いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

デニス・フリン、『グローバル化と銀』;1571年生まれのグローバル化と支倉常長、あるいは、慶長遣欧使節の時代背景

2022年08月02日 21時09分56秒 | 

グローバル化はいつから、どのように始まったのだろうか。16世紀を「銀の世紀」と呼び、アメリカ・アジア・ヨーロッパを結ぶ銀の流通から世界史を論じるフリン先生の歴史学講義(表紙の文言)

■ 現在の高校の世界史に「日本銀」(世界史の窓)という用語がある。40年ほど前はなかった。16世紀には南アメリカと日本が銀の生産地で、銀は最終的にはチャイナに流入した。理由は、チャイナに銀の需要があったからである。需要があった理由は納税手段が銀と定められ(一条鞭法)たので、支払い手段として銀が必要となり需要が高まったからである。

■ 銀のチャイナへの流入はグローバル化で可能となった。「コロンブスの航海」(大西洋)と「マゼランの航海」(太平洋)を経て諸大陸が交易、疾病、自然環境、文化において永続的に結びついたことがグローバル化の始まり。特に、1571年のスペイン帝国によるマニラ建設は太平洋航路を定常化し銀がアメリカからチャイナに流入することを可能にした。交易の逆方向として絹などをメキシコ経由でヨーロッパに流入させた。

■ なお、デニス・フリンがグローバル化の誕生の年とした1571年は、支倉常長の誕生の年である。その支倉常長は伊達政宗の外交官としてスペインを訪問する。つまりは、グローバル化での端的な政治的現象なのだ。その奥州伊達家使節団の欧州訪問の時代状況としての世界経済として、この時代の世界商品でありグローバル化推進の駆動力となったのは銀とのこと。その銀に関係深かったのが日本で、スペイン領アメリアに次ぐ銀の産出があった。その銀の多くがチャイナに流入した。日本とスペインはチャイナに対する銀供給国として競合関係にあったともいえる。

■ デニス・フリン、『グローバル化と銀』(秋田茂、西村雄志 編)、2010年、山川出版社は、デニス・フリンの3つの論文と冒頭の秋田茂、西村雄志による解説から構成される。図書館から借りた本なので、デニス・フリンの3つの論文について、忘備をとった;

・グローバル化は1571年に始まった; 新大陸銀とマニラ・ガレオン

「ダイナミズムをもったヨーロッパ」論への批判。チャイナの銀需要。

産業革命前の2度の銀ブーム;①1540-1640年、②1700-1750年。

太平洋航路:アカプルコーマニラ、ガレオン船は、1600年代に毎年50トンの銀をチャイナに輸送。

16-17世紀の銀産出:日本はスペイン領アメリカ(現ボリビアのポトシ銀山)の半分を産出。日本・スペインが銀の2大産出国であり、チャイナへ輸出。チャイナからの輸出物産は、金、生糸/絹。

日本の銀をチャイナに運んだのはポルトガル人。ポルトガル人は商人&輸送業者であり、日本からの銀、チャイナからの生糸/絹で利益を上げる。

1630年代:日本のポルトガル人追放。オランダへの貿易相手変更。

18世紀中葉のアジアでの貿易変化:イギリス台頭、蘭仏衰退。18世紀はチャイナとインドで世界のGDPの2/3。

「アジアの優れた経済力を言い立てる近頃流行の言辞をまたやっているのかと読者に思われても困るので」

ポメランツ ヨーロッパと中国の生活水準を系統的に比較し、ヨーロッパのもっとも発達した地域は、産業革命の時期までに中国の発達した地域と大体同じ生活水準に達した。スミス的成長()と環境・資源の制限による発展飽和。

「コロンブスの航海」(大西洋)と「マゼランの航海」(太平洋)を経て諸大陸が交易、疾病、自然環境、文化において永続的に結びつけた。 

徳川幕府とスペイン・ハプスブルグ帝国; グローバルな舞台での二つの銀帝国

・17世紀にヨーロッパからインド、チャイナに渡った銀は(少なくとも)16,000トン。さらに、13,000トンの銀がマニラ経由(太平洋航路でアメリカから)でチャイナへ流入。

・山村耕造と神木哲男の推計:1560-1640年に日本からチャイナに9,450トンの銀が輸出された。田代和男の推計:17世紀初頭の最盛期には年200トンの銀を輸出。これらから、16世紀末ー17世紀初頭の総計は10,000トンの銀が日本からチャイナへ輸出と推定される。この量は、ヨーロッパから東(インド、チャイナ)に流れた銀の2/3。

・ドハーティ=フリン・モデル:銀の需要ー供給曲線。100年かかって銀の市場価格が生産コストとなった(利益がでなくなり、鉱山稼業停止)。価格革命の停止。

・輸送コスト。金銀は世界規模の市場(世界市場)をもつ。世界各地で異なる金銀価格比の相違が銀移動の駆動力。チャイナでは銀に対する金が安いので、銀が集まり、金が出ていく。

・100年にわたるチャイナの銀需要により、スペイン(領アメリカ)と日本銀の生産で利益を上げ続けることができた。原因はチャイナの銀需要。その原因はチャイナの幣制の混乱。混乱とは紙幣が信用を失い、流通しなくなり、銀が支払い手段として必要になった。世界第一の経済大国のチャイナの銀需要は甚大。1600年前後の日本とスペインの中央政府の財政はチャイナの銀需要の賜物。

