■ さらば、筑波山麓、最後の晩餐
ハートランドで牛すじ煮込みを食べた。 さようなら、つくば!
↓
そのあと、ウエスト ハウス にはしごして、パフェを食べた。 本当に、さようなら! つくば。
■ 今週の「おしゃれ小鉢」支給快諾、あるいは、豪華粗品について;
ノーベル賞受賞の天野氏と中村氏に文化勲章。 ノーベル賞受賞者意外の受賞パス(経路・順序)は文化功労賞→文化勲章なので、あわせて、文化功労賞も受賞。
順当の正統派研究者; 文化功労賞→文化勲章→ノーベル賞
(赤崎氏を順当に叙勲し、一方中村氏を放置してきたのは典型的日本保守派である。彼らは「無礼者」や「aggressive な御仁」が嫌いなのだ。)
「おしゃれ小鉢」支給拒否!
■ 今週の大角豆交差点歩道橋
あの錆びさびの昭和の残渣物にほかならない大角豆交差点の歩道橋が塗り替えられていたことに気づく。
● 筑波山麓最後の昼めし
鴨重
■
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ちくしょう、転勤だ!ということになった今週、東京へ外勤だ。おそらく、筑波山麓からこのJRひたち野うしく駅を使って外勤のために東京へ行くのは最後となるだろう。 なお、見送りは、なかった。
JRひたち野うしく駅。 1998年開設。 元々は、万博中央駅である。 もちろん、あの1985年の筑波万博のための臨時駅。
おいらが、筑波山麓に来た1997年12月にはまだこのJRひたち野うしく駅は開設されていなかったのだ。
ポスドク時代は滅多に東京に行かなかった。その後、東京に行ったとしても高速バスを使っていたので、JRには乗らず、しかもJRひたち野うしく駅に縁がなかった。ちなみに、当時、今のTXつくば駅であるつくばバスセンターからの高速バスで東京へ行くことのリスクは高速道路での渋滞による遅延であった。おいらが実際に聞いた最大の遅れは8時間である。8時間も首都高でスタック(stack)されるのだ、拘束バス!
なお、筑波山麓に投げ込まれたおいらの主観的認識はJR駅といえばJRひたち野うしく駅であった。実はそのJRひたち野うしく駅は(その当時からみて)つい最近できた駅なのだ!という認識はなかった。「おいらが、筑波山麓に来た1997年12月にはまだこのJRひたち野うしく駅は開設されていなかったのだ」というは後知恵=反省的獲得知識である。
さて、その元々万博中央駅であるはずのJRひたち野うしく駅で出会うものはコスモ星丸[google画像](関連愚記事;谷田部細川一万六千石)ではなく、八兵衛さんである。
はじめてこの anonymous peasant (google画像) が目に入ったときから10年くらいたっているのであろうが、特に探索したことはなかった。
そして、今日、さらば! さらば! 筑波山麓という今に至って知ったさ。この像は、エピソード1(第一場面;下記画像)だって。ほかに3像あるらしい。エピソードは続くらしい。
▼ なお、この行幸行啓駅である。
そもそも、JRひたち野うしく駅はつくば市ではない。牛久市である。住井すゑが住んでいた牛久市である。住井すゑに用はない、われらが皇帝夫妻は、いわゆる「筑波学園都市」に行幸行啓されたのであった。
関連愚記事;再リンク:; おらほの街にKing&Emperor
● JRひたち野うしく駅の思い出;
なによりおいらにとってのJRひたち野うしく駅の思い出は、成り空港に行くバスの発着駅としてである。
はずめて、インドに行った時、すなわちその時あのタージマハルに行くのであるが、やはり、このJRひたち野うしく駅からバスで成田空港に行った。このJRひたち野うしく駅までは、西大通りの稲荷前交差点付近のバス停から在来バス路線で、JRひたち野うしく駅まで、巨大なトランクを抱えて行った(関連愚記事; 憧れのタージマハル )。このとき、この八兵衛さんをどう見ていたのか?見なかったのか?覚えていない。
ちくしょう、転勤だ!ということになったので、筑波山麓で今まで間近で観察できなかったものを見て回っている。
