いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第385週

2022年03月26日 17時22分47秒 | 武相境

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第385週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の購書

下の2冊が428円。上の8冊が100円。

買った1冊が『将軍と側近 室鳩巣の手紙を読む』。将軍と側近は抽象的たが、室鳩巣(むろきゅうそう)。

室鳩巣は少し知っていた。愚ブログに出てくるのはこの話;

八代将軍・吉宗が大奥の大整理・大量解雇をした。その時、当初、解雇目的をいわず、美女を選べと指示、選ばれた「美女たち」が解雇された。

吉宗の侍講である室鳩巣が、享保五年十一月二十九日付で弟子の青地礼幹たちにおくった書状の中に、このことが記されているのである。 (笠谷和比古、『徳川吉宗』)[愚記事;芝居のような史実;その伝承経路:大奥大量解雇事件の例]

この吉宗の時代は、「将軍原理主義」が復興した時期。こういう時代だ;

さて、七代将軍・家継の死により、織田系徳川将軍の系統は絶えた。このあと将軍になった吉宗はもちろん家康の血統を引き継ぐものであり、家康の安全装置設置がまさに効果をあげ、御三家の紀州から将軍になった。この徳川家での系統の変換が、徳川幕府に与えた効果は、結果として、むしろ絶大であった。病弱の将軍、幼い将軍が名目上将軍職に就くより、実力のある御三家の大名が将軍になったことで、幕府での将軍の求心力が強まり、それまでの側近政治を廃止し、将軍と老中による家康時代の本来の幕府運営が行われることとなった。(愚記事; 今度、吉宗クンと竹田クン。

この時代に新井白石もいた。室鳩巣もいた。その室鳩巣の話の本らしい。ざっと、みたら、大奥解雇の話は出てこない。

■ 今週の繕い

手袋に穴があいたので、繕った。

■ 今週の値上げ前

現在のうまい棒の卸値は7円50銭と知る。google

■ 今週の いか

【富山県産】生ほたるいか軍艦 (魚屋路

■ 今週の家風; 「両岸」性

 

判断のむずかしい問題について、岸は賛成・反対の意志を明言せず、風見鶏かざみどり的な対応を取ることも多かったので、よく「両岸」と揶揄やゆされた。しかし岸は、「党内をまとめていくのに、いっぽうの『岸』だけ好いて、他方の『岸』を押さえつけるわけにはいかない」と語り、さまざまな立場の人々を調和させることが、難題を解決するには必要なのだと考えていた。 (出典;岸信介の人間力

■ 今週の「ウィキペディアの死神」が来る前に


3/24早朝のwikipedia

(よりによってこの時期に)24日の早朝、オルブライト死去のニュースをtwitterでみた。河野太郎のtwitterやwikipediaを見ても、確認できなかった。wikipediaは、「ウィキペディアの死神」(google)が来る前にみたことになる。

Google [オルブライト  NATO 東方拡大を推進]

■ 今週のレコンキスタ史跡探訪

由木通信所(ゆぎつうしんじょ、Yugi Communication Site)は、東京都八王子市別所にある、元在日米軍施設である。 2016年7月1日に敷地の全てが日本側に返還された。

敷地面積は、3891平方メートルで、横田飛行場(横田基地)と同じく米第5空軍第374空輸航空団が管理をしていた。

全て国有地となっており、敷地内には、47メートルの通信鉄塔のみが建ち、極超短波通信中継施設として機能している。  (wikipedia

レコンキスタ史跡といったが、この施設は、1954年に日本政府から米軍に提供されたらしい。つまり、サンフランシスコ講和条約締結以降なのだ。つまり、占領された区域ではない。でも、講和を締結しても、実際は、保護国なので、事実上の強制接収だったのだろう。

おいらは、電波塔を見ることができなかった。おいらが歩いた経路からは死角になっていたのであろう。

    ↓ おいらが見られなかった風景


wikipediaより

■ 今週(<荊の簪を挿す御方様>が)借りた本;あるいは、「ヤソ」(耶蘇)、「ケトウ」(毛唐)

愚ブログでは、耶蘇、毛唐という語彙が使われている。(愚ブログ内の耶蘇毛唐

荊の簪を挿す御方様が借りて読んでいる佐野洋子のエッセイ。又借りして、見てみた。
彼女の父親(佐野利一[1])についての話が書かれている。

▼「ヤソ」(耶蘇)

「うちもクリスマスやろうよ」
と夕飯の時、私は言った。
「馬鹿野郎、お前はヤソか」
と父は間髪を入れずにどなった。私はおそれ入った。
「日本人が何でクリスマスをやるんだ。馬鹿な野郎ばかりふえやがって」
 子供の私はクリスマスがヤソのお祭りかどうかは知りもせず、キラキラと光るロマンティックな素敵なことでしかなかった。 (佐野洋子、『ふつうがえらい』、お前はヤソか)

▼「ケトウ」(毛唐)

 私の父は、外国人のことをケトウと呼んだ。マッカーサーもケトウで、ベートウベンもケトウだった。
「日本はいつ発見されたの」
と父に聞いた時、
「日本は発見されなくてもちゃんとあった。ケトウのいいそうなことだ」
とはきすてるようにいった。
 そして父は、学校で西洋史を教えていた。 (佐野洋子、『私の猫たち許してほしい』)

[1] 佐野洋子の父は、埼玉の農家の七男で、東大を出て、北京大や満鉄に勤めていた。(愚記事

満鉄調査部出身で東洋史が専門と書いていた。戦後は、三木氏の入学した静岡高校で世界史の先生をしていたという。また、洋子の『シズコさん』によると、利一は浦高、東大卒。洋子が19歳の時、50歳で亡くなったという。「支那に於ける封建語義の変遷」『歴史学研究』昭和8年11月号などを書いているよう であるとのこと。(ソース:ブログ 神保町系オタオタ日記 様記事; 佐野洋子の父、満鉄調査部の佐野利一

■ 今週気付いたこと; 米国の保護国・日本のソヴィエト化


愚記事より。多摩ニュータウンの団地

多摩ニュータウンに代表される「団地」の風景は、アメリカ人にとっては「ソヴィエトの街」の象徴であると上のYouTubeのサムネからわかる。 一方、下の画像は日本占領米軍の住宅地の風景だ。とても「疎」。


愚記事より  グラントハイツ、現在、光が丘団地

↓ ソヴィエト化。現在の光が丘団地

GoogleMap

滝山コミューン一九七四」というのも、(造成、建築という)物質的背景の元での出来事か?

