いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

東京散歩:小田急梅が丘駅・羽根木公園⇒ 下北沢 ⇒ 代沢 ⇒三宿 ⇒三軒茶屋駅

2023年02月26日 15時31分48秒 | 東京・横浜

1;梅が丘駅、2;羽根木公園、3;下北沢、4;三宿の森緑地公園、5;三軒茶屋駅

■ 1;梅が丘駅 ⇒ 2;羽根木公園

北沢川緑道を横断

▼ 羽根木公園

羽根木公園(はねぎこうえん)は、東京都世田谷区代田にある世田谷区立の都市公園である。

全体として丘状の地形になっている。古くは一帯に「六郎次」という野鍛冶が住んでいたと伝えられ、「六郎次山」と呼ばれていた。その後、根津財閥の所有地となったため、「根津山」と呼ばれた。1956年に都立公園として開園し、1965年に世田谷区に移管され区立公園となった。wikipedia

■ ⇒ 下北沢駅


環七通りを跨ぐ


小田急 世田谷代田駅

人が並んでいるので何だろうと思う。

白髭の シュークリーム工房(google)

■ 3;下北沢

初めて来た。

下北沢は古着屋の街というので、のぞいてみた。

⇒ なぜブームに?「古着」には魅力がいっぱい!お手本は「9090」

⇒ 大人は知らない。下北沢で古着に熱狂する若者たち。

■ 下北沢 ⇒ 茶沢通り南下、代沢

スタバのマークがある店なのだが、スターバックスの文字が見えない。家に帰って調べた:普通のスタバとは違う!「ネイバーフッド アンド コーヒー」。つまり、「純喫茶」でなはいのだ。純喫茶とはアルコールを出さない喫茶店のこと。

■ 茶沢通りを右折、東へ向かう

boulangerie l'anis (Google) この時は人も少なく、目立たないお店だが、下記お知らせがあるので、家に帰って調べた。


淡島阿川公園(Google


淡路交差点


坂を登る

■ 4;三宿の森緑地公園

三宿の森緑地公園(Google

■ ⇒ 三軒茶屋駅

烏山川緑道 (wikipedia


三軒茶屋

▼ まとめ

通過町
東京都世田谷区
梅ヶ丘 代田 北沢 代沢 三宿 太子堂 三軒茶屋


新しい街でもぶどう記録;第432週

2023年02月25日 18時11分49秒 | 草花野菜

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の混雑

こどもの国。2/25の朝10時前。入場者多量。

■ 今週の草木花実

■ 今週の今季最後

ひと月前に購入したラフランス。やわらかくなるのを待って、食べ継いできたが、最後の1個。

1/21の記事

■ 今週の鍋

ガスト 生姜の牛鍋 豆腐一丁 (google)。出汁が濃く、生姜でさっぱりしていて、肉がやわかかった。豆腐は出汁とあってよい。

・糖質12.9g(1食あたり)
・ローカーボ料理研究家 藤本なおよさん監修
・あご出汁と追い鰹の出汁に高知県産の刻み生姜をたっぷりと。自家製豆腐一丁とみすじ肉のさっぱり牛鍋。
・別添えのレモンで味変もおすすめ。
・自家製豆腐一丁、高知県産刻み生姜、希少部位みすじ   web site

■ 今週の1925年/大正14年生まれ

左より、三島由紀夫 針生一郎 梅原猛 色川大吉 。4人は愚ブログに登場する。

4人のうち三島と針生は身体虚弱、病弱で兵役を免れる。兵隊にいったのは梅原と色川。本当に兵隊に行った色川は三島について云っている;

こうした(新入兵士に対する虐待)人間侮辱を知らないか、それに耐えられる者だけが、日本軍隊を賛美できるのだろう。「出陣」などという調子のよい美的イメージは、このときガラスのかけらののように飛び散った。学習院優等生で二十年二月に応召しながら即日帰郷になった三島由紀夫は知るまい。だから、かれはあのように幼稚な軍隊幻想をいつまでも持ちつづけていられたのだ。(『私の昭和史』)

色川大吉は、千葉県の出身地から出征する。そのときの思い出;

たまたま私の町に学童疎開で来ていた東京の下町の国民学校の小さな女の子たちが、寒駅の広場に私の見送りのために駆りだされてきて、泣くような小さな声で「予科練の歌」をうたってくれたことである。
 私はその間中、その子たちの一人ひとりの顔を眺めていた。かわいい子、淋しそうな子、喜びも悲しみも打忘れてしまったような(おそらくひどく空しく、また空腹だったのであろう)、生気の失せた数十の眸がそこにあった。これは私が復員してから聞いた話だが、彼女たちはそれから半年も経たないうちに、つぎの疎開先の日立で、アメリカ機動部隊の艦砲射撃を受けて殺されてしまったというのである。こんなときほど戦争の非情さを痛切に感じたことはない。いまでも「学童疎開」ときくと、あの飢えた、大人びた、幸薄い少女たちの顔が浮かんでくる。 (同上)

