いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

サリーム・チシュティー廟、ファテープル・シークリー、アーグラ、インド

2022年09月11日 13時10分49秒 | インド


サリーム・チシュティー廟

サリーム・チシュティー廟があるファテープル・シークリーにおいらが行ったのは2004年7月10日。タージマハルに行く直前だ。実はこの白い建物が「サリーム・チシュティー廟」であると今週知った。今画像を見ると当時は改修中で中を見ている人はいない。おいらも、この白い建物に近づき中を見た記憶はない。下はwikiからの画像(現在の様子なのだろう)。


Tomb of Salim Chishti wikipedia

この白い「サリーム・チシュティー廟」はスーフィー聖者・サリーム・チシュティー(wiki)の廟(墓)。

■ ファテープル・シークリー訪問の記憶

2004年7月10日の朝、アーグラ駅に着いた。デリー駅からボパール行きの特急に乗って、アーグラ駅で降りた。この朝のことは愚記事に書いた。ただし、その記事ではファテープル・シークリーの画像がない。今日、2004年のデジカメ画像を見直してみた。


アーグラ駅のホーム 乗って来たエアコン付き車両

8:30アグラ・CANNT駅到着。上記のエイジェンシーを通して手配していた(70US$)車とドライバーとおちあう。向こうがおいらの名前を書いた紙を掲げて駅の出口でまっている。


ファテープル・シークリーへの道


大門(ブラント・ダルワーザ)

今、ネットで調べるとこの大門=ブラント・ダルワーザ=勝利の門は、世界最大の門とのこと。デジカメに収まり切れなかった。当時、なぜ遠くから撮影しようとしなかったのか記憶にない。

全景は、ここで見られる⇒ Google画像 [Buland Darwaza in Fatehpur Sikri]


パンチュ・マハル と(後述の本で)今日知った。

この日のデジカメ画像をよくみると、確かに改修していたが、中に入れたとわかる。ただし、おいらは中に入った記憶がない。


ガイドさん。

■ 『1571年 銀の大流通と国家統合』で今週知ったこと

18年前に訪れたこの建物が何であったのかを知った理由は今週借りて読んでいた本、『1571年 銀の大流通と国家統合』(関連愚記事)の第3章 ムガル帝国の形成と帝都ファトゥプルの時代(真下裕之)に書いてあった。

第3章 ムガル帝国の形成と帝都ファトゥプルの時代は次の4項から成っている;

1 帝都ファトゥフプル
2 新たな秩序に向かって
3 ファトゥフプルの時代
4 チシュティーヤとファトゥフプル造営の由緒

ムガル帝国の三代目の皇帝アクバル(wikipedia)が1574年から10年間、「ファテープル・シークリー」(一般名wiki:本書ではファトゥプル)を首都とした。そのことが中心に書いてある。1571年にアクバルは新都造営を命じた。当時の都はアーグラ。ファテープル・シークリーとはわずか30km。アーグラにはのちにタージマハルが建つ。

皇帝アクバルがこの地を新都に選んだ理由は、スーフィー聖者・サリーム・チシュティーの縁。

1568年、跡継ぎに恵まれなかったアクバルはファテープル・シークリーに住むイスラーム教の聖者サリーム・チシュティーを訪ね、世継ぎの問題について相談した[1]。すると、彼から息子を授かるだろうとの予言を授けられた。

その後、1569年に王子サリーム(ジャハーンギール)が誕生し、記念としてここに新たな都を造り、アーグラから遷都した。wikipedia

そのスーフィー聖者・サリーム・チシュティーの廟が帝都の大モスクの中にあるのだ。それだけ尊重されていたということ。


大モスクの中庭にあるサリーム・チシュティー廟(右端)

なお、アクバルはスーフィー聖者を崇拝し、デリーのニザーム・アッディーン・アウリアーの廟にしばしば参詣していた。真下裕之はムガル帝国と教団の密接な関係を指摘している。


デリーのニザーム・アッディーン・アウリアーの廟(愚記事より)

しかし、スーフィー聖者・サリーム・チシュティーの素性がよくわからないとのこと。一方、サリーム・チシュティーの歴史上の役割の謎解きを真下裕之はする。

スーフィー聖者・サリーム・チシュティーの子孫が皇帝の乳母、乳兄弟となり、皇帝側近となったのだ。スーフィー聖者・サリーム・チシュティーの一族は、アクバルを支える人材の供給源となった。

(前略)考慮すべきは、素性のかくも不確かな男がその死後すぐに、帝都の大モスクに墓廟を献じられたように、また一方、チシュティーヤのスーフィーして聖者列伝に通電されたように、大きな存在感を発揮するにいたった事情である。
 その事情の一つは、この聖者の子孫たちがはたした帝国における役割の性格であると考えられる。前項の「サリーム・チシュティー関係系図」に示したごとく、シャイフ・サリーム・チシュティーの数多くの子孫たちは帝国の記録に名をとどめている。帝国の歴史上、一族の経歴をこれほど長い期間にわたって追跡できる例はまれである。そして注意すべきは、この一族の成員がいずれもチシュティーヤ聖者として名を成したわけではないことである。
 シャイフ・サリーム・チシュティーの娘から生まれた孫クトゥブ・アッディーン・ハーンについて、君主ジャハーンギールは自ら乳兄弟としてひとかたならぬ親近感を抱いた相手であることを書き記しているし、同人の母すなわち自らの乳母は「じつに母親にさえ抱かない親密の情」の対象であったという。またサリーム・チシュティーの息子シャイフ・アフマドは王子サリーム(のちのジャハーンギール)の乳母夫(エテケ)の立場にあったと記録は伝える。乳母の実の夫のみならず、実の兄弟たちまでも乳母夫と呼ばれるのが帝国の慣習だったからである。さらにジャハーンギールが、クトゥブ・アッディーン のいとこにあたる一歳年少のイスラーム・ハーンを「息子」と呼んで特別に遇したのも、このような関係の反映であるに相違ない。要するにサリーム・チシュティーとその一族は、君主アクバルにとって第一王子の乳母と乳母夫、そして乳兄弟を擁する擬似的家族という点で、特別な存在になったのである。 『1571年 銀の大流通と国家統合』、第3章 ムガル帝国の形成と帝都ファトゥプルの時代(真下裕之)