■ 

 


東京散歩;多摩丘陵 小野路 ⇒ 小山田緑地、大泉寺、尾根緑道 ⇒ 南大沢駅

2022年03月21日 16時21分25秒 | 東京・横浜

多摩丘陵の土地開発されていない地域である小野路から、北の地形改造された地域の南大沢までの散歩。

1;小野路神社、2;八雲神社/小野路城址、3;奈良ばい谷戸、4;小山田緑地・みはらし広場、5;大泉寺、6;小山田バス停、7;尾根緑道中央交叉点、8;南多摩斎場入口交叉点、9;米軍由木通信所跡地/長池公園、10;京王・南大沢駅

図中の中央の瞳の形のような地域が土地開発されてない保存されている丘陵地域。

↓ 1960年代の航空写真。谷と尾根で構成されている丘陵。この時点で地形は全く造成されていない。

■ 1;小野路神社 ⇒ 2;八雲神社/小野路城址 ⇒ 3;奈良ばい谷戸

小野神社前T字路交叉点。

江戸時代、小野路宿にあった旅籠はたご・旧「角屋かどや」を改修した施設「小野路宿おのじじゅく里山交流館」は、小野路の歴史・自然・文化にふれあう拠点施設として、また、地域の里山等を散策する方の休憩施設として、整備したものです。町田市web site

小野路町は鎌倉時代、鎌倉幕府と武蔵国の国府である府中を結ぶ道が小野路を抜けていたことから古道が多く、鎌倉街道や布田道などが面影を残す。江戸時代中期には大山街道の宿場となり6軒の旅籠と堀割があったという。居住者の多くは里山で農業を営む。情報源

小野路の地は古代から鎌倉街道の重要な中継点の一つとして知られていたが[1]、天禄年間(972年頃)に武蔵国司として赴任した小野孝泰(小野篁の7代後の子孫)が、この地に祖先の小野篁を祀ったのが始まりとされる。wiki

大きな通りから丘陵域に入る。

萩生田牧場:豊かな自然がのこる小野路町で、長年にわたり続く萩生田牧場。JA町田市

▼ 2;八雲神社/小野路城址

八雲神社(城山の天王様)、〒195-0064 東京都町田市小野路町797

▼ 奈良ばい谷戸


1;小野路神社 ⇒ 2;八雲神社/小野路城址 ⇒ 3;奈良ばい谷戸 ⇒ 4;小山田緑地・みはらし広場

■ ⇒ 4;小山田緑地・みはらし広場 ⇒ 5;大泉寺 ⇒ 6;小山田バス停

奈良ばい谷戸と小山田緑地の間を走る大きな通り

小山田緑地へ向かう。

みはらし広場。9:00。誰もいなかった。

小山田緑地のみはらし広場から去る。下って、民家の間をはしる公園の道を通り、公園から出る。

▼ 5;大泉寺

大泉寺(だいせんじ)は、東京都町田市にある曹洞宗の寺院。 

室町時代中期、無極慧徹によって開山された。当寺の前身として、1227年(安貞元年)に開山された真言宗寺院「高昌寺」があった。豪族の小山田有重の五男行重が父の菩提を弔うために創建したものである。その後、無極慧徹が有重の居館跡に高昌寺を移し、改めて曹洞宗寺院「大泉寺」としたのが、当寺の起源である。

本堂の側に「小山田高家公顕彰碑」がある。小山田高家は南北朝時代の武将で、有重の末裔である。湊川の戦いで、南朝方の新田義貞の身代わりとなり戦死した。この功績を顕彰したものである。 (wikipedia)

大きな杉が多く、寺の古さがわかる。入口の通りは桜並木。花の季節はすばらしいだろう。

▼ 

▼ 6;小山田バス停

■ ⇒ 6;小山田バス停 ⇒ 7;尾根緑道中央交叉点  ⇒ 8;南多摩斎場入口交叉点

▼ 7;尾根緑道中央交叉点

このあたりが「峠」。峠を南(相模原方面)に少し降りて、振り返り、尾根緑道に入る。

尾根緑道を西へ。

尾根緑道から相模原を見た風景。工場のような建物は、米軍基地の相模原補給廠。

▼ 尾根緑道から降りる

▼ 8;南多摩斎場入口交叉点

■ ⇒ 9;米軍由木通信所跡地/長池公園

 

長池公園の里山口から園内に入る。

 由木通信所(ゆぎつうしんじょ、Yugi Communication Site)は、東京都八王子市別所にある、元在日米軍施設である。 2016年7月1日に敷地の全てが日本側に返還された。
 敷地面積は、3891平方メートルで、横田飛行場(横田基地)と同じく米第5空軍第374空輸航空団が管理をしていた。
 全て国有地となっており、敷地内には、47メートルの通信鉄塔のみが建ち、極超短波通信中継施設として機能している。wiki

この日、電波塔を、おいらは、確認できなかった。場所がわるく、死角になっていたのだろうか?


左上から時計回りに、地図、地形図、航空写真(1960年代)、航空写真(最近)

通信所があった場所はこの当たりで一番高い丘だったことが1960年代の航空写真からわかる。かつ、この丘の最高地点を道が通っていた。終戦時、田畑しかなかったこの当たりに米軍の通信所ができた。もしかして、終戦前から旧軍の施設だったかもしれない。


4;小山田緑地・みはらし広場 ⇒ 6;小山田バス停 ⇒ 7;尾根緑道中央交叉点 ⇒ 8;南多摩斎場入口交叉点 ⇒ 9;米軍由木通信所跡地/長池公園、

▼ 地域発達史


左上から時計回りに、地図、地形図、航空写真(1960年代)、航空写真(最近)

図の左上端が南大沢駅。図中の「+」が地点番号6の由木通信所。後に、この地点を通って丘陵を分断する南尾根幹線道路が走ることになる。この道路より北側が地形を造成する域となる。変貌ぶりは上の画像でわかる。

■ ⇒ 10;京王・南大沢駅

このあたりは、丘陵が削とられ、平坦にされた地域。多摩丘陵の開発の結果だ。

「豪族」の御屋敷。おそらく旧住民の家なのだろう。

南大沢駅の場所(図中「+」)の今昔。航空写真(左=現在、右=1960年代)

 

■ まとめ 
通過町

町田市 小野路町、下小山田町、上小山田町、
八王子市 別所、南大沢


新しい街でもぶどう記録;第384週

2022年03月19日 18時00分00秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第384

■ 今週の草木花実

■ 今週のひとつの情報:破線の領域はユダヤ人住民が半数近くの地域。第一次世界大戦前。


鈴木輝二、『ユダヤ・エリート』(中公新書)より

現在のウクライナ西部は、第一次世界大戦前において、住民の半数近くがユダヤ人だったのだ。この後、ポグロム、ドイツのユダヤ人迫害で駆逐される。

■ 今週の争点

https://twitter.com/hori_shigeki/status/1504338212525080576

現在の日本を二分する争点に、ウクライナに侵攻したロシアの評価。特に、ロシア「擁護」派について。

ロシアは米国の国務次官ヴィクトリア・ヌーラント(wiki)に代表される「ネオコン派」[1](アングロサクソン)に追い込まれて、戦争を始めたという説。

上記の堀茂樹のtweetは、何ら直接ウクライナに侵攻したロシアについて言及しているわけではないが、現在「暴力を振るった!」と批難されているのがロシア。

[1]  リベラルホーク: Liberal hawk)は、アメリカ合衆国における自由主義の政治イデオロギーの1つで、米国において主に民主党政権時のタカ派外交政策介入主義姿勢に非常に大きな影響を与えている。政策的には共和党中心のネオコンと共通点を持ち、人脈的にもつながりが深く超党派として活動することも多く人道的介入主義が特徴であるがネオコンとの区別はつきにくい。 wikipedia

