いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第61週

2015年12月26日 20時59分41秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫

■ 今週の色調変化 (裸になるまで毎週観察予定)④

■ 今週のお疲れ

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の三里屯; 三里屯不眠夜、 北京防恐「雪豹隊」鎮守三里屯

 Google [北京で“テロ情報”警戒呼び掛け  三里屯 クリスマス]

北京に三里屯という場所がある。北京中心から見て、東。地図で見れば右だ。北京空港は北京の北東にある。つまり、三里屯は北京空港から北京中心街を通らず、行ける。新開地。外国の大使館がたくさんある場所。北京政府が意図的の大使館団地として造成したのだろう。各国大使館は似たような建物で、並んでいる。下の一番上の画像はインドネシア大使館。2013年に撮影(愚記事;北京参り 2013)。大使館街になる前から「農業展覧館」(最下画像)はあったと記録でわかる。『北京三里屯第三小学校』(1976年刊)に記されている。

■ 今週の今じゃ誰も読まない本

『北京三里屯第三小学校』、浜口允子、岩波新書。今では、Amazonで、円本だ。

ビジネスマンを夫にもつお茶ノ水女子大出の女性が、1972年(春)-1975年の間、子供二人を北京の小学校に通わせる話。 この本は1976年3月に脱稿したらしく、1976年5月には刊行している。

(ちなみに、おいらは、さっきまで、允子=のぶこ、を読めなかった。おいらはこのように無知蒙昧なうえ、これまでに人生で「允子」さんという人に会ったことがなかったのだ。すなわち、たとえば、あの旧朝香邸の朝香宮家の妃は、鳩彦王妃允子内親王(やすひこおうひ のぶこないしんのう)といって、明治天皇の第八皇女だそうだ [wiki]。「允子」というのはそういう類 [たぐい] の"記号"なのだ。したがって、匹夫のおいらのずんせいに、「允子」さんが、登場してこなくて当然なのだ。なお、おいらのばぁちゃんは「クマさん」、「シカさん」的類の名前である。カタカナ二文字。)

プロレタリア文化大革命は、1966年から1976年まで続いたので、文革最中の中国体験記ということになる。

つまり、浜口允子さん一家は、田中角栄の訪中・日中国交回復の半年前に北京に行き、周恩来が死んだ1976年1月にはまだ北京にいたらしいが、毛沢東が死んだ1976年9月には既にこの本は刊行されていた。そして、毛沢東の死で、ようやく、プロレタリア文化大革命は終わったのだ。

 
   - 同じ年に死んだ二人@日帝的鬼子 -

この本の意義は体験談をすぐに刊行したこと。後知恵で記憶を再編成するところがない。もっとも、後知恵ならぬ「親中」知恵で中国の否定的側面をわざと無視したり、あまつさえ、中国を礼賛するようなことが問題だろう。事実、この頃、そういう中国礼賛本が多数あったらしい。典型は西園寺一晃、『北京の青春』だ(愚記事;「みんなありがとう」 ぼくは..。日本人最初?の紅衛兵、最後は孔子さまに到る、あるいは公望の成果)。もうひとつはこちら;愚記事:針生一郎の「われわれにとって文化大革命とは何か」という文章

その点、この本は微妙かもしれない。でも、淡々と生活を書いているように読める。繰り返すと、この本は、今から見れば、文革終焉の直前の北京の生活を記録していることになる。1966年に始まった、プロレタリア文化大革命の熱狂は1970年にはひと段落し、周恩来はその収拾に努めはじめていた。林彪が、毛沢東暗殺を企て、死んだのが1971年。なにより、毛沢東と周恩来は日米など「帝国主義国」との国交を始めた。小平も復帰した。でも、「四人組」は周恩来・小平と毛王朝のもとで双璧をなし、中国では恒常的に権力的緊張状態にあった。つまり、この『北京三里屯第三小学校』は文革後期の北京での生活を記録したもの。批林批孔運動の実際の場面の描写もある。

一九七四年二月十一日、一九七四年度の前期授業が始まった。生徒たちは、二組ずつ一室に入り校内放送をきいたというが、それがこの学期初の学校で行われた批林批孔の講話であった。
 批林批孔というのは、林彪を批判し、孔子を批判することで、この運動はこの年の中国社会の動きの最も基調をなすものであった。しかし、当初は。孔子と林彪という二千年以上の年月を隔てる二人がなぜ一緒にまとめて批判されるかはなかなか理解しにくいことだった。(中略)二月二日『人民日報』に、「批林批孔の闘争を最後までおしすすめよう」という社説がでると、まるで堰をきったように、各種各様に論点が提出され、政治、哲学、思想のからみ合ったこの問題の難解さに、私たちは日々頭を悩ました。何が主要な論点なのか、何を目的としているのか、今後どう発展するのか。大人たちが、こんな話を繰り返していた(後略)。 浜口允子、『北京三里屯第三小学校』

