いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

55年前の今日、1966年7月16日文革勃発時、72歳の毛沢東、武漢の長江を泳いでみせる

2021年07月16日 14時50分32秒 | 中国出張/遊興/中国事情


55年前の今日、1966年7月16日文革勃発時、72歳の毛沢東、武漢の長江を泳いでみせる

このとき国家主席は劉少奇である。つまり、政府にとっては無官の72歳老人が「崛起」したのだ。

文革により中南海から引きずり出された劉少奇は、3年後に虐待を受けながら死ぬ。

下記のyou tube より

あるいは、この中共制作の動画:https://www.nicovideo.jp/watch/sm888284

■ 武漢(Wuhan: wikipedia 日本語英語)は、2021年の今では世界で北京、上海並みに有名な都市となった。もちろん、コロナウイルスの発生源だからだ。

さて、その武漢。55年前の今日、毛沢東が長江遊泳という大政治的示威(demonstration)を行った。プロレタリア文化大革命(以下、文革)が勃発した1966年5月から2か月目だ。この政治的示唆の後、毛沢東は北京に「上洛」した。8月18日の紅衛兵を100万人集めた天安門広場における文化大革命祝賀大集会実施への嚆矢だったのだ。


高 嶋   航、「文化大革命と毛沢東の水泳」なる学術論文がある。

■ 長江水泳示威の後で


1966年8月18日、天安門広場における文化大革命祝賀大集会


愚記事より

■ 裸族系独裁者

習近平党総書記・国家主席は、中国共産党設立100年で、中国の偉大さを賛美。第2の毛沢東になろうとしていると目されている。その習近平総書記はプーチンが大好きらしい(google [習近平 プーチン 尊敬])。そして、習近平総書記が崇拝する二人は裸族系独裁者なのだ。

 

まずは、一皮むけなければ。

【cn】毛沢東の中国:大いなる実験


老舎の死の日本への伝わり方 III; 武田泰淳、堀田善衛の発言 

2020年01月09日 18時53分01秒 | 中国出張/遊興/中国事情

中国の作家、老舎の死(文革勃発直後に糾弾され死に追い込まれた)の日本への伝わりかたについて下記愚記事がある;

老舎の死の日本への伝わり方; 水上勉、『こおろぎの壺』を読んだ。
老舎の死の日本への伝わり方 II; 水上勉、『北京の柿』を読んだ、あるいは、張教授の事実誤認
呉智英さんへの恩返し

上の3つの記事の概要は、文革勃発直後に糾弾され死に追い込まれた老舎の死の情報が日本にいつ伝わったか調べた。その結果、うわさとしては死亡直後から伝わっていた。老舎の死が確実であることは文革終了直前であった。

上の愚記事3つ以降、うわさを含む日本への伝わりかたについておいらが知ったことはなかった。ところが、先日、『対話 私はもう中国を語らない』(Amazon)という武田泰淳(wikipedia)と堀田善衛 [1](wikipedia)の対談本(1973年刊)に書いてあった。

[1] 関連愚記事; 堀田善衛『インドで考えたこと』

該当部分を抜き書きする;

革命におけるインテリゲンチアの死

堀田 同情といえば、中国の場合、文学者がいろいろ消えていった。老舎も消えていった。そういう、消えていったインテリゲンチアに対するシンパシーは、武田さん・・・。

武田 それはありすぎる。

堀田 ぼくは憤懣にたえませんね。だって、なぜ中国の歴史そのものを体現した老舎のような作家が死ななければいけないのか。ぼくがいちばん不愉快なのは、楊朔[2]という、これがつまり、ぼくが十何年間、アジア・アフリカ作家会議をやるためにいっしょに協力し、つねに交渉していた人ですね。この運動の草創と初期の苦労を、はじめは一九五六年にインドで、それからセイロンで、また東京で、それからカイロで、ぼくは彼とともにして来た。これが朝鮮戦争のときの孤児を四人養ってたわけですよ。孤児を四人養ってて、なおかつ自殺しなきゃならないなんて、おそらく死んでも死に切れる思いだったろうと思う。そんなことをやってる中国の権力者、毛沢東を初めとして、ゆるしがたいという気持がありますよ。ぼくには。
 こんなことをいえば、またミスター・ホッタを中国へ絶対に入れてはならない、といわれることになるになるのでしょうけど、そんなことはしょうがない。ほんとうにゆるしがたい。このぼくらの敬愛していた友人のことに限っては、文化大革命ゆるしがたし。

武田 それはつまり、文学においてぼくらの愛した文人が消えていった。それはまだ政府の発表はないんだから・・・・。

堀田 うん、それはそうなんだ。発表はないけれども、国際的な関係のなかで働く、あるいは単に働くだけでもいい、そういう文学者というものの危うさというものは、ぼくは肌身に感じてひしひしとわかる。どうでっちあげられるか知れたものじゃないから。しかし、死なせることはないだろう・・・・・。
(中略)

武田 発表があったのは、謝冰心[3]だけなんだから、個人的には秘密というか、それをぼくは向こうの文学者から、一人一人確かめたんだ、こういうことかって。それである程度はわかったけれども、政府の発表じゃないから、国際関係においてはいえないわけだ。ぼくは黙っていたけれども、それはもちろん抹殺されたか抹殺されかかったな。抹殺されても、されなくても、それは公表すべきだと思うんだ。そうじゃないと、文化大革命において文学者に対して、どういう考えをもっていたのか、公の声明が出されたことは、なんにもないんだから、ぜんぜんわからない。
 それはな、造反派の人から先輩文学者を非難したということは少しはきいたよ、個人個人でね。だけれども、老舎が死んだということに対しても、なぜ死んだか、はたして裏切り者であったから死んだのか、ということはね、一回も報道してない。つまり文学の問題としても、政治の問題としても。