■ 今週の米国世論での争点

ウクライナ戦争に介支持で、米国の共和党、民主党の支持者で意見が分かれる。

■ 今週の「踏み込む」大使

元ウクライナ大使といえば、みんな大好き(???!!!)、馬渕睦夫大使。"「ディープステート」陰謀論"を公然と語る元外交官だ。数年前からじっくり見ているのだが、この人は一体どこの筋の人なんだろう?とずーっと疑問に思っていた。今もわからないが、現在では公然とロシア侵略を肯定している。とまれ、謎の人物だ。

一方、元ウクライナ大使の角茂樹大使の講演YouTubeを見た。なんとあの「アゾフ大隊」構成員と会っているのだ。

https://www.youtube.com/watch?v=e-rcYZPFM1c

アゾフ大隊のひとつの解説はwikipediaにある。上記の馬渕大使にいわせれば「ロシア系住民を虐殺するネオナチ」であり、今回のプーチンの「特別軍事作戦」はこのネオナチであるアゾフ大隊の成敗ということだ。

一方、元ウクライナ大使の角茂樹大使はアゾフ大隊と会っている。国家が頼りにならないウクライナでの民兵組織的なものであるとの説明。

そして、角茂樹大使はウクライナ国民はEU入りとNATO加盟を希望している。これを容認しないプーチン・ロシアの対応がロシアの軍事侵攻であるとの認識。ウクライナ国民の対露交戦を絶賛支援する旨を上記YouTubeで表明。

■ 今週の率直な生贄提供論

ロシアのウクライナ侵略戦争の終戦のあり方は、ウクライナの中立化であるとの説がある。多い。外交官では孫崎享、田中均などだ。この場合、上記の元ウクライナ大使の角茂樹が云うウクライナ人のEUとNATOの加盟という民意は無視されることとなる。そもそも、ウクライナは緩衝地帯であるので、NATO加盟を希望することが戦争を招いたのだという意見もある(一水会)。

さて、ラジオで宮崎哲也が藤原帰一の朝日新聞での説を紹介、自分もほぼ同意見であると言っていた。朝日新聞のネットで文章は会員限定だが、藤原の所属先のweb siteに全文があった;

藤原帰一教授 朝日新聞(時事小言) この戦争の出口は 「負け組」も包む国際秩序を

核戦争は絶対に避けなければいけない以上、ウクライナ国民を侵略の犠牲とする可能性を持つとしても、私はこの方針を支持する。

藤原は、率直に語っている。

そして、憲法と現状、将来について;

日本国憲法前文は第2次世界大戦後の日本の原則であるとともに、大戦後の世界をつくる原理の宣言でもあった。そして、プーチン政権は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会とは対極にある存在だ。

と認識して、

今度こそ、冷戦終結時につくるべきであった「負け組」も参加する秩序、日本国憲法前文が示すような世界各国の国民もロシア国民も受け入れることのできるような力の支配ではない国際秩序をつくらなければならない。

という発想だ。

でも、こういうことでは、また将来も「今度こそ」といわなくてはならなくなるだけではないだろうか。

この誤認識の根底にあるのは、ある種の世界観だ。それは、「だが、プーチン政権とロシア国民は同じではない。戦争の終結は国際秩序を形成する機会だ。」という認識に端的に現れている。

プーチンは偶然現れた独裁者ではない。広くロシア民衆に支持されているとも報告されている。そして、プーチンは「物語」に憑かれている。想像の大帝国ロシアだ。その物語はプーチンがひとりで勝手に作り上げたものではない。ロシア文明の一大観念産物だ。この一大観念産物は広くロシアの民と共有するものに違いない[b]。人間は観念に憑かれる。これは「文学現象」である。冷戦後のソ連崩壊後にルサンチマンを抱き、想像の大帝国ロシアの再建を試みた。こういう現象を学問原理としての「国際政治学」は理解しない。その理由は、そもそも対象外であるからだ。「国際政治学」の最大の特徴は、歴史の詳細を蔑ろにすることである。ポンチ絵のような概念で国際世界を描いている。

[b]  ロシア市民大喝采!プーチン大統領 ウクライナ侵攻を正当化

[c] ロシア正教会のキリル総主教が、ロシアによるウクライナ侵攻に高らかな祝福を与えた


ロシア正教会のキリル総主教が、ロシアによるウクライナ侵攻に高らかな祝福を与えたことで、世界中の正教会は分裂の危機に陥り、専門家から見ても前代未聞の反乱が正教会内部で生じている。写真はプーチン大統領(左)とキリル総主教。2020年2月、モスクワで撮影。提供写真(2022年 ロイター/Sputnik/Alexei Druzhinin/Kremlin)

日本国憲法は軍国主義の日本を世界との協力の中に再統合する貴重なステップだった。」藤原はという。でも、米国は「軍国主義」でもない国を非民主的だとあげつらい、民主化せよと外交政策、「浸透工作」を仕掛けてくる。カラー革命。

そもそも、藤原は、自由と民主主義を世界的に強引に進める米国を「デモクラシーの帝国」と認識しているはずだ。ロシアに限らず非西洋諸国は、アメリカ流の自由と民主主義を受け入れる必然性があるのか?アメリカ流の自由と民主主義を受け入れると起こることが、伝統社会の破壊である。この伝統社会の破壊から生じた人々が、ルサンチマンを抱き、戦争を選ぶことになっているのが、これまでの経験だ。

ところで、「日本国憲法は軍国主義の日本を世界との協力の中に再統合する貴重なステップだった。」はイラク戦争を正当化するネオコンの、イラク占領は日本モデルで!という発想に通じてはいないか?

