いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第410週

2022年09月24日 18時00分00秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第410週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の季節柄アクセス

なぜ彼岸花は毎年同じ場所に咲くのか?、あるいは、非散種の例、そして、球根の意義、はたまた、その栽培法

■ 今週の「因果応報」

出典 いつも相手を待たせるプーチンが今週の上海協力機構では、待つ立場に。

■ 今週の核保有・主権国家の余裕の諫言

「戦争している場合ではない」 モディ印首相、プーチン氏に訴え(google

【AFP=時事】インドのナレンドラ・モディ(Narendra Modi)首相は16日、ウズベキスタン・サマルカンド(Samarkand)で開かれた上海協力機構(SCO)首脳会議に合わせてロシアのウラジーミル・プーチン(Vladimir Putin)大統領と会談し、「今は戦争している場合ではない」と訴えた。
モディ氏はプーチン氏に「閣下、今は戦争をしている場合ではないだろう」と述べ、「民主主義と外交と対話」の重要性を強調した。

 これに対してプーチン氏は「ウクライナでの紛争に対するインドの立場や懸念は理解している」と答え、「紛争ができるだけ早く終わるよう最善を尽くす」とする一方、ウクライナ側が交渉を拒否し、「戦場で軍事的手段を行使して目的を達成しようとしている」と述べた。(ソース)

インドのモディ首相がこういえるのは自国が核武装しているからである。平和・停戦提言にもpowerが必要。

■ 今週の強い表現

https://www.youtube.com/watch?v=QGXSjG-y_80

NHKがプーチンを「狂気」認定

■  今週の虚言の顛末、あるいは、今週借りた本

森有正は「空想虚言者」であるとドストエフスキー研究者の中村健之介が云っていて、森有正を回顧する栃折久美子が「インチキ」であると云い、平川祐弘が虚構にまみれていたと云っていた(愚記事)。

その森有正が「"第3発目の原爆は日本に落ちる"とフランス女性が云っていた」と書いた。1970年前後らしい。

これは、例によって、作り話なのだが、そのことを白状させたのが大江健三郎。彼の『定義集』(2012年)にある。まず、上記3発目原爆発言については、森の文章として、大江に下記引かれている;

《この間、あるフランスの若い女性が尋ねて来た。〈中略〉私達はよも山の話をしていたが、やがて話は日本における生活、ことに東京の生活のことになった。〈中略〉かの女は急に頭をあげて、殆ど一人言のように言った。「第三発目の原子爆弾はまた日本の上で起り、そして進行しているのである。
 かの女がそう言ったあと、私は放心したように、大学構内の木々が日の光を浴びて輝くのを眺めてた。」》
大江健三郎『定義集』、「もうひとつの前奏曲とフーガ」

この文章について大江健三郎は森有正にインタビューする機会を得た。1972年夏。場所は国際基督教大学。時間帯は朝。森有正は同大学に集中講義にパリから来てきた。この機会は大江の東大仏文科の先輩が仲介してくれた。「毎朝六時には礼拝堂のパイプオルガンでバッハを練習されるのが先生の日課だから、その後、朝食を一緒にといってくださると日時も指定くれたのです」(同上)。

しかし、森は「逃げる」。「尋問の筋これあり」と大江がやって来ると思ったのか?

 練習は終わったけれど、チャペルの正面から先生は出て来られない。ただ、脇の武蔵野の気配の残るわずかな木立にまぎれ込むように頭を垂れた人影が立ち去って行った・・・・・・・ そのまま三十分待って私は先生の宿舎はわからぬまま引揚ましたが、自分の質問のうちに引用していた先生のエッセイが、インタビューへの気持ちを冷えさせたのか、と自責の思いが高まっていました。

その夜、森から速達が来る。大江への回答が書いあったとのこと。

先生の手紙にあったとおりに写します。
ーあれは私自身がそのような考えを持ったのであって、もしきみがフランス人の、人種的偏見というようなことを想像しているとすると、そういうことでは決してない。私の文章を読んだ編集者が、このようにあなたの考えとして書いては危険だ、という。そこで忠告にしたがったのです。

森有正は自己の脳内で日本人たちを核攻撃したことを認めたのだ。ただし、編集者に忠告されてフランス人が云ったことにしたというのは、例によって、作り話に違いない(邪推)。それにしても、なぜフランスの若い女であるのか説明はない。なぜ、中国人とか韓国人とかではないのか?それは簡単なことで、森有正の愛読者はフランス人のやることなすこと、そして言うことをありがたる人種であるに違いないからだ。そういう「需要」層を予期して受けるように書いたのであろう。

なぜ、森有正は自己の脳内で日本人たちを核攻撃したのであろうか?それは、森有正が日本が気に入らなかったである。それでは、森は日本のどういうところが気に入らなかったのだろうか?大江は下記推定している;

 その上で先生は、確かに御自身の、フランスから久しぶりに帰国した東京での日本人の生活ぶりを見て(物質的繁栄と活気を、といってもまだバブル期にはほど遠かったわけですが)感じることを書いていられたのでした。胸を掻きむしりたくなるようなことがこの日本で起こり、そして進行しているのである。

大江も指摘しているが、森が反感をもった「繁栄」日本はバブルの頃(1980年代後半)ではない。1970年である。高度成長の最末期。高校進学率だって100%ではない時代だ(ソース)。その程度の生活水準に日本人が達することが、胸を掻きむしりたくなるようなことだったのだろうか?森有正がパリに行ったのが1950年。つまりは日本国政府発給のパスポートで渡仏したわけではないのだ。Occupied Japanからの出国。1950年には戦災の焼跡も残っていただろう。それが森有正の日本の「原風景」だ。そんな焼跡残る敗残国からおさらばしたのに、20年後に帰国してみると、物質的繁栄と活気(大江の言葉)。そういう日本が許せないということか。それで、森有正は自己の脳内で日本人たちを核攻撃。精神が病んでるよね。ところで、この「脳内で日本人たちを虐殺」を具現したのが、東アジア反日武装戦線による丸の内での爆破事件である。

▼ なぜ、2012年に森有正の脳内日本人核攻撃を公開したのか?