今となっては、批林批孔は江青が周恩来を批判するための権力闘争の一環だとされている。でも、この批林批孔が実際に始まった当時、現場では、事情がわからなかかったことが記録されている。浜口允子、『北京三里屯第三小学校』とはそういう本だ。なお、この浜口允子さんは、八宝山の革命公墓にアンナ・ルイズ・ストロングやアグネス・スメドレーの墓参のために行くひとである。中国の政治には一家言ある人なのだろう。そういう人が、批林批孔の意味が分からなかったと書いている。あるいは、とぼけていたのかもしれない。もっとも、批林批孔についての理解を、旧世界(貧困で人民が苦労する資本主義時代)に戻さないための運動だと、『北京三里屯第三小学校』では、まとめている。やはり、毛王朝のもとでの「四人組」と周恩来・小平との権力闘争には目配りがない。

と、野暮は話はともかく、『北京三里屯第三小学校』には北京の四季の様子が書いてある。「物候学」=植生地理学?的観点で北京の四季と植生が書いてある。とくに、知ったのが、北京の春、端的に清明節、の新緑の萌。柳絮(りゅうじょ)舞う、清明節。

北京の人たちが文革に嫌気がさしてきた頃、1976年1月に周恩来は死に、死者を参る清明節の4月に、天安門広場で周恩来追悼の自発的大運動が始まり、それを解散させる当局と民衆で起きたのが、1976年の天安門事件。今から見れば、文革終焉の第一歩。それにしても、昔の五四運動とか、64天安門事件とか、こういう政治蜂起は柳絮(りゅうじょ)舞う季節に起きると知る。

なお、おいらは、この本を最近読んだ。浜口允子さんは中国学者(になった)らしく、淡々とした中国研究をしているらしい(Amazon; 浜口允子)、wiki [浜口允子]。

中国滞在経験直後に刊行しているこの本。編集者のがんばりで書かせたのではないだろうか?おそらく、田畑佐和子ではないだろうか?とおいらは邪推している。

『北京三里屯第三小学校』の書評ブログ記事など;

・TAMO2ちんの日常様 「読書メモ:『北京三里屯第三小学校』」  読書

菅納ひろむ様 「三里屯」に思う

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消えゆく札幌家屋@緑に覆われたもの2; 地下鉄北12条駅前

2015年12月23日 19時10分32秒 | 札幌

消えゆく札幌伊藤邸(北5西8)」@緑に覆われたもの1、に続く、消えゆく札幌家屋2。 

地下鉄北12条駅前にあるあの樹木に覆われた家。昭和時代からある。

狙い撃ちされる、札幌の樹木に埋もれた家屋たち !!!

取り壊されるとの公示(今秋)。今夜はもうないかもしれない。地上11階の高層住宅になるらしい(下記画像参照)。

▼ まとめ

1. 開発意欲と新陳代謝、そして、経済成長は、B-29より強し!

2. 資本による無慈悲な「贅沢」撲滅作用 = 資本さまは、やはり、相当、みどりが嫌いらしい。撲滅されるのだ。

3. 風になれ~みどりのために (YouTube); この惹句が ア カ = aniti- 資本さま とわかる。 風= ア カ 。

それにしても、ア カ が、みどりのために!とは、これいかに!!??


S.J. to review old memories, and newly got ones; 札幌篇:パンパン置屋と頓宮の間で

2015年12月20日 21時29分12秒 | 札幌


  - 札幌、南4条東2丁目交差点の2015年秋の風景 -

今秋、札幌に行った。仕事だ。でも、札幌はおいらが生まれ育った街なので、sentimental journey to review old memories ということにもなる。

古い思い出を review して、reject か accept か判断するのだ (????)。

今回は、my own old memories では史跡を確認しに行った。すなわち、記憶にはないということだ。 もっとも、その「史跡」はおいらの本籍地からわずかの距離であったのだ。

今年の早春に知ったさ。 

  事件当日の朝、彼は妻の敏江から仕立て直しをしてもらうように、米軍払い下げのズボンとジャンパーを風呂敷に包んで託され、自転車の荷台にゆわえつけていた   午後三時から四時ごろまでは南四条東二丁目のパンパン屋「東八」の茶の間に姿をあらわしていた。いったん署に戻って東京大阪方面に出張する旅費を請求している。その後ススキノに近い狸小路で仲間の巡査とゆきあっていた。

後藤篤志、『亡命者 白鳥警部射殺事件の闇』 (強調、おいら)

白鳥警部射殺事件とは;

敗戦後5年、サンフランシスコ講和条約の発効目前 [調印(1949年)]の1951年1月21日に札幌の南 6条西16丁目の路上で自転車で走行中の札幌市警の白鳥一雄警部が射殺された。札幌市警の白鳥一雄警部は戦前戦中は特高警察であり、ハルピン学院に派遣 (留学)されていたこともあるとされる。ここで、ハルピン学院とは、1940年以後満洲国所管の国立大学。日露間の貿易を担う人材養成を標榜した。著名な卒業生として、外交官の杉原千畝、ロシア文学者の工藤精一郎がいる(wiki)。 ハルピン学院は、上述のとおりで、スパイ・公安警察養成所ではないようである。射殺される直前は、占領軍相手の売春宿(いわゆるパンパン屋;当然当時は売 春は合法である)の取り締まり、そして共産党の取り締まりの実務を行っていた。当時は占領下であるので占領当局との公然、非公然の情報取引を行っていたら しい。さらには、白鳥警部は私的に情報収集の民間人(ヤクザ、右翼)の協力を得てしたとの伝聞もある。 (愚記事: 白鳥事件の容疑者たちのその後;後藤篤志、『亡命者』、あるいは北極熊の行方