まあ、日本でいえば、徳川三代将軍家光と稲葉家との関係みたいものか。(google

 要するに、後嗣の誕生という帝国の瑞祥と新都の造営という帝国の一大事業を演出していた聖者サリーム・チシュティーと君主アクバルとの関係性は、スーフィー聖者に対する尊崇から、王子の地兄弟一族の破格の登用へと、速やかに変質を遂げたのである。そしてその変質はアクバル治世の後半期にはすでに生じていたものと見込まれる。真下裕之、同上)

■ 銀

この真下裕之の章(ムガル帝国の形成と帝都ファトゥプルの時代)が載っている本の題名は『1571年 銀の大流通と国家統合』。銀の大流通と国家統合に目を配らなければならない。

・ムガル帝国の税制:現金納。銀貨、銅貨が流通
・ムガル帝国は銀貨ルピーを普及させようとした。原料の銀の輸入先は不明。アクバル治世に増加。
・グジャラート(インド西部)は銀流入のひとつの入口。
・17世紀にムガル帝国の銀保有量は2-3倍となった。その銀は、海経由、ペルシア経由など
・1643/44年にグジャラートのスーラトにオランダ東インド会社が持ち込んだ銀のうち19%が台湾経由の「日本銀」

とまれ、16世紀以降、チャイナ、インドともに銀が流入した。

■ ペルシア語への翻訳時代

ファトゥプル時代の特徴。帝国の文化政策。古今の典籍のペルシア語訳。この真島の文章では当たり前のこととして触れていないが、ムガル帝国の宮廷での言語はペルシア語。王命でサンスクリット語、アラビア語の典籍からのペルシア語への翻訳がなされた。

このファテープル・シークリー王宮とアラビア語⇒ラテン語の翻訳センターであったスペインのトレドと似ている。


大英帝国に使嗾されるインド兵;北京(1902年)、東京・鳥取(1947年)、最初はアヘン戦争(1840年)、なぜシーク教徒?

2021年08月08日 19時38分13秒 | インド


北京1902年、円明園  ソース


東京1947年  ソース


鳥取 1946-47年頃  ソース

アヘン戦争(1840年)のイギリス軍の多数兵はインド兵であったと知った。今まで、知らなかった。大川周明の『英米東亜侵略史』にも書いていなかった。

でも、高校の世界史の教科書でみんな、この写真を見るはずだ;


↑義和団事変に出兵した各国兵士 左から、英・米・露・インド・独・仏・オーストリア・伊・日 

ちゃんとインド兵が写っている。義和団事変は1900年。なので、インドはインド帝国の兵士であったことになる。なお、この写真が1900年撮影。なので、このインド兵は女王陛下の兵士だ(Queen's soldier)。インド帝国の君主はヴィクトリア女王であった(彼女は1901年1月22日没)。

インド兵が最初にチャイナを襲ったのが1840年、アヘン戦争だ。

(大英帝国の)中国に対する砲艦外交では、「帝国拡張の先兵」インド軍が動員された。インド軍は、インド財政の負担で維持され、イギリス政府とインド政庁が自由に海外へ派遣できる緊急展開部隊として、インド洋周辺の地域やインドの北西国境地帯を中心に、アジア・アフリカの各地に派兵された。イギリス帝国拡張と防衛の経費は、白人自治領もその一部を負担したが、その大半はインド財政に押しつけられたのである。第一次アヘン戦争では、約五八〇〇名のインド軍が広東に、第二次アヘン戦争(アロー戦争)では約一万一〇〇〇名のインド軍が北京の攻略に動員された。ただし、この場合の中国遠征の経費は、本国側が負担した。(秋田茂、『イギリス帝国の歴史』)

そして、秋田茂、『イギリス帝国の歴史』には書いてないが、円明園のあの破壊 [1]にインド軍は参加しているのだ。

    

[1] 1856年(咸豊6年)に勃発したアロー戦争(第二次アヘン戦争)に際して、北京までフランス・イギリス連合軍が侵入、フランス軍が金目のものを全て略奪したのち、遠征軍司令官エルギン伯の命を受けたイギリス軍が「捕虜が虐待されたことに対する復讐」として徹底的に破壊し、円明園は廃墟となった。(wiki)

エルギン配下で円明園を破壊したインド軍兵士;パンジャブ連隊のシーク教徒兵士 [2]。下のYouTubeより;

[2] 8th Regiment of Punjab Infantry

Story of Indian soldiers who fought for British Army in China | James Bruce, Earl of Elgin | WION

このあいだのヒマラヤでの中印軍事衝突でインド兵が20名死亡。ところで、アロー戦争ではインド兵が清軍に捕まり拷問で20人ほど殺されたという話と円明園を破壊した話を紹介している。

■ そして、日本

敗戦後の占領下で、皇居前広場を行進するパンジャブ連隊が映っている動画を見つけた。

Ceremonial retreat at Tokyo

日本敗戦時、インド帝国のパンジャブ連隊は英連邦軍の一部として日本占領に参加した。大英帝国とインド帝国の「最期」の覇権的派遣だ。

パンジャブ連隊は鳥取に駐屯した。一方、東京にも出張り、占領軍としての示唆的行動=パレードを行っている。

パンジャブ連隊を含む英連邦軍の占領地は中国・四国地方であった。ただし、東京には連合軍としての一端を担うことを誇示するために駐屯した部隊もある。キャンプ・恵比寿。主に、豪軍[3]。そのキャンプ・恵比寿には呉など中国・四国地方から英連邦軍がしばしば訪れていたと記録からわかる。

[3]

 
左;第67歩兵連隊の所属。岡山に駐屯していた部隊。撮影場所は皇居、右;所属部隊不明、渋谷・ハチ公像前

● なぜ、シーク教徒か?

なぜ、インド軍兵士はシーク教徒なのか? あるいは、なぜヒンドゥー教徒ではないのか?

