いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

京都 たわし屋

2005年11月27日 20時27分43秒 | 国内出張・旅行


京都 たわし屋。

京阪、三条駅そば。

■自民党50年。

結党に吉田茂や佐藤栄作は参加していない。宮沢喜一も参加しなかったらしい。池田勇人や大平正芳については、おいらは知らない。宮沢(子分)が参加してないなら親分の池田も参加してないのかもしれない。とまれ、占領体制の精算、憲法改正を目指して結成された自民党は、のちに佐藤栄作やら池田勇人やら大平正芳やら宮沢喜一やら、占領体制での官僚出身で護憲という、「自民党の結党の主旨」にそぐわない、総理大臣を自民党は輩出してきた。保守合同の結党にも参加していないものどもが、「保守本流」とされてきた戦後というのは奇妙なものである。これは、自民党50年とは、保守や国家の仮面をかぶった占領体制の、事実上の、継続にほかならない、と考えるとよいのである。

今度の改憲でも、対米自主独立というより、むしろ、対米従属下での軍事権の回復という占領体制の純化ともいうべき結果となるだろう。


京都岩倉 実相院 2 『京都岩倉実相院日記』

2005年11月26日 18時09分02秒 | 国内出張・旅行






↑この本の表紙の写真は庭のもみじが室内の床に映った模様の写真。事実、拝観ではこの床に映った紅葉をみることができた。紅葉を映すほど木の床は磨き上げられているのであった。

『京都岩倉実相院日記』 講談社選書メチエ、管宗次

この本は、京都岩倉の実相院で最近発見された寺の日記、その日記は「坊官」によって書かれる、を紹介したものである。特に日記の幕末・維新期を本書では紹介している。坊官とは下級貴族であり、寺院の長(門主)が外出できないので、門主の耳や目、あるいは手足となり情報収集、社交を仕事とする役目である。名前は、松尾刑部。その日記は当時どのように<幕末・維新>が認識されいたのかがわかる。例えば、新撰組は「世上評判悪敷也」と書かれている。この実相院日記には新たな歴史事実発見ということは(すく)ないのだろうが、下級貴族の見た幕末・京都像が描かれている。

↓売ってた。

右に宣伝がある麻生圭子、『小さな食京都案内』はサイン本で、なぜかしら、御本人が和服を着て、社務所にいたのでした。

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実相院、春。






国立博物館、はずれ。でも、三彩釉骨蔵器

2005年11月25日 20時48分54秒 | 日本事情

国立博物館は、はずれだった。この京都の国立博物館が日本唯一ではないのだろうけど、インドのデリーの国立博物館に比べると桁がちがう。もっとも、だから早く次の目的地へと出発できたのだが。たぶん、行き場のない文化財の「貯蔵」が目的なので、思想をもって展示をするほど文化財はなく、かつ、展示しなければいけないので、散漫な感じ。

そんな中、びっくりしたのがこれ。 これはすばらしい。

奈良時代の初め、平城京の役人だった人の骨壷だって。

「もだんな抽象画のようだ」。この写真で見るのとは色合いはちがう。薄桃色と濃い緑が鮮やか。そこに、ぼと・ぼと、と茶色の「たれ」が印象的。

「奈良時代」の人もこういうのを「よい」と感じていたその感性と、現代のおいらの感性の「同じ」なことに、オドロカカレヌル。



三彩釉骨蔵器




考えてばかりじゃ、だめだぞ。
「運動」も大事だぞ。
<考えてばかりにしては、筋骨隆々。
なんでだろう。>


京都岩倉 実相院

2005年11月24日 16時10分06秒 | 国内出張・旅行


23日ははしご出張の移動日。祭日でもあるので、堂々と遊びまわる。朝8時前の京都に入り、まずは東福寺。朝はやくから、コンサートが終わってかえる人の波のよう。東福寺は京都でも南の方にあります。

その後、三十三間堂、国立博物館と行って。

出町柳から岩倉へ。岩倉は京都のまちはずれの北の方にあります。
鞍馬行きの、電車はすしづめ。
岩倉実相院もたいへんなひと。