いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

東京散歩;渋谷駅⇒ 塙保己一資料館⇒ 広尾 山種美術館、有栖川宮公園⇒ 狐坂⇒ 麻布十番⇒ 乃木坂⇒ 青山一丁目駅

2022年10月30日 11時18分55秒 | 東京・横浜

1;渋谷駅、2;塙保己一資料館(渋谷区東)、3;山種美術館、4;日赤医療センター、5;有栖川公園、6;狐坂、7;麻布十番、8;六本木交差点、9;乃木坂、10;青山一丁目駅

渋谷の東方面の台地を散歩。この台地は淀橋台。台地を構成する地層は下末吉層、河岸段丘としては下末吉台地。その台地表面は下末吉面。つまり、(武蔵野台地に比べ)古い時代にできた台地。したがって、地形の侵食は進んでいる。その侵食で残った台地と削られてできた谷、低地で構成されので、街の様子が異なる。特に谷筋は幹線が走る。高速道など。台地は当然高級住宅街、あるいは学校、文化施設。この範囲の低地として一番典型的な街は麻布十番。段丘崖の土地利用として、広尾の堀田藩邸⇒日赤病院⇒大規模集合住宅を、今、知った。

■ 1;渋谷駅、⇒ 氷川神社 ⇒ 2;塙保己一資料館(渋谷区東)

渋谷駅で降りる。地上に出る。渋谷駅のことはよくわかっていない。今、このブログ記事を書くため調べると、地上にあがった場所は、道玄坂下であるとわかる。JR高架の下をくぐり、宮益坂方面に向かう(と今知る)。宮益坂は登らずに、右折して、明治通りを南下する。


明治通りを南下。東交番前交差点を左折する。北東方面へ。

▼ 渋谷氷川神社

渋谷氷川神社は段丘崖にあり、北東側が台地の表面となっている。神社から出る。

▼ 塙保己一資料館(渋谷区東)

入場料 100円。


塙 保己一さん。息子、塙 忠宝(ただとみ 1808-1864;  wiki)を伊藤博文に殺される

塙保己一は江戸時代後期に活躍した盲目の学者です。驚異の暗記力で様々な学問をきわめ、大文献集「群書類従」の編纂を成し遂げました。また、国学の研究の場として「和学講談所」を創設し多くの弟子を育てました。
塙保己一は盲目の身で国家的大事業を成し遂げただけでなく目の不自由な仲間のことを忘れず、生涯、自分と同じように障害のある人たちの社会的地位向上のために力を注ぎました。塙保己一史料館 web site

史料館の方が丁寧に説明してくださいました。版木です。このような版木を保管する施設です。何より、現在でも、要請に応じて、版木を刷って、出版しているとのこと。

▼ 建物全景をgoogleで拾った

■ ⇒ 3.山種美術館

山種美術館 【特別展】没後80年記念 竹内栖鳳

近代京都画壇の中心的存在として活躍した竹内栖鳳(せいほう) (1864-1942)。栖鳳は、円山・四条派の伝統を引き継ぎながらも、さまざまな古典を学びました。1900(明治33)年にパリ万博視察のため渡欧、現地の美術に大きな刺激を受けた栖鳳は、帰国後、西洋絵画の技法も取り入れ、水墨画など東洋画の伝統も加味して独自の画風を確立し、近代日本画に革新をもたらしました。栖鳳の弟子・橋本関雪(かんせつ)によれば、動物を描けばその体臭まで描けると栖鳳自身が語ったというその描写力は、高く評価され、今なお新鮮な魅力を放っています。また優れた教育者でもあった栖鳳は、多くの逸材を育て、近代日本画の発展に尽くしました。

竹内栖鳳(せいほう)は、元は、竹内棲鳳(せいほう)と名乗っていた。それが、下記事情で改名;

1900年(明治33年)、8月1日神戸を出帆、36歳の時に、パリ万博で『雪中燥雀』が銀牌を受け、視察をきっかけとして7か月かけてヨーロッパを旅行し、ターナー、コローなどから強い影響を受けた。1901年2月25日帰国後、西洋の「西」にちなんで号を栖鳳と改めた。wikipedia

つまり、伝統的な日本画家であったが、近代西洋画に出会い、その画風が影響を受けたとのこと。上記、《班猫》もその「転回」の結果。西洋の衝撃と融合(google)の結果らしい(関連愚記事)。

「+」の位置が山種美術館。ここあたりと西側(図中での左)に平坦地が発達している(下末吉面)。
尾根を南北に走る幹線より東(図での左)に崖があり、その東に谷筋が走る。

■ ⇒ 広尾の台地表面 ⇒ ペルー大使館 ⇒ 坂を下る ⇒ 広尾真ん中の谷筋


ミゲル・グラウ・セミナリオ大提督の胸像、ペルー大使館

ミゲル・マリア・グラウ・セミナリオ (1834年7月27日 ペルー パイタ生 - 1879年10月8日 ボリビア プンタ・アンガモス没) は、太平洋戦争 (1879年-1884年)で活躍したペルーの海軍士官で、アンガモスの海戦で最後まで勇戦したことから同国では英雄として扱われている。敵兵を丁重に扱う騎士道精神に満ちた紳士的態度から el Caballero de los Mares (エル・カバレロ・デ・ロス・マーレス、スペイン語で「海の紳士」の意) と呼ばれ、ペルー人のみならず敵であったチリ人からも尊敬を集めている。ペルー海軍を象徴する人物であり、アメリカ大陸で最も有名な商船船長および海軍指揮官の一人とされる[1]。最終階級は少将。後にペルー議会から「ペルー大提督」を追贈された。wikipedia

台地最高部の平坦地から谷筋へ(東へ)下る。

2台車が写っている。その間を左右に走っている道が谷筋の道(広尾の台地の真ん中を走る谷の最低地)。この谷筋を越えると登り坂になっている。その登り坂を登った台地面が日赤医療センターや東京女学館が載っている台地面。

■ 4.日赤医療センター ⇒ 広尾ガーデンヒルズ ⇒ 広尾の東端の谷筋

日赤医療センター敷地内を横断。広尾駅方面へ向かう。

▼ 日赤医療センターの敷地から出て、広尾ガーデンヒルズの中の坂道を下る。


google

広尾ガーデンヒルズ(ひろおガーデンヒルズ、Hiroo Garden Hills)は、東京都渋谷区広尾に所在する大規模マンションである。住友不動産、三井不動産、三菱地所、第一生命保険の4社共同開発によって[2]、1987年2月に全体が竣工した。wiki

