▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第29週
■ 今週のよその猫
■ 今週の筑豊境
■ 今週の花
■ 今週のイカ
大葉漬け真いか(X)
■ 今週の半額
フランス産酵母のバゲット(フランソア web site)
お米が、依然、高いので、半額パンを贖う。バゲットの意味(定義)も知らないけど。調べた。
バゲットとは、細長い形をしたフランスパンのこと。フランスの家庭で最もよく食べられるフランスパンとして知られています。その形からフランス語で「杖」や「棒」という意味のバゲットと呼ばれるようになりました。(ソース)
■ 今週の「小人」
歩人(ほびっと):歩人は美瑛町にてハム・ソーセージ・ベーコン等の食肉加工品を製造している唯一のメーカーです
■ 今週の探し物
焼津産かつおだしの 特製茶碗蒸し(X)
茶碗蒸しのぎんなんを探した。底の方にあった。
会社メニューではぎんなんが表面にある。
■ 今週の尾頭付き
頭が付いているうなぎのかば焼き。初めて見た。西日本ではこういうものらしい。
博多 若杉
頭が付いているうなぎのかば焼きは、関西地方で好まれる調理法で「有頭」と呼ばれます。関東では頭を切って焼きます。(google)
■ 今週の基地外米兵
公然わいせつ疑いで米兵を逮捕 商業施設内で下半身を露出 「出していない」と否認 石川署 沖縄 (google)
石川署によると、男は1人で商業施設を訪れていたとみられ、施設内店舗の陳列棚付近でズボンをずらし、下半身を出して無言で立っていたという。
■ 今週借りて読んだ本
①山本舜勝『三島由紀夫憂悶の祖国防衛賦』1980年
②山本舜勝『自衛隊「影の舞台」』 2001年
③杉原祐介・剛介『三島由紀夫と自衛隊 秘められた友情と信頼』 1997年
④平城弘道『日米情報機関 「影の軍隊」ムサシ機関長の告白』 2010年
⑤西村繁樹『三島由紀夫最後に会った青年将校』 2019年
三島由紀夫と自衛隊の関係を知るため読んだ本。上記著者4人のうち、山本舜勝[wiki](1919-2001)と平城弘道(1920-死亡年未確認)は陸士出、旧軍経験のある自衛隊員、一方、杉原祐介・剛介(1936-1988, -)、西村繁樹[wiki](1947-2019)は防衛大学出の自衛隊員。
三島由紀夫が自衛隊に体験入隊するのは1967年。自衛隊の受け入れ鍵人物は藤原岩市(wiki)。その女婿、冨沢暉[ひかる](1938-)(wiki)、防大4期、のち陸上幕僚長。同じ防大4期の菊地勝夫が三島の世話役を行い、三島と終生最も親しかった(ひとり)とされる。③杉原兄弟の本は菊地勝夫の経験、回顧を元にしている。⑤西村繁樹(防大13期)は、最若自衛官かつ士官として三島と親しく付き合っている。防大出身者はいずれも、もれなく、三島のクーデターの誘い、暗示を拒否し、歴史が示すように、三島の起こした事件には(少なくとも直接)関与していない。冨沢暉、西村繁樹は「親米派」としてのちの日米安保体制の主流派を担う(「アメリカの傭兵」!)。三島由紀夫にとって、冨沢暉ら防大4期は初めて会う若手自衛官であり、西村繁樹は最後に会った自衛官ということになる。
【自衛隊と憲法】上記の本では著者たちは多かれ少なかれ自衛隊の在り方、地位について煩悶している。理由は憲法との関係である。上記本の著者たちは憲法が改正され自衛隊が国軍となることを望んでいる。そういう著者たちの世界像、すなわち状況認識([当時の]現状認識)に特徴があることがわかった。どの本も共通している。以下4点が明瞭に書かれてない;
