いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

カール・マルクス、『イギリスのインド支配』和訳全文

2019年06月30日 15時52分50秒 | インド

1853年6月25日に米国の新聞「ニューヨーク・デイリー・トリビューン」に掲載されたカール・マルクスの新聞記事「イギリスのインド支配」の和訳(鈴木正四 訳)全文をコピペする。なお、英語の原文はネットですぐ見られる(The British rule in India)。

載せる理由やこの論文についてはここに書くと予断を与えるので、末に書きたい。ここでは簡単にすませる。

■ 今日でブログ15年。愚ブログも今日で15年。初記事で、「昔、マルクスの『イギリスのインド支配』という記事を読んだことがあった」と書いた。その「イギリスのインド支配」の全文。

■ この「イギリスのインド支配」は”西欧のもっとも露骨で恥知らずな植民地主義者の文章” [1] 的なものである。つまりは、スキャンダラスな文章ということ。 [1] 西川長夫、『国境の越え方』, 1992年

なお、この全文のうちスキャンダラスなくだりを別途ダイジェスト版として後日載せる。


マルクス
イギリスのインド支配

「ニューヨーク・デイリー・トリビューン」
一八五三年六月二十五日付、第三八〇四号
ロンドン、一八五三年六月十日、金曜日

 ヴィーンからの電報によれば、ヴィーンでは、トルコ、サルデーニャ、スイスの問題の討論が平和的に解決されるのは確かだと考えられているとのことである。

 昨晩、下院ではインド問題の討論が、いつものようにだれた調子でつづけられた。ブラケット氏は、サー・チャールズ・ウッドとサー・J・ホッグの陳述には楽天的にすぎる嘘という特徴があると非難した。内閣と理事会の多くの代弁者たちが、この非難を最大限に反駁した。型のようにヒューム氏が要約して、内閣に法案の撤回を求めた。討論は延期された。 

 ヒンドゥスタンは、アジア的な規模でのイタリアのようなものである。アルプスのかわりにヒマラヤがあり、ロンバルディア平野の代わりに平野があり、アペニン山脈の代わりにデカン高原があり、シチリア島の代わりセイロン島がある。土地からの生産物が種類にとみ、政治の構造がばらばらであるのも同一である。イタリアがしばしば征服者の剣によってさまざまな国家団体に凝縮させられたように、われわれはヒンドゥスタンが、回教徒やムガル人やイギリス人の圧迫のもとにおかれた場合を除いて、多くの独立した、あい争う国家に分かれ、その数は町の数、いや村の数とさえ等しいほどであることを知っている。けれども、社会的見地からみれば、ヒンドゥスタンは東洋のイタリアではなくて、東洋のアイルランドである。そしてこのイタリアとアイルランドとの奇妙な結合、官能の世界と苦難の世界との奇妙な結合を、ヒンドゥスタンの宗教の古い伝統があらかじめ示している。この宗教は、肉欲的歓喜の宗教であると同時に難行的禁欲の宗教であり、性器[リンガ]崇拝の宗教であると同時にジャガナートの宗教(121)であり、行者の宗教であると同時舞妓[バヤデール]の宗教である。
 私はヒンドゥスタンに黄金時代があったと信じる人たちの意見にくみするものではないが、だからといってサー・チャールズ・ウッドのようにクリー・カーンの権威をかりて自分の意見を裏づけようとも思わない。ただ、たとえばアウラングズィーブ**の時代をとってみればいい。あるいは北にムガル人が現われ、南にポルトガル人が現われた時代でもいい。あるいは回教徒が侵入し、南インドでは七王国分立の状態にあった時代(122)でもいい。さらにさかのぼりたければ、ブラーフマン(バラモン)自身の示す神話的な年代記をとって見ればいい。ブラーフマンは、インドの苦難が、キリスト教徒の説く創世よりももっとまえにさせ始まったとしているのである。
**ムガル王朝第六代の王(在位1658-1707年)

 しかしながら、すこしも疑いのないことは、イギリス人がヒンドゥスタンに与えた苦難が、ヒンドゥスタンがこれまで嘗めなければあらゆる苦難と根本的に違い、はるかに強烈なものであることである。私が言っているのは、イギリス東インド会社がアジアの専制主義の上につぎ木したヨーロッパの専制主義が、サルセット寺院(123)の人を驚かす異様な仏像のどれよりも、奇怪な結びつきを示しているということではない。これはイギリスの植民地支配の模倣にすぎないのであって、それも、イギリス東インド会社の活動の特徴をみるには、まえのオランダ東インド会社について、イギリスのジャヴァ総督サー・スタムフオード・ラッフルズが言った次のことばを、文字どおりくりかえせば十分なほどである。

 「オランダ会社は、利欲一点ばりで動いており、領民にたいして、西インド諸島の農園主が昔その農場の奴隷の集団に示したほどの関心や顧慮をもはらっていない。西インド諸島の農園主が人間財産を手にいれるのに金を出したのに、オランダ会社はそうしていないからである。オランダ会社は、これまであった専制主義の全機構をつかって、人民から貢納と労働とを最大限に一片残らずしぼりとった。こうして、まえからの気まぐれでなかば野蛮な政府が、政治家のあらゆる巧みな手口と商人のあらゆる排他的な利己心で運用されて、さらにひどい害悪を示すことになった。」