大学の教育の場面では「大学院重点化」、文部省(当時)以外の省庁は傘下の研究所への予算の増額、が始まったのは1990年代中頃である。(今からみれば)科学技術バブルの膨張開始であった。
現在、まだ「ポスドク問題」とか(一部?)騒いでいるが、信じられない。なぜなら、2000年には「ポスドク2000年問題」と研究者の間では話題になり、こんなに博士を増やしては、そのうち破たんするのは明らかであるという認識があった。もちろん、この「ポスドク2000年問題」は「Y2K問題」にかけた表現である(=Y2K問題::コンピュータのプログラムにおける西暦の表示方法により、コンピュータ制御の不具合で事故が起きるのではないかと危惧されたこと)。もっとも、今から見れば、この認識は研究者世間全体の共有認識ではなかったのだ。
なぜなら、それから15年あまり、「無駄な」博士が量産されているからである。
「無駄な」博士となったおいらが、まだ「有益な」博士になろうとがんばっていた頃、つくばは二の宮に御殿ができた。
まだ20世紀末であった。建てたのは科学技術庁(当時)の傘下の独立行政法人;科学技術振興機構(略称JST)である。
当時は、未だ、TXも開通しておらず、つくば駅付近では高層マンションは建設されていなかった(とおいらは記憶している)。
小泉内閣時代の独法批判の嵐にも特に問題化されなかったと、おいらは記憶している。
いままでは、西大通りから遠目に見るだけであったが、見に行った。
人気は感じられなかった。画像は示せないが、低層階の部屋はカーテンがひかれていなかった=人がいないんじゃないか。
■ 今週の筑波山麓
■ 今週のサギ
● 今週の愚民党; 田中派残党の面目躍如
関連愚記事; 私たち総理の子供たちには・・・・
「官打ち」という言葉がある。 実力不相応の者を(わざと)高級な位に就かせ、試練を与え、仕事がうまくいかないことを出来させ、辞任させ、その者の将来をぶち壊すことである。「将来の総理候補」とかいわれ、かつ、例えば今日は内閣 3人娘 3人おばさん が靖国参拝しているのに、田中派残党だから靖国にいかなかったであろうこの「父の娘」には今回の入閣は試練であったのだ。
それにしても、田中派、あるいは田中派残党の金権体質は、中国共産党とばっちり共鳴しているではないか!
戦没者追悼よりカネが大切なのだ。
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↑ 小貝川
常陸下総両国知行所拾八ヶ村絵図 (宮城県図書館蔵)の部分図
筑波郡四村(大園、吉沼、大砂、西高野)
つくば市北西部、小貝川沿いにある吉沼。江戸時代に仙台伊達家領であったところ。
延宝5年(1677年)、筑波郡吉沼に22人が名主などの推挙で仙台伊達家足軽に選出。身分は武士。このとき、江戸藩邸から九曜紋の付いた紋付が運ばれ足軽に給付。職責は、領内の治安維持、年貢・諸役金の催促、市横目・夜廻りなどの在地勤務。それとは別途、江戸や津方(潮来 も含む、房州内浦・館山、下総、銚子)での勤務。江戸(の仙台伊達家藩邸)には「定詰足軽衆三十四人」が配置されていた。その補助的役割を吉沼足軽は担っていたらしい。
関連愚記事; 江戸時代の筑波山麓 『非正規'賃金'労働者』、仙台伊達家足軽
足軽は現地の農民から大庄屋や村役人の推挙によって任用されたものであり、給与も低く御用の時以外は保有地や預かり地を手作りして生計をたてていた。
(以上、史実の出典は、内山純子氏の研究結果。例えば、『大穂町史』、『宮城の研究3、仙台藩の飛地』など)
もちろん、足軽時代の面影は神社くらいしかないが、街全体が何時代かわからない、高度成長期の昭和より古い時代の面影を残している。
■ 青い目のお人形が来た吉沼; 関連愚記事: 黒い目のお人形
青い目のお人形は、日本に、11970体来たらしい。そして、茨城県には243体来たのだ。
『大穂町史』からコピペ
1927年頃だ。このがきんちょたちは、この時平均8歳とすると、日米開戦の1941年には、22歳となるのであった。
↑ この人形は現存するらしい!