1.自衛隊の前身でありそれがなかったら自衛隊がないであろう警察予備隊について、マッカーサー元帥(マ元)の命令で創設されたことについての言及。すなわち、日本人が自発的に創設した組織ではないことを云っていない。マ元が命令した理由は朝鮮戦争が勃発したからである。その時点はまだ占領下である。日本に主権はない。占領軍による軍事独裁政権であり、独裁者であったマ元の一存で警察予備隊創設が決まった。占領下日本政府に命令した。
2.憲法制定にあたりマ元はノートを出した。そこでは日本は自然権である国家固有の自衛のための戦争を放棄することと指示されていた。主権国家の自然権さえ剥奪した。それが9条。日本の安全は戦勝国=平和を愛好する諸国民に恃めという。現実にはマ元は、講和後日本が非武装でも沖縄の米軍空軍で日本防衛ができると考えた。日本の完全非武装化がマ元の夢であり、また、実現したのだ。1950年までの5年間。
3.朝鮮戦争勃発。戦勝国=平和を愛好する諸国民が仲間割れ。朝鮮戦争を始めたのはソ連・中共・北鮮の国際的共産主義諸国である。米国は元来ソ連・中共(国共合作政府として)と軍事的に同盟、連携していた。そして、米国は防共国家であった満州国を認めず、チャイナ大陸の国共合作政府を支援し、ソ連と同盟し防共国家であった満州国を滅ぼした。国際共産主義への最大の貢献者は英米である。チャイナ大陸を中共にくれてやった。なお、今となってはソ連の北方領土占領のため米軍が上陸舟艇などを提供し支援していたことが明らかとなっている。米ソは「連合赤軍」であった。
4.つまり、国際共産主義と同盟し、日本を征服し非武装化した米国が国際共産主義諸国と仲間割れを起こし、国際共産主義諸国がわずかに米国支配地域とした朝鮮班南部に攻め込んだのだ。日本は非武装、日本列島に米軍は2個師団。米国の国際共産主義との同盟、日本非武装、平和を愛好する諸国民の内ゲバという驚愕の事態にマ元は直面。そこで、日本に兵力の創設を命令。できたのが警察予備隊。すなわち、一連の出来事は米国の無責任な理想追及とその破綻と対応のための御都合主義である。自衛隊と憲法が不整合なのはマ元が別々に、違う時代に、その場の状況で発した命令、すなわち非武装憲法の制定、警察予備隊創設が矛盾しているからだ。独裁者の恣意的な決断の非整合である。
そしてこういうでたらめなことをする米国との同盟を主軸にしているのが現行の自衛隊である。
「自衛隊とは、アメリカの日本人によるアメリカのための兵力」、という認識はもちろんない。
▼ ①山本舜勝[きよかつ]『三島由紀夫憂悶の祖国防衛賦』1980年
山本舜勝[wiki]は元陸将補、三島由紀夫に訓練を施した自衛官。山本は間接侵略からの防衛を担っていた。当時の状況からみて、間接侵略とはソ連・中共・北鮮からの支援を受けた国内共産主義勢力が内乱を起こし、ひいては支援外国軍を日本に呼びこんで日本を侵略、征服することだ。朝鮮戦争後、日本の周囲は南北朝鮮、大陸中共と台湾の2つの内戦が最終決着せず、いつ熱戦になるかもしれないという状況。それは、実は、2024年も今もそうなのであるが。特に、朝鮮戦争はソ連・中共・北鮮の3か国の協力で実施された。当時の最有力国は、もちろん、ソ連。したがって、朝鮮戦争休戦勅語、最悪、北海道、朝鮮半島、台湾海峡に共産国家勢力、ソ連・中共・北鮮の一斉侵攻という脅威も理論的には考えられた。ただし、その後の中ソ対立[wiki]でこの脅威は緩和する。
