いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

小田原散歩:古稀庵(山縣有朋 庭園)⇒ 皆春荘 ⇒ 小田原城

2021年11月14日 16時38分56秒 | 国内出張・旅行

山縣有朋の三庭園は、椿山荘、無鄰菴、そして古稀庵。今年、春も無鄰菴に行ったが古稀庵は初めて。

山縣有朋の史跡探訪ブログ愚記事;

山縣有朋記念館 那須高原

京都・無鄰庵:1度目;2006年、2度目;2016年、3度目;2021年

1.箱根板橋駅、2.古希庵、3.皆春荘、4.老欅荘(ろうきょそう)、5.城山四丁目、6.小田原高校・相洋高校、7.東海道線跨橋、8.小田原城、9.旭丘高校付近、10.小田原駅

■ 1.箱根板橋駅、2.古希庵

 

古稀庵は山縣有朋終焉の地である。

古稀庵(こきあん)は、1907年(明治40年)に、神奈川県足柄下郡大窪村(現:神奈川県小田原市板橋)に建てられた、政治家・山縣有朋の別荘である。

神奈川県足柄下郡大窪村板橋の、南向きの傾斜地に立地。総面積約11,630平方メートルの中に、和風木造平屋建の本館、伊東忠太設計の木造二階建の洋館、ジョサイア・コンドル設計のレンガ造平屋建の洋館等の建物と、入口に茅葺屋根の門、面積約4,600平方メートルの庭園により構成されていたとされる。
古稀庵の庭園

特に庭園については、庭園好きの山縣がその築造に心血を注ぎ、日本古来の「山水回遊式庭園」の形式をあえて採らず、作風の主題を「自然」、とりわけ「水流」に求めた「自然主義的庭園」の形式を京都別邸・無鄰菴に続いて採ったとされる。その庭園は、高低差14.9mの間に上段の庭、中段の庭、下段の庭等といった形で構成され、その高低差を巧みに利用した流水や、洗頭瀑、聴潭泉といった滝を配したことが特徴として挙げられる。同じく山縣の所有であった東京・目白の椿山荘や、京都の無鄰菴と共に、近代日本庭園の傑作とする評価もある。wiki

■ 2.古希庵 ⇒ 3.皆春荘

皆春荘は、第23代内閣総理大臣の清浦奎吾(肥後出身)によって明治40年(1907年)に土地が購入され、清浦の別邸として建てられたものです。その後、大正3年(1914年)に南に隣接する古稀庵と総称される山縣有朋の別邸の別庵として編入されました。山縣の小田原別邸は、古稀庵のほか、皆春荘、暁亭により構成されていましたが、当時の場所に残る建物は皆春荘が唯一となっており、板橋地区の歴史的風致を構成する優れた意匠の数寄屋建築とされることから、平成28年(2016年)3月に本市の歴史的風致形成建造物に指定されました。なお、ほかの別邸は解体、市外へ移築されています。
主屋は、座敷棟、玄関、台所棟、離れ棟、納戸棟から成り、面皮付部材、絞り丸太、曲線を用いた垂壁等の数寄屋風建築の特徴を随所に見ることができます。
また、庭園はほかの邸宅と同様に山縣が自ら作庭を指揮したと伝えられる自然を重視したものとなっています。かつては、各部屋から相模湾や箱根山を借景とした眺望を楽しめました。さらに、庭園内に流水を設けるために水源として山縣水道を開き、庭園の北東より南西にかけてせせらぎを造っており、現在も形を残しています。 (出典:小田原市

■ 3.皆春荘 ⇒ 4.松永記念館/老欅荘(ろうきょそう)

■ 4.松永記念館 ⇒ 5.城山四丁目 ⇒6.小田原高校・相洋高校 ⇒7.東海道線跨橋

▼ 6.小田原高校・相洋高校

▼ 7.東海道線跨橋

■ 小田原城

▼ 天守閣からの眺望

■ 9.旭丘高校付近 ⇒ 10.小田原駅

■ まとめ

小田原市

板橋、城山、城内、栄町

 


車谷長吉、『赤目滝四十八瀧心中未遂』の風景、京都、柿傳

2021年10月15日 04時11分06秒 | 国内出張・旅行

先月、京都に行った。今年2回目。前回は、3月に行った。「車谷長吉の『赤目四十八瀧心中未遂』に今宮通り、小山花ノ木町が出てくるので、見物することにした」とある。今回は、柿傳をみにいった。

そこから歩いて西洞院丸太町上ル夷川町の、昔、下働きとしておいてもらっていた柿傳へ寄って見ようかと考えた。柿傳ではよくしてもらった。にも拘わらず、私はだし抜けに柿傳を上がった。上がった、というのは板場言葉で、辞めた、ということであるが、私はこれと言ういわれもなしに上がった。それを思うならば、私にはやはり顔出しのしにくいところだった。この「これと言ういわれもなしに。」という曖昧さが、私を決定する凶器のように、いつも私の中にぶらさがっていた。私はもうええ加減に自分を見放したいような気持で、また鴨川の方へ歩いていった。そして雨に降り込められた北山を見た。それから祇園町で「壱銭洋食。」を喰うてアマへ帰った。(車谷長吉、『赤目滝四十八瀧心中』)

車谷長吉は、『文士の魂・文士の生魑魅 [いきすだま]』で、『赤目滝四十八瀧心中未遂』について説明している;

この小説は私が経験したことの顛末を綴ったものではなく、九割九部が作り話であるが、併しそれでも私の心に膿のごとく溜まっている罪悪感が書かせたものだった。 (車谷長吉、『文士の魂・文士の生魑魅 』、「文学における悪」)

一方、

 昭和五十一年の秋、当時、京都柿傳の料理場で下働きをしていた私は、寂聴瀬戸内晴美さんに仲秋の名月の宴に招かれ、嵯峨野の寂庵へお邪魔したことがある。(車谷長吉、『文士の魂・文士の生魑魅 』、「伝記小説」)

とあるので、京都の柿傳で働いていたことは、九割九部でない残りの一部の事実であるらしい。

なお、『赤目滝四十八瀧心中未遂』の設定は、昭和53年、1978年である。

一方、『赤目滝四十八瀧心中未遂』の後の作品である『贋世捨人』には京都、柿傳について詳しく書いてある;