wiki 青い目の人形
● 青い目の人形が来た1927年から約10年後、吉沼郊外には大日本帝国陸軍航空士官学校西筑波分教場、西筑波飛行場が建設される。
パレンバン 「空の神兵」の稽古場 に他ならない。 YouTube; 空の神兵
さらば! 筑波山麓
ちくしょう、転勤だ!ということになった。筑波山麓での見納め遊山で過ごしてる。
"筑波研究学園都市"は周知の通り人造都市である。その街の背骨のような道が「学園東大通り」である。がくえんひがしおおどおおり。とーだい(東大)通りではない。"つくば学園都市"は建設当時、つくば市はなかった。現在のつくば市は多くの町と村の合従体である。
愚記事; ひろひとさんのゴーサイン
さて、極私的記録。 1997年12月、おいらは"つくばに"やって来た。
バンクーバーからのフライトはがらすきで、隣の座席に横になり寝て渡洋した。見た目があきらかにぬっぽんずんでしかない客室乗務員(@黄色い人)が英語でサービスするので、英語で応答し続けた。おいらのことを「華人」さまだと思ったのであろう。
おいらは"つくばに"やって来た理由は、ポスドク2巡目を始めるためだ。カナダから成田へ夕方に到着した。その成田空港で買った雑誌『文藝春秋』には江藤淳の評論、「第2の敗戦」が載っていた。「たくぎん」が潰れて間もない頃だ。「たくぎん」が潰れるということの衝撃は、今となっては、限られた世代の道産子にのみ理解されるのだろう。成田からバスでつくばセンターについたおいらは、タクシーで、東大通りの竹園付近のホテル・ニューたかはし に行き、泊まった。ホテルにチェックインすると間もなく、今度のボスとなる人から電話があった。すなわち、フロントにおいらがチェックインしたら直ちに連絡するよう指示があったに違いない。その晩はゆっくりできるとのおいらの期待ははずれ、今度のボスとすっかり日が暮れた時間に会わねばならなかったのだ。会った。それが初対面だった。そのボスは晩飯を共にしたいと思っていたのだ。
「何が食べたい?」と新ボス。
「カレーライス! 典型的な日本風カレーライス!」とおいらは即答した。
その時、即答したことに新ボスが何か感じたことが表情に出たことを、おいらは見て逃さなかった。のち、こういう質問に即答するとは思わなかったと述懐している。おそらく、初対面のカナダ帰りのポスドクとの会食について、何か腹案があったのかもしれない。
我々は竹園の スカイトット すかいとっと に行った。 今はもうない [google; 竹園 カレー すかいとっと]。
つくばについて、ホテル・ニューたかはし に何泊したか覚えていない。今の記憶では到着の晩、ひと晩だけだったと思う。次の晩からは研究所の付属の宿泊施設=ベット部屋、に泊まったのだと記憶している。一方、すぐに不動産屋に行き、アパートを決めた。すぐ決めた。特に考えずに決めた。のち11年間暮らすこととなる(愚記事; 11年暮らしました)。
その時アパートを斡旋した不動産屋のその営業のひとは、現状の経済状況は「壊滅的だ!」と言った。たくぎん破綻を受けて、数年前に生じたバブル崩壊を現実のものとして不動産屋が実感していたのであろう。この不動産屋のその営業のひとが持っていた「恐慌感」は、おいらがカナダで感じていた日本恐慌状態!と整合していた。
おいらがカナダで感じていた日本恐慌状態!と不動産屋のその営業のひとが、現状の経済状況は「壊滅的だ!」と言ったことを、国研の研究者に話すと、全然反応が違って、「どこのクニの話ですか???!!!」という感じだった。今から思えば当時は、おいらが tax-eaterという言葉=概念=文節できる能力=認識能力を持っていなかったのだ。食税ぬっぽん研究者さまは、こういうものだったのだ。と今、思う。1998年1月のことだ。