内乱、侵入、革命、征服、飢饉、それらがあいついでヒンドゥスタンに及ぼした作用が、どんなに奇妙なほど複雑で、急速で、破壊的であるように見えても、それらはすべてヒンドゥスタンの表面にふれただけであった。ところがイギリスは、インド社会の骨組み全体をうちこわしてしまい、それが再建されるきざしはまだすこしも現われていないのである。このようにインド人が古い世界をなくして、しかも新しい世界を得ていないため、インド人の現在の苦難は一種独特の憂鬱さをおびているのであり、またこの点でイギリス支配下のヒンドゥスタンは、この地の古来の伝統のすべて、過去の歴史全体から、隔てられているのである。
 アジアでは、一般に、太古以来、三つの政府部門しかなかった。財務省すなわち国内略奪者、軍事省すなわち国外略奪者、最後に公共事業省である。天候と地形上の条件、とくにサハラからアラビア、ペルシア、インド、タタールを経て、アジア最高の高原にまでひろがっている広大な砂漠地帯のために、運河と用水とによる人工灌漑が、東洋農場の基礎となった。エジプトとインドと同様、メソポタミア、ペルシアその他でも、洪水を利用して土地を肥沃にし、高い水位を利用して灌漑水路に水をそそいだ。このように水を節約して共同につかわなけければならない根本的な必要から、西洋では、フランドルやイタリアの例のように、私的経営が自発的な連合を結ぶのが促進されたが、東洋では文明があまりにも低く、また地域があまいに広大で、自発的な連合を生みださなかったため、とうぜん集中的にはたらく政府権力が介入することになった。ここからして、一つの経済的機能、すなわち公共事業をおこなうという機能が、あらゆるアジアの政府に帰した。このように土壌を人為的に肥沃化するのに中央政府にたより、灌漑や排水を怠るとすぐだめになってしまうしくみからして、パルミラやペトラ、あるいはイエメンの廃墟、さらにはエジプト、ペルシア、ヒンドゥスタンの広大な諸地方のように、まえにはみごとに耕されていた地域が、まるごと、いま不毛の荒地になっているという奇妙な事実がはじめて説明できるし、また、国土を荒らす戦争が一回あっただけで、何世紀となく無人の地となり、その文明もいっさい無に帰してしまうという理由も説明できる。
 さて、東インドのイギリス人は、前任者から財務省と軍事省はひきついだが、公共事業省のほうはまったくおろそかにした。そこからして、農業は衰退した。イギリス流の自由競争、自由放任 (124) [kaissez-faire, laissez-aller] の原則ではいとめない農業なのである。しかしアジアの諸帝国では、農業がある政府のもとでは衰退するが、他の政府のもとでは復活するのを、われわれはよくみなれている。ヨーロッパでは収穫が天気のよしあしで変わるように、アジアでは収穫が政府のよしあしで決まるのある。だから、農業を圧迫したり、おろそかにしたことは、悪いことではあるが、もしそれが格段に重要な一つの事情、全アジア世界の年代記にはじめて現われた一つの事情をともなわなかったら、侵入者のイギリス人がインド会社に致命的打撃を与えたものとみなすことは、不可能であったろう。インドではこれまでどんなに政治の姿が変わったようにみえても、その社会的条件は、最古の時代から変わることなく一九世紀の最初の一〇年代にまでおよんだ。無数の紡績工と敷布工とを規則ただしくつくりだす手織機と紡車とは、この社会の構造の枢軸であった。はるか昔からヨーロッパは、このインド人の勤労によるみごとな織物を受け取ってきたものである。その代わりとしてヨーロッパは貴金属を送って、インドの金細工に原料を提供してきた。この金細工師はインド社会には不可欠の人間である。というのは、インド社会が装飾品を好むことはたいへんなもので、ほとんどはだしで歩きまわる最下層の階級でさえ、金の耳輪を一対と首飾りになにかの金の細工品をつけているのが普通なくらいである。指輪や足の指輪もひろくつかわれてきた。女や子供がしばしば金や銀のずっしりした腕輪や足輪をつけていたし、家のなかには金銀の神像が見られた。このインドの手織機をうちこわし、紡車を破壊したのは、侵入したイギリス人であった。イギリスはまずインド綿製品をヨーロッパ市場から駆逐した。つづいて撚糸をヒンドゥスタンにもちこみ、ついにはこの木綿の母国そのものに綿製品を氾濫させた。一八一八年から一八三六年までに、イギリスのインドへのモスリンの輸出は、一八二四年には一〇〇万ヤードたらずであったが、一八三七年には六四〇〇万ヤードをこえた。しかし同時に、ダガー(インドの綿業都市)の人口は一五万人から二万人に減った。だが、このように織物製品で有名なインドの諸都市が衰退したことも、けっして、いちばん悪い結果ではなかった。イギリスの蒸気力と科学とが、ヒンドゥスタンの全土にわたって、農業と手工業との結合をくつがえしてしまったのである。
 これらの二つの事情― 一方ではインド人が、東洋のすべての国民と同じく、大公共事業の世話という農業および商業の第一条件を中央政府にまかせたこと、他方ではインド人が国中にちらばっていて、農業と手工業との家内的結合によって小さな中心をかたちづくっていたこと―これらの二つの事情は遠い昔から、独特な性質をもった一つの社会制度―いわゆる村落制度を生み出していた。この制度の特殊な性格については、インド問題にかんするイギリス下院の古い公式報告のなかにある次の記述から察することができよう。

「村は、地理的にみれば、数百か数千エーカーの耕地と荒地からなる一地域であり、政治的にみれば、自治体か町村に似ている。その役員と吏員とは、正常ならば、次の種類のものから編成されている。ポタイルすなわち住民の長、彼は村の事務を一般に主宰し、住民の争いを解決し、警察事務にあたり、村内の租税の徴収という任務を果たす。この徴税の任務は、彼が個人的影響力をもち、人民の事情や業務をこまかく知っているので、もっとも適任なのである。カルナムは耕作の記帳をし、耕作に関係あるすべてのことを記録する。タリアとトティ、前者の任務は、犯罪や不法行為についての情報を集めること、村から村へと旅する人を護衛、保護することであり、後者の職分は、もっと村に直接かぎられているようで、とりわけ作物をまもったり、その計量をたすけることにある。貯水池と用水路の管理人は、農業用の水を分配する。ブラーフマン、村の礼拝をおこなう。学校教師、村の子に砂の上で読み書きを教えているのがみうけられる。暦をつかさどるブラーフマン、すなわち占星師など。このような役員と吏員とで村の管理機構を編成しているのが普通である。しかし、この国のある地方では、これがもっと小規模で、上記のいくつかの任務や職能を一人の人間が兼ねているし、反対に他の地方ではそれがまえにあげた人間の数よりも多い。こういう単純なかたちの自治体政府のもとに、この国の住民は太古このかた暮らしてきているのである。村の境界はめったに変わらなかった。村そのものは戦争や飢饉や病気で時にそこなわれ、荒廃しさえしたけれども、同じ名称、同じ境界、同じ利害、いや同じ家族までが、幾世紀となくつづいてきたのである。住民は王国が瓦解しようと分裂しようと気にかけなかった。村がそこなわれないかぎり、住民は、村がどの権力のもとに移されようが、どの支配者に属そうがかまわなかった。村の内部の経済は、変わることなく残っている。ポタイルは依然として住民の長であり、依然として小裁判官ないし治安判事として、また村の徴税人ないし小作料徴収人として行動しているのである。」

