いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

他人の褌(ふんどし)を自分になじませた頃、あるいは、昭和12年の亡国兆候、そして、御真影

2015年03月29日 17時49分59秒 | 東京・横浜

皇国の荒廃までの40年(日本海海戦1905⇒東京大空襲1945); 愚記事: 皇国の荒廃この一帯にあり


この支那文字列をみよ! 我らがネトウヨ諸君!、訓めるかな?

(こうこく の こうはい この いっせん に あり)=支那人は「おばか」なので文を行ったり・来たりして書くのだ(???)

こうこく の こうはい この いっせん に あり=皇国興廃此一戦在、って書けばいいのにね(!!!???)

孔子さまも、「おばか」なので、すべからく、こういう調子なのだ。 やっぱり、ぬっぽんずんでよかった!!!???

先週、葉山(葉山館で開催されている「金山康喜のパリ -1950年代の日本人画家たち」)の後は、横須賀(愚記事群)に行った。 

とんねる抜ければそのままぁ~どんつきの三笠公園に行った。

横須賀に行くには、躊躇があった。 「豚と軍艦」(wiki)もまだ見てないし、基地外の米兵にどう対処してよいか準備が不十分だったからだ。

行ったさ、横須賀。

三笠公園への道の「どんつき」(関連愚記事)さ加減は微妙。完全なT字ではなかったよ。

昭和の成仏が主担当のおいらは、明治はよく知らない。

そして、知ったさ、戦艦三笠が、エ ゲ レ ス 製だって。 無知でごめんなさい。

日露戦争、日本海海戦って、「他人の褌(ふんどし)」でとったんだ。

知らなかったよ。

そして、やっと、小中学生の時、教科書に載っていた図の意味が、腑に落ちた。 なんて、知恵おくれなんでしょう!!!

9.11(関連愚記事; 昔、アラブの偉いお坊さんが; 愛と憎しみの扇動者 )を実施した「イスラム過激派」は、元々、1970年代末の、ソ連によるアフガニスタン侵攻への抵抗勢力して発祥したとされる。米国はじめ西側が支援したのだ。

おいらは覚えている。当時=ソ連のアフガニスタン侵攻がおきたとき、日本の勝共系「右翼」[google]&自民党は「アフガニスタンゲリラ」を日本に招待。根室に連れっていって、北方領土を視察させた。そして、「アフガニスタンゲリラ」にソ連は共通の敵だと言わせるパフォーマンスをしたのだ(おいらの記憶)。

その、「アフガニスタンゲリラ」の今に至る発展状態こそ、今となっては、米国からの視線では、「米国の敵」=「人類の敵」リストにのる悪党なのである。

話は簡単。米国に敵対するA悪党が出現する。そのA悪党を米国自ら成敗するよりは、そのA悪党と敵対するB組織を焚き付けて、A悪党にぶつける=たたかわせる。米英はそのB組織を経済的に、そして、武器援助、情報提供を通して支援する。

20世紀初頭の日露戦争とはそういう構図の典型である。この場合、米国は米英である。

そして、A悪党にB組織が勝った場合、B組織は増長する。さらには、自立心を高め、世界秩序の主流である米英に敵対しはじめる。

このB組織群こそ;

・大日本帝国
・イラン (パーレビ時代は米国が肩入れ、ホメイニ時代には米国の標的)
・イラク (イランをつぶすために米国が肩入れ[フセイン]、その後、フセインはクエート併合⇒「米国の敵」=「人類の敵」)
・アフガニスタン (ソ連侵攻時にはゲリラに米国が肩入れ→アルカイーダ→9.11⇒「米国の敵」=「人類の敵」)
など、など

である。

B組織群への「アメリアさま」からのコメントはこうだ;

ある晴れた朝、何千人もの米国人が奇襲で殺され、世界規模の戦争へと駆り立てられた。

その敵は自由を嫌い、米国や西欧諸国への怒りを心に抱き、大量殺人を生み出す自爆攻撃に走った。

▼ 戦艦三笠って、他人の褌(ふんどし)なのだ。つまり、米英国に敵対するA悪党が出現する。そのA悪党(ロシア)を米国自ら成敗するよりは、そのA悪党(ロシア)と敵対するB組織を焚き付けて、A悪党(ロシア)にぶつける=たたかわせるために、英国からカネを出して買った戦艦三笠は、他人の「褌(ふんどし)」ということだ。

その他人の「褌(ふんどし)」を自らになじませる責務が東郷平八郎にはあったのだ。

(関連愚記事; 1848年、この年、東郷平八郎や桂太郎が生まれている。このあと半世紀して、えげれす と組んで、ろすけ をやっつけたみなさまだ。

東郷平八郎は英国に学んだ。英語を使わなければいけなかったのであろう。そして、それ以前から支那文字列を訓めたのである。

この点を、我らがネトウヨはよーく押さえておこう! ぬっぽんごだけじゃ、だめなのよ!