したがって、自衛隊の間接侵略対策は、国内の左翼の潜在的叛乱戦力の状況把握と対策であった。山本舜勝が三島由紀夫に施した教育訓練は、銃を撃ったりすることではなく、さらには自衛隊基地内でさえなく、基地外、市井で「探偵ごっこ」のごとき訓練を行うことであった。つまり、「敵」を尾行したり、変装したり、尾行する自分が尾行されていることを教官から知らされ青ざめたりと。なお、三島由紀夫はこれら訓練にいたく感激し、昂奮・興奮の極みに達していたと記録は伝えている。
非正規軍[1]:三島由紀夫は非正規軍の重要性を主張し、自分の役割は非正規軍にあると思いいたった。1967年頃。山本舜勝は自衛隊での非正規軍の専門家なので、三島と親しくすることとなった。酒を酌み交わした回数は数えきれないと云っている。
[1]非正規軍は国家権力から独立して行動する陸軍であり、言い換えれば私兵の集団である。非正規軍はゲリラ、パルチザン、レジスタンス、テロリスト、武装勢力、民兵、革命軍、反乱軍など、その呼び名はさまざまあるが、教育訓練の程度は低く、装備は単純であり、また指揮系統が十分に集権化されていない場合が多い。全面戦争、限定戦争では直ちに壊滅する恐れがあるが、低烈度紛争、ゲリラ戦であれば戦果を上げることができる。(引用元:軍事学を学ぶ)
治安出動。自衛隊の任務に治安出動がある。内乱を警察が解決できないとき、自衛隊が出動する。190年代後半のいわゆる70年安保、あるいは「1968年革命」の時期、自衛隊が治安出動の準備を始めたのは1967年の10/8羽田事件の後とのこと。この治安出動が三島のクーデター幻想の炎に油を注いだ。その油を注いだのが山本舜勝であり、その炎にびびって火消をしたのも山本舜勝である。マッチポンプであったと⑤西村繁樹は評している。そして、その治安出動ークーデターの妄想の炎の火消に失望し、結果、あのようになった。
*山本舜勝が、1952年に、自衛隊(当時、保安隊)に入った動機;
私は、戦争は絶滅しないし兵備は必要である。しかし今度こそ外征の侵略性を帯びない新しい健軍が必要であり、情報・心理戦に遅れをとってはならない。そして敗戦の頃、模索に終わった民間防衛がその基盤とならねばならぬであろうと考え、自衛隊に応募した。 p86
▼ ②山本舜勝『自衛隊「影の舞台」』 2001年
山本舜勝は三島由紀夫の治安出動と組み合わせたクーデター計画はあったと云う。確固たる根拠ではなく、状況からの推定だ。黒幕のジェネラルはH陸将補と自衛隊トップSだという。Hは広瀬栄一陸将[wiki]、Sは杉田一次陸将[wiki]と容易に推定される。事実、④平城弘道でもそう確認している。
三島はまた、アメリカ陸軍やCIAなどとの間にパイプをもつH陸将とも何らかの関係があったようである。H陸将は藤原とともに戦時中は軍中央に勤務し、戦後は自衛隊新設に関わり、米軍と密接な関係にあった。Hやのちに自衛隊トップに就任するSは、敗戦が決定的になった昭和二十年頃、中央の方針に背き米側に向けて秘かに終戦工作を画策した。戦後、米国による日本の事実上の再軍備が決定される中で、彼ら「親米派」軍人は次々に復帰を果たす。
私が三島とともに行っていた訓練をSや藤原は知っており、公認していた。だから三島が彼らに会うことは何ら不思議はなかった。だが、その会見や話合いが、かなり具体邸行動に踏み込んだものであることを知ったのは、私たちの訓練がだいぶ進んだ秋口、「楯の会」が結成された頃である。p195
▼ ③杉原祐介・剛介『三島由紀夫と自衛隊 秘められた友情と信頼』 1997年
杉原祐介・剛介という双子の兄弟は防大4期。三島由紀夫と一番親しかったと杉原兄弟が云う菊地勝夫に、杉原祐介がインタビューや菊地の未発表遺稿を基に三島由紀夫のエピソードを(も)書いた本。
