いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

今日の看猫 2010/8/31、あるいは、当たった人が余剰博士だ!

2010年08月31日 06時07分08秒 | ねこ



左右非対称の顔面を演ずるうめちゃん。やはり、山海塾の猫コースに通っているらしい。

■ A summer day in Tsukuba-city



西大通りの交差点(ココ)で、跳ねてないはねとをみた。



― 閉店&comming soon ―
イーアスつくばにて。

おいらは Englishes (wiki) の観賞が趣味だ。いろんな英語を見聞きして、その人の出自、母語を推定するのが好きだ。Hinglish (wiki) とか Shinglishとか。母語に依存していろいろな英語、とくに発音がある。Hinglish とか Shinglishとかは、何より、話している人の見た目で出身がわかってしまうが。

以前、オランダの組織に属する、見た目が毛唐さんの人をみた。英語で、やたらzoologyをスーオロジー、スーオロジーという。そうなのか、オランダ語はZの音を出せないんだ、と勝手に思っていた。でも、違っていた。おいらが、スペインに縁もゆかりもなかったころだ。

結論をいうと、その人はスペインの出身だった。スペイン語はZの音を出さないらしい。Zの音ではない。そこで、ZARAの話。スペインの会社だ。wiki。だから、ホントは サラ っていってあげるべきなんじゃないかなぁ。でも、スペイン語のZは英語のthあるいはsの音。th かs かは地域で違うようだ。

↓遥かなるつくば中心街


【社会】「余剰博士」は無用の長物なのか


吸血の後で

2010年08月29日 18時16分43秒 | その他





今年の夏はやたら蚊にさされる。腕、足などやわらかいところがボロボロだ。家の周りで大発生しているのだろう。その割には御敵の姿を見ないと思っていたら、見つけた。束ねたカーテンの中にいた。

つぶした。普通こういう時はつぶしても、ポトっと床に落ちる例が多いと思っていた。でも、こうなった。どんだけ吸ったんだか!

カーテンが重なった状態で、御敵様を一撃したので、レース布は何重にも血塗られた。洗濯しなければいけなくなった。

■最近、ハイデガー熱が出て、伝記を見ている。ハイデガーはギムナジウムを卒業してすぐ修道士になろうとした。でも、健康上の理由で1か月で辞める。

結果的には、修道士⇒神学部⇒数学/自然科学⇒スコラ哲学⇒プロテスタント⇒現象学哲学⇒独自哲学/ナチスと変遷していく。

戦後(1953年)の手塚富雄のハイデガーへのインタビューより(手塚富雄『手塚富雄著作集 第五巻』を 淺野 章・「ハイデガーと宗教」)より孫引き;

手塚:: ヨーロッパに来て、一般生活人の精神的基盤となっているキリスト教の根強さにおどろいています。それらの人たちに信仰が厚いという意味ではありません。それでこれを市民化されたキリスト教と申しましょう。先生はこの市民化されたキリスト教のうちに、今後のヨーロッパ文化の新しい進展をうながしていく力があるとお考えでしょうか。

ハイデガー:: ―はげしく首をふって言下に答えた。―

「それはない。それがあるように誤信しているところに、ドイツの、ヨーロッパの、文化の最大の危機がある。あの因習的な宗教性と自己満足、……。まだしもイタリアの民衆には、生きた信仰の力が残っているがね」。

(手塚の感想);考えてみれば、かれがこういう答えをするだろうことは、当然予期されたのである。しかし彼の言い方には、他のヨーロッパ人にはとうてい見られないと思える強い放電があった。それは発止としていて、小気味よいものであった。文明批評の生きた力がこもっていた。


●で、今のおいらの課題はハイデガーが修道士を目指した意味を知ること。そもそも修道士ってわからない。(参考愚記事;現代日本人なのでよく知らないが、修道士って強壮じゃないとなれないのだろうか?

最近ちょっと知った;

 すでに述べたように、西暦五〇〇年から六〇〇年の間に、中世ヨーロッパがつくられていく条件が生まれた。西暦三〇〇年頃から異端は追い出され、東ローマ帝国内外にはいくつかの修道院がつくられていた。そこで育った修道士たちは、信仰を広めていく使命を実行しようと、未開の西ヨーロッパ各地に入り込んでいく勇気を持ていた。(中略)
 ブリテン島には多くの修道院がつくられ、ラテン語とギリシア語にもとづく聖書その他の知識が伝えられた。
 教育を受けた修道士たちは、現地で次の世代を育てていく。こうして都市ないし都市近郊でなく、未開の地で知識の伝承が可能になった。中世の修道院は古代におけるアカデメイアの役割を引き受けたのである。
 とはいえ修道士にとっては、祈り、はたらくことが生活のすべてである。けして研究生活が修道士の生活ではない。それゆえ、その知識レベルは特別に高いものではない。ごくまれに優れた知性が参加することがあっても、そのレベルがつづくことは望めなかった。


