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いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

三島由紀夫作品における東京大空襲に対する見解、あるいは、昭和100年を生きるノーベル賞受賞者、江崎玲於奈さん

2025年03月10日 00時10分00秒 | 日本事情

 
1973年受賞。江崎玲於奈 1925-  (存命)       三島由紀夫 1925 -1970
[ソース]

三島由紀夫の作品には東京の戦災が出てくる。実際、三島は戦災の東京を生きていた。東京の空襲の大きなもの、すなわち、3月10日の墨東地区の東京大空襲と5月25日の山手空襲のふたつが作品には出てくる。三島自身は、炎に追われるといった経験はしていない。遠くから見た巨視的な視点となる。一番近接した視点としては、罹災者を見ることであった。

一方、三島由紀夫の作品には何度も血と炎が登場する。この血と炎は死を彩る要素だ。血は死へと続くばかりでなく、三島由紀夫にとっては、発情、欲情の因ともなる。『仮面の告白』では若い男の腹に刃を立て血の迸ることを空想して自涜に耽ることが書かれている。一方、炎と死では、既に死んだものではあるが、遺体が火葬される場面を肉体の変化という即物的、そして猟奇的に描写している。いわば、戦災死を、その場で、微視的視点で見れば、見えたはずの状況ともいえる;

屍は次々と火に委ねられていた。縛めの縄は焼き切れ、赤や白の屍衣は焦げ失せて、突然、黒い腕がもたげられたり、屍体が寝返りを打つかのように、火中に身を反らしたりするのが眺められた。先に焼かれたものから、黒い灰墨の色があらわになった。ものの煮えこぼれるような音が水面を伝わった。焼けにくいのは頭蓋であった。たえず竹竿を構えた隠亡が徘徊していて、体は灰になっても頭ばかり燻ぶる屍の、頭蓋をその竿で突き砕いた。(『暁の寺』、8章)

さて、「遠くから見た巨視的な視点での話と、一番近接して罹災者を見ること」の具体的な描写を『仮面の告白』から拾う;

『仮面の告白』で主人公は、3月9日からM市(おそらく前橋市)に行き、泊まる。東京大空襲が始まったのは3月10日午前0時10分。M市から東京の方が真赤にみえたことになっている。現在から見て、この時2-3時間で東京の墨東地区で約10万人が焼き殺された。3月10日に東京に帰る。O駅(おそらく大宮)に着く。そこで、罹災者の群れを見る。その罹災者を見て主人公が考えたことが書かれている;

 それにもかかわらず、私の中で何者かが燃え出すのだった。ここに居並んでいる「不幸」の行列が私を勇気づけ私に力を与えた。私は革命がもたらす昂奮を理解した。彼らは自分たちの存在を規定していたもろもろのものが火に包まれるのを見たのだった。人間関係が、愛憎が、理性が、財産が、目の当たり火に包まれるのを見たのである。そのとき彼らは火と戦ったのではなかった。彼らは人間関係と戦い、愛情と戦い、財産と戦ったのである。そのとき彼らは難破船の乗組員同様に、一人が生きるためには一人を殺して良い条件が与えられていたのである。恋人を救おうとして死んだ男は、火に殺されたのではなく、恋人に殺されたのであり、子供を救おうとして死んだ母親は、他ならぬ子供に殺されたのである。そこで戦い 合ったのはおそらく人間のかつてないほど普遍的な、また 根本的な諸条件であった。
 私は目覚ましい劇が人間の面に残す 疲労の後を彼らに見た。 私に何らかの 熱い 革新がほとばしった。ほんの行く瞬間ではあるが、 人間の根本的な条件に関する私の不安が、ものの見事に拭い去られたのを私は感じた。叫び 出したい思いが胸に満ちた。

『仮面の告白』は、他の三島の発言により、行動は事実である。心中は創作として、2-3時間で約10万人が焼き殺された状況と上記の想定が整合的であるか理解しがたい。もっとも、『仮面の告白』は何の情報もなく主人公が大宮駅で罹災者を見るので、罹災者を見て、どう思おうが、それは作品の内在的論理に従うのだろう。救おうとした対象に殺されるという論理は、他人を救う暇もなく逃げ、そして死んだ人たちは誰に殺されたことになるのだろうか?よくわからない。

そもそも、三島由紀夫は、空襲は強烈な印象をもたらし、その後の人生でなかなか消えないものであったと昭和37年に云っている;

 戦後十七年を経たというのに、未だに私にとって、現実が確固たるものに見えず、仮りの、一時的な姿に見えがちなのも、私の持って生まれた性向だと言えばそれまでだが、明日にでも空襲で壊滅するかもしれず、事実、空襲のおかげで昨日在ったものは今日ないような時代の、強烈な印象は、十七年ぐらいではなかなか消えないものらしい。(三島由紀夫、『私の遍歴時代』)