堀田 どうして死んだかということも、発表していない。

武田 発表されてないわけだ。ただ、わずかにわかったのは、幹部学校にいた謝冰心が改心したということだけだけれども、それじゃ、なんのことだかまったくわからないね。

堀田 わからない。しかしね、わからないままで放っておかれている。彼らの古い友人であるわれわれの立場というものは、どういうことになるのかね。ぼくは、なんというか、愚弄されているような気がするよ。(p80)

楊朔[2]  wikipedia (訳)

謝冰心[3]   wikipedia

つまり、うわさ以上に出版物として公言できるほどの信ぴょう性をもち老舎の死の情報は、1972年には関係者には確認されていたことになる。1973年に出版されたこの本に対談は1972年に行われたとある。老舎の死は武田泰淳が直接中国の関係者に聞いたとのこと。武田泰淳は3度訪中し、そのうち2回は文革中とのこと。1回は1967年という文革最盛期の頃である。今から見れば、老舎関係者、あるいは中国文学関係者、日中交流関係者の一部は未確認情報(当局未発表情報)として老舎の死を知っていたのだろう。ただし、当局が公式発表しないので表で言及することははばかられていたということなのだろう。ただし、それ以上の武田泰淳の訪中情報はわからない。今後、武田泰淳の伝記などを読んでいきたい。

[1] 1967年の武田訪中。杜宣(解説web)に会った。杜宣は日本留学経験がある中国人作家。カイロで行われたアジア・アフリカ作家会議で武田と堀田は杜宣に会った。

武田の文革中の訪中で老舎、巴金など会えるはずの人に会えなかった話;

武田 ソ連の粛清なんてすごいですからね。たまたま日本では、まあまあ粛清ということは珍しいことである。日本では、やめれば命まではとらない(中略)だけど向こう(中国)じゃ文学者だってあぶないぜ。
 この間、謝冰心が幹部学校でやられて、出て来て、いままでのはぜんぶまちがっていた、というわけでしょ。それから巴金と老舎。北京へ行けば老舎先生、上海に行けば老舎先生、上海に行けば巴金に会って、それまでにもAA会議でも文学者にたくさん会っている。北京へ着いたらまず茅盾、これはいわば文化大臣になった人ですから、それが中国側の代表だと思っていたんですね。それが文革のときに行ってみると、いままで会えた中国の文学者には、だれにも会えないし、どうなったかわからない、というから、心配になるのです。(p88)

心配になったので中国の関係者に確かめて、老舎の死を知ったのだろう。

■ 武田泰淳、堀田善衛、『対話 私はもう中国を語らない』

『対話 私はもう中国を語らない』は1973年の刊。前年の1972年に日中国交回復。本書は国交を回復させた日本政府・自民党とは別に以前から日中関係改善に関与してきた武田と堀田が当時の中国の状況、および日中国交回復に言及し、自分たちの戦時期での中国体験を回顧する対談集。テーマとして1970年の三島事件について武田が言及している。当時、三島事件を受けて周恩来が日本軍国主義復活を喧伝していた。

中共が孤立していた頃(今の人は戦後まもなくは中共と国交がある国は現在の台湾と国交がある国の数くらいだったとは想像していないかもしれない)、中共とつきあって来た二人が、日本政府の中共との国交樹立という状況、あるいは、中共内部の文革という状況で、もう中共とのつきあいはやめると宣言した対談だ。

『対話 私はもう中国を語らない』は中古でも高い値段がついている(上記Amazonリンク)。図書館で借りた。返さないといけないので、興味深い点を抜き書きする;

■ ぐち

堀田 中国が、どこともほとんど国交のなかったあいだに、そのあいだに中国がつくった各国における中国の友人というもの、それは大きかったな。これからの日本がどうしたらいいのか。

武田 友人がいままではなかったですからね。 (p128)

■ 民主主義なんて知らないよ

(戦争がおわったとき、日本支配が終わった上海で、人々が今後の身の振りを考えなければいけない状況で)

武田 自分たちのほうが動きがさわがしいわけだ。急いですべてのことを解決しなけりゃならないでしょ。共産軍の宣伝文書ははいって来るし、重慶側は自分たちでまとめなければならないしね。そのときにぼくは、初めて共産主義と民主主義はちがう、ということを知ったんです。ぼくは共産主義と社会主義については、わりあい常識的に知ってたんですよ。だけど、もうひとつ民主主義というものがあるというんだな。

堀田 その話はおもしろいよ。

武田 そのことを、そのとき初めてきかされてね。それまでジャーナリズムに出てなかったんですよ、民主主義というのは。

堀田 武田さんはね、いま共産主義と社会主義は知っていたけれど、民主主義というものは知らなかったという。ぼくはぼくで、明治の民権自由の婆さんに育てられた。生まれつきの日本共和国論者ですから、レパブリカンですから、民主主義のことは知ってたよ。

武田 ぼくは民主主義っていうのがあるときいてね、ほんとうかな、と思ったね。日本にも民主主義をやるなんて、うまくゆくのかな、と思ったね。そんなもの、ぜんぜん日本人に縁もゆかりもないもんだ、と思ったんだ。(笑い)