■ 今週の見送る女(ひと)、あるいは、余裕の女


ソース

1945年、二十歳の色川の出征を見送ったのは10歳ほど年下の少女たちであったが、彼の最期を看取ったのは22歳年下の上野千鶴子であった。今週の報道で、「あの上野千鶴子が入籍していた!」と。これをおいらが聞いた時、さもありなん、と思った。「あのおひとり様を唄う上野千鶴子が入籍していたとは、言ってることとやってることが違う」とのつっこみが当然生じた。おいらは、免疫があったので、そう憤慨はしなかった。そもそも、上野千鶴子は欺瞞的であることは周知であった。フェミニズムの教科書にも書いてある:

上野千鶴子が標榜するマルクス主義フェミニズムは、日本資本主義批判を行わず、むしろ日本資本主義の繁栄によって成立した大衆消費社会の女性利用に分乗していくという、いかにも日本的な折衷主義的マル・フェミだった。
・(上野津千鶴子のマルクス主義・フェミニズムは)マルクス主義を標榜しているわりには、女性搾取体制の物質構造の分析には無関心である。それは、大衆消費社会の到来に乗っかって、早々と転向した日本のマルクス主義者の例を見れば何の不思議もないが。そして、彼女らしく、人間的下部構造の分析に、その才気をきらめかし、世の男性たちをノックアウトすることを狙ったのである。 (大越愛子、『フェミニズム入門』)

さて、そんな千鶴子が惚れた男こそ、色川大吉だった。千鶴子入籍!には「へー」としか思わなかったが、相手が色川大吉と聞いて、「ファザコンだったのか! ほんとはマッチョが好きだったのか!」と思った。色川は上述のように、三島と違って、きちんと男らしく兵隊にもなれたし、元来登山で鍛えたらしく、強壮。そして、千鶴子と色川の馴れ初めはチベットらしい。チベットに行くほど元気なのだ。そして、96歳まで生きた。

なぜ、入籍? そして、謎がこれだ。おひとりさま主義に悖る入籍をなぜしたのか? 理由を邪推にするに、財産か介護のことで、「妻の座」が必要になったのだろうか? もっとも、文春報道は「入籍」とだけ。養子となった可能性も否定できないとの指摘あり。

参照 ⇒ Twitter [上野千鶴子の結婚]


宮澤喜一の言葉遣いにおける「連中」

2023年02月23日 16時28分33秒 | 日本事情

 

宮澤喜一が池田勇人大蔵大臣の秘書官として、占領下に米国本国へ訪問し、講和会議について東京のマッカーサー元帥(マ元)の頭越しにワシントンの米国政府と下打ち合わせを試みた。そのことが東京のGHQ首脳やマ元に知られることとなり、彼らが怒ったという話の回顧;

 その日京都で吉田さんに、アメリカで起こったことを報告しました。だいたい狙ったラインはできました。できましたが、連中が怒っていてはどうにもならない。なんとか宥めて発表しなければいけない。 『聞き書 宮澤喜一回顧録』

「連中」ということばは否定的意味を含むものと思っていた。辞書では;

  1. 《「れんぢゅう」とも》仲間である者たち。また、同じようなことをする者たちをひとまとめにしていう語。親しみ、あるいは軽蔑 (けいべつ) を込めていう。「クラスの―を誘ってみる」「こういう―は度し難い」 (goo辞典書

親しみ、軽蔑の両方の意味を持ちうるのだ。なので、上記の宮澤喜一の占領軍への感情は「連中」という言葉から一義的にわかるわけでないとわかった。もちろん、おいらは、当初、「やつら」と互換できるような感情と受け取っていた。もっとも、宮澤は下記回顧しているので、やはり、連中は連中なのだろう;

占領下にあることがいかに不愉快なものか、いまの人にはわかってもらえないかもしれない。

一方、江藤淳との対談で宮澤喜一は「連中」という言葉を使っている。対象は新左翼系学生運動家たちである;

 ああやって大学で騒動をやっているわけですけど、いわゆる反代々木といわれている学生たちの言っていること、していることが、私にはよくわからない。(中略)
 おそらくあの連中の大部分が生まれたときからすでに世界は平和であった。 江藤淳との対談、「その次に来るもの」、江藤淳、『表現としての政治』1969年より

政権与党の政治家なのであるから、叛乱学生には否定的感情しかもっていないに違いない。

一方、この対談で江藤の言葉遣いとして次が認められる;

安田講堂を占拠していた反代々木の諸君について、ぼくはその行動に対しては非常に反感を持っていますけれども、いろいろな理由から、彼らの心情の根本にあるものについては多少推測のつくようなところもあるんですよね。

江藤は、「連中」よばわりしていない。

■ 「連中」に先駆けて「自己否定」の宮澤喜一

1969年に宮澤喜一と対談した江藤淳は、宮澤が首相となった1992年「宰相宮澤喜一論」を書いている(現在、『大空白の時代』に収録)。江藤は宮澤を秀才ではあるけれども指導力、統率力がないと描く。宮澤は高校時代に「人を心服せしむる力なきため、その統率的才能を機会少なき所あり」と教師に評され、いつも全学年で3位以内であったのに級長になったことがないのだという。宮澤喜一が頭角を現したのは秘書官としてだ。「主」の池田勇人が宮澤を認め、常に肯定し、褒賞し、おだてて仕事に務めさせたことがよかったと江藤は云う。つまり、「主」(庇護者)に尽くす立場では才能を激しく発揮するのだ。一方、自分が尽くさせる、つまり、人を心服させ大勢を統率すること才能が弱かった。その原因を江藤は宮澤の「自己否定」だというのである。自分で自分を励ますことができない。「主」に励ましてもらわないと仕事ができない。そういう性格だと江藤は分析している。さて、「自己否定」といえば全共闘運動でうたわれた惹句であるらしい(wikipedia)。「連中」のことではないか!