この本は小説として書かれている。三島と自衛官、菊地勝夫と岩田貞幸との対話が書かれている。結論は、三島由紀夫が自分よりひとまわり若い自衛官にクーデターを持ちかける。防大出身のふたりは槙智雄[wiki]校長の薫陶を根拠に、峻拒。
三島のせりふとして次を書いている;
「国とは何か、日本とは何か、これらをつきつきめて行くとですね、僕は、天皇陛下です。天皇陛下のために生命を捧げる。この精神が防衛の精神でなくちゃいかん、と思っています。実は、僕はこのごろ、日本はこのままじゃ、駄目になる。それはアメリカの押しつけた憲法が悪い。小泉信三のつくった今の天皇のあり方、小泉信三もいかん。日本の文化の破壊者、共産主義が最もいかんと思って、論文を書こうと思っているんですがね」
防大初代校長の槙智雄は、小泉信三が吉田茂に推薦した。当初、吉田は小泉に校長就任を頼んだ(情報源)。
戦後の教育を約十年受けたところで、祐介は防衛大に入った。祐介は自衛官になることは、民主主義を基調とする日本を守るためなのであって、国防は、天皇陛下を頂点とする国体のため戦うといった発想でなすべきことではないと考えていた。忠君愛国だの、滅私奉公だの、精神力だのという言葉に”いまわしい戦争”が思い出され、そういう言葉を聞くのもいやだという感じが、防衛大の学生となっても、なお残っていた。海兵出や陸士出の教官たちに対してさえ、戦後の苦労の原因が彼らの中にある、と決めてかかっていた。少なくとも大戦の敗因に彼らが大いに関わっていたと。
また、祐介には、メイド・インUSAのライフルに屈辱感を覚え、十年前まで戦争していた米国との安保条約も不愉快であった。純粋な新しい国軍が夢であった。p132
海外航海研修に参加した経験を経て杉原祐介は云う;
この航海で、アメリカの偉大さを観たこと。日米海軍が十数年前、敵と味方に分かれて激闘した中で、「日本海軍は敵ながら天晴」と彼らに思わせたほどの旧海軍の後進が、海上自衛隊と認められていること、お互い戦い合ったが故に戦後増した親密感、海上自衛隊の育成には手を貸してやったという優越的満足感があったのであろう。それらが奏功して米海軍からは極めて友好的に寓せられた。p144
▼ ④平城弘道『日米情報機関 「影の軍隊」ムサシ機関長の告白』 2010年
この本は三島由紀夫を主題に書かれたわけではないが、重要な点が書かれている。この本も主題は自衛隊「影の部隊」、「別班」。当事者が事情を明らかにした。なお、この本2024/10/12の時点で古書市場にない(もちろん新刊もなおない)。
⇒「 自衛隊の諜報機関「陸幕別班」-在日米軍とのもう1つの密約」(リンク先)
著者の略歴;
平城弘通 : 1920年、広島県に生まれる。1941年、陸軍士官学校を卒業し(第55期)、中国大陸を転戦中、銃撃を受け負傷。1943年、少年戦車兵学校区隊長となり、終戦を迎える。1951年、警察予備隊に入隊。1953年、保安隊本部情報調査部ソ連情報係。1956年、自衛隊中央資料隊第一科長。1960年、第七師団第七戦車大隊長。1964年、陸上幕僚監部第二部別班長、別名「ムサシ機関長」となる。その後、第七師団第二三普通科連隊長、東部方面隊二部長、統合幕僚会議第三室先任幕僚、統幕学校教育課長などを務めたあと、1973年、陸将補で自衛隊を退職。現在、株式会社OSC平城事務所会長(引用元:出版社)
◆ 山本舜勝との関係
平城弘道は、旧軍でも自衛隊でも山本舜勝と上下関係にあった。旧軍時代には、山本舜勝の強引な命令で死にかけたと回顧している。三島事件についての山本舜勝の行動を批判(後述)。