5月25日の山手空襲を三島は座間の海軍工廠から見た。小田急で家に帰った。家は戦災を免れていた。この山手空襲のあと、主人公が考えたこと;

 その晩郊外の家へ落着いて私は生まれてはじめて本気になって自殺を考えた。考えているうちに大そう億劫になって来て、それを 滑稽なことだと思い返した。私には敗北の趣味が先天的に欠けていた。その上 まるで豊かな秋の収穫のように、私のぐるりにある夥しい死、戦災死 、殉職、 戦病死、戦死、 轢死、 病死のどの一群かに、私の名が予定されていない筈はないと思われた。死刑囚は自殺をしない。どう考えても自殺には似合わしからぬ季節であった。私は何ものかが私を殺してくれるのを待っていた。ところがそれは、何ものかが私を生かしてくれるのを待っているのと同じことなのである。 

空襲の被害への立ち合いという観点から、三島由紀夫は空襲直後の現場に立ち入った気配はない。一方、晩年の作品で、ある登場人物に5月25日の山手空襲の焼け跡を「経験」させている;

窓からは六月の光の下に、渋谷駅から駅までの間は、ところどころに焼ビルを残した新鮮な焼阯で、ここらを焼いた空襲はわずか一週間前のことである。すなわち昭和二十年五月二十五日の二晩連続して、延五百機のB29が山の手の各所を焼いた。まだその匂いがくすぶり、真昼の光りに阿鼻叫喚が漂っているような気がする。
 火葬場の匂いに近く、しかももっと日常的な、たとえば厨房や焚火の匂いもまじり、又、ひどく機械的化学的な、薬品工場の匂いを加味したような、この焼趾の匂いに本多ははや馴れていた。幸い本郷の本多の家はまだ罹災せずにいたけれど。 (三島由紀夫、『暁の寺』)

むかしの町と比べての感慨は、本多は少しもなかった。ただ目はまばゆい廃墟の反射をとらえて、割れた硝子の一片が今目を射るならば、次の刹那にはこの硝子も滅し、焼趾も亦滅して、新たな廃墟を迎えることになるということを、感覚的な確かさで受け入れた。破局に対抗するに破局を以てし、際限もない頽落と破滅に処するに、さらに巨大、さらに全的な一瞬一瞬の滅亡を以てすること、・・・そうだ、刹那刹那の確実で法則的な全的滅却をしっかり心に保持して、なお不確実な未来の滅びに備えること、・・・・本多は唯識から学んだこの考えの、身もおののくような涼しさに酔った。(三島由紀夫、『暁の寺』、第二十章)

興味深いのは、敵、すなわち、アメリカの悪意、無辜を大量死させる悪意には無頓着であること。死ぬまで強烈な印象を残した事象を引き起こした主体とその意図に関心がないのだろうか?不思議だ。これは誰も指摘しないことだ。おいらの感覚がおかしいのかもしれない。おそらく、現在の日本人の主流はこういう考えなのだろう;


https://x.com/CGO23689/status/1898542847609212959

■ 昭和100年

 今年は昭和100年である。三島由紀夫は1925年生まれなので、生きていれば、100歳であった。さて、三島由紀夫と云えば?、ノーベル賞である。ノーベル賞候補であった、ノーベル賞を希求していたなどと口さがない京童がうわさする。一方、本当のノーベル賞を獲った江崎玲於奈さんも1925年生まれである。そして、御存命だ。さらには、3月10日の東京大空襲を生き抜いて、その朝、東大で講義を受けている。

 - - そして、この朝も、すでになじみになった例の二十五番教室で、田中務教授はいつもと少しも代わらぬ調子で、「物理実験第一」の講義を行った。私は必死になってノートを取った。前夜のことから離れ、物理学の世界に没頭した。東大アカデミズムの存在感が身に伝わったときであった。- - (昭和20年3月10日朝の回顧)

江崎玲於奈・『限界への挑戦  私の履歴書』 (愚記事

三島は法学部、江崎は理学部の学生だった。理系は兵隊にとられず学業を継続できたのだろう。一方、法学部は兵役、徴用に学生が動員されていた。ただ、病気の学生が学内に残っていた。(あと、特別学生団)。法学部も3月は授業をやったと三島の作品には書いてある。


三島由紀夫とディズニーランド、あるいは、三島の好きなアメリカ

2024年11月25日 19時24分12秒 | 日本事情

最近わからないのが、なぜディズニーランドが好きだった三島由紀夫が憂国なのか?である。

そもそも、三島由紀夫はアメリカが好きだった。米国の悪口を云っているのを見たことがない。特に、ディズニーランドが好きで自衛隊襲撃の直前までディズニーランドに子供を連れていく気だった。