そして、現在の戦艦三笠記念館にはひろひとさん、あきひとさん、なるひとさん、ふみひとさんなどが訪れたと展示はいう。

真珠湾を襲った戦艦やプリンスオブウエールズを沈めた一式陸攻を戦後日本人が復元をして、思い出してはいけないが、ロシア・バルチック艦隊を葬った戦艦三笠は復元して、思い出してよいということだ。この戦艦三笠の復元には米海軍が協力(主導?)したと展示は言っている。戦後日本とはそういう時代なのだ。 

忘れたことと忘れさせられたこと!

■ 昭和12年の亡国兆候

米英蘭支に宣戦布告する前に、その戦争は負けるであろう兆候が、この戦艦三笠の展示には示されている;

 

大砲にお札を貼ったり、氏神様に祈ったりすることに、現(うつつ)を抜かしていたのだ!

残念だな、昭和時代の大日本帝国。

■ そして、御真影

「豚と軍艦」で豚が疾走したであろう通りの八百屋を覗いた;

御真影があった;

声を力に。

■ ありがとう! 戦後日本! 平成日本! 石油、民主、自由、アメリカ万歳! 

でも、おいらが知っているのはあきひとさんのホーリーネームだけだ。 純一郎さんや進次郎さんのホーリーネームを知らないのだ。

■小泉前首相は米国大統領に対し、対米戦争中の日本は軍部の独裁であり、その日帝陸海軍を壊滅した米国は「解放」勢力である、との意を表明した。

一方、ブッシュ大統領やネオコンは、軍国日本を「解放」し、民主化したことこそ、今度のイラク「解放」戦争の理念なのだと表明してきた。
愚記事

● そして、最後に; 久松五勇士 

 


他人の褌(ふんどし)を自分になじませた頃 ②

 

 

 

 


新しい街でもぶどう記録;第22週目

2015年03月28日 18時47分26秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫

■ 今週の草木花

■ 今週の訃報


Google;シンガポール建国の父、元首相、リー・クアンユー死去

愚ブログの「リー・クアンユー」関連記事群

あの安倍ちゃん(愚記事;His Granpa!)をはじめ、シンガポール(愚ブログ「シンガポール」関連記事群)みたいな国になりたいと考えている人がいる。おいらはシンガポールは日本と対蹠的であると考える。

シンガポールは日本と対蹠的;

シンガポール= ひとりの皇帝=エリートが抜群の国
日本= エリートが、おばかな国(小森常務は「うー」とうなり声を上げながら号泣

(間違って来た18クンのために書くと、シンガポールというのは大英帝国のアジア「侵略」の拠点であり、その大英帝国の栄光に浴そうとしたチャイナ人=華人が移住してきて、大英帝国の文明的(英国人は結局のところ世界で最も偉大な人たちだったのである!)手先となり、経済的繁栄のために活躍した。)

シンガポールは、全く、日本とは違う文明である。よきにせよ、わるきにせよ、である。やはり、ぬっぽんの「上等正規構成員」は(農業従事者という意味での)ヒャクショーを中心とする庶民である。『なぜ我々は田舎にとどまるのか?』 [google] を読まずしてのローカリスト ファシスト である。

シンガポールというのはお金を求める流れ者どもの集積地ではないか!とローカリストは考えているのだ。

なにより日本は自生的社会 (自生的秩序) [google]である。死ぬ時だって事前に詩の準備が必要だ(辞世的社会!)。一方、シンガポールは a fabricated nationである。

「グローバル"エリート"」なんて、うさんくさいと無意識に考えているのだ。 もう帰ってくるな!タムコー、といっているのだ???

■ おいらは、リー・クアンユーさんには関心があった。その関心は上記愚記事に書いてある。大日本帝国のシンガポール陥落に立ち会い、その後、昭和天皇にも会う。中国共産党の6・4天安門事件を支持し、最近は習近平の指南役であったとの未確認情報もある。

なお、リー・クアンユー(李光耀)さんとあの台湾の李登輝さんは、同じ 李 さんの、同じ1923年生まれということを指摘しているネット情報は愚記事(1923年生まれの李さん二人、あるいは支那滅裂)だけだはないかと、秘かに、自負しているのではあるが...。

なお、今日調べて得た情報;志賀直哉の文章「シンガポール陥落」は『志賀直哉全集』全15巻・別巻1巻(岩波書店、1973.5~1984.7)の第7巻にはいっている(情報源)(「シンガポール陥落」関連愚記事群)。

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仙台参り 【2015】 昭和の生き仏のために

2015年03月26日 19時47分47秒 | 仙台・竹雀・政宗

2015年3月13日(金)、宮城県美術館で開催の「針生一郎と戦後美術」を見物するため、おいらはJR仙台駅から歩いて仲の瀬橋を渡った。その日、新幹線から見た仙台は雪がちらついていた。

歩いて宮城県美術館に行く前に、まずは、センチメンタルジャーニーだ。旧仙台八重洲書房跡地をお参りした、昭和の成仏のために。

(仙台)八重洲書房;伝説の本屋だ。 なお、なぜ(仙台)八重洲書房と表記するかというと、東京駅八重洲口の大型書店の八重洲ブックセンターと区別するためである。両者は関係ない=支店ではない。ググるとこうなる⇒ Google[仙台八重洲書房]。

