いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

札幌郊外のキャンプ・クロフォードの映像:冬を迎える孤児たちへ 札幌<時の話題>、あるいは、棄てられた混血児?

2024年01月11日 17時42分36秒 | 札幌

NHKアーカイブス 冬を迎える孤児たちへ 札幌<時の話題> という動画を見つけた。動画はニュースであり、1951年11月に札幌に駐屯していた米軍が孤児のために寄付を集め、孤児施設を訪問し孤児たちと戯れる映像。YouTubeではないのでblogに貼れない。リンク先で動画を見てほしい。この動画に註をつけてみた。上の建物はキャンプ・クロフォード(当時)の教会(Post Chapel (駐屯地教会))。白く太い4本の柱が特徴的。この建物は現存する。 ↓ 現在の姿


画像出典 https://poros.exblog.jp/13580634/
なおこの建物、基地の建設費は日本人の負担でした:「日本占領米軍に払ったわれわれのお金」


Google map

動画のNHKによる解説;

放送年:1951年

札幌郊外のキャンプ・クロフォードのチャペルでは、兵隊さんたちが孤児たちのための募金に応じています。この温かい企ての会長、オズボーン領事夫人はスタイロン少将らと共に、11月7日、市内の天使院に、寄る辺ない子どもたちを訪ねました

スタイロン少将とは、1951年11月の時点で札幌郊外のキャンプ・クロフォードに駐屯していた米国オクラホマ州兵の第45師団の師団長[1]。この部隊は同年の4月に札幌にやって来た[2]。その理由は、朝鮮戦争の勃発でキャンプ・クロフォードにそれまで駐屯していた米国第7歩兵師団が朝鮮半島に出兵し、空白になっていたからだ。

[1] 札幌市中央図書館-新札幌市史デジタルアーカイブ:占領軍の交代
[2] 1951年、札幌に進駐した米軍 ;第45師団(オクラホマ州兵)

したがって、この寄付を行ったのは第45師団(オクラホマ州兵)の軍人たちで、映像にみえる軍人は同部隊の所属員に違いない。なお、「オズボーン領事夫人」は調べ切れていない。おそらく、米国国務省の札幌駐在組織(領事)の夫人であり、この寄付を第45師団と共に行った。あるいは、呼びかけて実施させたのかもしれない。

孤児

寄付を集めたのは、札幌郊外のキャンプ・クロフォードの教会、すなわち、現在 札幌市南区真駒内17番地の陸上自衛隊真駒内駐屯地の「中央講堂」である。一方、映像に出てくる孤児院は、キャンプ・クロフォードから離れた北12条東3丁目の天使病院と思われる。映像に出てくる;

天使病院の歴史がネットにあった;

戦後のベビーブームを迎えた昭和22年は、他方では混血児の誕生など複雑な世相を生みつつあった。
(中略)天使病院ではすでに院内にベビーホームを設け混血児をはじめ、幸の薄い子供達50~60人の世話をしていた。(天使病院 100年史)

このニュース映像では明言していないが、孤児たちの少なからずが、米兵の子供なのだ。

どんな米兵の子供か?

寄付を行ったのは第45師団(オクラホマ州兵)の軍人たちだが、混血孤児の父親は彼らの中にはいないだろう。なぜなら、第45師団(オクラホマ州兵)はこの年(1951年)の4月に来たからだ。「十月十日」を考慮すると彼らの子供ではない。前任部隊の子供だ。第45師団(オクラホマ州兵)の前に札幌にいた米軍部隊をまとめる。

第77師団   1945年10月~1946年2月 キャンプ・シーデンバーグ
第11空挺師団 1946年2月~1948年4月 キャンプ・クロフォード
第7歩兵師団     1948年4月~1950年6月 キャンプ・クロフォード
キャンプ・クロフォード事実上の空白:(警察予備隊)
・第45師団(オクラホマ州兵)1951年4月~ 

まとめ 

この混血孤児がどうなったのか?はわからない。


敗戦後、1946年、札幌に進駐した米陸軍、第11空挺師団の演習場所:札幌飛行場、羊ヶ丘、あるいは、接収された北大

2023年09月18日 15時03分38秒 | 札幌

米陸軍の第11空挺師団について、愚ブログでは、何度も言及している。米陸軍の第11空挺師団とは落下傘部隊で終戦前はフィリピンで戦っていた。敗戦後、マッカーサーが「厚木」に到着する数日前にやって来た部隊だ(愚記事:マッカーサーと一緒に「厚木」に来たこの子猿はどこへ行った?)。

その後、この米陸軍第11空挺師団は、仙台や札幌に進駐する。仙台で過ごした第11空挺師団の元兵士の回顧録の話は少し前にした。仙台駐留組用の訓練所(Jump School  現在の王城寺演習場と思われる)の画像。

 
Jump School, Sendai, Japanとある

The 11th Airborne Division established a Jump School in Sendai during Japanese Occupation Duty, from 1945 to 1949. Months before, in Lipa, Luzon, the 187th GIR, in true airborne fashion, changed the designation of their unit from GIR to PGI – “Para-Glider Infantry”. (ソース)

朝鮮戦争(1950年)前に、この米陸軍第11空挺師団は日本から去った。しかし、去年、再生したことはこの記事(米陸軍第11空挺師団の再興2022と再来;They shall return, again since 1947)に書いた。

仙台駐屯組とは別に、スイング少将率いる米陸軍第11空挺師団の一部は札幌に移駐した。その札幌進駐時代の情報がちらほら集まったので、メモする。

▼ 米陸軍第11空挺師団の札幌進駐

米陸軍第11空挺師団の札幌進駐は、昭和21年(1946年)4月7日

▼ 北大の接収

敗戦で北海道大学(北大)は接収されたのだ。あんまり、知らなかった。はっきりした資料があった。北大の低温研は敗戦後、1945年10月3日に接収された。「48時間以内に出ていけ」と通告されたのだという。低温研の所長はあの中谷宇吉郎 [wiki]だ。

岩波新書の中谷宇吉郎、『雪』の初版は昭和13年だ。今は、岩波文庫に入っている。上の『雪』は第10版、昭和24年刊行のもの。まだ、占領下の時代だ。定価、85圓。

このとき北大低温研を接収したのは、米陸軍の第77歩兵師団である。第77歩兵師団はニューヨークの部隊。この記事で話題にする第11空挺師団は第77歩兵師団を交代するため札幌に2番目に来た部隊である。

当時の北大の研究者からみて、第11空挺師団は、前任の第77歩兵師団と比べ、荒くれもので、紛争も起した。

しかし間もなく最初の占領部隊であった騎兵隊が次の空挺部隊に代わるとともに、急に米兵の行状が乱暴となり学内での事故が急増した。 (低温科学研究所.  二 米軍の庁舎接収 引用元

◆ 騎兵隊?