さて、アパートを決め、札幌に一旦帰った。理由は車を取りにかえるためだ。つくばは車がないと生きていけない。苫小牧発、大洗行きのフェリーに乗り、つくばに再来したおいらのしたことは、ふ と ん を買うことである (なお、苫小牧発、大洗行きのフェリーには、 見 送 り の じ い さ ん はいなかった)。 そのふとんを買ったのが、学園東大通りに面した、一の矢・八坂神社に近い「綜合寝具日庄」である。車で乗り付け、ただちに買って、アパートに帰った。
竹園のカレー屋、スカイトットは無くなってしまったが、ふとん屋日庄はまだあるのだ。
なぜ、1997年にこのふとん店・日庄で寝具を買ったかというと、このふとん店を知っていたからだ。
そして、極一部のつくば市民を除いて、この東大通りにおける「綜合寝具日庄」の意味、位置づけはわからないだろう。
「綜合寝具日庄」が面する東大通りにおいて、このあたりは両側に人造の並木が続く、まるで高速道路にように=つまりは左右の文物は並木のみで立ち止まって何かするような通りではない==通るだけのための大通りという雰囲気なのである。
さて、その「人造の並木が続く、まるで高速道路によう」な道路は、いつ、何のためにつくられたのか?
それは、ひろひとさんがゴーサインを出した"筑波研究学園都市"の北端の目玉施設がKEKだからである。
KEK=高 K エネルギー E 研究所 K !
どういうabbreviationのつくりかたなんだ! 昭和のぬっぽん!
"筑波研究学園都市"の北端の目玉施設であるKEK(高エネルギー研究所)とつくばセンターを結ぶためである。
1972年のKEK。 トリスタンのカケラもない。
1997年のKEK
おいらが、初めてつくば山麓にやってきたのは、周恩来より相当遅れた[1-2]頃、すなわち、昭和は終わっていたが20世紀はまだ終わっていなかった頃だ。
おいらが初めてつくばに来たのは平成になって間もなく。仙台からみんなで車で行った。今から思うと国 道6号線で南下、学園東大通り入口の交差点から東大通りに入った。ナビをするわけでもないが、車外の風景と地図の地名を照らし合わせていた。運転者と今ど こを走っているか確かめていた。オオカドマメって読んだことは記憶がある。 (愚記事; 十六大角豆(じゅうろくささげ))
( [1] 周恩来が若き時日本に留学していたことは有名。そんで、筑波山にも遊びにきたんだとさ! 遊学する周恩来!
[2] ▼ 筑波山と周恩来 )
そして、その後しばしば、筑波山麓に来た。KEKで実験するためだ。1990年代前半。その時は、筑波の状況は今とは相当違っていた。例えば、夜中に食事に行くのは、当時やっていたのは、春日あたりのファミレスのみであり、大穂のKEKから車で飯を食いにいったのだ。大穂、柴崎=桜テクノパークあたりは全く拓けてなかった。
そういう実験修行の間で、いつも目に入るのが、何も沿道に目立った店がない、学園東大通りの一の矢付近のこの布団屋であった。
ポスドクで筑波に来て、ふとんが必要なので、行ったのだ。
一の矢・八坂神社付近 1997年
一の矢・八坂神社付近 1972年
一の矢・八坂神社付近 1960年 東大通り建設前
■ 今週の筑波山麓 ―夕焼け編―
■ 今週の筑波山麓 -朝の雲編-
▼ 今週の年に一度のイベント週間=ノーベル賞発表に対する、おいらの「事前」のコメントの想起:
1.