"知の砦となった修道院" 「第3章 中世一〇〇〇年」、八木雄二・『天使はなぜ堕落するのか』

やはり、修道士は強壮じゃないといけないのだ。祈りと労働のために。なお、ハイデガーが修道士を辞めたのは確かに健康上の問題、心臓病であるが、これは心因性のものであるという解釈が、ヴィクトル ファリアスの『ハイデガーとナチズム』でなされている。ウソかホントか、おいらにはわからない。

さらには、この知的に優秀というのが必ずしも必要条件ではなく、祈りと労働が第一に求められるという修道院の性格と、"理性"などには言及せず、勤労奉仕、国防奉仕を主張する1933年の『ドイツ的大学の自己主張』は、妙に共鳴しているではないか(参考愚記事: デリー化する東京で、松丸本舗参拝 )。

そして、蚊と修道士;

修道士の歴史における位置づけを調べようと、あちこち見てたら、あった。ビンゴ!

修道士----この日本語は味気ない言葉だ。

Monk(英)、Muench(独)などは、いずれもギリシア語のmonosから出ており、これは「一人住むもの」、「孤独な人」を意味する。  

最初の修道士―というよりは隠者―はエジプトに現れた。あの灼熱の太陽の下に広がる広大な砂漠や岩山、過酷な自然は、世を棄てて、神を求めようとする人々には理想の地だったのだ。  

この種の隠修士は次第にその数を増やしたが、その中の一人、アレキサンドリアのマカリオス(AD300頃~391)の修業振りを紹介しよう。  

彼の弟子パラディオス(367頃~431頃)の遺した記録の要約は、次のようなものだ。「ある日、マカリオスがその独房に座っていると、蚊が飛んできて彼を刺した。彼は痛みを感じてそれを叩き潰した。しかし、直ぐに、仕返しのために蚊を潰したことを悔い、セテの沼地に6ヶ月の間、裸体のまま留まる決意をした。そこは人気のない広大な場所で、雀蜂程もある大きな蚊がおり、その針は猪の皮をも刺し貫く程だった。  

彼が独房に戻った時は、その蚊のために姿が変わり果ててしまい、誰もが彼は癩病にかかったのだと思った程で、声によってやっとそれが聖マカリオスだと知れた」  マカリオスに限らず、この時代のエジプトの隠修士達には、野獣や小動物への暖かい思い遣りを示した逸話が多い。  マカリオスは更に、洗礼を受けて以来、地に唾を吐かず、7年間なま物だけを食し、20日間眠らず、40日間断食をして、同じ場所で動かなかったという。


http://www.geocities.jp/kdi1995/news176.html

なお、この話はギリシア語からラテン語に翻訳された時、蚊を叩きつぶしたエピソードは落ちたそうだ。それでもラテン語バージョンで話が成り立ったのは、蚊を殺したことの後悔から沼地に行ったのでなく、性欲を封鎖するため沼地に行って、自分を痛めつけ、性欲から逃れたという解釈に基づいたからだそうだ(桜井万里子/木村凌二 『世界の歴史5, ギリシアとローマ』)。




毎週、ロシアかぼちゃの画像を撮っています; 13週目

2010年08月28日 09時32分19秒 | 筑波山麓

ロシアかぼちゃの花は断続的に咲きそうです。

↓でも、全体として弱ってきているようです。


ぶどうのその後;8月7日のぶどうさん


ボール3杯分のぶどうが採れて、すべてジュースになりました。
   

⇒関連愚記事;寒い朝にぶどうを売る


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デリー化する東京で、松丸本舗参拝

2010年08月26日 04時54分00秒 | 東京・横浜
■先日、都内に外勤。蒸し熱い。35℃。東京の都心を歩くと駅周辺とか結構あちこち汚く、場所によっては汚臭がただよっている。なんかデリー化しているようだ。もっとも、経済成長の活気はないけど...。仕事帰りに東京駅北口の丸善書店に行って、松丸本舗の見物に行く。

  

詳細説明サイト;松丸本舗。まぁ、すごいですね。いろいろ並んでいます。並べ方の意味がわかるもの、わからないもの、いろいろある。たとえば、ボルヘスと須賀敦子が並んでいるのだけれど、なぜだかわからない。マニアの人にはビンゴ!なんだろうか?