これらの小さな固定したかたちの社会組織は、イギリスの徴税官やイギリスの兵士の野獣のような干渉のためというよりも、イギリスの蒸気力やイギリスの自由貿易の作用によって、大部分解体されたし、消滅しつつある。これらの家族共同体は家内工業に基礎をおいていた。すなわち、手織り、手紡ぎ、手耕農業の独特な組合せが、これらの共同体に自給自足の力を与えていたのだが、それに基礎をおいていたのである。イギリスの干渉は、紡績工をランカシアに、敷布工をベンガルにとわけへだてたり、あるいはインド人の紡績工と敷布工とを共に一掃したりして、この小さな半野蛮、半文明の共同体の経済的基礎を爆破して共同体を解体させ、じつは唯一の社会革命を生みだしたのである。

ところで、この無数な家父長的で無害な社会組織が解体され、各構成単位に分解され、苦難の海になげおとされ、その各成員が古代そのままの形態の文明と伝来の生活手段とを同時に失うのをみることは、人間感情にとって胸いたむものではあるにはちがいないけれども、われわれは、これらの牧歌的な村落共同体がたとえ無害にみえようとも、それがつねに東洋専制政治の強固な基礎となってきたこと、またそれが人間精神を迷信の無抵抗な道具にし、伝統的な規則な奴隷とし、人間精神からすべての雄大さと歴史的精力を奪ったことを、忘れてはならない。みすぼらしいいくらかの土地にとらわれ、いくつ帝国が滅びても、度をこえた残虐行為がおかされても、いくつもの大都市の全住民が虐殺されるということが起こっても、平然とこれらを傍観して、自然現象にたいするほどの関心しかよせず、みずからも、目をつけられたら最後、まちがいなく侵略者の無力な餌となった、このような野蛮な利己主義を忘れてはならない。この人間的尊厳を知らない、停滞した、十年一日のような生活、この受動的な生き方が、他方では対照的に、乱暴で、盲目的で、とどまるところを知らない破壊力をよびおこし、ヒンドゥスタンでは殺人をさえ宗教上の祭式にしたことを、忘れてはならない。これらの小さな共同体がカーストの差別や奴隷制という汚点をもっていたこと、これらの共同体が人間を環境の支配者にたかめるのではなくて人間を外的環境に隷属させたこと、これらの共同体がみずから発展してゆく社会状況を、けっして変化しない自然の運命に変え、こうして人間性を失わせる自然崇拝、それも自然の支配者である人間が猿のハヌマンや牝牛のサッパラにひざまずいて礼拝する事実に示されるほど堕落した自然崇拝を、もたらしたことを忘れてはならない。

なるほどイギリスがヒンドゥスタンに社会革命をひきおこした動機は、もっともいやしい利益だけであり、その利益を達成する仕方もばかげたものであった。しかし、それが問題なのではない。問題は、人類がその使命を果たすのに、アジアの社会状態の根本的な革命なしにそれができるのかということである。できないとすれば、イギリスがおかした罪がどんなものであるにせよ、イギリスはこの革命をもたらすことによって、無意識に歴史の道具の役割を果たしたのである。

だから、古代世界がくずれおちる情景が、われわれの個人的感情にはどんなに悲痛であるとしても、歴史の立場からすれば、われわれはゲーテとともに、次のように叫ぶ権利を持っている。

「この苦しみがわれらの快楽をますからには、
どうしてわれらの心を苦しめよう。
ティームールの支配も、
無数の命を滅ぼしたではなかったか?」

[“Sollte diese Qual uns qualen,
Da sie unsre Lust vermehrt,
Hat nicht Myriaden Seelen
Timurs Herrschaft aufgezehrt?”]

*  ゲーテ『西東詩集』所収「ティームールの書」中の「ズライカに」から。

 

(121) リンガの宗教(性器崇拝)―シヴァ神の礼拝。南インドのリンガ宗派(「リンガ」―男性器―はシヴァの表象)のあいだにとくにひろまっていった。ヒンドゥー教の一宗派で、カーストの差別を認めず、断食、いけにえ、巡礼を拒否している。
 ジャガナート(ジャガナウト)―ヒンドゥー教の主神のひとりであるシヴァ神の化身の一つ。ジャガナートの礼拝は、特別壮麗な儀式とはなはだしい狂信とを特徴としている。この狂信は、信者がみずから去勢し、いけにえとなることに現れていた。大祭日には、信者は、ヴィシェヌ‐ジャガナートの神像をのせた山車の轍の下に身を投げた。

(122) ムガル―トルコ系の征服者で、十六世紀初頭に中央アジア東部からインドに侵入し、一五二六年にインド北部大ムガル帝国(この帝国を支配した王朝は大ムガル朝とよばれた)を創立した。同時代に人々は、ムガル帝国の創立者たちを、チンギス・カーン時代のモンゴールの征服者の直接の子孫と見なしていた。「ムガル」という名まえもここから出てきた。ムガル帝国は、十七世紀中葉にインドの大部分とアフガニスタンの一部を征服してから、とくに強大になった。農民蜂起、回教徒の征服者にたいするインド諸民族の反抗の増大、たえまない内訌、封建的な分離主義的傾向の増大、これらはムガル帝国の崩壊をもたらし、十八世紀の前半には同帝国は事実上存在することをやめた。
 七王国分立―七つの独立の部分に分裂した国のこと(たとえば、六世紀から八世紀のアングロサクソン時代の古代イングランド)。ここでは、マルクスはこの表現を類推的に、回教徒の征服依然のデカン(インド中部および南部)の封建的割拠状態をさすのに使っている。

(123) ボンベイ地方のサルセット島は、一〇九の仏教洞窟寺院の存在で有名である。

(124) 自由放任― マンチェスター学派、すなわち自由貿易の自由主義的な経済原則。彼らは、自由貿易と、経済問題への国家の介入とを主張していた。


 コピペ元; 大月書店、マルクス=エンゲルス全集 第9巻、1962年、「イギリスのインド支配」、鈴木正四 訳。なお、鈴木正四のwiki。

 
Amazon

マルクスに「イギリスのインド支配」という文章がある。1853年6月25日に米国のニューヨーク・デイリー・トリビューンという新聞に寄稿したものだ。この1853年6月というのは、マシュー・ペリー率いる米国東インド艦隊が、琉球経由で、浦賀に来た頃。