 後藤篤志、『亡命者 白鳥警部射殺事件の闇』に書いてあった、南四条東二丁目のパンパン屋「東八」。 初めて知った。おいらの本籍地、じいちゃん・ばあちゃんが暮らし(一族10-20人くらい)、とうちゃんが生まれ育ち、大人になってもその地で商売をしていた、の近所に、パンパン置屋があったのだ。 知らなかった。なお、白鳥事件があった年、おいらのとうちゃんは13歳だった。

そんな話は一族から、直接、話として全く聞いたことはなかった。もっとも、札幌で白鳥事件について他人と話したことはない。おいらの周囲の人は誰もそんな話題に興味がなかったのであろう。

ちなみに、この南四条東二丁目という場所は、いわゆる、あのススキノではない。なお、札幌には、ススキノという地名はない。

ということで、本で知った南四条東二丁目のパンパン屋「東八」跡地を見に行った。もちろんは痕跡もない。

ただ、このような思わせぶりな建物はあった;

もちろん、真新しいので、当時のものではない。

何か当時のものはないか探した。みつけた。横文字の住所表示。Occupiedものか!と思うも、Chuo-ku = 中央区とある。札幌が区政になったのは相当後なので、占領時代(1945-1952)のもののはずかない。残念。

この南四条東二丁目のパンパン屋「東八」は、もちろん、おいらの an old memory ではないが、記憶にあるold memoryの頓宮も覗いてみた。南四条東二丁目とは別途、頓宮(南2条東2丁目)はおいらの本籍の近所だ。

子供の頃、ただ、とんぐー、と呼んでいた。とんぐーが頓宮であり、その意味(北海道神宮の頓宮[wiki])であると知ったのは、結構、最近のことである。

この頓宮は、札幌祭りの行列の終着点である。

 


新しい街でもぶどう記録;第60週

2015年12月19日 19時40分25秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫

▼ 今週の看猫β

 
「散歩する朝永振一郎博士-愛猫と-」(google)の"愛猫"。 名前不肖 (つくば市中央公園)

■ 今週の色調変化 (裸になるまで毎週観察予定)③

■ 今週の公園1 洞峰公園 [愚記事群]

 

■ 今週の公園2  "帝国陸軍弾薬庫跡公園"(仮名)、武相境斜面

■ 今週の d e m o c r a z y [愚記事: democrazy]、あるいは、みんなローズベルト信者!

トランプ氏支持者48%、日系人強制収容を支持 [google]

   
 現在         過去     未来

google 画像 [Japanese concentration camp]

■ 今週の d e m o c r a z y を支援する d e m o c r a z y

思いやり予算 5年間は今年度と同水準 [google]

くれてやるカネがあるのに、自分で軍備増強しない愚民「国家」。「国家」でさえない。

もちろん、こうなったのは、1945年以降、この列島が「concentration camp」となったからだ。

そして、現"酋長"さまは、ジミーさまだ! 

現行の日本政府は主権国家の統治機構ではなく、このクニは米国の事実上の保護国(protectorate) であるということは、このブログで一貫していっていることである。日本が米国の保護国であるメカニズムは現行憲法が日本政府が戦争をすることを禁じている ことにある。つまり、戦争をするという国家の主権が憲法により制限されている。そして、日本政府は禁じられている戦争を遂行できる米軍に駐留してもらう安 保条約を米国政府と締結していることにある。

そして、ワレワレヌホンズンが、何より哀れで、情けないのは、自分たちで拉致被害者を救済できないことに加 え、米国が半世紀以上前に日本に着せた拘束衣が効き目をあらわし、拉致家族が米国に人権保護願いの陳情をせざるをえないことを出来させ、米国は歴史的正統 性を世界に誇っていることである。その正統性を根拠に米国が属領・日本に数兆円の負担を要求してきていることはいうまでもない。

 (愚記事;60年経っても「マッカーサーへの手紙」 

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四川担々麺、鳥取、「蒼雲」; ぐちゃぐちゃにしてください。

2015年12月16日 19時38分12秒 | ラーメンたべた

愚ブログのカテゴリー、「ラーメンたべた」が2011年11月の「怪童が行く; つくば-牛久 学園西大通り、そして、らぁめん 喜乃壷(きのこ)を最後の記事として、追加がない。そもそも別にラーメンマニアでもなんでもないのになぜ「ラーメンたべた」というカテゴリーを作ったのか理由なぞ忘れてしまった。

鳥取に行って街を歩いていると、担々麺の文字。担々麺。担々麺、特に汁無し担々麺は好きだ(愚記事;汁なし坦坦麺)。鳥取、四川担々麺、 「蒼雲」。混んでた。

 

テーブルに担々麺の食べ方が示してあった。 ぐちゃぐちゃにしてください!