なお、上記の引用元(低温科学研究所.  二 米軍の庁舎接収 引用元)で、「最初の占領部隊であった騎兵隊が次の空挺部隊に代わる」とある。第11空挺師団の前に札幌に駐屯していたのは第77歩兵師団である。騎兵隊ではない。一方、同上の報告には下記ある;

 

最初の進駐軍はニューヨークの騎兵隊(右に置かれた板に馬首のシンボルマークがある)で規律も守られていた。とある。若干、整合性がない。ニューヨークの部隊は第77歩兵師団であり(上の"自由の女神"がシンボルマーク)、騎兵隊ではない。なお、首馬のシンボルマークは第1騎兵師団であり、マッカーサー元帥の「ペット」といわれた部隊でこの時、東京およびその周辺にいた。したがって、この写真に写っているシリー軍曹なる兵士が第1騎兵師団の所属とは思えない。ただし、きちんと「右に置かれた板に馬首のシンボルマークがある」と自覚的にかいてある。でも、上記写真では我々は確認できないが。もし、本当に第1騎兵師団の兵士であるのであれば、東京から部隊を超えて出張してきていたのもおしれない。というのも、当時占領とは軍政を担う軍人がいた。占領政策を立て、日本の部署、部局に実行させる軍人。本国では民間人だが日本占領のため軍に出仕していた米国人は多かった(例えば、ヒーレン・S・クルーゼ少佐 (Heeren S. Kruse))[1]。何しろ、彼は工学士と自称しているのだ。何か専門人で、東京の第1騎兵師団からの軍人かもしれない。

一方、第11空挺師団は、軍政よりも、訓練をたくさんやっていたより実践的な部隊らしい。

[1] 敗戦後、米占領軍の住宅を設計したのは、太平洋陸軍總司令部技術本部設計課、ヒーレン・S・クルーゼ少佐 (Heeren S. Kruse) という人と知る。少佐とはいっても徴用/出向してきた建築家 or 工業デザイナー。"シカゴに本拠地があるシアーズ・ローバック⑤のチーフデザイナーであった"  (愚記事

◆岡田大学?

この第11空挺師団の札幌進駐に参加した人の回顧をネットでみつけた。 ソース(Cpl. Wayne Hilton served in 11th Airborne Division during the occupation of Japan after WW II )

We were housed in dorms at the University of Okada. = 「我々は"岡田"大学の寮に住まわされた」とある・

University of Okada? 前後の文章からわかる;

“I was sent to Japan as part of the occupation troops. I went to Sapporo on Okada, the northernmost island of the Japanese island chain,” = 私は占領部隊の一部として日本に送られた。オカダの札幌に行った、オカダは日本列島の最北の島だ。 つまり、北海道だ。彼には、Hokkaido がOkadaと聞こえ、晩年にいたるまで、日本の最北の島は、Okadaだったのだ。

わかることは、北大の寮も進駐軍に接収されたらしい。ただし、ネットでググると(Google [北大 恵迪寮 "進駐軍"])、そんなに情報は出ない。ただし、

昭和20年9月、進駐軍が事前連絡無しに部内の備品を農学部側の倉庫に押し込めてしまい、学生ホールは使用できなくなる。ソース) とあった。

▼ 訓練場 札幌飛行場、羊ヶ丘・牧場

第11空挺師団は、落下傘部隊であり、よく訓練をしていたらしい。仙台ではキャンプ・シンメルフェニヒ(現在、苦竹の仙台駐屯地)に駐屯し。訓練は、Carelus operation field in Yamato (現在、王城寺原演習場 [wiki])に列車で通い、実施した。一方、札幌での訓練は?札幌飛行場だというのである。札幌飛行場というのは丘珠飛行場ではなく、北大の北端の北、北24条と西5丁目から北西の広がっていた飛行場。


1945-1950年の航空写真

昭和20年8月15日の終戦に伴い、9月には「繰り上げ卒業」と言うことで学窓を押し出され、仙台から帰札した私は進駐軍のスイング少将指揮下の第十一空挺師団が、愛する「飛行場」で盛に降下練習をしているのを望見し、敗戦の惨めさをしみじみと感じて、もう二度と行くまいと強く決心した。(札幌原人 様 「札幌飛行場」の巻(1980. 4.№1) )

一方、羊ヶ丘も演習場であったとのこと。なお、下記の「真駒内の現場」とは当時建設中のキャンプ・クロフォードの建設現場のこと。のち、このキャンプ・クロフォードに第11空挺師団は駐屯する。

昭和22年頃のことだ。真駒内の現場で、大工達が南東方面を指さして騒ぎだしたので、フト目をやると、何と空一面にパラシュートの華が咲いているではないか。この記憶は鮮明に残されているので、記録をたどってみたら、「昭和22年、種羊場の南700haは、米軍の演習地となる」とあった。
 成程、当時スイング少将指揮下の「第11空挺師団」というのが進駐していたので、彼等の降下演習場になっていたのだ、と云うことが今更のよう納得できた次第だった。(札幌原人 様 覚書その三「月寒種羊場」の巻