文明的に遅れたインドはイギリスに破壊されれることによってより文明的な社会になれるといったこの西欧自己中心主義的思想について、日本では結構昔から一般書において紹介されている。

おいらの知る限り、例えば、岩波新書では2冊ある。蝋山芳郎、『インド・パキスタン現代史』(1967年)、遠山茂樹、『明治維新と現代』(1968年)。しかし、これらの本において、マルクスがイギリスの帝国主義を歴史的必然として肯定することには言及していないし、マルクスを非難することもしていない。

学術的にはマルクスのインド論は「アジア的生産様式」論争として研究されてきた。例えば、おいらは、小谷汪之、『マルクスとアジア』(1979年)(Amazon)をみたことがある。小谷汪之もマルクスを帝国主義者よばわりしていない。

一方、このマルクスの「イギリスのインド支配」が、より盛んに、日本で言及されるようになったのは、1990年代以降で、その理由はE. W. サイードの『オリエンタリズム』(1978年、邦訳1986年)のせいである。そのE. W. サイードの『オリエンタリズム』で「イギリスのインド支配」のマルクスの言説をロマン主義的オリエンタリズムと解釈している。サイードがこの「イギリスのインド支配」を有名にした。こういうわけで、現在、マルクスの「イギリスのインド支配」の全文を知りたい人というのは、サイードの引用文献として全文を確かめたい人だと思われる。

例えば、サイード経由のマルクス、「イギリスのインド支配」への言及として、柄谷行人の次の発言がある(【共同討議】伝統・国家・資本主【共同討議】伝統・国家・資本主義、 西部邁、福田和也、浅田彰、柄谷行人、「批評空間 II-16」1998);

柄谷 (前略)確かに、現在は、アメリカが規制緩和・自由化を要求して、世界中に圧力をかけている。しかし、その場合、アメリカがどうこうやっているとか言っても仕方がない。例えば、イギリスがインドを植民地にしたことについて、マルクスはやむをえないと言う。サイードはマルクスよ、お前もか、と怒っているけれど(笑)。
浅田 資本主義は世界を呑み込んでいくけれども、それに伴って「資本の文明化作用」も働くことになる。これがマルクスの弁証法でしょう。ある段階でイギリスがその先端を担ったけれど、後には没落した。今の段階ではアメリカがその先端を担っているけれど、後でどうなるかわからない。ともあれ、で問題は資本主義であって、イギリスやアメリカではない、と。
柄谷 そうですね。そこにどうしようもなく旧来の共同体を変えてしまう力が働いているわけで、それが貨幣経済です。(以下、略)

資本による伝統的社会の破壊は必然的なものとみる立場だ。この思想的立場だとアメリカによるヴィエトナム戦争は肯定されることになる。

一方、サイード経由のマルクス、「イギリスのインド支配」をおかずにして、文明論に言及しているのが、西川長夫。西川長夫、『国境の越え方』, 1992年。

西川は、マルクスのインド一連のインド論について、「マルクスの署名がなければ、われわれ読者は、西欧のもっとも露骨で恥知らずな植民地主義者の文章だと思うだろう」と云う。しかし、「もちろんマルクスは植民地支配を擁護しているのではなく、歴史的事実と歴史的必然について述べているのである」と云う。イギリス帝国主義、あるいは資本主義が他文明を征服することが歴史的必然であると判断するのは帝国主義のイデオロギーである。

そして、西川は云う;「それに、このようにテクストの一部を抜き出してそれが全体の論調であるかのような論じ方をしてはならないだろう」。

なので、マルクスの「イギリスのインド支配」の全文をコピペして見られるようにした。

 


新しい街でもぶどう記録;第242週

2019年06月29日 18時48分54秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫

■ 今週のよその猫

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の花

■ 今週のもったいない本舗


https://www.mottainaihonpo.com/


キャラが桃太郎と鬼。2月の節分の絵柄を知りたい。

■ 今週の百科事典的な知識


商品化される精霊馬。

横浜に来て気づいたことは、7月にお盆用品を売っている。ネット調べると、「東京」は7月にお盆をやる地域があるとのこと。

■ 今週のマイナーページのアクセス

投稿した時は何ら振り返られなかったページが突発的にアクセスされことがよくある。

https://blog.goo.ne.jp/ikagenki/e/199231a5f9885d19243d8af15b316ff2

■ 今週のアイコン


石田英一郎。男爵であり、アカでもあった[1] [wiki]。そんな彼のためのアイコンを先週見つけた;

[1] 石田英一郎の共産主義への傾斜は高校時代に始まり、抜群の頭脳で理論を深めるとともにセツルメント運動(貧困地区に支援拠点を作る運動)にも加わった。(中略)
 一九二五(大正十四)年、石田英一郎が二十二歳になる年、父が亡くなり、男爵を襲爵する。石田はこの時点では日本共産党にまだ入党していないものの、爵位を持つ共産主義者となったわけである。極めて希な例といわねばならない。 (呉智英、『吉本隆明という「共同幻想」』)


http://www.redbaron.co.jp/

■ 今週の挟撃


挟撃される日本

■ 今週の「傍観者」への言葉

もし日本が攻撃されれば我々は第3次世界大戦を戦うことになり、命を懸けて日本を守る。しかし、もし我々が攻撃されても日本は我々を助ける必要はまったくない。彼らはソニー製のテレビでそれを見るだけだ」 (google

■ 今週のソニー製で見た

日米安保条約は、総合的にみて、双務的である。日本は駐兵権(基地使用)、金、そして主権を米国に渡している。在日米軍は治外法権を享受できている。ただし、トランプ大統領が不満に感じるように、軍事的には片務的である。なるほど、米軍が攻撃されても必ずしも日本は武力行使化活動をするわけではない。もっとも、この前できた「国際平和支援法」及び「平和安全法制整備法」で何らかのことはする可能性はある。