おいらが仙台に来る頃だっただろう、ビートたけしがラジオで、「おまえたちは、おいらと同時代を過ごしただけでも、ありがたいと思わないといけない!」と言っていた。その超自大=事大主義的発言には少し驚いた。歴史に出会っている時、そのことは分からないのである。そして、おいらは、今となっては、 あの仙台八重洲書房に行ったことがあるということが「歴史」に立ち会っていたのだ!と思わざるを得ない。

まだ、本屋が情報メディアとしての意味があった時代のことだ。昭和末期だ。

おいらが仙台に来てまもなく、仙台でもバブル期となり、仙台八重洲書房は仙台ビブレ地下に移転した。売り場面積も増大した。

■ 仲の瀬橋

仲の瀬橋は広瀬川を跨ぐが、同時に河岸の低地の河岸段丘面をも跨ぐのである。 この道を真直ぐいけばこの風景に出合た。でも、おいらは、橋を渡ったあと180度反転し、坂を下った。なぜなら、センチメンタルジャーニー的猫のパトロールをしなければいけないからだ。

仲の瀬橋を渡って、振り返った風景。仲の瀬橋が跨いだ、低い土地:そこにはちゃんと街がある:。

低い土地の街はよく昭和を保存している。

昭和の食堂;養ちゃん食堂:Google[養ちゃん食堂]。少なくとも30年前はあった。

おいらは「昭和の成仏のために」シリーズをやっている。

でも、今日は、生き仏を参拝だ。 昭和の生き仏のために!

 

半チャン&ラーメン ¥750

 

ごめんなさいね、おいら見ちゃったの。養ちゃん食堂のどんぶり。店の電話番号が昭和の桁で書いてある。

■ 昭和の生き仏のために; 仙台川内、高林

灯油を買いに来た青年。

30年前おいらは上記養ちゃん食堂に行ったのは1回あるかないかである。記憶はおぼろげにあるのだが、はっきりしない。当時のおいらは、その後もずっと、自炊派である。外食で750円っも使うなどとは信じられない。なぜなら、もし700円もあれば、豚肉が700g買えるのである。エンドーチェーンに行けばいいのだ(今2015年じゃ、ないらしい)。700gは食いきれない。

そんなおいらが当時、卵を1個1個買っていたのが、養ちゃん食堂の斜め前にあった、そして今もある、高林だ。高林はたまごをバラ売りしていた。当時の贅沢の臨界は「三つ葉」を買えるかどうかだった。卵は1個10円で買えたが、三つ葉10円分は売ってくれなかった。みつばは足が早く、ひとり暮らしの食材には不向き。これは冷蔵庫の問題とは関係ない(今では術が発達しているらしい⇒便利★三つ葉を冷凍保存 つくったよレポート)。三つ葉はいい。たまご丼に三つ葉かかしわか、と選択を迫られたら、おいらは、三つ葉。たまご丼への三つ葉の有無が贅沢の臨界だった。

その高林へは灯油を買いにきた。ポリタンクを持って。そんな30年前の”おいら”を見た。

30年変わらない仲の瀬橋下の風景を確認した。

 

 


仙台参り 【2015】 雨宮地区;「無用の用」は、220億円にて落札

2015年03月22日 19時35分48秒 | 仙台・竹雀・政宗

極私的記録です。 (愚記事;ものすごい地域限定、トリビアです。すみません)に続く、トリビアです、重ね重ね、すみません。

1年ほど前こういうニュースを見た;


http://www.nikkei.com/article/DGXNASFB31059_R30C14A1L01000/

なくなるのか、雨宮地区と思った。今回は最後のお参りに行った。


雨宮地区; 無用の用 for sale ! (画像はnet上のパクリもの)

別に、おいらは、雨宮地区にゆかりがあるわけではない。約30年前、散歩で数回行った。わずかな回数なのに妙に記憶に残っていることがあった。それは構内に仏像があったことである。ネット時代の今となってはググればすぐわかることである[google: 粟野仏像]。しかし、30年あまり前の情報検索環境は、自分が想起した好奇心をすぐ調べるわけにはいかなかったのだ。

その雨宮地区が売却され商業用モールになるというので、最後の見物に行った。これは、猫のパトロールみたいなもので、昔の散歩(しかも数回)の道をパトロールしたのだ。当時、おいらは、上地図の「宮城県美術館」(今回の仙台参り 2015の第一目的である針生一郎・展の開催場所)から500メートルほど離れた場所に下宿していた。つまりは、おいらの下宿とその雨宮地区は広瀬川を挟んで、対岸にあった。広瀬川を跨ぐ澱み橋を渡り、雨宮地区にも散歩へ行った。その当時、雨宮は、散歩コースとしては結構遠く、おいらの当時の散歩の極大位置だ。なお、仙台に来た当初、この辺の地名である「柏木」とか「堤通雨宮」とかいう街の名前に興奮したものである。