おいらは、参拝記念に"ハイデガー影響圏"という棚にあった『30年代の危機と哲学』というのを買いました。これは"変な"本で、フッサールの『ヨーロッパ的人間性の危機と哲学』、ハイデガーの『ドイツ的大学の自己主張』と『なぜわれらは田舎に留まるのか?』、そしてホルクハイマーの『社会の危機と科学の危機』の3著作者・4論文をまとめたもの。3著者ともイデオロギー的にはばらばら。それを"30年代の危機と哲学"という観点でまとめちゃった本(なお、この本の表紙[画像参照]はM.ハイデガーほか と著者名が記されている#1)。特に、ハイデガーの2論文はナチス党員時代の活動の成果として、よくハイデガーの人物論において言及される。でも、日本語訳全文がどこにあるか知らなかったけど、こうやってまとめてあった。こんな本が出版されていることさえ知らなかった。

  


#1 ほかのみなさん。

■話は飛んで、車谷長吉の文庫『銭金について』(Amazon)のなかに"死の光"という題の笠井雅洋なる中央公論社の編集者であったひとの人物評がある。これがすごくて、読んでびっくりした。読むと「この笠井雅洋って悪いヤツだなぁ、卑しいヤツだなぁ」と会ったこともない人物についての明確なイメージができあがる。すごい文章。笠井雅洋に関するエピソードの数々が嘘かホントか確かめようがないけれども。この意地悪な文章は三木清について描像した林達夫の"三木清の思い出"を思い出す。この車谷の笠井雅洋についての文章を読むと、大手出版社の編集者というのは、アホでも、いかに権力を持っているか生き生きと描かれている。卑しい編集者に追従する学者センセの浅ましさの描写もすごい。

さて、数年前に読んだこの車谷の随筆も忘れかけたおいらは、つい最近この笠井雅洋が矢代梓であると知った。ちなみに車谷の随筆には矢代梓が笠井雅洋の筆名であることは書かれていなかった。それというのもここ1年、1930年代の時代状況と思想、つまり第一次世界大戦の荒廃と精神的インパクトに興味があって、たまたま『年表で読む二十世紀思想史』(Amazon)という本に気づいた。その矢代梓が車谷が描いた笠井雅洋だったのだ。そして、手元にある『現代思想の源流 (現代思想の冒険者たち)』 というシリーズの中で年表があって、それを作ったひとであると初めて気づいた。

話をもとの『30年代の危機と哲学』に戻す。矢代梓が翻訳をしていたとこれも初めて知る。上記の『30年代の危機と哲学』のなかの、ハイデガー、「なぜわれらは田舎に留まるのか?」を訳している。もっとも、出来上がり7ページ分の翻訳。矢代梓って別に大した本を書いているわけではないのだが、車谷が描く学術業績もないのに大学教官になりたがった笠井雅洋=矢代梓"像"からすると、7ページの翻訳も、もっともかなぁとという気がする。

本を集めるのが好きだったらしい、笠井雅洋。洋書もたくさん集めていたらしい。だから、誰はああいう本だした。誰はああいった、こういったとか詳しかったのだろう。編集者向きだ。でも、編集者って俗物じゃないとなれないんだろうね。なぜなら、世人が欲する本を的確にわかるには俗物根性がないとわからないから。編集者はうまい料理を料理人に作らせるのが仕事だから、自分は包丁を握れなくとも(書けなくても)OK。ベロを頼りに料理人にうまい!まずい!っていっていればよい。ただし、ベロ(舌)はつねに肥えていなければならない。現地・ヨーロッパに行って、あるいは"丸善"でベロ肥えに従事。そういう方法で、ヨーロッパで出版された本のテーマをネタ(手本)に日本人学者に書かせて、世人に売っていたのだろう。おいらのような俗物に。

ギリシア哲学と農民

ハイデガー、『ドイツ的大学の自己主張』は、ハイデガーがナチス時代の1933年にフライブルク大学の総長として就任した時のもの。これって、演説として読み上げたのだろうか? いずれにせよ、ぶっとんでいる。

わからない。

まずは、ハイデガーの言い分では「学問」たるものは古代ギリシア哲学であるらしい。われわれの精神的=歴史的現存のはじまりの力がギリシア哲学の開闢と言っている。わからない。ドイツ民族はギリシアとは関係ないし。ギリシア哲学が、その"開闢"以来ずっと"西洋人"に読み継がれてきたわけでもない。何を根拠にハイデガーはドイツ民族の精神的根拠をギリシア哲学に置くのか?おまいら、ゲルマン蛮族の精神はどうしたんだ!?と言ってやりたい。さらに、ハイデガーは、ギリシア哲学に後続するキリスト教=神学的世界理解、そして近代の数学的=技術的思考よりも、開闢のギリシア哲学がはじまりであるがゆえに偉大なものとする。そして、その偉大なはじまりを希求することが学問らしい。