 三月十四日、私は風呂敷荷物一つで、京都へ出て行って、上京区西洞院丸太町上ル夷川町の柿傳に勤めた。柿傳は江戸時代は御所の天皇家の料理を作っていたが、明治維新で天皇が東京へ去ってからは、茶道の表千家不審庵の茶料理を務め、親ッさんの木村淳郎氏は九代目だった。店には客の座る席はなく、すべて出張り料理だった。客は、たとえば祇園のお茶屋なり寺なりに席を借りて、そこへ柿傳の料理人を呼んで、茶懐石料理を作らせ、また別に呼んである男の配膳さんに、厨から座敷まで料理を運ばせるのだった。配膳さんとは、京都独特の職能の人で、紋付き・袴に扇子を差して、客一人一人の食べ具合を測っていて、よい潮時に、料理を運んでいくのだった。無論、月々の不審庵での茶会にも、出張する。 (車谷長吉、『贋世捨人』)

柿傳(上京区西洞院丸太町上ル夷川町)と御所の位置関係を下の地図に示す;

柿傳は地図の左上、日本赤十字社京都第二病院の西(向かって左)にある。御所は地図右上

『贋世捨人』には、主人公、生島与一が東京での生活が破綻し実家に帰るも、居心地が悪く、料理屋などの「下働き」をする過程が描かれている。勤め先を転々とする。ただし、勤め先を変わる時は前の勤め先の人の口利き、指図で勤め先が決められると説明される。ただし、京都、柿傳へなぜ務めたのかは書いていない。

今週、『贋世捨人』を買ったのだが、自歴譜があった。初めてみた。下記、あった;

 昭和五十二年(三十二歳)三月、みかしほ調理学校を卒業。四月、京都上京区西洞院丸太町上ル夷川町の「柿傳」で料理場下働き。十月、神戸元町の「石翁」で料理場の下働き。(以下、略)

とある。柿傳に勤めていたのは事実なのだ。 

そして、この自譜をみて驚いたのが、車谷は調理師学校に通っていたのだ。この、学校に行ってなんとかしようとする発想を車谷はもっていたのだ。そして、そのことは小説には書かない。大学で文学を学び、作家として成功できなかった主人公を描いているが、調理師学校出て、料理場下働きの方が「不本位」度は高いはずだが。

『贋世捨人』で車谷は料理場で働く多数の登場人物を中卒だ、高卒だと示している。でも、職人なんだから学歴は関係ないだろうと思うのだが、車谷は書く。これは、職人に対しても学歴にこだわる主人公の偏見を描いているつもりということなのか。そもそも、「下働き」という認識がすごい。まずは、職に上下をつけて、「下」なのでやりましょうという発想が、その仕事をなめてる。だから、「贋世捨人」ということで、よく書けているというべきなのか。事実、『贋世捨人』には偉い人、有名人がたくさん出てくる。そういう偉い人、有名人との縁を書くことも俗物でいとおかしということか。

『赤目滝四十八瀧心中未遂』から四半世紀。車谷は調理師学校に通っていたと初めて知った。京都、柿傳へなぜ務めたのかは書いていないのは、柿傳は卒業した調理学校の伝手で紹介されたからではないか。 厭世者が学校に行って勤めましたでは話にならないからではないだろうか?


京都散歩; 銀閣寺-北白川

2021年10月03日 21時18分15秒 | 国内出張・旅行

京都旅行3日目は銀閣寺(慈照寺銀閣)と北白川を歩いた。北白川は駒井家を外から覗くのが目的。緊急事態宣言で公開していないのだ。

1、3;白川通今出川交叉点、2;銀閣寺、4;北白川郵便局、5;駒井家住宅、6;伊織町バス停

銀閣寺は京都の平野の縁の扇状地と山地に位置する。この地理的条件は先日の嵯峨野、春の修学院と類似している。この平地と斜面を利用して庭が造られている。

 
赤丸;銀閣寺、青丸;北白川、駒井家付近。黄色;扇状地、薄茶色;平野、薄黒紫;山地

■ 1、白川通今出川交叉点、⇒ 2;銀閣寺


白川通


白川通今出川交叉点


東へ向かう。

昭和風の食堂。でも値段は(今のデフレ日本とは思えない)強気価格。


扇状地を登る


銀閣寺入口

銀閣寺は2005年以来16年ぶり。2005年は11月で紅葉の時期だった。

 

■ 2;銀閣寺 ⇒ 4;北白川郵便局 ⇒ 5;駒井家住宅

▼ 駒井家住宅

駒井家住宅(こまいけじゅうたく)は、昭和2年(1927年)に遺伝学の権威京都帝国大学理学部教授駒井卓博士の自邸として京都・琵琶湖疏水分線の畔にウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計により建てられた近代洋風建築である。  アメリカン・スパニッシュ様式。wiki


 黄色矢印;駒井家。航空写真;現在(左)、1945-1950年

敗戦後はこの北白川の少なからずの住宅が占領軍に接収され米兵家族が暮らしたらしい。駒井家住宅も接収された。追い出された駒井夫婦は敷地内の別棟に暮らしたていたとされる(下記リンク)

駒井家住宅の詳細⇒ 日本ナショナルトラスト 駒井家住宅(駒井卓・静江記念館)

■ 5;駒井家住宅 ⇒ 6;伊織町バス停

バスで三条烏丸へ行った。


京都 街中華での昼ご飯2軒;菜格、魏飯夷堂

2021年09月30日 17時51分55秒 | 国内出張・旅行

春の「京都中華料理屋での昼ご飯3軒;MACHIYA 兪、秋華、芙蓉園」に続く、秋の京都街中華2軒。

先週、京都に遊びに行った。3日のうち2日のお昼は中華にした。もう1日は嵯峨野の奥に行ったので街中華がなかった。

■ 菜格; 京都市中京区観音町76 二条通, 堺町西入


地下鉄駅、烏丸御池から歩く

店舗は目立たず、通り過ぎてしまった。


麻婆豆腐

スパイシーでなく、まろやかだった。若い男の人が調理をしていた。

<荊の簪を挿した御方>は汁なし担々麺。 辛くなかった。

食べログ

■ 魏飯夷堂 三条店; 京都市中京区橋西町661

二条城の南にある三条商店街に行った。

牛肉丼。野菜の種類が多い。くわいも入っている。野菜が細かく刻んである。肉も細かく刻んである。もやしの風味が強かった。味は薄甘く、これまたスパイシーではない。まろやか風味。熱かった。

