いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

東京散歩:荻窪駅 ⇒荻外荘・近衛文麿邸 ⇒浜田山駅

2024年03月12日 06時07分52秒 | 東京・横浜

3月末で西の街に引越することになり、東京で行ったことのない場所にいくことにした。荻外荘(近衛文麿邸)は行ったことがなかった。現在、工事中であることは知っていたが、工事中でもいいので見に行くことにした。その後、南下して浜田山に抜けた。浜田山も行ったことがなかった。別に名所があるわけではないのだが。ただし、住宅街の鑑賞をした。郊外の住宅街と違って大型ショッピングモールがないような地域だ。やはり、閑静だった。

■ 1.荻窪駅

■ ⇒ 荻外荘

■ 荻外荘

荻窪駅南側の住宅街にある荻外荘は、内閣総理大臣を3度務めた政治家 近衞文麿が、昭和12年(1937年)の第一次内閣期から20年(1945年)12月の自決に至る期間を過ごし、昭和前期の政治の転換点となる会議を数多く行ったところです。このような歴史を持つことから、日本政治史上重要な場所であるとして、平成28年(2016年)3月に国の史跡に指定されました。
杉並区は、近衞らが重要な会談を行い政治の表舞台となった時代の姿を、創建の地 荻窪によみがえらせ、令和6年(2024年)12月に区立公園として公開する「荻外荘復原・整備プロジェクト」を進めています。

南側の芝生広場は、これまで暫定的に開放してきましたが、荻外荘公園の整備工事に着手にあたり、令和4年(2022年)7月1日(金曜日)から閉鎖します。芝生広場は、令和6年(2024年)12月から再びご利用いただける予定です。荻外荘の復原整備に、どうぞご期待ください。杉並区 web site

 


工事中でないときの荻外荘

■ ⇒ 善福寺川緑地 ⇒ 浜田山


善福寺川

 

 

新築戸建て、1億円。


むさしの森珈琲 浜田山店 東京都杉並区浜田山3丁目28−16

■ ⇒ 京王浜田山駅


KALDIの独立店舗をみた

■ まとめ 通過街

杉並区 荻窪 成田西 浜田山

 


東京散歩:新宿区中井・林芙美子記念館 ⇒ JR東中井駅

2024年03月10日 11時01分13秒 | 東京・横浜

林芙美子記念館に行った。3回目。1回目は(2015年4月)2回目は(2015年10月)。「私の唯一の理想は、女成金になりたいと云う事だった。(林芙美子、『放浪記』(新版))」とデビュー作=大出世作で云った林芙美子が現実に「成金」となって建てた豪邸だ。もっとも、10年後、47歳で死ぬ処となる。

愚ブログの林芙美子関連記事は;
いくさのあとさき; 軍事冒険主義時代の冒険家: 林芙美子
ある戦争画: 藤田嗣治の肖像素描画;「戦場の女」@最初
林芙美子邸再訪; 華のいのちはしぶとくて 上(2回目は(2015年10月))と同じ

林芙美子記念館とは

この建物は『放浪記』『浮雲』などの代表作で知られる作家・林芙美子が、昭和16年(1941)8月から昭和26年(1951)6月28日にその生涯を閉じるまで住んでいた家です。
大正11年(1922)に上京して以来、多くの苦労をしてきた芙美子は、昭和5年(1930)に落合の地に移り住み、昭和14年(1939)12月にはこの土地を購入し、新居を建設しはじめました。
芙美子は新居の建設のため、建築について勉強をし、設計者や大工を連れて京都の民家を見学に行ったり、材木を見に行くなど、思い入れは格別でした。山口文象設計によるこの家は、数寄屋造りのこまやかさが感じられる京風の特色と、芙美子らしい民家風のおおらかさをあわせもち、落ち着きのある住まいになっています。新宿区 web site

▼ アトリエ

障子の窓が嵌っているが、ここは採光用のガラス窓。天井から続く大きな採光窓と連合してアトリエが明るくなる仕組み。


外からアトリエの採光の窓を見る

▼ 石蔵

■ 林芙美子記念館(図中2) ⇒ 中井駅(図中1) ⇒ JR東中野駅(図中3)

 林芙美子記念館は段丘崖にあることはわかる。

■ 林芙美子記念館(図中2) ⇒ 中井駅(図中1)

■ 

■ 中井駅(図中1) ⇒ JR東中野駅(図中3)


上り坂になっている。


JR東中野駅


東京散歩:湯島大聖堂 大成殿内部

2024年03月07日 06時46分50秒 | 東京・横浜

2/25(土)に湯島聖堂に行った。愚ブログで初めて湯島聖堂が出てくるのは2005年(愚記事2005年)。このとき、書いている。「関東に来て初めて東京にきた時、なぜかしら湯島聖堂を選んだ」と。おいらが関東に来たのは1997年で、つくば市に来た。東京に遊びに来たのは少し時間があって、1-3年後くらい。そのとき、湯島聖堂に行った。その頃、東京の土地勘がなく、池袋、新宿、渋谷の位置関係も体感していなかった。その後、何度か湯島聖堂に来た。今日、過去ブログ記事を検索するといくつか見つかった(後述)。そして、何度か訪れたのに大成殿の中に入ったことはなかったが、今回入れた。ただし、中に入れない頃、大成殿の内部の研究の展示があった(後述)。その研究の内部を実際に今回見たのだ。なお、おいらは、儒教や孔子さまについて何も知らない。