で、大江は2012年になってこの森有正の虚偽を公開した理由が書いてる。3発目「原爆」が生じたから。もちろん、原爆、すなわち核攻撃ではなく、福島の原発事故だ。そして、大江は云っている;

森先生が憂慮された「第三発目の原爆」こそ日本の上へ落ちませんでしたが、ヒロシマ・ナガサキの原爆被害者と、今日のフクシマの原発事故による内部被曝の重荷を担わなければならない人たちと繋いで考えれば、哲学者森有正が抱いた胸を掻きむしりたくなるようなことへの思いは恐ろしい預言でした。(同上)

▲ なお、大江が森の虚偽を明らかにしたこの経緯、特に『定義集』に上記のことが記されていると知ったのは、小谷野敦博士、『江藤淳と大江健三郎』を2015年に読んでのこと。今週、図書館から借りて読んでみた。


ウエストミンスター寺院の思い出  2012年

2022年09月19日 19時37分00秒 | 欧州紀行、事情

今日、エリザベス2世女王の葬儀がウエストミンスター寺院でおこなれている。ウエストミンスター寺院は10年前に見たことがある。出張でのこと。その出張で5日間通った「クイーン エリザベス II カンファレンス センター」はウエストミンスター寺院の向かいにあった。その時の記憶を整理するため、当時のデジカメ画像を見直した。さらに、ネット検索して当時のことを再整理した。「ウエストミンスター寺院の思い出」といっても見ただけ、中に入ったわけでもないんだが。


ウエストミンスター寺院


同じく、寺院


Queen Elizabeth II Conference Centre/クイーン エリザベス II カンファレンス センター


赤い「風船」マークの建物がカンファレンス センター、通りの右は寺院

■ クイーン エリザベス II カンファレンス センターからの眺望


Westminster Scholars War Memorial (wiki)。 この記事作成の過程で初めてこの記念塔を知った。インド大反乱で死んだウェストミンスター・スクール[1]出身者=同窓生も9人、記念されているとのこと。

[1] ウェストミンスター・スクールは、1560年にエリザベス1世によって創設されたイギリスのパブリックスクール。ロンドンの中心シティ・オブ・ウェストミンスター、ウェストミンスター寺院の隣に位置するwiki

搭の奥の建物は、Attorney General's Office. 法務長官府は、イギリスの法務官を補助する行政機関である。「法務官の法律上の事務局」と呼ばれることもある。 (wiki)


ビッグベンが見えた

■ 地図上の位置

上の地図で「ヴィクトリア」は駅。この駅そばの「ヒルトンホテル」に泊まった。ホテルから寺院までは直線距離で1.3Km。毎日、歩いて通った。

■ ヴィクトリア駅

■ ヴィクトリア駅からウエストミンスター寺院

ヴィクトリア駅からウエストミンスター寺院の道は、ヴィクトリア通り(Victoria street)。テムズ川方面に向かう。この道を歩いて5日間通った。

■ バッキンガム宮殿

■ ホテル(ダブルーツリー・バイ・ヒルトン ロンドン・ビクトリア


関連記事群

 


新しい街でもぶどう記録;第409週

2022年09月17日 18時00分00秒 | 武相境

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第409週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の花

■ 今週の箱買い

今月2回目の梨の箱買い。前回は熊本。今回は山形。ともに甘い。

■ 今週の道産子なのに初めて食べた


北海道産 生ほっけの握り (魚屋路)

ホッケは干物の焼き物で有名。脂が特徴。 おいらは、道産子だが、ホッケの刺身、握りなど聞いたこともなかった。何かわけがあるだろうと調べると、やはり。すぐわかった。

【ソボクなギモン】ホッケの刺身はなぜスーパーで売っていないの?

そのわけは、「寄生虫」だといいます。
ホッケの内臓には、アニサキスなどの寄生虫がすんでいることがあり
死後1時間ほどで、内臓から身のほうに移動してしまうんです。

アニサキスを死滅させるためには、48時間以上冷凍する必要がありますが
ホッケは水分が多いため、解凍したときに水分と一緒にうまみも消えてしまうといいます。
そうすると食感も味も落ちてしまうため、
(略)ホッケの刺身を提供していないということです。


 魚屋路は、凍結処理をしているとのこと

食べたほっけの握りは、ぶりより肉感がやわらかいという感じ。風味はほぼなし。そんな、水っぽいことはなかった。

■ 今週の「冒険」


https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220917/k10013822151000.html


https://www.bbc.com/japanese/62873610

バルモラル⇒エジンバラ⇒ロンドンという長旅の後、民が30時間待つ難行でchase  ( The sophisticated coffin chase )

==「棺をめぐる冒険」   (関係ないけど:ロンドンの地下鉄、tubeに乗ったら、村上春樹の1Q84を読んでいる人が向かいに座っていた

■ 今週の購書

家近亮子さんが(政治的に)「感情的」/「情念的」で、びっくりした;

第6章 蒋介石の外交戦略と中国共産党史観ー「外交は無形の戦争論」の再評価

なぜ中国は戦後「五大国」になれたのか
蒋介石と毛沢東の対照的な対日観
断続的に行われたルーズベルト工作
中国共産党こそ「歴史を鑑」とするべき
もし「反共」で手を組んでいたならば

■ 今週返した本

『心の砂時計』は遠藤周作のバブルの頃(1990年頃)エッセイ集。「月給五十万円にみたぬ三十男が一億の家をどうして買えるか」とかバブリーなことが書いてある。『魂の犬』は高橋たか子の1970年代後期のエッセイ集。遠藤周作論も載っている。洗礼前のキリスト教に対する考えなどが見える。内田樹の『街場の文体論』には遠藤周作の翻訳が少ないことが書いてあった。理由は話が戦争ー戦後体験を経た日本人用に書かれているからだと。キリスト教の普遍性は書いていないのか? 『1571年 銀の大流通と国家統合』と『天下統一とシルバーラッシュ』()は16世紀の「日本銀」問題の詳細。


サリーム・チシュティー廟、ファテープル・シークリー、アーグラ、インド

2022年09月11日 13時10分49秒 | インド


サリーム・チシュティー廟

サリーム・チシュティー廟があるファテープル・シークリーにおいらが行ったのは2004年7月10日。タージマハルに行く直前だ。実はこの白い建物が「サリーム・チシュティー廟」であると今週知った。今画像を見ると当時は改修中で中を見ている人はいない。おいらも、この白い建物に近づき中を見た記憶はない。下はwikiからの画像(現在の様子なのだろう)。