三島由紀夫がディズニーランドが好きであったことの証左は三島の川端康成に宛てた手紙(1960-1961年頃)にある;

ロスでは、生憎共和党の選挙本部のホテルに、ニクソン氏と同居してしまい、食事のサーヴィスもめちゃちゃくちゃに遅く、選挙さわぎでホテル中が煮立っていて、とんだトバッチリを喰いました。しかしディズニー・ランドはとても面白く、世の中にこんな面白いところがあるかと思いました。(川端康成・三島由紀夫『川端康成 三島由紀夫 往復書簡』新潮社、平成9年。大塚英志、「ミッキー・マウスと三島由紀夫の身体」、『越境する三島由紀夫 三島由紀夫研究⑩』より孫引き)

さらに松村剛の三島伝では昭和44年・1969年頃、「子どもたちをアメリカのディズニー・ランドにつれて行く約束になっていてね」と松村に云ったとされている。なお、この発言について「子どものはなしを彼が口にするのをきいたのも、この夜が最初だった」と云っている。

この三島由紀夫とディズニーランドの関係について言及し、考察しているのは、おいらが知る限り、大塚英志だけである。大塚が紹介する三島のアメリカ賛美の文章;

アメリカの商業美術が、超現実主義や抽象主義にいかに口ざわりのいい糖衣をかぶせてしまうか、その好例は大雑誌の広告欄にふんだんに見られる。かくて現代的な美の普遍的な様式が、とにもかくにも生活全般のなかに生きていると感じられるのはアメリカだけで、生きた様式というに足るものをもっているのは、世界中でアメリカの商業美術だけかもしれないのである。通信販売が様式の普及と伝搬に貢献し、人びとがコンフォルミズムとそれを呼ぼうが呼ぶまいが、アメリカの厖大な中産階級を通じて、家庭や台所の設計にまで、あのものやわらかな、快適な、適度に冷たい色彩と意匠の美的様式が広がっている。(中略)ジェット機から電気冷蔵庫にいたる機能主義のデザインが、ちゃんと所を得た様式として感じられるのはアメリカだけであろう。(孫引き:元は三島由紀夫「美に逆らうもの」)[なお、旧かなづかいは、いか@が勝手に改変]

文章全体は読んでいないのでわからないが、大塚英志は、『ミッキー・マウスと三島由紀夫の身体』の中で、「アメリカの美をこう賛美する」と云って上記引用を紹介している。

三島由紀夫とディズニー文化との出会いは、大塚英志によれば、戦前昭和8年に三島が小学校3年生の時見た映画とのこと。本格的なディズニー文化への傾倒は1951年(昭和26年)米国など「世界漫遊旅行」に出かけたとき出発直後の太平洋航路の船上での毎夜の映画上映であった。『シンデレラ』が記憶に残っているとしている。さらに「ディズニーの漫画で、『不思議の国のアリス』の気違い兎と気違い帽子屋のパーティーの場面は、私を大よろこびさせた。『ダンボの』の酩酊のファンタジーおよかった」と云っているとのこと(大塚英志、同上)。

大塚英志の指摘は、三島由紀夫がアメリカを賛美する鍵概念は、メカニズム。上記「ジェット機から電気冷蔵庫にいたる機能主義のデザインが、ちゃんと所を得た様式として感じられるのはアメリカだけであろう」はメカニズムの現れだ。大塚英志の上論文ではこのメカニズムが主題だ。

さて、この三島由紀夫が賛美している「アメリカの厖大な中産階級」のアメリカは三島の身近にあったはずである。家庭や台所の設計にまで、あのものやわらかな、快適な、適度に冷たい色彩と意匠の美的様式 これだろう↓


『デペンデント・ハウス 連合軍家族用住宅集区』より
(愚記事:横浜市の思い出:最後に借りた本『デペンデント ハウス 連合軍家族用住宅集區』GHQ DESIGN BRANCH JAPANESE STAFF/商工省工藝指導所編 1948年)

おいらの、単細胞的認識による、戦後日本像というのは、上記「ワイントンハイツ」のような「アメリカ人のような暮らし」を目指したというもの。かつて、おいらは書いた;

敗戦後の日本人の少なからずが、アメリカ人のように暮らしたいと願い、実現させたのが高度成長を経た戦後日本なのだろう。日本人をして、「アメリカ人のように暮らしたいと願」わせしめたのが「ワシントンハイツ」。(愚記事:米国的生き方 [American Way of Life] としての児童公園、あるいは、パクリ元の判明

この敗戦国民日本人の希望:「アメリカ人のように暮らしたい」というを実現させたのが経済成長であり、その結果が経済大国だ。

ところで、三島由紀夫と云えば、下記文言がよく言及される;

このまま行ったら日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう

でも、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残ったものは、三島が「称賛」した「アメリカの美」を追求した結果ではないのか?

