いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

東京散歩;多摩・永山 ⇒ 府中・米軍基地跡 ⇒ 浅間山(せんげんやま)

2020年06月28日 16時21分05秒 | 東京・横浜

1;永山駅(小田急、京王)、2;桜ヶ丘、3;大栗側、4;関戸橋(多摩川渡る)、5;府中郷土の森博物館、6;中央高速道 くぐる、7;府中大國魂神社、8;府中米軍基地跡、9;浅間山

■1→2;永山駅→桜ヶ丘


京王永山駅


乞田川


鎌倉街道を渡り、奥の桜ヶ丘方面入口へ

桜ヶ丘の開発前の航空写真(1957年)と現在(右)。樹木に覆われた丘陵地を、樹木を刈るだけではなく、丘を削って宅地化した。1957年の航空写真のKK'は鎌倉街道。

1960年(昭和35年) 京王桜ケ丘住宅地の造成工事開始
1961年(昭和36年)   京王桜ケ丘住宅地の分譲開始
1962年(昭和37年) 「桜ヶ丘」の町名地番施行
wikipedia

開発は1960年と早い。当時、住宅ローンというものがなく、現金を持っているクラスターがこの地に宅地を買い家を建てたと上記wikiに書いてあった。

今昔の感を惹起させるのは、当世の"金持ち"はこういう土地柄(高台で駅から遠い)は好まない(らしい)ということ。

2020.6.28時点でのこのあたりの中古住宅価格は、3480 - 7980 万円

民家を改造した交番

ロータリー

図中、飲食店マークの「ノア」と記された位置が、ロータリー。

桜ヶ丘東通りを通て、下っていく。

高台を降りると農地。開発前の丘陵はこういう風景であったはず。この農地の地主は京王電鉄に土地を売らなかったのだろう。

谷筋の街道にでる。

大栗川を渡る

■ 3 大栗橋 ⇒ 4 多摩川 関戸橋を武蔵野側へ渡る

■ 4 多摩川 関戸橋を武蔵野側 ⇒ 5 府中きょうどの森博物館

多摩丘陵側(多摩川西岸)の崖

■ 5;府中郷土の森博物館

展示の武蔵国府の模型

▼ 博物館の隣の交通遊園

■ 6;中央高速道 くぐる

■ 7;府中大國魂神社へ

緩やかな上り坂=多摩川流域沖積低地から立川面への段丘崖

大國魂神社

■ 8;米軍基地跡(府中基地)

フェンスの中。

旧米軍府中基地

1940年(昭和15年):旧陸軍燃料廠として開設。
1945年(昭和20年)9月2日:アメリカ軍が接収。
1957年(昭和32年)8月1日:用地が一部返還されたことに伴い航空自衛隊府中基地を併設。
1975年(昭和50年)6月30日:通信施設を除き全面返還。返還された土地の1/3は自衛隊用地として航空自衛隊府中基地が引き続き使用。 wiki より

米軍から返還されているのに、まだ利用されていない。財務省の管理下となっている。さらに、米軍施設がまだ撤去されず残っている。外から見られるのは巨大なアンテナ。敷地内には廃墟の建物が残っているとのこと。取材報告がある⇒ 府中空軍基地廃墟

■ 9; 浅間山(せんげんやま)

立川段丘面地域で特異な地形は、地域の東部にある浅間山である。
  この山は立川段丘面(高さ50メートル)から突き出し、孤立した丘陵で、高さ約80メートルある。南から北へ前山、中山、堂山と三つの山崖からなり、最高部は北部の堂山である。周囲の立川面との比高約30メートルであって、周辺にさえぎるものがないので山頂での眺望はすこぶるよい。
 浅間山の地質は多摩丘陵を構成する三浦層群から成るもので、周囲の段丘の地質とは全く異なっている。すなわち武蔵野段丘や立川段丘の形成される以前に、すでに、古多摩川やその他の河川によってその周辺がけずり取られ、孤立丘となって残った侵食残丘である。従って、地形的には多摩丘陵の一部で、多摩段丘に属していると考えられる。 (引用元;原文は府中市史)

 

 


新しい街でもぶどう記録;第294週

2020年06月27日 19時13分51秒 | 草花野菜

▲ 今週の看猫
▼ 新しい街でもぶどう記録;第294週

■ 今週の草木花実

■ 今週の東京


府中市 桜通り

■ 今週の燃やされるべきものども


府中郷土の森博物館の展示


全景

google

サイノカミ(google) というらしい。

■ 今週の昭和の成仏のために;強風地点


ビール工場と競馬場の間の高架橋:
~♪~ 愛してるいっても聞こえない 風が強くて ~♪~

■ 今週のレコンキスタ史跡探訪 

旧米軍府中基地

1940年(昭和15年):旧陸軍燃料廠として開設。
1945年(昭和20年)9月2日:アメリカ軍が接収。
1957年(昭和32年)8月1日:用地が一部返還されたことに伴い航空自衛隊府中基地を併設。
1975年(昭和50年)6月30日:通信施設を除き全面返還。返還された土地の1/3は自衛隊用地として航空自衛隊府中基地が引き続き使用。 wiki より