空一面にパラシュートの華というのはこういう情景でしょうか。下記は第11空挺師団のの表紙です。

 


札幌郊外米軍キャンプクロフォードのペンタゴンと定山渓鉄道引込線の車両のカラー画像

2023年02月08日 18時36分02秒 | 札幌

愚記事に・札幌、キャンプ・クロフォードにおける定山渓鉄道からの引き込み線; Do you know the way to Korea, in the Camp Crawford ? ・札幌郊外の米軍ペンタゴン があり、定常的に閲覧がある。

(愚ブログの キャンプ・クロフォードに関する記事群

昨日、キャンプクロフォードの鳥瞰写真を見つけた。カラーだ。

カラーのペンタゴンが目立つが、よく見ると定山渓鉄道へとつながる線路に車両が見える。

■ 全景 この写真は現在の地下鉄南北線の自衛隊前駅よりやや北の上空から南西の方向を写したもの。1951年5月だという。写真左上にペンタゴンが見える。


this figure from LAFAYETTE Digital Depository

このアングルに似せた現状を下に示す。1951年の写真に写っている建物で現存のものは、少なくとも、4件。「3」の位置にペンタゴンがあった。1984年には無くなっている。


google map
1:(現通称)サイロ隊舎、2;Post Chapel (駐屯地教会)、3;ペンタゴン跡地、4;Post Theater (駐屯地劇場)、5;現在史料館

■ ペンタゴンと定山渓鉄道車両

ペンタゴンの左半分の真上を見ると、鉄道が左右に走っている。ペンタゴンの左上が「サイロ隊舎」、手前がPost Chapel


[1] 角哲ら、占領期札幌におけるキャンプ・クロフォードの建設経緯とその特徴について、日本建築学会計画系論文集/86 巻 (2021) 780 号 P617-627  (pdf

❶:ペンタゴン、❷:Post Chapel、➌:Club、➍:Post THeatre、 ⓰:Milk Plant

列車は⓰:Milk Plant ミルク・プラントの横を走っている。

■ 最後の赤煉瓦兵舎

最上の全景写真は、キャンプクロフォードの北半分を撮ったもの。写っているのは独身の一般兵士用の兵舎がある区域。家族持ち(当然、将官クラス)の住宅は南側で画像には写っていない。キャンプ・クロフォードの一般兵士用の兵舎は赤レンガ製で、他のどの占領軍キャンプとも違っているのだろう。理由は、耐寒性の保持に違いない。キャンプ・クロフォードの建物は、米国流の、蒸気暖房であり、基地に大型ボイラーがあり、各建物に配管で供給していた。現存しているこの赤煉瓦兵舎は1951年の写真の左下3棟のみ。現在、史料館となっている。


Google Map 現存する赤煉瓦兵舎3棟:陸上自衛隊 真駒内駐屯地 史料館 web site

▼ 2004年にはまだ結構あった赤煉瓦兵舎


愚記事:いか@、タコを思う。 2004年に撮影した写真。

 


1951年、札幌に進駐した米軍 ;第45師団(オクラホマ州兵)

2020年04月27日 18時21分00秒 | 札幌

画像ソース
札幌郊外の米軍基地、キャンプ・クロフォード(camp crawford)の門、1951年。ジャックチットウッド伍長(MP; 憲兵)と日本人警備員。
第45師団(オクラホマ州兵)の時代。写真の註は後記。(ソース

朝鮮戦争で札幌郊外の米軍基地、キャンプ・クロフォード(camp crawford)の兵力は出払った。朝鮮戦争勃発でそれまで駐屯していた米陸軍第7師団、第31連隊が朝鮮に出兵したからだ(愚記事;札幌、キャンプ・クロフォードにおける定山渓鉄道からの引き込み線)。

朝鮮戦争で在日米占領軍が出払い、日本列島に軍事的希薄 or 真空が生じた。日本列島の軍事的希薄は警察予備隊によっても充填された。マッカーサーが命令したからだ。キャンプ・クロフォードにおいて、1950年6月に去って行った第31連隊とやって来た米軍の間に警察予備隊が滞在したと資料にはある。そして、警察予備隊は新たな米軍がやって来たとき函館などに去っていった。その警察予備隊の組織名などの情報はない。

一方、米軍は軍事的補填のため、米国本土から軍を送った。新たに札幌に来たのは第45師団(オクラホマ州兵 [national guard] wikipedia)。1951年4月1日にキャンプ・クロフォードに入営。朝鮮戦争勃発で急遽編成された師団。オクラホマって米国のどこにあるのか?おいらは、知らなかった。(第1騎兵師団 [1]の司令部がある)テキサスの北だと知る。

[1]  マ元のペット;第1騎兵師団 (1st cavalry division)、朝鮮戦争で苦戦(一部壊滅)し、主なき東京ではなく、札幌へ帰還

このオクラホマの部隊は1万数千名(あるいは、2万数千という説もある)であったが、札幌(キャンプ・クロフォード)と千歳に分かれて駐屯した。なので、オクラホマの部隊に関する情報は千歳市史にみえる;

第45歩兵師団(オクラホマ州兵部隊)第45歩兵師団は全米の先住民を強制移住させるために設けられたインディアン準州(特別保護区)の歴史を有するオクラホマ州の兵で構成されていた。昭和14(1939)年にインディアンの神鳥である雷鳥を部隊章に制定、軍服には雷鳥の袖章が縫い付けられていた(旧章=インディアン卍→ナチス連想→廃止)。日本国内における米陸軍部隊朝鮮出動の空白を埋めるため、第40師団、第45師団を進駐させる共同の配信ニュースがあった(S26・2・26『北海道新聞』)。

【ワシントン二月二十四日発UP=共同】米陸軍は二十四日日本の安全保障を強化するためカリフォルニア四十、オクラホマ四十五の両州兵歩兵師団を三月日本に送り、今後の訓練のため日本に駐留させると発表した。両師団は第二次大戦終了後海外に派遣される最初の州兵師団で、朝鮮に出動した占領軍と交代するものとみられるが、必要とあれば朝鮮に送られるかもしれない。