Tomb of Salim Chishti wikipedia

この白い「サリーム・チシュティー廟」はスーフィー聖者・サリーム・チシュティー(wiki)の廟(墓)。

■ ファテープル・シークリー訪問の記憶

2004年7月10日の朝、アーグラ駅に着いた。デリー駅からボパール行きの特急に乗って、アーグラ駅で降りた。この朝のことは愚記事に書いた。ただし、その記事ではファテープル・シークリーの画像がない。今日、2004年のデジカメ画像を見直してみた。


アーグラ駅のホーム 乗って来たエアコン付き車両

8:30アグラ・CANNT駅到着。上記のエイジェンシーを通して手配していた(70US$)車とドライバーとおちあう。向こうがおいらの名前を書いた紙を掲げて駅の出口でまっている。


ファテープル・シークリーへの道


大門(ブラント・ダルワーザ)

今、ネットで調べるとこの大門=ブラント・ダルワーザ=勝利の門は、世界最大の門とのこと。デジカメに収まり切れなかった。当時、なぜ遠くから撮影しようとしなかったのか記憶にない。

全景は、ここで見られる⇒ Google画像 [Buland Darwaza in Fatehpur Sikri]


パンチュ・マハル と(後述の本で)今日知った。

この日のデジカメ画像をよくみると、確かに改修していたが、中に入れたとわかる。ただし、おいらは中に入った記憶がない。


ガイドさん。

■ 『1571年 銀の大流通と国家統合』で今週知ったこと

18年前に訪れたこの建物が何であったのかを知った理由は今週借りて読んでいた本、『1571年 銀の大流通と国家統合』(関連愚記事)の第3章 ムガル帝国の形成と帝都ファトゥプルの時代(真下裕之)に書いてあった。

第3章 ムガル帝国の形成と帝都ファトゥプルの時代は次の4項から成っている;

1 帝都ファトゥフプル
2 新たな秩序に向かって
3 ファトゥフプルの時代
4 チシュティーヤとファトゥフプル造営の由緒

ムガル帝国の三代目の皇帝アクバル(wikipedia)が1574年から10年間、「ファテープル・シークリー」(一般名wiki:本書ではファトゥプル)を首都とした。そのことが中心に書いてある。1571年にアクバルは新都造営を命じた。当時の都はアーグラ。ファテープル・シークリーとはわずか30km。アーグラにはのちにタージマハルが建つ。

皇帝アクバルがこの地を新都に選んだ理由は、スーフィー聖者・サリーム・チシュティーの縁。

1568年、跡継ぎに恵まれなかったアクバルはファテープル・シークリーに住むイスラーム教の聖者サリーム・チシュティーを訪ね、世継ぎの問題について相談した[1]。すると、彼から息子を授かるだろうとの予言を授けられた。

その後、1569年に王子サリーム(ジャハーンギール)が誕生し、記念としてここに新たな都を造り、アーグラから遷都した。wikipedia

そのスーフィー聖者・サリーム・チシュティーの廟が帝都の大モスクの中にあるのだ。それだけ尊重されていたということ。


大モスクの中庭にあるサリーム・チシュティー廟(右端)

なお、アクバルはスーフィー聖者を崇拝し、デリーのニザーム・アッディーン・アウリアーの廟にしばしば参詣していた。真下裕之はムガル帝国と教団の密接な関係を指摘している。


デリーのニザーム・アッディーン・アウリアーの廟(愚記事より)

しかし、スーフィー聖者・サリーム・チシュティーの素性がよくわからないとのこと。一方、サリーム・チシュティーの歴史上の役割の謎解きを真下裕之はする。

スーフィー聖者・サリーム・チシュティーの子孫が皇帝の乳母、乳兄弟となり、皇帝側近となったのだ。スーフィー聖者・サリーム・チシュティーの一族は、アクバルを支える人材の供給源となった。

(前略)考慮すべきは、素性のかくも不確かな男がその死後すぐに、帝都の大モスクに墓廟を献じられたように、また一方、チシュティーヤのスーフィーして聖者列伝に通電されたように、大きな存在感を発揮するにいたった事情である。
 その事情の一つは、この聖者の子孫たちがはたした帝国における役割の性格であると考えられる。前項の「サリーム・チシュティー関係系図」に示したごとく、シャイフ・サリーム・チシュティーの数多くの子孫たちは帝国の記録に名をとどめている。帝国の歴史上、一族の経歴をこれほど長い期間にわたって追跡できる例はまれである。そして注意すべきは、この一族の成員がいずれもチシュティーヤ聖者として名を成したわけではないことである。
 シャイフ・サリーム・チシュティーの娘から生まれた孫クトゥブ・アッディーン・ハーンについて、君主ジャハーンギールは自ら乳兄弟としてひとかたならぬ親近感を抱いた相手であることを書き記しているし、同人の母すなわち自らの乳母は「じつに母親にさえ抱かない親密の情」の対象であったという。またサリーム・チシュティーの息子シャイフ・アフマドは王子サリーム(のちのジャハーンギール)の乳母夫(エテケ)の立場にあったと記録は伝える。乳母の実の夫のみならず、実の兄弟たちまでも乳母夫と呼ばれるのが帝国の慣習だったからである。さらにジャハーンギールが、クトゥブ・アッディーン のいとこにあたる一歳年少のイスラーム・ハーンを「息子」と呼んで特別に遇したのも、このような関係の反映であるに相違ない。要するにサリーム・チシュティーとその一族は、君主アクバルにとって第一王子の乳母と乳母夫、そして乳兄弟を擁する擬似的家族という点で、特別な存在になったのである。 『1571年 銀の大流通と国家統合』、第3章 ムガル帝国の形成と帝都ファトゥプルの時代(真下裕之)

まあ、日本でいえば、徳川三代将軍家光と稲葉家との関係みたいものか。(google

 要するに、後嗣の誕生という帝国の瑞祥と新都の造営という帝国の一大事業を演出していた聖者サリーム・チシュティーと君主アクバルとの関係性は、スーフィー聖者に対する尊崇から、王子の地兄弟一族の破格の登用へと、速やかに変質を遂げたのである。そしてその変質はアクバル治世の後半期にはすでに生じていたものと見込まれる。真下裕之、同上)

■ 銀

この真下裕之の章(ムガル帝国の形成と帝都ファトゥプルの時代)が載っている本の題名は『1571年 銀の大流通と国家統合』。銀の大流通と国家統合に目を配らなければならない。