10-15年前と違うことは人が多くなり、華人さまが目立つことだ。


閉まっているときの大成殿(2019年12月


2016年 開いてるけど、中には入れなかった。

▼ ありし日の湯島聖堂


華人さまが目立つ


2016年


2006年


2005年

湯島聖堂の敷地に入るのは生まれて2度目。8年前関東に来て初めて東京にきた時、なぜかしら湯島聖堂を選んだ。そうだその頃は、白石の伝記を読んでいたのだ。

今日、いた人は2人。ひとりは毛唐さん。旅行なのだろう。もうひとりは上記写真の堂の右の回廊で本を読んでいた中年・初老男性。

▼ 他場所の孔子廟


足利学校の孔子廟(2014年


北京 2005年


北京 2013年

 

 


横浜散歩:石川町駅⇒ 山手イタリア山庭園⇒ 横浜マリンタワー⇒ 馬車道⇒ 野毛山公園 ⇒稲荷台小学校

2024年02月23日 17時34分30秒 | 東京・横浜

横浜を去ることになった。横浜でまだ行っていない場所は多い。横浜有名地基本編[1]でも行けなかった場所として、横浜マリンタワーがある。行ったことがなかった。さらに、山手イタリア山庭園の洋館にも入ったことがなかったので、行くことにした。歴史探訪としてホテルグランドの玄関の写真を撮りたかった。一方、有名ではないし、行っても痕跡はないであろう史跡である「稲荷台小学校」=昭和天皇の戦後巡幸初日の訪問地に行くことにした。したがって、その間を歩いた。

[1] 横浜散歩;基本編、中華街、山下公園、大桟橋、みなとみらい地区

1.JR石川町駅、2.山手イタリア山公園、3.山手商店街、4.横浜マリンタワー、5.馬車道、6.野毛町、7.野毛山公園、8.稲荷台小学校

■ 1.JR石川町駅


JR石川町駅のホームから外交官の家が見える。

■ ⇒ 2.山手イタリア山公園


Google Map

明治13(1880)年から明治19(1886)年まで、イタリア領事館がおかれたことから「イタリア山」と呼ばれています。イタリアで多く見られる庭園様式を模し、水や花壇を幾何学的に配したデザインの公園で、整形花壇では四季折々の花、植栽を見ることができます。また、テラスからは横浜ベイブリッジやみなとみらい21を一望することができ、写真や絵画のモチーフとして人々に親しまれています。
フランス瓦の屋根の「ブラフ18番館」は平成5(1993)年に、とんがり屋根の「外交官の家」は平成9(1997)年に、移築復元されました。

山手イタリア山公園 web site

▶ ブラフ18番館

▶ 外交官の家

ニューヨーク総領事やトルコ特命全権大使などを務めた明治政府の外交官内田定槌氏の邸宅として、明治43(1910)年に東京渋谷の南平台に建てられました。 設計者はアメリカ人で立教学校の教師として来日、その後建築家として活躍したJ.M.ガーディナーです。
建物は木造2階建てで塔屋がつき、天然スレート葺きの屋根、下見板張りの外壁で、華やかな装飾が特徴のアメリカン・ヴィクトリアンの影響を色濃く残しています。1階は食堂や大小の客間など重厚な部屋が、2階には寝室や書斎など生活感あふれる部屋が並んでいます。これらの部屋の家具や装飾にはアール・ヌーボー風の意匠とともに、19世紀イギリスで展開された美術工芸の改革運動アーツ・アンド・クラフツのアメリカにおける影響も見られます。外交官の家

内田 定槌(うちだ さだつち):豊前国小倉(現在の福岡県北九州市)出身。1889年(明治22年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、外務省試補となった。翌年、上海副領事となり、漢城領事、ニューヨーク領事、同総領事を歴任した。1906年(明治39年)にブラジル弁理公使となり、翌年に特命全権公使となった[3]。その後、スウェーデン公使に就任し、デンマーク公使、ノルウェー公使も兼ねた。1920年(大正9年)、トルコに派遣され、のち大使に昇格した。wikipedia

■ ⇒ 台地を降りて、山手

⇒ 横浜ウォッチャー: 石川町「かき氷店 小桃」パフェのようなかき氷が大人気!国産イチゴにこだわる「小桃ちゃん」が絶品

▼ 大丸谷震災地蔵尊


Google Map

▼ 元町ショッピングストリート

■ ⇒ 横浜マリンタワー


中村川

■ 横浜マリンタワー

展望台入場料、1,100円。

横浜マリンタワー 公式 web site

横浜マリンタワー(よこはまマリンタワー)は、神奈川県横浜市中区山下町にある、横浜開港100周年記念事業として建設されたタワー。横浜のシンボルのひとつとなっている。

旧横浜居留地(山下居留地)の東南、横浜港フランス波止場跡(山下公園中央部)とフランス橋の間に位置する。かつては灯台としても機能していた。1961年1月15日開館。wikipedia


