いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

(無題)

2013年05月29日 20時36分06秒 | その他

▼ 日本語検定試験; 番外

解釈しなさい;

「留守隊で手を焼いている。そいつは、腕力があって、地方で、よくない商売をしていた」

参考: "そいつ"のせりふ(下線部);

「入隊するまで、何をしていた?」と私が大宮にきいたのは、夜、消灯になってからであった。

「上等兵殿は、東京ですか?」

「そうだ」

「新宿から、四谷見附まで、露店が出ていたのを覚えてますか?」

「覚えているよ」

「新宿の親分の命令を受けて、その露店のショバ代を徴発して歩くのが、自分の商売だったのです。親分の用心棒をかねて」

以上、出典は、有馬頼義、『兵隊やくざ -貴三郎一代-』

* おこたい;

Google


不勉強が身にしみる

2013年05月26日 20時18分48秒 | 中国出張/遊興/中国事情

   - ドイツの諸問題を解決するのはただ鉄と血だけである - ビスマルク 

■ 今日知ったこと; その1

中国の粗鋼生産量が、日本の7倍なんだ。

これが本当の「大躍進」じゃないか!

今の子供たちは「地理」で世界の国別鉄鋼生産量とかちゃんと習っているのね。

おうちに帰って、おとうさん・おかあさん、そして、おじいさん・おばあさんに教えてあげましょう!

関連ニュース;神戸製鋼 休炉.

だから、ぬっぽんは、特殊鋼で、がんばっているのだ。


ソース: http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5500.html

■ その2;


   愚記事より

おいらが、2005年に見たこの風景には、薄熙来( Bó Xīlái 、和名(笑):はく  きらい)の 賜物(たまもの)が写っていたのだ。

最近、薄熙来一代記を読んで気づいたよ。


ぶどうの木再生日記;第10週目

2013年05月25日 08時26分01秒 | 草花野菜

▼ 今週の世間さまから尊ばれない巷のお花

▼ 今週の筑波山麓

▼ 今週の看猫

なつかない猫、みけちゃん。
すんげー嫌がっている、目を合わせないようにがんばっている。
なにより、耳が折れている。

▼ 今週の道楽者ニュース;


ソース:google

東海村の日本原子力研究開発機構の原子力科学研究所= J-park

狭義の原子力技術のための"基礎"科学にも、結果的に、予算はまわっている。まわっているというより、"目的外"使用されている。基礎科学研究者、つまり道楽者(これは尊敬をこめたおいらからの呼称である;google)たちが、自分たちの道楽が実は、狭義の原子力技術の研究開発に関係ないことを知りながら、世間には関係あるフリをして、予算を獲得し、蕩尽しているのだ。

これだ⇒J-PARC 大強度陽子加速器施設

この実験施設では、基礎物理をやっている。でも、基礎物理ばっかりをやっていては、予算獲得の大義名分がない。

「大強度陽子」を使って、放射性核物質、原子力発電所の「死の灰」の処理をするという大義名分を掲げているのだ。そうなのだ、日本政府の原子力政策の波に乗って、予算(実験設備という資源)をせしめて、実験しているのだ。 つまり、日本政府が原子力政策を放棄してしまえば、早野龍五センセの研究道楽は成り立たないのだ。なぜなら、原子力関連予算の中から文部科学省がせしめる 1000億円の中から研究資金が出ているからだ。


愚ブログ愚記事「ぼくたちの"おもちゃ"は危なくないんだぞ! 」は、まつがい だった。

しかも、

 「通報遅い」って、道楽者ですもの...
 「通報遅い」って、通報の電話回線が「長い」のかもね!?、御大も言っていた;

 

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何が書かれていないのか?