<荊の簪を挿した御方>は、海老と卵のチリソース煮

食べログ


京都散歩、嵯峨野 :天龍寺、常寂光寺、落柿舎、化野念仏寺

2021年09月26日 14時49分20秒 | 国内出張・旅行

1;嵐電・嵐山駅、2;天龍寺、3;竹林、トロッコ嵐山駅、4;常寂光寺、5;落柿舎、6;化野念仏寺、7;嵯峨釈迦堂前バス停、8;渡月橋

α;天龍寺庭園、β;常寂光寺、γ;化野念仏寺、δ;嵯峨釈迦堂前バス停

9月23日、京都の嵯峨野に行った。嵯峨野の奥の化野に行くことに決め、途中の天龍寺、常寂光寺、落柿舎に寄った。今、このブログ記事のため経路を確認すると、嵯峨野と小倉山の境界の斜面に敷地をもった寺院とわかった。落柿舎は別。

■ 1;嵐電・嵐山駅 ⇒ 2;天龍寺 

9:50

10:20

10:30

2;天龍寺の北口を出る。



a; 天龍寺庭園、b;天龍寺北側出口、c;常寂光寺展望台、d;落柿舎

■ 3;竹林 ⇒ 4;常寂光寺

この竹林は天龍寺敷地内らしい

■ 常寂光寺

10:45

11:15

常寂光寺(じょうじゃっこうじ)は、京都市右京区嵯峨小倉山小倉町にある日蓮宗の寺院。山号は小倉山。旧本山は、大本山本圀寺(六条門流)。百人一首で詠まれる小倉山の中腹の斜面にあって境内からは嵯峨野を一望でき、境内の庭園には200余本のカエデが植えられており[1]、秋は全山紅葉に包まれる。wiki

■ 落柿舎

11:30

落柿舎(らくししゃ)元禄(げんろく)俳人向井去来(はいじんむかいきょらい)遺跡(いせき)である。去来は芭蕉(ばしょう)の門人にて師翁(しおう)の言葉に、「洛陽(らくよう)に去来ありて、鎮西(ちんぜい)俳諧奉行(はいかいぶぎょう)なり」と(たた) えられた。去来が落柿舎を営んだのは、 貞享(じょうきょう) 四年(1687)の以前で、芭蕉が初めて訪れたのは元禄二年(1689)、 (あわ)せて三度来庵す。元禄四年には四月十八日から五月四日迄滞留(までたいりゅう)し、その間に『嵯峨日記(さがにっき)』を(しる)した。落柿舎: 落柿舎について

受付の人が、詳しく説明してくれました。特に、落柿舎のイメージとなっている蓑とかさと閉まった戸は、東山魁夷の絵から広まったとのこと。 戸は自由に開閉していいですよと言われる。 芭蕉の『嵯峨日記』も知らなかった。 ⇒ 芭蕉紀行文集―付嵯峨日記 (岩波文庫 黄 206-1) 

■ ⇒ 化野念仏寺

12:00

化野(あだしの、仇野、徒野とも)は、京都の嵯峨の奥にある小倉山の麓の野。京都市右京区嵯峨鳥居本化野町にその地名が残っているが、古くは山城国葛野(かどの)郡嵯峨といい,かつては風葬の地,近世は鳥辺山とともに火葬場として知られた。wiki

■ ⇒ 嵯峨釈迦堂前バス停

12:30

嵯峨釈迦堂前バス停からバスにのり、市内へ。

■ バスからみた渡月橋など

12:45

▼ 最近と1960年代の航空写真。範囲は本記事上から2つめの地図、凹凸地形図と同じ。

 


京都・無鄰菴再訪 2021年春 ;プロポーザル入札制度のあとさき

2021年04月16日 18時26分23秒 | 国内出張・旅行

京都の無鄰菴に行った。2021年3月。無鄰菴は3度目(1度目;2006年、2度目;2016年)。今年行くと、変わっていた。変わっていたのは管理・運営。今回の京都旅行は宮内庁の修学院離宮は事前予約が必要だった(愚記事:京都・修学院離宮;参観申込とその実際)[1]。一方、まさかこの無鄰菴が事前予約性とは、おいらは、思いもよらなかった。出発直前に<荊の簪を挿した御方様>がネットをみて気付いた。事前予約、前払いが必要であると。あわてて、出発直前に、事前予約・支払いをする。何が面倒かというと時間帯を事前に決めないといけないこと。気ままな京旅行には、行動が拘束される。予約は、9時からの時間帯にした。朝一にして、その後の時間帯を自由にした。

[1]   ⇒無鄰菴予約フォーム コロナを理由に予約制としている。だが、今春の京都旅行でコロナを理由に予約制としている名所、神社仏閣は他に知らない。

無鄰菴の運営が変わったのは、委託業者が変わったかららしい。無鄰菴は京都市の資産。その管理を業者に委託している。さらには、2007年からは、従来の委託ではなく、プロポーザル入札制度というのが適用されたそうだ。その制度とは;

1 公募型プロポーザル方式 プロポーザル方式とは、複数の事業者から企画提案を提出させ、提案内容を審査し、企画内容や業務遂行能力が最も優れた者を契約の候補者として選定する方式である。 京都市の資料

現在、その公開のプロポーザル入札を経て無鄰菴を管理かつ育成しているのは、植彌加藤造園 (web site:  https://ueyakato.jp/gardens/murinan/ )。その無鄰菴の管理方針は「本質的価値を尊重した庭園管理」であると喧伝され、その根拠(無鄰菴の成立過程、施主・山縣有朋の動機、趣向)を踏まえているとも喧伝され、説明文書(論文)も出している。この点については、後に言及する。

■ 無鄰菴へ;


赤丸(右下)が無鄰菴の位置。青丸が京都御所。

そもそも、無鄰菴はどこにあるのか? 御所から見て東。南禅寺の麓。無鄰菴のある場所は江戸時代は南禅寺領であった。明治なって「解放」。

■ 本当に、無鄰菴へ;

予約は9時から。10分前はまだ開門していなかった。

▼ お話を伺う;

一度靴を脱いで主屋に上がる。以前はこうではなかった。

庭からみた母屋。ここで、説明を聞く。見学者はおいらたち二人だけだった。「初めてですか?」「どちらからですか?」などと聞かれたあと、無鄰菴について説明を聞いた。植彌加藤造園の人だ。ためになったのは、「主山」、「芝/苔」、「水流」の山縣庭園"思想"の三題噺だ。