瑞穂埠頭(米陸軍管轄埠頭)。 接収日:昭和21年4月15日(横浜市web site)

上陸艦


さっき行った山手イタリア山庭園を見る。 ↓その遠望

赤煉瓦で象徴される新埠頭地区は、1910年代に建設された。「建設費用はアメリカに支払った下関戦争の賠償金がアメリカから返還され、これを充てた」(wiki)。

■ ⇒ 5.馬車道


ホテルニューグランド 1927年開業(wikipedia

マッカーサーは1945年8月30日に「厚木」に、子猿も連れて、飛来。その晩は横浜のホテルグランドに宿泊。3-4泊して、山手のC.マイヤー邸(google)に滞在した。そして、1945年9月8日に東京入城を果たした。しかし、その晩は横浜に帰ったのだという(根拠)。ところで、マッカーサーは1937年に新婚旅行からフィリピンへ帰る途中このホテルグランドに泊まった。つまり、8年後、横浜は灰燼に帰していた。ただし、このホテルや港湾地区を除いて。それにしても、マ元は1937年から「I shall return to be the SHOGUN」だったのだろうか?


第11空挺師団の米兵

タイル模様の柱がそのまま。中央のタイル模様の柱は撤去されたとわかる。階段が微妙に変わっている。

■ ⇒ 野毛町


大岡川。弁天橋を渡る。

■ ⇒ 野毛山


日本中央競馬会ウインズ横浜

▶ お昼


ハラミペパーライス:ダイニング×ダイビング リコモ(google map

■ ⇒ 7.野毛山公園


坂を登り、振り返って図書館をみる

水道みち(横浜の水道は野毛山にあり野毛山貯水場跡で歴史を知ろう
下の凹凸図で2つの赤矢印の間が(/も)水道みち。2つの谷を越えている。


振り返って野毛山動物公園方面を望む。尻こすり坂(google map)。


県営藤棚団地(google

■ ⇒ 稲荷台小学校

この坂を昭和21年2月19日に昭和天皇が上った。その日は敗戦後の全国巡幸の第1日目だった。この坂を登った先には、戦災者共同住宅があった。そこを訪問したのだ。戦災者共同住宅は、横浜市稲荷台国民学校があったが、1945年・昭和20年5月19日の横浜空襲で焼失する。その焼跡に戦災者共同住宅が建てられた。現在は、横浜市立稲荷台小学校。

愚記事:昭和の成仏のために:横浜市立稲荷台小学校、元戦災者共同住宅、昭和天皇、戦後巡幸第1日目


航空写真(左:1945-1950年)、現在の航空写真(右)。〇印が上記坂

■ 通過街

横浜市:
中区
石川町、山手町、元町、山下町、日本大通、本町、太田町
西区
桜木町、野毛町、宮川町、老松町、西戸部町、藤棚町、

 


昭和の成仏のために:横浜市立稲荷台小学校、元戦災者共同住宅、昭和天皇、戦後巡幸第1日目

2024年02月19日 06時44分14秒 | 東京・横浜

敗戦後の天皇巡行。この写真を子供の頃から見ていた。歴史の本によく出てくる。この場所は横浜と知ったので、場所を調べて、行ってみた。この写真は78年前の今日。


昭和21年2月19日 横浜市 戦災者共同住宅、現在 横浜市立稲荷台小学校
(神奈川県横浜市西区藤棚町2丁目220)

この日の巡行について、例えば、古川隆久『昭和天皇』では神奈川県京浜地区の簡易住宅街、吉田裕『昭和天皇の終戦史』では神奈川巡行とだけあり、具体的にどこであるのかはわからない。

 

この巡行は1946年から1954年8月の最後の北海道[1]まで全国(沖縄/琉球を除く)を廻った天皇の全国行幸の第1日目である。Wikipedia [昭和天皇の戦後巡幸]。場所は上記の通り、横浜市の戦災者共同住宅、現在 横浜市立稲荷台小学校。

[1] 北海道問題は本記事に末尾にメモ


Google map

横浜市立稲荷台小学校は、横浜港の西の台地域にある。台地にある野毛山公園の北西だ。

ここは、横浜市稲荷台国民学校があったが、1945年・昭和20年5月19日の横浜空襲で焼失する。その焼跡に戦災者共同住宅が建てられた。昭和26年(1951年)から、戦災者共同住宅が昭和28年(1953年)に撤去されるまで、小学校(稲荷台小学校稲荷台分校)は共存していた(ソース:横浜市立稲荷台小学校 沿革)。上の昭和天皇の写真を見ると、写真の奥の方が土地が低いことがわかる。すなわち、昭和天皇は坂を登って来ているのを、坂の上から撮影した。

■ 行ってみた。

この坂だ ↓。 坂を登り詰めると、稲荷台小学校・戦災者共同住宅がある/あった。


「御幸坂」。上記昭和天皇の写真はこの坂道で撮影されたらしい。エビデンスは後述。


坂を登りきると、稲荷台小学校に至る。


稲荷台小学校の門。中はグランンドが広がる。この現在グランドなっている平坦地に戦災者共同住宅があった。下の航空写真で建物が見える。


地図(左)、地形凹凸図。丸印は坂道での写真撮影場所。


航空写真(左:1945-1950年)、現在の航空写真(右)。

■ 「御幸坂」のエビデンス

この昭和21年2月19日の昭和天皇の巡行で、昭和天皇と話したという人の回顧があった;