 
1945-1950年(左)[戦前画像も同様であった]、現在。
日赤病院は戦前から大規模にここで営していたと知った。日赤の下(南)は聖心。

1972年(昭和47年)末、渋谷区広尾[注 1]の堀田備中守の屋敷跡に位置する日本赤十字社医療センターが老朽化したため、日本赤十字社が敷地の半分に新しい病院棟を建設する目的で事業プロポーザルを実施。住友不動産、三井不動産、三菱地所、第一生命保険の4社共同事業体の提案が選定された。4社共同事業体が選定された理由は、計画案全体が住宅建設という、公共性をもったプロジェクト内容という日赤側の趣旨に見合ったものだったからである[4]。しかし、日赤の不動産ビジネスに対する無知のため、市場価格の半値程度で敷地を手放していると日本赤十字社医療センター院長を務めた幕内雅敏が明かしている。wiki


https://map.goo.ne.jp/history/edo/map/23/

江戸時代の土地利用。「堀田備中守」の位置が現在の日赤病院+広尾ガーデンヒルズ、「南部美濃守」が現在の有栖川宮公園。「松平陸奥守」は現在の仙台坂に面する土地。

■ ⇒ 広尾駅 ⇒ 5.有栖川宮公園

▼ 広尾低地 外苑西道路

▼ 5.有栖川宮公園

■ ⇒ 6.狐坂 ⇒ 7.麻布十番


中共大使館

狐坂 プロフィール

■ ⇒ 7.麻布十番


きみちゃん像

■ ⇒ 8;六本木交差点


芋洗坂

■ 8;六本木交差点

■ ⇒ 9.乃木坂

▼ 乃木邸

▼ 9.乃木坂

■ ⇒ 10;青山一丁目駅

■ まとめ 通過町
渋谷区:道玄坂、渋谷、東、広尾
港区:南麻布、元麻布、麻布十番、六本木、赤坂、元赤坂

 


新しい街でもぶどう記録;第415週

2022年10月29日 18時00分00秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第414週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の「テロ」被害者遺族

塙 保己一(1746-1821)は、息子の塙 忠宝(ただとみ 1808-1864;  wiki)を暗殺で失う。もっとも、保己一の死後ではあるが。殺害者は伊藤博文、山尾庸三。関連愚記事:「人殺しの伊藤君、人に殺される」


塙保己一史料館。 都内渋谷区東

1927年にできた鉄筋コンクリート製建物。戦前のモダニズムですね。先日のブログの小石川植物園、共同印刷麻布の連隊朝香宮邸旧聖蹟記念館と一連の鉄筋コンクリート製建物と同時代。

■ 今週のノーマスク

麻布十番のきみちゃんがマスクをしていなかった。

  2020/10/26

■ 今週のよその猫、あるいは、ウエスタン・インパクト(西洋の衝撃)と融合、はたまた、《隠毛唐》


竹内栖鳳(せいほう)、《班猫》(部分)、1924.   実物を撮影

山種美術館 【特別展】没後80年記念 竹内栖鳳

近代京都画壇の中心的存在として活躍した竹内栖鳳(せいほう) (1864-1942)。栖鳳は、円山・四条派の伝統を引き継ぎながらも、さまざまな古典を学びました。1900(明治33)年にパリ万博視察のため渡欧、現地の美術に大きな刺激を受けた栖鳳は、帰国後、西洋絵画の技法も取り入れ、水墨画など東洋画の伝統も加味して独自の画風を確立し、近代日本画に革新をもたらしました。栖鳳の弟子・橋本関雪(かんせつ)によれば、動物を描けばその体臭まで描けると栖鳳自身が語ったというその描写力は、高く評価され、今なお新鮮な魅力を放っています。また優れた教育者でもあった栖鳳は、多くの逸材を育て、近代日本画の発展に尽くしました。

竹内栖鳳(せいほう)は、元は、竹内棲鳳(せいほう)と名乗っていた。それが、下記事情で改名;

1900年(明治33年)、8月1日神戸を出帆、36歳の時に、パリ万博で『雪中燥雀』が銀牌を受け、視察をきっかけとして7か月かけてヨーロッパを旅行し、ターナー、コローなどから強い影響を受けた。1901年2月25日帰国後、西洋の「西」にちなんで号を栖鳳と改めた。wikipedia

つまり、伝統的な日本画家であったが、近代西洋画に出会い、その画風が影響を受けたとのこと。上記、《班猫》もその「転回」の結果。西洋の衝撃と融合(google)の結果らしい(関連愚記事)。

■ 今週の「肩をポンとたたく」、あるいは、メリトクラシー派の退場

チャイナ共産党は父祖が党幹部であった「太子党」系人材と試験で大学に入り党の一員となって出世した共青団系の人材に大別されるとされる。アリストクラシーとメリトクラシー。今回の人事で、共青団系の人材が皆引退、降格した。中国共産党大会の閉幕式(google) 

■ 今週のアクセスページ

裁頭された長ねぎ; truncated Welsh onions

市倉宏祐さん関連でアクセスがあったのだろうか?

■ 今週の<「インド」のイギリス支配>

スーナク氏は、過去200年以上で最も若いイギリス首相。インド系イギリス人のヒンドゥー教徒で、イギリス初の南アジア系首相となった。下院初当選から7年での首相就任は、現代イギリスで最速。(ソース)

イギリス初の南アジア系首相というばかりでなく、非白人=ユダヤ人を除くとして初めて(google)。

イギリスのインド支配」から、169年。

Graecia capta ferum victorem cepit !   直訳は、「捕らえられたギリシアは、野蛮な勝利者を捕らえた」(山下太郎のラテン語入門 様より)

寓意は、ローマは武力でギリシアを征服したが、ギリシアの文明・文物は逆にローマを征服した、です。この意に沿って今回のインド系イギリス人スーナク氏(wiki)の英国首相就任の「武器」は、金融、らしいです。


東京散歩:目黒 祐天寺 → 馬喰坂 → 目黒区美術館 → 白金台・自然教育園

2022年10月23日 12時12分32秒 | 東京・横浜


1;東急東横線・祐天寺駅、2;祐天寺、3;馬喰坂、4;目黒区美術館、5;目黒駅、6;国立科学博物館自然教育園、7;白金台駅

目黒区の祐天寺に行った。理由は特にないが、行ったことがなかったから。ただし、「祐天寺」というのは高校生の頃に目に入っていた、と最近気づいた。それは、内海郎、『インド旅の絵日記』(1982年)[Amazon]というインド旅行記の冒頭に祐天寺が出てくる。著者がよく行く場所として出てくる。これを読んだ当時、東京に土地勘は全くなく、(さらには最近まで[10年ほど前まで]ほぼなかったが)、祐天寺が東京のどこにあるのか、あるいはその象徴的な意味(山手なのか、下町なのか)もわからなかった。もちろん、自分が将来インドに6回行くことになるとも、横浜に暮らすことになるとも想像だにしなかった頃だ。