・このチャイナの銀特需の特徴は100年も続いたこと。スペイン帝国と日本・徳川幕府の強国化に貢献。

・スペイン、ひいてはヨーロッパへの銀流入が資本主義の発展の原因となった説(ケインズからウヲーラーステインまで)にフリンは反対。スペインは銀を資本主義確立に有効利用できなかった。スペインは宗教主導の軍事的冒険主義を実践し、英蘭など北方諸国と戦争。結果、アルマダの海戦で敗れ、オランダは独立。銀からの収入が減り、スペイン帝国は衰退(ただし、今にいたるまで、亡びていない)。

・銀の流入が経済発展の原因であるという説を否定。スペインは銀の流入で得た利益を北方戦争(対蘭、対英戦争)で蕩尽した。

・日本が銀で得た利益をどうしたか? この富でチャイナの朝貢体制から独立した日本圏の形成に成功(「鎖国」ともいえる)。

・もし「日本銀」がなかったら?(思考実験)。スペイン帝国はもう少し長く栄えた。そうなれば、英蘭はどうなっていたか?たらればの話となるが…

・銀貿易で利益を得ていた日本、スペインが第一銀特需(1560-1640年)の後、スペインだけが衰退したのか?フリンは3つの原因を挙げる;

1)日本は銀鉱山閉鎖の後、銅の輸出が可能となった。世界での銅需要があった。
2)スペインは、対外戦争をして、国内のインフラ整備に投資しなかった。そもそもスペインは大部分が農耕地に向かない(乾いた大地 La Mancha)。
3)国内の交通事情。スペインは卓上地で大きな河川もなく、都市が内陸にあり、海岸線を使っての交通が発達しなかった。日本は沿岸航路と海岸線の長さと港の数、そして、沖積平野の河川など交通網が発達。17世紀に農耕地激増。

貨幣と発展なき成長; 明朝中国の場合

・長期にわたるチャイナへの銀の流入は、チャイナの長期的な経済発展に貢献したのか、有害であったのか?の検討。でも下記2点も否定しない;

*チャイナの経済成長は外国からの銀の流入に対応するため起きた、
*銀輸入はチャイナ内部の再編を市場主義で促進させた

フリンの主張:経済成長はしたが、経済発展には失敗した。

・銀輸入を実現させたのは絹。絹・生糸の生産が発達した。雇用も生まれた。17世紀はチャイナは2,500トンの絹を生産し800トンを輸出。

・重農主義的批判(明朝交換  徐光啓)。銀を貯めても豊かになれない。反重商主義(アダム・スミス的)。

・チャイナは、銀を得るために、絹産業を発展させた=経済成長した。銀は通貨部門でのみ利用されるので、消費、投資など非通貨部門での利用ができず、経済発展には寄与しなかった。

・流通貨幣としての銀の獲得のため絹の生産を行った。資源を費やした。もし紙幣が流通していれば銀は不要であり、銀の獲得のために絹生産に費やした資源も節約できた。社会発展に貢献しなかった。成長理論と貨幣。商品貨幣を紙幣に代替した国家において生活水準があがるのは、資源製薬海将のメカニズムが機能するから。チャイナではこれが起きなかった。

・「私的部門」の役割。明は紙幣流通に失敗し、銀が実際の貨幣となった。中央政府ではなく民間の自主流通=自由経済状況による銀本位制の維持。何世紀も続いた。社会的コストであった。このコスト負担は、私的部門により、銀流通と銀調達は「自由貿易」と「自由市場」により行われた。

・ウォーラーステイン(1980年)批判。ヨーロッパの初期資本主義はスペイン領アメリカからの金銀の蓄積があったから生じた説の誤りを、フリンは、指摘。なぜなら、銀が蓄積されたのはチャイナだから。ウォーラーステイン(1980年)はアメリカ銀がヨーロッパ(世界経済の「中核」)に蓄積されたと考えていたことを、事実誤認だし、世界経済モデル(ヨーロッパ=世界経済の「中核」)も批判。

もっとも、ウォーラーステイン(1980年)の世界経済モデルの「中核」をチャイナとすればよいのであった、その点ウォーラーステイン(1980年)は「先見性」があったと云っている。


 


最近読んだ本(杉原薫、『世界史のなかの東アジアの奇跡』)から思い出されたなつかしい本の話

2021年08月10日 18時50分33秒 | 

■ 最近読んだ本(杉原薫、『世界史のなかの東アジアの奇跡』)

出版社紹介site

今年、春-夏、杉原薫の『世界史の東アジアの奇跡』[1]を、横浜市立図書館から、2度計8週間借りて読んだ。この本の要旨は、下記[1]のリンク先の記事に書いた。この本において、近代世界の経済発展が複数あることを示し、さらに経路間の関係、影響の歴史について記した経済史の本。

今年の春まで、杉原薫を全くしらなかった。杉原薫を知った経緯は、アリギの『北京のアダム・スミス』[2]を読んだから。

[1] 杉原薫の『世界史の東アジアの奇跡』については、ひとつの章のメモを記事にした:杉原薫 『世界史のなかの東アジアの奇跡』 第12章 "戦後世界システムとインドの工業化" メモ