横浜市旭区の石川啓次郎さん(81)は、2月19日の稲荷台共同宿舎(横浜市西区)への巡幸の際、昭和天皇に話しかけられた体験を持つ。当時、西前国民学校5年生だった石川さん。学校の先生から昭和天皇が横浜に来ることを知らされ、友人らと見に行った。両手のしもやけがひどく、母親から「粗相がないように」と渡された軍手を両手にはめ、寒さに耐えながら1時間ほど待ったという。

 「シーンと静かに、みんなでただお辞儀をしていた」という中、昭和天皇は石川さんの前で立ち止まって帽子を取り、「家は焼けましたか」「学校の道具は焼けなかったのか」と尋ね、石川さんは無我夢中で答えたという。巡幸で声をかけられた最初の児童となり、そのやりとりは翌日の朝日新聞などに取り上げられた。 (朝日新聞 web site

昭和天皇を迎えた場所の写真が朝日新聞に示されている。この坂道だ。

■ なぜ、そこに?

上記の昭和天皇から声をかけられた石川啓次郎さんは、「学校の先生から昭和天皇が横浜に来ることを知らされ、友人らと見に行った。」と云っている。これを読むと興味本位で昭和天皇を見に行ったとも思える。でも、そうであるなら、上記写真は興味本位で集まった子供や、そして大人で、あふれてしまうはずだ。おそらく、興味本位ではなくて、「選ばれた」人たちが「動員」されたのではないだろうか。そもそも、「学校の先生から昭和天皇が横浜に来ること」ではなく、学校の先生は天皇が稲荷台小学校・戦災者共同住宅にこの日午後(昭和21年2月19日)来ることを知っていたのだ。それは政府からお達しがあったのだろう。

 一九四五(昭和二〇年) 秋から秋から、国内安定に資したいとして 天皇・宮中に巡幸実施の意向があった。 そのきっかけの一つが、四五年十一月中旬に行われた、終戦奉告のための伊勢神宮への行幸である。 この行幸に同行した木戸内大臣は、「沿道の奉迎者の奉迎振りは、何等の指示を今回はなさざりしにかかわらず、敬礼の態度等は自然の内に慎みあり、如何にも日本人の真の姿を見たるが如き心地して、大いに意を強ふしたり」と国民の天皇支持の強さを認識した(『木戸日記』 11月12日)。 実際には沿道の人々の多くは 行幸ルート上の自治体が独自に動員したものだったが、木戸ら天皇・宮中はそれを知らなかったのである( 瀬畑二〇一〇[昭和天皇「戦後巡幸」の再検討]) 。古川隆久『昭和天皇』

こういう事情なので、「行幸ルート上の自治体が独自に動員」したのではないだろうか。

■ 「御幸坂」を登ったあとで

昭和天皇は、坂道を登り、戦災者共同住宅に向かったはずだ。戦災者共同住宅での住民との会見の様子を報道する新聞記事が、文藝春秋のweb siteにある。

■ この日の戦災者共同住宅への訪問は、昭和天皇実録に書いてある;

一時三十分県庁を発御、伊勢佐木町通を経て、西区の稲荷台国民学校の焼け跡に建設された稲荷台戦災者共同宿舎に着御され、住宅営団横浜支所長副見喬雄より罹災(りさい)者を収容する同住宅建設概況についてお聞きになる。副見の説明により宿舎内を御巡覧になり、罹災者に種々労(いたわ)りの御言葉を賜う

産経新聞の記事(昭和天皇 終戦翌年の地方巡幸 神奈川から 川崎→横浜→皇居→横須賀 「実録」からひもとく第一歩)から孫引き。

■ 昭和天皇、戦後巡幸の第1日目

昭和天皇の戦後巡幸は神奈川県の横浜、横須賀から始まった。2日間。皇居から日帰りで通った。

■ 北海道問題

昭和天皇の戦後巡幸の北海道に関する情報;

天皇の「戦後巡幸」(以下「」を略す)とは 1946 年 2 月の神奈川県から 1954 年 8 月の北海道にかけて(米国占領下の沖縄県を除き)行われた全国視察のことである。しかし、本稿では占領下の 1951 年関西巡幸までを分析対象とする。北海道巡幸は、1949 年から定例化する国民体育大会への巡幸の流れに位置づけられるべきであり、他の戦後巡幸とは一線を画するものだと考える。昭和天皇「戦後巡幸」にみる象徴天皇制の形成過程

昭和天皇は占領期に当時の日本の施政権下では唯一北海道を訪問していませんでしたが、朝鮮戦争の勃発後も「私が行けば北海道を何かの時見捨てぬといふ証拠ニなる」などど繰り返し、北海道への訪問を強く希望していたことがわかりました。 (戦後占領期 北海道への巡幸 強く希望戦後占領期 北海道への巡幸 強く希望

 