「われわれがはじまりのはるかな摂理を自らのさだめとなすとき、学問はわれわれの精神的=民族的現存の根底における出来事とならねばならない」そうだ。

ギリシア語で哲学を学ばないといけないらしい。それがドイツ的大学の使命だそうだ。わからない。

一方、「このはじまりとは、ギリシア哲学の開闢である。そこではじめて、西欧的人間はおのれの言語の助力をえて、一個の民族集団から脱して立ち上がり、存在するもの全体にたちむかい、存在するものとしての存在者を問いかつ把握するのである。」とハイデガー。この"一個の民族集団から脱して立ち上がり"という。 もしそうなら、ナチスドイツ時代に、ハイデガーは、西欧的人間としての一個人はドイツ民族としてどうしろっていうつもりだったのか? 全然わからない。民族集団から脱して立ち上がる=ドイツ民族から脱して立ち上がる、ということではないのか? コスモポリタン宣言? 意味不明。

そして、ハイデガー・「なぜわれらは田舎に留まるのか?」。哲学の仕事は農夫たちの仕事とまったく同じものであるのだ、そうだ。ということは、農夫は"はじまりのはるかな摂理を自らのさだめとなすとき、学問はわれわれの精神的=民族的現存の根底における出来事"と通じているらしい。わからない。



跳人(はねと)大募集

2010年08月22日 08時25分38秒 | 筑波山麓
■跳人(はねと)大募集

  

まつりつくば ねぶたパレード

カラス跳人は出没するのだろうか?
・アナーキストの訳語は"鴉跳人(からすはねと)"にすればよかったのに。
・あと、ロドス島ねぶた祭りってのも期待できる。

■先週ある日のつくば日記;

  

つくば市の天久保の古本屋に行く。行くと古本屋店舗跡ということになっていた。場所は筑波大学の傍。東大通りを北上してあの岡田不動産の角を入ったところ。7年くらい前に1度行った。入りずらい店だった。正確にいうと出にくい店というべきか。この店のエキセントリックだったのは店の入口に潜在顧客を罵倒する紙が張ってあったこと。「筑波学生、立ち入り禁止!」とか書いてあった。罵倒はそれにとどまらず、かなりいろいろ書いてあったと記憶する。買わないのにさわりまくるな!とか。なんとか、いろいろ。すげぇーな、と印象深かった。別においらは筑波大生でもないのだが、それ以来行っていなかった。ちなみにその7年前に買った本は『伊達政宗―文化とその遺産』であり、掘りだしものだったと今でも思っている。


その「筑波学生、立ち入り禁止!」の張り紙がまだあるのかな?あったらネタにしようと画像採取に行ってみた。店舗閉鎖していた。残念。ただし、通販としての営業はやっている⇒筑波学園文庫

■めしのはんだや;2年くらい前から気づいていたのだが、あのめしのはんだや(wiki)がつくばに進出;

―車中から"メクラ"撮り―

20世紀末から今世紀幕開けとともに"酒のやまや"や"めしの半田屋"など仙台発の会社が関東、そしてつくばにも進出している。

そんな現代のつくば-仙台商業事情に先だっての文化的つくば-仙台関係の話;
つくばから仙台へー白鳥大明神の祝詞と道祖神
(参考・愚記事;現つくば市の旧伊達領物語

■天久保ショッピングセンター
  

その後、天久保ショッピングセンターの古本屋に行った。前世紀末にはこのショッピングセンターに3軒ほどの古書店があった。今残るのは1軒のみ。
⇒通販もやっているようです;学園都市古書センター

天久保ショッピングセンターについてのメモ;ちょっとマニアックな”魔界”のにほひ

入る。なぜかしら、というか昭和の古書店の流儀なのか?、クラシック音楽(ブランデンブルグ協奏曲)がながれている。品ぞろえは悪くない。ここ10年に刊行された本は少ない、本当の古本屋。有名どころの本も多いし、昔こんな本が出ていたんだ、と初めて知る本も多い。例えば、『フーコーの声―思考の風景』。手にとって見れるのがよい。アマゾンの中古だともっと安いんだろうなぁとわかりつつも、買う。1500円。家に帰ってネットで確かめるとアマゾン中古は650円だった。同じく『野蛮の衝突』を1000円で買った。アマゾン中古は138円。

間違えた;天久保ショッピングセンターの前には有料駐車場がひろがる。実はその広い駐車場は二分されていて、ゲートが違う。ショッピングセンターの駐車場はもちろん買えば無料となる。でも、おいらは隣のショッピングセンターの管理ではない駐車場に入ってしまい、駐車料金220円損した。