[2] アリギの『北京のアダム・スミス』も横浜市立図書館から、2度計4週間借りて読んだ。言及記事;①3/6、②4/10、③7/10

アリギの『北京のアダム・スミス』は、東アジア、特にチャイナの経済発展を、西洋的経済発展とは違うものとして認識している。「スミス的経済成長」。「スミス的経済成長」の重要要素が、勤勉革命。参照・引用の研究が杉原薫のものだった。

アリギの『北京のアダム・スミス』のあと、ポメランツの『大分岐』、A.G. フランクの『リオリエント』(愚記事)も借りて読んだ。

これらは、最近、「グローバル・ヒストリー」として注目の分野。特徴は、西洋中心史観からの脱却と人類史的視点。

最後尾に杉原薫の講演YouTubeを貼っておく。

■ なつかしい本の話


杉原薫、『世界史の東アジアの奇跡』の引用・参照文献表より

『世界史の東アジアの奇跡』は題名通り東アジアの経済発展についての本であるが、南アジア(インド)に、比較・参照のため、章を複数立てて論じている。その章のメモは愚記事にした。

『世界史の東アジアの奇跡』の引用・参照文献表に長崎暢子と中村尚司の名が、五十音順なので、並んでいた。おいらは、10代の頃から知っている名前だ。1980年代初頭だ。この文献表の文献ではないが、二人の本はもっていた。中二病の頃から「インド幻想」をもつようになった。アメリカが嫌いだからだ。排外的、右翼的政治的動機からだ。ただし、アメリカが嫌いだからといってインドに注目するとは、インドに失礼なのではあるが。その頃、映画「東京裁判」が上映され(1983年)、戦勝国の"文明の裁き"に憤り、パール判事のインドに希望をもった。もちろん幻想だ。インド人に会ったこともないのに。さらに、子供の頃から、アメリカの猿真似をしてきた戦後日本にとても違和感と嫌悪感をもっていた。偽毛唐ではない生き方、社会の在り方はないのだろうかと思った。幻想であり、欺瞞的でもあった。なぜなら、子供の頃から、アメリカの猿真似をする生活に浸かってきたからだ。これらの違和感と嫌悪感そして欺瞞性について、中二病の頃から自覚していた。

さらに、(今でいうところの"リベラル")戦後民主主義、平和と民主主義に反感をもっていた。"リベラル"はもちろん左翼も呪っていた。いわゆる(当時はそういう言葉はなかったと思うが)東京裁判史観を怨んでいた。今思えば、戦後日本はマッカーサーとソ連赤軍の「連合赤軍」によるプロパガンダが日本人知識人により喧伝されていた時代だ。

 
マッカーサーとソ連赤軍の「連合赤軍」
1945年9月2日 ミズーリ号の降伏文書調印式

帝国主義のイデオローグ:カール・マルクスの発見; インド幻想でインド関連の本を読んだ。長崎暢子、『インド大反乱一八七五年』もその1冊だ。そして、発見した。カール・マルクス、『イギリスのインド支配』(愚記事:カール・マルクス、『イギリスのインド支配』和訳全文)。マルクスは大英帝国のインド支配を当然視しているのだ。理由は、遅れた文明は進んだ文明に破壊されてこそ、再生できるという言い分だ。とても複雑な気持ちがした。大日本帝国(以下、日帝)を擁護したいおいらが、日帝を非難する人たちの教祖が帝国主義のイデオローグであるとわかったからである。

おいらは、インド関連の本でみたのだから、当然、インド研究者には有名な話であった。当時、歴史学でも「唯物史観」的理論がまだまだ支配的であった。インド研究者は、カール・マルクス、『イギリスのインド支配』に対峙しなければならなかったはずだ。ただし、当時、マルクスを帝国主義のイデオローグと批判している研究者はいなかった。ちなみに、今日現在でも、マルクスを帝国主義のイデオローグと批判している研究者をおいらは知らない。唯一人、”西欧のもっとも露骨で恥知らずな植民地主義者の文章 ”といっているのが、西川長夫である。ただし、「」といっているのであって、そうだとは云っていない点に注意。

こういういきさつで、マルクスを読んでみようとした。特に、マルクス主義と非西洋社会のこと。1980年代前半、1970年代の連合赤軍事件(リンチ殺害)、内ゲバを経て、マルクス主義批難があった(マルクス葬送派)。

愚記事;1985年の藤原良雄 より

▼ 中村尚司、『共同体の経済構造』

中村尚司、『共同体の経済構造』もその頃買った本。2,900円。安くない。今から思えば、なんで買ったのか理解するのが難しい。インド幻想がなせる業であったのだ。そして、そのまま積読となった。とても、専門的である。この本は、中村がスリランカに留学(1965-1969年)に留学し、村落共同体のフィールド調査を基にした研究論文。つまり、中村尚司は日本の高度経済成長絶頂期をスリランカ、インドの農村で過ごした。1968年革命も大学紛争も無縁だったのだろうか。

今回の機をとらえ、みてみた。中村尚司、『共同体の経済構造』に書いてある;西洋近代が唯一の発展モデルではなく、アジアの各地には、それぞれ固有の過去の労働の蓄積形態が展開されている。この本は1975年に刊行され、1984年に再刊行された。藤原良雄(当時新評論社)が関わっている。中村尚司、『共同体の経済構造』の観点、西洋中心主義、西洋的経済発展経路唯一主義に異を唱える観点は、杉原薫、『世界史のなかの東アジアの奇跡』と通じている。