都県境散歩:こどもの国駅⇒ 玉川学園大学・小田急線⇒ 玉川学園駅

2024年02月07日 20時00分18秒 | 東京・横浜

玉川学園を中心に都県境、小田急小田原線を横断する散歩をした。玉川学園は東京都町田市と神奈川県横浜市、川崎市の3市に跨る広大な敷地を持つ。広大な敷地を持つ大学として北大や筑波大を思い浮かべるかもしれない。でも、北大や筑波大は平坦な地形の上にあるが、玉川学園は凹凸地形にある。そして、樹木に覆われ、その敷地へは徒歩だけが可能な「けもの道」でもアクセスできる。もちろん正門や自動車で入れる門もある。

さらに面白いのは玉川学園は都県境、市境を跨いでいるばかりでなく、小田急小田原線を隧道(トンネル)にて跨いでいる。凹凸地形のせいだ。

今回の散歩は横浜市からアクセスできる徒歩だけが可能な「けもの道」(google mapに載ってない道)を通り、玉川学園に入り、前回の散歩で跨ぐことのできなかったトンネルを跨ぎ、さらに徒歩だけが可能な「けもの道」で玉川学園の敷地外で出る。そして、徒歩だけが可能な踏切(小田急小田原線)を渡り、再び玉川学園に入り、自動車が出入りできる門から出て、玉川学園駅まであるいた。


地図A

1.協和病院、2.横浜市青葉区奈良町2572付近(google map)山道入口、3.尾根(眺望良好)、4.玉川学園敷地入口、5.横浜市・川崎市・町田市境界3重点、6.トンネルの上通過、7.玉川学園小学校横の細道入口、8.細道出口、9.金井へ

現在の航空写真  、 1960年代の航空写真 

■ こどもの国 ⇒ 協和病院

■ 1.協和病院 ⇒ 2.横浜市青葉区奈良町2572付近


2000年6月に開局した青葉緑山薬局は、その名の通り、春は鶯が鳴き、初夏には青葉が繁り、緑に囲まれたのどかな環境にあります。青葉緑山薬局


尾根から南西側の奈良北団地方面


玉川台団地とその向こうの緑山スタジオ

▼ 玉川学園入口


道に白猫が歩いている。その白猫の顔はこちら⇒「今週のよその猫

▼ 5. 町田市、横浜市、川崎市3重点付近

この地点はこの後、戻ってくる。

このあたりがトンネルの上。下を小田急小田原線が走っている。

■ 7.玉川学園小学校横の細道入口

■ 8.細道出口


地図B

■ 金井

■ 10. 歩行専用踏切

■ ⇒ 玉川大学農場教室(google map

▼ 5.横浜市・川崎市・町田市境界3重点付近


戻ってきました。


出口に向かう。振りかってみた風景:Consilience Hall 2020(手前)とScience Hallが見える。


公道。左手は玉川学園


玉川学園正門

■ 玉川学園駅

■ まとめ 通過街

神奈川県
横浜市 青葉区 奈良町
川崎市 岡上
東京都
町田市 玉川学園 金井町


横浜散歩:JR山手駅⇒ 根岸外国人墓地⇒ 馬の博物館・根岸森林公園⇒ エリアXゲート⇒ 根岸なつかし公園 旧柳下邸⇒ 八幡橋

2024年01月14日 15時28分03秒 | 東京・横浜

JR山手駅から、磯子1丁目まで散歩した。途中に、 根岸外国人墓地、根岸森林公園などがある。主目的は、根岸なつかし公園 旧柳下邸。今まで行ったころがなかった。磯子、根岸方面も散歩したことはない。根岸森林公園はかつて1度散歩っしたことがある。2017年9月だ(本牧台地散歩;「帰って母に聞いて、日本がアメリカに負けたことを知りました」)。このとき、エリア・ワン(area 1)も知らなかった。ただ、本牧方面にレコンキスタ案件の見物に行こうとおもい、散歩した。2017年は事前にネットで調べたりしなかった。2017年には根岸の米軍住宅をみたのだが、この域はエリア・エックス(area X)と呼ばれているは知らなかった。今回知った。

1.JR山手駅、2.根岸外人墓地、3.馬の博物館、4.旧根岸競馬場一等馬見所、5.米海軍住宅(エリアX)、6.岸根小学校裏の段丘崖の階段、7.根岸なつかし公園 旧柳下邸、8.磯子区磯子1丁目2−11(ガスト磯子店)、9.八幡橋バス停

■ 1.JR山手駅 ⇒ 2.根岸外人墓地

■ 2.根岸外人墓地

扉は閉まっていた。自分で開けて、入った。

根岸外国人墓地は、JR根岸線「山手駅」を降り、南へ坂道を登ること約100mのところにあります。
 関東大震災では、外国人も多く被害を受け、死者1,789名、負傷者2,353名、所在不明者5,251名との記録も残っています。
 根岸外国人墓地入り口脇の説明板には「現在1,200有余の外国人が埋葬され、墓碑は160基程が確認されている。」と書かれていますが、同時に「外国人船員、関東大震災罹災者及び第二次大戦後に埋葬された嬰児(幼児)など、埋葬者名が不明な者も多い。」とも記され、震災の犠牲者が何名埋葬されているかは不明ですが、ここには横浜市が建立した外国人震災慰霊碑が建っています。神奈川県 web site:根岸外国人墓地