こちらは「庭園カフェ」

▼ 庭へ降りる

広く平なこの石は立ちやすいので、(他の石ではなく)ここに立って庭を眺めよと誘導するものとのこと。

2016年にはなかった止め石。

▼ 無鄰菴の設計思想

無鄰菴の設計思想は明らかになっている。当事者の山縣有朋が語っているからだ。

明治33年(1900年)12月2日に山縣有朋は無鄰菴で黒田天外(京都日出新聞の記者や著述業者)のインタビューに答えている。

しかしこうして見渡したところで、この庭園の主山というのはノウ、この前に青くそびえている東山である。そうしてこの庭園はこの山が出ばったところにあるので、瀑布の水もこの主山から出て来たものとする。さすれば石の配置、樹木の裁方、みなこれから割りだして来なければならんじゃないかノウ」 黒田天外 『續江湖快心録』、尼崎博正『七代目小川治兵衛』から孫引き&文章一部読みやすく改変

つまり、山縣はこの無鄰菴を向こうに見える東山の延長として手元のこの場所を庭として創っているということ。ただし、従来の日本庭園とは違う。山縣は自分の思う庭を彼の権力で庭師に具現化させた。何よりこの無鄰菴は「モダン」である。従来日本庭園で汎用ではなかったモミの木を植え、芝とを植えた。当時、芝は今のように短く刈り込むのではかく、草原のようにしてあった。これは山縣が自然を好んだからだとされている。

山縣の命で実際に庭造りを行ったのは、七代目小川治兵衛 (wikipedia)。

▼ 主山

主山の東山とそれから「割りだして」作った無鄰菴庭園。

▽ プロポーザル入札制度のあとさき

左(2006年)と現在。 現在、東山の手前の無鄰菴の樹木が多少低くなった。2006年は剪定前だったとのことなので、画像を比較してみた。

プロポーザル入札制度で管理業者となった植彌加藤造園は、「修復選定による主山としての東山の顕在化」を2007年(直後のある時期)に実施。つまり、庭園の外縁部の高く育った樹木を剪定。その剪定については「名称無鄰菴庭園の育成管理 ー山縣有朋の感性を読み取った庭園管理のあり方ー」に報告されている。

▽ 航空写真と模式的地図から見る庭の様相配置

東西に細長い三角形の敷地の西端部に東向きの主屋を配し、正面に東山の山並みを望む雄大な空間構成の無隣菴」(尼崎博正『七代目小川治兵衛』)

▼ 芝と苔

芝について、山縣有朋はこういっている;

京都の庭には苔の寂を重んじて芝などというものはほとんど使わんが、この庭園一面に苔をつけるということは大変でもあるし、また苔によっては面白くないから、私は断じて芝を栽(うえ)ることにした」、黒田天外 『續江湖快心録』、尼崎博正『七代目小川治兵衛』から孫引き&文章一部読みやすく改変

でも、今では苔が多くの地面を覆っている。有朋の時代から既に苔が生え始めたらしい。それを有朋も是認したとの記録[2]をもとに、現在では無鄰菴で庭の一部は苔域となっている。

[2] 「苔の青みたる中に、名も知らぬ草の花の咲き出でたるもめずらし」と有朋は云ったとされる。 無鄰菴の苔管理は、無鄰菴のweb siteのこのページに詳細がある。キノコは見つけたらすぐ除去とあった。

▼ 田園模式風景

■ 山奥へ

山奥、つまり無鄰菴の東端には滝がある。⇒ Google画像 (今春、おいらは撮り忘れ)

■ 山から下る。 渓。

浅瀬をつくって、小さな石を水面から顔を出すように配置している。

■ 池

広瀬。 流れが遅く、静かな池に見える。

■ 里山

■ 早瀬

■ 無鄰菴(東山)設計の頃の山縣有朋

この東山、南禅寺の無鄰菴ができたのは、1896年(明治29年)。1894-1895年は日清戦争の年。山縣有朋は56歳でありながら、第一軍司令官として大陸の現地に赴任する。当然この時、山縣有朋は首相経験者(第3代内閣総理大臣:1889-1891年)である。無鄰菴の設計、建設の指示は戦地からも行われた。

■ 無鄰菴3代

山縣有朋は第3代めの内閣総理大臣であったが、この東山、南禅寺の無鄰菴は3つめの無鄰菴。1代目は郷里の長州。2代目は京都の木屋町二条、鴨川ほとり。

■ 山縣有朋の渡欧

山縣有朋は生涯2度渡欧している。1度目は明治2年(1869年)31歳の時。2度目は明治21年(1888年)。いずれも、3代目 無鄰菴設計以前である。山縣が渡欧でどんな庭園を見てきたのか。どこかに研究はないのかな?

▼ まとめ

無鄰菴 = 自宅でワンダーフォーゲル。


京都散歩;修学院離宮⇒鷲森神社⇒詩仙堂⇒一乗寺樋ノ口/白川通

2021年04月07日 19時13分19秒 | 国内出張・旅行

1;修学院離宮入口、2;鷺森神社、3;詩仙堂、4;一乗寺樋ノ口

■ 1;修学院離宮入口 ⇒ 2;鷺森神社

Google[離宮2(京都市左京区修学院水川原町)の建物情報]

▼ 鷺森神社参道

貞観年間(859年 - 877年)の間に創建されたとされる[2]。最初は比叡山麓、赤山明神の付近に祀られていたが応仁の乱の兵火で罹災し、今の修学院離宮の山林中に移されたが、離宮造営の為、霊元天皇の思召しにより現在の鷺の社に社地を賜り、元禄2年6月御遷座になり修学院、山端の氏神社として今日に至っている。wiki

 

■ 鷺森神社 ⇒ 詩仙堂

このお寺、非業の死を得た二人(村山たか、 サイド・オマール)のお墓がある、と知る;

村山 たか(むらやま たか、文化6年(1809年) - 明治9年(1876年)9月30日)は、江戸時代後期から明治時代初期の女性。舟橋聖一の小説『花の生涯』のヒロインとして知られる。別名村山加寿江(かずえ、可寿江とも)。 

生まれ故郷の彦根に戻る。その際彦根城下で部屋住み生活を過ごしていた井伊直弼と出会って情交を結び、またその数年後に直弼を通じて出会った長野主膳とも深い関係になったとされる。やがて直弼が大老となり、江戸に移った後2人は別れたとされるが、安政の大獄の際には京都にいる反幕府勢力の情報を江戸に送るスパイとなり、大獄に大きく加担した。日本の政権に属した女性工作員としては、史上初めて名をとどめる存在である。wiki

サイド・オマール・ビン・モハメッド・アルサゴフ(マレー語: Syed Omar bin Mohamad Alsagoff[1]、1926年7月28日[2] - 1945年9月4日[注 1])は、イギリス領マラヤの王族。広島市への原子爆弾投下で被爆死した南方特別留学生サイド・オマールとして知られている。wiki