さて、日本の義務である基地提供の米軍の実情を、日本国内にありながら、テレビではみることはできない。なぜなら、自由に取材できないからだ。

53年前の米軍基地の内情の光景がネットにあった。横浜の(現在)港北区の岸根にあった米軍病院[2]の中のことである。

[2]・ 今の岸根公園の場所には、1973年(昭和48年)に返還されるまで、米軍施設があった。

日本側の呼称は「岸根兵舎地区」。あった施設は、「第106総合病院」。

この岸根の米軍に関するネットでの日本人による情報は少ない。一方、当時、実際にその中にいた人の情報はネットに結構あると気づいた。

そのひとつ。上記ソニー製PC画面に映る米国人女性は二十歳なのだという。

アトランタのハイソな家のお嬢様。二十歳で学生結婚。夫がベトナムに従軍。自国軍のナパーム弾でやけど。ベトナムから日本へ。横浜の岸根の米軍病院に入院。その病院にアトランタから来たのだという。その彼女は病院で傷病兵たちの話を(ナイチンゲールのように)聞いてあげて過ごした。話の過酷な内容に精神的につらくなる。そして、東京へ出かけた。精神的につらくなっているところへ東京の庭を見て、感動したという。それが、彼女がのちにアトランタにGARDENS FOR PEACEをつくる動機だという。ネットの下記サイトに書いてあった;

Sowing seeds for peace、Experience with wounded vets during Vietnam war inspires a global movement.

上記の翻訳

合計 6,027 2,228
日付 閲覧数(PV) 訪問者数(IP)
6月22日 715 296
6月23日 744 306
6月24日 668 260
6月25日 1,311 415
6月26日 918 325
6月27日 821 316
6月28日 850 310

横浜散歩;新横浜駅 ⇒ 横浜駅

2019年06月23日 16時30分00秒 | 東京・横浜

新横浜駅から横浜駅まで散歩した。下末吉台地を縦断して、新横浜駅のある谷底低地から横浜駅のある低地まで歩く。岸根公園と三ツ沢公園に行ったことがなかったので、この散歩経路とした。


1: 新横浜、2:岸根公園、3:片倉町、4:三ツ沢公園、5:横浜駅

■ JR新横浜駅 → 岸根公園


JR新横浜駅。事実上の「裏口」の篠原口。

新横浜駅は東海道新幹線開業当時「こだま」しか停車しなかったと今知った。新幹線の全営業列車が当駅に停車するようになったは、実に、2008年とのこと(wiki)。

上wikiに「開業当時、当駅周辺は一面の田園地帯」であったとあるように、JR新横浜駅の北側は平坦。現在の鶴見川の流域は縄文海進期には海面より低く、堆積作用が生じ、谷が埋められた。その後の海退で現在は平坦。

駅の南側から下末吉台地域となる。そちらへ進む。


横浜上麻生道路に出る。

岸根公園は平坦である。よく見ると、土地が低い。つまり、掘り込んで、平にしてある。
これは、公園となる前の施設の造成の結果と思われる。

今の岸根公園の場所には、1973年(昭和48年)に返還されるまで、米軍施設があった。

昭和30年(1955年)4月と10月の2回にわたり、中心市街地に散在していた米軍兵舎など3施設を、岸根の公園用地(約13.の場所4ヘクタール)へ移転、集約させました。政府は地元の反対運動を押し切り昭和32年に工事を完成させます。こうして作られたのが、岸根兵舎地区(FAC-3165、Kishine Barracks)でした。当初は市内在勤下士官・兵の宿舎でしたが、韓国からの帰休米兵の休養施設としても利用されました。 ところが、ベトナム戦争の拡大に伴い、米軍は昭和41年(1966年)12月に突然用途を変更して、在日米陸軍野戦病院(第106陸軍総合病院)を開設しました。病院は最盛期ベット数1,000、4階建て病棟を4棟も持つ大規模なもので、ベトナムから横田基地に到着した傷病兵が、毎日大型ヘリで大勢運び込まれていきました。(大倉精神文化研究所、第152回 岸根公園の接収 -終戦秘話その14-

・岸根米軍病院情報のリンク
* 朝鮮戦争とベトナム戦争時に米軍の基地があり、1966年から病院もあった。
* 神奈川のベトナム戦争(上)岸根の傷病兵たち
Kishine Barracks and the 106th General Hospital(上のリンクの人が作成した岸根米軍病院のデータ集)
* VIDEO: MASH surgeon, patient, connect after 49 years(ベトナム戦争のテト攻勢の戦闘で負傷し、岸根に運ばれて来た兵士の話)
*U.S. Military in Japan During Vietnam War, 1967-68年、衛生兵だった人の文章。 (白楽のアパートに住んで、実りある19か月間だったという。ヴィエトナム戦争中日本で暮らした経験者のコメントを求めている。返答1つ。)
* Google [the 106th General Army Hospital, Kishine Barracks同画像]
* Google [the patients at Kishine同画像]

公園には米軍病院の痕跡は全くみつからなかった。

↓ 公園を出る。

■ 岸根公園 ⇒ 六角橋 ⇒ 神大寺 ⇒ 片倉町 ⇒ 新横浜通り ⇒ 横浜新道


岸根公園から斜面を下る。六角橋。その先に東西に谷筋が走っている。神大寺(かんだいじ)。谷筋を通って、片倉町。南北に走る谷筋と交差する。横浜新道に出る。谷筋を南に下る。三ツ沢の大きな谷底平地に出る。


プライムアヴニュー横浜白楽II[web site]、5,380万円~。六角橋にあるのに、横浜白楽
詐称ではないのか? 

■ 三ッ沢上町交差点 ⇒ 三ッ沢公園 ⇒ 軽井沢 ⇒ 浅間下


誰なんだお前?と思わせるポスター。


何やら建設中と思い画像取得。


三ツ沢公園前交差点。新横浜通りを渡る歩道橋から。


さっき遠目に見た建設中の建物。市立病院だって。完成予想図↓。


平沼さんの像 wiki


南側から三ツ沢公園を出る。外周を通って、北に行って、西側へ坂を下る。


外周道路から三ツ沢公園を見る。


市立病院。


さらに坂を下って、国道1号に出る。


再び三ツ沢公園に入る。そして、出る。


見える信号を右折。


下末吉台地を下る。

 

■ 浅間下交差点付近 ⇒ 岡野


海の方へ。

この先、横浜駅。画像なし。

おしまい。

● まとめ

下末吉台地は、やはり、相当開析、浸食が進行していて、台地平坦部はほとんど残っていない。三ツ沢公園くらいか。谷筋の平坦部に市街地が集中。斜面は段々にして住宅があるという典型的横浜の風景。