千歳市史

このオクラホマの部隊を構成していた兵士の内容についてはwikipediaに書いてある;

当時、第45歩兵師団は高校生または新卒者でほとんどが構成されており、その師団の約60%だけが1年以上にわたって師団との訓練や訓練を行っていました。 さらに、その職員の約20%だけが、第二次世界大戦からの兵役の経験がありました。 それにもかかわらず、師団は、その装備、訓練、リーダーシップの有効性に基づいて、最も準備が整った戦闘の1つであると特定された4つの国家警備師団の1つでした。 その結果、1951年2月、第45歩兵師団は日本に向けて出航すると命令された。wikipedia機械翻訳

■ 札幌、キャンプ・クロフォード時代の第45師団(オクラホマ州兵)

第45師団(オクラホマ州兵)の札幌での活動の様子は彼らのweb siteでの師団の歴史紹介にあった。冒頭の写真はそのweb siteからのものだ。札幌での活動の様子として、千歳と札幌、キャンプ・クロフォードをジープで往復していた時のひとこまが書いてある。これは兵士の出身地のオクラホマの地方新聞の記事に載ったものらしい。

冒頭の写真の註の機械翻訳を修正したものは下記(原文は下[1]);

「日本、クロフォードのキャンプ-息子、または夫からの手紙で、おそらく北海道の第45師団の2つのキャンプ(米軍の駐屯地)の間(札幌 [キャンプ・クロフォード]と千歳の間)のジープの荒っぽい乗り物を読んだことでしょう。2つのキャンプは約35マイル離れており、札幌の近くにあります。 しかし、道の悪さによるジープへの衝撃や隆起にもかかわらず、筋肉が痛くなる前に、ジープによる旅は終わります。ジープの旅の間、田舎は興味深くて、観察することが多すぎます。ここは、アメリカのGIにとって奇妙な土地です。師団の2つのキャンプの間で、ジープによる車上旅行において、オクラホマ人とその仲間の好奇心を刺激するものを確認したい場合は、ここキャンプクロフォードのジープに乗って千歳と往復すればよい。最初に目につくのは、アメリカ人と日本人が並んで働いている様子です(写真1)。アトカ出身の軍警官、ジャックチットウッド伍長がキャンプクロフォードの正門に2人の日本人警備員と一緒にいるところです。第三次世界大戦の際、これらのジャップ警官は同盟した日本軍の中核になるはずです。ジープに乗って キャンプクロフォードから師団のもうひとつのキャンプであるキャンプ・モンテストロングまで走ったら、目に見えるもののいくつかは美しく、いくつかは心に触れます。観察できるのは数年にわたる戦争の影響の結果です。日本が長年従事したもの、ジャップが自分たちから奪った戦争に備えるための生活必需品を奪ったものなどです。 ここに貧しい日本人のあばら家が見えます。 美しい豊平川のほとりにあり、島の首都である札幌の中心部から約5 km(3マイル)の場所にあります。 ここに住んでいる日本人の男と女は、金属くずを集めて、それらを平たく叩き、それらを売れる値段ならいくら安くとも売っています。」第45部ニュース写真:Ron Pyer著。元の日付はありません。TheDaily Oklahomanに1951年6月10日に公開。

■ オクラホマ景気、あるいは、「パンパンと呼ばれる売春婦が全国から集まった。」

 第45師団(オクラホマ州兵)の多数は千歳にいた。千歳での彼らの行状は今に語り伝えられている。一方、札幌、キャンプ・クロフォードにいたオクラホマ兵の行状に関する情報をおいらはまだ見つけていない。

オクラホマ師団の先発部隊は1951年4月小樽に到着し、列車とトラックを乗り継ぎ千歳に進駐した。人員数ははっきりしないが、12,000人から20,000人といわれる(6)。大量進駐で基地内の施設が追いつかず、ママチ川奥に大型テントを張って野営したほか、千歳市内の第1・2・3基地を使用して駐屯し、付近の山野で猛練習を重ねる。未訓練兵の部隊であった師団の新兵訓練は州内で15週、北海道に来てから32週におよんだといわれる(7)。厳しい訓練と殺伐としたテント生活、前途には朝鮮戦争が待ち構え、出動すればもちろん命の行方はしれなかった。
 「アメリカの田舎の兵隊でね、千歳にきてもやる事ないから飲み屋に行ってバンバンお金を使うんだな。ドル札が流れるわけですよ。ウソかホントか知らないけど有名な話でね、清水町の飲み屋街では『ろうそく代わりにドル札を燃やした』って言ってたくらい。全国からいっぱい人が集まってきた(谷上さん)。」1ドル=360円の固定相場制であった時代。強い米ドルが荒い金遣いを後押しした。師団兵目当てに「飲食物を売る日本人が山に入るありさま。日用品が高値で売り切れ(8)」た。中堅サラリーマンの給与が6~7,000円の時代に、これという必需品も持たずに来た事もありバケツやホウキなどが1,000円代で売れた(9)という。基地内では兵舎の建設が急がれ土建業者数社が入り、5,000人の労務者がこれらの工事に関わっていた。日本人向けの飲み屋の屋台も用水通り(新川通り)沿いに建てられた(10)。この頃の好況を"オクラホマ景気"という。日本全国が朝鮮特需の恩恵をこうむっていた。 

オクラホマ師団が駐留した当時の街は「パンパンと呼ばれる売春婦が全国から集まった。町はみるみるふくれあがり、キャバレー、ビヤホール、飲食店が次々に造られ、それらの2階にパンパンハウスという仕組みだった。いたるところに横文字の看板が並び、下卑たレコードの音楽が町中に鳴り響いている中を兵隊がパンパンと抱きあっていた(15)。」旧室蘭街道、用水通り(清水町)はGIたちや客待ちする女性たちで溢れ、その風景は「さながら開拓時代の西部の町の景観を呈し(16)」ていたという。さっぽろ自由学校「遊」 かつて千歳に米軍基地があった