新しい街でもぶどう記録;第431週

2023年02月18日 19時23分12秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第431週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の生まれた場所と死んだ場所が近い人

生まれた時のことを覚えている三島由紀夫は、東京都新宿区四谷四丁目22番で誕生し、東京都新宿区市谷本村町5-1 陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で死んだ(wiki)。その距離は1kmである。

■ 今週の同窓生;四谷第三小学校

 

三島由紀夫と宮澤喜一が四谷第三小学校の「同窓生」と知る。いや、いや、そもそも三島は学習院に通っていたことは有名だろうと、つっこみがあるだろう。そして、宮沢は、今wikiでみたら、予想違わず?、東京高師附属小学校(現・筑波大学附属小学校)だった。三島由紀夫と宮澤喜一が、約1年間、すなわち三島がそこにいた期間(昭和23年/1948年)、四谷第三小学校の「同窓生」であったという意味は、敗戦後、占領軍に接収され立ち退きを命じられた大蔵省が仮庁舎としていたのが、同校なのだ。三島が大蔵省を辞めた約半年後にドッジ公使が来日(1949年2月)。ドッジ・ライン:自由市場化。ドッジー池田蔵相の時代。宮沢は1949年3月に大臣秘書官となる。なお、三島は初出勤の場所も生誕地から近いと知る。狭い世界だ。

■ 今週返した本

 宮澤喜一、『戦後政治の証言』

「戦後レジームからの脱却」という惹句がある。なぜ、”レジーム”とフランス語を使うのかわからない。戦後体制といわないのか?それはさておき、戦後体制=戦後レジームとは、①占領征服軍事政権が制定した憲法と占領末期に朝鮮戦争で列島の軍事的空白を埋めるための②「警察予備隊」設置(占領軍命令)[のち自衛隊]、と占領終了のための講和条約締結の条件としての米軍駐兵権付与・治安出動(日本政治への軍事介入OK)権付与の③安保条約3点からなる、日本の保護国化体制のことである。つまり、講和後も占領米軍と朝鮮国連軍が列島を軍事的に使用できる体制、米軍天国体制である。これらの、戦後体制の要である、講和・9条・安保・自衛隊(米衛隊)の安保・自衛隊の創設、講和に関わっていたのが、宮沢喜一。戦後レジームの創始者、守護神である。宮沢喜一って、マッカーサー元帥(マ元)に会ったことがあると知る。1950年5月に池田蔵相が、占領下日本から訪米する時、事前にマ元に会った。その時、秘書官として通訳をした。マ元はほとんど日本人に会わなかったと伝えられている。

 「戦後レジームからの脱却」を叫んだとされる安倍政権の後の現在、岸田政権は、宮沢政権後初めての宏池会(元来、9条・安保・自衛隊体制の守護者、護憲派)政権。今では、岸田首相は改憲をいうが、実現しそうもない。ただ、戦後レジームのまま、米国の防衛力増強要求に答えている。つまり、これは講和条約後、池田ーロバートソン会談で、陸上自衛隊10個師団など日本の自衛隊の組織、規模を米国・米軍が企画し、日本に指示した構図と変わらない。まさに、戦後レジームである。

宮澤喜一、『戦後政治の証言』: 1991年6月刊行。初出、月刊誌『THIS IS読売』1990年10月号から1991年3月号に連載。つまり、宮沢政権(1991年(平成3年)11月5日から1992年(平成4年)12月12日 wikipedia)の直前。

1991年5月、「「真珠湾」から五十年後のいま、日米両国はお互いにとって最も大切な関係だといわれながら、多くのアメリカ人が日本はソ連よりも恐ろしいと思っている。」と本書の冒頭のはじめににある時代。

宮澤喜一、『戦後政治の証言』から抜き書きメモ;

大蔵官僚(今の財務官僚、通称Z)の政治家操縦;

 当時、日本の官僚がもっとも頭を使ったのは、どうやって占領軍という絶対権力者を自分の都合のよい方へ引っ張っていくかであった。権力者同士を内部で対立させ、その間隙に乗じるというディバイデッド・アンド・ルールの逆の手は古典的なやり方ではあるが、それなりの効果があることもあった。
 そこで私は、ドッジとニューディーラーたちとの離間にすこし精を出してみれば面白いのではないかと考えたのである。
 p16

昭和25年のアメリカ;

昭和二十五年四月二十五日、池田蔵相は占領下の日本の閣僚として初めてアメリカへ旅立った。(中略)(ワシントンでの二人で7ドルという質素なホテルで)羽田を発つとき、知り合いの料理屋のおかみがくれた福神漬と四号びんを私が持参しており、洗面器にお湯を張ってお燗をつけた。アメリカは蛇口をひねればお湯が出る国なんだと思って、あらためて感心したものである。p27-8