■ 憲法

武田 ぼくは憲法っていうのは、まったくわからない。というのはね、つまり、自由自在に解釈を変更して来ているからね。憲法を守るという運動は、気持としてはわかるけども、ああいうものをかんたんに守れると思ったり、その条文がいつまでも変わらないでいると思うのは、まちがいだと思うよ。だって憲法というのはバケモノみたいなものでね、手や足がたくさん出たり、形のわからないものだと思う。いくら日本は戦争を放棄したっていったって、違うと思うんだ。

■ 大東亜文学者大会

この大会には日本の各文学者団体が参加したが、竹内好、武田泰淳らの中国文学研究会は参加を断った。(wiki

本書(p48)では、武田泰淳は、代表ではないがオブザーバーで参加したと書かれている。そこで陶晶孫(google)と行き会ったとある。

■ 中国人観

堀田 それから解放以前と解放以後とをくらべて、どう考えるか、ということね。解放以後の一九五八年ごろでしたかね。ぼくは初めて北京へ行ったわけですけれども、そのときにぼくがいちばん驚いたのは、やはりパレードでしたね。国慶節だったと思う。パレードがあってね。じつに整然としていることに、ぼくは驚いたですね。それはつまり、わたくしや武田さんが、戦中戦後、上海にいてね。上海の中国の人たちなんかと行き来していて、あるいは、かれらの生活を見ていて、整然たる、ああいう大パレードができるとは、とても想像がつかなかったですね。おそらく、いくぶんバカにしていたような気持が、ぼくらのほうにあったんでしょう。

武田 ああ、そう・・・。 (p131)

■ 三島由紀夫と武田泰淳

武田 だけど、三島君はね、ぼくはたとえ周恩来に非難されようと、好きであったということは、ハッキリいえるよ。三島君は、われわれが経験し、予測する事態に対しては、目をつぶっていたけれども、日本を守りたいという。子どもじみた考えはね、そこまでかれは考えて、あえて文学を棄てても、これで自分の生涯を完結しましょう、と思ったとおり、やっちゃったわけだな。
 だけども、ほんとうはね、じっさいにできないから文学というものはある、そもそも、そういうふうにハッキリやれるものなら、やっちゃたら いいんでね。それがやれないから、文学なんて余計なものがくっついてるんですね。最初から文学やらなきゃいいですよ。文学をやって、そういう結論に達したということは、ぼくは反対だけどね。
 ただその心、それが純粋だったということは、ぼくは疑うことはできないんだ。いくら周恩来が、軍国主義復活といったってね。三島君は、あの人は人を一人も殺していないじゃないですか。三島君は人を殺せる人ではない。かれは中国を侵略することもできないし、中国人を一人だって殺すことはできない。日本人だって殺すことはできない。そんなやさしい心の人は、自分しか殺すことはできない。それがそこまでやったっていうことはね、ぼくはやっぱり友達として認めてやらなきゃならない。

■ 三島由紀夫情報

武田 (前略)秋瑾が中国の民衆を知らなかったように、三島君も日本の民衆というものを愛していなかったですね。じっさいに東大法科を二番で卒業して、やることなすことをぜんぶ首席でね。民衆なんか忘れてしまって、古典の中にだけ美を認めるわけだから、現代というものがないいんです。 (p70) 

■ 中国人作家のシャイネス

堀田 よく日本人は恥ずかしがりだ、シャイだというでしょう。そんなことはないね。中国の偉い人のほうが、ズッと恥ずかしがりだな、文学者に関していえば。

武田 じっさいそうだ。

堀田 中国の偉い文学者、たとえば老舎、それから茅盾、巴金さんでもね、みんな自分の作品の話をされると、いても立ってもいられないほど、恥ずかしがるんですね。逃げだしちゃうんだよ。

武田 自分のことをよく知ってるんだよ。代表者になるような人はね。

■ 武田泰淳 2 26, 5 15への共感

堀田 武田さんは、満州事変について、なんか記憶がある?

武田 それはね、五・一五とかね、二・二六とかね・・・。あれは、ぼくはかなり同情的に見ていたんだ。下層下士官兵が、貧農地帯から出て来てね、ところが当時の支配階級は堕落しとる。で、日本はこれでますます沈みゆくばかりであって、おれたちがやらなければ、日本帝国は滅びるんだ、と思ったでしょう。それはまちがっていたけれどもね、まちがっていたけれども、それは、真実そう思い込んで、そう思っていた。非常な不景気でしょう。現在では想像もできないような不景気で、農村の子供は売られるわ、餓死はあるは・・・・。  (p25)

■ 戦争

武田 それからね、戦争っていうものが、どういうものかっていうことはね、いちおう話しておかなけりゃならないだろうな。ぼくとしては、ひじょうに恥ずかしいし、苦しいし、いやなことだけどね、やっぱり、いちおう告白しておかないと、いけないと思うんだ。
 ぼくは兵隊にとられて、貨物船に乗せられてね、上海のそばの呉・ウースン港に上陸したわけだ。ぼくが上陸したのは、上海の港から少し離れたところでね、そこに上陸してさいしょに会った中国人は、生きた中国人じゃなかった。死骸になった中国人だった。そうしてそれからズッと、まあ、半年くらいは毎日死骸を見た。食事をとるときも、寝るときも、井戸の中にも、川の中にも、丘の上にも、あるものはぜんぶ死骸ですからね、いやでも、その間を縫って歩かなきゃならなかったわけですよ。どこへ行っても死臭がただよってる。(p38)