まずは、最初の状態。これを ぐちゃぐちゃにしてください!とのこと。

ぐちゃぐちゃにした。この時、まだ一口も食べてない。

さらに、麺を食べ終わったあと、残った汁にご飯を入れて、 ぐちゃぐちゃにしてください!とのこと。

甘辛くて、おいしかったです。辛さは段階を選べます。

鳥取、四川担々麺、 「蒼雲」: 食べログ


高杉一朗と王執中; 仙台テラス けんか編

2015年12月13日 16時34分11秒 | 仙台・竹雀・政宗

今年も終わりなので、残務の遂行。 8月30日の愚記事「文京区なんて馬鹿な名が発生する以前の話;王執中と高杉一朗の邂逅 」は、続編を予定していた。今年初めて知った著述家のひとりが、高杉一郎 (愚ブログ関連愚記事)。 おいらは、この高杉一郎をあやしいと睨んでいる。が、その体験談が興味深い。なお、高杉一朗は、その人生で、巴金、老舎、郭沫若、郁達夫、田漢と会っている。

さて、愚記事と前記事(高杉一朗と王執中 茗荷谷テラス 馴れ初め 編: 文京区なんて馬鹿な名が発生する以前の話;王執中と高杉一朗の邂逅)は1930年の出来事の回顧録。1937年の盧溝橋事件/支那事変勃発直前に、高杉一朗が改造社で新進「支那」作家の翻訳作品を編集していた7年前の話。その新進「支那」作家、簫軍や簫紅を推薦したのは魯迅。

その7年前の1930年、高杉一郎は、魯迅を知らなかった。高杉一郎は、魯迅を、茗荷谷(現在、東京文京区)で、王執中という留学生から教えられる。

その場面を、創作 「遠い人」に書いてある。その舞台である王執中の下宿先は華族邸[1]となっている。

「ここは、どういう家なんです?」
「お国 - 王執中はそういう言葉をつかった。私はへんな気持でそれを聞いた。 - 華族ですよ。いままで順ぐりにひとりずつ、中国の留学生をあずかってくれているのです。」

高杉一郎、創作 「遠い人」 、『ザメンホフの家族たち』

 ( 華族邸[1] 関連愚記事: 大宮は、私の家の門構えを見て、また動かなくなった。 「こういう家は苦手だ」 )

魯迅を知った場面はこうだ;

 壁紙のうえに、私がいままで見たことのないひとの写真が鋲でとめてある。カーテンを背景に立っているそのひとのふとい眉と鋭い眼、通った鼻筋と濃い口髭は、意志的なひとのもののようである。
「あれは誰ですか?」と、私はたずねた。
「ああ、これは僕とおなじ浙江省のひとでしてね・・・・・」
 そういう言葉で王執中が説明しはじめたことを、私はいまでもはっきり覚えている。(中国人にも郷党意識があるのかな。)という考えが、そのときチラと私の頭をかすめたからである。デスクのうえの紙きれに「魯迅」と鉛筆で大きく書いて見えせてから、王執中は私がまったく期待していなかったような熱心さで、そして聴いている私がすこしも積極的な興味を示さなかったのにもかかわらず、実にながながと、しまいには私が退屈するまで説明を続けた。それだけ説明してもまだ気がすまなかったらしく、王執中はその作家の傑作である『阿Q正伝』の鐘憲民によるエスぺラント訳を書棚のなかから見つけだしてきて、「これをお読みなさい」と言って、私に貸してくれた。

    高杉一郎、創作 「遠い人」 、『ザメンホフの家族たち』

このように、読んだ『阿Q正伝』はエスペラント語だ。エスペラント語の『阿Q正伝』ときいて、おかしいやら、驚くのは、あの『阿Q正伝』冒頭の阿Qの伝をどんな伝にするか「推敲」するあの場面、すなわち、列伝、内伝、外伝、別伝、家伝、小伝・・・のどれにするか?の場面のエスペラント語の語彙はどうなっているのか、ということだ。

そして、今日の続編、仙台テラス けんか編。高杉一郎は王執中と仙台に行く。魯迅の跡を探すのだ。ちなみに、魯迅が仙台にいたのは1904年なので、四半世紀あとということになる。

 高杉一郎、創作 「遠い人」は、ほとんど、恋愛告白記のようである。その出会い編は、前述愚記事「文京区なんて馬鹿な名が...」にあるが、キーワードがテラスである。二人の出会いはテラス。 そして、仲睦まじいふたりのけんかもテラスだ。ここでテラスとは河岸段丘のこと。二人が出会った茗荷谷のテラスに続き、仙台のテラスでの出来事。でも、高杉一朗は仙台については全くテラス意識はない。

(王執中と高杉一郎(本名高杉五郎)が一緒に旅行に行った) もう一度は、翌年の夏休みにはいってから仙台にいった。言いあらそいをしたのは、この旅行のときである。

 もともと仙台にいったのは、王執中が魯迅の学んでいた、そして魯迅に『藤野先生』の思い出を残した医学専門学校のある仙台の町を見たいと言いだしたからである。私たちは中央郵便局の近くに宿をとり、宿屋のあるじにむかしの医学専門学校のあった場所をたずねてから、すでに夏休みにはいって学生の姿の見えない東北大学の構内にはいっていった。そして、宿屋のあるじが、「多分、あのあたりでしょう」といった死体置場を中心にして、大学の構内をあてもなくさまよった。それから、魯迅が「最初、私は監獄のそばの宿屋に泊まっていた」と書いてあるその監獄を探しもとめて、どんな道を通ったのかもうすっかり忘れてしまったが、鉄道線路を越えた街外れまでながい道のりをあるいていった。そんな日程に疲れはてて、午後もおそくなってから、もう一度大学の方へひっかえして、今度は青葉城址の方へぶらぶらと疲れた足をひきずっていった。