・ムガル帝国の税制:現金納。銀貨、銅貨が流通
・ムガル帝国は銀貨ルピーを普及させようとした。原料の銀の輸入先は不明。アクバル治世に増加。
・グジャラート(インド西部)は銀流入のひとつの入口。
・17世紀にムガル帝国の銀保有量は2-3倍となった。その銀は、海経由、ペルシア経由など
・1643/44年にグジャラートのスーラトにオランダ東インド会社が持ち込んだ銀のうち19%が台湾経由の「日本銀」

とまれ、16世紀以降、チャイナ、インドともに銀が流入した。

■ ペルシア語への翻訳時代

ファトゥプル時代の特徴。帝国の文化政策。古今の典籍のペルシア語訳。この真島の文章では当たり前のこととして触れていないが、ムガル帝国の宮廷での言語はペルシア語。王命でサンスクリット語、アラビア語の典籍からのペルシア語への翻訳がなされた。

このファテープル・シークリー王宮とアラビア語⇒ラテン語の翻訳センターであったスペインのトレドと似ている。


新しい街でもぶどう記録;第408週

2022年09月10日 18時00分00秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第408週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の止血

採血のあとで

■ 今週の自己組織化

自由民主党(LDP)の茂木幹事長は、旧統一教会との関係について党としての組織的つながりはないと主張し、党は組織として無垢であると強調する。しかしながら、個人としては自由民主党の国会議員の約半分が旧統一教会と関係があるとの自己「アンケート」結果。つまり、党の組織としての指示がないのに、半分の国会議員が自ら旧統一教会と関係をもち、結果的に多大な関係が、意図せずに、組織化されているのだ。意図もしないのに。自己組織化現象だ。

自己組織化:自己組織化とは、あるランダムな状態にある構成要素が、構成要素間に働く相互作用により自発的に特定の秩序構造を形成する現象です。

■ 今週のドレイクたち

  
Francis Drake    Royce Allison Drake 

▼今週借りた本

『1571年 銀の大流通と国家統合』。デニス・フリン、『グローバル化と銀』山川出版の世界史リブレット13、岸本美緒、『東アジアの「近世」』に続く、16世紀のグローバル化の話。銀の話だけではなく、この時代の全世界の歴史を次の項目で描く;⓪銀の大流通と国家統合、①スペインのマニラ建設、②北虜問題と明帝国、③ムガル帝国の形成と帝都ファトゥプルの時代、④東地中海のオスマン帝国とヴェネツィア人、⑤宗教戦争と国家統合、⓪' ドレイクの世界周航と掠奪行為の変容。

Drake

この⓪'というのは「補論」。「補論:ドレイクの世界周航と掠奪行為の変容」読んで知った。フランシス・ドレイク (wikipedia)。高校の世界史の参考書にも載っていた。知らなかった。アルマダ海戦は知っていたが、その功労海軍軍人としてのドレイクは知らなかった。おいらが知っているのは、ロイス・アリソン・ドレイク大佐だ。朝霞にあった進駐軍の基地・キャンプ・ドレイクの名の由来[11]の米軍人だ。なお、Francis Drakeのカタカナは、wikipediaや高校の世界史の参考書では「ドレーク」。

[11] ドレイクとは、1945年(昭和20年)マニラの戦いにて戦死した同騎兵師団大佐であったロイス・A・ドレイクの名前に因む (wiki)

▼カカフエゴ事件、アルマダ海戦

『1571年 銀の大流通と国家統合』の薩摩真介による補論「ドレイクの世界周航と掠奪行為の変容」は、この時代の前後の海賊行為の統制化・合法化による私掠(privateer)への変遷について書かれている。この補論は次の4項から成る;
 1.「カカフエゴ」号の拿捕が意味するもの
 2.掠奪行為のグローバル化
 3.掠奪行為の管理化
 4.「神話」の出発点としてのドレイクの世界周航

カカフエゴ事件とは1579年3月1日にスペインの銀輸送船(サン・ファン・デ・アントン号;カカフエゴ号)が、イングランド人のフランシス・ドレイクが率いる集団に襲われ、銀を略奪された事件。この事件はフランシス・ドレイク船団が1578-1580年にイギリスのプリマスから出発して、南米、北米、太平洋、インド洋、喜望峰を回って、帰って来る世界一周をした途中での事件。スペインを餌食に世界一周をしたのだ。この世界周航(1578-1580年)と掠奪行為がイングランド王の「お墨付き」があったとの歴史的資料は確認されていないとのこと。でも、イングランド王、エリザベス1世は出資者であった;

女王エリザベス1世を含む出資者達に4700%とも言われる配当金を支払った[3]。イングランド王室の取り分は30万ポンドを越え、これは当時の歳入(20万ポンド程度)よりも多く、この臨時収入により王室は溜まっていた債務を全て清算できたうえに、国策会社のレヴァント会社に増資することができ、これは後の東インド会社設立の基礎となった。wikipedia

この論の各項のメモ

◆掠奪行為/耶蘇の内ゲバのグローバル化

イングランドの掠奪者が世界一周をした理由は、すでに世界一周をして太平洋、大西洋を跨いで銀を輸送していたスペイン・ポルトガルを餌食にするためである。この時代の背景は、耶蘇における旧教と新教の内ゲバ。つまり、カトリックとプロテスタントの抗争。この抗争を背景にして、スペイン(旧教の政治的守護者)の船舶をイギリス、オランダのプロテスタント諸国から出撃する海賊が襲撃、掠奪を行う。さらには、オランダ地方をめぐるスペインとイギリスの対立が生じていた。エリザベス期のイギリスは敵であるスペインを餌食にする海賊、私掠は、英国王室・国家の収入が得られて望ましかった [1]。掠奪は、植民、貿易先立つイギリスの重要な対外政策、グローバル化政策であった(掠奪活動のグローバル化の始まり)。

[2]イギリス(イングランド)の私掠船の始まりは、1243年にヘンリー3世がゲオフレイ船長に与えた報復を目的とした許可が初めてとされているが、国家が積極的に奨励したのはエリザベス1世治下の英西戦争の時のことである。海軍力に劣るイングランドは、スペイン海軍と正面から戦うことを極力避け、代わりに私掠船を一種の準軍事組織として用い、表向き非正規の行動としてスペイン船を襲わせた。中でもフランシス・ドレークの私掠船による世界周航やカディス襲撃は偉業と讃えられた。アルマダの海戦に参加した200隻以上のイギリス艦船のうち、150-160隻は商船だったと言われる。特に西インド諸島海域に遊弋するイギリス私掠船の活動は激しく、当時のイギリス船そのものが「海賊船」と評価されることになった。 (wikipedia 私掠船)