■ 経路地図

1;東急東横線・祐天寺駅、2;祐天寺、3;馬喰坂、4;目黒区美術館、5;目黒駅、6;国立科学博物館自然教育園、7;白金台駅

地形は、出発地の祐天寺は、河岸段丘として目黒台にある。この目黒台は下末吉台地と同時代の台地であり、後述する淀橋台より古い大台地。表面は下末吉面であり、これまた(淀橋台より)古い時代に形成された段丘面。東に向かうと、目黒台を降りて、目黒川を渡る。そこは、当然、低地。さらに、東へ向かうと淀橋台があり、権之助坂を登り、台地面(武蔵野面)にたどり着く。淀橋台は武蔵野台地のひとつ。つまり、今回の散歩では、二種の異なった河岸段丘を歩く。その段丘を区切るのが、目黒川。

■ 祐天寺駅

■ ⇒ 祐天寺

■ 祐天寺

今、wikipediaで、柳原愛子(関連愚記事)の墓があると知る。この日の散歩では見なかった。柳原愛子とは大正天皇の生物学的母親である。つまり、昭和天皇の1/4、今の天皇陛下の1/16の遺伝子をもたらした女性。そういう人でも、「こういう」お寺に葬られているのかと思った。大正天皇の御嫡母の昭憲皇太后のお墓は、京都の伏見桃山陵である。もっとも、祐天寺は、長州・毛利家、土佐・山内家の墓があるというので、「高級」な墓地なのだろうけど。

■ ⇒ 馬喰坂

目黒台の台の表面の平坦地を進む。

目黒台の端が見えてきました。平坦地が終わり、坂となっています。

現代彫刻美術館の屋外展示場

■ 馬喰坂

目黒台から、目黒川が流れる低地へ降ります。

ばくろ坂は、目黒三丁目と中目黒四丁目の境の坂、永隆寺の南側を東に下る急坂をいい、十七が坂じゅうしちがさかは、目黒三丁目3番の庚申塔の前から南東に下る短い急坂で、その位置は、それぞれ旧田道裏地域の西端と南端にあたる。

この地域の地勢的な特徴は、北から東回りに南にかけて低地が続き、北から西回りに南にかけて高地が続いていることである。したがって、低地と高地の間には当然傾斜地があり、それが西端のばくろ坂、南端の十七が坂じゅうしちがさかなのである。

ばくろ坂は、低地の新寺道から高地の庚申道に通じていた。坂の傾斜は急で、険路であった。そこで切り通しの工事をしたが、それは坂上の路面を切り下げ、その切り土で坂下の路面を高め、坂全体の傾斜を緩めることであった。しかし、頂上部には庚申道が交差していたので、思いきった切り通し工事ができなかった。そのため、路面はいつも風雨にさらされ、大小の穴をあけていたので、人びとはこの坂を「ばくろ坂」と呼んだのだという。

「ばくろ」とは、風雨にさらされ穴のあいた状態を示す、目黒の古い方言だという。 (目黒区 web site

■ ⇒ 目黒区立美術館


山手通り、田道(でんどう)交差点。

■ 目黒区立美術館

 

■ ⇒ 目黒駅


目黒川


権之助坂

江戸の中期、中目黒の田道に菅沼権之助という名主がいた。あるとき、村人のために、年貢米の取り立てをゆるめてもらおうと訴え出るが、その行為がかえって罪に問われてしまう。なんとか助けてほしいという村人の願いも聞き入れられず、権之助は刑に処せられることになり引かれて行く。「権之助、なにか思い残すことはないか」と問われて、「自分の住んだ家が、ひと目見たい」と答える。

馬の背で縄にしばられた権之助は、当時新坂と呼ばれていたこの坂の上から、生まれ育ったわが家を望み、「ああ、わが家だ、わが家が見える」と、やがて処刑されるのも忘れて喜んだ。父祖の家を離れる悲しみと、村人の明日からの窮状が権之助の心を去来したかも知れないが、それは表情には現わさなかった。

村人は、この落着いた態度と村に尽した功績をたたえて、権之助が最後に村を振り返ったこの坂を「権之助坂」と呼ぶようになったといわれている。

また、一説によると権之助は、許可なく新坂を切り開いたのを罪に問われたといわれている。

昔の道路は、江戸市中から白金を通り、行人坂をくだって太鼓橋を渡り大鳥神社の前に抜けていた。この道があまりにも急坂で、しかも回り道をしていたので、権之助が現在の権之助坂を開き、当時この坂を新坂、そして目黒川にかかる橋を新橋と呼んでいた。 (目黒区 web site

坂の脇は崖。

JR山手線を跨ぎわたる。

■ ⇒ 国立科学博物館自然教育園


庭園美術館

■ 国立科学博物館自然教育園

■ ⇒ 地下鉄・白金台駅

白金台交差点。

外苑西通りを望む


目黒通り

白金台駅

■ まとめ 

通過町

目黒区

祐天寺、中目黒、目黒、上大崎、白金台

 

 

 

 


新しい街でもぶどう記録;第414週

2022年10月22日 18時07分21秒 | 草花野菜

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の果実

■ 今週のお寺さん

祐天寺。都内目黒区。

■ 今週の展覧会

コレクション解体新書1  フジタが目黒にやって来た

目黒区美術館は開館に先立つ1981年度より、海外へ留学したり国際的に活躍した作家、素材や技法の特質をよく示す作品を中心に、日本の近代から現代に至る美術の歴史を俯瞰できるコレクションを目指して作品収集を行ってきました。最初の収蔵作品となった藤田嗣治《動物群》を皮切りに、数多くの日本人作家の秀作を収蔵し、今日2400点余を数えるに至っています。

1987年の開館以後は、美術館活動に応じて収集の傾向も次第に変化していきました。例えば、目黒にゆかりある作家の作品は、展覧会の開催を通じて関係者の厚意による寄贈もありその数を増やし、現在では美術館を特徴づける主要なコレクションとなっています。さらに近年は、インテリアショップやデザイナーが多い目黒の地域的特性をとらえ、生活芸術の分野に関連する作品の収蔵も射程に入りました。
 