新しい街でもぶどう記録;第241週

2019年06月22日 19時13分12秒 | 草花野菜

 

■ 今週の看猫

■ 今週のよその猫


横浜市神奈川区六角橋、Kazemaru Factory

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の病床数


建設中の横浜市立病院、横浜市神奈川区

2020年5月に「生まれ変わる」横浜市立病院の病棟数は650床とのこと。この650床という数字をこのあとのため頭に入れておいてほしい。

■ 今週の「軽井沢」


横浜市西区

■ 今週の下末吉台地


下末吉台地(右奥)のまわりは開析されて斜面あるいは急崖となっている。その斜面の崩壊を防ぐためコンクリートで覆っている。左奥はランドマークタワー。

■ 今週の花

■ 今週のレコンキスタ史跡探訪


岸根公園。横浜市港北区。1973年(昭和48年)に返還されるまで、米軍施設であった。日本側の呼称は「岸根兵舎地区」。あった施設は、「第106米陸軍総合病院」。


横浜市港北区岸根町の公式webサイト、岸根の歴史より

Kishine Barracksの日本語訳は岸根兵舎。 barrack/sって日本語のバラックと意味が違うと今週知った。Google[barracks, 画像]

岸根地区は敗戦直後に米軍が進駐してきた施設ではない。敗戦直後、横浜港近くの市街は広く接収され、米軍が駐屯した。一方、岸根地区に、突然、米軍高射砲陣地がつくられたのは1951年。朝鮮戦争が始まったからだ。そして、岸根地区が大きく米軍に利用されるようになったのは1955年(昭和30年)。米軍人用の兵舎として。すなわち、上記の横浜港近くの市街の接収が講和条約で解除になったせいで、新たに、岸根に米兵の居場所を移した。さらに、その後、兵舎が陸軍病院となった。1965年(昭和40年)。ベトナム戦争の後背援護施設だ。その陸軍病院の規模は大きく、最盛期には病床が1000を越えた。この病床数1000を上記の新生横浜市立病院の病床数650と比べれば、規模の大きさがわかる。つまり、1968年頃、ベトナム戦争が最も激しかった頃、1000名を越える傷病兵がベトナムからここに担ぎ込まれてきたのだ。


画像出典:http://www.usamcja.com/command_units.htm

▼この岸根の米陸軍病院に運び込まれた人の話をネットでみつけた;


‘The Marine on The Tank’ during the battle of Hue. (出典

Stars and Stripes photographer John Olson captured this image, with A.B. Grantham in the foreground. The photograph became known as ‘The Marine on The Tank’ during the battle of Hue. The picture ran in Life magazine and other publications around the world. JOHN OLSON PHOTO 

1968年1月30日に始まったテト攻勢でフエの戦いでの写真。最初ネットで見た時、映画かと思った。この写真は、 John Olson という写真家のもの。負傷しているのは海兵隊員Alvin Burt Grantham。18歳。胸を撃たれた。

この後、フバイのMobile Army Surgical Hospital (MASH)で手術を受け、のち日本に運ばれる。A.B. Granthamの2016年の元気な姿は上記出典のweb siteに出ている。

▼▼ 岸根の米陸軍病院の詳細な情報がweb siteで公開されている。

Kishine Barracks and the 106th General Hospital

この詳細なデータ集をつくったのは、William Wetherall、ウェザロール・ウィリアムという人で、1965年(昭和40年)のthe 106th General Hospital、第106総合病院の立ち上げに携わったと云っている。今は、日本人だという。

そのウェザロール・ウィリアムという人の記事; 神奈川のベトナム戦争(上)岸根の傷病兵たち  がネットにあった。

■ 今週の黄帽の人たち


岸根公園、横浜市港北区。

集計日 2019年6月22日 集計期間
     
合計 4,827 1,973
日付 閲覧数(PV) 訪問者数(IP)
6月15日 712 315
6月16日 680 266
6月17日 764 304
6月18日 743 326
6月19日 582 233
6月20日 712 273
6月21日 634 256

 

 

 


新しい街でもぶどう記録;第240週

2019年06月15日 17時56分06秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫

 

■ 今週の「現職日本首相イラン訪問41年ぶり、革命後初」

革命前のイランは世俗国家だったんだよね。ネットで拾った画像;



Google画像

イラン世俗国家時代関連記事;①A piece from Tehran; ジャクソン・ポロック展、②今週のイラン地下秘蔵物

pre-Islamic past という語句を採取した。このpre-Islamic pastとは1979年の革命以前ということではなく、イスラム教に「毒」される前のペルシア文明のこと。

Google
Google 画像
Google [pre-islamic past iran zoroastrian]、[同画像]

1979年のイラン宗教革命でホメイニが、反米なのは当然として、ソ連にも共産主義を捨てよ!と云っていた。その当時は現実的でないように思われた。ただし、YM(ヤルタ・ポツダム)体制打倒を夢想していた中二病のおいらには、こんな国があるのかと驚いた。もちろん、その10年後ソ連が崩壊するとは予想もしなかった。

今の人は知らないだろうけど、イギリス、トルコ、パキスタン、イラン、イラク、(アメリカ;オブザーバー)の軍事同盟があったのだ(wiki 中央条約機構)。おいらも今知ったよ。イラン革命で破綻。
(SEATOも今はない。なので、在日米軍 since1945って sustainable だよな)

反米化したイランをつぶすために米英がイラクをてこ入れして、イラン・イラク戦争となった。そして、そのイラクのその後の運命は周知。

これは、ロシアのアジア進出をつぶすため米英が日本に肩入れ。日露戦争(関連記事:他人の褌(ふんどし)を自分になじませた頃)。その後、台頭した日本を、結局、米国がつぶすという図式。そして、冷戦終結後、日本の経済力を削ぐため中国に肩入れした米国の戦略と同じ。そして今、米国は、中国が台頭したのでつぶしにかかっている。分断・統治戦略だよね。

<安倍晋三首相のイラン訪問に対して、イランの地元紙が原爆の写真を掲載して「どうして米国を信じられるのか」と報じた> google

その画像を探したので、貼る;

A war criminal だって。

おれたちは、たくさん(war criminals )だからさぁ;