■ 今週の瞬間風速

月曜日、順位が急上昇した。

■ 今週の追記;スピノザ モニュメント

愚記事:アムステルダム再訪; スピノザ像参拝での、このスピノザ像のアムステルダムでの位置を確認した。結構、中心部だった。

■ 今週の「悪質」な人物

本人に反省の色は見えず、その行為は極めて悪質である。
(1)不正行為に関与したと認定した研究者
・A (名古屋大学元大学院生)研究者番号:なし  名古屋大学、研究活動上の不正行為に関する調査結果について


https://sci-news.co.jp/topics/2414/  (科学新聞;「グラフェンナノリボン 1段階で精密合成成功」名大グループ)より

名古屋大は16日、トランスフォーマティブ生命分子研究所の伊丹健一郎教授の研究チームが発表した3本の論文に、多数の改ざんや捏造があったと明らかにした。元大学院生が、実験データを加工して使い回すなど不正に関与したとしている。共同通信

この不正研究は、大学院生の丸ごと捏造という事例。Nature論文の図が「全て」捏造であると名古屋大学の調査報告書にある。

さて、関心がるのは、なぜこういう事件が起きるかということ。要因のひとつに研究室の主宰教授のアピールだ。こういう「宣伝」を見て、ちょっと「サイコパス」的人間が来るのかもしれない。Be unique! Go crazy! には苦笑せざるを得ない。

 

YouTube: 伊丹 健一郎教授(名大・理)「美しく、そしてすんごい分子を作りたい!」

それにしても、最大の問題は調査報告書でも指摘されている;

今回の研究不正については、GNR 合成の部分に責任をもつ伊藤准教授と伊丹教授が、再現実験の実行やデータに対する十分な吟味を行っていれば、その研究不正を見抜くことは十分に可能であったと考えられる。伊藤准教授は、A 元大学院生により近い立場で、実験結果の再現性の確認や、生データの検証をする注意義務を怠った。伊丹教授は、再現性の確認と生データの検証を伊藤准教授やA 元大学院生に日常的に指示し、これらが実行されていることを確認する注意義務を怠った。


新しい街でもぶどう記録;第383週

2022年03月12日 17時42分03秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第383

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実と根

■ 今週の芯

バナナを輪切りにして食べようとすると、芯が赤茶色い。

バナナの花が咲いた後、咲いた場所から雑菌が入りバナナの食べる部分に赤褐色や、黒い筋があらわれたり、バナナが空洞になったりする症状をモキリオ病と呼びます。(ソース;バナナの赤い変色(黒い筋)ってこれ何?硬い芯・空洞・茶褐色のやつを調べてみた【食べても大丈夫】

■ 今週のずんだ

先週金曜に買った「ずんだ生どら焼き」(有限会社もちべい)を月曜日に食べた。リンク先では"生どらセット"の商品紹介。池袋の宮城県アンテナショップでは、「ずんだ生どら焼き」をばら売りしていた。味は、ずんだの風味が強くなく、つぶつぶ感がなくクリーミー。ずんだもちの中身を期待したものとは違った。

■ 今週のキリ番

■ 今週の紙屑

ルーブル紙幣。10ルーブル紙幣は10年も前になくなっているとのこと。今、ネットで知った。

ロシアは2度行ったが、もう行けないのだなとおもう

■ 今週の灯油価格

12月は113円だった。

武相境斜面に来て8年目となる。これまでの暮らしと違うことのひとつは、灯油を買うために約1キロメートル先のガソリンスタンドまで歩いていくことだ。灯油は18リットルのポリタンクに入れる。このポリタンクを手にもって1kmを歩くわけにはいかないので、カートに乗せてポリタンクを運ぶ。往復で30分かかる。つくば山麓では車で運んだので、何の苦労もなかった。

仙台に暮らしていた時は手でポリタンクをもって運んだ。

■ 今週気づいた「消えた仙台の米穀店」


2013年撮影

仙台市青葉区広瀬町5-25にあった佐初米穀店(google)が無くなっていた。昔ここで灯油を買っていた。↓ GoogleMapを今週みたら、無くなっていると気づいた。

■ 今週の植民地での日帝婦人(旦那はインテリ)の所業の記録

正気の時は乱暴でがさつでパワフルだった。正気の時は母さんとの確執に苦しんだ。
 母さんは私が在日韓国人と友達になっていると「朝鮮人とつき合っちゃ駄目」と云った。当然のように云った。
 北京や大連に居た時は平気で「チャンコロ」と云っていた。
 正気の時はずーっとそう思っていたと思う。
(佐野洋子、『役ない日に立たない々』2008年)

佐野洋子の父は、埼玉の農家の七男で、東大を出て、北京大や満鉄に勤めていた。著書として、『南満州鉄道』(昭和16年)が認められる。

■ 今週のPX

「私初めてソフトクリーム食べた時、私って夢の中にいるんだと思ったわね。銀座にPXがあったの、そこでしか売ってなかったのよ。私の月給十五円で、ソフトクリーム八円もしたのよ」。モモちゃんは昔っから度胸があったんだ。「こんなもの食っている国と戦争したんだから負けたと思ったわね」。(佐野洋子、『役ない日に立たない々』2008年)

モモちゃん は父方の従妹で、終戦の時十五歳だったそうである。

PXとは、post exchangeの略語。wikipediaに下記のようにある;

アメリカ軍の基地内の売店(post exchange)。
詳細は「酒保」を参照

    日本(とりわけ東京)では戦後の進駐軍によって多数の商業施設が接収され、米兵向けのPXとして使われた。銀座三丁目の松屋や同四丁目交差点の和光も「TOKYO PX」の看板に掛け替えられ、1952年頃まで収用された。

↓ TOKYOの下にPXの文字。左右の「紋」は米第八軍の印章。

■ 今週の「アメリカ人になろうとした」敗残者たちの戦後日本の記録のひとコマ

上のふたつの項も含め、佐野洋子の自伝的本を読んでの話。佐野洋子は日本近代での「インテリ」親子なのだ。ここで、「インテリ」とは知的であるという属性だけではなく、伝統的社会から乖離して、学術とか美術とか学校的文化を身に着けることで社会的に生きざるを得ない人々。特に、佐野洋子の父である佐野利一は農家の七男にして東大を出た後、満鉄調査部。典型的大日本帝国のインテリだ。所を得るのが困難なので、植民地に職を得たのだろうと容易に想像できる。そして、大日本帝国瓦解。この瓦解で一番の「落とし前」を取らされたのが日帝侵略家族だ。佐野洋子は難民化し引揚の中で、内地に帰還した後も、兄弟3人が死んでいる。

そんな日帝敗残者の引揚者の佐野洋子の人生は、子供の頃学校で教師に「引揚者だからといって、遠慮しなくていい」といわれた佐野洋子の人生は、美術"エリート"としての人生だ。何の財産もないので、美術とか学校的文化を身に着けることで生きたのだ。「インテリ」だ。そして、身に着けるもののパクリ先が書いてあった。学校ではなく、世間に出ての話だ。佐野洋子にいわれるまでもなく、戦後日本とはこういうものであったに違いなが、直接の経験談を書いてあるものを、おいらは、初めて見たので、抜き書きした;

 還暦過ぎたので、先が無くて忙しい。
(中略)
 アンディ・ウォーホルだって?
 ああ、そんな時もあった。
 何か、サイケデリックな混乱と異様なエネルギーの時代。
 青春とはなんと恥ずかしい浮ついた狂乱だったのだろう。
 いや、あの時代日本中浮ついて、恥ずかしいのである。しかし、浮ついていない時代を日本は持ったことがあるだろうか。