中村尚司は、自らを、澪落した商人の倅として、西陣の路地裏社会に生まれ育ったと示す。そして、<価格>の経済学と<規格>の経済学は、嚙みくだいてみてものみこんでみても、どうすることもできないような異和を残している、と記している。ここで、<価格>の経済学は近代経済学(新古典派総合)、<規格>の経済学はマルクス経済学を示しているのだろう。

なお、竹内宏の『路地裏の経済学』は1979年なので、1975年の中村尚司の路地裏宣言の方が早い。

今、この本をみてみると、長崎浩の『叛乱論』(Amazon)が引用されている。ところで、今回、杉原薫のwikipediaをみて、長崎暢子が配偶者と知った。つまり、長崎暢子は、長崎浩と離婚して、杉原と再婚したらしい。

▼ 現代思想、1975年12月臨時増刊号、『総特集=資本論 後記マルクスへの視座』;今からみれば

『総特集=資本論 後記マルクスへの視座』が積読してあった。改めてみると、中村尚司の文章が載っていた(「労働家庭と歴史理論」)。内容は京都市内出身の中村が始めて『資本論』を読む身の上話からはじまり、「大学を卒業してから、西洋近代とは異なった社会発達のコースをとった農村社会の実態調査を行ない、書斎よりも生産現場で考えるよう心がけてきた私」を語る。「マルクスの論理をアジア社会の理解に活用するためには、(資本論の)「労働過程」の再検討が重要な課題であると。資本家的生産様式を分析する理論の一環として読めるとしている。そして、最後は、マルクスも時代の子であるから、新しい歴史理論が必要と結んでいる。

一方、この『総特集=資本論 後記マルクスへの視座』をみると、杉原四郎の文章(「ロビンソン・クルーソーと『資本論』」)と杉原薫の訳文(D. マクレラン [3]、「マルクスとその見失われた環」)が載っていた。杉原親子だ。今、気付いた。

[3] David McLellan (wikipedia) 、『マルクス伝』(Amazon)は杉原四郎が翻訳している。上の画像:愚記事;1985年の藤原良雄 より:の最下段の本は、D. マクレランのものだ(Amazon)。


京都大学2011年度最終講義 杉原 薫(東南アジア研究所 教授)「工業化と地球環境の持続性」


杉原薫 『世界史のなかの東アジアの奇跡』 第12章 "戦後世界システムとインドの工業化" メモ

2021年07月23日 15時09分34秒 | 

杉原薫、『世界史のなかの東アジアの奇跡』、2020年、名古屋大学出版会という本を借りて読んだ。2回借りだし、計8週間かけて読んだ。もちろん、かなり理解していない。そこで、興味ある事項いついて、メモをつくった。

出版社の広告での内容概要紹介文(ソース)ではこう説明されている;

脱〈西洋中心〉のグローバル・ヒストリー。—— 豊かさをもたらす工業化の世界的普及は、日本をはじめとする「東アジアの奇跡」なしにはありえなかった。それは「ヨーロッパの奇跡」とは異なる、分配の奇跡だった。地球環境や途上国の行方も見据え、複数の発展径路の交錯と融合によるダイナミックな世界史の姿を提示する、渾身のライフワーク。 

このブログ記事ではこの本『世界史のなかの東アジアの奇跡』の第12章、"戦後世界システムとインドの工業化"の概要をメモする。なぜこの本なのか?というのは後日別途書く。

この本は東アジアの経済発展を奇跡として論じている。その中でインド=南インドにも言及している。東アジアも南アジアも西洋の衝撃、支配を受け、没落した地域だ。特にインドはイギリスに完全支配された。そのインドの経済発展経路は、東アジアの経済発展経路を検討するうえで、良い参照対象となるからだ。著者は「戦後インドの工業化の奇跡をたどることによって、東アジアの奇跡と冷戦体制はどのように構造的に関連していたかという問題意識がある」と云っている。

この記事では下記3項に分けて本書の概略と第12章のメモを書く;

A.  この本の概要、特に19世紀まではインド、チャイナは世界一の生産大国だった、そして今

B.   第二次世界大戦以後のインドの衰退⇒復興

C. 『世界史のなかの東アジアの奇跡』 第12章 "戦後世界システムとインドの工業化"メモ


A. この本の概要、特に19世紀まではインド、チャイナは世界一の生産大国だった

① 昔豊かだった、インド、チャイナ


世界工業生産水準の地域別構成(元データはBairoch, 1982)本書では補論1(p191)。

19世紀が始まった時の中印の偉大さがわかる。これが毛唐の餌食となってしまうのだ。ムガール帝国(インド)は、英国に浸食され始めたころ、英国よりはるかに大きな工業国だった。インド大反乱(セポイの乱;1857年)の時には英国の工業生産の方が大きくなっている。

↓ 2010年までの各地域/国のGDPの盛衰。2000年以降のチャイナに注目;

ソース

② 経済発展経路 (南アジア(インド)の経済発展経路を論ずる前に、西洋、インド、チャイナ全体)

杉原薫 『世界史のなかの東アジアの奇跡』の要旨


杉原薫、東アジアの奇跡の要点。図序ー1 世界経済の発展経路。

縦軸が時間経過;上から1500年→1820年→1950年→2008年。横軸が地域;左から西洋→東アジア→南アジア。したがって、4X3=12のマトリックスがある。各マトリックスは経済規模=人口(世界に占める割合%)とGDP(世界に占める割合%)。各マトリックスの下段には特徴。