▼理工書を買う;理工書の古書って扱いが難しいと思う。教科書なら新しいものに越したことはない。教科書は逐次新手が出ている。この筑波山麓の古書店の理工書の品ぞろえは玉石。神保町の明倫館書店には並べられない石本もある。

おいらの今のショーバイ分野はおいらの修業分野と無関係。なので、"基礎学力"がない。それでも、体動かすと"世界一"の性能データを示す"物"がすこすこできちゃう。"こなんできました"という物性測定結果と現象論的式に基づくデータ解析で論文はすこすこ通る。でも、ちょっと基礎を抑えないと怖くなってきたので、柄にもなく、教科書を買って勉強をしようと思った。何せ分野が1960年代的分野なので、最近刊行の教科書は少ない。特に理論式のderivationを細かく記述・解説したものが見当たらなかった。理論が苦手なおいらには"虎の巻"が必要なのだ。見つけた。書き込みバリバリだからこそ、買った。書き込みで充実した"虎の巻"であるからだ。ちなみにアマゾン中古で調べたら、改訂版が、おいらが払った金額と同じ値段で売っていた(この中古価格は当時の新書価格より高い)。なお、奥書きに1974年に買ったらしきことが記されていた。その人は筑波大学生ではなかったのだろう。なぜなら、1974年にはまだ筑波大学は開学していないからだ。



●帰りは二の宮に今年できたスーパーマルモに行った;

毎週、ロシアかぼちゃの画像を撮っています; 12週目

2010年08月21日 07時10分26秒 | 筑波山麓

ロシアかぼちゃの花は今週も咲きました。

↓ゴーヤの季節です;


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ハイデガーのルサンチマン、あるいは、ハイデガーは"理系"だった!

2010年08月19日 05時54分33秒 | その他


―さるすべりのたもとのあさがお―

■ハイデガーに関するメモ書き;

1.
 事実、著者の研究分野は、ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(一二六五~一三〇八)の哲学であるが、おそらく読者には信じられないだろうが、世界で専門に研究している人間はごく少数であり、その数わずか六、七名でしかない。関連して興味をもつ研究者の数でも数十名でしかない(ただし、この数は増加中である)。
八木雄二、『天使はなぜ堕落するのか』

2.
 明らかに、ハイデガーの狙いは、まず第一に哲学界のうちに ―哲学界のうちにだけ、というわけではない― しっかり刻みこまれている。まさにこの点で、彼は哲学者である。彼は何よりまず、根本的にはカントとの関係で、より厳密に言えば新カント学派との関係で、明確な新しい哲学的立場を存在させようとする。新カント学派は、カントの作品・問題設定という象徴資本を盾にとって、哲学界を支配している。認識問題と価値問題という当時の正統な問いを巡る新カント学派内の葛藤というかたちで実現している問題設定を通して、哲学界とそこを支配する人びとは、ハイデガーのような新参者の企てる転覆を、自らの標的かつ限界ととらえる。ハイデガーは膨大な教養を備えている。そのうちには、正統なものばかりか、非正統なもの、さらには異端的なもの(ドゥンス・スコトゥスに関する彼の教授資格論文が証拠になる)すらある。彼はこうした教養を手に、或る理論路線(この言葉には政治的含みを持たせてある)から出発して、上述の新カント学派の諸問題に取り組んでいく。この理論路線は、ハビトゥスの最も深いところに根をはっているが、哲学界の論理の中にだけに原理を持つのではなく、次のような他の諸領域でも選択原理となっている。政治界・大学・哲学界は互いに相同的であり、特にそれぞれの領域を構造化している主要な対立は相同的である。
ブルデュー、『ハイデガーの政治的存在論』

3.
 ヒトラーの手伝いとなり、現実の恣意による支配に結びつくことができるために、ハイデガーはまずカントの実践の理論を無視しなければならなかったからこそ、このハイデガーのカント解釈はきわめてグロテスクな解釈になっているのである。
 ハイデガーのルサンチマンの根拠について、十分な論証を行うことができるのは心理学者だけだが、ハイデガーはカトリック神学者として「道徳性」に苦しめられたために、彼のルサンチマンはプロテスタント牧師の息子であるニーチェのルサンチマンに劣るものではない。

ハンス・エーベリング、『マルティン・ハイデガー』

4.
 「学長辞任以降のハイデガーの影響」の章では、この時期のハイデガーがのちにみずから弁明するようにナチスに対し「内的抵抗」をしていたわけではけっしてなく、依然としてナチズムと縁を切っていないこと、むしろ「忠誠心の篤い党員であり続けた」ことが、カトリックに対するルサンチマン的な振る舞いと絡み合わせて詳述される。
フーゴ・オット、『マルティン・ハイデガー 伝記の途上で』の訳者(北川東子、藤澤賢一郎、惣那敬三)の解説