■ この後、どうなったか? 朝鮮戦争へ

第45師団(オクラホマ州兵)は半年ほど札幌・千歳にいた。戦場未経験の兵隊が多いので、日本でまずは訓練を行った。

第45師団は26年12月までに逐次、機密裡に朝鮮に出動していった。師団は大きな損害を出し千歳に帰還する第1騎兵師団と交代する形で前線に配置された。27年6月から28年3月までの間には、真駒内から出動した第7師団とともに朝鮮戦史に残るオールドバルディの戦いなどにおいて実戦経験が少ないにもかかわらず数で押してくる中共軍に応戦した。司令官はデビット少将に交代していた。千歳市史

 朝鮮戦争の間に、第45歩兵師団は、4,004人の犠牲者を出し、そのうち834人が戦死、3170人が負傷した。
 部隊は停戦の署名に続いて韓国の非武装地帯を短時間パトロールしましたが、兵士のほとんどは帰国し、1954年4月30日に国家警備隊(national guared)の状態に戻りました。 (wikipedia  機械翻訳

第45師団(オクラホマ州兵)が参加したオールドバルディの戦いは開城(ケソン)の近く。

「交通渋滞。米国のモーター装備の韓国の戦線への動きを鈍化させた細い未舗装の道路の典型は、韓国の村を通るこの泥だらけの道です。車は、ライフマガジンの写真家カールマイダンによる写真で事実上停止しています。 」 「米陸軍は1950年に韓国の村を通って最前線に軍備品を移動する輸送船団に現れた。」 カール・マイダンスによる写真。 元の日付なし。 1994年4月24日のSS IVのThe Daily Oklahomanに掲載されました。 画像ソース

第45師団(オクラホマ州兵)は中共軍と戦闘。⇒ wikipedia オールドバルディの戦いの機械翻訳

■ 第45師団(オクラホマ州兵) その他情報

1930年代以前は、この部門のシンボルは、黄色いカギを付けた赤い正方形でした。これは、米国南西部の大規模なネイティブアメリカンの人々への賛辞です。


[1] "Camp Crawford, Japan--In a letter from your son, or husband perhaps, you've probably read of a rough Jeep ride between the two camps of the 45th division here in Hokkaido. They are about 35 miles apart, one near Sapporo. Regardless of the jolts and bumps, however, it isn't until the ride is over that muscles ache. During the ride you're too interested in the countryside to notice. This is a strange land to the American GI. If you would like to make one of these trips between the division's two camps and see what arouses the curiosity of the Oklahomans and their buddies, swing aboard a Jeep here in Camp Crawford. The first thing likely to catch your eye is the way Americans and Japanese work side by side (picture No. 1) at many jobs. Here is Cpl. Jack Chitwood, military policeman from Atoka, at Camp Crawford's main gate with two Japanese guards. There has been speculation that in event of World War III these Jap policemen will be the nucleus of an Allied Japanese army. As the Jeep travels from Camp Crawford to the other division area, Camp Monte Strong, some of the things you see are beautiful and some touch the heart. Some reflect the many years of war in which Japan engaged, and the years the Japs deprived themselves of many necessities of living to prepare for war. Along here you see the hovel of one of the poorer Japanese. It is on the bank of the beautiful Toyohira and through the heart of Sapporo, the island's capital, about three miles away. The Japanese man and woman who live here collect scrap metal, beat it flat and bale it for sale at whatever price they can get." 45th Division News Photo by Ron Pyer. Original undated. Published in The Daily Oklahoman on 06/10/1951.

 


札幌、キャンプ・クロフォードにおける定山渓鉄道からの引き込み線; Do you know the way to Korea, in the Camp Crawford ?、

2020年04月14日 19時11分15秒 | 札幌

前回の記事;「米陸軍・北極熊連隊はバターン死の行軍の残党. 1948年おらほの街に;第31歩兵連隊、キャンプ・クロフォードへ」で札幌のキャンプ・クロフォード(現在、札幌市南区真駒内)に1948年に来た第31歩兵連隊(愛称;北極熊連隊)について書いた。朝鮮半島から日本に来たのだ。その後、彼らはどうしたのか?調べた。彼らは列車に乗って、戦場に向かったとわかった。1950年6月25日朝、北朝鮮が38度線を越え進軍、朝鮮戦争が勃発したからだ。

(第31歩兵連隊を含む)第7師団は6月のうちに列車で真駒内から出動、函館本線経由、青函航路航送で群馬の中島飛行機太田・小泉製作所跡に集合し戦時編成を整え、9月上旬に仁川上陸作戦参加のため横浜港から戦時標準船に乗船した。新千歳市史通史 強調、いか@)

第31歩兵連隊(愛称;北極熊連隊)は2年前まで居た朝鮮半島に、戻るのだ。

しばらく離れていた(I've been away so long )、けど、任務の場所を、戻って見つけるのだ(I'm going back to find)、Do you know the way to Korea? [1]

横浜から出向した彼らは、どうしたか? 仁川上陸作戦(wikipedia)に参加。

■ キャンプ・クロフォードにおける、定山渓鉄道の鉄道引き込み線

6月のうちに列車で真駒内から出動とある。押っ取り刀でキャンプ・クロフォードから去っていったのだ。列車で出動とある。キャンプ・クロフォードには定山渓鉄道(wikipedia)からの引き込み線があった。引き込み線が実際にはどう走っていたか調べた。下記の鳥瞰写真からは直接判明しなかった。でも、他資料から、調べて、引き込み線があった場所を赤丸線(B-B’)で示す。

1;司令部(札幌郊外の米軍ペンタゴン)、2;教会 [2](建物現存)、3;定山渓鉄道真駒内駅(現札幌地下鉄南北線自衛隊前駅よりやや南)、4;屋内訓練場、5;住宅地区の三叉路(この記事の最上写真のA地点)、A-A’;定山渓鉄道、B-B’;引き込み線