予言点; 日本人のノーベル賞受賞は「野」=(「野」に遺賢なし、の「野」)から続排するだろうが、彼ら@野人は、偉業達成時には博士号なんて持っちゃいないんだよ!という指摘。
2.
ノーベル平和賞は平和という政治の一属性を扱うので、「プロパガンダ」とは無縁ではありえないという指摘。
なお、ノーベル平和賞の候補としては全然低位にあったらしい、日本[@米国保護領]の憲法第九条なんぞ、典型的に、平和という政治の一属性を扱うので、「プロパガンダ」になりやすいものであるのだ。
●なお、おいらが、がきんちょの頃、われらが ぬっぽん は、まだまだ「タリバン」国家だったのである;
昭和の成仏のために; 大平正芳が娘に「女に学問は要らない、早く嫁に行け」と言っていたのを娘がエッセイに書いて、それを市川房枝さんが問題視して国会で質問をした
そんなことより、おいらにこそ学問が要らなかったのだ!と思うのであった。
◆今週の看猫
学問がなくて、幸せ 人 猫生
● 元祖「タリバン」国家の、いと やむごとき きわ の がきんちょ も 米国流の教育を受けらられる世の中に!
元祖「タリバン」国家の皇太子にも教育を!
「タリバン」国家の皇太子にも教育を!
われらこそ、初代「タリバン」国家! 関連愚記事; ある晴れた朝、何千人もの米国人が奇襲で殺され、世界規模の戦争へと駆り立てられた。
■ 今週の月
● 今週の婚礼; あるいは、神の国ぬっぽんの "薩長連合" =ヤマト・イヅモ連合の発足か?
高円宮家典子さま 千家国麿さん 出雲大社で婚礼 クニを譲って、"斎宮"を譲ってもらう。
譲り合いの、ヤマト・イヅモ連合。
それにしても出雲側は、この日が神無月のつもりなのか?神有月のつもりなのか? どっちなんだろう?
世俗の象徴の日の丸が、う ざ い
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日帝生まれ、 只の日本人、 アメリカ人
米軍機に殺されかける、 特になし、 米軍から研究費欲しくて米国人
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おいらは、文献も根拠としたおいらによるヨタ作文でブログをやっている。
GaNのノーベル賞受賞で思いついたことは、高田里恵子女史の困惑である。
ついにこの日が来た。
「文献も根拠としたおいらによるヨタ作文」を目指しているが、高田里恵子女史の文献が すぐに出ない。 見つかった。下記引用する。
高田里恵子女史は、いわゆる「一般教養」=教養を罵倒した中村修二@今じゃノーベル賞「学者」を、「これ [いわゆる「一般教養」=教養を罵倒したこと] は困ったものだ!」と嘆いた。
ここで、第一番目に「もしも中村修二さんがノーベル賞を取ったなら」という例を挙げてみたいと思います。現代における、狭くて生暖かいインテリ世界の亀裂を見ていくたけです。
中村修二さんは青色発光ダイオードの方ですが、彼がノーベル賞を取ったら、わたしみたいに文系教養科目を担当している大学教師は辛いなあ、という話です。どうしてか・・・・・。
中村さんは徳島大学の出身だそうですが、「海外に飛躍する徳大人」という記事のなかに、中村さんの活躍が紹介されるとともに、思い出話が載っています。冒頭の部分を引用します。
中村修二の回想;
私は73年に徳島大学電子工学科に入学しました。入学して最初にショックを受けたのは教養課程です。文科系が嫌いなのですが、一般教養を身につけるとかいう目的で、すべて必修でしなければならなかったことです。(中略) 今思っても何のためにもなっていないと思います。単に卒業したいので頑張って大嫌いな教養課程を勉強しました。
高田里恵子、「文系知識人の受難 - それはいつから始まったか」、『日本思想という病』、光文社
この「一般教養」=教養を罵倒した中村修二を解毒するために引き合いに出されたのが、江崎玲於奈@ノーベル賞「学者」である。
江崎玲於奈@ノーベル賞「学者」@@のち筑波大学長は、旧制第三高等学校を礼賛している。
そして、今! いわゆる「一般教養」=教養を罵倒した中村修二はノーベル賞だ!