占領下の「辛さ」。でも日本「永久占領」を実現したのは宮沢が一兵卒として実現した吉田ドクトリンだけど。

 総司令部のなんとか少将などに頭を下げどおしで、息のつまりそうな占領下の日本からきてみると、まるで自由なものである。渡米は、私にとっては二度目であった。大学に入った昭和十四年の夏休みに、南カリフォルニア大学で開かれた第六回日米学生会議に出席した。(中略)印象に残ったのは、住宅が立派なこと。日本で誇れる建物といえば、有楽町の日本劇場ぐらいなものだから、国力がちがう。こんなに自由で力のある国と戦争をしたら負けるな、と思った記憶がある。(中略)
 その後、戦時中から戦後にかけて暗い国内に閉じ込まれたあと、十一年ぶりでアメリカの自由で開放的な空気を吸ったうまさは、今日も忘れられない。p29-30

占領下にあることがいかに不愉快なものか、いまの人にはわかってもらえないかもしれない。p45

アイケルバーガーに会った時の言葉(なおこの発言は、朝鮮戦争勃発前である)

「アメリカが日本に対し、あまりに懲罰的な政策をやってきたのは根本的に誤っていた。こんなにソ連がのさばるなら、ヨーロッパはドイツにやってしまい、アジアは全部日本に頼んだ方がどれだけよかったかもしれない。もう一度フィリピンのバターンから戦争をやり直させてくれたら、こんなへまな真似はしない」とまでいった。p33

宮澤喜一の「八月革命説」 

 さきに述べたように、前年から解除がはじまっていた政界の公職追放者は、独立後いっせいに復帰をめざして活動を開始した。ただ、この人たちが休眠を強いられていた敗戦から独立までの七年間の家うちに、時代はひどく変わっていた。この間の変革は、歴史が自然に流れていたならば百年をもってしてもなし得ないほどのものであった。さらに言えば、単なる年月の経過では起こりえないことが起こった。私などには「革命」があったと思われるのである。

 革命以前の人たちが革命後の社会をもう一度しようとする一方で、革命後の勢力である吉田首相とその一党の人たちは、サンフランシスコ講和条約を境として明らかに世間からあきられはじめていた。吉田政治の秘密性、側近性といったことに加えて、アメリカとの緊密な連絡のもとに行われてきた防衛体制の漸進的な確立、デフレ財政と呼ばれた均衡財政政策もまた世論の不満を買いつつあった。鳩山一郎氏を頂点とする旧勢力に好機が到来しようとしたのである。

 鳩山氏らは、第一に友愛精神をとなえて吉田式の秘密、側近政治を批判した。第二に、吉田氏の秘密のいわゆる対米一辺倒に対してソ連、中国との国交調整を主張した。 第三には。 従来の「なしくずし」的防衛は一方では独立精神をよわめ、他方で憲法にも抵触するおそれがあり、正々堂々と再軍備の旗をかかげるべきだと主張した。そして第四に、財政はすべからく積極的、建設的でなければならぬと説いた。 p72

寛容と忍耐;大平正芳と宮澤喜一

 私たちのほうは、新内閣のキャッチフレーズをどうしようかと相談していた。
 安保で荒れた世相を考えると「やはり大事なのが忍耐だな」といったのは大平氏であった。それにもう一つ何か加えようと言っているとき、私は「寛容」という言葉を思いついた。私は学生の頃 J・S・ ミルの本を熱心に読んだことがあった。ミルの『自由論』のなかには「tolerance-寛容」がなんども使われていた。それを思い出したのである。「寛容と忍耐」を掲げた池田低姿勢内閣はこうして誕生した。p115-6

このふたりはライバルだったとのこと。

大平正芳が総理に就任した頃、宮澤は酔った勢いで「大平君が総理・総裁とは滑稽だ」と言い放ち、これを伝え聞いた大平は宮澤と口を利かなくなった。2人は元同僚で池田勇人の秘書官時代からの仲だったが、宮澤は池田の盟友で東大の先輩である前尾繁三郎や黒金泰美に近く、大平が前尾が継承した宏池会を実力で奪い取った経緯があることから、微妙な関係にあった。wiki

池田勇人の「米国真理教」

キューバ危機で米国がキューバの海上封鎖をして、ミサイルを運び込む可能性がある船舶の海上臨検を行うことを決め、日本政府の了解をライシャワー大使が求めてきた時の話;
 (前略)事態がどのようなものであれ、公海で武力を背景に他国の船舶を臨検することは、平時の国際法では認められていないことである。(中略)ある外務省幹部が、国際条約と慣例からいえば日本はアメリカの行動に制約されなくてもよいのではないか、と発言した。しばらく無言が続き、私が「自分もそう思う」といったあとは重苦しい沈黙が支配した。
 池田首相は苦しそうに天井をみあげていた。随分たってから口をひらき、国際条約は慣例は大切だが、いまはおそらくそれが通用しない状況ではないかと思う、日本政府としてはケネディ大統領の決定を了承するとライシャワー大使に伝えてほしいと指示した 。p123-4

宮澤喜一の「米国真理教」:ベトナム戦争を容認

1975年外務大臣として米国のキッシンジャー国務長に会った時に宮沢は云った;
 私たちは、その時が初対面であった。そこで、私はまず「自分はアメリカの批判者、評論家として訪ねたのではない」と前置きして、日本人はアメリカのベトナムにおける努力が善意にもとづくものであったと信じていること、しかしアメリカの追求する自由、民主主義という政治的理想も、時と場合によっては不幸にして普遍性を失うのではないかということ、ただし自助の決意を持つ国々ではアメリカとの集団安保体制にたいする信憑性は緩い緩いでいないこと、日本はアメリカのアジア政策立て直しの過程で積極的に協力する用意があることーなどを率直につたえた。p193-4