なぜならおいらの本籍のある都市は何条何丁目という野暮な住所で街を示していたからだ。さらには、その札幌もその名前が大和言葉ではない(札幌=アイヌ語で、サッポロ=乾いた広い土地)。同様に、おいらが育った札幌市内の郊外の街の名もアイヌ語に由来した。その音に支那文字を充てたものであり、大和言葉には無縁だった。つまりは、sauvegecivilizationの極端なはざまにいたのだ。そして、大和=日本主流派には縁遠かったのだ。

これはネタでも冗談でもなく、おいらは、「柏木」とか「堤通雨宮」とかみて、あ~内地に来たんだ!と思った。なお、その頃は(仙台での)バブル前夜であり、仙台では「インテリジェントコスモス構想」[google]なる野暮なプロジェクトが始まったらしい頃だ。一方、街かどの選挙ポスターには、「風情のある仙台を守ろう!」の旨を主張するものがあった。それは、日本共産党のポスターであった。風情派ではあるが、根っからの反アカ主義者であるおいらは今でも印象に残っている。

約30年前においらが見たのは、これだ。 来年にはショッピング・モールのために、立ち退き。

・説明賢記事;すぐ傍らが交通量の多い北六番町の通りにも関わらず、ヒマラヤシーダと黒松の混在する一角のそこだけは静寂な空間を形成しているのである。

この並木@「無用の用」も、商業施設のために...


農学部正門を入り直ぐ右手に木造の門衛所がある。この建物は旧制第二高等学校が、開校(明治20年)の地片平丁から移転してきた大正14年当時のままである。また、キャンパスの赤レンガの塀も当時のものである。  旧制二高は昭和20年7月の空襲で校舎の大半を焼失し、9月に三神峯の幼年学校に引っ越している。旧制二高北六記念苑

雨宮地区での、おいらが関心のあるのは、1944年夏、サイパン島陥落を受けて、第二高等学校の生徒たちが集会を開いた史実である。どの建物で、誰が出席したのか、史料は失われるばかりである。そして、史料が失われることを望む人々がいるのだ。すなはち、サイパン島陥落を受けて、第二高等学校の生徒の集会に出席したが、その後、大日本帝国の瓦解を経て、アメリカ文明に支配された日本戦後体制に迎合し、栄誉出立した旧第二高等学校生徒たちである。

永井陽之助とわたしは、戦争中の旧制二高文化乙類の同級生で、しかも二人だけ結核のため留年し、学徒出陣も工場動員もまぬがたがれた。サイパン島玉砕のと き、全校決起集会があると聞いて、療養中のわたしが出かけると永井もきており、二人あいついで発言する破目になった。もっとも、当時永井はハウスホー ファーなど の地政学に共鳴し、わたしは日本浪漫派に傾倒していたから、どちらも右翼的にしろ発言内容は対照的だった。あれから四十年余すぎて、二人の立場は大きくか け離れたともみえるが、どちらも本質は変わらず、あの夜の発言の差異を拡大してきただけかもしれない。わたし自身をふりかえると、「近代の超克」という課 題が、みはてぬ夢のように一貫しているのに気づく。愚記事

▼まとめ; そういえば、雨宮って、アメリカに訓が似ているではないか!!!???

永井陽之助; キャッチフレーズ= 吉田ドクトリンは永遠なり! [関連愚記事群]

(関連愚記事;閻魔帳より


新しい街でもぶどう記録;第21週目

2015年03月21日 18時09分55秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫

■ 今週の海

武相境斜面を下りて、海へ行った。葉山だ。

田舎者のおいらは、「葉山」って、サン・セバスチャン(スペイン)[google画像]みたいところを想像していた。

違った。

実際行ってみたら、昭和の雰囲気の色濃い、さびれた、薄汚い海辺の街だった。

おいらの脳内の「葉山」が間違っていたのだ。でも、そのイメージは世の中からのinputによるのだが。

■ 今週の経済学徒の絵

 
 

金山康喜さんの本はAmazonで検索すると、『資本主義』という翻訳本がある。白水社のクセジュって敗戦後まもなくあったんだ。文庫として。今は新書として、あるが(後記;間違い。新書版のこのシリーズは【文庫クセジュ】なのだ. 金山訳の『資本主義』もサイズは新書版のように見える)。

金山康喜(1926-1959)は、1951年に経済学を学ぶために留学したフランスで、以前から惹かれていた絵画制作にのめりこんでいきました。具象、半具象、抽象といったさまざまな画風が熱気を帯びて展開しつつあった。(展覧会の説明より)

金山は猪熊スクール(田園調布純粋美術研究室:google)だったらしい。

神奈川県立近代美術館 葉山館で開催されている「金山康喜のパリ -1950年代の日本人画家たち」で見られる。明日まで。

金山康喜さんの作品とともに、金山康喜さんとパリでゆかりのあった作家さんの作品群が展示されている。

ここ「昭和の色濃い、さびれた海辺の街」を実際に見て、なぜ彼らがそんなにパリで描きたかったかわかった。

Good, job!  神奈川県立近代美術館 葉山館でのぬっぽんずん・パリ派の作品展示会。

 