1958年の府中基地。
https://bobp31.homestead.com/FUCHU.html 様より転載


1970年代の航空写真


現在。 返還されても、放置。すっかり樹木に覆われている。


新しい街でもぶどう記録;第293週

2020年06月20日 20時34分05秒 | 草花野菜

▲ 今週の看猫
▼ 新しい街でもぶどう記録;第293週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週のメタセコイア

■ 今週の東京

東京都町田市

■ 今週の草木花実

■ 今週のプロジェクト

Google[町田 赤べこプロジェクト]

■ 今週の当たり

双子、当たった。

■ 今週の半額

■ 今週の久しぶり

東急電鉄に3ヶ月ぶりに乗った。

 


1951年の「帷幄上奏」;リッジウエイによる朝鮮戦争説明、あるいは、敗軍の大元帥、戦況を問い質す

2020年06月17日 18時49分43秒 | 日本事情

題名は、また、奇を衒ってしまいました。帷幄上奏とは、いあくじょうそう。君主制国家において、帷幄機関である軍部が軍事に関する事項を君主に対して上奏すること。帷幄とは本来は「帷をめぐらせた場所」のことを指し、「帷幕」などと類義であるが、「帷幄」の語は本義から転じて「大元帥ノ地位ニ於テノ天皇[1]」を意味するようになった。したがって、帷幄上奏は「(軍令事項についての)天皇への上奏」を意味する。wikipedia

確かに、敗戦前までは昭和天皇は帷幄上奏を受けていた。大元帥であったから。大元帥を辞めて5年後の1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発する。十日後の70年前だ。

【朝鮮戦争】6月25日で朝鮮戦争勃発70年となる。日本人の朝鮮戦争への関心は高くないと思う。先の大戦については今でもいろいろな本が出ている。日本人はコタバル上陸・真珠湾攻撃から敗戦、そして引揚げ、抑留など広く関心があり、今でも新刊として多くの本が出ている。一方、朝鮮戦争に関する本は少ない。具体的戦況は、仁川上陸作戦などを除き、あまり知られていない気がする。理由は簡単で、直接の当事者ではないからだろう。しかしながら、朝鮮戦争勃発で第一に出撃しなければならなかったのが日本を占領をしていた米軍。当たり前の史実だが、おいらは、最近再認識した(①1951年、札幌に進駐した米軍 ;第45師団(オクラホマ州兵); ②マ元のペット;第1騎兵師団 (1st cavalry division)、朝鮮戦争で苦戦(一部壊滅)し、主なき東京ではなく、札幌へ帰還; ③札幌、キャンプ・クロフォードにおける定山渓鉄道からの引き込み線; Do you know the way to Korea, in the Camp Crawford ?)。占領下の日本の基地がなければ韓国はもたなかったに違いない。朝鮮有事に疎いかもしれない日本人であるが、朝鮮有事は日本の有事と考えていたのが、ひろひとさんだそうだ。何と、朝鮮戦争勃発前にマ元との会見で北朝鮮侵攻を危険予知したとのこと。なお吉田茂は朝鮮有事などないという認識であった[1]。

【朝日新聞 2002/8/5】おいらが生涯一度朝日新聞を買ったのが2002/8/5の朝刊だ。この日の朝、ラジオで朝日の報道が話題となり、マ元の後任のリッジウエイが昭和天皇に「帷幄上奏」したというのだ。具体的には、朝日新聞にこうある;

 マッカーサー元帥の後任であるリッジウェー司令官との第1回会見は、51年5月2日に行われた。会見場となった米大使館の応接室の壁一面には、朝鮮半島の地図が立てかけてあった。
 天皇が「国連軍が朝鮮において極東の防衛に全力を尽くしておりますのは、私の感謝するところであります」と述べると、司令官は「ご希望ならば地図によってご説明致したい」と応じた。天皇は「ぜひお願い致したい」と地図の前に立ち、説明を受けながら「兵員の交替は」「ゲリラ作戦に煩わされることは」「戦略の重点は」「制空権の点は」などと朝鮮戦争情勢について次々に質問。司令官は一つ一つ答え、国連軍兵士の士気は盛んだと述べた。
 天皇は「日本としては朝鮮において国連軍が戦っていることは、北海道の住民にも精神的信頼感を与える結果となります」と発言、日本にとっては釜山も北海道も「一衣帯水」の関係だとも述べた。

昭和天皇は大元帥だったので軍事には相当通じていた。その勢いで、リッジウエイに「下問」しているのだ。昭和天皇とリッジウエイの会見は1951年5月2日。下の地図の右の4/22の状況の直後だ。

この朝日の記事は、天皇の通訳であった松井明の記録を紹介したもの。この記録は「松井文書」は未だに公開されておらず、研究者として豊下楢彦只ひとりこの史料を基に研究を行っている。豊下は『昭和天皇・マッカーサー会見』を出版している。なお、この本では、2002/8/5の朝日にある下記文章と内容は載っていない;