 ハイデガーが生まれたのが1889年。ヒトラーと同い年。日本でいうと、和辻哲郎、石原莞爾など。ハイデガーの親はカトリック教会の樽職人。だから、高等教育を楽に受けられる貴族層とかプチブル階層ではない。耶蘇の坊主になって"出世"しようとしたらしい。少壮のとき 功名聊か(いささか)復(また)自私(みずからひそかに)期 したわけだ。

(がきんちょの頃読んだ日本昔話では、"昔は厳しい身分社会だったので、庶民、っていうか直截にいうと"百姓"の子供で"出世"するにはお坊さんになるしかありませんでした"とよく見た気がする。大日本帝国では貧乏で"出世"したい子は軍人か教師。)

ギムナジウムを卒業した後にはイエズス修道会に加入する。20世紀のトマス・アクィナスを目指したのだろうか?もっとも、トマスはドミニコ会。しかし、健康上の理由で修道士になれなかった、とされている。どの伝記、あるいはハイデガー自身による履歴にも、健康上理由のみ書いてある。現代日本人なのでよく知らないが、修道士って強壮じゃないとなれないのだろうか?健康上理由のみではないとおいらが睨んでいるのはハイデガーがのちにカトリックにルサンチマンをあらわにするから。もし、本当に健康上の理由だけなら、体弱いという無力の典型にもかかわらず、「強大な世俗政治権力」を「無力な僧侶階級」に精神的に服従させる宗教権威であるカトリックのキリスト教の僧侶にさえなれなかったということになる。「無力な僧侶階級」の落ちこぼれ。つまりは、ルサンチマンの累乗か。かわいそうなハイデガー! 本当は修道院でニーチェとか読んでいたのを見つかったんじゃないのかなぁ?と妄想するとにこにこできる。

その後、ハイデガーは、神学⇒哲学へとシフトしていく。ただし、修道士になろうとした時は教会の援助があったが、修道士をあきらめた後の金策には苦労したらしい。この時友人(ラズロウスキー)が力になってくれた。友達いなさそうと思ってたのにね、ハイデガー。そして、修道士⇒神学⇒哲学シフトの間に、数学・自然科学修業時代というのがある;

5.
 ギムナジウム第七学年時、数学の授業がたんに与えられた問題を解くことから理論的な方向に変わったときに、この学科にたいする私のたんなる愛好が現実的な事象関心へと変化し、それは物理学にも及んだ。これにくわえて宗教の授業から刺激を受け、私は生物進化論にかんする広範な読書を行った。
ハイデガーの自己履歴記述、フーゴ・オット、『マルティン・ハイデガー 伝記の途上で』より孫引き

 さらに修道士を断念した後の1911年-1912年には自然科学-数学部に編入した。

 したがって、木田元の下記記述は不十分である。フッサールとハイデガーを比較して;

6.
 だが、この子弟関係には、はじめからさまざまな食い違いがあった。ユダヤ系のオーストリア人であるフッサールと、ドイツのなかでももっとも保守的なシュワーベンで生まれ育ったハイデガー。当初数学者として出発し、途中で哲学に転じたフッサールと、修道士になろうとしたり、キルケゴールやドストエフスキーを愛読した上で、アリストテレスやスコラ哲学について本格的な歴史研究から出発したハイデガー。
木田元、『ハイデガーの思想』 

▼ ハイデガーは"理系"だった!、というのはヨタである。 理系とか文系とかいう分類ってまぬけだよね。 でも、ハイデガーはあまりに"理論"偏重だったのではないだろうか。アリストテレス読みのプラトニスト!


十六大角豆

2010年08月17日 04時50分30秒 | 筑波山麓

十六大角豆(じゅうろくささげ、wiki)。長いんです。


収穫された十六大角豆

大角豆はどう読むか?

茨城(南部限定?)では;


日本主流派は、ささげ(wiki)、というらしい。ササギは、ササゲの訛りという説が大方のようだ。札幌でもササギと発音するようだ(ソース)。ただ、札幌では、モロッコインゲンをササギという話もある(ソース)。このモロッコインゲン=ササギは、お煮しめとよばれる煮物として夏場によく食べた。お盆のお墓参りに持っていくのだった。

大角豆交差点の歩道橋に初めて登った

ササギかササゲか?以前にオオカドマメって読んだだよ、おいら。おいらが初めてつくばに来たのは平成になって間もなく。仙台からみんなで車で行った。今から思うと国道6号線で南下、学園東大通り入口の交差点から東大通りに入った。ナビをするわけでもないが、車外の風景と地図の地名を照らし合わせていた。運転者と今どこを走っているか確かめていた。オオカドマメって読んだことは記憶がある。