神奈川県立近代美術館 葉山

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東京サリン事件20年;当時オウム信者からもらったビラ

2015年03月20日 19時25分23秒 | 日本事情

2011年3月20日の愚記事より;

今日はオウム真理教による地下鉄サリン事件から16年目の日。今日のネタとして当時のオウムの新聞ビラの画像を載せるつもりでいた。それは16年前、大山山麓から都内に行ったときにJR駅前でオウム信者からもらったもの。

4年前の震災の時、一時行方不明であったオウムのビラが出て来たので、載せる。

このビラは東京地下鉄サリン事件の8日後の1995年3月28日夜にJR新宿駅で若いオウム真理教の女性信者から受け取ったもの。彼女は白い「オウム服」を着ていた。その時、おいら以外にビラを受けとった人を見なかった。山陰の山奥から東京に出て来たおいらはメディアでしか見たことがなかった白い「オウム服」のナマオウム信者を見て、心沸き立ったに違いない。

サリン事件から20年ということで、オウムも過去へと押しやられるのだろう。現在30歳以下の人、いやおそらく35歳以下の人は、オウム真理教の事件・騒動の意味を理解していない、理解できないのであろう。自分が意識を持つ前だから。これは、おいらが1970年頃の大学紛争や新左翼騒動の実感がないことと同じだ。おいらは、終日テレビで中継されていたという浅間山荘事件の記憶もない。もっとも札幌オリンピックの開会式の記憶はあるのだが。

オウム真理教も「歴史」となっていくのであるが、このオウム騒動は歴史認識にも貢献している。歴史というのはのちの出来事で解釈しなおされることがしばしばある。ある歴史的出来事がのちの歴史的出来事を経た経験で、再構成されのである。

 ■ 1952年の白鳥事件からみたオウム真理教治安騒乱事件

抽象的なもの言いとなったが、下記が事例である。その前に数週間前からおいらは1952年におきた白鳥事件についての詳細を少し知った(愚記事;白鳥事件の容疑者たちのその後;後藤篤志、『亡命者』、あるいは北極熊の行方)。白鳥事件とは、三菱重工爆破事件→浅間山荘事件→70年あたりの大学紛争→60年安保騒動、より昔の日本共産党が中核自衛隊だの山村工作隊だのを組織して非公然として武力闘争を志向していた時代の事件である。その中核自衛隊だの山村工作隊だのにいた人の3年前の発言;

この組織でのすべては自己判断の停止となにものかへの帰依から始まった。私は連合赤軍の諸兵士やオウムの信者諸君との帰依の対象が違うといってみずからを区別する気はない。大石進、「白鳥事件私記」、『シンポジウム・歴史としての白鳥事件』小樽商科大学、商学検討(2013), 64(2/3):3-95より:ネット上で見れます)

敗戦後間もない、日本共産党の中核自衛隊だの山村工作隊だの帰依の対象だったのだ。

なにより、現在、80歳を超えたであろう元日本共産党中核自衛隊員は自らの経験を「オウム」の物語で説明しているのである。

日本においてカルト集団はいつもあって、少なからずの青年たちが参加し、他人を傷つけ、社会を騒擾し、そして自分の人生を棒に振るのである。

【白鳥原則の復讐】

 さて、下記のビラにもあるように、オウム真理教の言い分は、冤罪であり、国家権力の陰謀・謀略説である。こんなことでオウムのビラは当時の日本人に説得力を持ったのだろうか!?と今の一八君は思うかもしれない。おいらは、答える。結構、ある意味、説得力を持ったのだよ、と。20年前の東京地下鉄サリン事件のおいらの周辺の気分は以前に書いた(2007/3/20の愚記事);

■ 今では信じられないかもしれないが、その日、あの毒ガス大量死をオウムのしわざと断言することに躊躇しな かった普通の人は、印象として1割以下。3割がオウムかな?という勢力。そして、一番の多数派は、誰がやったか?ということではなく、オウムなる新興宗教 団体を容疑者扱いしていいのか!?冤罪ではないのか!?ちゃんと、オウムの言い分を聞け!というものであった。これが3-4割かな。そもそもみんなオウム をよく知らない。

白鳥事件とその後の展開の話を知って、今、改めて考えるに、20世紀末まで日本は「白鳥原則」=疑わしきは(被告人/容疑者)の利益に!という風潮が社会を縛り付けていたのである。そして、「日本共産党の地方幹部である村上国治が、白鳥事件において「公安」警察を射殺した首謀者である」というのは警察のでっち上げであり、冤罪である。むしろ、白鳥警部を射殺したのは国家権力あるいは占領米軍であるという説である。流布していたのは松本清張だ。「日本の黒い霧」。国家権力のでっち上げの目的は日本共産党の撲滅である!、と松本清張は主張していたのだ。

そういう気分(国家権力が政治結社や宗教団体を謀略で壊滅する)が1990年代において、むしろ無意識に反政府的、もっと直截にいうと自民党が嫌いで米国も嫌いで現世で権力を握り損ねたある種の"インテリ"に信じられていたのだ。端的に言って松本清張の日本の黒い霧的社会観の持ち主たち。