 私はあの時代一番とんがっていたグラフィックデザイナー集団の中で過ごした。
 (中略)
 しかしその若い集団の気負いと自信とストレートな希望と可能性を未来に託した楽天性は、頼もしいものだったと思う。時代の最先端を突っ走っている自覚は傲慢と同じことであった。
 (中略)
 その集団はどこを見ていたのかまるギョロッついた目は全部アメリカを見ていたのである。彼らはアメリカを何と呼んだか。「アッチ」とか「アチラ」と呼んだ。「コッチ」も「コチラ」も存在しないのである。
 彼らおよび私も「アッチ」の情報のキャッチに血眼であり、それは主に「アッチ」の雑誌を1秒も早く手に入れることだった。
 現実に「アッチ」に飛んで行くことなど夢でありポチポチ「アッチ」に視察旅行に行く人があると、羽田まで見送りが集まり旗を振り「バンザイ」という叫び声に羨望を込めた。何という純情と大真面目。大真面目はどこか滑稽である。
 私は『ヴォーグ』や『バザー』などというファッション雑誌で写真家のアドベンやペンを知る。 (モンローは二度死んだ、佐野洋子、『あれも嫌い これも好き』)

■ 今週の「忌」 Google(東京大空襲から77年)

東京大空襲の忌日のニュースの取り上げが今年は大きいと感じた。毎年気にしてみている(愚記事;夷(えびす)を焼く弾(たま);焼夷弾)。夜のNHKニュースではウクライナ情勢に次ぐ2番目。やはり、戦争のせいか。

■ 今週のマ元の追従者としてのプーチン大統領

民を大量虐殺(ジェノサイド)して、もうこれ以上殺されたくないと考えた民に軍事独裁政権において、大量虐殺を行った米軍が草稿し制定されたのが、現行憲法。清瀬一郎はこれを「マッカーサー憲法」と呼んだ。「マッカーサー憲法」ではゴロが悪いので、おいらは「マ元憲法」と呼んでいる。

「マ元憲法」は、<ジェノサイド憲法>だ、

このジェノサイドの果てにできた法で権利が拡張された人たちは複雑な気持ちを持たざるを得ない。日本の民主制の不幸だ。と思っているのは、おいらだけらしく、今週日曜のNHKラジオでは憲法学者の木村草太が憲法24条について語っていた。憲法学者というのは「理念」が法制化されさえすれば、いきさつにはこだわらないらしい。ただ、憲法の成立過程について「日本人もかかわっていました」といっていた。問題は数人の日本人がかかわっていたことではなく、日本人の多くが参加して、これから自分たちに関わる、憲法を自分たちの脳みそから文言を出し、合意することだ。理念さえ立派であればジェノサイド遂行者の脳みそから文言でよいというのが、現在の憲法学者たちの考えなのだろう。

「法に従う民が、法の制定者でなければならない」という民主制、立憲制の原理が実現されていない。さらに、マ元憲法制定後、占領軍は憲法は占領軍が草稿を書いたことを明らかにしてはいけないという検閲令を出した。現実に検閲を実施した。占領という軍事独裁政権における憲法制定だ。マ元憲法の第9条は武装解除条項である。武装解除された「国」において、占領軍は軍事基地を維持し、絶対的権力となった。日本は少なくとも軍事的には植民地である。実際は、この軍事的従属は、占領時代以来の米軍基地の存続として今日まで続いている。田中耕太郎問題。

ところで、興味深いことが戦後の司法には認められる。つまり、敗戦を挟んで裁判官たちはそのままで、憲法を変えて司法を進めたことだ。思想的に水と油の内容の法をもとになぜやっていけたのか?戦前に「マ元憲法」と同じ思想の法曹者がいて、冷や飯を食っていたけど、戦後、自分が信じてきた思想の法ができたので、司法業務を行うというのならわかる。一方、大日本帝国憲法に殉じて大量の判事が辞めたとも聞かない。これは何なんだろう?

そもそも、配給米だけ食べて餓死した判事がひとりだけって、おかしいよな。

つまりは、奴隷というのは鉄鎖を繋がれた者どもというばかりでなく、死にたくないために何でもするという人々だ。奴隷の存在には常に主に握られた死刑執行がある。戦後日本は、ジェノサイドの後、これ以上死にたくない人々が生きる世界だ。

ところで、プーチンはウクライナ国民にこれを希望している。それが非武装と傀儡政権の要求だ。

今の日本司法は傀儡司法であり、象徴が田中耕太郎

田中耕太郎といえば、砂川事件の裁判について、裁判の処理方針を内密に米国側に説明していた(wikipedia)。つまりは、日米関係=実態は日本が米国の保護国である状態を維持するために、倫理に悖ることを行った最高裁判事である。

■ 今週の虫干し

虫干しとは、虫やかびがつくことを防ぐために風通しをよくし、日に当てることを言います。衣類だけではなく、書物や着物などの調度品に対して、年に3回ほど行うことを総称して「虫干し」と言いました。暦生活

あの日(を報じる翌日)の新聞を、取り出し、干しました;

▶あの日のブログ記事: 【号外】 壊滅したおいらの部屋 (副題、琵琶法師@見習いは泣かない)


東京散歩;石神井公園(練馬区)

2022年03月06日 08時22分07秒 | 東京・横浜

東京都練馬区の石神井公園に行った。この日、練馬区立美術館の香月泰男展に行ったので、近くのこの公園に行くことにした。この石神井公園は大きな池を持つ公園であるが、大きな池を持つ公園という観点から、善福寺公園、井の頭公園と"3兄弟"である。3つの大きな池は成因が同じである。

3つの大きな池のい成因とは、武蔵野礫層という2次元的に広がっている地層と崖線が交わる場所で湧水が起こり、大きな池が形成された。武蔵野礫層は空隙が多いので地下水が浸透し、流れている。下の図で三宝寺池は石神井公園の池。


雨水市民の会 【寄稿】武蔵野三大湧水と50m崖線(がいせん) より

■ 石神井公園散歩

■ 1、石神井公園駅 ⇒ 石神井公園東側入口

■ 3;下石神井大泉線 ⇒ 4;

■ 航空写真で見る遍歴


1950年代


1960年代


1970年代


現在


新しい街でもぶどう記録;第382週

2022年03月05日 17時28分59秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第382週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週のメタセコイア(とラクウショウ)

石神井公園(東京都練馬区)

■ 今週の訳あり(東京産)

■ 今週の「変」

石変。前回の石変は茨城県石岡市の石でした。今週は石神井の石です。

■ 今週の見出し

みつめる猫

■ 今週の巾着

もちきんちゃく。

■ 今週の物産


東京都豊島区東池袋1丁目2番2号 東池ビル1・2階

池袋に行った。池袋といえば、宮城県のアンテナショップ。

三角揚げを買う。三角揚げといえば定義山が有名。おいらは行ったことがなかった。さらに、仙台に居た頃は自覚的に三角揚げを買って食べた記憶がない。ただし、近所の豆腐屋さんで、厚揚げを買っていた。

まあ、厚揚げ。

三角揚げ

宮城県民大好き「三角揚げ」は大豆の旨味がギッシリ詰まった一品。
カリッと焼いてお召し上がり下さい。
添付のタレは醤油メーカーと共同開発の三角揚げ専用です!