このあたりは「徳川ゆかり地域」だと、このブログ記事を書いていて気付いた。そのわけは下記;

■ 詩仙堂

詩仙堂。 きらびやかで豪華な桃山建築的門ではない、純和風の様相。良い。でも、純ジャパに見えて、ここは支那文字山荘なのだ。庭園と書いたが、起源はある人(石川丈山[1583- 1672])の隠居場(山荘)として建てられた。現在は、曹洞宗の寺となっている。ただし、この後の画像からわかるように、抹香臭いわけでもなかった。

詩仙堂は、正しくは「凹凸窠(穴冠に果)」(おうとつか)と呼びます。凹凸窠(穴冠に果)とは、でこぼこした土地に建てた住居という意味です。

凹凸窠の中心には、江戸時代の絵師、狩野探幽(1602年~1674年)が描いた中国の漢晋唐宋時代の詩人三十六人の肖像画があり、各詩人の肖像画の頭上には、石川丈山が隷書体にて記した漢詩が書かれています。
四方の壁に掲げた”詩仙の間”を中心としていることから、現在は「詩仙堂」と呼ばれています。

詩仙堂の web site

純ジャパに見えて、ここは支那文字山荘という理由は、敷地内を分節化する言葉、文字である。「洞」、「軒」、「関」、「堂」、「巣」、「泉」、「楼」、「瀑」、「(おう)」がある。全体名は「窠(か)」。つまり、支那風に仕立ててあるのだ。

支那文字/支那文化; 本来は「凹凸窠」(おうとつか)と称した山荘が、その後ー今にいたるまで詩仙堂と呼ばれるようになったのは、三十六詩仙 [1] という石川丈山が支那文明史に中から36人の詩人を選定して、狩野探幽に肖像を描かせて漢詩を付けて部屋に掲げて顕彰した。これは、日本の三十六歌仙に倣ったもの。すなわち、支那文化愛好者であったらしい。

[1] 三十六詩仙 の詩人一覧 wikipedia[石川丈山]より

▼ 石川丈山って誰だ? 石川丈山像というのが残っていて、上記の狩野探幽が描いたもの。

 
狩野探幽の石川丈山像(左)と徳川家康像 [共に部分:wikiより、]

つまり、家康を描くような偉い絵師に像を描かせるような人物だということだ。石川丈山は若い頃、つまり彼が16歳から33歳まで家康の寵臣だった。親衛隊員みたいものか。しかし、33歳の大阪の陣で無許可の先陣突入をして、家康に認められず、家臣を辞めた。隠居した。そして、いろいろあって、60歳すぎてこの地に隠居しはじめた。90歳までここで過ごした。Wikipedia [石川丈山]

▼ 凹凸窠の地形的根拠



左から詩仙堂の地図、航空写真、地形図。 赤矢印が窪み;凹。は、詩仙堂。

凹凸窠(おうとつか)の根拠は地形。地形図から見るにここは小さな谷である。山側来る川が刻んだ小さな谷だ。今でも、すぐ南側に川が流れている。

■ 詩仙堂 ⇒ 一乗寺樋ノ口 (中華料理店、秋華)⇒ 白川通

秋華の店舗写真を撮り忘れていた。Googleからもらった。



愚基地: 京都中華料理屋での昼ご飯3軒;MACHIYA 兪、秋華、芙蓉園

白川通


京都・修学院離宮;参観申込とその実際

2021年04月02日 18時07分59秒 | 国内出張・旅行

 
修学院離宮 鳥瞰画像    GoogleMap    。 角度を変えて観てみる↓


GoogleMap

■ 修学院離宮概略

京都市の北東部に修学院離宮がある。約55万平米の敷地に3つの離宮がある。敷地の中には田園があり、現在でも耕作している。江戸時代初期の1655-1659年に後水尾上皇により造園、完成される。

<地理・地形>

修学院離宮は京都御所からみて北東の京都の盆地の縁にある。直線距離で4.7 km。修学院離宮は上皇の離宮であるので、御所から通う。その離宮は盆の皿と壁である山との遷移域。山地からの土砂と音羽川がつくった修学院扇状地にある。冒頭の鳥瞰画像は扇状地の斜面をみている。



京都の地形と御所、修学院離宮の位置。御所は盆地の平地部(緩扇状地)にあり、修学院離宮は山地との境界の急勾配扇状地にある。後水尾上皇は離宮に日帰りで通っていた。

■ 事前申し込み

現在、宮内庁の管轄。一般公開しているが、参観のためには、事前の申請と許可が必要。でも、簡単である。事前申請は往復はがきとネットと窓口の3方法(他に当日申込があり、計4方法)。

ネットでの申請はこのweb site(参観ご希望の方へ)からできる。参観可能な日時、時間帯がわかる。1日5つの時間が設定されている(9:00, 10:00, 11:00, 13:30, 15:00)。各参観時間帯は、満員になると締め切る。参観は1時間10分ほど、参観者数は通常(コロナ禍以前)は35名であったが、今は10名。「申込には,参観を希望される方全員の自宅住所(必ず番地まで),氏名,年齢及び性別を入力」する必要がある。申請すると、当落の結果は翌日以降となる。知らせたメールアドレスに返信してくる。この時、整理番号が割り振られる。当日の受付ではこの番号と身分証が必要。当日は、身分証明書(運転免許証)を提示した。

申請は見学日の3ヶ月前からやっているようである。今日(2021/4/2)の時点では、7月分まで募集している(web site)。

料金はかからない。

■ 修学院離宮参観の実際

この日、9時からの参観。朝早い。申請の時、この時間帯しか残っていなかった。

▼ 最寄り鉄道駅から離宮まで

京都市中心部からは、まず出町柳へ行く。そこから叡山電鉄叡山本線に乗り修学院駅まで行き、降りる。その修学院駅から修学院離宮までは地図上の直線距離で約1km。この日は歩いて25分ほどであった。宮内庁案内には20分とある。


叡電修学院駅


音羽川(おとわがわ)。かつて修学院扇状地を形成した。

修学院離宮正門。 

▼ 入門まで


8:45に入れてくれた。

離宮に入って、振り返る。後続の人が体温測定をしている。この門を入ると右手に受付の窓口をもつ建物があり、係の人が対応してくれる。予約番号を云って、身分証明書を提示。おいらは自動車運転免許証を使った。なお、<荊の簪を差した御方様>と2名同時に申し込んで、登録された。でも、身分証明書の提示はおいらひとりで済んだ。

