いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

山縣有朋記念館 那須高原

2006年03月31日 21時27分54秒 | 日本事情


弥生某日、筑波山麓から北へ約100Kmの、那須は矢板の、山縣有朋記念館に行く。
それにしても、このURLがすごいね。general-yamagata-foundationだよ。 
やっぱり、どうしても、じゅげむ・じゅげむが好きみたいだね。

那須は火山帯を後背地とした扇状地なので水はけがよすぎて農業に向かなかった。維新後水を引いて大規模な土地を牧場や農場などにした。その開拓された地域や周辺山林を皇室や明治の元勲が「買って」、農場経営をしたり、避暑地にしたりした。

この山縣<農場>もそのひとつ。


この建物はもともと、有朋所有の3庭園のひとつの古希庵(小田原)にあったものを、関東大震災で倒壊したのを機に、山縣の那須の<植民地>に移築したんだって。

移築は有朋の死後で、有朋はこの館で小田原に死んだ。


室内は撮影禁止なので、パンフレットの絵です。




入館料は、コーヒー付で、700円。コーヒー付といっても、女性管理人とお話しながらいただかねばなりません(上記写真)。基本的には勝手に山縣家物語を教えてくれます。家系図のコピーをいただいて、現在の当主は山縣睦子さんであり、山林地主として社会的にも、土井たか子さんなどと、活躍されていることを朝日新聞の記事(どうみてもお友達記者の仕事としか思えない)を示しお話してくださるのです。

このことは、おいらの<貴族・お花畑デモクラッツ・朝日御用記者>というこれまでこれまで指摘してきた旧「日本支配層」(笑)の文化的特徴の典型ではないかとおもいますた。

コーヒーをいただいた部屋には当主がかいた絵画などが飾られていました。管理人さんは「(奥様)は昨日までいらしていましたが、今日はいません。」と聞きもせぬのに当主の動向をお知らせくださったのでした。なんちって・ばとらー、なのでした(←ごめんよ、口が悪くて)

館内は撮影禁止なのですが、「あの弁当箱を撮らせてください」と管理人にお願いして、撮らせてもらった。






■それにしても、古い建物で、歩くたびにギシギシすごい音をたてる。壁には静かに歩けとの注意書きもあるが、そもそも、ぬきあし・さしあし・しのびあしで歩かねばならない。それでも、ぎーぎーとうなる。ぎーぎーぎーぎー、心ならずもならしてしまっていると、その音が般若心経にも似たひびきになる。

 ぎゃーてー、ぎゃーてー、はらぎゃーてー。

■そうなのだ、この響きこそ、山縣に象徴される藩閥官僚政治に立ち向かったトーホグの文士や政党政治家のあきらめ(諦め)の怨嗟の響きなのだ。

だって、


    ぎゃーてー


     ぎゃーてー



はら  羯 諦    はらぎゃーてー






じゅげむ・じゅげむの弁当箱

2006年03月30日 20時30分03秒 | 日本事情



じゅげむ・じゅげむの、枢密院議長議定官元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵

 であらせられた

山縣有朋センセの、匹夫時代の弁当箱。

 (支那の易姓革命;賎しき匹夫も君となる by 宣長)
 (ぬほんのいすん;賎しき匹夫も君となりさえしなければなんでもあり)

■山縣有朋。日本での反政府集団どころか、毛利家においてさえ反体制少数派であった青年暴力集団(指導者;高杉晋作)において、文字通り槍働きからはじめて、藩内闘争、対政府(徳川幕府)戦争、戊辰戦争、西南戦争と日本人」を殺しまくり、大日本帝国を自分でつくり、維持、発展させ、さらには支那とロシアと戦争し、日帝政府、特に陸軍を統括すました。

■1922年に84才で死ぬ。そのわずか23年後、大日本帝国も滅亡する。帝国の滅亡後、皇帝は「昭和の軍閥には山縣のような人物がいなかった。それが滅亡の一因だ。」と言ったとされる。それだけ、ひろひとさんに評価されていたので、偉大な人物といえるのだが、逆にいえば、「山縣のような人物」を再生産する機構を山縣は作りえなかったともいえる。

■山縣の生涯を、最近かじってみると、それはあまりに特殊で、絶対的に個別的なものとしかいいようがない。つまりは芸術ということか。山縣の伝記でにこにこしたのは、山縣が偉大な庭師であったこと。趣味いいじゃん。おいらは、彼の邸宅はてっきり買っただけのものと思っていた。

●国内外からの、夜店のバッタモンみたいな、ワッペンや勲章よりも、狂介時代の弁当箱こそ輝いていたのですた。 そして、なにより、野戦の合間に弁当をつかっている、ただのあんちゃんでしかなかったアリトモ青年を想像すると、いつもバトーして、ゆるしてけれ、というきもつがこみあげてくるのですた。

            
たたきあげのドゥークさま。    生まれながらのドゥークさま。
日帝の創設            日帝の自爆&破滅
ひろひとさんに惜しまれる。    ひろひとさんにはずされる。
国滅びて庭園あり           国滅びて愚孫が宰相 






春のはな

2006年03月29日 19時08分18秒 | 草花野菜


つばき? かな。 【後記】じゃないよな。
【後記2】乙女椿なり。
それにしても、わかりやすい花だ。

都内、目黒にて。

■あうん、の談合。
談合は公共事業の入札ばかりではない。親族のあの世送りも、医師と談合。医師と親族が「同意」すれば、なんでもあり。「同意」といっても、私が呼吸器はずして「殺しました!」と文書化するものなし。

問題とすべきなのは、当事者さえ合意すれば、お天道様、あるいは原理原則なぞどうでもいい、とする<日本談合教>にほかならない。

●なかなかすなない親族を抱えるお家では;


こやつの呼吸器を、 はずせ!   はずすな!