■ 今週の abbreviation(略語)

■ 今週の購書

福井雄三、『開戦と終戦をアメリカに発した男 戦時外交官 加瀬俊一秘録』(Amazon)によると、加瀬は、ロイド・ジョージ、チャーチル、ヒトラー、スターリンに会ったことがあるとのこと。おまけが、サマーセット・モームである。飛行機で隣であったという。これは、MI6(英国の情報機関)の任務も担っていたモームがわざと加瀬の席の隣を予約して、諜報目的で近づいたとの説が考えられると。

毛沢東に会っていれば満願ドラドラ裏裏だったのに!

■ 今週の古本(通販)


Amazon                                                                  日本の古本屋

借りている本、『鏡の中のアメリカ』(先崎彰容)に、ケヴィン・ドーク (wikipedia)なる日本学研究者である米国人教授についてのくだりで、日本で行われたシンポジウムにおいて永井陽之助の論文「解体するアメリカー危機の生態学」(1971年)などに言及し、米国情勢を論じたとあった。この論文にはピンとこなかってので、検索すると、『柔構造社会と暴力』に収録されているとわかる。この本は持っていない。永井陽之助は中公叢書で4冊出している。そのうち、おいらが持っていないのは、この『柔構造社会と暴力』だけだとわかる。なので、買おうと思った。

中古価格を見ると、高い。

でも、Amazonに、なぜかしら、850円というのがあった。その850円の品は表に表示されていないのだ。最低8,500円の中古品リンクをクリックすると、出た。850円。われらがもったいない本舗だ。今でも、桁をまちがったのではないかと、思っている。

4冊、揃った。でも、『平和の代償』(4冊のうち最初の出発)は旧装丁版ではないのだが。

■ 今週のもったいない本舗

2022年3月のカレンダーの絵図は、団子とお茶で花見。

■ 今週借りた本

◆この本は、日本大学の先崎彰容教授が、2019年8月から1か月と少しの間(?)、学術交流のためアメリカを旅行する記録。先崎彰容教授の専門は近代日本思想史。行程は、東京からサンフランシスコ(以下SF)に行く。サンフランシスコは維新前の幕府が福沢諭吉などの使節と維新後の明治政府の岩倉使節がかつてやって来た街。そこの図書館で文献集めをしたり、旧知に会い、米国事情を取材する。その後、ワシントンDCに移動。DC近郊のジョージタウンのジョウージタウン大学で講義と講演を行う。ホストは、同大教授のケヴィン・マイケル・ドーク。講義は教授が1年生向けに行う「神学」の講義のなかでの日本の神道のカミについて学生に説明する。3回(3週)。講演は、学外でが主催するセミナーで「デモクラシーとは何か」という日本政治の現状についての論。講演4分、質疑1時間。DCではアーリントン墓地、硫黄島像を見る。DCからはシカゴに行き、大陸横断鉄道でSFに戻る。SFでは安宿に泊まって強姦と強盗で出くわす。さらにSFから航空機で帰国。

さらにこの本の特徴は、ひと月の米国旅行記は直接体験ばかりではなく、久米邦武『米欧回覧実記』、江藤淳『アメリカと私』、山崎正和『このアメリア』のアメリカ経験・アメリカ論を論じる。150年にわたる日本人のアメリア「現地」経験の系譜のなかで、今回のひと月の米国旅行記を語るつもりの意図でつくった本。特に、岩倉使節団がアメリカ大陸を鉄道で横断した史実になぞらえ、逆方向ではあるが、シカゴからSFへの鉄道旅行記が含まれている。この本の表紙はグランドキャニオン的荒野に走る鉄道の写真となっている。

◆ ケヴィン・マイケル・ドーク

ジョージタウン大学東アジア言語文化学部教授。『日本浪漫派とナショナリズム』(Amazon)が有名とのこと。高校生の頃から日本留学。先崎は書いている;「ドーク教授は、高校時代に長野県の上田に留学したことがきっかけで日本に興味を持ち」、「日本に留学した際には立教大学に籍を置き 」。つまり、日本に興味があったから日本に留学したのではないとわかる。1960年生まれのドーク教授が高校生の頃といえば、1975-1977年だ。今の人は気づかなかいかもしれないが、この当時(1975-1977年)、日本にいた米国人高校生は現在のそれらより多いかもしれない。なぜなら、当時は今はない米軍家族用の高校がいくつもあったのだ。でも、ドーク教授は長野の上田の留学にしたとある。米軍家族ではなさそうだ。では、なぜ興味のない日本に留学したのか?ドーク教授は大学時代の留学先は立教大学とある。そもそも、ドーク教授はカトリック教徒である。立教大学といえば、ポール・ラッシュ(wikipedia)[GHQで戦犯リスト作成に携わった日米関係の闇を知る男]の大学だ。ただし、立教大学はカトリックではないらしい。

ドーク教授が務めるジョージタウン大学は米国最古のカトリックの大学だそうだ。イエズス会。2020年に新盆を迎えたアレン少尉もこの大学の出身だ。かつては奴隷売買を行っていた。ジョージタウン大学は1789年にイエズス会によって設立されたが、イエズス会は1838年、借金を返済するために奴隷272人を売却した(ソース)。

では、なぜカトリック教徒のドーク教授が立教大学なのか?正確にはわからない。でも、邪推を惹起させることが先崎の本に書いてあった。田中耕太郎ドーク教授は田中耕太郎を研究し、人物を評価しているとのこと。田中耕太郎といえば、砂川事件の裁判について、裁判の処理方針を内密に米国側に説明していた(wikipedia)。つまりは、日米関係=実態は日本が米国の保護国である状態を維持するために、倫理に悖ることを行った最高裁判事である。こういう背景や条件から推定するに、ケヴィン・マイケル・ドークは、カトリックの世界戦略の一端として異教徒理解の責務が課せられた人間として育てられたのではないだろうか?東アジア言語文化学部教授であり、かつ神学をも教えているということも上の説を支持する証左となる。

もちろん、先崎の本には田中耕太郎のこの「曲倫阿米」(倫理を曲げて、アメリカに阿る)の話は出てこない。日米関係150年において、アメリカとは日本人にとって何であるのか?を問うはずの本なのに。この件はアメリカ現地体験ではないので、論外ということか?

