宮城県慶長使節船ミュージアム
伊達政宗は、自領で造った船・サンファンバウティスタ号 で、家臣の支倉六右衛門をスペインに派遣し、奥州伊達家との通商条約締結を目論んだ。支倉はスペインとの交渉がうまくいかないので、ローマに行き教皇からスペイン王へ影響力を発揮してもらう戦略にでたが、結果うまくいかなかった。支倉は再び太平洋を渡り帰国した。
雑記
●基礎的前提として、スペインは、メキシコ→フィリピンと日本に迫っていたことを認識すべし。だから、通商はルーチン化すれば日本⇔フィリピンとなり、当時スペインは最も近い西洋だったといえる。メキシコは当時金銀が産出し、その鉱山技術と精錬・冶金技術が日本には魅力だった。
■メキシコ・スペインとの通商は家康が希望し自分で手がけていたが、交渉が決裂、政宗はその「落穂拾い」をした。政宗の造船と使節派遣には徳川家から向井将監が参加していた。
■サンファンバウティスタ号はスペイン航海士に操られ、黒潮に乗って、北米はカリフォルニアのメンドシノ岬に到達した。のち海岸沿いに航行、最初の目的地のメキシコはアカプルコに到着。これは1614年1月。米国建国神話となる、メイフラワー号でのピルグリム・ファーザーズが到着した1620年より前ということになる。
■こんな、今から見れば、漁船ほどの規模の船に、180人が乗って、太平洋を渡った。