<この図の要旨>

1820年、東アジア(統計上、日本、チャイナのみ)は推定世界人口の41%、推定世界GDPの37%を占めていた。これに対し、ヨーロッパは、それぞれ12%、22%に過ぎなかった。ところが、御存知、産業革命、アヘン戦争(1840年)でアジアは西洋の餌食となる。この産業革命が「大分岐」。大分岐ということは、それまで似た道を来ていたが、大きく分かれたということ。産業革命前まではヨーロッパも東アジア(の一部;例えばポメランツが指摘する揚子江下流)は似たような「スミス的」経済発展をしていたという説。

     「大分岐

ポメランツの「大分岐」論とは、要約すれば、18 世紀半ばまでヨーロッパ(主にイングランド)とアジアの発達した地域(主に中国の長江デルタ)の農業生産性や生活水準はほぼ拮抗していたが、「石炭」と「アメリカ新大陸」という「偶発的」な要素が、木材不足や人口増加など、ヨーロッパで生じていた生態環境的な諸問題を解決し、最終的にヨーロッパはアジアから「分岐」して成長に向かうことができた、という議論である (斉藤 誠によるポメランツ、「大分岐」への「書評」link

1950年、第二時世界大戦後5年、朝鮮戦争勃発時。アメリカの絶頂期。欧米で世界のGDPの51%を占める。今から見れは、毛唐文明の絶頂期。その後、朝鮮戦争、ベトナム戦争の中、「東アジアの奇跡」。2008年で東アジアの世界のGDPに占める割合は31%。欧米、33%。1820年と比して、インドはともかく、チャイナは復興してきた。「東アジアの奇跡」とは東アジア型経済発展経路と西洋型経済発展経路との「再編」、「融合」なのだというのが本書の大仮説。

この「東アジアの奇跡」とは何であったのか? それは、「融合なのだ」という説を検討するのが本書、杉原薫 『世界史のなかの東アジアの奇跡』の新規性の提案(他の経済史では見ない)。

◆ 2つの経路;ヨーロッパの発達経路と東アジアの経済発達経路

昔(1980年代以前)はヨーロッパの発達経路が典型的、あるいは唯一無比の経済発展経路とされ、日本などの他の地域はヨーロッパ経済社会とは異なった「遅れた」地域、「遅れた」文明、専制政治に支配される東洋専制国家、20世紀になっても「独立で自由な自作農民層」がいない封建制色濃い絶対主義政治社会(その中から軍国主義が出て来てこの世を亡ぼす)であるとの信念があった(日本の"インテリ"層に支配的な観念)。

ヨーロッパの発達経路(西洋型経路)とは「私的所有権の確立と土地なしの労働者の集積、都市人口の増加によって成立したイギリス資本主義と、資本集約的・資源集約的な経路を発達させたアメリカ資本主義によって牽引された」経済社会の発達経路。この経路は「産業革命」が決定的に重要。「生産の奇跡」。「ヨーロッパの奇跡」。

一方、東アジア型経路は、中国と日本にみられる経済成長経路であり、近世における「勤勉革命」による「スミス的成長」が特徴。「スミス的成長」とは、産業革命以前の漸進的な経済成長であり、市場の発展とプロト工業化、農業の商業化を属性とする経済成長のひとつの形態。 しかし、東は西洋勢の来襲した「19世紀後半から1930年代までの時期に、日本と中国は労働集約型工業化を、生活水準を上げることができないままにではあるが、遂行した。そして、第二次世界大戦後、日本、NIES, ASEAN, 中国と続く、一連の高度成長を経験し、その一部では高い生活水準を実現した。」 「東アジアの奇跡」 。

B. 第二次世界大戦以後のインド、チャイナの衰退⇒復興

インド、チャイナのGDPに占めるシェアの変化

🔻 1950年→1980年; インドのシェア低下の時代、あるいは、非同盟時代の顛末


アジアのGDPに占めるシェアの変化 1950年→1980年(%);杉原薫、『東アジアの奇跡』、第3章、図3-14(部分)

第二次世界大戦後、インド、中華人民共和国ともに独立。インドは非同盟、中共は中ソ同盟&非同盟オブザーバー国。ウエスタンインパクト以来、独立以前からの凋落は免れず、相対的繁栄はアメリカと連携する他のアジア諸国に転移する。

↓こういう時代だ;周恩来とネルー、1950年代。中印直接武力紛争は1962年[wiki]。

 

🔻 1980→2016年; 中印の開放政策とシェアの拡大、あるいは、BRICSの時代


杉原薫、『東アジアの奇跡』、第3章、図3-15 (部分)


すべてはここから;1972/2/21

中共対外開放の1980年以降、1991年インド経済自由化。相対的繁栄が中共へ、そしてインドに「戻り」始める。

これはアメリカとの関係が改善したことが背景。

C. 『世界史のなかの東アジアの奇跡』 第12章 "戦後世界システムとインドの工業化"メモ

第12章の項目;
■ 第12章 戦後世界システムとインドの工業化
1. はじめに
    世界の生産と貿易の中心の移動
    アジアの地域ダイナミクス
2. インドの輸入代替工業化の特質
    輸入代替戦略の二類型
    労働集約型工業の運命
3. 自由化への試みとその挫折
    冷戦体制と成長イデオロギー
    繊維貿易と自由化
4. アジア太平洋経済圏との接触
    1991年の政策転換
    中国との比較
5. むすび 