知恵遅れ、宮澤喜一。三島由紀夫に遅れ20年、何か気づき始める;

 欧米の諸国には自由とか革命、独立のために血を流してきた歴史がある。そのような欧米人からみると、戦後の日本人の生き方は、平和を唯一最高の価値として、たとえ自由や独立のためですら、戦うことは悪だとみなしてきたと映るのである。
 (どんな目にあっても戦うことを拒否する考えに)たいして、「どんな場合にも平和は至上の価値なのか」という問題を提起したい、と私が思ったことはこれまで何度もあった。

 平和を追求することには、だれも異論はない。ただ、国際社会の公正をみだす行為にたいして、自分の損にならないかぎり知らぬ顔で座視してはばからないということには、国際社会の一員としてどこまでそれが許されるかという問題があろう。

国連常設軍を夢想。 憲法九条が禁止する「国権の発動たる戦争」には該当しない。 「国権」を越える。よほど、日本軍の創設を忌避したらしい。


洋瓦の家に住む「親米派」

2023年02月17日 18時47分09秒 | 日本事情


東京都町田市

愚ブログの「親米派」シリーズ;①黒塗りの家に住む親米派②赤レンガの家で中国整体を営む親米派、③蔦に覆われちまった親米派④犬を連れた親米派、⑤絵にかいたような「親米派」、に続く第6弾。

上の画像の右下の灰色の塀に「エヴィデンス」が貼っていた;

Google 画像 [route66]

なお、向かって左の家は;

「親米派」町内会?


横浜・東京散歩:こどもの国駅 ⇒ 鶴川 ⇒ 真光寺公園 ⇒ 黒川谷戸 ⇒ 多摩ニュータウン・南瓜生

2023年02月12日 15時23分05秒 | 東京・横浜

多摩丘陵への散歩を横浜市こどもの国駅から緑山峠を越えて、鶴見川を越えて、南多摩尾根幹線道路を少し超えたところまで散歩する。途中は鶴川から能ヶ谷、広袴を通り、開発された住宅街を見て、川崎市との境の緑道を通り、真光寺公園へ。その後、北方の未開発谷戸地域、黒川へ。黒川から「よこやまの道」を少し歩いて、南多摩尾根幹線道路に降りた。同幹線道路を旧鎌倉街道を北へ曲がり、南瓜生で散歩終了。

■ 散歩経路の大きな視点での位置づけ

多摩丘陵には多摩ニュータウンが帯状にある。丘陵地を削って凹凸を軽減し宅地とした。その帯の南の境界が現在の南多摩尾根幹線道路。それより南(地図で下)は地形がそのままに保存されている地域が多い。谷戸が残っている。もっとも、今回散歩する能ヶ谷、広袴、真光寺は谷戸は丘陵が削られ谷戸が開発され住宅街となっている。さらにその下に鶴見川が東西に流れる。沖積低地。さらに南は、再び丘陵域となる。そして、横浜市となる。その境に緑山峠がある。


:1;長津田駅、2;町田駅、3;相模原駅、4;八王子駅、5;聖蹟桜ヶ丘駅
:A;こどもの国駅、B;鶴川駅、C;黒川谷戸、D;国士舘大学付近

■ こどもの国駅 ⇒ 緑山峠 ⇒ 鶴見川 ⇒ 鶴川

こどもの国駅から北上し、緑山峠に続く旧道(歩行のみ可能)を行く。

▼ 緑山峠からの眺め;西の方。丹沢山地。

▼ 緑山峠を北上して、右手に町田市三輪緑山の住宅地を見る。

▼ 緑山峠を鶴見川が流れる低地の鶴川へ向かう。


鶴見川


小田急線を跨ぐ


鶴川街道を北上

■ 鶴川 ⇒ 能ヶ谷 ⇒ 広袴 ⇒ 尾根道 ⇒ 真光寺公園

B;鶴川駅東口交差点、γ:鶴川1丁目交差点、δ;広袴公園、ε;町田・川崎市境緑道真光寺2丁目付近、η;真光寺公園、C;黒川 谷戸、ι;よこやまの道、Φ;南多摩尾根幹線道路と旧鎌倉街道の交差点、D;南瓜生バス停


真光寺川

▼ 広袴公園

高そうな家が続く

「洋瓦の家に住む親米派」は後日の記事(予定)

▼ 町田市と川崎市の境の緑道

▼ 緑道を町田市側へ降りる。真光寺町。

▼ 町田/川崎 市境の詳細、発展史


1960年代


現在

▼ η 真光寺公園

⇒ 神奈川県、川崎市へ;黒川の谷戸

▼ C 黒川の谷戸:川崎市麻生区

農業振興地域に指定されており、豊かな自然が残っている」黒川の里山

現在の行政区画では川崎市の北部最西端に位置し、周囲を東京都稲城市、多摩市、町田市に囲まれた県境の地域である。

北側・西側・南側を多摩丘陵の山に囲まれ、その豊かな森を水源とする多摩川水系三沢川の水源地である。豊かな森と水に恵まれた当地域では、かつては農業や炭焼きが盛んであり、特に後者は「黒川炭」と呼ばれて良質のものを産したという。 (wikipedia