 リッジウェーとの会見は、あたかも大元帥が軍の責任者に下問するかのように、朝鮮での戦況を詳しく聞くなど「高度に軍事的」という以外にない。この文脈において、共産主義の攻勢に対して原爆使用の意思を問う発言がなされた。こうした問いかけには、政府や外務省の頭越しに安全保障問題でマッカーサーと議論を交わすなどの「二重外交」に通底するものがあろう。それは、共産主義から天皇制を守り切ろうとする強烈な意思と、「天皇リアリズム」とも言うべき冷徹な情勢判断である。(豊下楢彦)

 

[1]

当時山口県知事であった田中龍夫(wiki)は、独自の情報取集で朝鮮有事の危険を予知した。しかし;

危機感を感じた田中知事は、上京を決断、6月21日大磯に吉田茂首相を訪ね、「どうもこのままでは、有利な北朝鮮が侵攻する可能性が高いから、何とかして下さい」と報告したところ、吉田首相は、「3日前に38度線を視察したジョン・フォスター・ダレス特使(のち国務長官)が、帰途日本に立ち寄り、『米軍の指揮は旺盛で、装備も充実しており、決して心配ない』と言ったばかりだ」と怒り出したのであった [山口県史] (朝鮮戦争と日本の対応―山口県を事例として― 庄司潤一郎)。 吉田茂が怒ったと田中龍夫が証言している音声はこのYouTubeの16分目あたりにある。これに対し、1949年11月、昭和天皇とマ元帥の9回目の会見の時「ソ連による共産主義思想の浸透と朝鮮に対する侵略等がありますと国民が甚だしく動揺するが如き事態となることをおそれます」と朝鮮戦争を予見し、マ元帥に忠告していた。

 


新しい街でもぶどう記録;第292週

2020年06月13日 18時05分34秒 | 草花野菜

▲ 今週の看猫
▼ 新しい街でもぶどう記録;第292週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週のコロナ禍

■ 今週のみきゃん不在

みきゃんはすっかり無役になったらしい。

■ 今週の感染爆発:「白人世界で文革コロナ爆発」

中国発の武漢ウイルスの感染が世界を覆い、多数の死者と社会・経済の停滞を招いた。そんな大変な最中、事態は中国発の文革(文化大革命)の感染が植民地主義の「白人」欧米諸国で爆発。米国での警察権力による黒人容疑者殺害をきっかけに、話が黒人差別、その起源としての奴隷貿易へと遡り、欧米で奴隷貿易・植民地主義に携わった人文の像が壊される事案が同時多発。

英国のブリストルで奴隷商人のエドワード・コルストンの像が廃棄


コロンブスの裁頭

 
愚記事より

破壊を恐れて囲われるチャーチル像。保護されたがRacistよばわりされる。

【反人種差別デモ】 倒され、落書きされ… 標的になった各地の像

■ 今週の驚き;アレッポ

売り場で「アレッポ」と目に入った。シリアとあるのだから、あのアレッポだ。瓦礫となったアレッポだ。


Google

■ 今週の購書

豊下楢彦、『昭和天皇・マッカーサー会見』。2008年の本。もう12年前だ。それより昔の2002年8月5日の朝日新聞。この日、昭和天皇の通訳を務めた松井明の手記の存在が確認された。この史料をも使った研究が、豊下楢彦、『昭和天皇・マッカーサー会見』。旧安保条約のかなり重度の保護領(prptectorate)的内容は、吉田茂ではなく、昭和天皇が「主導」したという説を書いた本。朝鮮戦争時のことを調べていたら、この本にたどりついた。

 

 


新しい街でもぶどう記録;第291週

2020年06月06日 19時10分40秒 | 草花野菜

▲ 今週の看猫
▼ 新しい街でもぶどう記録;第291週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週のコロナ禍事情

繁華街で閉店目立つ。

■ 今週の購書

2か月ぶりに本屋に行った。新刊を2冊買う。たまたま両方とも文藝春秋社刊だった。

(まだ全部読んでいないが)小川和久の『フテンマ戦記』では、1項目を設けて、岡本行夫[1]批判をしている。岡本行夫は、軍事・安全保障の実態を知らないのに、アメリカのいうことをそのまま鵜呑みにして、かつそれを喧伝し、アメリカのいうことを聞かないとアメリカに捨てられ日本は滅びるぞ、と国民にプロパガンダを流し続けた「外務省随一の嘘つき」という解釈。もっとも、小川和久は日本の対米基地提供・兵站供給で日米関係維持=米国の覇権維持を主張する立場らしい。これから、読む。

[1] 愚記事:岡本行夫といえば「アメリカ真理教」の最高の活動家。

■ 今週の到着

政府(厚生労働省)マスクが来た。郵便の人が配達してくれたが、配布された物に宛先が書いていない。どういう手順で配布しているのか不明。地区ごとに配布しているのだろうか?