本展では、開館前から現在に至る当館のコレクション形成のあゆみを振り返りながら、作品収集の過程や取得時のエピソード、さらには取得資金の仕組まで、普段なかなか見ることのできない美術館の舞台裏を紹介します。 (この展覧会について

▼ 今週の1枚  上記展覧会でありました;

 
岡鹿之助 ≪信号台≫ 1926

■ 今週の見切り品

■ 今週の椎茸


バーミアン 椎茸うま煮あんかけ焼きそば。椎茸・白菜・人参・青菜・陸奥湾産帆立のうまみを閉じ込めた熱々のあんかけ(ソース)。 

■ 今週返した借りていた横浜市図書館の本

岸俊光、『核武装と知識人』(Amazon)。副題が「内閣調査室でつくられた非核政策」。目次はこちら。この本の目玉は、内閣調査室の主幹であった志垣民郎という官僚の日記とその志垣が内閣調査室(内調)として外部に委託した研究の報告書17部、と志垣への対面聞き取り調査を資料とした研究。時代は佐藤内閣時の特に1968年前後。

そもそも、内閣調査室というのは直接、情報を収集する現場部隊を持たない。調査を外部に依頼する組織。報告書を作成。その報告書を内閣、大臣が採用する、あるいは、そもそも目を通すかは、内閣(官房長官、首相)の勝手。内閣によっては、内閣調査室を全く相手にしなかったらしい。

その報告書の中で、特に、報告書「日本の核政策に関する研究(その一)-独立核戦力創設の技術的・組織的・財政的可能性」と「日本の核政策に関する研究(その二)-独立核戦力の戦略的・外向的・政治的諸問題」」が、日本政府が検討した核武装として有名(1996年の新聞報道まで"ほとんど"知られていなかった)。

その研究を内調から請け負った学者集団が、垣花秀武(wiki)、永井陽之助(wiki)、前田寿(wiki)、蝋山道雄(wiki)。研究会は四の頭文字をとって「カナマロ会」。

▼その時代:1968年1-2月

「6時前退庁。(中略)四谷の福田屋行き。永井陽之助氏と前田寿氏在り。間もなく垣花秀武氏も来り。(中略)プエブロ事件、朝鮮問題、ベトナム問題等話し合い、来年度の研究会運営方針について相談。蝋山道雄氏を加え4人の常任理事を中心として運営。月1回の海の記録(テープ、速記)を取ることにす。ゲスト方式もとる。あと全学連の話などして9時過ぎ終了」。『志垣日記』一九六八年一月三十日(火)の項には、永井、前田、垣花らが集い、東京・紀尾井町で開かれた最初の打ち合わせの模様がこう記されている。メンバーが固まり、核武装が政治的、技術的に可能かどうかの問題など研究計画を検討し、各部門の担当講師を決定してスケジュールを作った旨が記されているのは同年三月十八日(月)の項である。

 くしくも初めの打ち合わせをした一月三十日は、佐藤政権にとっても重要な一日になった。第5章でみたように、佐藤はこの日の衆議院代表質問で、非核三原則、核軍縮の推進、アメリカの核抑止力への依存、原子力の平和利用、という「核四政策」を打ち出したのである。国会日程と「カナマロ会」の初顔合わせが重なったのは偶然としても、衆議院予算委員会で非核三原則を初めて表明して以来、佐藤内閣の非核政策が国会論戦を通じて形成されつつあった。核政策問題が以前にも増して重要になることを、内調が認識していたことは間違いないだろう。

  

佐世保エンタープライズ寄港阻止「攘夷運動」(1968年1月)(左)、ベトナム戦争、テト攻勢(1968年1月30日~;この画像は1968年2月)(右);この米兵は日本(横浜)に担ぎ込まれ一命をとりとめる 愚記事

なにより、1ドル=360円で、米国のGNPが8,606億ドル、日本のGNPが1,419億ドル。アメリカの一人当たりの所得が3,543ドル、日本の一人当たりの所得が1,110ドル(ソース)。そもそも、沖縄が米軍領。

日本政府・佐藤内閣が非核三原則を含む「核四政策」を「打ち出した」日は、「カナマロ会」の初会合の日であり、なにより、テト攻勢の日である。テト攻勢で、ベトコンの被害も甚大であったが、「コストが高い」米軍の被害も甚大で、「テト攻勢はベトナム戦争の流れを変える大きな軍事行動であった」とされる。結果、1976年のサイゴン陥落、米軍撤兵へとなる。サイゴンとはいえば、我らが大日本帝国(以下、日帝)の南方司令軍の司令部があった街である。大日本帝国陸海軍の無条件降伏後、米軍が継承した。日帝を打倒し、米軍が支配したチャイナ大陸、朝鮮半島北部を米軍は次々失い、ついにはサイゴンも奪われたのだ。まぬけじゃないか、米軍。こういう、米軍衰退という背景なのに、日本は核武装を放棄した。でも、上記のように日米国力差が6倍で、国民の豊かさも3倍だ。「貧乏」だから、自主防衛は無理だと考えたのであろう。「吉田ドクトリンは永遠なり」!。

ただし、現在の視点から見て、北朝鮮や1960年代の中共が核武装しているのだから、経済が理由にはならないはずだ。

「吉田ドクトリンは永遠なり」!

日本は核武装をするべきではないと報告書を書いたのは永井陽之助だ。「吉田ドクトリンは永遠なり」!。

 日本は、中国の核脅威の増大に対しては、米国の核のカサに入る以外に道はない。これは、たとえ自主”核武装”をしても、程度の差であるにすぎないし、米国は日本の核武装を最もおそれている。ただし、日本本土、沖縄の固定した核基地には絶対反対すべきである。海上のポラリス潜水艦を主軸とした核抑止力に依存することは、日本の選択の問題ではない。

これは、報告書の文言そのものではないが、少し前に公表された永井の文章(「日本外交における拘束と選択」1966年)であり、報告書の趣旨である。つまり、日本は米国が恐れることをしてはいけない、つまり、日本を二度と米国の脅威にしないという米国の占領政策の第一原理の主旨を再確認し、さらに、実践を当然視しているのだ。ここで、永井は核基地の固定化には反対している素振りを見せているが、米軍基地の存続を前提とする日米安保には当然賛成である。ここで、日米安保というのは日本の交戦権を否定したマ元憲法と共に日本列島の主権を日本が保持する権力を掣肘し、日本列島を米軍天国とするものである。米軍が日本列島を米軍天国とできるのは、核の傘を提供していることをも理由とできる。なお、永井は米国の核の傘から逃れようとしたフランスのガロア理論を批判し、日本への適応には反対である。