1. はじめに

この杉原薫 『世界史のなかの東アジアの奇跡』、12章は、貿易を中心とする国際経済史的観点から、20世紀後半のインドと東アジア、東南アジアとの比較と関係についての一つの歴史像を提出する。

インドの特異性: インドは戦後、つまり独立後、政治的には非同盟の立場を取り、アメリカの自由主義的経済圏に加わらなかった。独立後は計画経済(マハラノビス・モデル)であった。むしろ、ソ連・東欧との貿易関係が強かった。それは、1991年のインド経済大転換まで続いた。冷戦終結の国際的環境変化を受けて、インドは経済の自由化路線を始めた。

さらに、インドが労働集約的工業化(「東アジアの奇跡」(後述)の肝)がうまくいかなかった理由は、繊維商品の市場を、「東アジアの奇跡」を経た東アジア諸国に奪われたことである。これはインドが非同盟路線を選び、米国の経済圏に参加しなかったからである。これについて杉原は「発展途上国の戦略にとって重要なのは、貿易の量やそのGDP比で表現される開放度だけではない。どの国と貿易を行い、どの国から資本を輸入したのかということが決定的に重要である。例えば、1950年代は、アメリカが世界経済の成長の原動力だった時期であり、自余の世界に願ってもない貿易と技術移転の拡大の機会を提供していた。日本はその機会の主要な受益者だったのに対し、インドはあえてそれを利用とはしなかった。」(p563)と云っている。

1991年以降、経済爆発する東アジア、東南アジアにインドは対応する。インドの対応の鉱区歳経済的背景を検討する必要がある。

    世界の生産と貿易の中心の移動

「東アジアの奇跡」の実現。1950年には欧米で世界のGDPの半分を占めていたが、現在では東アジア・東南アジアを含む環太平洋諸国で、世界のGDPの半分を占めることとなった。特に、1960-200年で一番成長したのは東アジア・東南アジア。「東アジアの奇跡」は、これまでの欧米中心の国際秩序を根本的に変えた。東アジア・東南アジアが工業化以降の世界で初めて自立的な経済成長の核となった。そして、インドにも直接、間接に影響を与えるようになった。

東アジア・東南アジアが成長に核になるまでの経緯は、第二次世界大戦後、ヨーロッパ諸国はアジアに復帰し再支配を進めた。しかし、イギリスは衰弱し、ヨーロッパ諸国は欧州経済k李愛共同体を形成、保護主義的貿易政策を採り、脱植民地化していった。その後のアジアの国際秩序の枠組みは中共革命、朝鮮戦争を経ての「冷戦」体制である。反共戦略のもと、日本などアジア食は経済成長が許された。特に、アメリカは日本に対して軽工業だけでなく、非軍事部門での比較的労働集約型の重化学工業(造船、自動車、家電製品)の発展による産業構造の高度化を許した。

20世紀後半ー世紀末に世界貿易におけるひじゅうがもっとも増加いたのが日本とアジア9カ国であった。つまり、インドは東側地域に活発な経済圏をもつことになる。それはインドの植民地時代と独立後10数年の期間は世界貿易の中心が大西洋であったこととは大違いである。

    アジアの地域ダイナミクス

東アジア、東南アジアでは雁行型発展で工業化が急速に普及。雁行型発展:比較的技術的水準の低い労働集約的な工業は、先進国から次に発展する国に急速に工業化が移転される。さらに10年といった短い時間で次に発展する国に工業化が移転される。例えば、日本⇒台湾⇒マレーシアとか。すべの相対的先進国は絶えず低賃金諸国からの競争による産業構造の行動が迫られる。このお尻に火が付くメカニズムで相対的先進国は成長する。

wikipedia [雁行型発展論]

さらに重要なのは、東アジア・東南アジアの域内貿易の自由。例えば、繊維は1970年代に日本、台湾、香港が分担・連携して生産し、アメリカ市場で売った。つまり、対米輸出が可能であったことが東アジア・東南アジアの経済発展の主要因。技術移転のための域内自由経済体制(貿易、資本移動、人間・情報の移動の自由)も重要。

1980年代は、この地域の経済圏に中共が参入。市場の拡大。民需に特化した東アジアの対米消費財輸出やアジア域内貿易が急速に拡大。戦後の世界貿易は、アメリカのリーダーシップと日本のNIES、 ASEAN、後には中国(中共)も含めたアジア諸国の高度成長によって牽引された。

1989年の冷戦崩壊以後。 アメリカの金融的覇権への志向。冷戦体制の崩壊は、ソ連との結びつきが大きかったインドへの貿易構造再編を迫った。1991年のインドの政策転換。

2. インドの輸入代替工業化の特質
    輸入代替戦略の二類型

インド:植民地時代、自由貿易、第一次産品輸出、輸出志向の輸送システム(鉄道というインフラ)

脱植民地化: 外国貿易と外国資本からの脱依存; 国産の機関車製造国営工場

植民地を経たインドは豊かな天然資源と膨大なインフラがあり、雇用と市場があった。しかし、世界的競争力がなく、世界貿易から孤立していった。

計画経済:マハラノビス・モデル 重工業優先の発展戦略==農業や軽工業の発展と国内市場の拡大に結び付かない

日本:同じく輸入代替を試みたが、目的は国の産業構造全体の高度化。国際的競争力をもった産業のために、農業部門や比較的低技術の産業を切り捨てた。自給化ではなく貿易による相互利益を目指した。近隣諸国の雁行型発展を可能にした。