 そのとき、私たちはやっぱり魯迅のことか、中国のことを話題にのせていたらしい。というのは、私がうっかり「支那」といったのを王執中がとがめたからである。それまで王執中になんども注意されて、私は王執中が「支那」とか「支那人」とかよばれるのをひどくきらっていることをよく承知していた。そして、すくなくとも、王執中と話をするときには、つとめて中国とよぶように心がけていた。しかし、ながいあいだの習慣というのは恐ろしいもので、書くときはともかく、話すときは意識しないでいて、つい「支那」という言葉がでるのである。そんなわけで、いつもならば私はすなおに「中国」と言いかえたろうと思うのだが、そのときはひどく疲れていたせいもあって、こう言って意地わるくやりかえした。

「しかしね、それは君の方がすこし神経質すぎやしないかね。君は『支那』という言葉に侮辱を感じるかもしれないが、それをいう僕の方で侮辱をこめていなければかまわないんじゃないか。それに、僕に納得できないのは、君たちが日本人の場合だけ文句を言って、ヨーロッパ人の場合には平気でいることだね。イギリス人はチャイナといい、フランス人はシーヌといい、ドイツ人はヒーナといい、われわれのエスペラントでさえチニーオというが、これはみんな支那とおなじ語源からきてるんじゃないかね。」

 激昂して反駁するかと思った王執中は、なぜか淋しそうな顔をした。そして、力のない声で、ただこう答えた。
「ヨーロッパ人は僕たちと文字をおなじくしないが、日本人は僕たちの国の正名をちゃんと理解できるはずだと思うので、とくに君には正名でよんでもらいたいというんだよ。」

 それから、二人はおたがいに不機嫌な顔をして、黙ってあるいていった。第二師団司令部のまえを通って、疲れた足を青葉城址までひきずっていくと、伊達政宗の銅像の下に腰をおろして、ひとことも口をきかれずに仙台の町をながめていた。しかし、いつまでもそうしているわけにもゆかず、やがて疲労が回復すると、どちらかともなく、御機嫌をなおして、宿屋までひっかえしたのであた。
  高杉一郎、創作 「遠い人」 、『ザメンホフの家族たち』

 

高杉一朗と王執中の仙台での足跡。泊まった宿は中央郵便局と書いてある。これは、北目町のことに違いない(図中①)。ここから、②の医学専門学校跡に行き(図中②)、その後、”魯迅が「最初、私は監獄のそばの宿屋に泊まっていた」と書いてあるその監獄を探しもとめて”移動。これは、仙台刑務所のことと思われる。図中③よりもっと左(東)。結構、青葉城址より離れたが、彼らは、青葉城址に向かう。このとき、テラスを、中町段丘→下町段丘→大橋・広瀬川→下町段丘→中町段丘(第二師団司令部のまえを通って;図中④)→青葉山面(図中⑤)と進む。


    仙台テラス 事情。 ネット上からのパクリ。

 彼らが歩いたのは大橋を通り仙台城までを貫く通り。藩政時代は参勤交代の行列が発着のため行進したはずだろうし(愚記事;仙台のぺージェント通り)、日帝時代は、陸軍第二師団が出撃のためのデモンストレーションをした通り。


  ―第二師団司令部のまえを通って― (第二師団司令部門の古写真)
昭和20年仙台空襲で焼失。


 それから、二人はおたがいに不機嫌な顔をして、黙ってあるいていった。
   - 大橋からお城の方を見た画像 -


 - 疲れた足を青葉城址までひきずっていくと、伊達政宗の銅像の下に腰をおろして、
ひとことも口をきかれずに仙台の町をながめていた -(画像は愚記事より)

高杉一郎、創作 「遠い人」には上述のように『阿Q正伝』をエスペラント語で読んだと書いてある。でも、これは創作かもしれない。なぜなら、高杉一郎は別途「私がはじめて読んだ魯迅の作品は、一九三五年に岩波文庫から出た佐藤春夫と増田渉共訳の『魯迅選集』だったから、そのときの私はまだ魯迅の作品はなにひとつ知らず、ただ郷党の作家の足跡を訪ねたいとい留学生の希望につきあっただけのことだった」と書いている(高杉一郎、「スターリンの「言語論文」、『往きて還りし兵の記憶』)。つまり、高杉一郎は魯迅が仙台で過ごしたことも何も知らなかったのだ。

 高杉一郎が魯迅を知ったがまだ読んでなかった1930年の2年後に、林芙美子は魯迅に上海で会う(愚記事)。そして、なぜ高杉一郎が全く林芙美子に言及しないのはなぜなのだろう?というのが愚ブログの疑問ではある。高杉一郎が自分が魯迅を知った経緯を創作するほど魯迅に関心があるのに、実際に魯迅に会った林芙美子に、原稿を依頼した編集者と作家という間柄(下記)であるから、魯迅について何か聞いたに違いない。それなのに...。