▼ 「道徳的優位

日本は、原爆の被害を受け、核兵器をつくる能力をもちながら、つくらないという道徳的優位を先取しつづけ、それを全世界の世論に訴え、核拡散防止、核兵器使用の禁止、軍縮などの一連の平和運動を大規模に展開すべきであって、これも、平和的手段による重要な核抑止戦略の一環となりうるのである。(強調、おいら)

永井は「道徳的優位」をいう。でも、自「国」を米軍天国にして、ベトナム戦争など日本を出撃基地とした戦争をやり放題することを可能にする日本民は「道徳的優位」にあるのか?ないのか? 吉田ドクトリンという「軽武装・経済優先」という欺瞞的な美名の政策は、日本の軍事主権を"拘束・制限・禁圧し"、日本列島の軍事空間を米軍が支配するという米軍天国を実現、保持するための策であり、正当化するイデオロギー、政治的プロパガンダである。

この永井の対米敗北主義こそが、内調精神の真髄であるのだと、おいらは思う。だから、永井は内調ライターであったのだ。 「吉田ドクトリンは永遠なり」!

▼ 「日本情報機関の父」吉田茂

 この本は、佐藤内閣の非核政策と内調とのテーマの前に、内調の成立について、本書のはじめに、書いている。吉田茂を鍵人物としている。さらに、緒方竹虎。著者は、彼らの政治思想の反共産主義が、内閣調査室設立の動機としている。そして、本書では、「日本情報機関の父」吉田茂と評している。さらには、内調とCIAとの親密性も書いている。ただし、緒方竹虎がCIAの工作員/協力者であったとされる(有馬哲夫、『CIAと戦後日本』)ことには言及していない。

おいらには、この内調=反共政策のための情報機関という視点は半面であると思う。もう半面は、というかおいらはこちらが主面だと思うのだが、日本封じ込めである。

▼「カナマロ会」報告の意義

でも、そもそも、不思議なこと。「カナマロ会」報告のための会合が開始した時点で、既に、日本政府の非核三原則は決まっていたのだ。何より、この非核三原則は実質的に岸内閣から始まり、佐藤内閣はそれを踏襲したとされる。したがって、「カナマロ会」報告は、当時の政府の核政策の追認でしかない(のではないか)。

ただし、NPT(核拡散防止条約)に1970年に署名している。そのための理論武装とみなすことが、理論的にはできる。ただし、実質的に、この「カナマロ会」報告が、政策決定にどう影響したのかは不明。

▼ 復員兵と戦後

この本の鍵人物は志垣民朗。1922年生まれ。あの雨の神宮外苑壮行会で行進。支那戦線に陸軍主計官として赴任。永井陽之助は1924年生まれ。少なくとも、結核で兵役を1度は免除。終生、徴兵されなかったというエビデンスはおいらはもっていない。志垣民朗の敗戦の衝撃による受難克服の「捌け口」は知識人の欺瞞の暴露として迸(ほとばし)ったらしい。『学者先生戦前戦後言質集』を著す (1954年)。その志垣民朗の佐藤栄作観がすごい;

志垣民郎の佐藤評は、さらに辛辣なものである。「とくに、「有志の会」で政権獲得前(1964年9月10日)の佐藤榮作の話を三時間聞いたのは有益だった。彼が如何に平々凡々たる人物であり、宰相たるにふさわしからぬ人間である彼が分かったからだ。見識らしきもの、政策らしきものの片鱗もなくて総理になれるという日本の現実は、ある意味で進んだ社会だと言えるのかもしれない」。 (志垣日記)

これって、どういう意味なんだろう。凡庸さんが首相になった社会に、志が高い自分はいて、そういう首相には、適切な情報提供が必要だということか?

▼ 若泉敬

若泉敬もこの本の鍵であるが、本記事では言及しない。ただ、彼のインド観と現在のインド、つまり核武装してロシアに停戦を直言するインド、のことを思い、参照とすると、日本の核武装・核武装しなかったことの意義が感慨深い。

▼ 非核政策批判者

非核政策批判者、核武装者たちの紹介、その理論もこの本で紹介されている。

■ 今週知ったこと;垣花秀武

上記、「カナマロ会」のひとりの垣花秀武。この人の本をもっていたと気づいた。垣花秀武は核化学者。カトリック教徒らしい。

 


新しい街でもぶどう記録;第413週

2022年10月15日 18時00分00秒 | 武相境

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第413週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の植物園

神代植物公園、秋のバラフェスタ(⇒愚記事:神代植物公園 2022 秋のバラフェスタ(3年ぶり)

■ 今週の見切り品

日野菜(日野菜かぶ)の育て方・栽培|植物図鑑

日野菜は滋賀の伝統野菜で、かぶの仲間です。主に漬物用として利用され、漬け込むとピンクに染まることから桜漬けと呼ばれます。葉と2色の根の色合いが美しく、辛味と苦味をあわせ持つ味わいは、漬物以外にもサラダや温野菜、ローストなど、さまざまな料理に活躍します。

■ 今週の黄帽の人たち


黄帽の一人


黄帽の人たちの視線の先は、

■ 今週の猫の名前

■ 今週の受取

マイナンバーカードを受け取りに区役所に行った。事前予約制。2週間分くらいは予約で埋まっていた。横浜市はマイナンバーカード受取のために特設センターというのを設けている。そこは、予約時間の5分前に来い、早すぎると再来訪を求めると注意している。区役所では15分前でも受け付けてくれた。待ちもなし。

■ 今週の撥水


撥水する蜘蛛の巣

■ 今週の依頼中

調布市 深大寺水車館(google

■ 今週の切り株


達磨がみえる。

■ 今週のすかいらーくコロワイドグループ

ポップシューメープル、ラパウザ(メニュー)。Twitter 。<荊の簪を挿した御方>に奢ってもらった。

■ 今週の購書


岩倉使節団『米欧回覧実記』 (岩波現代文庫)(Amazon

ブックオフで売値300円。割引クーポンを使って、実買い価格200円。

題名から察せられるように『米欧回覧実記』の解説本。いつか読みたい『米欧回覧実記』。

パラ見すると、岩倉使節はアメリカで黒人奴隷の存在を認識。正確にいうと、奴隷解放は1863年。岩倉使節訪米は1872年。つまり、奴隷解放後の米国社会を見聞したわけだが、白人の黒人への差別は記述されているとのこと。