(なお、中村修二は、今回のノーベル賞に到った不可欠の恩人に江崎玲於奈を挙げている)
高田里恵子女史の狼狽に、おいらは、思いを馳せている。
■ さて、 今、この愚劣な国を r a d i c a l (根本的) に批判しているのは、経済的偽毛唐の青木昌彦ではなく、中村修二ではないか!
一方、人の悪口は言わないと尊敬される旧制高校出の赤崎教授。 没批判的に生きて、GaN結晶作りに専念。残念なことに技術指導した豊田合成はGaN結晶の実用化で、中村修二の日亜化学に負けた。
そして、猫猫センセから徳島大学からノーベル賞!と揶揄される中村教授。
この愚劣なぬっぽんに対する態度。恙(つつがなく)なく角を立てづに生きるのか?、文句をばりばり言いたい放題生きるのか?
日帝生まれの旧制育ちの赤崎センセと、保護領日本生まれ・のち米国人の中村ショクニン、どっちが、「教養」があるのだろうか?
▼ 別に何のこともない。旧制高校の「教養」なんて、唯々諾々の文化なり、っていうことで御終いにすればいいのだ;
・あるいは、ノーベル賞と「教養」は無関係で御終いにしてもよい。
ちくしょう、転勤だ!ということになり、筑波山麓にいる時間も限られてきた。 筑波山麓に来て17年あまりになるが、土浦城と隣接している市立博物館には 行ったことがなかった。つくばに来て、この地が谷田部細川家・一万六千石でもあったことを知り、興奮し、陣屋跡やその陣屋の門(愚記事; 谷田部細川一万六千石)を見物したりした。谷田部細川家の史跡の調べかたは、谷田部町史をみることだった。当時は既につくば市が発足していて、元の谷田部町立図書館はつくば市立図書館の一分館となっていた。なお、上記リンクの愚記事で谷田部細川家の陣屋跡は有名で谷田部公民館にある。一方、当時はその門であったものは現在移築されていてある民家の門となっている。それを探し出して撮った画像が上記愚記事の向かって右の画像である。
その後、もっと興奮する史実に出会った。仙台伊達家が龍ヶ崎に領地を持って、陣屋を置いて、江戸時代中支配していたといことだ。知った経緯は、ある人から聞いたことである。その人は、おいらが、竹雀!政宗!仙台!と騒ぐので伊達マニアと知っていたので、教えてくれたのだ。その人がなぜ龍ヶ崎が仙台伊達領であったと知ったのは、地元ミニコミ誌の記事に載っていたのをみたのだ。それをみて、これをおいらに知らせあげれば、喜ぶと思ったのだろう。
直ぐに、龍ヶ崎市立資料館(愚記事; 伊達政宗、来ました。)と図書館に行って調べた。調べると、仙台領は龍ヶ崎にとどまらず、なんと! このつくば市の一部にもあったと知る。吉沼である。さらに、にこにこできたのは、その大大名である仙台伊達家がこの地で足軽を臨時?採用したことである。ポスドク真最中であったおいらは、すっかりうれしくなってしまった(愚記事;江戸時代の筑波山麓 『非正規'賃金'労働者』、仙台伊達家足軽 [なお、この記事はポスドクを止めて相当たってから書いたものである])。
こういう人のあまり知らないことをつついては喜んでいたおいらは、つくばに一番近い江戸時代の大きなお城は土浦城であり(江戸時代と限定しないと、つくばには小田城というのがある)、つくば近辺で一番有名なお武家さまが譜代であり老中を輩出する土屋家と知っていた。でも、あまりにも周知なので、特に行く気にはなれなかった。というか、いつでも行けるだろうと思っていたのだ。そして、昨日、そのうちつくばを離れなければいけなくなったので、行った。