◆ 旧軍将校が自衛隊に入った動機;
敗戦後、世の中は目まぐるしく変わっていった。
占領軍の軍政のもとで、いわゆる「戦犯」を裁く東京裁判が行われ、東條英機元首相以下七人が絞首刑となった。マスコミは、占領軍の規制下で旧軍の責任を追及し、労働組合のストを煽動したりしていた。
私は家族を守るため仕事に忙しく、変動する時世に目を向ける暇がなかったが、北朝鮮が南朝鮮に攻め込んで釜山付近まで迫ったころ、これは日本が危ない、日本が戦場になろうとしている、という危機感に打ち震えた。
それは戦場経験者にしかわからない勘であった。
国民の大半は、かつての敵、占領軍にこびへつらい、平和の叫びをあげるとともに、反米、反戦の動きも大きくなり、占領軍の締め付けも厳しく、政治も混乱を続けた。このままでは護国の鬼と化した三〇〇万の将兵の死を無駄にしていまう、と切歯扼腕する思いだった。p108
旧軍の下士官にあたる警察士補は、多くが年配の旧軍歴者であったが、幹部は米軍お気に入りの連中が若くしてなっているから、隊員の指導に困惑しているのは無理からぬことである。p117
敗戦によって壊滅した国軍復興の礎となると信じて警察予備隊に入隊したのだが、 p118
◆ 林三郎元大佐。
外務省でいちばんソ連関係に詳しい人は、林三郎元大佐といって、ソ連大使館付武官の補佐官をやっていた人だった。p142
林三郎の名前を見出し、にこにこできた。林三郎は林達夫の兄。参謀本部にいた。
林三郎:1904‐1998年。インドのボンベイ市に生まれる。陸軍大学卒業。駐ソ陸軍武官補佐官、参謀本部ロシヤ課長、参謀本部編制動員課長、阿南陸軍大臣秘書官等を歴任(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) (ソース)
戦後外務省で働いている。旧軍から外務省へというキャリア経路があったらしい。
◆ 日米情報機関 「影の軍隊」ムサシ機関発足の経緯
昭和二九年(1954年)ごろ、在日米軍の大規模撤退後の情報収集に危機感を覚えた米極東軍司令官ハル大将が、吉田茂首相に書簡を出した。そのなかで、在日米軍の削減に伴う日米防衛共同作戦の必要性、自衛隊による秘密情報工作員育成の必要性を提案した。そのためには、まず相互の諜報活動の合意が必要であるということを基礎とし、折衝が重ねられた結果、陸幕二部と米陸軍第八軍G2との間に軍事情報スペシャリスト訓練(Military Intelligence Speialist Training/ MIST)に関する協定が結ばれた。山田正雄陸幕二部長と米軍情報部長・コリンズ大佐が調印したと伝えられている。p184
MIST教育は第二段階で実施され、昭和三一年(1956年)から、米軍の支援のもと、実質的な訓練が朝霞のキャンプ・ドレークにあるMIST・FDD内において開始された。p185
◆ 旧軍経験者にとっての旧敵アメリカ、あるいは、トラウマ
奥田代表(奥田重武)も清野代表(清野不二雄)もやはり、日米戦争のトラウマに苛まれていたようで、アメリカ側はアメリカ側で、それを敏感に感じ、内心は警戒していたのではないか。
私は故郷が広島であり、原爆を投下したアメリカに対するトラウマは私のほうがひどかったと思う。しかいし、この日米秘密情報機関がある限り、日本の力では取得することができないアメリカ側の秘密情報を手に入れることができる。その大義の前に、私心を捨て去ることができたのだ。p204
◆ クーリッジ・オザキ [情報]、あるいは、雛型?