2013年05月22日 19時32分18秒 | 日本事情

(今日も敬称略です)

おいらは、大学紛争で暴れていたと自認する人にあったことはない。 もっとも、これまですれ違った人の何人かが暴徒だったかもしれない。 もしいたとしたら、それらの人は口をつぐんでいたのだ。

さて、先日来言及している、渡辺利夫の自伝『私のなかのアジア』には、大学紛争時の全共闘との闘いが書かれている。大学教官としてとの具体的な闘いを書いている本はこれまで見なかった。おいらが、気づかないだけか?たとえば、かの丸山真男は彼の研究室が全共闘に破壊されたと伝えられている。そして、「ファシストもやらなかったことを、やるのか」と発言した(wiki)、あるいは、ナチスもやらなかった蛮行と激怒する(wiki)、とされる。ただし、この話は広く流布しているが、出典がわからない。さらに、詳細もわからない。そもそも、丸山が何と言ったのか?上記のように錯綜している。

そして、著名人でも、内田樹など全共闘だった とされている[1] 人たちは、何ら恥じるところなく、恬としている。おいらのこれまでの世間の印象では、全共闘運動はそう忌み嫌われいないように受け取ってきた。それは、連合赤軍やのちのオウム真理教とは違う世間の待遇である。

でも、本当は、全共闘運動って「ひどいことをした」らしい。被害にあった大学教官も多くがだんまりをきめこんでいるらしい。その機構(メカニズム)が渡辺利夫の自伝『私のなかのアジア』に垣間見える。

まずは、全共闘との闘い;

(渡辺利夫は1967年[昭和42年]関東学院大学の助手となる。助手として教授会で議事録係りをしているときの話)

 教授会の最中、タオルで覆面した赤ヘルメットの十数人の学生が会議室に喚きながら乱れ入り、私が記録するノートを持ち去ろうとしたことがあった。唯一の仕事を奪われてなるものかと近づいた学生に頭突きを食らわせたところ、彼はあっけないほどに脆くどすんと尻餅をついた。これに気がついた学生が私を取り囲んで罵声を浴びせた。

 会議室の一墨で私が学生の輪に取り囲まれているのを二十名ほどの教授たちは黙ってみているだけ、誰も助けにこなかった。(後略)

 久しく味わったことのない屈辱であった。私のいた学部の教授たちは腹を立てるということを知らない人物ばかりのようだった。やられたらやり返すと兄から教えられて幼少期を育った私などには、全共闘と本気でやりあっても多勢に無勢だが、さりとてやられっぱなしという気には到底なれなかった。

 研究室の本棚に消火器の液を吹き付けて本を台無しにするという「反権威」が当時、全国の全共闘ではやっていた。私の研究室にも消火器を抱えた一人の学生が押し入ってきた。なけなしの金を叩いて買い集めた本を駄目にされてはならじと、この学生を頭突きで倒し逃げ帰らせたことがあった。全共闘が仕返しに押しかけてくれば観念するしかなかったのだが、幸いそんなこともなかった。 (渡辺利夫、『私のなかのアジア』)

 ゲバ学生から自分の研究室を守ったという話が文章になっているのを初めてみた。丸山真男のような嘆き節とは違うのだ。

     
自衛権行使    …         包丁で撃退してやる

▼ 西部邁は全共闘学生と何もなかったのか?

 前回も書いたように、西部邁と渡辺利夫は共に1939年生まれである。同い年である。西部は1970年頃に横浜国立大学の助教授となっている。ただし、自伝や著書の経歴、そして、wikiでも何年何月に横浜国立大学に勤めたか書いてない。自伝からは、60年安保での逮捕と引き続く8年にわたる裁判、そして執行猶予判決が出て2年して、大学に勤めたと読める。だから、1970年頃。1970年としたら、全共闘運動は最盛期を過ぎていた頃だろう。でも、渡辺利夫は関東学院大学の紛争は1973年[昭和48年]まで続いたと書いている。したがって、西部は横浜国立大学で学生、あるいは新左翼過激学生と接していたはずだとしか思われない。そして、西部は自伝で、1972年の浅間山荘事件について、「恥ずかしいことに、銃を手にして国家に反逆する青年たちにたいする共感が、というより自分のかつての反逆をどこかで肯定したいという甘えた気分が、自分のうちに少々残っていた」(西部邁、『寓喩としての人生』)と書いている。