右が北方向。 『郷土史真駒内』(1977)より。 6;札幌郊外のアメリカンスクール(この記事の最上写真のZ)


上が北方向。 引き込み線があった位置を現在の地図へ示す(左)、当時の航空写真(屈曲線状の線路が確認できる)

[1]

Do you know the way to San José?
サンノゼへの道を知ってる?
I've been away so long
しばらく離れていて
I may go wrong and lose my way
道を間違えてしまいそうなの
Do you know the way to San José?
サンノゼへの道を知ってる?
I'm going back to find
戻って見つけるのよ
Some peace of mind in San José
サンノゼで心の安らぎを

(強調、いか@)引用元:【対訳】サン・ホセへの道 (Do You Know the Way to San Jose)

[2]

Google (真駒内駐屯地 教会)


後記:キャンプ・クロフォードにおける定山渓鉄道の列車のカラー画像が見つかった。それはこの記事にある::札幌郊外米軍キャンプクロフォードのペンタゴンと定山渓鉄道引込線の車両のカラー画像


米陸軍・北極熊連隊はバターン死の行軍の残党. 1948年おらほの街に;第31歩兵連隊、キャンプ・クロフォードへ

2020年04月12日 13時54分16秒 | 札幌


    札幌、キャンプ・クロフォードでの米陸軍の第31歩兵連隊

米陸軍の第31歩兵連隊は設立100年を越える由緒ある部隊らしい。シベリア出兵からイラク戦争まで外征戦争を戦ってきた。愛称が北極熊連隊(polar bear regiment)というとのこと。これらのことは、以前に書いたことがある(愚記事:札幌に"北極熊"がいた頃;1948-1950)。

最近、この連隊があの「バターン死の行軍」の生き残り部隊であると知った。

バターン死の行進とは、第二次大戦中の日本軍によるフィリピン進攻作戦において、バターン半島で日本軍に投降したアメリカ軍・アメリカ領フィリピン軍の捕虜が、捕虜収容所に移動する際に多数死亡したとされる行進のことを言う。全長は120kmで、もともとはその半分弱は鉄道とトラックで運ばれる予定であったが、計画を立てた当初の捕虜の予想数と、実際の捕虜の数に多く違いがあり、結局100kmを超える距離を難民と捕虜は歩かせられた。wikipedia

この「バターン死の行軍」については、アメリカ真理教 親米派の岡崎久彦尊師も激おこプンプンである;

それ(シンガポール陥落も時、兵糧攻めにしないで直接攻撃、占領したこと;いか@)よりも、もっと重大な失敗は、バターンでは力攻のあと、半ば飢えているアメリカ兵をマニラまで歩かせて「バターン死の行軍」をさせたことです。戦前のアメリカの孤立主義というのは根深いもので、真珠湾のあとでも、まだまだ「戦争をすぐやめてしまえ」という意見が議会でさえ強かったのが、「バターン死の行軍」ですっかりあとを絶ったそうです。(岡崎久彦、『戦略的思考とは何か』)

なお、2009年(平成21年)5月に、藤崎一郎駐米大使が、バターン行進の生存者で作る団体「全米バターン・コレヒドール防衛兵の会」の年次総会に出席し、日本国政府を代表して、バターン死の行進について謝罪した。wiki)のだという。

▼ 2005年に『文藝春秋』に笹幸恵『「バターン死の行進」女一人で踏破』が掲載(google)。「死の行進」の距離はたいしたことない、という視点を与えた。話題、論争となる。詳細はリンク先のgoogleから探っていけば、いろいろわかる。

■ バターン死の行進は、「真珠湾の卑怯なだまし討ち」という惹句に次いで反日宣伝(プロパガンダ)として有名。

そのバターン死の行進の渦中に、米陸軍の第31歩兵連隊(北極熊連隊;polar bear regiment)はいたとのこと。

バターンで降伏した第31歩兵の1600人のメンバーのおよそ半分が日本軍の捕虜となっている間に死亡した。(31st Infantry Regiment (United States) wikipedia、 機械翻訳

■ 札幌に来た経緯

第31歩兵連隊(北極熊連隊)は、1945年、戦争終結後、大日本帝国領であった朝鮮半島の占領に従事した。第7歩兵師団の1部隊としてソウルに駐屯。1948年、南北朝鮮から米軍とソ連軍がそれぞれ撤退した時、第31歩兵連隊(北極熊連隊)は、札幌に移駐した。第31歩兵連隊(北極熊連隊)の日本初上陸。札幌に移駐した時、それまでキャンプ・クロフォードに駐屯していた第11空挺師団と交代、あるいは一部吸収した。

■ 去って行った経緯

そして、おっとり刀で。 第31歩兵連隊(北極熊連隊)は、2年で札幌を離れる。朝鮮戦争が勃発したからだ。「Do you know the way to Korea, in the Camp Crawford ?、キャンプ・クロフォードにおける鉄道引き込み線」は次回のこころだ。

 


白帯列車;進駐軍専用車両

2020年04月08日 19時16分22秒 | 札幌


US. Armyとあり第77師団の記章が描かれている。

占領下で進駐軍専用車両というのがあり、それは白帯で示されていたと知った。

有名な話なのだという;google画像    wikipedia 連合軍専用客車

上の画像は1945年末~1946年新年の頃の札幌、月寒駅。愚記事[1]で紹介した映像[2]から切り取り。

[1] 敗戦直後の札幌市街の映像;市街地、拓銀本店・77師団司令部、月寒駅、米軍駐屯地

[2] https://mirc.sc.edu/islandora/object/usc%3A39152


マ元のペット;第1騎兵師団 (1st cavalry division)、朝鮮戦争で苦戦(一部壊滅)し、主なき東京ではなく、札幌へ帰還

2020年04月05日 17時14分25秒 | 札幌

■要旨

1945年(昭和20年)の敗戦時、マッカーサーの東京入城の露払い、同行をしたのが第1騎兵師団。「マッカーサーのペット」と呼ばれた [1]。日本占領の中核部隊だ。その第1騎兵師団がおらほの街、札幌に来たと知る。占領軍のエースが札幌に来た経緯は、1950年朝鮮戦争勃発。押っ取り刀で駆け付けた第1騎兵師団は38度線を越えて北上するも、出てきた中共軍に破れ、一部は壊滅し、師団は疲弊。占領下の日本に帰還するも、主のマッカーサーは解任され東京にはおらず、第1騎兵師団は札幌に移駐した;とおいらは知った。