その他、グローバル化するイングランド系掠奪者;
*インド洋、紅海、アラビア海に進出したヘンリ・エヴリ(ヘンリー・エイヴリー wikipedia
*バルバリア私掠者(wikipedia)に加わったイングランド系掠奪者;地中海で活躍

 こうして近世以降の銀の循環や交易活動のグローバル化を反映して、それに寄生するイングランド人をはじめとするヨーロッパ人の掠奪活動の範囲も地球規模で拡大していった。それは貿易や植民を通じたイングランド(のちにはイギリス)の対外進出とも連動しつつ、十八世紀までには、大西洋のみならず太平洋やインド洋にまでおよぶようになったのである。『1571年 銀の大流通と国家統合』の薩摩真介による補論「ドレイクの世界周航と掠奪行為の変容」

 掠奪行為の管理化

「犯罪行為である海賊行為」と「政府など公的権力の認可を受けた私人による掠奪行為」は区別される。イングランドでは1536年に海賊行為は違法とされた。「しばしば「海賊女王」と形容されるエリザベスも、一五七七年には海賊取り締まりの新たな試みとして、各地域の有力者を取り締まり委員に任命し、海賊行為や密貿易の監視にあたらせている」。しかし、必ずしも徹底されなかった。1640年代にイギリス諸島近海での海賊活動は政府の実効力のためみられなくなる。

「政府など公的権力の認可を受けた私人による掠奪行為」は、私掠(privateering)と呼ばれた。「私掠は、戦時に私人の船が政府の認可のもとで、敵船、あるいは敵国と貿易をする中立船の一部を拿捕して、その積荷等を売却してりえきを得る」。なお、wikiには下記ある;

[1] 私掠免許をはじめて発行したのはイングランドであり、起源は海賊を捕える私兵のための拿捕許可状といわれる[4]。私掠免許は戦争に際して何度か発行された。代表的なものとしてはイングランドの女王であるエリザベス1世(1533 - 1603)キャプテン・ドレークに発行した免許が挙げられる。(wikipedia 私掠免許)

しかし、薩摩真介の補論ではドレイクは女王の公的な認可を得ていたと主張しているが、決定的な証拠は見つかっていないとのこと。したがって、ドレイクの掠奪は海賊行為であった可能性が高いとしている。しかし、女王や政府高官は対スペイン弱体化のためドレイクを黙認していたと解釈している。

「報復的拿捕」:私掠とは違う掠奪の概念。「報復的拿捕」は私掠より古い時代13世紀から確認できる掠奪。私掠と同様に公的権力の許可を得て行う掠奪の一形態。報復的拿捕は、海上で他国から掠奪を受けた被害者が自力で報復する。これには法的手続きが必要、報復は加害国の船であればよい。さらに、これは平時に行われるという属性をもつ。私掠は戦時の掠奪。

16世紀半ばにはイングランド王権は「報復的拿捕」を利用して、国家伸張に務めた。その後、17世紀半ばには、報復的拿捕から私掠へ移行していった。すなわち、掠奪は戦時にのみ行われる私掠だけとなっていった。平時には掠奪が少なくなり、海上は以前より平和になった(らしい)。これは掠奪行為の管理化の結果である。ドレイクの掠奪・世界周航はこの掠奪の管理化が始まることの出来事。

「神話」の出発点としてのドレイクの世界周航

「海賊行為」から始まり、イングランド海軍の将軍になったドレイクはアルマダの海戦で周スペインを破り、のちに世界を制覇することになる大英帝国の礎を築いたこととなった。そして、「シーパワーについてのイングランドの国民的神話」といわれる政治的言説の基礎となった。この言説によりドレイクの掠奪・世界周航は、18世紀の重商主義的抗争、つまりは拿捕合戦での「伝説のお手本」となった。16世紀のドレイクの業績は、世界を支配する大英帝国の「拡張を理念的に下支えする神話形成の出発点にもなった」。

● 他の本にみる海賊と私掠

手許にあった英国史、とくにエリザベス期の「海賊」についての記述をみてみた。

1)海賊や「冒険商人」が先兵となって、イギリスは一六世紀から十七世紀に海外進出を行い、海洋の自由を謳歌した。スペインやポルトガルの帆船を襲撃して財宝を略奪し、国王や女王に上納して国庫を潤した。イギリスは海賊を活用して、スペインやポルトガルの海洋覇権を切り崩した。(竹田いさみ、『海の地政学』)

 大航海時代末期の一五八八年に、エリザベス一世の指令を受けて、ドレイクが率いるイングランドの艦隊がスペイン無敵艦隊(アルマダ)を撃破したことは、ヨーロッパ世界におけるイングランドの台頭のきっかけにはなったが、本格的な海外への進出と勢力拡張にはまだ程遠い状況にあった。海軍と海賊(私掠船)との区別も曖昧なままに、冒険的商人層が大西洋におけるスペインの支配権に個別に挑戦を試みていた、というのが実態であった。(秋田茂、『イギリス帝国の歴史』)

竹田いさみ、『海の地政学』には「私掠」の語がみあたらず、秋田茂、『イギリス帝国の歴史』では 海軍と海賊(私掠船)との区別も曖昧とあるが、海賊と私掠の区別がない。

🔻 以上、長くなってしまったが、最近の「日本銀」から16世紀のグローバル化の歴史を調べていて、この象徴的な年が1571年(1571年生まれのグローバル化と支倉常長、あるいは、慶長遣欧使節の時代背景)。主役はポルトガル、スペイン。日本への衝撃も大きかった。耶蘇教伝来。日本人奴隷の海外への輸出。この16世紀のグローバル化にポルトガル、スペインに寄生して大きくなったのが英国(当時、イングランド)。ブリカスの誕生。そのブリカスの最初の象徴人がフランシス・ドレイクと知る。そして、このブリカスの誕生したのがエリザベス(1世)[wikipedia]の御代だ。

■ 今週の2世 

エリザベス女王死去 (google

今日まで、なぜ彼女がエリザベス2世なのか知らなかった。400年も間があるのに。織田信長2世とかいないしな、とか考えていた。ググると、歴代英国王でエリザベスという名が二人目だからだという。