▼ ι 黒川の谷戸から林の道を入って進むと、「よこやまの道」へつながる。尾根を西へ進む。

南多摩幹線道路に降りる。幹線道路を進むと、旧鎌倉街道との交差点に至る。

■ まとめ

通過街
神奈川県 横浜市 奈良
東京都 町田市 三輪緑山 三輪町 
神奈川県 川崎市 岡上
東京都 町田市 能ヶ谷 広袴 真光寺町
神奈川県 川崎市 黒川
東京都 町田市 永山

 


新しい街でもぶどう記録;第430週

2023年02月11日 18時00分00秒 | 武相境

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第430週

■ 今週のよその猫

陸橋を渡ろうと階段を登っている途中、おいらの猫センサーが反応したのか、不意に後ろを振り向くと、猫。「みゃー」と呼び変えると、向こう様も反応してくれた。

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の春の兆候

関東の雪は春の兆候。梅が咲き始めると、雪が降る。南岸低気圧。関東では、日本海を越えてきた寒気に含まれるH2Oが原料となった雪は降らない。山脈で落としてくるからだ。関東の雪のH2O原料は太平洋のものだ。


南岸低気圧が通過した時のイメージ ソース

■ 今週の草木花実

■ 今週の富士山


東京都町田市広袴よりの眺望

■ 今週のウインタースポーツ


東京都町田市真光寺公園

■ 今週の輸入品

マレーシア産、ジュリーズのビスケット。レモンサンドは食べたことがあったが、OAT 25 は初めて。

チョコレート ヘーゼルナッツ (wiki)とある。

■ 今週の皮肉・アイロニー

今日は紀元節。YouTubeの「国民歌「紀元二千六百年」映像+歌詞付き」を見ると、1940年・昭和15年11月10日の紀元二千六百年式典(wiki)の映像があった。歌詞が「ああ 肇国(ちょうこく)の雲青し」のところの映像が国を亡ぼした近衛文麿、亡国の公爵だったので、苦笑した。映像はこの後、米内、東條と亡国の臣たちの御尊顔を提供してくれる。

肇国と亡国の間

■ 今週の攻撃者

トランプのことではない。これらの本の著者の松竹伸幸(wikipedia)という人が、党を攻撃したという理由で除名されたのだという。

党攻撃とかく乱の宣言google

■ 今週の訃報

・政治評論家・森田実さん死去 90歳 日本の米国追随姿勢を批判(google

1932年生まれ。60年安保より以前の砂川基地「闘争」からの活動家。西部邁の『六〇年安保 センチメンタル・ジャーニー』に「善良なる策略家」と題された一章が書かれている。大勢を動員する教唆扇動の術に長け、西部が「初年兵」の頃、東大の寮にやって来た森田に扇動され品川駅の労働者のストの支援に行くも、そんなものはなかったという体験が書かれている。でも、砂川「闘争」は、森田の指導のおかげで「勝った」(基地拡張を阻止した)と西部は書いている。

・ 水田洋さん死去(Google

2018年に「今週のお達者さま」として言及。

■ 今週の脂感満載


松屋 ハンバーグビーフカレー 880円 (web site)。以前松屋でやっていた「創業ビーフカレー」の後継らしい。牛脂たっぷりといった感じのお味。fast foodにしては、割高感がある。これも、(インフレ、値上げが顕著な)時代か?

■ 今週のキリ番

 ブログ開設から6800日

 


札幌郊外米軍キャンプクロフォードのペンタゴンと定山渓鉄道引込線の車両のカラー画像

2023年02月08日 18時36分02秒 | 札幌

愚記事に・札幌、キャンプ・クロフォードにおける定山渓鉄道からの引き込み線; Do you know the way to Korea, in the Camp Crawford ? ・札幌郊外の米軍ペンタゴン があり、定常的に閲覧がある。

(愚ブログの キャンプ・クロフォードに関する記事群

昨日、キャンプクロフォードの鳥瞰写真を見つけた。カラーだ。

カラーのペンタゴンが目立つが、よく見ると定山渓鉄道へとつながる線路に車両が見える。

■ 全景 この写真は現在の地下鉄南北線の自衛隊前駅よりやや北の上空から南西の方向を写したもの。1951年5月だという。写真左上にペンタゴンが見える。


this figure from LAFAYETTE Digital Depository

このアングルに似せた現状を下に示す。1951年の写真に写っている建物で現存のものは、少なくとも、4件。「3」の位置にペンタゴンがあった。1984年には無くなっている。


google map
1:(現通称)サイロ隊舎、2;Post Chapel (駐屯地教会)、3;ペンタゴン跡地、4;Post Theater (駐屯地劇場)、5;現在史料館

■ ペンタゴンと定山渓鉄道車両

ペンタゴンの左半分の真上を見ると、鉄道が左右に走っている。ペンタゴンの左上が「サイロ隊舎」、手前がPost Chapel


[1] 角哲ら、占領期札幌におけるキャンプ・クロフォードの建設経緯とその特徴について、日本建築学会計画系論文集/86 巻 (2021) 780 号 P617-627  (pdf