今ニナリテモ白皙[ハクセキ]人ハ、自然之[シゼンコレ](黒人)ト歯[シ]スルヲ耻[ハ]ジル風ナリ

と、『米欧回覧実記』とあるらしい。ただし、おいらは、「歯[シ]スルヲ耻[ハ]ジル」の歯[シ]スルの意味がわからなかった。ググった。「仲間としてつきあう。同列に立つ。」なのだという。今、知った。日本語能力が足りないのだ。ということで、いつか読みたい『米欧回覧実記』というのは、遠い夢なのだ。


神代植物公園 2022 秋のバラフェスタ(3年ぶり)、そして、深大寺そば 

2022年10月14日 18時47分49秒 | 東京・横浜

毎年、春と秋に行く神代植物公園のバラフェスタ。秋の「バラフェスタ」は8度目。過去記事は; 2015年、 2016年2017年2018年2019年2020年2021年)。2020年と2021年は開園していたが、「バラフェスタ」ではなかった。コロナの影響だ。今年は、「バラフェスタ」。

でも、時に雨が落ちる天気だった。数日前の天気予報は晴れで、昨日の予報では曇り。そして、今朝の予報では曇り/雨となってしまった。今日は、このため休みをとったので、行く。

▼ 国際ばらコンクール花壇

▼ 本園

▼ 同園内のダリア園より

▼ 深大寺門へ

■ そして、深大寺そば

今年の春のバラフェスタの時は、蕎麦屋「湧水」に行った。去年の秋は、蕎麦屋「一休庵」。今回も「一休庵」にした。


十割くるみだれそば 

くるみだれというものを初めて味わう。くるみ風味と塩味強い。濃い。

今年も、お団子。140円X2。外売りは、130円。

 


横浜散歩:菊名駅 ⇒ 馬場花木園

2022年10月09日 14時25分26秒 | 東京・横浜

10月第1週某日、雨の中、菊名駅から馬場花木園に散歩する。

1;菊名駅(東急、JR)、2;菊名3丁目、3;菊名4丁目、4;法隆寺交叉点、5;入江川遊水地、6;馬場赤門公園、7;馬場花木園

▼ 菊名駅と馬場花木園の横浜、あるいは下末吉台地での位置。


下末吉台地全体図。 K;菊名駅、B;馬場花木園、Y;横浜駅、S;下末吉、T;鶴見駅、青線;鶴見川、YK:JR横浜線、TY;東急東横線

■ 1;菊名駅(東急、JR)⇒ 2;菊名3丁目 ⇒ 3;菊名4丁目

▼ 2;菊名3丁目

▼ 3;菊名4丁目

図1(後出)の坂「a」。

台地最高地に登り着く。下末吉台地の表面の下末吉面。見えている風景は侵食・開析された窪地。一番向こうは、高層ビルがある新横浜。沖積平野。

■ 4;法隆寺交叉点 ⇒ 5;入江川遊水地、

法隆寺交叉点から南、馬場インターチェンジ、生麦方面を見る。

法隆寺交叉点から北東へ。下末吉面=尾根斜面から外れ、坂を下る。

図1の「c」の下り坂


図1 b-C(綱島街道)の尾根道への登り坂(a)を通り、法隆寺交叉点(b)を過ぎ、尾根を少し北上し、右折。窪地底面の「B」へ下り坂(b)を通る。つまり、窪地底面のAからB(AとBは異なる窪地)を隔てる尾根を、坂を登り、下り、越えた。

▼5;入江川遊水地

■ 6;馬場赤門公園 ⇒ 7;馬場花木園

 

■ 馬場花木園


google map


馬場花木園マップ

入場無料です。


あずまや


芝生広場


東屋


旧藤本家住宅

住宅は江戸時代末期ー明治初期に建築。1913年(大正2年)にここへ移築される。

■ 背後の窪地の壁の高地へ

▼ 降りる

■ まとめ

通過町 横浜市鶴見区

菊名、上の宮、馬場


新しい街でもぶどう記録;第412週

2022年10月08日 18時00分00秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第412週

■ 今週のよその猫

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の「変」

■ 今週の庭園、あるいは、谷戸

馬場花木園(横浜市鶴見区)。ボタン、梅、つつじ、しゃくなげなど、四季を通じて楽しめる花木とハナショウブの咲く池を中心とした和風庭園横浜市 site)。

馬場花木園公式サイト

下末吉台地の開析された凹状の地形。いわゆる「スリバチ地形」。

■ 今週気付いたこと;作家毎の色、あるいは、褪せの程度、はたまた、今週の購書

三島由紀夫の作品が橙色(オレンジ色)であることは知っていた。むしろ、色褪せがひどいなと思っていた。今週、新潮文庫は、作家毎に色が違うのだと気づいた。みんなは知っているに違いない。おいらは、今まで気づかなかった。気づいた理由は、遠藤周作の『沈黙』をブックオフで買った。100円(今週の購書)。その時、ブックオフの遠藤周作の中古本を並べてある棚を見て、青緑色の本が並んでいるのを見て、あー、作家毎に色が違うのだと気づいた。今、確認した。大江健三郎は海老茶色、車谷長吉は緋色と確認した。

色褪せ速度、程度:遠藤の『白い人・黄色い人』、『留学』、三島の『花ざかりの森・憂国』、『禁色』、大江の『遅れてきた青年』は同時期、すなわち、35年前くらいに買った本である。三島の色褪せが激しい。

殴る耶蘇:耶蘇(キリスト教徒)といえば、(まず)殴られ、そしてもうひとつの頬を差し出すのではなかったか。でも、耶蘇の遠藤周作は大江健三郎を鼻血が出るほど殴ったらしい(阿川弘之の『国を思えば腹がたつ』を引いた小谷野敦『江藤淳と大江健三郎』)。と、急に思い出した。


東京散歩;大田区:鵜の木駅→久が原台→呑川→龍子記念館→荏原台→大田区立郷土博物館

2022年10月02日 14時55分56秒 | 東京・横浜

大田区を散歩した。大田区は田園調布から羽田空港と広く、多様。今回は多摩川沿いの東急電鉄鵜の木駅から池上本門寺を経て、龍子記念館、大田区立郷土博物館までの散歩。


大田区広域図に記した散歩経路


散歩経路

1鵜の木駅、2昭和のくらし博物館、3呑川・国道1号線交点、4池上本門寺・本門寺公園、5龍子記念館、6大田区郷土博物館 →バスでJR大森駅

大田区の台地は久が原台と荏原台。台地の構成地層と段丘面の形成時代が異なる。2つの台地の間には呑川が流れる。2つの台地の南側は沖積低地。

■ 1鵜の木駅 ⇒ 2昭和のくらし博物館

▼ 2昭和のくらし博物館

昭和のくらし博物館(web site) 昭和26年建設。内部は撮影禁止なので、画像は挙げられない。


昭和のくらし博物館(しょうわのくらしはくぶつかん)は、東京都大田区に位置する昭和時代の庶民のくらしを展示する博物館である。

元々、東京都の建築技師だった小泉孝が建てた自宅を、孝の長女で生活史研究家の小泉和子(元京都女子大学教授)が、昭和時代(特に戦後、昭和20〜30年代)の庶民の暮らしを後世まで伝える目的で、博物館として、1999年(平成11年)2月28日から公開している。