先崎はドークの思想を説明する;

篤実なカトリック信者であり、しかもアメリカから宗教が奪われれば奪われるほど、人種や移民問題が顕在化して「分断社会」を生み出してしまうとドーク教授は常々、主張していた。
 個人的な信仰にくわえ、母国アメリカが肌の色から精神的一体生まで全てがバラバラに解体し、荒んで進んでいくことを、彼は深刻に憂慮している。彼が日本ロマン派の研究から出発し民族問題に関心を持ちながら、その後、「近代の超克」座談会に出席していた戦前のキリスト教学者・吉満義彦に興味を持ち、また田中耕太朗を通じカント哲学の普遍主義を賞賛する背景には、なまなましい問題意識が付着していた。普遍的理念への信頼がなければ、今、目の前にあるアメリカ社会は瓦解してしまう。民主主義を信じていたはずの母国はポピュリズムとかし、砂団子がバラけるように国家は解体してしまう。

綺麗に言えば、保守派。リベラル派から見れば「宗教右翼」というところか。

◆ 特に理解できずギョっとしたくだり

 それ(アメリカで希望がもてる例として、ある小さな町に、人びとの温かいつながりがりと活気があることの原因)はアメリカにおける教会の役割の重要性のことだ。ドーク教授の発表内容を見る限り、僕はアメリカを立て直すには、まずもって白人中間層の精神的安定が必要なのだと直感した。移民大国であるアメリカには、アメリカ全体を一挙にまとめあげ、精神的安定を確保する手段は原則的に存在しない。各州の独立性が極めて高いことに象徴されるように、それぞれの州が抱えている移民の比率も違えば、課題も全く異なっている。そのアメリカにあって、まずもって必要なのは宗教の再建なのであって、もちろんここにははヒスパニックもキューバ系移民も含まれることはない。だがそれでも、緊急の止血処置として教会の復活が必要だという声が、彼らの著作からは響いてくるのだ。
 こうしたアメリカ社会論と戦前の思想研究は、ドーク教授の中で深いところでつながっているように思われた。

突然、白人中間層と宗教を指定してのアメリカ再建策の提示だ。一方、先崎は同書で云っている;

 アメリカは独立宣言の国であり、あらゆる人種を受け入れていること、つまり分裂するアイデンティティを唯一のアイデンティティとする国であった。人口性が最も高い国家でありそれは日本の国柄と著しく異なる。 引用p91より 

 一般的にアメリカは移民を前提とした理念国家であるとされる。ここで理念とは独立宣言も含む。つまり、特定の人種が、習慣的にでも支配的であることは、理念上、許されない。それが理念(建前)である。そういう観点から見て、まずもって白人中間層の精神的安定が必要とは驚く。中間層の再建とかいうのはあり得るが、なぜ白人中間層の精神的安定?そして、ヒスパニックやキューバ人の排除が当然視されている。

なお、上記の引用p91のところで、先崎はトランプ大統領について、「白色こそがアメリカの色なのだといい始めるとき、実はアメリカは自己崩壊を始めている」と書いている。そうであるならば、白人中間層の精神的安定が必要とはどういう意味なのか?わからない。

◆ 「貧乏」旅行で見えた底辺アメリカ

この本に正確には書かれていないが、旅費は著者の勤める大学が出したように見える。ホテルの予約は業者に任せたとある。そして、安いホテルに泊まる。(ジョージタウン大学ではそうでまない。これはホスト側が準備したからか?)アメリカで安いとはただ安いだけではなく、安いものを求める人々が集まる場所であることも意味する(アメリカ一般論)。つまり、安い、イコール、危ない人・貧乏な人が多い。先崎は泊まった先での食事で行ったフードコートで、「物乞い」ならぬ「カネ乞い」に遭う。さらには、フードコートで懸命に働く無愛想な「移民」を見る。

これらに先崎は「生」に対する貪欲を見て、感動する。そして、こういう経験を本当にしたいのであれば、現在の自分を一切すてて、いち移民としてアメリカ社会に素手で生きていかなければならない。実際は、そういうことはできないのだから、今自分がフードコートで見たアメリカは、日本で築いた地位と金銭を利用したアメリカ旅行者がただ見ている現象である。これを「鏡の中のアメリカ」と云っている。自分はアメリカに参画するものではなく、認識するだけの者であることらしい。そして、先崎はアメリカ旅行に求めていたものは彼女たちの生への貪欲さなのかもしれないと言っている。

こういうこともあってか、先崎のアメリカ理解はこうでもある;

つまり、「アメリカ人」であることの条件は、故郷喪失を前提しているということである。それは決定的に安定性を欠いている。引越しをすること、放浪すること、束の間であること自体が、アメリカ人の自己同一性なのである。

最期のサンフランシスコでは安宿に泊まり、強姦と強盗を目撃。その安宿がある16番街ミッション駅付近。GoogleMapのペグマンに見てもらった。

◆「普遍」文明に対する日本人の態度は三類型あると先崎はいう。①「普遍」文明に同一化して、正しい普遍文明の立場にあって権勢をふるう。②普遍文明を拒絶する。攘夷派。③普遍文明と日本文明に引き裂かれながら、自己同一性の危機に陥るも、その危機克服の過程で独自の思想を生み出す。久米邦武『米欧回覧実記』を論じるとき、先崎は久米を憧憬し同一視しているようなのだが、使節団の伊藤博文と森有礼に厳しい。伊藤と森は上の第1の類型だと先崎は考えているのだろう。

さて、先崎はアメリカの学生相手の講義で、「では、アメリカ人であるみなさん自身は、こうした普遍的価値に襲われたことがあるだろうか」と問いかけて、意外な反響があったとある。ただし、どんな反響があったのかは書いていない。

◆ 「普遍」的価値=人道・人権に洗われる米国社会;分断の駆動力

前述のように先崎は講義を受けた1年生の学生に「では、アメリカ人であるみなさん自身は、こうした普遍的価値に襲われたことがあるだろうか」と問いかけたと報告しているが、具体的な学生からの応答は書かれていない。先崎が見て調べたアメリカ社会を知りたい読者にとって、一番興味があることなのに。

この本の話から離れるが、米国で分断が進んでいる中で、文化、あるいは政治文化での分断が深刻であると伝えられている。それは米国の歴史を抜本的に見直して再構成しようとする文化運動の発生と推進である。「1619プロジェクト」。このプロジェクトは公教育でも広められはじめており、民主党の政治家も賛同し、副大統領のカマラ・ハリスは公然と「1619プロジェクト」支持を主張している。

この「1619プロジェクト」は、アメリカの建国が1776年であるという従来の歴史認識を批判し、奴隷がアメリカに連れてこられた1619年を建国の年とする歴史理論。その「1619プロジェクト」から見れば、1776年の独立宣言とはワシントンら現在建国の父とよばれる奴隷主たちがその利益存続を図るためイギリスとの関係を絶ったという認識となる。1776年のアメリカは民主制(democracy)の国ではなく、slavocracy [wikipedia](奴隷所有者による支配、奴隷政体)であるのだという主張。従来の1776年の建国で民主制のアメリカが建国という認識は、白人中心の勝手な歴史認識だということだ。