当時のインドの職業兵士;シパーシー(セポイ)の中のヒンドゥー教徒は、インダス川を渡って遠征すること、船に乗ることがタブーであった。あのセポイの乱は、下記理由で生じた;

彼らが反乱を起こした直接的な原因は、イギリス本国で新たに採用されたライフル銃(それまでの滑腔銃と異なり正確な命中精度と強力な威力を持つ)であるエンフィールド銃の薬包(先込め銃に装填する一発分の火薬と弾丸をセットで紙包みに包んだもの)に、ヒンドゥー教徒が神聖視する牛の脂とムスリムが不浄とみなしている豚の脂が使われており、この銃がシパーヒーにも配備されるという噂が流れたこと (wiki

一方、前述のように、シパーシー(セポイ)のうちヒンドゥー教徒は遠征も拒否していた(長崎暢子、『インド大反乱 一八五七年』)。したがって、大英帝国の海外遠征文体はイスラム教徒、シーク教徒となったと思われる。

こういう事情で、チャイナでも日本でも現れたインド帝国軍兵士はシーク教徒だったのだ。

なお、われらが大日本帝国が支援した「インド国民軍」は戦後インドで裁判にかけられる。


愚記事;Chalo Delhi! INA :インド国民軍


カール・マルクス、『イギリスのインド支配』和訳全文

2019年06月30日 15時52分50秒 | インド

1853年6月25日に米国の新聞「ニューヨーク・デイリー・トリビューン」に掲載されたカール・マルクスの新聞記事「イギリスのインド支配」の和訳(鈴木正四 訳)全文をコピペする。なお、英語の原文はネットですぐ見られる(The British rule in India)。

載せる理由やこの論文についてはここに書くと予断を与えるので、末に書きたい。ここでは簡単にすませる。

■ 今日でブログ15年。愚ブログも今日で15年。初記事で、「昔、マルクスの『イギリスのインド支配』という記事を読んだことがあった」と書いた。その「イギリスのインド支配」の全文。

■ この「イギリスのインド支配」は”西欧のもっとも露骨で恥知らずな植民地主義者の文章” [1] 的なものである。つまりは、スキャンダラスな文章ということ。 [1] 西川長夫、『国境の越え方』, 1992年

なお、この全文のうちスキャンダラスなくだりを別途ダイジェスト版として後日載せる。


マルクス
イギリスのインド支配

「ニューヨーク・デイリー・トリビューン」
一八五三年六月二十五日付、第三八〇四号
ロンドン、一八五三年六月十日、金曜日

 ヴィーンからの電報によれば、ヴィーンでは、トルコ、サルデーニャ、スイスの問題の討論が平和的に解決されるのは確かだと考えられているとのことである。

 昨晩、下院ではインド問題の討論が、いつものようにだれた調子でつづけられた。ブラケット氏は、サー・チャールズ・ウッドとサー・J・ホッグの陳述には楽天的にすぎる嘘という特徴があると非難した。内閣と理事会の多くの代弁者たちが、この非難を最大限に反駁した。型のようにヒューム氏が要約して、内閣に法案の撤回を求めた。討論は延期された。 

 ヒンドゥスタンは、アジア的な規模でのイタリアのようなものである。アルプスのかわりにヒマラヤがあり、ロンバルディア平野の代わりに平野があり、アペニン山脈の代わりにデカン高原があり、シチリア島の代わりセイロン島がある。土地からの生産物が種類にとみ、政治の構造がばらばらであるのも同一である。イタリアがしばしば征服者の剣によってさまざまな国家団体に凝縮させられたように、われわれはヒンドゥスタンが、回教徒やムガル人やイギリス人の圧迫のもとにおかれた場合を除いて、多くの独立した、あい争う国家に分かれ、その数は町の数、いや村の数とさえ等しいほどであることを知っている。けれども、社会的見地からみれば、ヒンドゥスタンは東洋のイタリアではなくて、東洋のアイルランドである。そしてこのイタリアとアイルランドとの奇妙な結合、官能の世界と苦難の世界との奇妙な結合を、ヒンドゥスタンの宗教の古い伝統があらかじめ示している。この宗教は、肉欲的歓喜の宗教であると同時に難行的禁欲の宗教であり、性器[リンガ]崇拝の宗教であると同時にジャガナートの宗教(121)であり、行者の宗教であると同時舞妓[バヤデール]の宗教である。
 私はヒンドゥスタンに黄金時代があったと信じる人たちの意見にくみするものではないが、だからといってサー・チャールズ・ウッドのようにクリー・カーンの権威をかりて自分の意見を裏づけようとも思わない。ただ、たとえばアウラングズィーブ**の時代をとってみればいい。あるいは北にムガル人が現われ、南にポルトガル人が現われた時代でもいい。あるいは回教徒が侵入し、南インドでは七王国分立の状態にあった時代(122)でもいい。さらにさかのぼりたければ、ブラーフマン(バラモン)自身の示す神話的な年代記をとって見ればいい。ブラーフマンは、インドの苦難が、キリスト教徒の説く創世よりももっとまえにさせ始まったとしているのである。
**ムガル王朝第六代の王(在位1658-1707年)

 しかしながら、すこしも疑いのないことは、イギリス人がヒンドゥスタンに与えた苦難が、ヒンドゥスタンがこれまで嘗めなければあらゆる苦難と根本的に違い、はるかに強烈なものであることである。私が言っているのは、イギリス東インド会社がアジアの専制主義の上につぎ木したヨーロッパの専制主義が、サルセット寺院(123)の人を驚かす異様な仏像のどれよりも、奇怪な結びつきを示しているということではない。これはイギリスの植民地支配の模倣にすぎないのであって、それも、イギリス東インド会社の活動の特徴をみるには、まえのオランダ東インド会社について、イギリスのジャヴァ総督サー・スタムフオード・ラッフルズが言った次のことばを、文字どおりくりかえせば十分なほどである。

 「オランダ会社は、利欲一点ばりで動いており、領民にたいして、西インド諸島の農園主が昔その農場の奴隷の集団に示したほどの関心や顧慮をもはらっていない。西インド諸島の農園主が人間財産を手にいれるのに金を出したのに、オランダ会社はそうしていないからである。オランダ会社は、これまであった専制主義の全機構をつかって、人民から貢納と労働とを最大限に一片残らずしぼりとった。こうして、まえからの気まぐれでなかば野蛮な政府が、政治家のあらゆる巧みな手口と商人のあらゆる排他的な利己心で運用されて、さらにひどい害悪を示すことになった。」