■ 徴発

武田 ぼくが感じたのはね、農民ですよ。中国の農民がいかに強いかということ。(中略)日本の兵隊よりも、むこうのほうが大きいんだな。(笑い)(中略)
 その百姓たちがね、ぼくたちを見る眼が、こいつら、たいしたことない、自分たちのほうがずっと優秀である、という眼なんだよ。ということが、自然にわかっちゃうんだな。
 そこへこっちは徴発に行って、そういう人たちと対決するでしょ。こっちは武器をもってるし、むこうはもっていない。そうすると、向こうは遠巻きにして笑って見ている。おじいさんはトウモロコシなんかゆでるし、向こうじゃヒツジの肉がお釜の中で煮えてるしね。それはもう、農村文化っていうものが、非常に強いっていうかな、日本人が何いったって、蚊がとまったほどにも感じなくて、最後にはむこうが勝つということ、のみこんじゃうということね。点と線をのみこんじゃうということは、ちょっと見てもわかっちゃうんだな。

▼ まとめ

武田泰淳の発言は三島由紀夫事件の余韻でなされている。

▲ 武田泰淳、堀田善衛、『対話 私はもう中国を語らない』をなぜ読んだのか?理由は「江藤淳の影」。今回この本で武田泰淳を初めて読んだ。初期江藤において武田泰淳の「影響」があると平山周吉の『江藤淳は甦える』にあった。江藤は若いころ武田泰淳、堀田善衛と縁があった。一方、江藤における「中国の影」。江藤淳は佐藤内閣の頃政権の取り巻き知識人だった。周りに永井陽之助、高坂正堯、山崎正和などがいた。この中で後に中共に行ったのは江藤ただ一人であり、鄧小平にまで会った。この「中国の影」を背負う江藤は若いころ、武田泰淳、堀田善衛と縁があり、高校生の頃は竹内好の講演に感銘を受けたと平山周吉の江藤記伝にある。


老舎生誕120年;1965年滞日1か月、幻の公安-警察文書

2019年02月04日 19時13分40秒 | 中国出張/遊興/中国事情


https://twitter.com/CGTNOfficial/status/1091954438153981952

ツイッターで知った。昨日2/3は老舎の誕生日で、今年は生誕120年。

なので、誰も指摘しない老舎に関すること(与太)を書く。

老舎研究に役立つはずの日本の公安情報が眠っているのではないかという指摘。

老舎は1965年3月24日に来日し、1カ月日本に滞在した。(わかる範囲では)仙台に行ったり、谷崎潤一郎(画像2)[1]に会ったりした。


滞日中、乾杯をする老舎 (老舎記念館の展示;愚記事より)


図2
[1] 1965年4月7日、谷崎潤一郎氏と松子夫人は、熱海の自宅で老舎(左端)、劉白羽(右端)に会った。(愚記事

さて、老舎の滞日詳細を記した文書があるはずである。公安―警察関係機関にである。なぜなら、当時、日本は中共と国交がなく、事実上の敵対国であった。前年1964年の東京オリンピックの頃、当然参加しない中共は核実験を行った。極論すれば、当時の中共は今の北朝鮮みたいなものである。その中共からの訪問団(老舎は中国作家グループとして、文化交流の建前で来日した)であるから、公安―警察関係機関は終始「監視」していたに違いない。

これは、敵対的であるからという動機もあるし、同時に日本の反中勢力によるテロを防がなくてはいけない任務もあった。そして、もっとも重要な公安―警察関係機関の関心事は老舎ら中国作家グループが会う日本人グループである。日本国内の中共派が老舎ら中国作家グループと会う可能性がある。

実際に老舎ら中国作家グループが対日工作をしたとは思えないが、公安―警察関係機関はお仕事なので、終始「監視」し、報告書を書いていたに違いない。老舎の滞日詳細、すなわち、老舎がどこに行って、誰に会って、そして、何を食べたかまで、あらゆる情報が記載されているに違いない。

老舎の年譜作成にはとても役立つ情報だろう。

ただし、この報告書は、日の目を見るとは思えない。

▼ 関連愚記事

蒙童、老舎老師を知る、あるいは、文革血祭り第一号、そして、毛唐兵と紅衛兵の間で
老舎死去50年
老舎の死の日本への伝わり方; 水上勉、『こおろぎの壺』を読んだ。
老舎の死の日本への伝わり方 II; 水上勉、『北京の柿』を読んだ、あるいは、張教授の事実誤認

 


97年前の今日 (1921/7/23)、上海で中国共産党発足

2018年07月23日 19時30分01秒 | 中国出張/遊興/中国事情
― その当時の中国共産党の中心は、上海と広東でした。ただし、中国革命のあとで書かれた中国共産党の公式党史は、すべて毛沢東中心に書かれています。- [1]

中国共産党発足メンバー13人とコミンテルン2人の計15人。

中国共産党第一次全国代表大会の様子を蝋人形で「再現」した展示物。上海は旧フランス租界地区の一大会址博物館の展示物。展示物は写真撮影禁止だったが、この展示の写真を撮影した(2012年) [2]。

一大会址博物館 wiki [中国共産党第一次全国代表大会]

プラタナスの並木をもつ通りに建つ瀟洒な石造りの建物。1921年当時、李漢俊の住居。

中国共産党発足メンバー13人とコミンテルン2人の計15人は下記の通り;

13人のうち4人が日本留学経験者。そして、この1921年の中国共産党発足から1947年の中華人民共和国建国まで完走したのは、毛沢東と董 必 武(日本留学;日本大学卒業)。

 


関連愚記事;①史上最大のベンチャー・プロジェクト?=すたーと・あっぷ となるか??? あるいは、なぜ、現代支那で資本主義が興隆なのか?、② 董 必 武 中共国家主席@法政 日本 大学卒を知る