さらに、三島が死んで10年あまりの年月はかかったが、ディズニーランドは日本にできた!


11月25日関連記事

2018;・「6月に三島由紀夫全集を購入されたお客様、お伝えしたい事があります。」
2015;・江藤淳が、三島由紀夫を「殺した」のか?
2012; ・「全共闘C」さんが、誰であるかわかった。
2010; ・武士漂流時代 「余った三河武士」はどうなるか?
2009; ・画面で告白 in English、あるいは45歳で隠れること
2008; ・(無題)
2007; ・初霜の時期

▼ 猫とカレーライス

ありし日のしろちゃん

しろちゃんはカレーが好きだった。おいらが食べ終わったカレーの皿に残ったカレーをなめていた。これは猫に悪いらしい(先ほどカレーをひと舐めしてしまったのですが大丈夫でしょうか)。今日、11月25日は「猫とカレーの日」だ。 ~♪~君も僕も猫も みんな好きだね カレーライスが ~♪~

ただし、これまで縁があった/ある猫は、しろちゃん以外、誰もカレーに見向きはしない。


1945.9.2 戦艦ミズーリでの降伏文書調印の署名時刻 

2024年09月02日 18時37分14秒 | 日本事情

1945年 (昭和20年) 9月2日、東京湾の戦艦ミズーリ号上で連合国に対する降伏文書の調印式は有名。日本全権の面子に [1] ついての解説記事はアクセスが多い。さて、この降伏文書には署名した時刻が記録されていると、レプリカをみて、気づいた。


降伏文書全体。この右上部の拡大画像が下記;

日本全権の調印時刻は9時4分、連合軍代表のマッカーサーの調印時刻は9時8分とわかる。

 9時4分

 9時8分

なお、日本全権は立って署名し、マ元は椅子に座って署名したと映像は伝えている。

■ [1] 参照


①重光葵 ②加瀬俊一 ③岡崎勝男  ④太田三郎  ⑤梅津美治郎 ⑥宮崎周一  ➆永井八津次  ⑧杉田一次  ⑨柴勝男 ⑩横山一郎 ⑪富岡定俊 所属 ①-④外務省、⑤-⑧陸軍、⑨-⑪海軍

■ [2]

木箱の中には降伏文書のレプリカが展示してある。大分県杵築市、無迹庵(むせきあん):重光葵の実家跡。


長州散歩:長府;下関市立歴史博物館、功山寺

2024年05月05日 18時08分18秒 | 日本事情

長州参り。長府という街を知らなかった。そもそも、長州は4藩から成るとも知らなかった。萩藩(本藩)、長府藩、清末藩、徳山藩。でも、かつて、このブログを始める前の2002年に2-3か月間山口県で過ごしたことがある。その時に自覚的に行った「長州参り」は萩。もちろん松下村塾にもお参り。その時の画像はこの記事(西のグル、北のグル)で使った。

今回、下関市立歴史博物館というのがあり、何か幕末維新の展示をやっていると知り、調べて長府を認識する。あー、功山寺は聞いたことがある。高杉晋作の解説本にはあの馬上の高杉晋作の像がよく出てくる。

北九州市からは小倉から山陽本線で下関駅までJRで行く。下関駅からはサンデンバスで長府へ。そこは「城下町長府」といって城下町が付くのだ。JR駅の長府とは違う場所と認識する。

1.城下町長府バス停、2.長府藩侍屋敷長屋、3.下関市立歴史博物館、4.茶屋 祥、5.功山寺

■ JR下関駅 → サンデンバス ⇒城下町長府

関門海峡

■ 城下町長府バス停

 

長府の歴史とともに流れている川で、桜並木に縁取られ、初夏はホタルが舞う静かな川です。侍屋敷は約100m南にあった建物を保存のために移築。仲間部屋の格子窓の造りなど、当時の上級藩士の屋敷の趣をよくとどめています(市指定有形文化財)。(壇具川と長府藩侍屋敷長屋 [google])

■ 

下関市立歴史博物館 web site  海峡に育まれた下関の歴史と文化 -海峡の歴史に未来が見える​-

▼ 企画展、幕末群雄伝 ー下関に集まった志士たちー

展示は次の4章に分けられ、時代ごと、維新の過程ごとに、下関に集まった志士の主に書いたもの(書状、揮毫など)を中心に展示。現物そのもの(1次史料)。

1章 立ち上がる志士たちー欧米列強の脅威と日本
2章 逆境に立ち向かうー長州藩の失墜ー
3章 提携を目指してー長州同盟ー
4章 それぞれの志ー大政奉還と新政府の成立ー