■ 今週の蛇足;「どうして米国を信じられるのか」

原爆はやむをえない ⇒ YouTube

■ 今週の「官軍」;属領軍の女性隊員を暴行

Google[米海兵隊員ヒル・カウサイ・タイリー容疑者]

*現世の官軍は在日米軍;

「"皇軍"は、在日米軍に頼んであるから、大丈夫!(愚記事

本軍と属領軍の格差

集計日 2019年6月15日 集計期間
     
合計 4,677 2,000
日付 閲覧数(PV) 訪問者数(IP)
6月8日 750 303
6月9日 720 326
6月10日 613 256
6月11日 631 253
6月12日 664 286
6月13日 662 283
6月14日 637 293

 


東京散歩;武蔵小杉駅 ⇒ 豪徳寺駅

2019年06月09日 15時44分53秒 | 東京・横浜

武蔵小杉駅(神奈川県川崎市)[JR南武線、東急東横線]から豪徳寺駅[小田急小田原線]まで散歩した。今まで多摩川の大きな橋として、新二子橋(該当ブログ記事)、多摩水道橋(該当ブログ記事)を渡る散歩をした。でも、下流の丸子橋はまだ渡ったことがないので、今回行くことにした。

 


元図(松田磐余、『江戸東京・横浜の地形』より)
赤丸=出発地点の武蔵小杉駅、緑丸=終点の豪徳寺駅。
武蔵野台地はその中にいくつかの「台」を持つ。その「台」は形成時代が異なる。
図中の「田園調布台」、「荏原台」、「淀橋台」はその地形の表面が下末吉面(図中でS)である地域。
大きく下末吉面をもつのが多摩川の南側の「下末吉台地」。これら下末吉面をもつ台、台地は東京ー横浜地域で最も古い地形的まとまり。約10万年前に形成されてから、ずーっとあり、風雨にさらされてきている。
元もと「田園調布台」、「荏原台」、「淀橋台」は一体の台地であったはずだが、(古多摩)川に開析され分断されて今に至っている。つまり、「田園調布台」、「荏原台」、「淀橋台」は生き残りということ。その中で、「田園調布台」は小さい台。かすかに生き残っているのだ。今日はその「田園調布台」を通って散歩する。

■ 武蔵小杉 ⇒ 多摩川渡河(丸子橋)⇒ 多摩川台地公園

 


北上。


多摩川を目指して、ひたすら北上。


多摩川河川敷の通りに出る。


振り返って、武蔵小杉をみる。


丸子橋。


黄色○:散歩ルート。
田園調布台は南北に大きな開析谷ができている。図中Aの左右。
多摩川台公園の多摩川側の崖は国分寺崖線の末端とのこと。
田園調布は駅の西側は放射道路と円周道路からできている。地図でわかる。そして地形的には駅の周辺のみが平坦で駅から離れると傾斜がある。その傾斜は台地に刻まれた谷すじ(図中Aの左)へ向かっている。

■ 多摩川台公園を出たあと ⇒ 田園調布 ⇒ 環八


傾斜しているこの地域の特徴を使って公園としている。


放射状道路。


円環道路。北 or 田園調布駅から離れるに従い低くなっている=坂道。

■ 環八 ⇒ 奥沢 ⇒ 自由が丘


東急目黒線を渡り、北上。


自由が丘。生まれて初めて来た。


東急大井町線。


自由が丘駅。このあたり地形区分は氾濫平野 or 谷底平地(=河川の氾濫により形成された平坦地または過去の海底が陸化した平坦地)とのこと(ソース)。


ひたすら北上。

■ 自由が丘 ⇒ 八雲・太鼓坂 ⇒ 駒沢公園


目黒通りを渡り、北上。


八雲三丁目から北を望む。大きな谷がある。坂を下り、そして登らないといけない。太鼓坂。


呑川緑道。太鼓坂の最底辺=谷底。この谷底を流れていた呑川を暗渠にして、緑道にしたらしい。


太鼓坂の北側坂を登り切り、振り返る。


北上し深沢へ。樹木に覆われた御屋敷を見る。帰って、ググって、上から見た↓。


駒沢公園に入る。


自由が丘ー駒沢公園付近の地形。自由が丘は低い(相対的に)土地にある。
自由が丘より下(南)の地域は「田園調布台」。一方、駒沢公園は「荏原台」となる。
「田園調布台」と「荏原台」の間に武蔵野面の地域があるはずだが、どこなのか詳細がわからない。
自由が丘がある相対的に低い場所が武蔵野面なのかわからない。
それにしても、おいらが初めて来た自由が丘は「窪地」にあると知る。麻布十番かってかんじ。

■駒澤公園 ⇒ 駒澤1丁目、首都高3号線交差点付近


駒澤公園を出る。駒澤大学。


案内、でかい。

■ 駒澤 ⇒ 世田谷駅 ⇒ 豪徳寺 ⇒ 豪徳寺駅


北上。


世田谷駅。


豪徳寺。

招き猫のところは人が数人したが、みんな華人さまたちだった。


北上。


東急世田谷線。

■ まとめ

通過町;

神奈川県
川崎市 新丸子東、新丸子町、丸子通、上丸子天神町
<多摩川>
東京都
大田区 田園調布、玉川田園調布、奥沢
目黒区 自由が丘、八雲、
世田谷区 駒沢、鶴巻、世田谷、豪徳寺


新しい街でもぶどう記録;第239週

2019年06月08日 18時06分23秒 | 草花野菜

■ 今週のよその猫

■ 今週のよその猫たち


豪徳寺。都内世田谷区。

■ 今週のボッチ猫

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の道産子


川崎市新丸子。

■ 今週の日本の変わらない風景


東京駅の修学旅行の生徒

■ 今週の日の丸

■ 今週の 虫取り  


ラクロス だって。初めて見た。多摩川河川敷。

■ 今週の廃省の残り


内務省。 多摩川治水記念碑

■ 今週の惹句


「金を刷れ、皆に配れ」。最初、遠目にファシストのポスターかと思った。

■ 今週の段丘崖


多摩川を渡って、下末吉面の台地(荏原台 or 田園調布台)への崖。

■ 今週の坂


太鼓坂。都内目黒区。

■ 今週の30周年


愚記事: 四半世紀が変えたもの、あるいは、あの日ホメイニも死んだ

■ 今週の孝子;卒塔婆を運ぶ少年


豪徳寺

■ 今週の草木花実

■ 今週の「そういう時期」


小田急鶴川駅で和光大学と国士舘大学のオープンキャンパスの案内をしていた。

集計日 2019年6月8日 集計期間
     
合計 6,034 2,264
日付 閲覧数(PV) 訪問者数(IP)
6月1日 1,070 375
6月2日 1,097 390
6月3日 882 310
6月4日 851 353
6月5日 876 345
6月6日 610 217
6月7日 648 274