[1] 栗田尚弥、『米軍基地と神奈川』

■マ元(マッカーサー元帥)のペット;第一騎兵師団

マッカーサーが日本に乗り込んできたとき、護衛をしたのが2組織;空からの第11空挺師団と海からの第1騎兵師団。前者は「厚木」に進駐、後者は横浜港から上陸した。マ元の最初の滞在先の横浜へ同行したのが、第11空挺師団。横浜から東京へ同行したのが第1騎兵師団。

 
自殺した近衛文麿の検死    1st Cavalry Division Twitter

最近、占領軍としての第1騎兵師団の米兵を、10代の頃から目にしていたと気づいた。つまり、敗戦後、戦犯容疑の出頭命令の期限の前日に服毒自殺した近衛文麿の写真を本で見たことがあったからだ。今、改めて見ると検死している米兵の腕の腕章に第1騎兵師団の記章が認められる。

なお、米陸軍の第1騎兵師団は現在もあって、公式Twitterもある。司令部はテキサスにあるとのこと。

■ 東京時代

第1騎兵師団は1945年の9月の東京入城直後は代々木練兵場に駐屯。のちにワシントン・ハイツとなる敷地。第1騎兵師団の司令部と第7騎兵連隊は、朝霞のキャンプ・ドレイク [wikigoogle画像](Camp Drake)に移る。第1騎兵師団の主力部隊のもうひとつの第5騎兵連隊は横須賀のCamp McGillgoogle画像)に駐屯。

東京に来てあと2.5ヵ月で丸5年となる1950年6月25日、朝鮮戦争勃発。

■ 朝鮮戦争

押っ取り刀で駆け付けた朝鮮半島において、プサンから100kmのところまで北朝鮮軍が侵攻。第1騎兵師団の第5、7騎兵連隊は朝霞のキャンプ・ドレイク、あるいは横須賀のキャンプ・マクギル(google)から横浜に向かい、船で出向(1950/7/14)。プサンより北の最前線に近い浦頃(ポハン)に上陸(1950/7/18)。


                         A: 雲山

1950年10月9日、第1騎兵師団は38度線を越える。

1950年10月19日、第1騎兵師団の第5騎兵隊がピョンヤン入城。これは第1騎兵師団にとっての、3回目の一番乗りとのこと。3回目とは、マニラ、東京に続きピョンヤンが3回目ということ。

第1騎兵師団はピョンヤンから北上する。

■ 雲山で1大隊壊滅

ピョンヤン陥落を受けて、中共軍(中国共産党の人民解放軍)は10月18日に秘かに鴨緑江を越え、南進。北進する国連軍(米軍+韓国軍)を迎撃する。国連軍・米軍は当初中共軍の存在に気付かなかった。11月1日になり、やっと国連軍・米軍は中共軍の大群の存在を認識した。

前線からはその後も次々と中国軍大部隊の集結に関する報告が寄せられたが、マッカーサーはこの増大する証拠を承認するのを躊躇った。前線部隊は不吉な前兆を察知しており、第1騎兵師団師団長は先行している第8連隊の撤退の許可を司令部に求めたが許可されなかった。そしてついに11月1日に中国軍が大規模な攻勢を開始、韓国軍第6師団の第2連隊が国境の南90マイルで中国軍に攻撃され、第6師団は壊滅状態となった。

さらに中国軍の猛攻で、右翼の韓国第2軍団が撃破され背後にまで迫ると、第8軍は中国軍の介入を認め、清川江への後退と防御を命じた。この過程で第1騎兵師団第8連隊は退路を遮断され、第3大隊は壊滅的打撃を受けた (wikipedia) (強調;ikagenki)

この雲山の戦いは史上初の米中直接交戦となる。そして、第1騎兵師団は敗退した。

 参考;雲山の戦い: The Battle of Unsan | 1st Cavalry Division Association、 機械翻訳

wikipedia   機械翻訳

その後、第1騎兵師団は立て直しを図り、もう1年朝鮮戦争に従事。

中共軍+北朝鮮軍は38度線を越え南下。1951年1月4日にはソウルを再占領。米軍(国連軍)は37度線まで後退(上左図)。しかし、第1騎兵師団は1月25日から反撃、北上。3月14日にはソウルを再奪還した。その後12月まで任務に従事。1951年12月から占領下日本に帰還を開始。

1951年12月7日~1952年1月に韓国、仁川を出発。

第1騎兵師団の朝鮮戦争での被害は;

12,053人の負傷、3,175人の殺害、670人の捕虜、180人が監禁、そして545人の行方不明者(=事実上死亡)、であった(web site: 1st cavalry Division History, Korean war 1950-1951、 機械翻訳

YouTubeにどんぴしゃの映像があった;

The 1st Cavalry Division In Korea - The Big Picture

■ 日本帰還、札幌へ

「マッカーサーのペット」と呼ばれた第1騎兵師団は、日本でのふるさと・「東京」のキャンプ・ドレイクには戻れなかった。東京には、主のマッカーサーがいなかった。解任されたのだ(1951年4月11日)。

第1騎兵師団は、1951年12月11日、室蘭港で日本に上陸。第1騎兵師団は千歳と札幌に進駐、駐屯した。札幌組がキャンプ・クロフォードに入る、第1騎兵師団本部と第7騎兵連隊。


キャンプ・クロフォード (愚記事より)