つまり、毛沢東と董 必 武以外のメンツは共産党を辞めたり、国民党に殺されたり、国民党に寝返ったり、あまつさえ我らが日帝と組もうとして漢奸となったりしたのだ。

周仏海は東條英機と一緒に写真に納まることとなる;


愚記事より

■ 周恩来はなぜ中国共産党第一次全国代表大会に参加しそこなったかというとパリにいたからである。なぜパリにいたかというと日本で勉強していたが一高(旧制第一高等学校)の入試に落ちて、フランスに行くことになった [荷風かよ、おまいは!]。もし、日本に居続けたなら、周仏海のように日本から上海に行ったであろう。周恩来は1919年に離日。さて、一高に落ちた周恩来は、今となっては、京都の嵐山や筑波山[3]など遊び歩いていたことが知られている。

[3] 日本語で「私は学生時代、友人とあの山(筑波山)に登りましたよ」と明かした

■ 元祖「上海派」

江沢民よりずっと前から周恩来は「上海派」。

中国共産党の主導権を奪った周恩来

1930年頃、コミンテルンの後ろ盾で周恩来やソ連留学組が党の主導権を握っていたとのこと[1]。毛沢東は江西省、福建省の革命 根拠地にいて党中央の指導的メンバーではなかった。

この時代、周恩来はあのゾルゲと会っていたことが最近分かってきたらしい。周恩来はモスクワに忠実な「国際派」であったらしい。

一方、のちに毛沢東はモスクワと決裂。独自路線を行く。

しかし、結果、毛沢東が主導権を握ったのは、日本の攻勢、長征と地方が共産党の根拠となったから。上海は完全に日本に占領されたので。

なお、ヨタを云えば、習近平の文化大革命時の下放体験は長征のプチ・インカーネーションであり、農村が都市を包囲するのであって、「上海派」=江沢民派と抗争するのだ(???)

で、周恩来は「寝返って」田舎で毛沢東と「仲良く」;


[1] 研究報告 「ゾルゲ事件の残された謎」一橋大学教授 加藤哲郎

[2]

ネットでみつけた中共一大会メンバーと日本留学について ⇒ 留日学生と初期の中国共産党 北京大学歴史学系  王   新 生

 

 

 


暴力男はなぜ?もてる; 康生とユリと、そして、暴力男・ひさしをめぐる物語り

2017年10月16日 19時46分28秒 | 中国出張/遊興/中国事情

世間では「暴力男がもてる」という認識が少なからず共有され、一方、謎解きも行われている;

Google [暴力男 モテる]


   箸をもち、にこにこして笑っている彭真の数か月後の運命は?

井上ユリ、『姉・米原万里 思い出は食欲と共に』(Amazon)より、無断転載。

彭真と康生と、米原一家、1964年。 文革勃発、実に、半年前!

彭真[wiki]と康生[wiki]が一緒に写っている画像を発見して驚いている。

その媒介が、米原一家であった。

米原一家についてほとんど知らなったおいらは、"深くて暗い川"に浮かぶ本 (="荊の簪を挿した御方"が借り出し読んでいた本)をペラペラみてたら、びっくりする画像を見つけた。彭真康生が一緒に写っている画像。

そもそも、(すこしは知っていた)米原万里の実妹が井上ひさしの結婚相手であるとは知らなかった。

ということは、あの殴られていたといわれる人なのか?!!!と思ったが、違った。後妻らしい。

さて、暴力男。

その前に、暴力男=彭真;


愚記事:壁新聞から壁新聞へ; 百醜図の伝搬について、あるいは、支那通事情:江頭数馬と秋岡家榮は同期の桜、より

例えば、最上段の「彭真」は文革勃発前までは北京市長、共産党中央政治局委員も務める党エリートであったが、毛沢東に再三名指しで批判され、それに乗した文革派の「リンチ」に遭う。その様子の画像。

毛沢東が発動したプロレタリア文化大革命において、実際に、つるし上げ第一号となったのは、北京を統括していた彭真である。

彭真はまっさきに毛沢東の目の敵になったのだ。 彭真は中華人民共和国発足時点から文革勃発までずっと北京市長であった。

おそらく、何か、彭真は毛沢東/康生の機嫌を損ね続けていたのだろう。

そして、暴力男、康生。

康生は毛沢東独裁の片腕であり、毛沢東の政敵の追い落とし、粛清の辣腕を振るったとされる。

龍のかぎ爪 康生(上) (岩波現代文庫)
Amazon

そして、井上ユリと井上ひさし;

文革勃発直前に康生と邂逅したユリは、のち、暴力男であるとされる井上ひさしの、"荊の簪を刺した御方"となる。


少しは関連するかもしれない愚記事

 


史上最大のベンチャー・プロジェクト?=すたーと・あっぷ となるか??? あるいは、なぜ、現代支那で資本主義が興隆なのか?

2017年09月24日 13時53分47秒 | 中国出張/遊興/中国事情

たとえば、最近、この愚記事(①かっぱらい、麦 笛 の作製に失敗; ② 董 必 武 中共国家主席@法政大学卒を知る)へのアクセスが認められる。

ところで、おっさんであるおいらは、現況にも鈍くなったのであるが、スタート・アップという言葉を、ある界隈で、見る。

あの「意識高い系」界隈である。おいらは、意識は高くなかったが、15年ばかり前から7年ほど、「ベンチャー会社」にいた(愚記事:日本で「ベンチャー」といえば当然(?)ブラックである。ちなみに、このあと今に至るまで、バイト先はずーっとブラック企業である。それも超ブラック企業だ)。

意識高い系の彼らはプロジェクトを考案し、立ち上げ=スタート・アップし、ひいては、上場し、一攫千金を手にし、そしてなにより、世界に対する卓越と優越を宣言したい、とのこと。

それなら、中共史に学べ!!!???