大村益次郎、西郷隆盛、平野國臣、楫取泰彦、福田侠平、吉田松陰、三吉慎蔵、木戸孝允、土方久元、坂本龍馬、中岡慎太郎、山縣有朋、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、中山忠光、有川恒縋、福原和勝、熊野直介

〇 中山忠光 [wiki]

東夷という言葉は愚ブログにも出てくる→東夷。でも使用法はお支那さまがわれらを視る目を擬したものだ。つまり、支那人→日本人。今回、初めて東夷という言葉を日本人→日本人で使っていることを知った。

そして、中山忠光は顔だけ知っていて、その生涯は知らなかった。知った。維新後侯爵となる中山家の子。でも、七男。攘夷から担がれ頭となる。まだティーンエイジャーなのに。公家のバカ息子。癇癪持ちだったらしい。よくいえば、スナノヲ的人間か。人格〇常者。まわりの者はもてあました。長州の白石家の日記では「むずかる」(だったとおもう)など気性が幼稚で手に負えない主旨のことが記録されている。そのことが展示されていて、知った。こういう気性なので、最後はなんと長州藩士に殺害される。はたち。攘夷派の内ゲバ、すごいね。

でも、字はうまいんだよね、中山忠光。

中山忠光の「道行」(みちゆき)
道行(みちゆき)、つまり外出の時に着物を汚さない目的で着るコートです。(google

中山忠光は、1963年の攘夷期限直後の米国船への砲撃に参加していると知る。攻撃を実施した光明寺党の頭。久坂玄瑞が実担当。

〇 山縣有朋

この幟に書かれている文言やその意味などの解説はなかった。どうやら、櫻山神社から最近寄贈されて、研究が進んでないのではないかと感じた。おいらは「霜」しかわからなかった。

過去の展示の図録などを贖う;

■ ⇒ 茶屋 祥

お料理は12品目!
どれから食べょぅー?お行儀悪い迷い箸をしちゃいそぅーでしたょー (まいぷれ下関)

湯豆腐がついていました。御飯がとてもおいしかったです。値段は、1,500円でした。

■ ⇒ 功山寺

先帝祭を知らなかった。先帝=昭和天皇、4/29の昭和の日の祭事かと思った。全然違った。安徳天皇のためのお祭りだった。赤間神社。

青い郵便ポスト。しかも、フグ付き。

■ 功山寺

功山寺(こうざんじ)は、山口県下関市長府にある曹洞宗の寺。長府毛利家の菩提寺。山号は金山(きんざん)。中国三十三観音霊場第十九番札所、山陽花の寺二十四か寺第九番。

仏殿は、善福院釈迦堂とともに鎌倉時代の禅宗様建築を代表するもので、国宝に指定されている。 

幕末の文久3年(1863年)、七卿落ちで京を逃れた7名の公卿のうち5名が滞在。高杉晋作は当寺で挙兵した(回天義挙)。wiki

■ 檀具川に沿って、来た道を戻る。

檀具川:周辺の流れを集めて大唐楯山の北側で長府野久留米町などを東北方向に下り、長府川端付近で東に流れを変え、下関市街を経て周防灘に達する。神功皇后が仲哀天皇9年(200年)の三韓征伐の際に壇を築いて祭祀を行ない、使用した道具等をこの川に流したことからこの名がつけられたと伝わる。江戸時代には川岸に多くの米倉が建てられて藩の年貢米を運ぶ船が行き来したと言う。wiki

▼ 下関駅


相模原散歩:小田急相模原 ⇒ 米軍相模原住宅 ⇒旧陸軍逓信学校門・相模女子大 ⇒相模大野駅

2024年02月04日 20時56分03秒 | 日本事情

1.小田急相模原駅、2.在日アメリカ陸軍 相模原住宅地区南口門、3.同西側、4.相模原病院、5.米軍住宅北側、6.文京2丁目、7.相模大野駅

相模原市の小田急線の小田急相模原駅近くに広がる米軍住宅地域周辺を散歩した。このあたりは戦前から旧陸軍の施設が集積されてきた。だからこそ、敗戦後、それら施設に占領米軍が進駐した 。そのうち戦後も占拠された区域もある。米軍の医療施設と住宅地域。後者は現在も米軍に占拠されている。前者は1981年に返還された。

ソース [#1]
陸軍病院、陸軍通信学校、陸軍電信第一連隊、臨時東京第三陸軍病院。青い斜線地域は敗戦後、1950年に接収地域、陸軍電信第一連隊の敷地と合わせて米軍住宅区域となる。