参観者の休憩用建物がある。中には売店があり、おみやげを売っている。参観者用のロッカーもある。皇宮警察の人員募集のポスターが貼ってある。

見学出発

▼ 正門 ⇒ 下離宮

時間になると、参観者は集められ、説明者(おそらく宮内庁の職員なのであろう)から注意を受ける。今はコロナ禍状況下だから、話さないでくださいとか、参観者同志で写真を撮ってもらうのを頼むことはお勧めしませんとか。最後に、今日は3キロ歩きます。参観者集団から離れること、先に帰ることは認められませんとのこと。

参観経路は、入口から出発、各離宮を下、中、上と順に廻る。扇状地の斜面を上がっていく。離宮は田園に中に浮いているようで、離宮の間は両側に並木をもった畔で結ばれている。後水尾上皇の時代から今まで離宮内は耕作されている。公地公民ですよ、公地公民。当時は、民に対し上皇がむき出しにならないように並木で覆いをしたのではないかと今おいらは推定した。(のち、明治になて、天皇行幸に際し松並木を植えたとあった)。現在この地は国有地=宮内庁の所有。そして、借りた農民が耕作しているとのこと、なお、宮内庁の説明員によると敗戦後の農地解放でこの農地は(当時の実耕作者に)払い下げられたとのこと。つまり、各私人の私有財産となったのだ。そして、その説明員殿が語るには、「この戦後の払下げ後において私有地に建物でもできたら、今のこの風景はなかったであろう」とのこと。現実は、1964年(昭和39年)に国が買い戻して離宮に編入された。そして、国・皇室に土地を返した農民が現在は借りて耕作しているのだ。つまり、彼らは公地を耕す公民なのだ。でも、この日の見学では、彼らの姿を見なかった。



下離宮の門。 なんとこの日、普請中で参観できなかった。絵で我慢↓

▼ 下離宮 ⇒ 中離宮

離宮間の田園の中を行く。定まった道が整備されている。直線の並樹路。左右は田園が広がる。

扇状地の斜面を緩やかな傾斜だが、のぼっていく。 街が見えた。

▼ 中離宮


中離宮の門。 中離宮は修学院離宮造営前からお寺としてあった。というか、そのお寺があったので、後水尾上皇が離宮としてこの地を選んだ。そのお寺とは後水尾上皇の第一皇女梅宮が建てた円照寺。離宮造園に伴い、円照寺は大和、八嶋に移転。その後、後水尾上皇の第八皇女、光子(てるこ)内親王が移り住み、御茶屋を造った。後水尾上皇崩御後、光子(てるこ)は落飾得度し、寺とした。林丘寺(りんきゅうじ)。この林丘寺は今でもこの地にあり、半分が(現在宮内庁管理の)離宮となり、半分はこの敷地の中に存続している。



客殿(左)と楽只軒。

祇園祭の鉾の絵(狩野敦信)。

 

▼ 中離宮 ⇒ 上離宮;田園の中を走る畔・並木の道を辿り移動


畔・並木の道を行く。

▼ 上離宮


上離宮の門。

上離宮は扇状地斜面の山地への縁にあり、高度も高くなっている。なので見晴らしがよいので御茶屋を建て、上離宮としたのだ。門から入り、隣雲亭、楓橋、池の中の小島=窮邃(きゅうすい)亭、土橋、池の縁の直線路、経路は環状なので、上離宮正門に戻る。



階段を登る。上離宮は高い位置にある。

隣雲亭

150メートルの高地。ここからの眺望が修学院離宮の華。


池のほとり(西浜)で作業する人たち。

離宮全体の地形と航空写真。この眺望のよい上離宮の隣雲亭は図の黒矢印の地点。小高い丘の上にあることがわかる。この丘は扇状地の堆積地域と山地の境界にあり、扇状地堆積物に埋もれた山地の残丘に違いない。上離宮の西側(図中の左)は傾斜地が始まり、離宮直下には池がある。浴龍池。この池は人造池で、扇状地を等高線に沿って段々にした最上段部。川を堰き止めて池とした。堰き止める前の川が流れていた谷が確認できる(赤矢印)。

振りかえって隣雲亭をみる。隣雲亭はこの小高い場所にある。


池の中の島々の間の橋:千歳橋。

<この離宮に来た3人の天皇>

この千歳橋を後水尾上皇は見なかった。当時なかったからだ。この千歳橋は江戸後期に作られた。当日の参観で解説者から光格天皇の名を聞いた。どうやら、光格上皇もこの離宮に来たことがあるらしい。そして、その光格上皇のために建造したらしい。wikipeiaにはそのことは触れていない;

千歳橋 - 中島と万松塢の間に架かる。特色ある外観をもった屋形橋であるが、当初から離宮にあったものではない。切石積みの橋台に一枚石の橋板を渡し、東には宝形造、西には寄棟造の屋根を架けたもので、宝形造屋根の頂部には金銅の鳳凰が立つ。文政7年(1824年)の離宮改修時に、京都所司代の内藤信敦が橋台を寄進し、文政10年(1827年)に水野忠邦が屋形を寄進したものである。

当日の解説者の説明でこの離宮には3人の天皇が来たと云っていた。後水尾、霊元、そして光格。あー、なるほどね、とおいらは思った。光格天皇とは;

明治維新の時の天皇は明治天皇であったが、その王政復古の偉業達成は、明治天皇に先立つ光格、仁孝、孝明の三代の天皇の朝廷の権威の復興の成果であったとされる。なにしろ、光格天皇以前の天皇は、62代の村上天皇を最後として、「天皇」ではなかった。愚記事

そんな幕末に朝廷再興を願う光格天皇が上皇時代にこの修学院離宮に来たのだ。なお、光格天皇は9歳の時、幼い女の子のみを残して22歳で崩御した後桃園帝のあと皇位についた。世襲親王家の閑院宮、つまり傍系から皇位を継承した。そして、この閑院宮は、後水尾天皇から発している。<この離宮に来た3人の天皇>=後水尾、霊元、光格の関係を確認する。光格天皇の祖父は直仁親王であり閑院宮家の初代。直仁親王の父は東山天皇、祖父は霊元天皇。そして、その霊元天皇は後水尾天皇である。つまり光格天皇にとって後水尾天皇は生物としては5代前の先祖である。ただし、天皇の歴代数では、(なんと)11代前となる。後水尾天皇ののち光格天皇まで、明正、後光明、後西、霊元、東山、中御門、桜町、桃園、後桜町、後桃園の歴代天皇がいた。