やつらは、1921年に立ち上げ=スタート・アップし、28年を経て、1949年に「上場」した。 

(もっとも、この上場は北朝鮮より遅いのだが...。ただし、その北鮮も「後輩」を見習ってがんばっている。現在見習いの北鮮の発達段階は1964年の中共核実験成功あたりだ。そのうち、米国大統領が電撃訪問すると期待しているのだ。)

そして、さらに1921年から約90年を経て、世界第二の経済大国@しかも1964年からとっくに核保有国だ。

■ 日本教育の「陰」、あるいは、「影」。

今、毛沢東の伝記を見ると出てくる。湖南省での恩師・楊昌済茗渓会(=東京師範学校卒業)だ。

そして、最近アクセスのある愚記事(①かっぱらい、麦 笛 の作製に失敗; ② 董 必 武 中共国家主席@法政大学卒を知る)には、1921年と1949年の両方に顔が見える唯一の人物が董必武=とう ひつぶであることが書かれているのだ。董必武さんは法政大学卒らしいのだ。

■ まとめ

史上最大のベンチャー・プロジェクト?=すたーと・あっぷ となるか??? 

米中世界最終戦争に勝利すれば、1921年のベンチャー・プロジェクト=すたーと・あっぷ は、史上最大となる。

その点では中国人のほうが論理的であって、継承の順序を逆にする。つまり、息子を父が貴族とするのではなくて、息子が貴族権を得ることによって、それを祖先たちにまでさかのぼらせ、かれらの賤しい家系をかれの努力によって名門にするのである。 (オルテガ、『大衆の反逆』)

あるいは、なぜ、現代支那で資本主義が興隆なのか?

ベンチャー精神にあふれ、資本家が住みやすい無政府状態が実現されているからである。

 Google [資本家の専制支配下の分業、社会では無政府性が支配]


老舎死去50年

2016年08月25日 19時32分35秒 | 中国出張/遊興/中国事情


2013年秋 (愚記事より)

老舎は1966年8月24日に、今は埋め立てられてもうない、北京の太平湖に投身自殺し、翌25日早朝発見された。ちょうど50年前の今日だ。

清朝の旗本(旗人 [google])の息子[1]として北京に生まれた満州族の老舎は、抗日戦争中は北京を離れ、一時は、英国、シンガポール、米国に滞在した。周恩来に請われて中共支那に帰国。作家活動を行う。毛沢東とも会って、作家業の方針のお伺いをもらっていた。

[1] 父親は自らの満州族がつくった清朝の旗本、八旗軍の兵士だ。つまり、清朝の えすたぶりっしゅめんと サマだ。 ただし、門番だ。しかも、代々読み書きができなかった愚記事

その死の直前の老舎を見かけたという証言がある;

一九六六年八月二十四日の昼近く、私は北京市街の北にある太平湖公園で、老舎と出会った。彼は、その夜、その湖に身を投げた。 
(中略)
 太平湖は、私の家にも近く、静かな所だったので、よく散歩に行った。二十四日は、友達も一人一緒だった。手入れもされていない湖には、人影がほとんどない。岸には柳が植わり、ぐるりと湖を取りまいて、水面には緑の影を落としている。柳の緑が濃いあたりには、漁民の網が干してあった。彼が歩いてきたとき、私は気がつかなかった。ちょっと変な老人だと思っただけだ。少し足を引きずり、ゆっくりと歩いていた。清潔な服を着て、顔が少し腫れている。眼鏡はかけていなかった。手には、その後、目撃者の証言にも出たあの巻紙が、確かに握られていた。彼も、私たちのことを気にとめなかった。何かを考えているような目をしていた。次第に遠ざかっていった。そのとき、友人が気づいた。「おい、いまのは老舎じゃないか?」。「まさか?似てないよ」。友人は、間違いないと断言した。私たちは、前日の二十三日にあった事件を知らなかった。
陳凱歌、『私の紅衛兵時代』

陳凱歌は、老舎の死を「自殺という手段で謀殺された」と書いている。

老舎の「自殺」の原因のひとつの解釈としてこういうのがある(吉田世志子、『「百家斉放」から「反右派闘争」の中の老舎 -1957年の『茶館』を中心として―』 元ファイル); 

つまり、1954年に毛沢東が「百家斉放・百家争鳴」の方針を打ち出した。さらに中国共産党中央は「整風運動の指示」を出し、共産党員以外の人間に共産党の官僚主義を批判するよう指示した。ちなみに、老舎は共産党員ではなかった。1957年、老舎は代表作のひとつである『茶館』を発表。この『茶館』の発表に先立ち、老舎は毛沢東と懇談し、質問している。そして1957年、「反右派闘争」が始まった。この時、老舎は、右派とされた丁玲、呉祖光を批判してしまうのだ。

 そして、1966年初夏文革勃発。そして、盛夏の8月 17日のプロレタリア文化大革命慶祝会、紅衛兵百万人が毛沢東を仰いだ熱狂を、老舎は激烈な「反右派闘争」が始まったと悟っただろう。そして、今度は自分が右派として糾弾されたのだ。1957年に右派を批判した自分が今度はやられる立場となった。吉田世志子は書いている;「1957年は加害者として、1966年は被害者として、本質的には同じ事象の両面に立ち会ってしまったことになる。このとき、老舎のなかに忽然と悟るものがあったのではなかろうか。