札幌 狸小路 「喜来登」

2006年03月26日 17時11分38秒 | ラーメンたべた
札幌 狸小路5丁目、「喜来登」。
正直、おなかすいていて、どこでもよかったので、建物がこぎれいだったので、入った。
喜来登 札幌




みそラーメン。 札幌に来たので、みそラーメンにした。みそラーメンは戦後、札幌で自生したらしい。むかしの札幌ラーメンといえば、もやし&たまねぎいためどっさり、というとどちらかというと大味だったけど、昨今のはナガネギになっていた。ひきにくがよい。味は違和感なし。ウエッブ評をみたら、伝統的なサッポロラーメンともある。そんな感じ。


麺の黄色が濃い。ややコシあり系かな。よい。

値段忘れた。700円くらい。

札幌 狸小路

2006年03月25日 20時20分10秒 | 札幌

札幌、狸小路通りは 創世川 創成川 から石山通りまでを貫く通り。その内1丁目から8丁目までが、狸小路商店街。

3/18. すでに雪は全くなかった。

 

 

 

 
                        プリンスホテルも建て変わったんだね。


4丁目、中川ライター店。昔と変わらないのはこの店くらいか。
いつのまにか、茶屋碁盤店もなくなっていた。
4丁目のレコード屋もなくなっていた。

今回改めて驚いたのは改築がかなり進んでいること。狸小路は、実は全国的に見て、京都の錦市場とならぶ、古い建物が残る商店街だったはず。なぜなら、札幌は戦災を受けなかったから。二条市場と同様、狸小路も大正期の木造建築がざらだったが。

■ちんどん屋さん、っていなくなりましたね。おいらががきんちょのころは狸小路をいつだってナマのちんどん屋さんが練り歩いていた。長じて、「内地」にいって、ちんどん屋さんがいないことに気づく。実は全国的にみてちんどん屋さんが実際に営業しているのは数箇所としる。


狸小路七丁目 古本屋

2006年03月24日 20時55分10秒 | 札幌


  南3条西3条の大学堂は、棚が整理されていないなどというものではなく、平棚に高々と、整理されていない本がグチャグチャに積み重なっていました。その積み重なり方も半端ではなく、本の束が斜めになっていたり、その上にまた別の本がそのままドサドサ無造作に積まれたりで、もう何が何だか分かりません。このうず高く積まれていたグチャグチャの本が棚を隠してしまっているので、棚もろくに見えず、結局ほとんど何も見ないで店を出てしまいました。

札幌の古書店  by LZFR より。

↑ちっちっち! 甘いな。崩れそうな書壁から掘り出し物をみつけるのが、この店での楽しみ。

なお、「南3条西3条」は南3条西7(or 8)丁目の間違い。

札幌狸小路商店街七丁目




この店、昔は創世川のあたりにあった。20年くらい前に初めて行ったが、店の主人は無口そうな人。今回初めて言葉を交わした。それによると大学堂は昭和40年代に創生川のほとり、南1条に店を出す。その前は旭川で店を出していたそうだ。たたんで、札幌に来たらしい。全く興にのらない口調で、たずねたことに手短に、目をあわせず、答えてくれた。

改めて驚くことは、この店はこのすべての分量に匹敵する量を引越ししたこと。大変だったろうね。引越し前はこれほど乱雑ではなかったと思うけんども。この店、ネットを始めとする現行市場価格をまったく無視している。今じゃ二束三文の○×思想の本を最盛期の価格でそのまま売っている。

唐木田真、『三反百姓子倅の足跡』 非売品、などを購う。

越後屋 絵師

2006年03月21日 10時48分02秒 | 日本事情



三越=三井越後屋の包装紙。ご丁寧に名前も付いている。『華ひらく』。
猪熊弦一郎作。とても、もだーん、な画家さん。ちなみに、愛猫家です。

そして、絵にMitsukoshiとデザインしたのは、アンパンマン・やなせたかし氏とのこと。

■その猪熊弦一郎の作品で、多くの人の視界には入っているはずなのだが、改めて見入られることがないのが、下記『自由』。



■上野駅のメイン改札口の上にある絵。1951年の作品.
上野駅のステレオタイプは東北の玄関口。集団就職の東京への玄関、あるいは、「北へ帰る人の群れはだれも無口」の帰り口。でも、この絵は清新な東北の四季や風景を描いたもの。なぜ、自由、なのかはわからないが、1951年といえば講和を翌年に控えた、占領最末期である。

■なので、この絵が書かれたころは、高度経済成長など予想もされなかった。したがって、日本史上屈指の、集団就職を象徴とする人間大移動が、この絵の下を猛流するとは誰も考えなかっただろう。

 受験のために夜汽車で東京に向かった。青森をだいぶ過ぎたあたりであろうか、がらがらの客車に中卒者たちが四人、隣の席にいて、「高校にいったって何の役にも立たないんだ。しっかりはたらいてカネを稼ぐのが大事なんだ」としゃべり合っていた。すでに始まっていた集団就職の一団だったのであろう。互いに励まし合うような、しかし不安を丸出しにした、その幼い会話を聞いていて、私はある種の感動を覚えていた。十五歳から大都会の片隅をはいずり回るような生活に入らなければならないこの少年たちとくらべると、受験参考書と首っぴきであった自分は、つまらぬ存在であるとつくつぐ感じた。

                西部邁 『寓話としての人生』 第二章、詐術と裁判


■そして、なによりもその東京へ流入しただれも、かれも絵画「自由」を観る余裕などなかったことである。







越後屋情宣局長