 1970年頃の横浜国立大学の助教授の講義といえば、新左翼学生に占拠され、討論会でもやろう!という状況もあったに違いない。そういうとき西部はどうしていたのだろう? 「国家に反逆する青年たちにたいする共感が、というより自分のかつての反逆をどこかで肯定したいという甘えた気分」を持って。

 ▼まとめ

他人の自伝を読むときの注意。 何が書かれていないのか?を邪推すること。

 

[1] 内田は、1970年春の東大入学である。黒田さんの「はじめに」にも、全共闘は、組織的に69年にほぼ解体したとある。当然、内田のときには東大全共闘はない。

 

 

 

 


1959年(昭和34年)の「オーバーコート」の意味;昭和の成仏のために、超些細 = 「様々なる衣装」編

2013年05月19日 10時10分41秒 | 日本事情

「西部邁」を御検索ですか?

では、どうぞ; 愚ブログに現れたる「彼」

(本日の記事では、いつもとは違って、全部、敬称略です。登場固有名は、みな、歴史的人物ということで、よろしく。)

最近、 秀実、『1968年』にあった画像と渡辺利夫の自伝から、些細なことがわかったので、メモっておく。 

■ 


図1;絓 秀実、『1968年』(ちくま新書)より、1959年、デモに出発する西部邁と清水丈夫(現・中核派議長)」と題された画像、 without permission, 許してください

■ 最近、たまたま読んだ、渡辺利夫(対中「強硬派」の学者、米国と同盟する海洋国家日本を提唱する、拓殖大学学長)の自伝に書いてあった;

 敗戦から一〇年と少し、私の青春時代にはまだ貧困が街にあふれていた。私が入学した慶應義塾大学などは比較的豊かな家の子弟が入るところだと聞かされていたが、厳寒の日でもオーバーコートを羽織っている学生はいなかった。学生服の上にジャンパーを引っかけるのがせいぜいであった。
『私のなかのアジア』、渡辺利夫

西部邁と渡辺利夫は共に1939年生まれである。

▼考察

渡辺の回想によれば、オーバーコートを着る学生はいなかった。学生服の上にジャンパーを引っかけるのがせいぜいであった、とある。したがって、まさに「学生服の上にジャンパーを引っかけ」ている西部邁は当時の学生の普通の格好なのだ。むしろ、のち中核派の頭(カシラ)となる清水丈夫の方が贅沢な格好しているということにある。

もっとも、清水丈夫と渡辺利夫の行っていた大学が違うので、厳寒の日でもオーバーコートを羽織っている学生はいなかったというのは慶應大学の事情なのであるとも考えられる。

もしそうであるなら、慶應大学の学生が着ない当時の贅沢品であるオーバーコートを、清水丈夫が 来 着ていることになる。

これは、図1を見て、特に註を入れるべき点は、オーバーコート。

60年安保の活動の中心的役割を担った学生(の一部)は、オーバーコートを着るほど贅沢な子弟であったのだという結論を導き出す。

一方、この図1は;絓 秀実、『1968年』(ちくま新書)からのものである。 秀実はどういう文脈で何を主張としてこの図を利用しているかというと、1960年代末の全共闘運動において学生服姿は消えました、ということ。

そして、は下記のように解釈している;

(60年安保の頃の)学生服姿は、学生が単に資本主義を享受する大衆的存在ではなく、むしろ、大衆を啓蒙する知的エリートであることをも意味していた。

もっとも、学生服なら中学生も高校生も着ていたのだから、「大衆を啓蒙する知的エリートであることをも意味していた」という大げさなことでもないだろう。むしろ、 が言っているように、「そもそも、それ以外に着るものがなかった」というのが実情だろう。

(前略)一枚の写真を見てもらいたい。二人の学生服姿の若者が見られる。右側が、今なお中核派の議長と言われる清水丈夫であり、清水とスクラムを組んでいる左側が西部邁である。この写真は、安保闘争のなかで逮捕状が出され東大駒場に籠城していた清水(全学連書記長・当時)が逮捕を承知で籠城を解き、駒場を出る時の写真である(一九五九年)。その時、西部は東大教養部の自治会委員長であり、写真に見られるように、清水の盟友だった。

