り肉・にんじん・筍入り。ほんのり甘い味付けに、香り高い胡麻油の風味で仕上げました。(ソース)

チャプチェ:春雨のほか、ピーマン、にんじん、赤パプリカなど彩り豊かな野菜やきのこ、牛肉の細切りなど、さまざまな具材を使った甘辛い味付けの炒め物です。 漢字では「雑菜(チャプチェ)」と書き、「雑(チャプ)」は混ぜ合わせる、「菜(チェ)」はおかずという意味です。google

■ 先週のもらい物

■ 今週の作り話よばわり

ハロウインで思い出したおいらの子供頃のある記憶を、初めて<荊の簪を挿した御方様>に話した。

子供の頃、浴衣を着て、子供集団として近所を練り歩き、「ローソク出せよ、出さなきゃ、かっちゃくぞ」と唱え、お菓子をもらうのだ。

この記憶を<荊の簪を挿した御方様>に話すと、「つくっているのか?」と頭から信じてもらえなかった。なお、「筑波山麓」出の<荊の簪を挿した御方様>は「かっちゃく」の意味はわかった。

ネットにはこの「ローソクもらい」(wiki)についていろいろ書いてあるが、「Trick or Treat」(「お菓子をくれなきゃいたずらするぞ!」)といってお菓子をもらう(先)耶蘇・毛唐の風習との関連がわからない。

■ 今週の同じ写真を表紙にもつ本たち

 

川名晋史『基地の消長1968-1973』とマイク・モラスキー『占領の記憶/記憶の占領』という本の表紙が共に同じ写真だ。この写真は写真家、東松照明 の「チューインガムとチョコレート」だ。現在、東京都写真美術館蔵(googe)。前書は2021年に借りて読んんだ(愚記事)。後書は今借りて読み始めた。

■ 今週借りて読み始めた本の「誤り」

 沖縄が日本へ復帰してから約二年、そして沖縄本島へ初上陸してからちょうど二九年が経った一九七四年四月一日は、コザの街が美里村と合併し、その独特な響きを持った名が一新されて「沖縄市」となった日である。それまでの二〇年間においてカタカナで公式登録された名を持つ街は、沖縄にも日本にも、このコザ以外には存在しなかったという。[強調、いか](第二章 文学に見る基地の街、マイク・モラスキー『占領の記憶/記憶の占領』)

違うよね。あるよ、カタカナの街。ニセコ町(北海道)。1964年発足(wiki


ニセコアンヌプリ(wiki

米国の大学の日本研究者なのだという。大丈夫なんだろうか?この本。なお、翻訳者は鈴木直子という人[清泉女子大学]。翻訳者は事実関係にも物言いしないのだろうか?大丈夫なんだろうか?

さらに、上記で記したこの本の表紙(カバー)の写真について、なんと、東松照明「横須賀」(1958)と写真出典一覧に示してある。

まちがい。

大丈夫なんだろうか?この本。

■ 今週の「フェンスの向こうのアメリカ」

愚ブログでは「フェンスの向こうのアメリカ」がネタだ。それにしてもこの写真はすごい。蝉かよ。写真は2枚上の画像のマイク・モラスキー『占領の記憶/記憶の占領』の写真出典一覧のp64-65の写真(呉屋永幸撮影)。それにしても沖縄/琉球の子供たちはフェンスによじ登り基地の何を見たかったのだろうか?見たかったものは見えたのだろうか?


佐賀県散歩:呼子

2024年11月01日 06時23分28秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

佐賀県唐津からバスで呼子に行く。昭和バス(web site)。

呼子について知っていたことはイカのみ。イカを食べに行った。行って初めて知った。昔、鯨漁で栄えたのだと。知らなかった。


1.呼子バス停、2.呼子朝市通り、3.鯨組主中尾家屋敷、4.旅館金丸、5.北部公民館だいば、6.呼子漁港、7.まいづる百貨店 まいづるナイン呼子店

▼ 呼子港沿いの「海岸通り」

この通りで一番きれいで大きいので目立つ建物は病院、ケア施設だった。

海岸通りでみた鯨像。この像で「鯨組主中尾家屋敷」(下地図のバルーン)の存在を知る。ただし、海岸通りからは入れず、「裏」にまわなければならない。

▼ 朝市通りの北方面

■ 3.鯨組主中尾家屋敷

「鯨組主中尾家屋敷」は江戸時代から明治初頭にかけて“中尾甚六”の名前を受継ぎながら8代170年間にわたり呼子を拠点に捕鯨業を営んでいた中尾家の屋敷として建てられました。この屋敷は、天保11年(1840年)に江戸時代の捕鯨の様子を記した「小川嶋鯨鯢合戦(おがわしまげいげいがっせん)※1 」にも描かれ、当時の姿を残した豪壮な造りで、、佐賀県の重要文化財に指定されています。現在は建物の他に捕鯨業時代の資料等が展示されていて見応え十分な施設となっています。くじらタウン web site

江戸時代に巨万の富を築いた鯨組主中尾家とは!? 「鯨組主中尾家屋敷」@唐津市呼子町

■ お宿:4.旅館金丸

呼子 旅館金丸(公式サイト


宿の窓から。向こうに見えるのが呼子大橋。

■ 夕暮れ前のお散歩


6.呼子漁港


5.北部公民館だいば(google


6.呼子漁港

■ お食事

イカの活造り。イカはアオリイカ。刺身をいただいた後のゲソは天ぷらにしてくれる。

御飯とお汁はイカの活造りが終わって、ゲソが天ぷらとなって再登場した時、出てきた。

 

■ 朝食

■ 呼子朝市

■ 呼子の街

■ 7.まいづる百貨店 まいづるナイン呼子店


まいづる9 呼子店(web site)。 まいづる百貨店 web site

スーパーでお土産になりそうなものを探した。

鯨が売っていた。

いかの塩辛は北海道産だった。

■ バスで名護屋城址に向かった