日米情報機関での米国構成員との仕事の意思伝達の円滑性のため、亡国のスポーツといわれたゴルフを始めた。米国構成員からゴルフを習うこととした。
一日目からドライバーの素振りだけを二時間みっちり、少しでも気を抜くと、遠慮なくオザキ教官の叱声が飛ぶ。オザキはイタリア戦線で苦労した男、遠慮なく私をしごいた。p202
この件は象徴的で興味深い。本にはクーリッジ・オザキが日系米軍人とは明言されていない。でも、「イタリア戦線で苦労した」とはあの第442連隊戦闘団[wiki]のことに違いない。もちろん、第442連隊戦闘団は日系人が多く参加した米軍部隊だ。民族ごと収容所に入れられるほど米国社会から敵視された日系人が米国への忠誠を示すためアメリカに移民した日本民族が兵士となり戦った部隊。アメリカの日本民族によるアメリカのための兵力。
さて、「自衛隊とは、アメリカの日本人によるアメリカのための兵力」、という認識がある(江藤淳 1986年)
自衛隊に対し、アメリカ人が望むのは、第442連隊戦闘団のような機能と存在ではないか、あるいは、雛型。
◆ 三島由紀夫と山本舜勝との関係について
まず、山本一佐の教育は兵隊ごっこといわれても文句はいえないもの。情報活動の実務、技術は教えているが、情勢判断、大局観を教えていない。とくに、三島の檄文を除いて、この著書のどこにも警察力のことが書かれていない。三島のクーデター計画でも、警察力には触れず、いきなり自衛隊の治安出動を考えているが、自衛隊の出動事態に対する研究がまったく不足している。p268
◆ クーデーターについて
まず、国外から小型密航船等により小銃、ロケット砲、爆弾等が大量に密輸され、ひそかに過激派勢力の手に渡り、野次馬群衆を引き連れて、全国各地で暴動が惹起される。なかでも主目標は国会と首相官邸、あるいはNHK等のテレビ放送機関であり、電気、水道、交通の重要施設も狙われる。皇居ももちろん襲撃される。
このような内乱の予兆が見られる場合には、警察が反対しても、政府は治安出動を発令するであろう。(中略)
そしていざ治安出動が下達されたなら、皇居、国会、首相官邸、報道機関や変電所等の民主重要施設に迅速に部隊を派遣。この場合、警察との協同を重視し、軍警一致で総理大臣に非常宣言を求め、現憲法の一時停止を表明させて、急速な事態収拾を図る。この際、極力、流血を避けるよう留意する。とくに、日米安保条約に鑑みて、終始、アメリカの了解をとるよう努め、両国間の緊張事態を防止する。
これは、戦後占領政策の是正、民主主義を基調とする独立国としての再生、すなわち、「維新」ともいうべき国家の革新を図るものだ。
以上のようなことは、私の夢物語であったかもしれない。しかし、私たち中堅幹部はもとより、制服の高級幹部も、一様にこのような夢を持っていたことは否定できない。ただ、これはあくまでも内乱状態を想定してのことであり、暴徒の武装化、群衆の暴徒化など、一般国民や諸外国の支持を得られる場合の、最終的決断である。
◆ 三島事件への見解
その後、事件の詳細を知るにけ、私が痛感したことがある。それは、三島の憂国の至情はわかるとしても、あのような内外情勢、とくに警察力で完全に左翼過激勢力を制圧している状況下で、自衛隊が治安出動する大義がない、ということだ。それを、事もあろうに、いままで恩義を受けた自衛隊のなかで総監を監禁し、隊員にクーデターを煽動するとは・・・・・。
その行為に憤慨するとともに、自衛隊がなせ、あの事件で警察機動隊の出動を要請したのか、自隊で十分処理することができたはずだと、心底悔しかった。
自衛官たちは烏合の衆のように総監奪回に向かい、斬りつけられたり撃退されたわけだ(以下略)
私は警察との連絡を担当していたからよくわかるのだが、それまでは過激派対策訓練の手ほどきをしていたこともあり、あの事件あ起こるまで、警察はたいへん自衛隊を尊敬していた。ところがあれ以来、まったく態度が変わった。誇り高き自衛官は、このことに思いを致し、反省すべきである。p261