内乱、侵入、革命、征服、飢饉、それらがあいついでヒンドゥスタンに及ぼした作用が、どんなに奇妙なほど複雑で、急速で、破壊的であるように見えても、それらはすべてヒンドゥスタンの表面にふれただけであった。ところがイギリスは、インド社会の骨組み全体をうちこわしてしまい、それが再建されるきざしはまだすこしも現われていないのである。このようにインド人が古い世界をなくして、しかも新しい世界を得ていないため、インド人の現在の苦難は一種独特の憂鬱さをおびているのであり、またこの点でイギリス支配下のヒンドゥスタンは、この地の古来の伝統のすべて、過去の歴史全体から、隔てられているのである。
 アジアでは、一般に、太古以来、三つの政府部門しかなかった。財務省すなわち国内略奪者、軍事省すなわち国外略奪者、最後に公共事業省である。天候と地形上の条件、とくにサハラからアラビア、ペルシア、インド、タタールを経て、アジア最高の高原にまでひろがっている広大な砂漠地帯のために、運河と用水とによる人工灌漑が、東洋農場の基礎となった。エジプトとインドと同様、メソポタミア、ペルシアその他でも、洪水を利用して土地を肥沃にし、高い水位を利用して灌漑水路に水をそそいだ。このように水を節約して共同につかわなけければならない根本的な必要から、西洋では、フランドルやイタリアの例のように、私的経営が自発的な連合を結ぶのが促進されたが、東洋では文明があまりにも低く、また地域があまいに広大で、自発的な連合を生みださなかったため、とうぜん集中的にはたらく政府権力が介入することになった。ここからして、一つの経済的機能、すなわち公共事業をおこなうという機能が、あらゆるアジアの政府に帰した。このように土壌を人為的に肥沃化するのに中央政府にたより、灌漑や排水を怠るとすぐだめになってしまうしくみからして、パルミラやペトラ、あるいはイエメンの廃墟、さらにはエジプト、ペルシア、ヒンドゥスタンの広大な諸地方のように、まえにはみごとに耕されていた地域が、まるごと、いま不毛の荒地になっているという奇妙な事実がはじめて説明できるし、また、国土を荒らす戦争が一回あっただけで、何世紀となく無人の地となり、その文明もいっさい無に帰してしまうという理由も説明できる。
 さて、東インドのイギリス人は、前任者から財務省と軍事省はひきついだが、公共事業省のほうはまったくおろそかにした。そこからして、農業は衰退した。イギリス流の自由競争、自由放任 (124) [kaissez-faire, laissez-aller] の原則ではいとめない農業なのである。しかしアジアの諸帝国では、農業がある政府のもとでは衰退するが、他の政府のもとでは復活するのを、われわれはよくみなれている。ヨーロッパでは収穫が天気のよしあしで変わるように、アジアでは収穫が政府のよしあしで決まるのある。だから、農業を圧迫したり、おろそかにしたことは、悪いことではあるが、もしそれが格段に重要な一つの事情、全アジア世界の年代記にはじめて現われた一つの事情をともなわなかったら、侵入者のイギリス人がインド会社に致命的打撃を与えたものとみなすことは、不可能であったろう。インドではこれまでどんなに政治の姿が変わったようにみえても、その社会的条件は、最古の時代から変わることなく一九世紀の最初の一〇年代にまでおよんだ。無数の紡績工と敷布工とを規則ただしくつくりだす手織機と紡車とは、この社会の構造の枢軸であった。はるか昔からヨーロッパは、このインド人の勤労によるみごとな織物を受け取ってきたものである。その代わりとしてヨーロッパは貴金属を送って、インドの金細工に原料を提供してきた。この金細工師はインド社会には不可欠の人間である。というのは、インド社会が装飾品を好むことはたいへんなもので、ほとんどはだしで歩きまわる最下層の階級でさえ、金の耳輪を一対と首飾りになにかの金の細工品をつけているのが普通なくらいである。指輪や足の指輪もひろくつかわれてきた。女や子供がしばしば金や銀のずっしりした腕輪や足輪をつけていたし、家のなかには金銀の神像が見られた。このインドの手織機をうちこわし、紡車を破壊したのは、侵入したイギリス人であった。イギリスはまずインド綿製品をヨーロッパ市場から駆逐した。つづいて撚糸をヒンドゥスタンにもちこみ、ついにはこの木綿の母国そのものに綿製品を氾濫させた。一八一八年から一八三六年までに、イギリスのインドへのモスリンの輸出は、一八二四年には一〇〇万ヤードたらずであったが、一八三七年には六四〇〇万ヤードをこえた。しかし同時に、ダガー(インドの綿業都市)の人口は一五万人から二万人に減った。だが、このように織物製品で有名なインドの諸都市が衰退したことも、けっして、いちばん悪い結果ではなかった。イギリスの蒸気力と科学とが、ヒンドゥスタンの全土にわたって、農業と手工業との結合をくつがえしてしまったのである。
 これらの二つの事情― 一方ではインド人が、東洋のすべての国民と同じく、大公共事業の世話という農業および商業の第一条件を中央政府にまかせたこと、他方ではインド人が国中にちらばっていて、農業と手工業との家内的結合によって小さな中心をかたちづくっていたこと―これらの二つの事情は遠い昔から、独特な性質をもった一つの社会制度―いわゆる村落制度を生み出していた。この制度の特殊な性格については、インド問題にかんするイギリス下院の古い公式報告のなかにある次の記述から察することができよう。