❶:ペンタゴン、❷:Post Chapel、➌:Club、➍:Post THeatre、 ⓰:Milk Plant

列車は⓰:Milk Plant ミルク・プラントの横を走っている。

■ 最後の赤煉瓦兵舎

最上の全景写真は、キャンプクロフォードの北半分を撮ったもの。写っているのは独身の一般兵士用の兵舎がある区域。家族持ち(当然、将官クラス)の住宅は南側で画像には写っていない。キャンプ・クロフォードの一般兵士用の兵舎は赤レンガ製で、他のどの占領軍キャンプとも違っているのだろう。理由は、耐寒性の保持に違いない。キャンプ・クロフォードの建物は、米国流の、蒸気暖房であり、基地に大型ボイラーがあり、各建物に配管で供給していた。現存しているこの赤煉瓦兵舎は1951年の写真の左下3棟のみ。現在、史料館となっている。


Google Map 現存する赤煉瓦兵舎3棟:陸上自衛隊 真駒内駐屯地 史料館 web site

▼ 2004年にはまだ結構あった赤煉瓦兵舎


愚記事:いか@、タコを思う。 2004年に撮影した写真。

 


新しい街でもぶどう記録;第429週

2023年02月04日 18時00分00秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第429週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週のキリ番

 ブログ開設から6789日

■ 今週の訳あり

山形産りんご、10kg、1,980円

何ら問題ない。甘い。ボケてない。

■ 今週の They are back.

去る1月14日の神奈川新聞の報道によれば、横浜港のアメリカ陸軍ノースドックに今春、米陸軍の小型揚陸艇部隊(兵力280人、艇数13隻)が新たに配備されるようだ。この部隊配備の意味について、同基地の前に住むフォトジャーナリストの柿谷哲也氏に話を聞いた。(ソース:週刊プレーボーイ、ついにアメリカ陸軍が横浜港に配備決定!! 「小型揚陸艇部隊」の驚くべき実力とその戦略とは?)

(ネット情報によると)1981年以来無人施設で、沿革の上位組織からの出張で管理されていたらしい。今度、再び常駐管理となるとのニュース。

⑧(斜線部)がアメリカ陸軍ノースドック。この図は1983年刊行の『占領の傷跡』(後述)からのもの。占領時代からずっと米軍管理地。上記図の点部分が占領時代の接収地でのち返還された地域。

瑞穂埠頭は外国貿易埠頭として、1925年(大正14年)に着工し1945年(昭和20年)に完成したが、終戦後には連合国の駐留軍に接収され、1952年(昭和27年)の講和条約発効以降は、日本からの提供敷地として、在日米軍が使用している。wikipedia

■ 今週知ったウクライナ人:クズマ・デレビヤンコ@ソ連軍代表

1945.9.2 東京湾、戦艦ミズーリ甲板上での降伏文書調印式

身体の半分だけ写っている白服のとなりの黒軍服の軍人がソ連代表のクズマ・デレビヤンコ(wikipedia)。ウクライナ人なのだという。

■ 今週借りた本


服部一馬、斎藤秀夫、『占領の傷跡』、有隣新書; 赤いキャンディを添えて

知らないこと、気づかされたことなどがたくさんあった。すべては挙げられないが、①マッカーサー元帥(マ元)が「厚木」に舞い降りる8/30の2日前8/28に先遣隊・テンナ大佐率いる米軍輸送機40機あまりが「厚木」到着。有末精三との画像があった;②あの米英旗を振るがきんちょたちは8/30の戸塚でのことらしい、「厚木」から横浜まで長後街道を通った;③この本の表紙の進軍する戦車の米軍を"厚木から横浜へ向かう占領軍(昭和20年8月30日)"は疑問;④マ元が「厚木」に到着した日に横須賀にはニミッツ率いる米海軍の海兵隊など17,000名(!)も上陸:⑤マ元とニミッツは"不仲";⑥戦艦ミズーリの降伏文書調印前に信任状提出があった、天皇書名入り終戦の詔勅が連合国に提出された(今、米国のどこかにあるはず);➆敗戦後の天皇巡幸の写真がよく歴史書で使われるが、それは最初の訪問地であったからだと知る。最初は東京ではなかった。横浜を含む神奈川県巡幸は二日間だったが、皇居からの通いだった;⑧横浜の野毛は非接収地域(日本人街!)で巨大闇市だった;⑨この本の歴史認識、特に朝鮮戦争、あるいは、時代の子;⑩パンパンが街の繁栄になる;⑪基地が街の繁栄になる

① テンナ大佐

先遣隊テンナ大佐を迎える有末精三陸軍中将[wikipedia]。左腕に白い腕章。テンナ大佐の向かって左は小銃を肩にかけた副官のパワーズ少佐。有末中将は道産子で、しかも屯田兵の子孫と知る(⇒参考ブログ記事)。

チァーレス・テンチ大佐:当時四十歳そこそこで、マッカーサーの信任厚い士官だった

⑥戦艦ミズーリの降伏文書調印前に信任状提出があった

 日本側随員のひとり岡崎勝男(終戦連絡中央事務局長)が、天皇の信任状をマッカーサー元帥に提出した後、式場中央の机上に置かれたニ通の降伏文書に、天皇・政府を代表して重光全権、大本営を代表して梅津全権がそれぞれ署名した。(『占領の傷跡』p42)


https://www.youtube.com/watch?v=vMDbKdN6fyA

画像右上の日本代表の前列二人が重光と梅津だが、その後ろ、重光の後ろが空いている。ここに岡崎がいたと下記画像でわかる。従って、画像中央の机で書類を渡しているのは岡崎なのだろう。