第1騎兵師団本部と第7騎兵連隊は札幌郊外のキャンプクロフォードに配置され、蒸気で加熱された赤レンガの兵舎を備えていました。1st Cavalry Division History - Return to Japan 1951 - 1957、 機械翻訳

赤レンガの兵舎ってこれだ;


愚記事より

 

 


Camp Seidenberg Sapporo Japan, キャンプ シーデンバーグ 月寒 札幌

2020年03月29日 11時32分32秒 | 札幌


HQ., 307 R.C.T  = HeadQuarter 307 regimental combat team 、Camp Seidenberg、Sapporo、JAPAN
キャンプ・シーデンバーグの第307歩兵連隊司令部。札幌 月寒、元北部軍司令部及び歩兵連隊駐屯地

 307th Infantry Regimentの記章が確認できる。

この部隊はフィリピン、グアム、沖縄と転戦し、一旦フィリピンのセブ島で休暇をとり、1945年10月5日に小樽到着、札幌に進駐(愚記事)。

■1945年10月に札幌に進駐した米占領軍の駐屯地である「Camp Seidenberg」が、2020年3月29日の現時点で、Google検索で検出できない(Google [Camp Seidenberg])。Camp Seidenbergに関する情報をネットで得られなかった。

占領下、そしてその後の安保体制での日本の米軍基地に関する情報は米国側から発せられる情報が多い。とても多い。ネット時代になり、個人的回顧・昔の写真など驚くほど多い。しかし、Camp Seidenbergに関する情報をネットで得られなかった。

日本語での情報。Camp Seidenbergを札幌市のサイトでは「キャンプ・シーテンバーグ」[1]と記している;

明治29年(1896年)、月寒に独立歩兵大隊が置かれ、後に歩兵25連隊に改編されました。同連隊は、現在の月寒東1-3から東2-8にまたがる広大な敷地を持っていました。(中略)歩兵25連隊の兵舎群は、昭和20(1945)年10月から22年までアメリカの進駐軍が「キャンプ・シーテンバーグ」として使用しました。(豊平区月寒中央通5丁目) 札幌市平和バーチャル平和資料館 さっぽろの戦跡 歩兵25連隊正門前の松

Camp Seidenbergは敗戦後から1947年まで使用された(らしい)。のち、札幌の米軍基地はCamp Crawford、キャンプ・クロフォードへ移る。両キャンプの札幌における位置を下に示す;


C-S: Camp Seidenberg (キャンプ・シーデンバーグ)、C-C: Camp Crawford (キャンプ・クロフォード)、赤星印:拓銀本店、米軍司令部、N; 中島公園(米軍施設設置地域)

■Camp Seidenberg(キャンプ・シーデンバーグ)に関する文字・画像情報はネットですぐには見つけられなかった。しかし、むしろ、映像を見つけた(愚記事:敗戦直後の札幌市街の映像;市街地、拓銀本店・77師団司令部、月寒駅、米軍駐屯地)。 

The 77th in occupied Japan、University of South Carolina, University Libraries
https://mirc.sc.edu/islandora/object/usc%3A39152 の映像から切り取った。

北部軍司令部。この建物は戦後まもなく焼失したらしい。

北部軍司令部防空指揮所。この建物は最近まであったとのこと(札幌市のsite

兵舎群。もちろん日本軍のものである。月寒から西の方角の手稲山ー藻岩山の一連の山並みを撮影者は注目していた。詳細は映像で見ることができる。

■ 唯一のCamp Seidenbergについての文字情報

唯一のCamp Seidenbergについての文字情報は、Reports  of  General MacArthur     THE CAMPAIGNS OF MACARTHUR IN THE PACIFIC  VOLUME I のchapter II での図である。図に占領軍の部隊配置が時期を追って記載されていた。1946年1月の図にはCamp Seidenbergは認められない。1946年12月の図にCamp Seidenbergが見える。ただし、部隊は187 GLI

(わかるまでネット検索で相当苦労したのだが結論だけ書くと)

札幌に最初に進駐した第307歩兵連隊を含む第77歩兵師団は、進駐半年後本国帰還。替わりに第11空挺師団が仙台から進駐(関連愚記事;マッカーサーと一緒に「厚木」に来たこの子猿はどこへ行った?)。上の図の部隊を示す記号の 187 GLI とはThe 187th Glider Infantry Regiment(第187グライダー歩兵連隊)を示す。

GLIが何の略であるか調べてわかるまで半日かかったょ)

つまり、やはり、第11空挺師団が札幌に来たときはまだ Crawford (キャンプ・クロフォード)出来ておらず、少なくとも一部の米兵はCamp Seidenbergに駐屯したのだ。でも、第11空挺師団の記録周辺を検索してもCamp Seidenbergは出てこない。


[1] 札幌市のsiteのSeidenbergの表記が「シーテンバーグ」となっている。なぜtの音なのかわからない。dだと思う。ネットで発音を調べると、(ドイツ式の)サイデンバーグとシーデンバーグがあった。いずれも d 。


敗戦直後の札幌市街の映像;市街地、拓銀本店・77師団司令部、月寒駅、米軍駐屯地

2020年03月26日 19時28分51秒 | 札幌

去年10月に、敗戦直後の札幌市街の画像;米占領軍接収事情、あるいは、この写真はどうやって撮ったのか?という記事を書いた。敗戦直後の札幌の画像を見つけて、驚いたからだ。

何と、今日、敗戦直後の札幌市街の映像をネットで見つけた。驚いた。

https://mirc.sc.edu/islandora/object/usc%3A39152

南カロライナ大学の図書館のサイトで見つけた。映像は1945年10月に札幌に進駐した米占領軍の部隊である第77歩兵師団(77th Sustainment Brigade; wikipedia[英語機械翻訳])が撮影したもの。

拓銀本店を接収して開設した司令部の映像もある。第77歩兵師団の部隊記章の自由の女神が確認できる。

あと、第77歩兵師団が駐屯した月寒の元日本軍連隊基地の様子が見える。駅は月寒・つきさっぷとわかる。