● 渡辺の記録をこの画像に適用して言えることは、貧乏を「自慢」していた西部は当時の普通の服装、のち中核派の頭は「いいとこの子」というところだろうか。

 →時熟→半世紀→  ←元 「日本の良心」


■ 

なぜ、『私のなかのアジア』、渡辺利夫、を読んだかというと、渡辺利夫に興味があったからだ。といっても、渡辺利夫の本は1冊しか持っていない。『新 脱亜論』(2008年)。最初、新聞でみた論調はこわもてな感じで、今もそういう印象。一方、NHKの討論番組に出ているのを聞いた。保守・右側の論客という役割。ソフトな語り口。でも、本では極論をいっている中西輝政もテレビにソフトに出てるしな、と思った。そして、渡辺利夫って国際政治学者なんだろうと思い込んでいた。 自伝を読んだ。経済学者、それも現状分析屋さん、しかも韓国経済、だったのだ。のちに中国経済の研究も始める。

渡辺利夫のどういう点に興味があるかというと、「東アジア共同体」を疑問視し、日米海洋国家同盟で、中韓のような「粗暴なナショナリズム」をもつ大陸・半島とは距離を置くという主張である。普通の海洋国家論(愚記事;海洋国家日本の構想)、脱亜論のようにも見える。

   (今、気付いた; 陸の王者KO!が、海洋国家構想とは、これいかに!?)

ここで、渡辺利夫に欠けている視点を示したい。渡辺利夫は日米関係、日中関係、日韓関係の視点でものを考えている。つまりは、日本中心の視点なのだ。たとえば、今の米国メディアでは、尖閣の問題を象徴とする日中の摩擦では、日中を同等にあつあかっている。日本に肩入れするという論調は(おいらが見た限り)ない。もちろん、中国に肩入れした論調もない。つまりは、世界はいざこざを起こす日中をやっかいだなぁとみているのである。

(おいらの経験するところでも、おいらが属する分野の科学技術の国際会議は中国のプレゼンスは高まり、日本は衰退である。そして、研究者の米中同盟がさかんだ。)

むしろ、米国は中国経済へは重大な関心をもっている。さらには、一般論として移民政策はその国の経済成長に効果があるそうだ。移民でGDP増大。この移民による経済成長をやっているのがオーストラリア、カナダ、そしてアメリカ。金をもってくる中国人をさかんに受け入れているのだ(愚記事;中国で自国の民をこき使って搾取したカネをもって、海外に逃げている)。

別に、資本主義国は自由と民主だけで第三者のけんかにかかわるわけではない。経済的利害が第一に重大なのだ。

その証拠に、渡辺利夫が『新 脱亜論』で、さかんに集団的自衛権の重要性を主張している。正論である。でも、安倍内閣発足後、集団的自衛権の問題が進捗していないのは、米国側からの日本不信、日本の対中戦争に巻き込まれたくないという理由にあるらしいとの報道がある(愚記事;米国は中国と戦争する気はない。日中開戦こそ日米同盟の破綻 )。

おまけに、ここ最近の「歴史認識問題」である。ここ数日も、大変なことになっている。米国はじめ、豪(オーストラリア)も加(カナダ)も旧敵国なのである から、日本不信は増大しつつある。つまりは、渡辺利夫の主張通り、脱亜したって、米豪などが同盟してくれるかわからない。

渡辺利夫自身が指摘している;

 原子爆弾であれほど多くの民間人を殺傷した米国人の心的外傷を癒すには、日本は邪悪で不正義な存在でなければならない。
(『私のなかのアジア』)

つまりは、渡辺利夫の『新 脱亜論』は、日本のひとりよがりになる可能性がある。

そして、渡辺利夫は海洋国家論をいう。最近じゃ、中国が海洋国家志願である。

最悪、次のようなシナリオが想定できる。

中国が、海洋国家を志願。太平洋間で貿易を興隆させよう。 

米国;賛成! 