この大角豆交差点は筑波学園都市でも最古参なんだろうな。錆びれているよ。"つくば市"ができるずーっと前からあるんだよ、たぶん1970年代中頃。今はすっかり便数が減ったが、東京駅から高速バスでつくばに行くのが主流だった。そのとき、常磐道を桜土浦出口で降りて、この大角豆交差点を右折して学園地区に入る。少しして最初の停留所、並木一丁目がある。ちなみに桜土浦出口の桜土浦の由来は、常磐道開通当時(1981年)の桜村(学園地区の舞台)と土浦市の両方に花を持たせて名付けたと推定される。最近の人はなにがどうして"桜"なのか?わからないだろう。いずれにせよ「つくば」がなかったころである("筑波"町は筑波山直下にあった)。つくば市発足は1987年。ぎりぎり昭和か。

つくばに来て10年以上経って、初めて大角豆交差点の歩道橋に登った(暇だな、おいら)。


小林千草・『伊達政宗、最期の日々』、あるいは、元祖「死ぬ死ぬ詐欺師」の最終演戯

2010年08月15日 07時37分15秒 | 仙台・竹雀・政宗



週末本屋に行ったら、平積みしてあった。初めて知る。小林千草、『伊達政宗、最期の日々』。今年7月20日刊行。買う。

いささか また みずから ひそかに政宗マニアであることを期すも、『木村宇右衛門覚書・伊達政宗言行録』(Amazon)を読めない"古文盲"( こもんもう )のおいらにはありがたい本。おいらが愚記事「伊達政宗終焉の地」で書いたことの内容は『木村宇右衛門書・伊達政宗言行録』由来。

▼関連人物;木村宇右衛門、小井川百合子、小林千草。
 木村宇右衛門は伊達政宗の小姓。実際に政宗に仕えて、その記録を文章化して残した。小井川百合子さんは仙台市立博物館の学芸員。所蔵の『木村宇右衛門覚書』原文を活字に起こして出版(翻字、翻刻)した人。小林千草さんは東海大学文学部教授。近世日本語屋さんらしい。この『伊達政宗、最期の日々』で、『伊達政宗言行録 木村宇右衛門覚書』の政宗の死に至る様の記述部分を現世庶民のために解読してくれる。

Amazon;『伊達政宗、最期の日々』 [あー、ずんだもつ食いてぇーと思わせる表紙です(???)]

内容;
第一章、くもりなき心の月をさきだてて
第二章、病身をおして
第三章、将軍家光との別れ
第四章、殉死を望む家臣たち
第五章、政宗臨終
という章立て。仙台で死期を悟った政宗が、将軍家にあいさつをするため江戸に行き、江戸藩邸で死に、亡骸となって仙台に還るまでの1636年1月から同年6月までの小姓のドキュメントを現代語訳を示し解読。

著者の小林千草さんのバックグラウンドである当時の狂言や能など、そして当時の言葉についての知識をもって、政宗の言動の背景を解説。さらに小姓とはどういう役目なのかおいらは今回勉強になった。政宗と小姓たちが狂言として遊ぶ「秀吉お茶会回顧」は圧巻。最高指導者は孤独だとよく言う。戦国武将は小姓を取り巻きにしてこうして遊んでいたんだだなぁとわかる。さらに、親子関係、夫婦関係も今テレビでやってる時代劇をホームドラマ化しているような風でななく、親子関係、夫婦関係もかなり「緊張」関係があるとわかる。こういう背景で、政宗の「真実」の姿を知っているのは実は小姓たちなのである。だからこそ、小姓、木村宇右衛門の記録者としてのすごさがある。残っててよかった『木村宇右衛門覚書』。ちょっぴり読めてよかった、『木村宇右衛門覚書』。

政宗、「死ぬ死ぬ詐欺師」時代

『伊達政宗、最期の日々』の小林千草さんは「伊達政宗の臨終観と言語行動」という心の月を先立てて『木村宇右衛門覚書』を読解。たぶん、政宗の履歴を耽溺するマニアではなさそうだ。普通の政宗マニアの心の月を先だてて政宗臨終と仙台伊達家のその後を考えよう。

『伊達政宗、最期の日々』にも書いてあるが、臨終のあと政宗の遺骸は、数週間前に仙台を旅立った衣装、つまりは束帯の御装束で、駕籠に入れられ仙台に運ばれた。白装束(しろしょうぞく)ではなかったのだ。生きている時、さらには血気盛んなころは重大事に白装束をまとい、周囲の度肝を抜いていたのに.....。