「村は、地理的にみれば、数百か数千エーカーの耕地と荒地からなる一地域であり、政治的にみれば、自治体か町村に似ている。その役員と吏員とは、正常ならば、次の種類のものから編成されている。ポタイルすなわち住民の長、彼は村の事務を一般に主宰し、住民の争いを解決し、警察事務にあたり、村内の租税の徴収という任務を果たす。この徴税の任務は、彼が個人的影響力をもち、人民の事情や業務をこまかく知っているので、もっとも適任なのである。カルナムは耕作の記帳をし、耕作に関係あるすべてのことを記録する。タリアとトティ、前者の任務は、犯罪や不法行為についての情報を集めること、村から村へと旅する人を護衛、保護することであり、後者の職分は、もっと村に直接かぎられているようで、とりわけ作物をまもったり、その計量をたすけることにある。貯水池と用水路の管理人は、農業用の水を分配する。ブラーフマン、村の礼拝をおこなう。学校教師、村の子に砂の上で読み書きを教えているのがみうけられる。暦をつかさどるブラーフマン、すなわち占星師など。このような役員と吏員とで村の管理機構を編成しているのが普通である。しかし、この国のある地方では、これがもっと小規模で、上記のいくつかの任務や職能を一人の人間が兼ねているし、反対に他の地方ではそれがまえにあげた人間の数よりも多い。こういう単純なかたちの自治体政府のもとに、この国の住民は太古このかた暮らしてきているのである。村の境界はめったに変わらなかった。村そのものは戦争や飢饉や病気で時にそこなわれ、荒廃しさえしたけれども、同じ名称、同じ境界、同じ利害、いや同じ家族までが、幾世紀となくつづいてきたのである。住民は王国が瓦解しようと分裂しようと気にかけなかった。村がそこなわれないかぎり、住民は、村がどの権力のもとに移されようが、どの支配者に属そうがかまわなかった。村の内部の経済は、変わることなく残っている。ポタイルは依然として住民の長であり、依然として小裁判官ないし治安判事として、また村の徴税人ないし小作料徴収人として行動しているのである。」

これらの小さな固定したかたちの社会組織は、イギリスの徴税官やイギリスの兵士の野獣のような干渉のためというよりも、イギリスの蒸気力やイギリスの自由貿易の作用によって、大部分解体されたし、消滅しつつある。これらの家族共同体は家内工業に基礎をおいていた。すなわち、手織り、手紡ぎ、手耕農業の独特な組合せが、これらの共同体に自給自足の力を与えていたのだが、それに基礎をおいていたのである。イギリスの干渉は、紡績工をランカシアに、敷布工をベンガルにとわけへだてたり、あるいはインド人の紡績工と敷布工とを共に一掃したりして、この小さな半野蛮、半文明の共同体の経済的基礎を爆破して共同体を解体させ、じつは唯一の社会革命を生みだしたのである。

ところで、この無数な家父長的で無害な社会組織が解体され、各構成単位に分解され、苦難の海になげおとされ、その各成員が古代そのままの形態の文明と伝来の生活手段とを同時に失うのをみることは、人間感情にとって胸いたむものではあるにはちがいないけれども、われわれは、これらの牧歌的な村落共同体がたとえ無害にみえようとも、それがつねに東洋専制政治の強固な基礎となってきたこと、またそれが人間精神を迷信の無抵抗な道具にし、伝統的な規則な奴隷とし、人間精神からすべての雄大さと歴史的精力を奪ったことを、忘れてはならない。みすぼらしいいくらかの土地にとらわれ、いくつ帝国が滅びても、度をこえた残虐行為がおかされても、いくつもの大都市の全住民が虐殺されるということが起こっても、平然とこれらを傍観して、自然現象にたいするほどの関心しかよせず、みずからも、目をつけられたら最後、まちがいなく侵略者の無力な餌となった、このような野蛮な利己主義を忘れてはならない。この人間的尊厳を知らない、停滞した、十年一日のような生活、この受動的な生き方が、他方では対照的に、乱暴で、盲目的で、とどまるところを知らない破壊力をよびおこし、ヒンドゥスタンでは殺人をさえ宗教上の祭式にしたことを、忘れてはならない。これらの小さな共同体がカーストの差別や奴隷制という汚点をもっていたこと、これらの共同体が人間を環境の支配者にたかめるのではなくて人間を外的環境に隷属させたこと、これらの共同体がみずから発展してゆく社会状況を、けっして変化しない自然の運命に変え、こうして人間性を失わせる自然崇拝、それも自然の支配者である人間が猿のハヌマンや牝牛のサッパラにひざまずいて礼拝する事実に示されるほど堕落した自然崇拝を、もたらしたことを忘れてはならない。

なるほどイギリスがヒンドゥスタンに社会革命をひきおこした動機は、もっともいやしい利益だけであり、その利益を達成する仕方もばかげたものであった。しかし、それが問題なのではない。問題は、人類がその使命を果たすのに、アジアの社会状態の根本的な革命なしにそれができるのかということである。できないとすれば、イギリスがおかした罪がどんなものであるにせよ、イギリスはこの革命をもたらすことによって、無意識に歴史の道具の役割を果たしたのである。

だから、古代世界がくずれおちる情景が、われわれの個人的感情にはどんなに悲痛であるとしても、歴史の立場からすれば、われわれはゲーテとともに、次のように叫ぶ権利を持っている。

「この苦しみがわれらの快楽をますからには、
どうしてわれらの心を苦しめよう。
ティームールの支配も、
無数の命を滅ぼしたではなかったか?」

[“Sollte diese Qual uns qualen,
Da sie unsre Lust vermehrt,
Hat nicht Myriaden Seelen
Timurs Herrschaft aufgezehrt?”]

*  ゲーテ『西東詩集』所収「ティームールの書」中の「ズライカに」から。

 

(121) リンガの宗教(性器崇拝)―シヴァ神の礼拝。南インドのリンガ宗派(「リンガ」―男性器―はシヴァの表象)のあいだにとくにひろまっていった。ヒンドゥー教の一宗派で、カーストの差別を認めず、断食、いけにえ、巡礼を拒否している。
 ジャガナート(ジャガナウト)―ヒンドゥー教の主神のひとりであるシヴァ神の化身の一つ。ジャガナートの礼拝は、特別壮麗な儀式とはなはだしい狂信とを特徴としている。この狂信は、信者がみずから去勢し、いけにえとなることに現れていた。大祭日には、信者は、ヴィシェヌ‐ジャガナートの神像をのせた山車の轍の下に身を投げた。

(122) ムガル―トルコ系の征服者で、十六世紀初頭に中央アジア東部からインドに侵入し、一五二六年にインド北部大ムガル帝国(この帝国を支配した王朝は大ムガル朝とよばれた)を創立した。同時代に人々は、ムガル帝国の創立者たちを、チンギス・カーン時代のモンゴールの征服者の直接の子孫と見なしていた。「ムガル」という名まえもここから出てきた。ムガル帝国は、十七世紀中葉にインドの大部分とアフガニスタンの一部を征服してから、とくに強大になった。農民蜂起、回教徒の征服者にたいするインド諸民族の反抗の増大、たえまない内訌、封建的な分離主義的傾向の増大、これらはムガル帝国の崩壊をもたらし、十八世紀の前半には同帝国は事実上存在することをやめた。
 七王国分立―七つの独立の部分に分裂した国のこと(たとえば、六世紀から八世紀のアングロサクソン時代の古代イングランド)。ここでは、マルクスはこの表現を類推的に、回教徒の征服依然のデカン(インド中部および南部)の封建的割拠状態をさすのに使っている。