 つまり、11代を隔て、光格は「傍流出身ゆえより本来的であろうと努める」一策として後水尾を顕彰する政治的示唆行動として修学院離宮を訪れたのではないかと、おいらは、推定している。

楓橋を渡って池の中の島に渡る。

* ⇒ 窮邃(きゅうすい)亭

まぢかに見えた千歳橋。


雨戸の鴨居の上に「銘板」が掲げてある。 窮=きわめる、邃=おくぶかく、と今ググッて知った。


宮内庁のweb site より)


窮邃亭の全景(宮内庁のweb site より)

<上皇の離宮遊びは日帰り>

解説員の話で興味深かったこと。上皇は京都御所からここに来るが、日帰りであったとのこと。日帰りで来て、下離宮から上離宮へ登り降りして御所まで変えるのは強行軍ではないだろうか?叡電もないし。これは恐らく当時上皇の外泊禁止という規則が幕府から出ていたのであろう。上皇が外泊可能であり、この離宮に滞在する慣行ができると、草莽微賤の尊皇志士が集まってしまう可能性もあるからだ。もし、上皇に反幕感情があれば、反幕府運動の発火となりかねない。

* ⇒ 島を出る、 西浜


舟着。


池と西浜。


西浜から池を望む。

上離宮の門を出る。

▼ 上離宮 ⇒ 表総門


大刈込み。 離宮は扇状地斜面にある。等高線沿いに段々に整地してある。先ほどの浴龍池がこの大刈込みで「せき止め」られている。

下離宮に降りてきた

▼ 下離宮 ⇒ 参観者出入口/参観者休所

 

参観者出入口/表総門の広場に戻ってきました。ここで、解散です。 お疲れ様でした。解説者の人、宮内庁の職員の方々、ありがとう。


離宮(参観者出入口)を出たところ。

■ まとめ

おいらは、自然豊かに見えて実は相当固定資本投資している生産力地域としての美しい田園風景に感動しました。この離宮は持続可能性が高く、千代に八千代に存続できそうです。

宮内庁 web site

 


京都中華料理屋での昼ご飯3軒;MACHIYA 兪、秋華、芙蓉園

2021年03月26日 20時15分33秒 | 国内出張・旅行

今月第3週の平日の三日間、京都に遊びに行った。3日ともお昼は中華にした。

■ MACHIYA 兪 〒604-8101 京都府京都市中京区柳馬場通御池下る柳八幡町77



Google Map

たまねぎに火のとおり具合が絶妙で、少し辛味が残るしゃきしゃき状態。とてもおいしかった。ピーマン、ヤングコーン、ピーマンもしゃきしゃき。鶏肉は小ぶりに切。味付けは濃いと思う。言い方は悪いが、化調的(化学調味料、"華"学調味料?!)"華"調的風味。

食べログ( MACHIYA 兪 (まちや ゆ))

▼ お店、周辺など

町屋つくり(奥深い敷地が特徴)の建物をお店としてます。奥の庭が見れました。

姉小路通り。左手が京都市立洛風中学校。このあたりは、「初音」学区だそうです(京都市中京区 web site)。

おいらの本籍のある都市は何条何丁目という野暮な住所で街を示していたので、街に「初音」なんてのがあると、うれしくなります。(これはネタでも冗談でもなく、おいらは、「柏木」とか「堤通雨宮」とかみて、あ~内地に来たんだ!と思った。)(下線部;愚記事より)

この看板に書かれた文章(ソース);

姉小路界隈地区は、姉小路通を軸として東西は寺町通から烏丸通まで、南北は御池通から三条通までの区域において、歴史的な市街地として、低層の戸建てを中心とした落ち着いた町並みが残り、文人墨客の看板を掲げる格調ある老舗が集まる京都らしい品格のあるまちです。

古くからの「町式目」にみられる自主的なルールのもと、お互いに気遣い、お互いに協力しながら、「なりわい」を継承し、もてなしの心を育んできた暮らしの知恵や精神が受け継がれています。

このような地区において、以下に掲げる3つの方針を柱とする「暮らし」と「なりわい」と「文化」のバランスを大切に育むまち姉小路界隈」の実現を図ります。

■ 秋華 〒606-8167 京都府京都市左京区一乗寺樋ノ口町27 コーポラス禅


Google Map


近江牛すじ麻婆豆腐ランチセット

食べるとすぐに「牛」という感じ。豆板醤風味が強烈。前記、Machiya愈や後記の芙蓉園とは違う風味、味付け。四川風だから。牛の出汁と豆板醤風味が脂に溶け込んで、その油が口の中に広がることで、味が強烈に伝わる感じ(???)。


前菜

食べログ(秋華)

お店周辺

山際に位置します。

平地へ向かいました。天下一品さんが見えました。

■ 芙蓉園 〒600-8018 京都府京都市下京区市之町240−1


Google Map


平日Bセット:酢豚、チャーハンハーフ、春雨サラダ、デザート

酢豚;豚以外の具はパイナップルのみ。ソースが甘く、酸っぱく、上品。豚肉のしまりと火のとおりがよい。噛み締める食感がよかった。

杏仁豆腐がほかの中華屋さんと違った。豆腐の食感がもっちり。いままで食べたことのない感じ。おいしかった。

食べログ(芙蓉園)

お店と周辺


高瀬川

■ 蛇足;

上記、高瀬川周辺にて

 

 


京都散歩;府立植物園 ⇒ 賀茂川 ⇒ 今宮通 ⇒ 今宮神社 ⇒ 船岡山

2021年03月21日 18時37分58秒 | 国内出張・旅行

先週は京都に行った。府立植物園から船岡山まで散歩した。旅行計画の時点では、植物園と船岡山に行こうとした。そうすると、車谷長吉の『赤目四十八瀧心中未遂』に今宮通り、小山花ノ木町が出てくるので、見物することにした。


1.府立植物園、2.賀茂川・北山大橋、3.今宮通り;4.今宮神社;5.船岡山

上の図の京都全体の中での位置は下図(左)と 京都 土地分類基本調査

  

今宮神社へ向かう途中から台地となる。

■1. 府立植物園

入園料200円、温室は別途200円。

a: 北山門

b: 椿園

▼ d: 観覧温室

平成21年11月19日、天皇皇后両陛下(現在、上皇上皇号)の行幸啓を賜り、植物園にとって歴史上もっとも輝かしい一日となった。
観覧温室内熱帯植物の多くをご案内する光栄に浴したが、温室内の特別展示室にて、植物園の所在場所をご説明申し上げた。「西に金閣寺、北に上賀茂神社、東に銀閣寺、南に下鴨神社。植物園は世界遺産の四つの社寺仏閣に囲まれたほぼ中心にあります。東方向には比叡山がそびえ、園内から見るその姿はNo.1ビューポイントです」。
私にとっても生涯忘れ得ぬ、大感激の約一時間だった。 京都府立植物園 97年の歴史①