米中は太平洋を海洋国家同士で管理しよう! なぜなら、今後は米中でGDP世界のトップ1,2を占めるからだ。


mao&nixon, love&peace !

米国: 米中同盟だ。 日本を敵視はしない。なぜなら、3国でGDPの上位3か国だからだ。

米国:  でも、米中は太平洋を海洋国家同士で管理するのだし、米国も衰退ぎみなので、横須賀は中国の艦隊の母港にしよう!

中国: 沖縄だって、与(あずか)るよ。 とにかく、米中で日本を「お護り申しあげるのだ!」、がんじがらめにね。

米国:  そのための、米中日の三カ国軍事同盟を結ぶのだ。

中国: そうだ! そして、太平洋は米中で管理するのだから、日本は憲法9条を守っていればいいのだ!

米国: そうだ! そうだ! 日本の憲法9条は重要だ。

日本でのナショナリズムの高まりは、米国民は一般的に真珠湾攻撃をはじめとする大日本帝国時代の軍事行動を想起する」。 

米国: 日本が二度と米国の脅威にならないようにするのが米国の本義だ。

中国: うちもだ!



山麓通信; 5/19はつくば記念日

 


ぶどうの木再生日記;第9週目

2013年05月18日 11時56分35秒 | 草花野菜

▼ 今週みた草木 (somewhwere in Europe)


ポプラ


ライラック


すずらん

 10歳の自分が気づいていなかったこと; 札幌の初夏はありがたい。

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通りすがりにみた猫、あるいは、Wi-Fi時代に...

2013年05月15日 20時15分47秒 | ねこ

 

▼ あるいは、Wi-Fi時代に...

今週は出張。日本人と会ってない。日本語で会話していない。

  # あるいは、Wi-Fi時代に...。

今はむかし。なぜなら、10年ひとむかしといえり。電話回線が来ているだけのインドの農村から必死にブログを実況中継的にやっていた。⇒ 愚記事:牛とコンピューター。 

この記事は、電話回線で、ピー~~~ヒョ~~~ひゅる~ひゅる~ひゅる~ひゅる~~~~ピー~~キュルキュル~キュルルル~~~という電話回線とモデムで必死に投稿していたのだ。

今じゃ、twiitter&Wi-Fiだ。

おいらには、似合わない。なぜなら、画像中心のプレゼンのおいらには、文字だけのプレゼンは難しいのだ。twiitterってすごよね。字、ばっかり。文弱なおいらには鬼門だ[1]。

でも、出張先でWi-Fiの恩恵にあずかった。今日撮った画像を載せる、あの頃(2004年7月)のように。

つまりは、出張先は「ライラックまつり」だった。

[1] 後註; 文弱の意味が間違っていました。文弱って、文章に弱いという意味じゃなかったのね。知らなかったわ。

文弱=学問ばかりして弱弱しい人

あー、全然、おいらじゃねぇ。

 


 

 


ぶどうの木再生日記;第8週目

2013年05月11日 06時23分06秒 | 草花野菜

 


ハナミズキの花、終了。

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今日、いまさら、知ったこと;①ペグマン、②クレモンティーヌ、そして③イザベル アンテナは仏人だった。

2013年05月08日 20時35分16秒 | 仙台・竹雀・政宗

5/5の記事( my sentimental journey; 虫瞰・鳥瞰 仙台2013  ) で、最近仙台の澱橋-広瀬町-木町通り界隈で失われた建物について書いた。そのとき、太白飴本舗の画像などが自分の手元になく、ネット上で他人の画像をパクッてしまった。そして、今日気づいたよ。googleの公知情報を使えばよいのだと。さらに、時間差効果のおかげで、最近失われた建物はその画像がストリートビューに残っている。