(123) ボンベイ地方のサルセット島は、一〇九の仏教洞窟寺院の存在で有名である。

(124) 自由放任― マンチェスター学派、すなわち自由貿易の自由主義的な経済原則。彼らは、自由貿易と、経済問題への国家の介入とを主張していた。


 コピペ元; 大月書店、マルクス=エンゲルス全集 第9巻、1962年、「イギリスのインド支配」、鈴木正四 訳。なお、鈴木正四のwiki。

 
Amazon

マルクスに「イギリスのインド支配」という文章がある。1853年6月25日に米国のニューヨーク・デイリー・トリビューンという新聞に寄稿したものだ。この1853年6月というのは、マシュー・ペリー率いる米国東インド艦隊が、琉球経由で、浦賀に来た頃。

文明的に遅れたインドはイギリスに破壊されれることによってより文明的な社会になれるといったこの西欧自己中心主義的思想について、日本では結構昔から一般書において紹介されている。

おいらの知る限り、例えば、岩波新書では2冊ある。蝋山芳郎、『インド・パキスタン現代史』(1967年)、遠山茂樹、『明治維新と現代』(1968年)。しかし、これらの本において、マルクスがイギリスの帝国主義を歴史的必然として肯定することには言及していないし、マルクスを非難することもしていない。

学術的にはマルクスのインド論は「アジア的生産様式」論争として研究されてきた。例えば、おいらは、小谷汪之、『マルクスとアジア』(1979年)(Amazon)をみたことがある。小谷汪之もマルクスを帝国主義者よばわりしていない。

一方、このマルクスの「イギリスのインド支配」が、より盛んに、日本で言及されるようになったのは、1990年代以降で、その理由はE. W. サイードの『オリエンタリズム』(1978年、邦訳1986年)のせいである。そのE. W. サイードの『オリエンタリズム』で「イギリスのインド支配」のマルクスの言説をロマン主義的オリエンタリズムと解釈している。サイードがこの「イギリスのインド支配」を有名にした。こういうわけで、現在、マルクスの「イギリスのインド支配」の全文を知りたい人というのは、サイードの引用文献として全文を確かめたい人だと思われる。

例えば、サイード経由のマルクス、「イギリスのインド支配」への言及として、柄谷行人の次の発言がある(【共同討議】伝統・国家・資本主【共同討議】伝統・国家・資本主義、 西部邁、福田和也、浅田彰、柄谷行人、「批評空間 II-16」1998);

柄谷 (前略)確かに、現在は、アメリカが規制緩和・自由化を要求して、世界中に圧力をかけている。しかし、その場合、アメリカがどうこうやっているとか言っても仕方がない。例えば、イギリスがインドを植民地にしたことについて、マルクスはやむをえないと言う。サイードはマルクスよ、お前もか、と怒っているけれど(笑)。
浅田 資本主義は世界を呑み込んでいくけれども、それに伴って「資本の文明化作用」も働くことになる。これがマルクスの弁証法でしょう。ある段階でイギリスがその先端を担ったけれど、後には没落した。今の段階ではアメリカがその先端を担っているけれど、後でどうなるかわからない。ともあれ、で問題は資本主義であって、イギリスやアメリカではない、と。
柄谷 そうですね。そこにどうしようもなく旧来の共同体を変えてしまう力が働いているわけで、それが貨幣経済です。(以下、略)

資本による伝統的社会の破壊は必然的なものとみる立場だ。この思想的立場だとアメリカによるヴィエトナム戦争は肯定されることになる。

一方、サイード経由のマルクス、「イギリスのインド支配」をおかずにして、文明論に言及しているのが、西川長夫。西川長夫、『国境の越え方』, 1992年。

西川は、マルクスのインド一連のインド論について、「マルクスの署名がなければ、われわれ読者は、西欧のもっとも露骨で恥知らずな植民地主義者の文章だと思うだろう」と云う。しかし、「もちろんマルクスは植民地支配を擁護しているのではなく、歴史的事実と歴史的必然について述べているのである」と云う。イギリス帝国主義、あるいは資本主義が他文明を征服することが歴史的必然であると判断するのは帝国主義のイデオロギーである。

そして、西川は云う;「それに、このようにテクストの一部を抜き出してそれが全体の論調であるかのような論じ方をしてはならないだろう」。

なので、マルクスの「イギリスのインド支配」の全文をコピペして見られるようにした。

 


デリーのカシミール門のJohn Smith (ジョン・スミス)さんの素性がわかった;靴職人の息子だった。

2019年05月02日 19時40分24秒 | インド

2007年10月7日の愚記事「カシミール門」において、現地の石碑にJohn Smith (ジョン・スミス)の名を見つけたことを書いた。

John Smith (ジョン・スミス)とは、wikipediaによってでも明らかなように、こういう意味である;

そして、今日の主役、カシミール門 (Cashmere Gate) のJohn Smith (ジョン・スミス)さん。

ググったら、あった。⇒ Sgt John Smith VC 

彼はイギリスの真ん中のティックナル(Ticknall)という街で靴職人の息子として1814年生まれた。

1857年の、今の中高年の人は「セポイの乱」として習った、でも現在は「インド大反乱」と呼ばれる戦争で、彼はカシミール門攻撃作戦の功績で"敵前において勇気を見せた軍人"に対してのみ授与される「ヴィクトリア十字勲章」(wiki)を他の仲間3人と共に授けられた。ただし、生存者は彼ひとり。

生涯英国本国には帰らず、現地で(イギリス人と)結婚して、1864年赤痢で死んだ。

彼のヴィクトリア十字勲章は親類に伝えられたが、その後行方不明。1989年に売買されたことが確認されている。

以上は上記のサイトに書いてあること。このティックナルのサイトは郷土の人についての情報を載せているのだ。


ところで、なぜ今日、カシミール門のJohn Smith (ジョン・スミス)さんをググったかというと、休みで本の整理をしていたら、文庫本(2003年刊行)で内田樹の『ためらいの倫理学』が出てきて、読んでいた。すると下記あった;