▼ e;  くすのき並木

▼ f. 植物園会館

園内の植物園会館という建物に入ると植物園の歴史が示したあった。そして、敗戦後は占領軍に接収され、占領軍住宅が建設されたと知る。

1924年、公開公立植物園として日本で最初に開設された。第二次世界大戦後の進駐軍接収に伴い、米軍住宅地として樹木伐採などが行われたが、再度植樹等をして蘇り、現在は公立植物園として維持されている。日本造園学会  京都府立植物園)


京都府立植物園「80年の歩み展」から

GHQ京都司令部は翌21年7月に、難題を持ち出す。「将校家族住宅DHを数十戸建設するため、京都御所外苑を接収する」。これには京都府市民のみならず、府庁も宮内省も仰天してしまった。東京のGHQ本部にも陳情し、なんとか京都御苑を回避することができた。
 このころになるとアメリカ本土から軍将校のたくさんの家族たちが、日本に駐在している夫や父と同居するために押し寄せてきた。日本軍では占領地で家族と暮らす軍人はまずいないであろう。しかしアメリカでは一般の兵卒は別にして、少尉以上の将校は家族とともに暮らすのが当然であり常識であった。子どもたちには幼稚園から小学校まで、アメリカンスクールが住居地内に併設さる。当然、グラウンドもテニスコートもプールも付いている。

 御苑をあきらめた司令部は代替地を要求した。府は淀競馬場を提案したが「水害の心配がある」と断られてしまう。そして米軍が下した結論は、京都植物園である。同園の広大な敷地すべてがDH将校家族用住宅(デペンデントハウス)数十戸建設のために、接収されてしまった。御所御苑の身代わりに、京都が誇る日本最大最高の公立植物園が取り上げられてしまったのである。 (ふろむ京都山麓 様  GHQ占領下の京都 第2回 「日本占領」


開園当初(1926年/昭和元年)の大典記念京都植物園の模型

樹木が切り倒された部分が航空写真から確認できる ↓


航空写真;敗戦後・占領下(左)と現在

▼ f-g. 洋風庭園 ー ばら園

▼ h. 沈床花壇

▼ ⇒ 沈床花壇から外周道をたどり、再び椿園を通り、i の賀茂川門へ

植物園を賀茂川口から出る。 北山通り ↓


賀茂川

■ 2.北山大橋

京都では、私はいつも鴨川の橋の上から薄墨色の北山の色を眺める。そうするとすさんだ気持が慰められるのだ。それは京都で働いていた時からの心のゆくたてだった。が、その日は生憎雨に降りこめられていて、北山は見えなかった。(車谷長吉、『赤目四十八瀧心中未遂』)

 

■ 3.今宮通り、あるいは、小山花ノ木町の小児科

 私はアマへ来てからはじめて、阪急電鉄に乗って京都へ行った。六月半ばの雨の降る日だった。れいの小山花ノ木町の知人の家を訪ねるためだった。この原田巳記という人は、私が京都で料理屋の下働きをしていた時分に知り合うた四十過ぎの男であるが、小児科を開業するかたわら、フッサールやメルロ=ポンティの哲学を勉強し、時たま新聞雑誌に夢のもつれのような文明批評を書いたりしていた。住所不定の私には健康保険証がないので、通常の病院へは行けない。行けば、あれこれと面倒なことを言われるのである。だから、私は横着を起こして、この人にただで、一応は傷口を診てもらっておこうと考えたのである。 (車谷長吉、『赤目四十八瀧心中未遂』)

富岡小児科 〒603-8122 京都府京都市北区小山花ノ木町17 (google
 

車谷の小説とは関係ないと思うが、小児科があった。でも、閉院していた。

* 小山初音町

* 堀川通り

* 登り坂

■ 4. 今宮神社

* 今宮神社を出る。 南下。


振り返り、今宮神社をみる。

* 北大路通りを渡る

■ 5. 船岡山

船岡山は硬い岩石でできているので、侵食を免れている。岩石はチャート(堆積岩の一種。主成分は二酸化ケイ素(SiO2、石英)で、この成分を持つ放散虫・海綿動物などの動物の殻や骨片(微化石)が海底に堆積してできた岩石 [wiki])。この岩石を含む地層は丹波層群の一部。丹波層群の堆積年代は、古生代二畳紀~中生代ジュラ紀 (2億5,000万年~2億年前)(引用元)。海洋プレートのチャート(古生代に堆積)と大陸起源の泥岩や砂岩から構成されている、とのこと。

丹波層群は、古生代の石炭紀(約3億6千万年前から約3億年前)から中生代のジュラ紀(約2億年前から約1億5千万年前)にかけてアジア大陸東側の海底で形成された後隆起した地層群であり、大陸から流出した泥や砂からできた泥岩や砂岩、大陸から離れた深海底で生成されたチャート、サンゴやフズリナなどが堆積してできた石灰岩からなる地層が混在している。 (建勲神社

船岡山を下りる。

船岡温泉(ふなおかおんせん)は、京都市北区紫野南舟岡町にある公衆浴場(風呂屋)。船岡山南麓、鞍馬口通の南側に位置する。脱衣場(下駄箱やフロント、休憩所などを含む建物)や浴場(脱衣場の奥に繋がる浴室の建物)などが国の登録有形文化財に登録されている。

なお、「○○温泉」は上方における伝統的な風呂屋の屋号に多く見られるものであり、天然温泉を意味するものではない。  (wiki

船岡山の南側におりる。船岡山を東側から回り込んで、北大路通りに戻る。

織田信長を祀る建勲神社 (web site


北大路通り

バスに乗って、市街に帰る。

■ まとめ

通過町

下京区

下鴨半木町、 

北区

小山東元町、 小山上内河原町、小山上花ノ木町、 小山上板倉町、 小山上初音町、 紫竹下梅ノ木町、 紫竹東高縄町、 紫竹高縄町、 紫竹西高縄町、 紫竹西南町、 紫野上野町、 紫野今宮町、 紫野大徳寺町、 紫野西野町、 紫野北舟岡町、 南舟岡町、 紫野西藤ノ森町、 紫野下築山町、 紫野上築山町