 

墓地は本牧台地の端の段丘崖にあり、敷地は段々になっている。最上位の面からの見晴らしは、(墓地では不謹慎だが)すばらしかった。

モニュメント [片翼だけの天使の翼の像を模した慰霊碑](Google

■ ⇒ 3.馬の博物館

仲尾台公園 更新再開のお祝いをしていた。


根岸森林公園が見えた。

■ 3.馬の博物館

馬の博物館(うまのはくぶつかん)は、神奈川県横浜市中区の根岸競馬記念公苑(根岸森林公園)の敷地内にある、競馬・馬事文化の関連資料を展示した博物館である。1977年にJRAにより開館。

同公苑は、日本で初めての近代洋式競馬が行われ、1866年に誕生した横浜競馬場(根岸競馬場)を記念して建てられたもので、この施設では横浜競馬場の関係資料や、競馬競走の成り立ち、馬と人間の文化関係、馬の体の仕組みや習性などを収蔵資料や模型などで多角的に紹介している。wiki

馬の博物館は2017年に来たことがあった。ただし、何か特別なことをやっていたらしく、本物の馬がいた(下画像)。招待がない人は入れないといわれ、博物館の中を見ることはできなかった。2024年1月28日をもってしばらくの間休館するとのこと。長期休暇の前に博物館に入ることができた。

2017年

馬の博物館の入口から旧根岸競馬場一等馬見所の上半分が見える

フィナーレ展 「うまはく所蔵優品選」をやっていた。

 
「三彩女子騎馬俑」(左) 「埴輪馬」

■ ⇒ 4.旧根岸競馬場一等馬見所

■ 4.旧根岸競馬場一等馬見所

wikipeia 横浜競馬場

■ ⇒ 根岸米軍住宅、エリアX

根岸住宅地区:

管理:在日米海軍横須賀基地司令部

米軍人、軍属及びその家族が居住し、管理事務所、教会、宿舎、中央公共施設(図書館、銀行、郵便局等)、診療所等が所在していましたが、平成27年12月にすべての居住者が退去しています。

なお、現在も在日米海軍司令部統合消防隊第5消防署は存続しており、在日米海軍横須賀基地司令部憲兵隊が交代制により立哨業務及び警備巡回を行っています。

また、米軍施設・区域に囲まれた土地に横浜市民の方々が居住しており、日常生活上の様々な制約を受けています。

横浜市 web site

ネット情報によると、すでに2023年中に米軍住宅は解体されているとのこと(google)。
上の画像で、瓦礫の山が見える。

 

左上から時計回りに地形凹凸図、1945-1950年航空写真、現在の航空写真、1974-1978年航空写真。

敗戦後、耕地であった域が米軍住宅になったとわかる。米軍住宅域ないに緑に覆われた小山が見える。下図参照。これは、神奈川・米軍根岸住宅地にある「日本人」住宅

「この家は船具商だった祖父母が別宅として建てた家なんです」と、みどりさんは説明する。1951年にこの家で生まれ、ずっとここで暮らしてきたという。みどりさんが生まれたとき、すでに自宅の周囲は米軍施設に囲まれていた。接収が行なわれたのは47年だが、当時10軒が徴用を免れたそうだ。ただし当時の記録がないため、なぜ取り残されたのかはわからない。(上リンクより)

終戦後の日米間の国力の差は歴然としており、「基地の中は高級車ばかりでした」と、みどりさんはふり返る。根岸住宅地には上級士官とその家族しかいなかった。日本人がようやく自転車を手にしたとき、基地内の駐車場には米国製のキャデラックやムスタングが並んでいた。この住宅地の近くに実家がある実さんも、当時の様子をよく覚えていると言う。みどりさんが中学校を卒業する頃まで、米軍将校たちの家々にはメイドやボーイとして働く日本人の姿があった。敷地内に彼らの独身寮があり、そこから毎日通勤していたのだ。米兵と結婚した日本人女性たちも暮らしており、基地内で日本人を見かけることは珍しくはなかった。


赤線内が米軍接収、現在も未返還区域。

星条旗新聞:‘Things don’t last forever:’ College student documents demolition of US Navy housing complex in Japan

■ ⇒ 6.岸根小学校裏の段丘崖の階段

■ 7.根岸なつかし公園 旧柳下邸



横浜市指定有形文化財[根岸なつかし公園 旧柳下邸]横浜市 web site

外観の見どころ

建物は東館、西館、洋館、蔵から構成されています。洋館の屋根は規模は小さいですが、周辺の町並みからは突出した高さを持っていることから、近隣のランドマーク的存在となっています。

東館、西館の屋根は「むくり」を持たせた入母屋造りの和瓦葺きです。東館は棟の向きが直交しているため、4つの入母屋屋根の複雑な構成になっています。

洋館の屋根にはフランス瓦が葺かれていて、ドーマー窓、銅の棟飾りがついています。(横浜市 web site)

■ ⇒ 8.磯子区磯子1丁目2−11(ガスト磯子店)