 たとえば、アメリカ人で共和党支持者のジョン・スミスさん(イリノイ州オーロラ在住、四十三歳、仮名)

とあり、John Smith (ジョン・スミス)のことを思い出し、ググったのだ。この内田のジョン・スミスの用法は上記のwikipediaにある用法の典型例である。

このアメリカ人のジョン・スミスさんは戦後の戦争に対する「日本人としての政治責任」の取り方について、保守的米国人が望む政策=在日米軍によるアジアでの米国のプレゼンスの維持を主張する人のモデル。ちなみに、これと対照的なのが、コリアンの徐京植(ソキョンシク)さんの「日本人難民化」。内田は徐の主張は「恫喝」であると批判し、その批判の一環として戦後の戦争に対する「日本人としての政治責任」の取り方は国によって違うことの例としてジョン・スミスさんモデルを提示。

 

 


続;デリー、キラー城コスプレ

2019年04月16日 18時36分16秒 | インド

愚ブログに、2004年9月5日の愚記事;デリーキラー城コスプレというのがある。昨日、このコスプレは、シーク教徒の武術である「ガッカ」(wiki)の衣装らしいと、下記tweetをきっかけに、わかる。

15年前のデジカメ画像を見直して、画像を出してきた。改めて、貼る。




黄ばむ田島春さん、or Taj Mahal Is Turning Yellow

2018年07月12日 19時16分37秒 | インド


元来白色大理石のタージマハルが変色しているとのこと。インド最高裁は政府に対処せよと命じた(Google; タージマハル 変色  最高裁)。

とのことで、昔行ったタージマハルのデジカメ画像を見直した。

あの廟を拝する前に大きな門をくぐる。その先にある。

おいらが初めてタージマハルを拝んだ瞬間。

レンズがよごれてます。

14年前の白さです。


おフランスの印度化計画; インド国民車「アンバサダー」@商標を旧プジョーが買収

2017年03月16日 20時27分13秒 | インド


インド国民車「アンバサダー」 (画像再掲
右折するインド国民車「アンバサダー」を狙って、横っ腹を狙いました。
今から10年あまり前です。 デリーです。
BRICSの時代です。
今、振り返ると、globalismの興隆期でした。

■ おフランスの印度化計画; インド国民車「アンバサダー」を旧プジョーが買収

日経記事; グループPSA、インド再参入を発表

日刊インド経済;  「アンバサダー」、プジョーに売却へ ヒンドゥスタン・モーターズ

 

 


日印 1957 - 2014

2014年08月31日 19時30分08秒 | インド

 

1957年訪印しネルーと会う岸信介           昨日 (インド モディ首相 訪日
[この画像は net-sphereになかった
愚ブログが、net-sphereへの初コピペ]

 石田保昭、『インドで暮らす』 (愚記事;なつかしい本の話)のおもしろい点はこまかい金銭情報が記録されていることである。

 ところで、石田保昭が渡印する前年、1957年、岸信介が安保改定を目指して訪米する前に、戦略的に、インドを訪れた。

 われらが敗残国ぬっぽん(1957年といえば敗戦後12年である)にだって、少しは選択肢があることを、事実上=軍事管理上の"宗主国"に示唆する必要があったからだ。サンフランシスコ講和条約への出席を拒否し、われらが敗残国ぬっぽんと独自に国交を回復したのが、インドである(関連愚記事;若泉敬 荒松雄 インド1952)。

なお、この時期、ネルーは周恩来に、岸は蒋介石と、それぞれ首脳会談している。

 そして、中印戦争勃発は1962年。 日米安保改定の2年後である。

石田保昭がインドに行ったのが1958年。月給は275ルピー(2万円@当時レート)。

つまりは、1958 - 2014で円はルピーに対し、44倍も強くなったのだ。 


   参考愚記事[同上] 目玉焼きは卵が二つ、バターも本物、たっぷりミルクを入れた紅茶は飲み放題。食水準は東京より何倍も上がった。心配無用

驚くことに、おいらが初めてインドに行った2004年より、円は1.4倍強くなっているのだ。 

っていうか、大丈夫か!?インド・ルピー! インド経済!

そして、振り返れば、『深夜特急』のバックパッカーの興隆?時代の1980年代初頭は1ルピーを買うためには30円を出さなければいけなかったのだ。

今は『深夜特急』の時代の18倍、円が強いのだ。


コピペ元

■ 関連愚記事; 日印弁当 ; あるいは、総リスト

 

 


回想十年; chicken maharaja mac

2014年07月02日 20時07分16秒 | インド

回想十年。 10年前の愚記事;チキン・マハラジャ・バーガーの画像が少なかった。

補填する。 補填というより、そもそも、商品名が間違っている。チキン・マハラジャ・バーガーではなく、チキン・マハラジャ・マック

 

CMB=chicken maharaja mac、59ルピー。当時はルピーが3円ほど。
今はルピーの価値が下がっている(1円=1.7ルピー)が、一方のCMB=chicken maharaja macも価格が不明。
(現在100ルピーとの情報あり)

店内の様子;

調理場。 グローバル化@2004@@10年前。 BRICS [1] という言葉(2001年)が出始めの頃だ。

[1]Brazil, Russia, India and China。今では、癖のある国ばかりだ。ちなみに、日本人があんまり知らないことだが、ブラジル人の国民意識調査では、「アメリカが嫌い」がとても多い。おそらく、BRICSで一番多いかもしれない。親米なのがインド。


http://www.mcdonaldsindia.net


1942年のデリーに、3000人の日本人がいた

2012年10月24日 19時29分13秒 | インド

今日知ったこと;1942年のデリーに、3000人の日本人がいた。

岡部伸 、『消えたヤルタ密約緊急電 -情報士官・小野寺信の孤独な戦い-』を読んでいて、初めて知った。

先日同様、この本の本筋とはずれた話し。

スウエーデンはストックホルムで諜報活動、そして大戦末期には終戦工作にがんばっていた小野寺信陸軍少将の当地ストックホルムでの"ライバル"は、外務省のスウエーデン公使・岡本李正(すえまさ)[コトバンク]であった。

