この建物は『放浪記』『浮雲』などの代表作で知られる作家・林芙美子が、昭和16年(1941)8月から昭和26年(1951)6月28日にその生涯を閉じるまで住んでいた家です。 大正11年(1922)に上京して以来、多くの苦労をしてきた芙美子は、昭和5年(1930)に落合の地に移り住み、昭和14年(1939)12月にはこの土地を購入し、新居を建設しはじめました。 芙美子は新居の建設のため、建築について勉強をし、設計者や大工を連れて京都の民家を見学に行ったり、材木を見に行くなど、思い入れは格別でした。山口文象設計によるこの家は、数寄屋造りのこまやかさが感じられる京風の特色と、芙美子らしい民家風のおおらかさをあわせもち、落ち着きのある住まいになっています。(新宿区 web site)
マッカーサーは1945年8月30日に「厚木」に、子猿も連れて、飛来。その晩は横浜のホテルグランドに宿泊。3-4泊して、山手のC.マイヤー邸(google)に滞在した。そして、1945年9月8日に東京入城を果たした。しかし、その晩は横浜に帰ったのだという(根拠)。ところで、マッカーサーは1937年に新婚旅行からフィリピンへ帰る途中このホテルグランドに泊まった。つまり、8年後、横浜は灰燼に帰していた。ただし、このホテルや港湾地区を除いて。それにしても、マ元は1937年から「I shall return to be the SHOGUN」だったのだろうか?
「シーンと静かに、みんなでただお辞儀をしていた」という中、昭和天皇は石川さんの前で立ち止まって帽子を取り、「家は焼けましたか」「学校の道具は焼けなかったのか」と尋ね、石川さんは無我夢中で答えたという。巡幸で声をかけられた最初の児童となり、そのやりとりは翌日の朝日新聞などに取り上げられた。 (朝日新聞 web site)
根岸外国人墓地は、JR根岸線「山手駅」を降り、南へ坂道を登ること約100mのところにあります。 関東大震災では、外国人も多く被害を受け、死者1,789名、負傷者2,353名、所在不明者5,251名との記録も残っています。 根岸外国人墓地入り口脇の説明板には「現在1,200有余の外国人が埋葬され、墓碑は160基程が確認されている。」と書かれていますが、同時に「外国人船員、関東大震災罹災者及び第二次大戦後に埋葬された嬰児(幼児)など、埋葬者名が不明な者も多い。」とも記され、震災の犠牲者が何名埋葬されているかは不明ですが、ここには横浜市が建立した外国人震災慰霊碑が建っています。(神奈川県 web site:根岸外国人墓地)