■ 土浦の街
城下町土浦の中心街は今の時代に順応するのに苦労している。すなわち、典型的な江戸時代の城下町であり、その街並み、道の走り方が、現代の自動車社会には不適当である。つくばは車がないと生きていけない。そして、車で楽に生きていける。すなわち、街の道順が単純。行く先には大型駐車場がある。これに対し、土浦の中心部は車で入り込むと、戦国時代に城下町に不用意に乗り込んだ先遣隊のように、道に迷い、なにが何だかわからなくなる。そもそも、目的地にたどり着けない。土浦の中心街で車を駐し、車から降りて街で何かしようとする気力を奪う。
(事実、この10/4に土浦城に行ったとき、なんと、おいらは土浦城に車でたどり着けず、駅の交番で道順を聞いたのだ ← 事実)
さらには、土浦は、幸か不幸か、B29の洗礼も免れているので、道路拡張の城下町再開発を受けていないのだ。つまりは、金沢の街みたいなもんだ。
もっとも、残念なのは、金沢ほど江戸情緒も残ってないので、半端なのだ。
なお、現在、土浦市とつくば市の合併の話もあるときいて驚いている (伊達+細川+土屋= 200万石弱、で新しい「幕府」がつくれそうではないか!?!?!?)。
以下、土浦城、通称、亀城;
(この企画展は終わっています)
土浦の藩主は譜代の土屋家とは何となく知っていたが、特に詳しくは知らなかった。そもそも、井伊、土井、酒井、堀田くらいしか譜代大名を知らない。
土浦城に隣接する市立博物館の展示の第一は江戸時代に土浦の藩主であった土屋家の文物である。
土屋政直が一番有名らしい。なぜなら、老中を30年間もやったからだ。この老中30年というみて、江戸時代のいつの30年だろう?と思った。展示を見ると5代将軍綱吉から八代将軍の吉宗までの30年間だという。その時、おいらの乏しい江戸幕府に関する知識を総動員すると、その時代って「側用人の時代」じゃないか!つまり、老中の役割と権力が衰えた時代ではないのか!? そして、思い出した。「側用人」を排して将軍と老中による幕府運営という家康の幕府運営の本義に戻ろうとした吉宗に「辞めさせられたのだなぁ~」と。その根拠は昔テレビで見た場面。NHK大河ドラマ「八代将軍吉宗」。幕府の政治やそもそも江戸城のつくり(櫓の数など)を吉宗が老中に質問する場面。ふがない老中たちはまともに答えられない。
家に帰って、ネットで調べた。そうしたら、おいらが昔みたはずのNHK大河ドラマ「八代将軍吉宗」でのこの場面にも、土屋政直がいたらしい。土屋政直を演じていたのが、名古屋章とのこと(wiki NHK大河ドラマ「八代将軍吉宗)。
土屋政直はふがない老中ではなかったのだ;
綱吉~吉宗時代初期の老中。紀州藩と昵懇で、吉宗の将軍就任をサポートする。(wiki NHK大河ドラマ「八代将軍吉宗)
元禄11年(1698年)に老中首座となり4人の将軍に仕えたが、側用人政治を展開していた新井白石と間部詮房には内心反対し、7代将軍徳川家継の後継者争いの際、側用人の廃止を条件として徳川吉宗の擁立に尽力する。吉宗は将軍になると老中達に口頭試問をしたが、なんとか恥を掻かずに済んだのは3問中2問を答えることができた政直のみだったという。 (wiki: 土屋政直)
■ 武田遺臣系
土屋家は、元々、武田家の家臣であったと知る。家康は武田の遺臣を味方に抱えたことは有名。のちの幕府でも武田遺臣系という人たちが多く活躍。
▼この日(10/4: 10月の第一土曜日)は、土浦の花火大会。午前中の土浦城訪問とは別途、夜に遠くから眺めた。