そうなのだ。老舎は毛沢東のこおろぎのけんか遊び[2]に気づき、とてつもない嫌悪感を持ったのだ。嫌悪の対象は毛沢東とその支持者たちばかりでなく、こういう自分に嫌気がさしたのだろう。だから、自殺に至ったのだ。

そんなに数は見ていないが、老舎の写真で歯を見せて笑っているのはこれのみである;

 [2] (愚記事より)

「老舎先生」
と私は、黙ってじっとこっちをみておられる先生の前で、折り目正しく訊ねた。
「私は、中国の古道具屋で見つけて買ってきたという一個の木壺をみたことがあります。たずねてみると、それはこおろぎを飼う容器で、喧嘩をさせて遊ぶらしい。中国ではむかしから、そのような風習があったのでしょうか」
「ありました」

 水上勉、御明察だな。


ホワイトハウスに行きたかった毛沢東と周恩来 @1945

2016年07月17日 19時50分06秒 | 中国出張/遊興/中国事情

およそ六十年間にわたる公人としての生活の中で、私は周恩来よりも人の心をつかんで離さない人物に会ったことはない。
  『キッシンジャー回想録 中国 (上)』 第9章 関係の再開 [愚記事]

本に書いてあることなので、とっくに公知なのですが、ネットにあまり見ない情報なので、コピペします;

下記コピペの前述要約: 1944年6月 [まだサイパン島は陥落していない頃] 米国大統領は副大統領を中国に派遣。蒋介石と協議。対日戦争について。米国は国共軍支援のため米軍の中国大陸上陸を考えていた。この時、米国は、蒋介石が反対しなかったので、米国使節団(正式名:合衆国陸軍監視団)が延安(毛沢東がいた中国共産党の拠点です;[十八君のために])との接触を始めた。

 以上のような積極的な米国側の提案に勇気づけられ、毛沢東と周恩来は、一九四五年一月九日、延安のデキシー・ミッションを介して重慶のアルバート・C・ウェデマイヤー司令部宛てに、直接「最高の合衆国公官」に次の申し入れを行うことを求めた。すなわち、毛沢東と周恩来がワシントンを訪れ、「第一の中国政党の指導者」としてホワイトハウスでローズベルト大統領と会談したい旨の明確な意思表示であった。
永井陽之助、『冷戦の起源』

ちなみに、この時点で毛沢東は外国というものに行ったことはない。毛沢東の生涯 一度 二度の海外旅行はモスクワ参りのみ。なお、周恩来はわれらが筑波山にも来ている (愚記事; 中国の故周恩来元首相が日本留学中、茨城県の筑波山に登ったと、故木村 操元つくば市長が自伝に記していることが分かった)。


白亜館に行きたかった二人


心をつかまれなくて済んだ人

 


七夕、あの日、盧溝橋で会えた織姫と彦星@1937

2016年07月07日 21時19分11秒 | 中国出張/遊興/中国事情

(戦争拡大に)積極的だったのは、日本側では関東軍で、中国側では共産党だった。
北岡伸一、 『日本の近代5 政党から軍部へ 1924~1941』

七夕といえば、盧溝橋事件の日である。

盧溝橋事件と柳条湖事件は、全然違う。柳条湖事件を起こしたまともな帝国主義者は先の見通しを考えていた。

盧溝橋事件。 誰が「絵」を描いたか、未だに不明。 もちろん、柳条湖事件の「絵」を描いたのは石原莞爾だ。

今、もっとも検証すべき仮説が盧溝橋事件は「コミンテルン」が「絵」を描いたものであったこと。一方、日本の帝都は東京の政府中枢・首相官邸には「コミンテルン」の工作員が事務室を持っていたことは「史実」である。しかしながら、首相官邸に事務室を持っていたコミンテルン工作員の尾崎秀実がどう具体的に「支那事変」を拡大させていったかの詳細は不明である(愚記事; 日本政府 内閣官邸にコミンテルンがいた日々  )。

さて、おいら。三田評論がある待合室(関連愚記事)とは別の待合室にいた。がきんちょ向けの歴史本があった。

今日七夕のあの事件はどう書かれているのか興味が湧いた。見た。

(戦争拡大に)積極的だったのは、日本側では関東軍で、中国側では共産党だった。ということが、一方的に2つの象限のみの要素で書かれていた。日本好戦派とチャイナ避戦派。 日本避戦派とチャイナ好戦派が描かれてない。

「支那事変」=日中戦争の炎上・拡大は日中の戦争拡大勢力の緊密なる協力の元に実現したのだ。

日中・戦争忌避/積極には4象限ある;

日本: 戦争積極派=軍部の支那一撃派+コミンテルン工作員 、 戦争忌避派=参謀本部・石原莞爾

チャイナ: 戦争積極派=中国共産党 、 戦争忌避派=蒋介石・国民党?

そして、日帝はチャイナ大陸に深く誘い込まれ・おびき寄せられ::何度となく支那兵の死體の上を乗り超えて

侵略戦争を革命へ!という中国共産党の夢を実現したのだ。

夢を実現したのはこの方たちだ。


日帝的鬼子、あるいは、父を求めて三千里

日本の皇軍なしには、わたくしたちが権力を奪取することは不可能だったのです。

さて、中国共産党の革命成就の「産婆」役であった日帝の最高「産婆」はこの方;

盧溝橋事件を日中の全面戦争に発展させ、さらには戦争解決を放棄する。

いいね、小学館。いいね、この説明。 こいつが日帝を亡ぼしたんよ。

侵略戦争を、亡国へ! 

惹句は、もちろん、暴支膺懲

 


50年前の今日 [1966.5.29]、北京円明園で紅衛兵が誕生!