◆ 山本舜勝の云う「H陸将」問題
「H陸将」すなわち広瀬栄一氏と藤原岩市氏が三島をそそのかし、わが身に振りかかる危険を感じて三島を裏切ったという山本一佐の主張は妄想であろうと思う。あのような情勢下で自衛隊が治安出動することはあり得ない。国民の信を得るのは、警察力が壊滅的打撃を受け、国民一般が自衛隊の治安出動は当然と考える情勢でなければならない。p268-9
▼ ⑤西村繁樹『三島由紀夫最後に会った青年将校』 2019年 (目次)
先週に、この本のことは書いた;
西村繁樹は元自衛官(1等陸佐)[wiki]。この本は2019年刊行だが、その年に死去。興味深いのは下記点;
1.防大時代、1966年頃、制服を着て紛争の大学に行き左翼学生と討論した。防大では周囲の同僚たちを「魂の抜け殻」と認識している。魂なき戦士=自衛隊幹部候補生という認識。「魂」が問題。だから、「魂」供給者の三島由紀夫に引き寄せられたのであろう。高校生の時『英霊』を読み衝撃を受けた。
2.体験入隊していた三島と1968年に初めて会い、計6回の面談をする。最後は1970年10月18日。三島事件(11/25)のひと月前。事件時は北富士駐屯地で隊長。事件後、1971年、部下を上司承認のもと皇居と靖国神社に連れていく。
3.この本でびっくりした。西村はその後内局に移動するが、上司が岡崎久彦。愚ブログでは、「アメリカ真理教の大尊師」とお呼びしている。外務省から防衛庁に出向していたのだ。西村繁樹は三海峡封鎖戦略を立てる。すなわち、ソ連艦船のオホーツク海への進出を阻止し、原潜による核戦争で(事実上)米海軍に有利になる状況をつくる。この「対米支援」(西村、自衛隊、日本政府は日本防衛と云っている)を以て、西側諸国の防衛の一端を担うという大義を掲げ、外交的カードとした。これこそ、江藤淳が云う「アメリカの日本人によるアメリカのための兵力」の運用だと思うだが。
4.三島の「自衛隊2分割論」、「アメリカの傭兵となる」問題について検討している。
西村は当然自衛隊を国軍にすべく憲法を改正すべしという立場。でも、国軍となっても日米安保は存続し米軍駐留は当然継続するという。「アメリカの傭兵となる」というは陰謀論だともいう。西村は自衛隊の起源(マッカーサーの命令によりアメリカの占領維持のため創設)や米軍が日本防衛義務を持つことは当然防衛のための作戦行使権利を得ていること=米軍行動を制限するものはありえないことには何もいわない。自衛隊も当然日本を防衛するのだが作戦行使権利で米軍と干渉した時どうするのであろう。米韓では指揮系統が決まっている。もちろん米軍が作戦統制するのだ。日米はどうする?
5.藤原岩市、冨沢暉(藤原の女婿)、菊地勝夫、岩田貞幸(三島の自衛隊体験入隊のホストたち)
冨沢暉(存命):陸上幕僚長[wiki]
■ 今週返した本
▼ ノーマ・フィールド、『へんな子じゃないもん』
先週にも書いた。
ノーマ・フィールドはシカゴ大学で教授だった人。東京生まれ。父親が進駐軍米兵。大学入学まで目黒区碑文谷で育つ。実家が春美栄光堂というブロマイド屋。ワシントンハイツの幼稚園・学校に通っていた。
「へんな子じゃないもん」という文句は本人が自己主張した時の言葉ではなく、彼女を庇護する祖母の言葉だ。この表題となった「へんな子じゃないもん」という文句の出自のエピソードはこの『へんな子じゃないもん』には載ってないかと思う。このエピソードはノーマ・フィールドの別の著作『祖母のくに』にある;
「おばあちゃま。へんな子つれてお医者さんのとこ行くの恥ずかしくなかった?」
さっきの猫の話のときからこっちを向いていない。でも答えはすぐにかえってきた。
「恥ずかしくなんてなかった。へんな子じゃないもん。自慢の子だもん」 p21
これは混血児である自分を祖母が連れて歩こうときの祖母の気持ちを聞いたのだ。