#1元図;相模原市教育研究所編『地域歴史素材集』1990 年

敗戦後米軍に接収された区域
陸軍病院(原町田陸軍病院(のち相模原陸軍病院)) ⇒米陸軍第128衛戍病院 ⇒在日米陸軍医療センター(FAC3098)⇒1981年日本に返還 ⇒外務省研修所、神奈川県立相模大野高等学校、グリーンホール相模大野、市営立体駐車場、市立相模大野中央公園、伊勢丹相模原店 [wiki]

 
ソース                1960年代の米軍病院  

陸軍電信第一連隊 ⇒ 米軍住宅地区 ⇒ 現在に至る

占領明け以降日本領区域
陸軍通信学校 ⇒ 戦後、相模女子大など
臨時東京第三陸軍病院 ⇒戦後、国立病院

■ 1.小田急相模原駅

■ 在日アメリカ陸軍 相模原住宅地区南口門

■ ⇒ 米軍住宅西側

ただのフェンスに長尺の金属が嵌め込まれ、中が見えないようになっている。


ここらあたりは中が見えるただのフェンスとなっていた。人が住んでいる気配がない。

■ ⇒ 4.相模原病院

元:臨時東京第三陸軍病院  相模原病院 沿革


真中の航空写真は1960年代、右は現在の航空写真

この陸軍病院には常時4千〜5千名もの患者数(傷病兵)が収容され、時には6千名を超えることもあったそうです。職員は2千2百〜2千3百名いましたが看護婦は5〜6名しかいなかった第11回 「相模台地区の都市化の移り変わり」

 配置図ソース

■ ⇒ 5.米軍住宅北側


すし太郎 google map

水道道緑道を横断


右手側が米軍住宅。この先は行き止まりで、引き返す。


引き返して撮影。左手側(南)が米軍住宅。右手家は日本人居住地域の家。


米軍住宅と日本人住宅がフェンスを挟んで隣接している地域もある。左手が日本。


ここが米軍住宅敷地の北東側角。ここで、米軍住宅を離れる。

▼ 1965年米陸軍家族住宅地区に米空軍の戦闘爆撃墜落

相模原市米軍住宅地区墜落事故昭和 40 年5月5日午後9時 40 分ごろ、横田基地所属F-105 サンダーチーフ戦闘爆撃機が、横田飛行場に着陸するため飛行中、機体に異常を発見し、人口過密地を避け、機首を相模湾に向けたのち、パイロットはパラシュートで脱出したが、機体は反転し、相模原市上鶴間の米軍相模原住宅地区に墜落した。
この事故により、日本側は軽傷1人、家屋一部損壊3棟、また、米側には死亡3人、負傷7人、家屋の全半壊があった。 ソース

■ ⇒ 6.文京2丁目、旧陸軍通信学校敷地

■ ⇒ 旧陸軍逓信学校門・相模女子大

▼ 相模女子大門=旧陸軍通信学校表門

陸軍通信学校(wikipedia)=東部88部隊(google

陸軍電信学校は、通信に従事する幹部候補生、下士官候補生を教育する学校で、1925(大正14)年に設立されましたが、陸軍士官学校の練兵場を利用するため、1939(昭和14)年5月20日に東京杉並から相模原に移転してきました。
終戦後その跡地には、1945(昭和20)年4月14日に戦災のため校舎を焼失した、帝国女子専門学校(のち相模女子大学:【上の写真】陸軍通信学校当時のものを使用する相模女子大学正門)が東京小石川から1946(昭和21)年4月に移転しました(当初は1年間の貸与)ほか、相模原町立大野第三国民学校仮教場(のち市立谷口台小学校)、県立相模台工業高校(のち県立相模原総合産業高校)などに転用されています。現在、相模女子大学構内には陸軍通信学校表門(同大学正門)のほか、将校集会所(同大学茜館)及び庭園、高さ18メートルの高架水槽(鉄筋コンクリート造の打ち放しの配水搭で、今でも現役で使用されている)、陸軍のシンボルマークである五芒星の形が入ったマンホールなど、約10の施設が文化遺産(軍事施設)として残っており、市立谷口台小学校には、倉庫があり、軽油庫らしいが鳩の餌を入れていたとも言い伝えられています(陸軍通信学校には鳩部が設置されていました)。【Web企画展】 第18回企画展「『軍都計画』と相模原」第3弾~相模原陸軍病院(米軍医療センター)の変遷~