    労働集約型工業の運命

独立時のインドは、国際競争力と雇用創出の両方で有望な労働集約的工業部門をもっていた。綿製品の生産。1950年にはインドは世界最大の綿製品輸出国であった。下の図は、「インド輸出貿易の商品別構成」。第一次産品は経年で減少し、工業製品が増加している。

繊維製品は経年で安定している。ただし、東アジア、東南アジアの諸国のように、拡大しなかった。それはインドでの労働集約的工業化の経路が東アジア、東南アジアの諸国のそれと違ったからだ。インドでの労働集約的工業化の経路での成長阻害要因は、輸入代替型工業化戦略のせい。織物機械の輸入規制で、生産性が向上せず、国際競争力が向上しなかった。インドの保護貿易主義のせい。インドは自ら国際綿製品市場での競争から撤退した。

このインドの撤退に乗じて、伸長したのが、東アジア、東南アジアの諸国。アメリカ主導の自由貿易と資本の自由化の制度的枠組みにおいて、労働集約的工業と自由貿易を発展させた。

インドは国際政治上も非同盟政策をとり、米ソとも距離を置き、米ソから援助は埋めたが、市場メカニズムでない方法で貿易に結び付けられたので、経済成長に至らなかった。インドは労働集約的工業と自由貿易の恩恵に無縁となった。

3. 自由化への試みとその挫折
    冷戦体制と成長イデオロギー

東アジアの経済成長は、1980年代後半の韓国と台湾の民主化の時代まで、「開発独裁」のもと行われた。冷戦下のアメリカの反共政策における開発独裁容認。自由貿易と投資の自由、非国有化を条件に容認。この東アジアの開発主義は国民の同意があり、開発の成果は国民に還元された。

冷戦終結後、反共戦略は不要となったが、アジアの政治においては開発独裁主義が中心的役割を果たしている。成長イデオロギーが国民に共有されている国、韓国、台湾では容易に民主化した。

一方、インド。 成長イデオロギーが根付かなかった。4つの要因;①自立イデオロギーが強かった。ネルー路線。輸入代替戦略。インド・ルピーの為替を高く維持。輸出産業が育たなかった。外貨獲得能力低下。貿易に依存したくなかった;②所得分配の不平等性。貧困層の存続。貿易推進勢力が国内に少なかった。保護貿易主義。③国内における中産階級育成(労働集約的生産現場の労働者であり、消費者でもある人々)のための投資をしなかった。教育と福祉の問題。;④ソ連など社会主義諸国との貿易関係が深く、労働集約的工業を犠牲にして、重化学工業工業を優先させる政策を採った。南アジアの軍事大国。

冷戦終結(1989年)以後、インドはソ連・東欧共産圏との貿易を激減させる。1991年、インド経済自由化。


 第12章、図12-3    インド輸出貿易の地域期別構成 1950-2000 年(%)

繊維貿易と自由化

1980年代、インドの繊維産業は政府の規制外にあった。すなわち、自由貿易にさらされていた。インドからの繊維製品の輸出は多く、インドの工業製品の半分であった。1980年代は、輸出の伸びは緩慢だった。一方、1980年代、中共も繊維製品を輸出していた。アジア太平洋経済圏に参入して、輸出を増加させた。中共の低賃金と労働集約的生産に基づく競争力の強さで、インドは中共に対し、アジア太平洋経済圏での競争に勝てなかった。つまり、インドはアジア太平洋経済圏から隔離された。

4. アジア太平洋経済圏との接触
    1991年の政策転換

1989年冷戦終結。計画経済から自由経済への転換。世界銀行、IMF、アメリカからの圧力。 ソ連崩壊でインドの兵器購入先がなくなり、安全保障上の問題。外貨獲得の必要性。労働集約型輸出製品の市場機会をアジア太平洋の高度経済成長市場に求める必要性が高まる。1991年以降、一人当たりのGDPが46%増加。輸出先、アジア太平洋地域。ここで、イギリス植民地時代、インド独立後訳45年のインドの歴史で特筆すべき貿易相手地域の大転換が生じた。成長地域への参画。


ブッシュ@父米国大統領とラオインド首相、1992年、ホワイトハウス
PV Narasimha Rao Remembered as Father of Indian Economic Reforms(site


    中国との比較

インドの輸出増加に貢献したのは、労働集約型の輸出商品の織物とアパレル。輸出先はヨーロッパにあわせて日米アジア諸国。中共と市場が重なりはじめた。インドが参入して、アジア内の織物・アパレル市場がより競争的となり、地域間貿易の成長がアジア太平洋経済圏の成長につながりはじめた。


1984年、北京

5. むすび

東アジア・東南アジアの経済発展の特徴;