③が岡崎

▼ 岡崎はこれに先立ち降伏使節団としてマニラに行っていた

 (前略 8月)十九日には、参謀次長川辺虎四郎中将を全権とし、海軍中将横山一郎・外務省調査局長岡崎勝男を首席随員とする十七名の降伏使節団がマニラへ向かった。(p18)

 この使節団があの「緑十字飛行」(wiki)。おいらは、岡崎勝男といえば赤十字の「阿波丸事件」(wiki)が印象に残っていたので(のち、賠償請求権を放棄することを岡崎が決めた)。

④マ元が「厚木」に到着した日に横須賀にはニミッツ率いる米海軍の海兵隊など17,000名(!)も上陸:⑤マ元とニミッツは不仲;


https://www.youtube.com/watch?v=TyswklkPlM4&t=353s

1945.8.30  09:30、ベル中佐の第 1 大隊の海兵隊は、横須賀飛行場の南東にあるレッド ビーチに上陸し、ウィルソン B. ハント少佐が率いる第 3 大隊の海兵隊は、ネイビー ヤードの中心にあるグリーン ビーチに上陸した。抵抗はありませんでした。少数の武装していない日本人は、指示に従って白い腕章を身に着けており、彼らが重要な保守部隊、役人、または通訳であることを示していた. 天皇の命令を守ることができないと考えられた熱狂者やその他の人々は排除されました。(ソース)

左腕に白腕章

横須賀に上陸した米海軍・海兵隊は、第4海兵師団(wiki)。

太平洋戦線に投入され、クェゼリンの戦い、サイパンの戦い、テニアンの戦い、硫黄島の戦いに参加している。死傷者は17,000名以上にのぼる。大戦終結後の1945年11月28日に廃止された。 (同上wiki)

おいらのブログ記事では米進駐軍は第一騎兵師団と第11空挺師団ばかり言及してきた。今気づいたが、それしか知らなかったのだ。米海軍は8/30に17,000名(!)も上陸していたのだ。横須賀。米海軍。ニミッツ元帥(wiki)。another元帥だ。おいらは、マ元の宣伝に踊らされて、マ元の米陸軍ばかりに目が行き、米海軍に気付かなかったのだ。

➆敗戦後の天皇巡幸の写真がよく歴史書で使われるが、それは最初の訪問地であったからだと知る。最初は東京ではなかった。横浜を含む神奈川県巡幸は二日間だったが、皇居からの通いだった

この写真は歴史の本でよく見る。これは横浜(稲荷台)なのだ。この稲荷台の前の日産重工業横浜工場では;

天皇が到着すると、大勢の米兵が集まってきて、天皇を取りかこみ、握手やサインを求め、(側近が)押しのけられる有様になった。

⑩パンパンが街の繁栄になる

(横須賀で)「大人の人」が「パンパンが街の繁栄になる」と信じていたことを、子どもたちが正直に伝えている。当時の横須賀市は人口二十六万人、財政七億円の規模にたいし、基地内の銀行で日本円に換金されるアメリカドルは毎月四〇〇万ドル(一四億円)に達した。このうち五億円が横須賀市内におちるというのだから、「大人」たちに「必要悪」を黙認する空気があったことは否めない。(p178)

⑪基地が県の繁栄になる

③この本の表紙の進軍する戦車の米軍を"厚木から横浜へ向かう占領軍(昭和20年8月30日)"は疑問

この表紙の写真について本書の解説は「厚木から横浜へ向かう占領軍(昭和二十年八月十五日)」とある。もしそうであるならば、この日(1945/8/15)に米軍が写真のような戦車を関東に上陸させていなくてはならない。確かに、8/30に厚木に米陸軍第11空挺師団が到着している。この師団は沖縄から輸送機で空輸された。輸送機はC-54。当時の大型輸送機では戦車を運べたのだろうか?一方、映像では「厚木」に日本軍により、米軍の命令で、多数のトラックが集められていた。第11空挺師団はこれらのトラックで横浜に向かった。

一方、米陸軍第一騎兵師団は9月2日昼前に横浜港の大桟橋から上陸した。この師団は船で上陸したのであるか戦車をもっている可能性はある。この進行する戦車は横浜から東京に入城した時の写真ではないだろうか?

②あの米英旗を振るがきんちょたちは8/30の戸塚[1]でのことらしい、「厚木」から横浜まで長後街道を通った。 この動画では、がきんちょのシーン(1945/8/30とされる)はトラックだけが写っている。これは、厚木からの第11空挺師団のトラック群ではないだろうか?

[1] このがきんちょたちが戸塚の子であるという根拠は明確にしめされているわけではない。

▼ 東京まであと9日

「厚木」に着いたマッカーサー元帥は、「メルボルンから東京までは長い道のりだった。長い長い、そして困難な道程だった。しかしこれで万事終わったようだ」と感慨を述べ、「降伏は不必要な流血の惨を見ることなく無事完了するであろうことを期待する」と声明したのである。 p35

8/30に「厚木」に着いたマッカーサー元帥はその夜は横浜のホテルグランデに宿泊。東京へ行くのは9/8。