 

 

 


江藤淳自身が「国が、無条件降伏」したと云っている(1965年)

2019年06月02日 18時49分41秒 | 日本事情

江藤淳の伝記での大きな出来事のひとつが本田秋五との「無条件降伏論争」である。1978年(昭和53年)。

wikipediaにはこう書いてある;

1978年、文芸評論家の江藤淳と本多秋五の間で「無条件降伏論争」が行なわれた(江藤『全文芸時評』『もう一つの戦後史』、『本多秋五全集』第13巻)。論争は文学者間で行われたもので、日本の降伏の本質の捉え方と野間宏ほかに代表される戦後文学をどう評価するかの二点が問題となった。降伏について、江藤はポツダム宣言にある条件を受諾した降伏であるから無条件降伏ではなく、宣言中にある無条件降伏は日本国軍隊についてのみであるから、無条件降伏したのは日本国ではなかったと主張した。本多はカイロ宣言にあった日本国の無条件降伏の思想はポツダム宣言にも通底していたとし、「大括弧でくくられる『無条件降伏』の思想と小括弧でくくられる『有条件降伏』の方式とが同時に存在する」と主張した。

この論争に関し、加藤典洋は彼の著『アメリカの影』で江藤がかつて「日本は無条件降伏した」と自ら書いていると指摘した;

 たとえば江藤淳は、なぜ一九七四年に自ら「日本は無条件降伏した」と英文の著作に明記し、平野謙の文学史の記述に見られる、彼のいう「重大な事実の誤認」を彼自身犯しながら。それを隠してまで、あのような形での「問題提起」にこだわらなくてはならなかったのか。 (『アメリカの影』 p197)

加藤がこういう指摘をしたことは、平山周吉、『江藤淳は甦る』で知った。

一方、さっき、おいらは見つけた。別に英文でもなんでもなく、単行本に書いてある;

(前略)その意味で、大江氏の文学はまぎれもない「戦後」の文学である。つまり、満洲事変以来十五年つづいた大戦争のあげく、三百万余の犠牲者を出して無条件降伏し、今なお外国の政治的・軍事的・文化的影響下にある国の文学である。 (解説 自己回復と自己処罰 -『性的人間』をめぐって-、1965年9月7日)

この解説は、講談社、DeLuxe われらの文学 18 大江健三郎 (1969年、昭和44年刊) の巻末の江藤の解説文である。(いま、DeLuxe デラックス!にびっくりした。デラックスって死語だよね ググったら結構使われていた。)あるいは、『江藤淳著作集 続3 作家の肖像』の"大江健三郎 I 自己回復と自己処罰"。

満洲事変以来十五年つづいた大戦争のあげく、三百万余の犠牲者を出して無条件降伏し、今なお外国の政治的・軍事的・文化的影響下にある

「日本は無条件降伏した」とは直截には書いてないが、国(=日本国)の属性として①三百万余の犠牲者を出して無条件降伏した、②今なお外国の政治的・軍事的・文化的影響下にある、と書いている。「日本国は無条件降伏した」という判断を含んでいる。

つまり、満洲事変以来十五年つづいた大戦争のあげく、三百万余の犠牲者を出して自国の軍隊が無条件降伏し、今なお外国の政治的・軍事的・文化的影響下にある国の文学である。 とは書いてない。

江藤淳は「日本国無条件降伏論」者であったのは間違いない。さらには、「大戦争」という語句も注目すべきである。なぜなら、あの戦争をどう呼称すべきかということ自体が歴史観を表明してしまうからだ。のち江藤の常套句、「過ぐる大戦」(平山周吉、『江藤淳は甦る』、江藤好みは「過ぐる大戦」)ではないのだ。

なので、1965年-1974年の間に転回があったのだ。江藤が戦後批判を始めるのは1968騒動と同期している。
「もっと崩れろ!」の話だ。

それにしても、本田秋五のまわりには、「江藤自身が昔、日本は無条件降伏したと云ってましたで」と情報提供してくれる人がいなかったのだろうか?

ということで些細なことだが、曇天の日曜、のんべんだらりんと本をみてたら、発見! うれしくなり、ブログに書いた。

 


新しい街でもぶどう記録;第238週

2019年06月01日 19時23分10秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫

■ 今週のよその猫

■ 今週の武相境斜面


麦畑

■ 今週のメタセコイア

■ 今週の水面

■ 今週の草木花実



■ 今週のB-29の来なかった街


Google [トランプ大統領 横須賀 訪問]

横須賀は、もちろん、日本海軍の最大級の軍港であった。先の大戦ではいくども空襲は受けた。ただし、軍港設備や市街を大規模に破壊する戦略爆撃は受けていない。なぜか?多くの人が気づき、おいらも考えるには、戦後の米軍による利用を見越した上で、「温存」したのであろう。

横須賀は市街地を焼き払う絨毯爆撃を受けることはなく、東京や横浜市や川崎市などといった大都市と比較して人的にも物的にも小規模の被害に留まったが、終戦後に周辺施設を視察したアメリカ海軍のチェスター・ニミッツ元帥やウィリアム・ハルゼー大将は、横須賀の爆撃被害が軽微であり素早く修理し使用できることを知り喜んだと伝えられている wiki

なお、敗戦後GHQの司令部となるビルなどがある有楽町ー丸の内(ブルジョア村)も戦災による完全破壊から免れている。これも米軍の戦略的「温存」であるに違いない。

つまりは、(古典的)海洋国家論の重要因子の海軍基地と資本の住処が温存されたというわけだ。というと何か陰謀論のよみすぎだろうとバカにされそうだが、現実はそうなのである。ただし、この「温存」の<やつら>の意思を実証しないといけない。

合計 7,824 2,539
日付 閲覧数(PV) 訪問者数(IP)
5月25日 1,205 352
5月26日 1,114 381
5月27日 1,163 350
5月28日 998 365
5月29日 1,311 370
5月30日 1,033 354
5月31日 1,000 367