拾ったさ、googleのストリートビューから。ありがとう、ペグマン。初めて使ったよ。今更ながら。すごいよ、ペグマン。

子供の頃、大人から、夜空の星を見つめて、「いか@よ!、今輝いているあの星だって、今・現在輝いているかはわからないんだよ。今・現在は、あの星は消滅しているかもしれんだよ。ただ、昔放った光が今こうしてこの地球に届いているだけなんだよ。」と言われた。この大人が何を言っているのかわけがわからなかったが、おいらは、とても震撼した。

元祖、おまえはすでに死んでいる!だ。

そして、今・現在、おいらのパソコンに写っている「太白飴本舗」は、木端微塵で、かの地にはないのだ。

▼ 太白飴本舗

▼ 木町通りの「鈴木二郎商店」も、木端微塵で、かの地にはないのだ。

ありがとう! ペグマン!

● もっとも、誕生前の事情もペグマンは語ってくれるのだ。

 昼飯を食ったのは、仙台・大町 仏華料理屋「Chez harmonie」だ。
(大町&木町通りの少し東へ入ったところ)

最近できたらしい。

今日、ペグマンに連れて行ってもらった。 2011年に;

さて、この 仏華料理屋「シェ・アルモニ」で、流れていた音楽。 ボサノバ。 ただし、フランス語。 その女性ボーカルはイザベル・アンテナを思わせる。 もっとも、フランス語。 四半世紀前、おいらの聞いていたイザベル・アンテナは、英語で唄っていた。

これ、誰? <(いばら)の簪(かんざし)を刺した御方>に尋ねる。

「クレモンティーヌ」、と即答。

初耳、クレモンティーヌ!。「クレモンティーヌって誰?」とおいら。目をひんむき驚く <(いばら)の簪(かんざし)を刺した御方>。

「クレモンティーヌ知らないの????!!!!!」。 

おいら。 知らない.....

四半世紀あまり前の昭和末期、仙台にやって来たおいらは、ボサノバが好きだった。イザベル・アンテナも大好きだった。

当時もっていたCDは全部で10枚程度だろう。それとわずかの本がおいらの全財産だったのだ。 イザベル・アンテナ、 EN CAVALE。 よく、聴いていた。(このすぐ後、われらがぬっぽんでは、小野リサがデビュー。おいらは、新作CD3-4枚分はおつきあいした。その後は、おいらは「自己下放」。ボサノバどころではなくなった。)

そして、仙台の街を散歩した。

而して、四半世紀後、21世紀初頭。

ググった。 クレモンティーヌなるフランス人ボサノバボーカリスト(@しかもぬっぽんのアニメソングをボサノバで唄う)がおいらよりも結構年上で、しかも、イザベル・アンテナと同世代としる。そして、イザベル・アンテナがおフランス人だって今日、知った。

恐るべし、蒙童なおいら!

なぜ、イザベル・アンテナがおフランス人だって知らなかったかというと、四半世紀あまり前、1)買ったCDが輸入盤で解説が全くなかったこと、2)英語で唄っていたこと、3)英語で唄うボサノバボーカリストはブラジル人なんだろうと漠然と思っていたこと、4)おフランス人というのはおフランス語しか使わない(英語なんか使わない)という当時(今も?)流布していた伝説にとらわれていたこと、そして、5)何よりボーカリストの国籍なぞ気にしていなかったのだ。

 

英語を学べばバカになる」というホントのバカが2005年におっしゃる20年前、しかも米ソ冷戦崩壊前、に「英語を学べばバカにな」ったのが、おフランス人のイザベル・アンテナなのだ。 グローバル思考という妄想! 冷戦前から、Ikea的、Zara的、そして、ユニクロ的「グローバル思考という妄想!」に憑りつかれていたのが、イザベル・アンテナなのだ。 もっとも、その嚆矢は、スウエーデンのアバに他ならない。

 そして、「グローバル思考という妄想」のふるさとこそ、この木町通りなのだ。なぜなら、この通りは、シカゴアヴェニューだからだ(愚記事:シカゴアヴェニューと呼ばれた日)。

 クレモンティーヌ/およげ!たいやきくん