掘割川

堀割川(ほりわりがわ)は、神奈川県横浜市南区から磯子区を流れ、根岸湾に注ぐ流域全長2700mの二級河川。大岡川の分流である。明治時代に作られた運河(人工河川)で、横浜港発展に大きな役割を果たした。wiki

 

ガストとバーミアンが並んでいる。しばしば見る風景だ。すかいらーくグループの<まとめ賃借り>策なのだろう。


ガスト、味噌カツ丼味噌汁・漬物付き

■ 9.八幡橋バス停


八幡橋交差点横断歩道

八幡橋バス停から桜木町行きバスに乗り、伊勢佐木町に向かう。

▼ 伊勢佐木町 イセザキ・モール

▼ 有隣堂本店

有隣堂本店にお参りした。初めて来た。売り場面積の広さの割には展示冊数は多くないと感じた。高密度感はない。

■ まとめ 散歩通過街

横浜市 中区 仲尾台、豆口台、滝之上、根岸台、簑沢、寺久保

磯子区 西町、下町、原町、中浜町、磯子

↓ バス

中区 伊勢佐木町

 

 

 

 

 

 


神奈川・東京散歩:こどもの国⇒ 東玉川学園⇒ かしの木山自然公園⇒ 芹が谷公園⇒ 町田駅

2024年01月07日 12時34分06秒 | 東京・横浜

こどもの国駅から町田駅まで散歩。こどもの国から西へ東京(町田市)に向かうと尾根にぶつかる。成瀬尾根。この尾根が都県境となっている。下の地図の2の点の上下=南北に走る線状となっている。航空写真では樹木の線として見える。緑道となっているから。成瀬尾根の西は成瀬台という造成された宅地、住宅地となっている。元来は丘陵地(本文の1960年代の航空写真参照)。さらにその西は、航空写真で緑地が広く広がっている域がある。昭和薬科大学やかしの木山自然公園がある。この域は丘陵が造成されず残っている。自然が残っている。今まで行ったことがなかった。さらに、西へ向かい、恩田川を渡り、芹が谷公園へ。

1.こどもの国駅、2.成瀬尾根(奈良ー成瀬台境界:都県境)、3.東玉川学園化石谷公園、4.かしの木山自然公園、5.恩田川 三蔵寺橋、6.芹が谷公園、7.JR町田駅

■ 1.こどもの国駅 ⇒ 2.成瀬尾根(奈良ー成瀬台境界:都県境) ⇒ 3.東玉川学園化石谷公園

▼ 成瀬尾根から外れて、東京都町田市成瀬台へ。

左手が町田市、右手が横浜市の奈良北団地。この右手の横浜市は北から成瀬台に舌状に張り出してる。

南を向く。成瀬台。開発された街であることがよくわかる。上の1960年代の航空写真を参照。谷戸・尾根を削りまくって造成したことがわかる。

造成された成瀬台の北端を行く。東玉川学園の尾根、すり鉢地形を進む。

都県境。横浜市は北から成瀬台に舌状に張り出した横浜市の南端。

すり鉢地形の底へ降りる。

すり鉢地形の底。

成瀬駅へ向かう道。

進む道。

町田市 web site

■ ⇒ 昭和薬科大学/三井住友海上玉川研修所グラウンド ⇒ 4.かしの木山自然公園

▼ 東玉川学園/南大谷の境界の尾根

尾根の西側。三井住友海上玉川研修所グラウンド(google

昭和薬科大学 門。尾根の東側。1990年にここに移ってきたとある wiki 。


ユニヴェルシオール学園の丘 google

■  4.かしの木山自然公園

1988年(昭和63年)に開園。敷地は西成瀬のほか、南大谷、高ヶ坂が入り組んでいる。園内は大部分が雑木林で、シラカシ、クヌギ、コナラなどが生い茂り、野鳥、昆虫が多く生息している。また、尾根道からは丹沢の山並みや町田の町並みが望めるほか、第三日曜日にはかしの木山自然公園自然観察会(但し不定期)を開催している。(wiki)

成瀬、高ヶ坂、南大谷にまたがる面積約5.5ヘクタールの緑豊かな自然公園です。シラカシ、クヌギ、コナラなどが生い茂り、野鳥、昆虫も多く、尾根道からは丹沢の山並みや町田の町並みが望めます。町田市 web site

■ ⇒ 5.恩田川 三蔵寺橋 ⇒ 6.芹が谷公園


a : 恩田川、三蔵寺橋

恩田川が流れているのは低地。台地に向かい坂を登る。

台地に登ったが、芹が谷公園は台地に刻まれた谷にある。谷を降りる。

■ 6.芹が谷公園

谷底

再び、台地に向かい登る。

■ ⇒ 原町田 ⇒ JR町田駅

原町田の台地面の平坦を歩く。

まとめ 

通過街

神奈川県 横浜市 青葉区 奈良

東京都 町田市 成瀬台、 東玉川学園、 南大谷、 高ケ坂、 原町田


神奈川・東京散歩:JR横浜線矢部駅⇒ 尾根緑道⇒ 多摩丘陵・鶴見川源流⇒ 京王堀之内駅

2023年12月31日 12時56分32秒 | 東京・横浜

これまで多摩丘陵の散歩の記事はある()、黒川谷戸小山田緑地。多摩丘陵の西側の地域の谷戸は行ったことはなかった。行くことにした。鶴川駅から行くと、距離があるので、相模原台地の方から行くことにした。