■ 鵜野森大野線


北へ伸びる通り。この通りの右手が陸軍病院、米軍病院の区域。

相武台陸軍病院 wiki

1940(昭和15)年3月には原町田陸軍病院(のち相模原陸軍病院)と、相模原台地一帯には、東京から続々と軍事施設や軍需工場の移転が進み、8つの陸軍施設が建設され、その後、終戦により、陸軍施設の多くが米軍に接収されました。
そのうち、相模原陸軍病院は1945(昭和20)年9月20日、調達要求書第4386号により接収され、同月25日に米陸軍第128衛戍病院(のち米陸軍第141衛戍病院)が開設されます。1958(昭和33年)1月15日には、在日米陸軍の病院を統括し、在日米陸軍医療センター(FAC3098)(以下「医療センター」という。)となりました。
医療センターは米陸軍の軍人、軍属とその家族等のための総合病院として診療業務のほか、予防医学の研究等が行われ、ベトナム戦争当時は約700床のベットが満床で、横田基地から昼夜を問わずヘリコプターで傷病兵が運ばれてきたといいます。そして、ベトナム戦争終結により、1973(昭和48)年1月以降は機能が縮小されていきました。【Web企画展】 第18回企画展「『軍都計画』と相模原」第3弾~相模原陸軍病院(米軍医療センター)の変遷~

■ ⇒ 相模大野駅

■ まとめ 通過街

相模原市南区 南代 桜台 上鶴間 御園 文京 大野

 


子猿をめぐる冒険 :米陸軍第11空挺師団の再興2022と再来;They shall return, again since 1947

2023年08月18日 18時23分09秒 | 日本事情

(愚ブログで They shall return は2度目となります:1度目 シカゴ・アヴェニュウーと呼ばれた日、あるいは、they shall return)


米兵のヘルメットに書かれている 11 A/B は、11th airbone, 第11空挺師師団の意味
マッカーサーと一緒に「厚木」に来たこの子猿はどこへ行った?


左端が第11空挺師師団のスイング少将

第11空挺師師団は1945年夏、マッカーサーと一緒に「厚木」飛行場に来た米軍部隊だ。その後、札幌まで行ったことは上記愚記事にある。先々週は、第11空挺師師団に所属し仙台で1年過ごした兵士の手記をみた話をした。

さて、昨日知った。第11空挺師師団(wikipedia)は1965年に休止したが、2022年に復活したのだと。そして、昨年末、日本に日米共同訓練のために来ていたのだ。知らなかった。

▼ 再興

‘Arctic Angels’ Soar Again: Inside the Rebirth of the 11th Airborne Division 

翻訳 「北極の天使」が再び舞い上がる: 第 11 空挺師団の復活の内部

  記事抜粋

陸軍第11空挺師団が再び飛行中。今回、第11空挺部隊は、第二次世界大戦や朝鮮戦争の太平洋戦域で中心的な役割を果たした同名の空挺部隊やグライダー部隊のようにジャングルで救助を行うのではなく、北極の氷の上で活動することになる。

新たに再活性化された第11空挺師団は、陸軍の第82空挺師団や第101空挺師団と同様に空挺および空襲能力を備えている

アラスカ米陸軍は陸軍の北極部隊となるために大規模な変革を行っている

記事には北極圏でのノルウエー軍との共同訓練の話が出てくる。どうやら、対露牽制戦略の一環ということらしい。

▼ 再来

第11空挺師師団は再興したばかりでなく、かつて駐屯していた千歳にも帰ってきた。かつて千歳に進駐してきたときの様子は千歳市史に見える。7,000人が進駐したとある。

去年は日米共同訓練で千歳の基地に来たが、この基地にとって自衛隊は、第11空挺師師団と比べて、新参者である。

自衛隊web site より

 ソース

1947年のthe 11th Airborne Division ↓

(おそらく)第11空挺師団の札幌入城 昭和21年(1946年)4月7日

この写真は、仙台から来たスイング中将率いる第11空挺師団の札幌入城、昭和21年(1946年)4月7日と思われる(根拠資料 千歳市)。街路樹の葉が生えていないことも4月であることと調和的である。これは、おそらく北一条通り(西4丁目)。今は、「北海道神宮」の石碑となっている。

なお、今回の米陸軍第11空挺師団の再興と再来について調べてみて、子猿の手がかりはなかった。

 

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あからさまな「親米派」

2023年04月30日 18時18分38秒 | 日本事情

東京都世田谷区喜多見駅前

愚ブログの「親米派」シリーズ;①黒塗りの家に住む親米派②赤レンガの家で中国整体を営む親米派、③蔦に覆われちまった親米派④犬を連れた親米派、⑤絵にかいたような「親米派」、⑥洋瓦の家に住む親米派 に続く第7弾。