 皮肉なことに、【白鳥原則の復讐】を受けたのが自由法曹団の坂本弁護士一家である。この事件は、警察により事件化されなかった。理由のひとつが、疑わしきは(被告人/容疑者)の利益に!【白鳥原則】である。物証により立証できる目途が立たなかったことと、組織犯罪への対応の難しさ。そして、その組織犯罪への対応の難しさは、「白鳥原則」=疑わしきは(被告人/容疑者)の利益に!に基づく警察捜査への牽制にある。


仙台参り 【2015】 野蒜海岸

2015年03月18日 19時39分05秒 | 仙台・竹雀・政宗


四半世紀前と変わらない風景の野蒜海岸


「岡に上がった松島」
==日本三景の松島というのはこういうのが海に沈んで頭を出している状態なのだ。

この前の週末に仙台に行ったとき、野蒜海岸にいった。

おいらが、四半世紀前、ある事情で、ひと夏、毎日のように通った場所だ。

野蒜海岸は東松島市にある。仙台と石巻の間にある。日本三景の松島も仙台と石巻の間にあるが、この野蒜海岸は石巻側にある。奥松島とよばれる。松島の人ごみを避けたい通ぶった本当の俗物のおいらにふさわしい場所だ。


がれきの処分場となったらしい野蒜海岸は、がれきの山をきれいに整形していた。

誰もおらんかった。


JR(旧)野蒜駅; 仙石線は復旧開業するが、野蒜駅の場所は山沿いに引っ込むそうだ。

【産経新聞】運命の2時46分発 駅で交差した「生と死」 JR仙石線野蒜駅

愚ブログに現れたる2004年の野蒜海岸付近
愚ブログに現れたる2006年の野蒜海岸
愚ブログに現れたる2006年の野蒜海岸付近
愚ブログに現れたる2011年夏の野蒜海岸
愚ブログに現れたる2011年夏の野蒜海岸付近

 


仙台参り 【2015】 宮城県立美術館 『わが愛憎の画家たち; 針生一郎と戦後美術 』

2015年03月15日 12時03分39秒 | 仙台・竹雀・政宗

週末は仙台に行った。宮城県立美術館で催されている『わが愛憎の画家たち; 針生一郎と戦後美術 』を見物に行くためだ。宮城県立美術館に行くのは6年ぶりである。その時は『州之内コレクション展』だった(愚記事;2009/6/7)。両展示企画に共通なことは、州之内徹も針生一郎も作家さんではないことである。針生一郎は展覧会主催者によればこうである;

仙台市出身の針生一郎(1925-2010)は、文芸評論から出発しましたが、1950年代に刊行された雑誌『美術批評』に芸術論や展覧会評を寄稿して注 目され、中原佑介、東野芳明とともに“美術評論の御三家” と呼ばれる存在となりました。戦後、美術が自律した芸術表現として純粋性の追求に向かう潮流の中で、針生は一貫して「社会と人間」という視点をもって、作 家たちの表現行為と作品を批評してきました。そして、行動する評論家として、晩年までさまざまな文化運動にも関わり続けました。
現実を見据え、そ こに前衛としての芸術家の在り方と創作の意義を問い続けた針生の思想と活動は、敗戦から今日に至る日本の美術史に、ひとつの地下水脈を形成してきたといえ ましょう。この展覧会では、主に1950~70年代に針生が関わった芸術運動や展覧会に焦点をあて、著書『わが愛憎の画家たち』などで論評した作家と作品 を紹介し、ひとりの評論家の視線を通して戦後美術史を再読します。 (宮城県立美術館 web site

なぜ、おいらが行ったかというと、針生一郎について興味があったからだ。今の時点でも、おいらは、針生一郎についてよく知らないのだが、現時点での認識に到った経緯は次のようなものである。

おいらが「針生一郎」を知ったのは、1980年代中頃、自民党・中曽根政権が300議席取った頃だ(関連愚記事;私もあなたもニューライトよ)。その時、彼の文章とその内容だけが記憶に残り、「針生一郎」という名前やどういう人かということに頭が回らなかった。興味、関心がなかったのだろう。たとえ話でいうと、好みの絵画作品を知ったとき、その絵のイメージだけが強烈に脳内に焼き付けられたが、その作家さんの名前を知らずにいたようなものだ。その「針生一郎」の文章というのは、今から見れば、1985年の『二十世紀の遺産』(永井陽之助 編)という30人あまりの永井と交友のある"著名"学者(ほとんどが保守系・穏健の有名だが普通の=全然危険でない学者)の寄与小論文から構成された624ページに及ぶやや厚い本である。その中で高等学校時代(旧制)の思い出を書いたのが「針生一郎」で、1944年夏、サイパン島陥落を受けて、第二高等学校の生徒が集会を開く話を書いていた;