1971年、日本史上初めての天皇外国訪問 (日本史上初の皇太子外国訪問はこちら


中川八洋さんの統一教会認識;あるいは、筑波大学、 福田信之、はたまた、村松剛、そして、西部邁

2022年09月04日 14時12分26秒 | 日本事情

みんな大好き、中川八洋 先生! のはずが、goo blogのタグ #中川八洋 に記事がない。

とはいうものの、中川八洋 先生マニアはどのくらいいるのだろうか? 昔の著作の中古価格は軒並み高い。

愚ブログにおける中川八洋関連記事

【思想概要】中川八洋 先生の思想(思想本籍)は一筋縄では説明できない。昔は「タカ派」の筆頭であった。難しいのは日本の核武装を主張するが、それは日本単独ではやってはいけない。米国との協力なしには全く認められないという立場である。さらには、GHQ万歳思想の持主である。したがって、現在流行の「保守派」とはかなり異質である。なにより、反安倍である。現在流行の「保守派」で反安倍はいないだろう。その点、適菜収に近いのかもしれない。中川八洋 先生の思想の特徴は、民族派を敵視することである。民族派として江藤淳、西尾幹二などを挙げて、徹底的に罵倒している。

【思想本籍】以上のような事情なので、中川八洋 先生の思想本籍がわかりずらい。なお、思想本籍とは八洋先生自らの言葉である。中川八洋 先生の思想判断基準は共産主義か、否かである。しかし、これも大雑把な話で、ソ連なきあと、ロシアを敵視しており、共産主義か、否かだけでは基準とならないはずだ。

【統一教会】ということを前世紀末から、おいらは考えていた。さらにそれ以前、冷戦時代から考えていたことは、中川八洋筑波大学教授って統一教会の(筆頭)信者、あるいは、原理研の(幹部)活動家なんだろうかということであった。ただし、エビデンスは何もなかった。エビデンスは何もなかったので愚ブログでは中川八洋 先生に何度も言及しているが、統一教会のことは触れなかった。中川八洋筑波大学教授が文鮮明の徒であろうとおいらが空想した理由は、福田信之。

【福田信之】とは、筑波大学の学長にもなった物理学者。朝永振一郎や仁科芳雄の弟子、部下。何より、文鮮明の熱心な信徒であった。何と、1970年代は「筑波大学副学長、学長」などの肩書で統一教会の集会に参加していた。特に、今では伝説となっているあの「文鮮明の講演会「希望の日晩餐会」」にも参加。1974年。つまり、公然信者であった。wikipedia

さらに重要な点は反共主義者であった福田信之は、元来、共産主義者であったこと。

ただし、福田信之の共産主義者時代の情報は(少)ない。紹介できるのは、自分の発言のみ;

終戦後数年ですかね、当時科学者の中にたくさん左翼がいて、そういう連中と一緒に左翼運動に身を投じていたんです。科学者運動というので、先輩の武谷さん以下、たくさん付き合った。

 今日も教育大の関係者たちと話したんですが、ああいう左翼学者というのはフェミニストですよね。僕は成田の過激派のようになんでも爆弾投げてやるくらいなら、これはそれなりに評価できる。ところが彼らはそういうところには出かけない。真面目な連中を煽って、自分はいかに金をもうけるか。金をもうけるのが達者な連中ですね。
 僕ら若い時は真面目にやったもんだから、だからなおさら悪さがはっきりわかってくる。(福田信之、『国際化時代と大学』、1980年)

推定するに、25歳で理研の研究者(原爆材料開発研究)として敗戦を迎えた福田は、敗戦の衝撃で共産主義者になったのだろう。25歳というと少しトウがたっているが、インテリで軍国青年/従軍経験からアカ(共産主義者)になるという例は多かった(例えば、色川大吉とか)。福田は数年活動したといっているが、『原爆・水爆とビキニ死の灰まで : 図解原子物理学』を1954年に出している。反核運動をやっていたというから、1954年にはまだ転向していないのだろう。さらに、推定すれば、朝鮮戦争勃発で日本共産党が非合法され、「地下」活動をする共産主義者がいた時代。山村工作隊など。福田信之のいう「過激派のようになんでも爆弾投げてやるくらい::僕ら若い時は真面目にやった」とはこのあたりのことではないかと、おいらは邪推している。

そして、福田信之は、東京教育大学の筑波大学への「移転」(法制上は、東京教育大学の廃学、筑波大学の設置・開学)の推進者筆頭であり、「移転」反対派の「左翼」に対し、福田は、自らの左翼知見を以て、勝利した。下記記録がある;

移転推進派の最大の実力者は、理学部物理学科の福田信之(1921-1994)教授であると言われていたが、彼はある雑誌(「経済往来」)の座談会で、紛争解決の原則は(1)話し合いはしない、(2)妥協はしない、(3)遠慮なく機動隊を使うことだと、得意げに述べている。事態はすべて彼の「3原則」通りに進行したと言え、福田教授こそは筑波大学建学の最大の功労者であったと言えるであろう。(彼は三輪知雄、宮島龍興につづいて筑波大学の第三代学長になる。)福田教授は反対派の学生をつかまえて、「お前はレーニンを読んでるか、俺は全部読んでるぞ」などとからかっていたそうだが、どうもこの福田3原則にはレーニン主義の影響が感じられる。レーニンのプロレタリア独裁論にならって推進派独裁をやっているかのようである。東京教育大学小史

【中川八洋、筑波大学】中川八洋が筑波大に就職したのが1980年(科学技術庁の課長補佐から転職)。福田信之の時代だ。これもエビデンスなしに、おいらは、勝手に、反共つながりで八洋先生は筑波大に勤まったのだろうと考えていた。その後も、中川八洋筑波大学教授って統一教会の(筆頭)信者、あるいは原理研の(幹部)活動家なんだろうなと空想していた。しかし、エビデンスは一切見つからなかった。中川八洋は年譜を公表しているが、この件に関する情報は見当たらない。

さらに、福田信之と中川八洋の接点も全く確認できない。

【そして、思想本籍開示】近日の統一教会騒動の余波で、中川八洋が(おそらく)初めて、統一教会についての認識を示した;