ちなみに、大日本帝国陸軍少将、小野寺信は親米英派、対米英への 幸福 降伏論者小野寺信は、ヤルタ密約での「ドイツ敗北後3カ月でソ連対日参戦」という情報を掴んでいて、そのソ連に和平仲介を依頼するのは笑止なり!という立場。一方、外務省・岡本李正は、戦争末期の東京の路線に合わせてソ連へのい仲介和平論者。米英、特に英国にふくむところがある。

その上記ふくむところというのが、今日のお題。

大東亜戦争、対米英戦争は日本軍によるコタバル上陸作戦で始まった。真珠湾攻撃より数時間前である。

当然、1941年12月8日だ。

その1941年12月8日の数日前に、のこのことシンガポール総領事としてやってきたのが、大日本帝国政府外務省の岡本李正にほかならない(1941年12月5日)。そして、開戦。

大英帝国支配下(数か月後には日帝軍に占領されるのだが)の日本人は逮捕、拘束。民間人でありながら、みんな捕虜となった(civilian prisoners)。そして、インドに連行されたのである。

意外なChalo Delhi!ではある(google: 進め、デリーへ!)。 当のチャンドラ・ボースはデリーへたどりつけなかったのに...。

■ デリー、プラナキラ

おいらは、残念ながら、デリーのプラナキラに行ったことがない。ほんの数キロ先のインド門には行ったことがある(愚記事;他人の戦争と自分の戦争、あるいは、横田を還さないふたり )。インドのデリーは多重都市(愚記事: 続、占領地域を闊歩する日帝学徒/役人)と表現されことがある。歴史的にみて、大昔から為政者はデリーに都を築いてきた。その歴代の王朝の建物がデリーには残されているのだ。多重都市という視点で東京を見れば、たかだか二重都市である。すなわち、徳川家の江戸時代と皇室の近代・東京。そして、デリーと大違いなのが、中心が江戸―東京では変わらない。つまり、徳川家の居城が、現在の皇室の宮殿である。それに対し、デリーは各王朝の王宮がばらばらある。例えば、時代的に近いところでは、ムガール王朝の最盛期の宮殿はラールキラー(愚記事)である。そして、ムガール王朝を滅ぼした大英帝国のインド帝国の政庁はいわゆるニューデリー(上図の☆1)である。この印象は、例えば今京都に行っても「室町幕府」跡という立派な建物がないことで強烈さを増す。しかし、インドのデリーはこの「室町幕府」跡という立派(崩壊しつつも)な建物が点在しているのだ。それが、多重都市の意味。

『多重都市: 中世いらいインド歴代王朝の首都であり、権力の盛衰・興亡の一大拠点であったデリー。「七つの都市デリー」「十五の町デリー」と言われてきたように、そこ には各時代における城砦都市や首都の地域的な移動といった事実のほか、民族と宗教の問題、植民地支配時代の「東洋と西洋」の問題をはじめ、多重・多層的な 複雑な性格が見られる。本書はデリーが発展し、停滞し、再興されて行く歴史の中に多重都市の特徴と由縁を見る。Amazonの商品内容説明。

さて、プラナキラ

プラナキラは、16世紀にムガール王朝の二代目のフマユーン帝の政庁(ムガール帝国発足時)、そして城。ちなみにフマユーン帝は、あのタージマハルを作ったムガール王朝の5代目のシャー・ジャハーンの2代前に当たる。そのフマユーン帝の御墓は、フマユーン廟としてデリーにある。フマユーンシャー・ジャハーンのおじいさんであり、タージマハル(田島春)さんのおばあさんこそが、フマユーン廟なのである

デリーには世界遺産が複数あるようで、上記ラールキラーはもちろん、フマユーンも観光名所。そして、プラナキラは少しマイナー。だから、元来御調子者のおいらは、これまで6回デリーに行ったなかで3回はラールキラーには行ったが、プラナキラは行かずじまいだった。

そのプラナキラこそが、1942年に大英帝国の虜となった日本人3000人の収容所だったのだ!

知らなかった。

そして、外務省の岡本李正さん。

さてプラナキラ抑留所の状況について初めて具体的に日本政府が知ったのは1942年9月3日のことだった。ロレンソマルケスに着いた岡本季正シンガポール総領事は9月1日イタリア領事を通してポルトガルの日本公使から外務省に電報を打ってもらった。それが外務省に届いたのが3日夜だった。その電報は、ロレンソマルケスに到着するまでに720名中6名の死者が出たこと、「印度に於て目下収容中の邦人は二千百名にして本官か親しく収容所を視察せる処に依れは之等邦人はテント生活を為し居るも待遇は土人中にても最下等のものにして随て極度の栄養不足に陥り居り衛生設備又甚た悪く赤痢流行し蔓延しつつあり 目下患者五十名なるか医療行き届かす前途憂慮に堪へす」という内容だった(資料①所収)。

この電報は中立国であったスイス、スウェーデン、スペインのそれぞれの日本公使館にも送られた。これを受けた徳永太郎スイス駐在代理公使は9月9日 付で本省に電報を打ち、「十五日間の航海中に於て七二〇名中死者六名を出すか如きは如何に其の待遇悪きかか窺れ又印度に於ける邦人待遇に対しては義憤を感 せさるを得す」としてイギリス政府に「厳重抗議方然るへし」と意見具申するとともに、岡本総領事らのリスボン到着を待って赤十字国際委員会に「厳重なる再 調査を依頼」することを本省に伝えた。

これを受けて外務省は9月14日 徳永スイス駐在代理公使に対して、「在印度抑留邦人に対する待遇は極めて悪き為一同甚だしき栄養不良に陥り又赤痢蔓延しつつあるも衛生設備不備にして医療 行届かざる状態なる趣の処右事実は交換船シチ・オブパリス号にて僅か十五日間の航海中死者六名を出したる不祥事と共に帝国政府の深く憂慮する所なり  茲に英国政府に対し右に付強く抗議すると共に同政府より印度政府に対し在印抑留邦人の待遇改善方に付至急指令あらんことを要請する次第なり」との趣旨をイギリス政府に申し入れることを指示した。これが最初の日本政府からの抗議であった。 (出典:インドに抑留された日本人民間抑留者)赤字・強調、いか@。