高杉一郎も江藤淳も林芙美子に言及した文章をおいらは見つけていない。ましては、評論の対象とはしていないは ずだ。特に、高杉一郎は改造社の編集者だったのに、改造社の看板作家であった林芙美子について全く言及していない。唯一の例外は宮本百合子の文章の孫引き でわずかに林芙美子の名が出るだけである。高杉一郎は『文藝』の編集者の時、コクトーの特集をやった。コクトーが来日したのだ。林芙美子はコクトーに遭 い、『文藝』に寄稿している。高杉一郎と林芙美子は知らぬ仲ではないはずなのに、高杉一郎の回想には林芙美子は全く出てこない。対照的に、高杉一郎は宮本 百合子が大好きで、実際に交流も深かった。高杉の著作には宮本百合子への言及も多い。

愚記事

王執中のその後; 王執中は、戦争という理由ではなく(満州事変は1931年9月)、卒業せずに1930年春に帰国(上海)。その後の消息は不明、と高杉一郎報告している。


新しい街でもぶどう記録;第59週

2015年12月12日 17時57分38秒 | 草花野菜

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■ 今週の色調変化 (裸になるまで毎週観察予定) ②

いきなり向かって右の樹が裸。 銀杏の黄葉のいのちは短くて...

↓ 先週

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鳥取池田家の絶家;marquiseの決断、あるいは、絶倫殿様の曾孫の絶家

2015年12月09日 20時19分21秒 | 日本事情


     鳥取池田家の遺産; 仁風閣

 少し前のニュースで、鳥取池田家の絶家というのがあった。

鳥取池田家の当主、池田百合子さん(82)が自らの没後、家名を絶やす「絶家」を表明した。

Google; 鳥取池田家絶家


  ソース

鳥取池田家は、世が世ならば、侯爵家なので、当主、池田百合子さんは、marquiseということだ。

marquiseを侯爵夫人という訳すことも少なくなった。今では、ちゃんと、女侯爵(=おんな こうしゃく)の訳語が普及している。女侯爵とは、侯爵夫人とは違う。侯爵夫人は結婚して得る称号。女侯爵は侯爵の娘が当主になり得る称号。

当主、池田百合子さんは、marquise=女侯爵さまである。父親が(完全な英語を話)池田徳真[1](のりざね)wiki。旧鳥取藩主池田家第17代当主。 もっとも、日本の華族制度には、そもそも、女公爵、女侯爵、女伯爵、女子爵そして、女男爵(=おんな だんしゃく)!はなかったのあるが、おいらが勝手にmarquiseさまと呼んでいるのだ。

[1] 戦時中は対英米向け放送に従事。彼と面談した英国兵捕虜の話がある⇒愚記事

5.池田徳眞(のりざね)との面接

我々は一人ずつ事務所に呼び出された。二人のジャップが我々を聴取するという。
 やっと私の番がきた。事務所内に案内され、座るようにと言われた。質問者は二人の若いジャップだった。洋服姿のきちんとした身なりで、そのうちの一人は完全な英語を話した。

別に、鳥取池田家が絶家になったからといって、仁風閣は無くならないのだけど、近くに行ったので参拝。

館内は、いくつかの注意書きに従えば、写真撮影もできる。その注意書きは入場料(150円)を払うとき、受付の人が説明してくれる。その中にコスプレ禁止(コスプレをしての写真撮影禁止の意味かとおもう)というがあった。

この白亜館でゴスロリ撮影会とかやったら愉快だろう。

さて、鳥取池田家。事実上の祖は、池田恒興。織田信長の乳兄弟。すなわち、池田恒興の実母が織田信長の乳母であった。池田恒興と織田信長は、同じ乳房を吸って育ったということだ。池田家も戦国時代における全大名と同じく、織田→豊臣→徳川の時代の激しい移り変わりをしのぐ試練を受ける。そんな戦国時代、関ヶ原の戦いのずうっと前に、いきなり、池田恒興は小牧・長久手の戦いで討ち死にし、クビを取られている。豊臣側について、徳川方と戦ったのだ。小牧・長久手で徳川は秀吉に負けなかったので、その後、膠着状況となり、存続する。表面上豊臣と徳川は和解する。その後のことは周知の通り。

池田恒興は死んだが、息子、池田輝政は、父の死後、上記の表面上の豊臣と徳川との和解の状況で、家康の娘と結婚する。秀吉の死後は、石田三成を嫌う武将グループの一員となり、あの石田三成襲撃事件に福島正則・加藤清正・加藤嘉明・浅野幸長・黒田長政らとともに参加。このとき、石田三成が徳川家康のところに逃げ込んだのは有名な話。

関ヶ原の戦いでは、家康方についた。しかし、同じ東軍でありながら元来秀吉子飼であった福島正則とは先陣争いでいさかいを起こしている。

結果的には、今からみると、福島正則・加藤清正など秀吉子飼の大名は、関ヶ原の戦いで徳川側であったのに、江戸時代ごく初期に相ついで幕府によりお家取り潰し(御家断絶処分)となっている。秀吉以降に発した大名家は、新参大名、成り上がり大名とみなされつぶされたのであろう。それとは対照的に、織田信長の家臣であった「名家」の池田家は、岡山と鳥取を支配する大大名となった。岡山池田家は、あの池田動物園の池田さんで、昭和天皇の皇女・厚子さま(wiki [池田厚子])の嫁ぎ先であることはいうまでもない。