2016年05月29日 10時43分50秒 | 中国出張/遊興/中国事情

 


2013年の北京参りにて [愚記事: 北京参り 2013]

北京の北西に円明園がある。天安門広場から10kmくらい。現在では地下鉄でいける [下記地図1参照]。円明園は「西洋楼遺址区の廃墟」として有名。

 清朝の乾隆帝の時代に、円明園の東にイエズス会士のブノワ、カスティリオーネらが設計にかかわった噴水が設けられ、西洋風の建物・西洋楼が建てられた。嘉慶帝の時代にも大規模な修築が行われ、揚州から最高級の建具が取り寄せられた。
 1856年(咸豊6年)に勃発したアロー戦争(第二次アヘン戦争)に際して、北京までフランス・イギリス連合軍が侵入、フランス軍が金目のものを全て略奪したのち、遠征軍司令官エルギン伯の命を受けたイギリス軍が「捕虜が虐待されたことに対する復讐」として徹底的に破壊し、円明園は廃墟となった。(wiki)

おいらが円明園に行ったとき、がきんちょが写生していた。背中からわかる学校名は、清华大学附属中学朝阳学校 [google]。このがきんちょが「紅衛兵」を知っているのかわからない。


地図1

■ 紅衛兵。 1966年5月に毛沢東により発せられたプロレタリア文化大革命の勃発直後に世界の注目の的になったのが武闘と称し文化人など毛沢東派が標的とする人物たちをつるし上げ、暴力を振るい、あまつさえ、殺したりした。彼ら紅衛兵の惹句は「世界を震撼させる」であった。

老舎の死はその一例だ (愚記事; 蒙童、老舎老師を知る、あるいは、文革血祭り第一号、そして、毛唐兵と紅衛兵の間で)。

当時の最初で最大の目標は国家主席である劉少奇の打倒である。国家主席を未成年の造反者が弑逆するのだ。

  

■ 「紅衛兵」誕生

その「紅衛兵」の誕生の日と場所がわかっているというのだ。「紅衛兵」という言葉をつくったのは、張承志。 

張承志著、『紅衛兵の時代』 (岩波新書) に書いてある;

 当時は円明園の廃墟が私たち造反派学生のたまり場になっていた。ここは第二次アヘン戦争の時、英仏侵略軍に焼き払われてからこの当時に至るまで一面の廃墟で、ところどころに水田が点在していた。学校と円明園は一本の通りで隔てられていただけで、付属中の生徒たちは朝早く円明園に行って本を読み、夕方にはここを散歩するのを好んでいた。五月下旬、円明園は私たちの秘密の活動の隠れた基地となり、いつもこの廃墟で状勢を検討し、対策を講じた。私たちの心は、革命者が非合法活動に従事するさいの高揚した感情と、闘争や犠牲へのあこがれに満たされた。

(中略)

 円明園だけが私たちの家だった。かつての戦乱で焼け焦げた石や起伏のある荒れ果てた野原は、隠れ場所を提供しただけでなく、そこに入ると豪放不屈の情念が沸々と湧き上がってきた。私たちが円明園で感じとったものは、中華民族新生への使命感とでも言うべきものだった。修正主義的な精華付中の教育制度のみならず、過去百年来の中華民族の屈辱と没落の歴史が、今やわれわれの奮闘によって終わりを告げようとしているのだ!と。当時十六、七歳だった私たちの心情を正確に描き出すことは、困難であるばかりか、書いたところで到底信じてはもらえないだろう。

「紅衛兵」という言葉は、張承志が精華大学付属中学のクラスの小字報(壁新聞)を貼り出すさいに、張承志のグループに名前をつけることとなり、いくつかの名のなかに「紅衛兵」の名が含まれてた。

 一九六六年五月二九日、私たちの仲間は円明園に入り込んだ。小高い丘の上に桃の木がびっしり植えてあった。私たちは組織を結成することを決めた。
 この日以前には、私は決して中心的な人間ではなかった。

(中略)

 張暁賓(彼は周恩来総理によく似た風格をもち、親しみやすく、人に信頼感を与えた)がこう言った。
「じゃ、ぼくたちは主席が言ったとおり、組織を作ろうぜ」と。
 小鳥の鳴声さながらの歓声、ペチャクチャと長く続いた議論の中味は、その後私の記憶からすっかり薄れてしまった。私が覚えているのは、さんざめく若い声に交じって、高洪旭 [カオホンシュイ] がひときわ高い金切声で叫んだことだ。
 「これからぼくたちは同じ署名を使おう。だれが書いた大字報や小字報にも、自分の名前の前に『紅衛兵』という字を書こう、集団で書く文章には『紅衛兵』と署名しよう・・・・」と。
 私はまっかになり、頭がガーンとなった。私がたまたま思いついたこの名称が、仲間たちにこのように注目され、愛されるなんて思ってもいなかったのだ。
 「紅衛兵だって! そりゃすげえや・・・・」
みんな歓声をあげた。

上記は清華大学付属中学 (ここでの中学とは大学進学前の年齢の生徒用の学校;日本での高校に相当)の造反派の誕生の場面。これが紅衛兵と名乗った最初の文革造反派ということらしい。もっともこれは名目的なことだろう。実際に「実権派」を虐待した文革造反派はこの時点ですでに別途誕生していて、この後、紅衛兵を名乗る。

張承志のその後。 紅衛兵誕生の後、張承志は学内での内ゲバに巻き込まれ、2年後、1968年6月にモンゴルに下放。

そして、まだ存命らしい ⇒ wikipedia [張承志]