永井陽之助とわたしは、戦争中の旧制二高文化乙類の同級生で、しかも二人だけ結核のため留年し、学徒出陣も工場動員もまぬがれた。サイパン島玉砕のとき、全校決起集会があると聞いて、療養中のわたしが出かけると永井もきており、二人あいついで発言する破目になった。もっとも、当時永井はハウスホーファーなど の地政学に共鳴し、わたしは日本浪漫派に傾倒していたから、どちらも右翼的にしろ発言内容は対照的だった。あれから四十年余すぎて、二人の立場は大きくか け離れたともみえるが、どちらも本質は変わらず、あの夜の発言の差異を拡大してきただけかもしれない。わたし自身をふりかえると、「近代の超克」という課 題が、みはてぬ夢のように一貫しているのに気づく。

 敗戦直前の日本えすだぶりっしゅめんと・「エリート」養成現場の生々しい実状をこのように書いた文章を見たこともなかったので強烈に記憶に残った (この話では愚ブログで何度もしていて、繰り返しで恐縮ではある; 愚記事 )。

当時でも今でも戦時下の帝大生や(旧制)高校生は戦争に巻き込まれ、不本意にも戦争に駆り出された本当はinnocentな犠牲者のごとき認識が定着しつづけている。そんなのは嘘っぱちで、戦争が対岸の火事こ頃は観念的に政府の流布するお題目を礼賛し銃後でのんびり暮らし自分の栄達を夢想し、戦況の悪化で、本当に鉄砲を担いで、戦場に行かねばならぬときは、唯々諾々と従ったのだ。つまりは、お調子者であり木偶の坊であったということだ。その点、この「針生一郎」の作品はすごい!。ちゃんと、ウヨ人生を表現している。

そうなら、なぜ当時のおいらは、自分のウヨ性のモデルになりうる「針生一郎」を探さなかったのか?という疑問が今の若い人からはおきるかもしれない。言い訳すると、当時はネットというものもなく、書物としても「針生一郎」を探すには、本屋にある「全書誌録」(みたいな名称)というもので、その人の著作を知り、内容を全く分からない状態で本を注文する、という作業方法しかなかったのである。昭和末期の事情である。さらには、自分のウヨ性のモデルは、既に、江藤淳や西部邁がおり、good enough!だったのだ。(後日加筆;[20世紀末の]江藤淳や西部邁って右翼ではないわな。修正追記すると、その頃おいらは大川周明、葦津珍彦も読んでいた。でも葦津珍彦が神格化する"西郷隆盛"は嫌いだし、今も理解できない。つまりは、おいらは近代ウヨ=俗流ウヨなのだ。ネトウヨにふさわしいではないか!)

敗戦時の針生一郎の「国粋」=「日帝への絶対忠誠」ぶりはすごい。もっとも、その根拠はすべて本人の供述に基づくもである。その回顧が作品としてすごい。針生一郎の本人の述懐によれば、敗戦の玉音放送を聞いたあとも敗戦を受容できす、恩師の陸軍にいた元教え子が飛行機を無断で操縦して、仙台に来た。ポツダム宣言受諾をひっくりかえそうという謀議を3日間したのだという。

さらにすごいエピソードがある。敗戦に先立つ7月の仙台空襲で第二高等学校の奉安殿が焼失した。B-29にやられたのだ。その時、針生一郎は奉安殿焼失の責任を追及して校長である阿刀田令造(阿刀田高の伯父)の「官舎に行って、御真影を焼いたのはあなたの責任だから、僕らが見ているから目の前で切腹しなさいって言」ったという(ソース;針生一郎オーラル・ヒストリー)のだ。

針生一郎は1925年生まれ。敗戦時、はたちである。はたちと言えば戦争で一番「活躍」する年代であり、事実、あの戦争では1925年生まれがたくさん死んだのであろう。針生一郎は結核で戦争に行かず、死ななかった。保田與重朗に耽溺した観念右翼であったのにである。つまりは、"死に損ない"である。その点、三島由紀夫と似ている。

そして、そういう「右翼」的言動の原因を下記のように晩年は回顧している;

戦争中何故右翼になったかというと。僕は結核で休学してしまった。学徒出陣の世代なんだけども、徴兵検査で僕だけ徴兵管区で丙種になった。第一乙、第二乙 くらいまでは、徴兵召集令状が来ることがあるんだけども、丙種というのはほとんど兵役をまぬがれちゃうんだ。それが戦争中は非常に負い目で、コンプレック スだった。だから療養中雑読して、その中で、ときのオピニオンリーダーだった保田與重郎に一番傾倒した。だから非常に神道的な純粋右翼だった。

(時は流れ、昭和も終わり、21世紀となった)

再見! 針生一郎

そして、元来純粋な「針生一郎」に、おいらが「再会」したのが、既に昭和も終わり、かつ、遠くなりつつあった、21世紀に入ってのことである。21世紀の「ゼロ年代」(笑い)においらは文革(中国 文化大革命)に興味を持って、少し調べ始めた。そのなかで、文革を礼賛した日本人文化人を紹介した文章で、針生一郎に再会したのである。すなわち、文革時に支那に行き、その支那文革に感動した文化人のひとりに針生一郎がいると。なお、その時点で上記1944年夏のサイパン島陥落第二高等学校決起集会の思い出の作文者は針生一郎であると認識していた。