 とはいっても、今回絶家宣言した鳥取池田家は、池田恒興や池田輝政と血縁関係はない(よっぽど隠れた母系の系譜がないかぎり)。これは、岡山池田家も同じである。理由は簡単だ。鳥取池田家も岡山池田家も江戸時代以降、何度も養子を取っているからだ。

例えば、鳥取池田家の十二代藩主慶徳は水戸中納言徳川斉昭の五男だ。徳川斉昭には、男女あわせて37人の子供がいた(wiki[徳川斉昭])。そして、岡山藩池田家宗家11代・池田茂政は、徳川斉昭の九男(wiki [池田茂政])。

つまり、絶倫だった徳川斉昭の曾孫のはずである現当主・女侯爵・池田百合子さん(82)は、子だくさんに恵まれず、絶家するのだ。

 仁風閣(じんぷうかく)は、鳥取県鳥取市にあるフレンチルネッサンス様式の西洋館。中国地方屈指の明治建築として名高く、1973年6月2日には国の重要文化財に指定されている。  1907年、当時の皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の山陰行啓時の宿泊施設として鳥取城跡の扇御殿跡に建てられた、旧鳥取藩主池田仲博侯爵の別邸である。「仁風閣」の館名は、この行啓に随行した元帥海軍大将東郷平八郎が命したもの。他の文化人等(作家や歌人など)の所蔵資料が、展示されていることもある。  館内には鳥取藩と池田家に関する資料などが展示さていることもある。

館内には鳥取藩と池田家に関する資料などが展示されている。2階のガラス張りのバルコニーからは池泉回遊式日本庭園の宝隆院庭園を一望できる。正面右の尖塔は館内にある螺旋階段用角尖塔である。 (wiki [仁風閣])

 


パリ、一九四一年一二月七日; 「もっと大量の人が同時に冥界へ向かう年になるのだろう」

2015年12月06日 15時35分00秒 | その他

 われらが大日本帝国海軍が真珠湾を襲っている頃、あるいは、それより一足早くわれらが大日本帝国陸軍が英領マレー半島のコタバルに上陸作戦を行っていた頃、パリではエルンスト・ユンガー [wiki] とルイ=フェルディナン・セリーヌ [wiki] が会っていた。 


Our great achivements !

       Ernst Jünger           Louis-Ferdinand Céline

 セリーヌはユンガーの前で二時間「演説」した。セリーヌは、『夜の果てへの旅』で有名だが、反ユダヤ主義的思想のため、現在でも作品の一部はフランスで出版禁止となっている。パリがドイツ占領下にあった1941年、ドイツ人のユンガーとフランス人のセリーヌが会ったのだ。なお、ふたりとも第一次世界大戦に志願して、戦場に赴き、そして、負傷している。

 エルンスト・ユンガーの『パリ日記』に書いてある;

 パリ、一九四一年一二月七日

 午後、ドイツ研究所。そこでとくに目立ったのは、メルリーヌ (セリーヌのこと、後註参照) で、背が高く、ごつごつ骨張って、強そうで、少しばかり不格好なのだが、活発に議論に加わっていた。いや、むしろ独白していたと言った方がよかった。 狂者の思い詰めたような、洞窟の中から輝き出るような眼差しで語り、右も左も見ず、未知の目標に向かってゆっくり一途に歩んで行くといった印象を与える。「私はつねに死を私の横にもっている」と言って、彼は座っているソファーとそこにいる小犬を見遣ったものである。

 彼はわれわれ兵士がユダヤ人を射殺しないこと、絞首刑にもしないことに奇異の念を抱き、驚いているという。銃剣を自由に使える者がそれを無制限に使わないのは驚きだとして、「ボルシェヴィキがパリにいたら、彼らは宿舎の一つ一つ、家の一軒一軒徹底的に捜査する仕方をあなた方に見せつけるだろう。私が銃剣をもっていたとすれば、私は何をすべきか分かっている」と言う。

 彼がこんな風に二時間も息巻くのを聞いたが、これは私には教訓的であった。ニヒリズムの途方もない強さが輝き出ていたからである。こうした人間はただ一つのメロディーしか聞く耳をもたない。しかしそのメロディーは異常なまでに迫力のあるものである。彼らは鋼鉄の機会であって、解体されないかぎり自らの道を辿る。

 こうした人物が学問について、たとえば植物学について語るときは奇妙な様相を示す。彼らは石器時代の人間のように学問を用い、彼らにはそれが他者を殺す純粋な手段になる。

 彼らが幸福なのは、一つの理念をもっているという点にあるのではない。理念ならさまざまに多くを彼らはもっている―彼らの憧憬が彼らを稜堡に駆り立てていて、そこから多数の群衆に向けて砲火が開かれ、恐怖が広められる。これに成功すると、彼らは精神的な仕事を中断する。どのようなテーゼでもってここまでよじ登って来たのかはどうでもいいのである。彼らは殺人の楽しみに耽るのだが、この大量殺害への衝動は最初から漠然と縺れた形ながら彼らを駆り立てて来たものである。 

 こうした連中は、信仰がまだ試されていた時代にすでにいたことが知られていた。今、彼らがさまざまな理念の頭巾をかぶってしゃしゃり出て来ている。こうした理念はまったく気ままに選ばれたもので、そのことは目的が達成されると、そうした理念がボロ切れのように捨て去られることから見て取れる。