さて、この『へんな子じゃないもん』で驚いた件;実の叔母に母がパンパンよばわりされる話;
確かにオバたちは、母や祖母と違って、活発に自己表現する。話 騒動はほんの一例だ。母親が倒れて、今まで点検されなかった歴史が紛失するかのようだ。 なぜ今、 このことでこれほど怒られるのか、 当惑することも多かった。木に際した家庭にはよくあることだろう。ホームヘルパーに、姉はパンパンだったのよ、 と言ったらしい。 GI だった私の父と結婚したからだろう。 だが空振りだった。叔母が売春婦の意味で使ったその言葉は、一回りほど若いヘルパーさんには通じなかった。
その時の母の態度はあっぱれだった(ヘルパーさんは無論 この話を母に告げたのだ)。 あの当時、 自分自身と家族を養うためには何でもやった女の人たちを見下す なんてしたくない、と言った。けれどと彼女は付け加えずにはいられなかったが、それを咎める資格は私にはない。 「音と身振り」 『へんな子じゃないもん』p139
▼ 鈴木邦男『愛国と米国 日本人はアメリカを愛せるのか』2009年
昔、新右翼の代表とされ、平成になってからは?「右翼のはずなのに左翼のようなことを言う」と惹句がつけられているらしい鈴木邦男。彼の本は『腹腹時計と<狼>』だけ持っている。平成になってからの主張はよく知らない。「右翼」の米国観が書かれているらしいので、見た。
いきなり「世界観」が変とわかる。
下山事件、三鷹事件、松川事件を経て、五〇年に警察予備隊設置が決まり、共産党を排除するレッド・パージが行われた。同年六月に朝鮮戦争が勃発し、激しい戦闘が行われている(五一年七月休戦)。p155
これは不正確であるし、警察予備隊設置の起動力の衝撃性がわからない。警察予備隊(のちの自衛隊)は、占領軍=軍事独裁政権の独裁者の命令で創設されたのである。上の文章では、警察予備隊ができて、朝鮮戦争が起きたかのようだ。大丈夫か?鈴木邦男
愛国心=占領軍の撤収要請。ポツダム宣言では占領が終了すれば占領軍である米軍は撤退するはずだった。それを安保条約に基づく駐留軍と法的に書き換えて、占領軍がそのまま居座ることとなった。それが戦後体制だ。当時の右翼はこれを是認した。理由は右翼が尊皇だからである。当時、在日米軍が「官軍」だったのだ。そういう状況で1968年の佐世保の空母エンタープライズ排撃運動事件。昭和の攘夷運動だ。「左翼」が活躍。でも、支援したのは占領軍が事実上そのまま居座ることへの一般国民の対米感情の爆発でもあったに違いない。そのこと;
佐世保のエンプラ排斥事件[wiki]で、藤本敏夫[wiki]が佐世保の住人に「あなたたちを見ていると戦争で死んだ父を想いだす」「兄を想いだす」と云われたらしい。
本当ならば、藤本たちは反論すべきだ。いや自分たちはそんな日本帝国主義の戦争で犬死した人々と同じでなはい。 このエピソードを得々と話している。
でも、<敗北感>も味わった。藤本たちに負けたと思った。読んだ直後は、単なる嫉妬だったのかもしれない。僕たちこそが、本当の愛国運動をしている。本当はアメリカは嫌いだ。でも、ストレートに反米を言って安保反対運動をしたら、中国、ソ連が襲いかかってくる。それを国内に引き込む勢力もいる。だから、ここは歯をくいしばって耐え、安保を通すしかない。そう思っていた。しかし人民はそのことを理解してくれない。逆に、左翼の学生を支持し、応援している。けしからん、そう思っていた。p186
鈴木邦男は、当時のソ連・中共の脅威を語る。そして、その脅威から日本を守るため日米安保条約(米軍大量駐屯による日本の属領化)は必要だとの認識を持つ。でも、逆に考えると米軍大量駐屯による日本の属領化を合理化するための、ソ連・中共の脅威を釣り上げたとも解釈できる。当時、中共はもちろんソ連だって日本に数万の兵力を上陸させる揚陸軍事力はないだろう。
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