住宅の間取りをそのまま残した館内の構成になっている。常設展では小泉家が過ごした住宅風景がそのまま残っている。2階建ての建物で、1階は書斎兼応接間、お茶の間、台所、座敷。2階は子供部屋,企画展示室,次女の知代に関する記念室,談話室からなっている。wikipedia

■ ⇒ 3呑川・国道1号線交点

池上線を渡って、東へ。久が原台は土地が平。

「豪族」の家をみた。

呑川。

▼ おひる

藍屋 一本煮穴子天の冷やしおろしうどん定食 

すかいらーくグループの店舗が上下に入ったビル。

■ 3呑川・国道1号線交点 ⇒ 龍子記念館

大坊坂

坂を登って、荏原台の表面(下末吉面)に上がる。池上本門寺。

池上本門寺の東側の墓地を横切ると、本門寺公園への入り口がある。階段で下る。段丘崖だ。

▼ 本門寺公園

1938年に当時の東京市の公園として開園した。

荏原台には縄文遺跡があるとのこと。当時は海進の時代だったので、現在の低地は海で、このあたりが海岸の近くであったのだろう。

■ ⇒ 大田区立龍子記念館と龍子公園

汐見坂

中央五丁目12番と13番の間の坂道。坂名について、かつてこの坂から大森の海や舟の白帆、海苔ひび(注釈)などがよく見えたため、この名で呼ばれるようになったといわれます。
昭和の初めに耕地整理が行われるまでの汐見坂は、今より道幅も狭く、赤土の坂道で上る左側は畑でした。
また、この坂道は池上本門寺へ通じる池上道の近道でもありました。
今日では大森方面にビル群が建てこみ、惜しくも海などは見られなくなってしまいました。

(注釈)海苔ひびとは、海苔を付着させるため、海中に立てておく木や竹の枝をたばねたもの (大田区 web site

▼ 大田区立龍子記念館

注目点は「高床」と「竹」。

龍子記念館は日本画家川端龍子(1885年〈明治18年〉 - 1966年〈昭和41年〉、wiki)が自ら建てた美術館。現在は大田区の資産、管理。

大田区立龍子記念館公式web site

終戦を翌々日に控えた1945年(昭和20年)8月13日には龍子の自宅も空襲に遭った。使用人2人が亡くなり、家屋のほか食糧難をしのぐため庭で育てていた野菜も被害を受けた。この後すぐ『爆弾散華』(2m49cm×1m88cm)を描き上げた。金箔や金色の砂子の背景にトマトが爆風でちぎれ飛ぶ様を描いたこの作品は、戦死者への追悼も込められているとみる解釈もある。また爆撃によりできた穴を「爆弾散華の池」として残したwiki

【ズバリ解説】川端龍子《爆弾散華》1945年制作【大田区立龍子記念館所蔵作品】

▼ 龍子公園

下の画像の通りを挟んで記念館の向かいに龍子公園がある。旧宅とアトリエがある。


Google

凹の字の建物が記念館(美術館)。上の木々が茂る区画が住居とアトリエ(最上部:戦災を免れた)。

竹がふんだんに使われている。


《椰子の篝火(かがりび)》(1935年)

1934(昭和9)年には、サイパンやパラオ、ヤップ等の南洋の島々にまで旅立って、島民の暮らしを本展出品の《椰子の篝火(かがりび)》(1935年)に描きました。公式 web site) 

川端龍子は上記のように南洋に行った。「高床」や「竹」はこの頃に得た趣向なのかもしれない。

【龍子記念館】龍子公園紹介動画

▼ 戦争画

1944年(昭和19年)に製作した『洛陽攻略』、『輸送船団海南島出発』については、戦後、GHQに軍事主義的であるとして他の作家の戦争画とともに没収された。その後、1970年(昭和45年)になって無期限貸与という形でアメリカ合衆国から一括返還。東京国立近代美術館に収蔵された。wiki

 

 

輸送船団海南島出発』、『洛陽攻略

■ ⇒ 大田区立郷土博物館

大田文化の森前から北西に曲って荏原町えばらまちへ抜けるバス通りの坂道です。
昔から馬込より大森へ出るには、この坂と闇坂くらやみざかが主な道でした。このバス通りを昔は田無たなし街道と呼んでいました。馬込を抜け、荏原町えばらまちから三軒茶屋を経て田無たなしへ通じる街道でした。
明治4年に東京府制が施行されてからもこの道路は府道第56号大森田無たなし線と呼ばれています。
臼田坂の坂名については、坂のあたりに臼田姓の家が多かったので、この名が起ったといわれています。
また、坂周辺には大正末期から昭和初期にかけ、萩原朔太郎、川端康成、石坂洋次郎など多くの作家が住み、「馬込文士村」という言葉も生まれました。文士村のメインストリートであったこの坂も、当時は今日と異なり赤土の急坂でした。萩原朔太郎の散文詩「坂」は、この頃の臼田坂あたりを魅力的に描写しています。 (大田区 web site)

大田区立郷土博物館は、大田区を中心とした人文科学系の博物館で、考古、歴史、民俗の各分野に関する資料を保存・展示しています。入館は無料です(特別展・企画展の観覧料については、お問い合わせください)。大田区 web site

特別展「大勾玉展-宝萊山古墳、東京都史跡指定70周年-」 をやっていた。200円だった。



常設展

■ バスに乗ってJR大森駅に行く。

歩道を自転車で走る警視庁警官を見た。

▼ まとめ  通過町

東京都大田区

鵜の木、南久が原、久が原、池上、中央、南馬込

 

 

 

 


新しい街でもぶどう記録;第411週

2022年10月01日 18時00分00秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第411週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週のキリ番

■ 今週のまぬけ:フィッシング詐欺にひっかかった

フィッシング詐欺にひっかかった。銀行の各種情報を提供してしまい、盗られた。1時間で気づいて、パスワードを変更した。おカネは引き出されていない。銀行に電話(フリーダイアル)したが、通じなかった。2日後、電話が通じて、口座を凍結した。