1.JR矢部駅、2.境川・常矢橋、3.尾根緑道、4.鶴見川源流の泉、5.長池公園、6.京王堀之内駅

▼ 大きな地図(元記事):今回は六角形a⇒b⇒c。


:1;長津田駅、2;町田駅、3;相模原駅、4;八王子駅、5;聖蹟桜ヶ丘駅
:A;こどもの国駅、B;鶴川駅、C;黒川谷戸、D;国士舘大学付近
六角形:a:矢部駅、b:鶴見川源流の泉、c:堀之内駅

■ 1.JR矢部駅 ⇒ 2.境川・常矢橋


図1


航空写真:1960年代(左)、現在(右)

尾根緑道(wiki)。図1のa。文字通り尾根。左右に斜面を持ち、みはらしがいい。それにしてもこの尾根は幅が狭い。


尾根の北側の斜面。


尾根の南側の斜面。

図1のb付近。桜美林大学のグランドを右手に見て進むと、見えた建物が「特別養護老人ホーム 花美郷」。ここで、右折して林に入る。

林に入るときはのぼりであった、その先が平坦地となっていたが、ペット霊園だった(ペットメモリアルパーク南多摩)。

▼ 谷戸へ

林を抜けると、谷戸に出た。図1のc。

▼ 谷戸の出口。図1のd付近。

図1のdから4へ向かう。

鶴見川源流の泉:環境省のweb site

谷戸の奥の林の中へ通ずる道を進む。この先、南多摩尾根幹線道路に抜けられる。


南多摩尾根幹線道路


南多摩尾根幹線道路

■ 5.長池公園

■ ⇒ 6.京王堀之内駅

駅まで歩いて20分ほど。今日の散歩では長い行程。でも、道は単調なので画像は少ない。

■ まとめ 通過街

神奈川県 相模原市 

淵野辺、上矢部

東京都 町田市

常磐町、上小山田町

八王子市 

別所、堀之内

 


東京散歩:表参道駅⇒ 神宮前⇒ 南青山⇒ 青山墓地⇒ 青山公園 南地区/米軍基地⇒ 乃木坂駅

2023年12月29日 02時34分51秒 | 東京・横浜

都内、渋谷区ー港区散歩。当初、浮世絵の太田記念美術館と岡本太郎記念美術館に行こうと思った。さらに、青山公園南地区に行くことを目的とした。失敗した。太田記念美術館と岡本太郎記念美術館共に休館だった。事前にネットで調べたつもりだったが、2重の勘違いで、現地に行くまで休館と気づかなかった。でも、結果、表参道駅から乃木坂駅まで散歩した。

1.表参道駅、2.神宮前1丁目、3.神宮前丁目、4.南青山丁目、5.青山陸橋、6.青山公園南地区、在日米陸軍基地、7.乃木坂駅

■ 

▼ 太田記念美術館

太田記念美術館 公式 web site

▼ かまわぬ原宿店

同館のかまわぬは営業していた。

先日の本店につづき、今日も購入。フライパン裁縫道具ならべ

■ ⇒ 

公式 web site   何がどうfossil (化石)なのか?興味をもった。wikipedia

取り扱い商品: 時計、財布、デザイナージュエリー、デザイナーフレグランス(メンズ&レディース1984)、レディースハンドバッグ、さまざまなレザー製品:コンピューターバッグ、バックパック、ベルト等

バーミアンでチンジャオロースーを食べた。店内は他の支店と比べて広くてきれいだった。

■ 神宮前 ⇒ 南青山 

▼ 神宮前五丁目児童遊園地

いこーよ

柔らかい色使いと可愛らしいキャラクターが特徴のイラストレーター・Namie先生の初個展「Wanderlust」を開催します。

pixiv WAEN GALLARY

 

国連大学

▼ 岡本太郎記念館

公式 web site

■ ⇒ 青山墓地

■ 青山公園

六本木トンネルを通した時、都の土地を米軍に貸し出してヘリポートを暫定的に移設したのがそもそもの始まり。

ところがトンネル工事が終わった後も米軍は暫定的に移設したはずのヘリポートをそのまま使い続けます。

その後の都と米軍の交渉で、貸し出して返ってこなかった土地と交換に、未返還だった国立新美術館側の部分を返してもらったというのが経緯です。歩いて知った 麻布ガイド

■ 在日米陸軍ヘリポート

軍犬隊はいないようだ。

赤坂プレスセンター(あかさかプレスセンター、英語: Akasaka Press Center)は、東京都港区六本木にある在日米軍基地。ハーディー・バラックス (Hardy Barracks) とも称される。

東京都区部にあるアメリカ軍基地の一つで、在日米陸軍が管理している。前身は旧日本陸軍歩兵第3連隊の駐屯地で、現在は星条旗新聞などの事務所、宿泊施設、ヘリポートとして使用され、大統領など来日する米政府要人の移動拠点としての役割も担っている。占有面積は3万1670平米。  wiki

まとめ 通過街

渋谷区 北青山、神宮前
港区 南青山 六本木