また、統一教会とは、朝鮮労働党党首・金日成が朝鮮戦争で疲弊した北朝鮮を再建すべく、その資金を韓国の民衆から集めるべく、1954年、韓国に亡命中の北朝鮮人&教条的コミュニスト文鮮明に命じ、“財産収奪宗教団体”として発足せしめたエセ宗教組織。当然、反共ではなく、逆に狂信的な共産主義一色の教団。 (中川八洋ゼミ講義

と罵倒している。なので、中川八洋は統一教会と無縁なのだろう。ただし、不自然ではある。上記認識があったのであれば、福田信之を罵倒してもよいはずである。

【はたまた、村松剛】 1980年代の筑波大学「右翼」教授として著名だったのが、村松剛。村松剛と中川八洋は交流が深かった。八洋先生の年譜に書いてある。

おいらは、村松剛の本を何冊か読んだことがある。気に入ったところは、「保護領」(protectorate Japan) 認識や、何より、米国が嫌いだと公言していることだ。米国嫌いは占領のトラウマで、村松剛は進駐軍キャンプに出入りいして「闇商売」をしていた。家が建つほど儲かった。基地で米兵に自動小銃銃撃され「蜂の巣みたいになって死んだ日本人はいくらでもいた」といっている。国家主義的というか、普通に主権国並みに軍備をしろという主張をするのを、マッチョでいいなと思っていたのかもしれない。

ところが、昨日買った古本(愚記事の■今週の購書)に恐ろしいことが書いてあった;

 村松剛氏と言えば R 大学助教授、文芸評論家、仏文学者で、皆さんよく御存知の日本のモナリザ、村松英子さんの兄貴であるが、この男、肩書きに似合わず甚だそそっかしい。学問芸術については実に博学多識であるが、俗世間の下情についてはほとんど知らん。彼が美空ひばりをヒバリ科に属する鳥の一種だと長い間、信じていたという実話は友人にはあまりに有名な話であるし、野球をやらせるとバット振って三塁にのこのこ歩き出すような始末である。

 もう五年ほど前になるのであるが、当時彼は成宗近くの都電停留所の前に住んでおった。
 ある朝、いつものように講義におもむくべく、ネクタイをしめ、上衣を着、ノートを入れた鞄を持って家を出た。ちょうど都電が停留所にストップしたところであったので、大急ぎで飛び乗ったところ、乗客一同、眼を丸くし口をポカンとあけて自分を注目しておるではないか。
 注目するのも当然である。彼は上衣を着、ネクタイをじめ、鞄こそ手に持っているが、下はモモヒキ一枚だったのである。 (遠藤周作、『ぐうたら社会学

うーん、剽悍決死の人ではなかったのだ。まあ、しょせん「知識人」だよね、と当たり前のことに気付かされた。

【蛇足】中川八洋さんに戻って、八洋先生の敵は共産主義者と民族派である。民族派として、江藤淳、西尾幹二が挙げられている。なお、八洋先生の脳内では、共産主義者と民族派は同じものの現象形態が違うものである。民族派とは反米右翼のことであるが、そうであるなら、典型は西部邁である。八洋先生の年譜では、あまたの「保守派」知識人が罵倒されているが、西部邁はその罵倒を免れている。理由や評価基準はわからない。西部邁は元アカで民族派で反米右翼の典型なのに。八洋先生の年譜での西部の言及箇所は下記;

▽     勉強会の講師として西部邁を招く
《わたしが初めて西部遭氏と会ったのは二十年近く前だった。中川八洋氏が主宰する勉強会に西部氏が講師としてあらわれ、難しい講話が終わってから六本木のビアホールでビールを相当量飲んだ。中川氏はソフトドリンクを飲んでいた。
  何を話したかは綺麗さっぱり忘れている。》「辛口コラム 書評その5のA 西部邁著 『妻と僕 寓話と化す我らの死』(飛鳥新社)」http://miyazaki.xii.jp/column/index5.html
※書評の『妻と僕』(2008年7月刊)から逆算して推定すると1988年頃か。ソース 1989・平成元年  44歳

新しい街でもぶどう記録;第407週

2022年09月03日 18時00分00秒 | 草花野菜

▲ 今週の三毛ちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第407週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の花葉

■ 今週の箱買い

熊本産 荒尾の梨

■ 今週の警報

『まちだ謎解きゲーム』第1弾“異星人侵略の危機からの脱出<町田消滅篇>”

■ 今週見た「初めて見た」車両

大井町線有料座席指定サービス Qシート

2018年から始まっていたらしい。その存在に初めて気づいた。

■ 今週見た「初めて見た」車両 2

町田駅

TOTETSU = 東鉄工業株式会社 を初めて認識する。

■ 今週の「名ばかり」


JR町田駅のビル

猿カフェといっても猿がいるわけではありません・・・猿のぬいぐるみが飾られていたり、絵本があったりしましたが、落ち着いた雰囲気のカフェでした。

■ 今週のセットメニュー

■ 今週の購書

支倉常長を題材とした小説を遠藤周作が書いていると最近知った。ブックオフに行くとあったので、買った。あと、有名な『一外交官の見た明治維新』、アーネスト・サトウ、があり、おいらは持っていなかったので、買う。なお、サトウという苗字は英語なのだということは有名な話だ。

BOOKOFF 町田中央通り店ではオープン翌日の売上客数では池袋の記録を超え、開店日を含めた3日間の売上客数・売上金額とも秋葉原・池袋の2店舗を超えた。

■ 今週の昭和の成仏のために

4人死亡。

町田米軍機墜落事故とは、1964年4月5日に発生、死者4名重軽傷者32名を出した航空事故である。 

同日嘉手納飛行場(嘉手納基地)から僚機と2機編隊で発進したアメリカ海軍の戦闘機(F8U-2 クルセイダージェット戦闘機)が定期飛行訓練のため厚木基地へ向かう途中で故障を起こし、午後4時28分頃に町田市中心部の原町田1274番地(現・原町田二丁目1-8)にある洋裁店をかねた民家に墜落した。墜落地周辺では衝撃及び火災が発生し民家7戸が全焼、7戸が半壊した。この事故により一般市民4名が死亡(3名は倒壊した民家に押しつぶされて圧死、1名は飛行機の破片を受けて即死)、32名の重軽傷者を出した。 (wikipedia

町田米軍機墜落事故 1964年

事故現場に米軍が出動している様子が映っている。

事故の翌日マ元(ダグラス・マッカーサー元帥)が死去。

▼ 蛇足

事故を報じる紙面の広告が遠藤周作(この時、町田市民)の書籍。

 