その文革を礼賛した日本人文化人を紹介した文章を読んだ時点で、「あ~やっちまったな、針生一郎」と直感した。確認のためおいらは、『針生一郎芸術論集 文化革命の方へ』(朝日新聞社 刊、1973年)を中古市場で買って読んだ。針生一郎は、「われわれにとって文化大革命とは何か」という文章を書いていた。これは、中国の文化大革命を見にいった見聞録である。同行は宇井純、鶴見良行、むのたけじ等。「われわれにとって文化大革命とは何か」の文章は中国共産党が書いた文章をもらったのではないかというくらいの全く批評性のない文章。例えば;

それにしても、わたしは中国革命の原点である延安を訪れて、抗日戦争のさなかに、この奥地でなしとげられた事業にほとんど圧倒された。一見退却ともみえる二年余の大長征を経て、八路軍がここにたどりついたのち、党と軍の根本的な再建をはじめ、開墾、農・工生産、解放区の自治、大衆工作、学習など、すべてが統一的におこなわれたのである。ハン・スーインの『毛沢東』によれば、中国革命は五・四運動以来、文化革命の性格をもっていたというが、延安時代には、今日にいたるすべての問題の原型がすでにふくまれていたのである。「文芸講話」の「文芸」が、文学や芸術だけでなく、歌舞、演劇、祭りなどをふくめた大衆工作の意味であることも、今度わたしははじめて知った。(針生一郎、『針生一郎芸術論集 文化革命の方へ』、「われわれにとって文化大革命とは何か」)

この無邪気、無批判に驚くことに加え、おいらが二重にびっくりしたのは、中国共産党に「新左翼」御一行さまと認定された針生らが「文化大革命」を見に行ったのが、1973年なのである。文革開始後既に7年。その出鱈目さや悲惨さが知られつつあった。何より、ニクソン訪中、角栄訪中の後、しかも日中国交回復の後だ。文化大革命は1966年に始まり、1968年にはひとだんらくしていた。文化大革命は毛沢東の死まで10年という長期にわたりなされた。でも、この1973年は四人組の跋扈に一般庶民は嫌気がさし、なにより政府機能がマヒし、国家存続が危うかったので、毛自身が「米帝」や「日帝」と手を組むことを決めた後の時代である。林彪事件は1971年である。こういう状況で、のこのこと「文化大革命」にしびれた"純粋な"針生は中国に行き、見聞録を書いたのだ。

そして、おいらは、針生が日帝や支那文革にしびれたのを、現時点の視点からみて、「スカばっかりひいていた針生一郎」と揶揄したいわけではない。むしろ逆で、 日帝や支那文革に無邪気に、正にその時代に実経験として、純粋に、心からしびれて、楽しそうだな、とうらやんでいるのである。

楽しそうな針生一郎の脳内イメージってこういうもの(愚記事より)だろう[画像α]↓ なぜなら、今回の展示主催者だってちゃんと「日の丸」で針生一郎を指標していることからも明らかである(画像β)。

   
 画像α                                      画像β

■ そして、展示そのもの; 展示会のお品書きが「アヴァンギャルドを見つめつづけた反骨の評論家の足跡」のアヴァンギャルドという視点からみれば、リアリズムを超えて真実を穿つアートを見続けたというこことか。そして、展示作品の作者の多くが20世紀初頭のシュールレアリズム、キュービズム、ロシア・アヴァンギャルドの影響を受けて戦前の時期に活動を始めたが、兵隊にとられ(出征し)、戦場の現場を知った作家(アーティスト)の戦中、戦後の作品が目立つ。


阿部合成、「見送る人々」
  
 山下菊二、「あけぼの村物語」;     「日本の敵米国の崩壊」 1943年制作!

山下菊二、 この絵が「日本の敵米国の崩壊」という直截なタイトルを持ち、それが1943年の制作と、おいらは知らなかった。大浦信行の針生紹介映像『日本心中』第2作目のDVDの表紙として、おいらが知ったのは、去年である。

●展示会場には4時間いた。 理由は展示会場で「図録は完売」との情報を知ったからだ。展示会場で大きな椅子があり、見本の図録がおいてあるでしょう。あれの表紙に、完売、と書いてあったのだ。展示会終了前に! なので、後で図録を見ればいいやということができなくなり、図録を読み、作品を再度確認していたら、4時間たった。もっとも、出口付近で流しっぱなしの針生の講演ビデオを見るのにも時間を要した。

● まとめ; 宮城県立美術館で催されている『わが愛憎の画家たち; 針生一郎と戦後美術 』の図録は開催終了前に売り切れていた!

 

 


新しい街でもぶどう記録;第20週目

2015年03月14日 21時05分59秒 | 草花野菜

■ 今週の草花

筑波山麓に比べ、ここ武相斜面地域は梅の木が少ない。
昨日朝、近所のお寺さんに行って、梅を拝み、その香をきかせていただく。

■ 今週の 看猫 見かけた猫 -仙台市青葉区広瀬川湖畔の街-



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