経緯はメールが来て(今から見れば詐欺メール)、確認更新しないと取引制限となるとの注意。リンク先に飛ぶ。今見ても本物のサイトと全く同じ偽サイト。ただし、URLがひとめでペテンとわかる。その時は、「確認更新しないと取引制限となる」とあせっていたので、注意が至らなかった。さらに、日ごろ、この銀行のネットバンキングが使っていないので、慣れていなかった。各種情報を入力画面に従い、記入してしまう。今思えば、そういう情報を銀行は聞くことはないとのこと。

結果的には、提供した情報に誤りがあり、犯行グループは詐欺行為に利用できなかったらしい。おいらが慣れていなかったので、間違った情報を入力した。

今から思うと、おいらが、まぬけである。その時、思い込んでしまい、サイトへの情報入力に集中してしまった。詐欺だと気づいた理由は、普通こういう入力作業をすると間違うことが多く、1度で受理されることがない。それなのに、すっと受理された。そのすっと受理されたことが、通常ないことなので、あっ!と気づいた。

■ 今週の初物

愛媛産、「いちばんなり えひめみかん」。15kg、2380円。青緑色だけど、とても甘い。

■ 今週の朝日、岩波、あるいは(もらってない)香典の返し?

 

【ノーカット動画】菅前首相の弔辞 安倍晋三元首相の国葬で

朝日新聞社はYouTubeで菅前首相の弔辞をノーカットで伝え、その弔辞で言及されていた岩波書店の『山縣有朋』が重版。言及された文章は下記;

枢密院議長に就任後、伊藤は日露間の国交調整を推進したいとの希望を抱いてこの年10月ロシアに向かって出発したが、ハルビンではからずも韓国独立運動に関係ある朝鮮人の手で射殺された。山縣はこの凶報に接して、驚愕するとともに、松下村塾の昔以来50年にわたる交友の跡を回想し、また過去の日の伊藤とのかずかずの政治的交渉を思いうかべて、感慨に沈んだ。「かたりあひて尽くしし人は先だちぬ今より後の世をいかにせむ」。これは伊藤の死を悼んだ彼の歌である。彼はまた身近なひとびとに、伊藤という人間はどこまでも幸運な人間だった。死所をえた点においては自分は武人として羨ましく思う、とも述懐した。(岡義武、『山縣有朋』、六 「元老政治」の中で)

■ 今週の50年

上記で、山縣有朋が伊藤博文との50年のつきあいを回顧しているが、こちらも50年;

毛沢東が、田中角栄におそらく復刻和綴じの『楚辞集注』を贈った (愚記事

■ 今週の広告、JR大井町駅ホーム

大井町駅ホームに行ったので、探して、撮った。

文春オンライン:「普通なんですが…」ネットを騒がせる“眼科の愛新覚羅先生”が明かす、やっぱり凄い“わが半生”

■ 初めて乗った路線、初めて降りた駅

東急多摩川線、鵜の木駅

■ 今週の昭和の成仏のために

昭和のくらし博物館(web site) 昭和26年建設。内部は撮影禁止なので、画像は挙げられない。


昭和のくらし博物館(しょうわのくらしはくぶつかん)は、東京都大田区に位置する昭和時代の庶民のくらしを展示する博物館である。

元々、東京都の建築技師だった小泉孝が建てた自宅を、孝の長女で生活史研究家の小泉和子(元京都女子大学教授)が、昭和時代(特に戦後、昭和20〜30年代)の庶民の暮らしを後世まで伝える目的で、博物館として、1999年(平成11年)2月28日から公開している。

住宅の間取りをそのまま残した館内の構成になっている。常設展では小泉家が過ごした住宅風景がそのまま残っている。2階建ての建物で、1階は書斎兼応接間、お茶の間、台所、座敷。2階は子供部屋,企画展示室,次女の知代に関する記念室,談話室からなっている。wikipedia

■ 今週の見切り品

春日局が丹波の出だとは知らなかった。丹波市観光協会: 春日局出生地と黒井城跡歴史コース

■ 今週の別れ

20年あまり乗った自転車を交換。新たに購入し、旧車は引き取ってもらった。

修理してでも乗り続けたかったが、新たにホイール交換が必要となり、それが1万円なのだという。新車は2万円。買い換えた。

在りし日の、この自転車(愚記事

■ 今週の初めて行ったファミレス@すかいらーくグループ系

<荊の簪を挿した御方>は、すかいらーくグループの株主さまだ。すかいらーくグループのひとつ、chawanに初めて行った。株主優待券で、抹茶パンケーキのフルーツサンドホイップタワーを奢ってもらった。

■ 今週の些細な誤解の指摘、あるいは、共通する誤解・勘違い・記憶違い

先週も言及した大江健三郎、『定義集』に些細なことを見つけた。この文章は「新しく小説を書き始める人に 3」という小説の書き方指南的なもの。

 あらためて感じたのは、とくに小説を書き始めた頃私がやっていたのは、日々の具体的な憎悪やら悲哀やらを(自己批評のユーモアもあるけれど)記憶にきざむためだったことです。
 敗戦の数日後、村に来た占領軍のジープの通訳の話(のちに「不意の唖(おし)」に書き直したもの)。横須賀の知人に聞いた、バスに乗り込んで弱気の青年をイタブル、楽しげな米兵たちの話(しばらくして「人間の羊」としました)。

論旨とははずれ、大江の記憶として「敗戦の数日後、村に来た占領軍のジープ」とある。これは史実ではない。そもそも、米軍が東京に進駐したのは9月8日 [1]。マッカーサーが厚木に降り立ったのが8月30日。特殊な先遣隊の日本上陸はまれ[2]。ミズーリ号での調印式が9月2日。

[1] 関連愚記事;1945年9月8日横浜(⇒東京)に進駐する米軍を米英旗で迎えるがきんちょたち

進駐軍による日本全国への兵力展開は極めて迅速に行われ、9月末にはほぼ内地進駐を終え、10月には北海道の進駐(旭川・10月6日)を完了した。最も遅いのは松山で、10月22日である (引用元

つまり、大江健三郎が暮らしていた愛媛は日本で一番遅く「占領軍のジープ」が来たのだ。したがって、「敗戦の数日後、村に来た占領軍のジープ」というのは記憶違いである。

些細なことだ。でも、この記憶違いは西部邁と同じで興味深い。この米軍の進駐時期に関する記憶違いについて、おいらが確認したが2例目なので、興味深く思い記録した。