今年2022年は、1868年に始まり77年続いた大日本帝国が1945年に亡びて77年目

2022年09月02日 18時45分10秒 | 日本事情

「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。 すると、かの男は、すましたもので、「亡びるね」と言った。   夏目漱石、『三四郎』、1908年


降伏する松平容保(左絵)、ミズーリ号の日本全権団(右画像)[関連画像]


1868年 明治維新
 ↓ 77年
1945年 大日本帝国滅亡
 ↓ 77年
2022年 今年

■ 戦後体制が77年続いたことになり、大日本帝国と同い年になった。さらに続く。戦後体制の国家の種類を政治概念的としてどう分類するか?いわゆる「普通の国」=主権国家ではない。だから、昔、「普通の国」へ、といわれた。最近も、安倍元首相による「戦後レジームからの脱却」も日本が普通の主権国家ではないという前提があるからであろう。

それでは、現在の日本の国家状態は何か?それは「保護国」(protectorate)という説や制限付き主権国家という説(制限されているのは交戦権)がある。この主権国家ではない日本の国家状態は、端的に、旧戦勝国の米軍や国連軍の現在に至る駐屯と日本国の交戦権の、占領憲法による、剥奪にある。

これは占領政策の結果である。何より占領を終わらせる講和条約が占領政策の「成功」であることが肝心である。

ポツダム宣言全13項のうち、第12項にある;

十二 前記諸目的が達成せられ且日本国国民の自由に表明せる意思に従ひ平和的傾向を有し且責任ある政府が樹立せらるるに於ては、聯合国の占領軍は、直に日本国より撤収せらるべし。

しかし、サンフランシスコ講和条約ではこうなった;

第六条

 (a) 連合国のすべての占領軍は、この条約の効力発生の後なるべくすみやかに、且つ、いかなる場合にもその後九十日以内に、日本国から撤退しなければならない。但し、この規定は、一又は二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される二国間若しくは多数国間の協定に基く、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とん{前2文字強調}又は駐留を妨げるものではない。 

占領が終わっても安保条約でそのまま米軍は駐屯し続けている。首都圏でも、横田、横須賀、座間、六本木など、77年たってもずっといるのだ。

上記、占領政策の「成功」とは、日本人が外国軍隊が駐留していても、どうとも思わないということである。

▼ 軽武装経済発展路線(戦後日本の生存策)の欺瞞と破綻

戦後日本は経済的資源を軍備にではなく経済に注いだので「繁栄」できたという説が昭和や20世紀には唱えられ、通説となっていた。

たしかに、俗に吉田路線といわれ、「保守本流」政治といわれた軽武装経済発展路線(戦後日本の生存策)は冷戦終了までは有効であったと日本人の少なからずに思われてきた。終戦直後の困窮生活と比較すれば夢のような生活だ。ベトナム戦争にだって出兵しなくて済んだ。

日本が「繁栄」を極めた1990年、バブル経済絶頂の時、米国はゴルバチョフ・ソ連と和解した。冷戦の終結。その翌年の米国の世論調査で「米国への死活的脅威」は何か?のアンケートに対し有識者の回答は1位・日本の経済力(63%)、2位ソ連の軍事力(20%)、3位中国の大国化(16%)であった。

今から見るとこの米国の対日脅威論が、このあとの半導体協定、スーパー301条の発動を示唆した恫喝などという具体策を以って、「日本弱体化」政策は実行された。米国の外交戦略的には中国に接近しGATT,WTOに入れ中国を世界の工場にすることを行った。つまり、軽武装経済発展路線の吉田路線こそが対日経済包囲網を惹起したことになる。

さらに、軍事力を当の経済の競争相手である米国の軍隊に頼っているので、経済の外交交渉など最初から勝負がついている。米国のいいなりになるしかない。

米国による日本封じ込め戦略の実現。

もし、戦後日本が1990年のようなバブル経済にはならない程度に軍備に国家予算を使用すればよかったのではないか。今のロシアの経済は韓国並みの規模であることが指摘されている。在日米軍を代替するくらいの軍事力の経済負担なぞ1960年の日本できたはずだ。それがなぜできなかったのか?それは米国が日本の自主防衛を容認しなかったからである。日本の交戦権の取得に反対していた/今もしているからだ。そもそもそのためにマッカーサー憲法を占領下日本政府に制定させたのだ。もちろん、在日米軍はマッカーサー憲法に拘束されず、日本を出撃基地としてアジア、さらには世界に外征していった。戦後の77年というのは、日本列島を米軍が自由に活動できる体制のことである。さらには、御丁寧に日本政府は米軍に「思いやり予算」を献上している。これが戦後77年だ。

現在、米国が中国に当たりがきついのは、中国が大国化して「気に入らない」からである。でも、中国は、日本と違って核武装しているので、日本のように赤子の手をひねるように扱えるものではない。

戦後日本は、核武装もしないで、経済大国になったので、現在、停滞し、衰退しているのである。軽武装経済発展路線の欺瞞と破綻は明らかである。

と原理・原則を書いてしまった。

■ 「敗戦利得者」

自称「保守」の人たちが繰り出す言葉で「敗戦利得者」というのがある。ここ10年くらいのことだと思う。昭和にはそんな言葉を聞いたことがない。そして、「敗戦利得者」と聞くと苦笑してしまう。なぜなら、おいらは「暖衣飽食」に与かっているからだ。戦前の華族さまより、ある面、安楽に暮らしている。ただし、特に今年の夏は、「衣飽食」がありがたかった。連日35℃以上の猛暑でクーラーがなければとても暮らしてはいけなかった。戦前、敗戦後・高度経済成長完成前にはクーラーなど夢であった。そんな「涼衣飽食」に与かって戦後77年を愚痴るのは、とんだ、罰当たりだ。

さて、あの麻生太郎さんは昭和15年生まれ(母・麻生和子が吉田茂の娘;父娘でサ講和会議に参加)で、子供のころの夢を語っている。「腹いっぱい、食いたいなあ」。当時の「えすたぶりっしゅめんと さま」でさえこうなのかと、驚いた。「進駐軍」「アメリカ兵にもらった」「甘い菓子」などビンゴ・ワード満載;

https://www.youtube.com/shorts/yXp_TDYhJfY

なおYouTubeのショートはgoo blogに埋め込めない。