政宗が初めて関東に来たのは1590年。政宗24歳。小田原攻めのため東征していた豊臣秀吉に呼び出されたからだ。事実上の投降命令だ。呼び出しに応じても伊達家は危ないし、ほっとけば小田原・北条攻めのあと次の標的になる。6月、関東平野を迂回、遠回りして小田原に行く。秀吉に死装束で謁見。政宗、第一回目の大芝居。

ちなみに、この1590年というのは、45年後に自分が屋敷を建てて死ぬことになる江戸なんてものは全くない時代である。家康江戸転封は1590年。ここ10年日本の主要都市が次々に開府400年を祝ったが、この1600年を挟む50年というのは日本大発展の時代。こんなのだって政宗(伊達家)が掘ったんだよ。地形一変。

第二の政宗白装束大芝居は、翌年1591年、25歳。大崎事件で秀吉から嫌疑をかけられた時、白装束に磔(はりつけ)用の金箔をはった柱を持って参上。例の鶺鴒の目の花押で窮地を切り抜けた。

これら決死の行為は戦略的裏付けに基づく"大芝居"とされている。政宗が70歳まで生きおおせたのも、常に死ぬことを考えて、しかし実は、"掛け金"を担保することを先回り、用意周到に行ったからであるとされている。

政宗、でも実は二流の戦略家?

自分の運命はその自己演出と演戯のために全うした政宗であったが、仙台伊達家のその後は、政宗の死後わずか25年で、綱村隠居事件をむかえる。 のち、寛文事件(1660年)、いわゆる、伊達騒動に発展。すなわち、第三代仙台藩主・伊達綱宗は遊興放蕩三昧を理由に強制隠居させられる。これで、2歳の幼子が藩主となったうえ、内部で闘争。幕府に上訴、裁判の席上斬りあい。結果、仙台は"保護観察処分"。仙台には幕府からの"査察団"が常駐することとなる。

大きな背景は2つある。ひとつは伊達家内で"小姑"が多く直系の後継者が足を引っ張られたこと。ふたつめは、幕府内での外様大名弱体化政策。これらに政宗が中長期的な先手を打たなかったことにある。

例えば、ちょっと話がずれるが、政宗が死んだ時、政宗の婿(むこ)であり家康の息子の忠輝は43歳で生きていた。ただし、罪人として配流先の諏訪で。松平忠輝は"元気すぎて"、後々徳川直系の後継者の競争・敵対者になると警戒され改易、配流になった。決断、断行したのは、家康の意向と秀忠。つまり、危ない芽は事前に摘んでいる。家光は弟を事実上"殺して"いる。一方、政宗はこういうことをしなかった(若いころはしたのにね)。つまり、伊達騒動の後、幼殿をいただいて権勢をふるったのは政宗の末の方の息子である。彼らは、幼殿という体制になったから権勢をふるったばかりではなく、三代目失脚を一族の一部は図ったのだろう。「家臣と親族大名(池田光政・立花忠茂・京極高国)の連名で幕府に綱宗の隠居と、嫡子の亀千代(後の伊達綱村)の家督相続を願い出た」(wiki; 伊達騒動)。

政宗は、『木村宇右衛門覚書・伊達政宗言行録』、『伊達政宗、最期の日々』に書いてあるように、徳川将軍家への忠誠を尽くすことで仙台伊達家の存続を図ろうという戦略を取った。特に、秀忠、家光の両将軍には個人的にとても深い絆を持ったといえるだろう。

しかし、時代が変わると、幕府は将軍の独裁的意向で運営されるのではないということに政宗は無頓着だったに違いない。つまり政宗は個人を超えた制度が自律するということに考えが及んでいない。1660年の幕府による仙台伊達家弱体化の時の事実上の最高権力者は当時下馬将軍といわれた酒井忠清。将軍ではない。将軍とはあるいみ緊張関係にある老中家臣団が権力を持つと石高の高い外様大名の存在は石高の低い三河武士たちにとって癪の種であるので、彼らが分割統治したがるのは当然。

一方、政宗は自分の藩において「個人を超えた自律する制度」を埋め込むことができなかった。だから、兄弟・親族で争いあう一族郎党となるのである。こういう事例は強大なカリスマが死んだあとの大組織で起こる普遍的なことだ。家康は、それを見越して、将軍家、老中、親藩の役割と幼長の序を制度としてしっかり埋め込んだといえる。(もっとも埋め込んだ最大のくさびは"禁中並びに公家諸法度"だろうけど。) 家康は自分の存命中に3代将軍を指名している。後で後継争いが起こらないように。そして、早めに引退している。「個人を超えた自律する制度」の運用を見守るために。