そもそも、(この「1619プロジェクト」では第一義的に言及されていないようだが)米国建国は先住民の(意図的とは断定できないが疫病流布による)大量駆逐、(意図的な)大量虐殺(ジェノサイド)の結果できた国である。

つまりは、アメリカ建国は、ジェノサイドを成功させた奴隷主たちがつくった国ということだ。大量虐殺と奴隷制は、「人道への罪」という普遍的価値に根本的に悖るものである。普遍的というのだから超歴史的に判断すべきと考える人々がいて当然である。すなわち、現在、アメリカはその来歴が「人道への罪」という普遍的価値の観点(をもつ"リベラル派")から糾弾されているのである。

先崎はアメリカの学生相手の講義で、「では、アメリカ人であるみなさん自身は、こうした普遍的価値に襲われたことがあるだろうか」と聞いたというが、これは家が火事で燃えている人に、「何か災いにあったことがありますか?」と聞くようなものではないか。

いや、先崎が対峙した学生さんは、イエズス会の大学の学生さんだ。イエズス会といえば、奴隷貿易にも関与しており、上述の通り、ジョージタウン大学は奴隷売買を行っていた。だから、涼しい顔をしているのかもしれない。そもそも、ケヴィン・マイケル・ドーク教授は「保守派」であり、そういう1619プロジェクト」のようはアメリカ解体を促進する文化運動に対抗することを使命としているにちがいない。そうであるなら、学生さんたちがどういう心持でどう対処していく所存なのか聞いてみたい。そいいうことを先崎が聞き込んで、報告してほしかった。

■ 今週の展覧会::近代日本の美術エリートの従軍・捕囚体験

香月泰男展、練馬区立美術館 (web site 生誕110年 香月泰男展

展示の広告につかわれているのは、作品《渚<ナホトカ>。この絵はシベリアでの抑留における奴隷労働の後、帰国の途中の港町ナホトカでの経験を基にした作品。この作品について作者の香月泰男が自ら説明を残している;

 1947年5月初旬、私達はナホトカの渚に下車、漸くたどり着いたと言えよう。
 ああ、この塩辛い水のつながる向こう岸に日本があるのかと舌でたしかめたものだ。
私達は一晩砂浜で寝た。その時の情景を描いた積りだが、何だか日本の土を踏むことなくシベリアの土になった人達の顔、顔を描いているような気がしてならぬ。
 20年経った今の、単なる私の感傷であろうか。

上の図ではわかりずらいが、細部を見ると↓

香月の代表作《北へ西へ》など"シベリアもの"と呼ばれる一連の作品に認められる「顔」がたくさん描き込まれている。


香月泰男、《北へ西へ》

香月泰男は1911年(明治44年)山口県三隅(現在 長門市)に生まれる。(のち、人生の大半を当地で暮らす)。東京美術学校(今の藝大)西洋画科卒。師は藤島武二。卒業後、美術教師。1943-1947年従軍。満州駐屯、敗戦後シベリアに連行され奴隷労働。周囲に多くの犠牲者を出しながら、帰国。美術教師に復帰。のち、作家に専念。シベリア捕囚体験に基づく「シベリアもの」シリーズを発表。1974年、死亡。

香月泰男、阿部合成(wiki)、山下菊二(wiki)、鶴岡政男(wiki)と洋画家の名を並べる。これらの画家は針生一郎の『わが愛憎の画家たち』に取り上げられている作家たちで、従軍体験が作品創作に影響を及ぼしている。上記の作家を含め多数の画家たちの作品が展示されたのが、宮城県立美術館で2015年に催された『わが愛憎の画家たち; 針生一郎と戦後美術 』。香月泰男の作品は《朕》。


香月泰男、《朕》

香月泰男が自ら説明;

 人間が人間に命令服従を強調して死に追いやることが許されるだろうか。民族のため、国家のため、朕のため、などと美名をでっち上げて・・・・。
 朕という名のもとに、尊い生命に軽重をつけ、兵隊たちの生死を羽毛のごとく軽く扱った軍人勅諭なるものへの私憤を、描かずにはいられなかった。敗戦の年の紀元節の 営庭 は零下30度あまり、小さな雪が結晶のまま、静かに目の前 を光りながら落ちてゆく。
 
兵隊たちは凍傷を恐れて、足踏みをしながら、古風で、もったいぶった言葉の羅列の終わるのを待った。
 
我国ノ軍隊ハ世世。天皇ノ統率シ給イシ所ニアル…朕ハ大元帥ナルソ、サレハ朕ハ………
 
朕の名のため数多くの人間が命を失った。

一方、

なぜソ連は終戦後県我々携帯をシベリアへ連行し労働を強制したのか。労働力不足の補強策ではあったろうが帰ってそれは目に見える、取り返しのつかぬ大きなものを日本人から失ったのだ。あの貧弱な給与で過酷な労働を終戦後の我々に課して、何が農民の労働者の天国創造を目指す国することか、腹のつくたびに(いつもすいていたからいつもということになる)日本の戦争指導者への恨みとソ連への不信感で苛立ち通した」(飢えたシベリア)針生一郎、『わが愛憎の画家たち』から孫引き。

と書いている。ソ連への恨みもあったのだ。

▼ デスマスク風「顔」の由来

香月泰男は1929年に上京し洋画の勉強を東京で始める。1930年代といえばモダニズムの浸透が本格的に進行し、日本の先端的な文化関係者はこぞって欧米の風潮、流行を摂取していた時代。香月は、ゴッホ、ピカソに傾倒した。そして、洋画の技法を身に着け、洋画を描くことでの自己表現が身に付いた。これは、洋画を描くことでしか自己表現をできない人間になったともいえる。

さて、香月が復員して、シベリア・シリーズを描くまで時間がある。その間、香月はヨーロパに行っている。そこで、ロマネスク、ゴシックの美術に触れた。つまり、あのデスクマスク風の「顔」は、ロマネスク的、あるいはゴシック的キリスト像の顔なのだ。香月はその「顔」を描くことができるようになり、シベリア・捕囚シリーズとなったに違いない。

▼2004年の「没後30年の香月泰男展」という解説(安井雄一郎 [1])に網羅的かつ詳細に香月泰男と経歴、作品がある。多くの作品が見ることができる。

[1]  安井雄一郎(やすい ゆういちろう)
1949年、宮崎県に生まれる。九州大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学(美学・美術史)。 78年に山口県立美術館研究員に採用され、現在、山口県立美術館学芸専門監(普及課長兼務)。香月泰男関連では、「香月泰男―その造形と抒情の軌跡」展、「-35度の黙示録 香月泰男〈シベリア・シリーズ〉」全国巡回展、「福島繁太郎と戦後洋画―昭和洋画の一側面」展などの企画展を担当。主な関連論文に「従軍時代の香月泰男の制作」、「描かれた「大陸」モチーフからシベリア・シリーズを考える」ほか。