 今日、日本の宣戦布告の知らせがあった。おそらく一九四二年という年は、これまでよりももっと大量の人が同時に冥界へ向かう年になるのだろう。

*メルリーヌ:ルイ・フェルディナン・セリーヌ(一八九四-一九六一)、フランスの医師、作家のこと。小説『世の果てへの旅』など。ナチ顔向けの激しい反ユダヤ主義者。対独協力で有罪判決を受ける。死後、作品が再評価され、文学史上、見落とすことのできない作家とされる。

エルンスト・ユンガー、『パリ日記』 (山本尤 訳) [Amazon]

なお、二日後にユンガーはこう日記に書いている;

パリ、一九四一年一二月九日

 日本はきっぱりした決意をもって攻撃に打って出ている。おそらく日本にとっては時間がこの上なく貴重なものだがらであろう。私は同盟関係を取り違えていて、驚いた。日本がわれわれに宣戦を布告したのだとの思い違いにときに取り付かれる。事態は袋の中の蛇のようにこんがらがっている。

このユンガーの言いたい事がよくわからない。1941年12月の時点で、日本がナチス・ドイツに宣戦布告する可能性があったということか?

さて、日本が米英など(=米英蘭支)に宣戦布告して、世界が驚いた直後、世界がさらに驚いたのはドイツ、ヒトラーが直ちに米国の宣戦布告したことである。当時の日独伊三国同盟の条約に則っても、ドイツが同盟国・日本の対米宣戦布告に同調する責務はなかったのだ。責務がない証拠は、1939年にドイツのポーランド侵攻に対し英仏が対独宣戦布告をした時、別に日本は英仏に宣戦布告しなかった。それにしても、ヒトラーの対米戦争は異常であり、かつ、不思議だ。1941年12月の時点で、ドイツのソ連征服は容易には完了しないことはわかり始めていた。それなのに、ヒトラーは米国の宣戦布告した。

なぜ、対ソ戦がうまくいかないとわかったヒトラーが、対米戦争を始めたのかの解釈として、セバスチャン・ハフナーという人が『ヒトラーとは何か』で説明を行った例がああると、永井陽之助が「戦争と革命」(『現代と戦略』)で紹介している。 セバスチャン・ハフナーの説明とは;

ヒトラー戦争の目的は2つあった。第1がソ連・ボルシェヴィキの打倒(対外戦争)、そして第2が支配地域でのユダヤ人撲滅。ドイツのソ連征服は容易には完了しない、むしろ失敗すると読んだヒトラーが第一の目的が実現不可能・失敗したことを確実にするため対米戦争を開始した。第1のい目的の放棄と第二の目的への集中を明らかにするために、対米戦争を開始したというのだ。

その仮説の妥当性はわからない。ヒトラーが対米宣戦布告をしないで、米軍をヨーロッパに引き入れない方が、ユダヤ人撲滅の策はより長時間実施できたかもしれない。

むしろ、ユダヤ人撲滅はしたいが、全ドイツをソ連・ボルシェヴィキが支配するのは許せず、ドイツ人の子孫を多く含む米国にドイツの支配をまかせたかったということか?

さて、冒頭のセリーヌの独白にもどって、第二次世界大戦の時代、ナチス・ドイツは「ヨーロッパ・キリスト教文明の正嫡」であり、キリスト教と難しい関係にあるユダヤ教撲滅・ユダヤ人撲滅を行った。「ヨーロッパ・キリスト教文明の正嫡」であるから、少なからずのフランス人もユダヤ人迫害に協力、傍観した。このフランス人一般によるユダヤ人迫害は、戦後長らく公然の秘密であった。全部、ナチスが悪いで済ませて来た。

何より、こういう「ヨーロッパ・キリスト教文明の正嫡」のユダヤ人迫害問題に注目せず、ソ連・ボルシェヴィキ問題だけで、ナチス・ドイツと同盟してしまったわれらが大日本帝国は、ま ぬ け ではないか。

 

 


新しい街でもぶどう記録;第58週

2015年12月05日 16時14分23秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の色調変化 (裸になるまで毎週観察予定)


近景

■ 今週の落とし物

■ 今週の官製プロパガンダ

生命誕生の痕跡があるかもしれない;

■ 今週の国際主義運動; 人民的国際資本

  世界人民大団結万歳

Google: 中国人民元  国際通貨 へ

▼ 生ける習、死せる毛を紙幣物神に載せて、世界を走らす

  
           世界を駆け巡ることになった走資派

■ 今週のリベラル: 自民党60年 [google]

このあいだ、佐々淳行の本を見てたら、さかんに「自民党リベラル」と自民党内「親中派」を非難していた。

でも、自民党=自由民主党は、liberal democratic party なので、そもそもリベラルなのだよ [参照;愚ブログ群]。

それにしても、○民党60年ということは、あれから、10年ということだ。 愚記事; 閑に看る、人の世の得意の人を 

■ 今週の同盟; 王のいる国、王のいない国のために、戦争に参加

Google [英議会 シリアでの空爆を承認]

同盟: 素朴・直観的に考えて、相手国のために自国兵が血を流すことが同盟の「定義」である。

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