「親米派」シリーズで、極まってしまった案件に出くわす。このシリーズは、当初、シリーズ化するつもりなぞなかった。今からみて第1弾は、外観には何らアメリカ的要素がない家屋の主がどうやらアメリカ好きであるとわかったことに始まる。つまりは、隠れ「親米派」の発見においらが喜んだことに始まる。シリーズ③までは、いわば、隠れ「親米派」の発見シリーズであった。その後、わかりやすい「親米派」発見の報告がつづいた。そして、本記事。これ以上の親米派は今後、そう出会えないであろう親米派真打の登場だ。

Select Shop ムスムス 東京都狛江市岩戸北2丁目19 喜多見KI web site

第1弾の ①黒塗りの家に住む親米派 での親米派指標はこの程度の強度であった;


宮澤喜一の言葉遣いにおける「連中」

2023年02月23日 16時28分33秒 | 日本事情

 

宮澤喜一が池田勇人大蔵大臣の秘書官として、占領下に米国本国へ訪問し、講和会議について東京のマッカーサー元帥(マ元)の頭越しにワシントンの米国政府と下打ち合わせを試みた。そのことが東京のGHQ首脳やマ元に知られることとなり、彼らが怒ったという話の回顧;

 その日京都で吉田さんに、アメリカで起こったことを報告しました。だいたい狙ったラインはできました。できましたが、連中が怒っていてはどうにもならない。なんとか宥めて発表しなければいけない。 『聞き書 宮澤喜一回顧録』

「連中」ということばは否定的意味を含むものと思っていた。辞書では;

  1. 《「れんぢゅう」とも》仲間である者たち。また、同じようなことをする者たちをひとまとめにしていう語。親しみ、あるいは軽蔑 (けいべつ) を込めていう。「クラスの―を誘ってみる」「こういう―は度し難い」 (goo辞典書

親しみ、軽蔑の両方の意味を持ちうるのだ。なので、上記の宮澤喜一の占領軍への感情は「連中」という言葉から一義的にわかるわけでないとわかった。もちろん、おいらは、当初、「やつら」と互換できるような感情と受け取っていた。もっとも、宮澤は下記回顧しているので、やはり、連中は連中なのだろう;

占領下にあることがいかに不愉快なものか、いまの人にはわかってもらえないかもしれない。

一方、江藤淳との対談で宮澤喜一は「連中」という言葉を使っている。対象は新左翼系学生運動家たちである;

 ああやって大学で騒動をやっているわけですけど、いわゆる反代々木といわれている学生たちの言っていること、していることが、私にはよくわからない。(中略)
 おそらくあの連中の大部分が生まれたときからすでに世界は平和であった。 江藤淳との対談、「その次に来るもの」、江藤淳、『表現としての政治』1969年より

政権与党の政治家なのであるから、叛乱学生には否定的感情しかもっていないに違いない。

一方、この対談で江藤の言葉遣いとして次が認められる;

安田講堂を占拠していた反代々木の諸君について、ぼくはその行動に対しては非常に反感を持っていますけれども、いろいろな理由から、彼らの心情の根本にあるものについては多少推測のつくようなところもあるんですよね。

江藤は、「連中」よばわりしていない。

■ 「連中」に先駆けて「自己否定」の宮澤喜一

1969年に宮澤喜一と対談した江藤淳は、宮澤が首相となった1992年「宰相宮澤喜一論」を書いている(現在、『大空白の時代』に収録)。江藤は宮澤を秀才ではあるけれども指導力、統率力がないと描く。宮澤は高校時代に「人を心服せしむる力なきため、その統率的才能を機会少なき所あり」と教師に評され、いつも全学年で3位以内であったのに級長になったことがないのだという。宮澤喜一が頭角を現したのは秘書官としてだ。「主」の池田勇人が宮澤を認め、常に肯定し、褒賞し、おだてて仕事に務めさせたことがよかったと江藤は云う。つまり、「主」(庇護者)に尽くす立場では才能を激しく発揮するのだ。一方、自分が尽くさせる、つまり、人を心服させ大勢を統率すること才能が弱かった。その原因を江藤は宮澤の「自己否定」だというのである。自分で自分を励ますことができない。「主」に励ましてもらわないと仕事ができない。そういう性格だと江藤は分析している。さて、「自己否定」といえば全共闘運動でうたわれた惹句であるらしい(wikipedia)。「連中」のことではないか!


洋瓦の家に住む「親米派」

2023年02月17日 18時47分09秒 | 日本事情


東京都町田市

愚ブログの「親米派」シリーズ;①黒塗りの家に住む親米派②赤レンガの家で中国整体を営む親米派、③蔦に覆われちまった親米派④犬を連れた親米派、⑤絵にかいたような「親米派」、に続く第6弾。

上の画像の右下の灰色の塀に「エヴィデンス」が貼っていた;

Google 画像 [route66]

なお、向かって左の家は;

「親米派」町内会?