・労働集約型工業化のためのインフラ整備
・労働集約的な工業における生産性の急速な上昇
・大衆消費市場の形成
・職場でのスキルを育むような人的資本への投資

これらはインドの発展経路で認められないことであった。さらにこれらは、欧米の歴史的経験を念頭に置いた経済発展や工業化モデルではあまり強調されてこなかった。

上記のように、東アジア・東南アジアの経済発展経路と比較して、インドは国際競争力をもつ労働集約的な工業を発展させなかった。実際のインドは、計画経済に基づく、輸入代替的工業化のため資本集約的工業を目指した。この路線はイギリスの植民地主義時代の遺産の克服のつもりであったと端からは見える。その結果、繊維製品のような労働集約的工業品の世界市場での競争力をなくした。その背景は経済的政治的自立を求めるインドの国家的イデオロギーが原因だ。さらに、それは植民地体験の結果に違いない。労働集約的工業品の世界市場での競争力をなくしたことはインド国内での良質な労働者層の形成の阻害ももたらした。

1991年の経済自由化後、繊維製品の競争力向上で、アジア太平洋圏の市場に参入し、インドは恒常的成長過程に入っている。


● いか@メモ

『世界史のなかの東アジアの奇跡』=アメリカの影

この本のこの第12章の「1.はじめに」で杉原の"思想"が書かれている;

工業化は先進国からの遮断ではなく、接触、融合によって達成できるというのが、東アジア型発展経路が示唆するメッセージであり、日本からNIESへ、NIESからASEAN、中国へと続いた、高度経済成長そのもの普及の論理であた。
 この観点から見ると、発展途上国にとって重要なのは、貿易の量やそのGDP比で表現される開放度だけではない。どの国と貿易を行い、どの国から資本を輸入したかということが決定的に重要である。例えば、1950年代は、アメリカが世界経済の成長の原動力だった時期であり、自余の世界に願ってもない貿易と技術転移の拡大の機会を提供していた。日本はその機会の主要な受益者だったのに対し、インドはあえてそれを利用しようとはしなかった。

インドのここ30年の経済成長は、アメリカの覇権がつくる舞台のアジア太平洋圏の市場に参入できたことが大きな原因。そもそも、東アジア・東南アジアの経済発展経路もアメリカ牽引のアジア太平洋圏の市場に参入できたから実現した、というのが杉原の論だ。

とすると、『世界史のなかの東アジアの奇跡』=アメリカの影ということだ。そして、インドもそこに入ったから経済成長できたということだ。

 

 


『英国人捕虜が見た大東亜戦争下の日本人』、デリク・クラーク 著、和中光次 訳;or 米俵が the white man's burdenになった時

2019年12月30日 19時41分22秒 | 

And mark them with your dead!
諸君は死して標を残すのだ。

(Rudyard Kipling,  "The White Man's Burden" [ラドヤード・キプリング、"白人の責務"] [1] の一節、)


英連邦戦死者墓地(横浜市保土ヶ谷区)。『英国人捕虜が見た大東亜戦争下の日本人』において、その死が描写されているConstable Royの墓がある イギリス区画(Brit. Sec.)。


『英国人捕虜が見た大東亜戦争下の日本人』(Amazon)

原著のタイトルは No Cook's Tour 。ここでCookとは、奇しくも今年倒産した、英国老舗の旅行会社Thomas-Cook [トーマス・クック] のこと。日本でいえばJTB(日本旅行:戦前からある)。つまり日本でいえば、大岡昇平の『俘虜記』の題として、No JTB's tourと名乗るようなこと。この著者のデリク・クラーク(1921年生まれ、1942年に捕虜)はキップリングの『少年キム』を読んで兵役に志願する夢想家であることが、この体験記の売り物。なお、キップリングはトーマス・クックの世界一周旅行を利用してインド⇒シンガポール⇒香港⇒長崎と日本に来ている(1889年)。デリク・クラークはインドからシンガポールに行き、捕虜となり日本に移送される。つまり、原著のタイトルは No Cook's Tourはキップリングのインド⇒シンガポール⇒日本の旅行を「本歌」としたもじりであることがわかる。

キップリングといえば the white man's burden という詩も有名。白人の世界支配を鼓舞した。そんなキップリングにかぶれて大英帝国の軍人になった人物の体験記ということで、おいらは興味をもち、読んだ。英軍捕虜の記録といえばタイメン鉄道の話など深刻なものがある。しかし、このNo Cook's Tour はその体験を深刻、悲壮な物語にはしていない。

内容は、むしろ、体験を淡々と書いたもの。大英帝国を翼賛する視点や情念を持って、捕虜となった境遇を悲嘆し、敵である日本を罵倒するといったものではなかった。あるいは、キップリングが好きであれば、文学的構成で以て物語をつくるというものでもなく、よくもわるくも実体験を書いたものであった。もちろん、それは良くて、シンガポール戦の実際や捕虜としての日本での労働について具体的に記述されている。ただし、繰り返すと、感動は書かれていない。例えば、シンガポール戦で斥候の日本兵を後ろから一気に殺害するのだが、恐らく生まれて初めての殺人のはずなのに、具体的に日本兵はどう死んでいったのか書かれていない。さらに、特に心理的状況は書かれていない。動揺したとか、成功感に漲り歓喜したとか書かれていない。

●この本の特徴は訳註が充実していること。註というばかりでなく、情報豊富で、解説の役割をはたしていて、当時の状況についてなじみがない読者には大変役立つ。

■ このブログ記事では、『英国人捕虜が見た大東亜戦争下の日本人』での著者デリク・クラークの体験記で;①おいらが興味深く感じた点、そんなことがあったのかと初めて知って驚いた点を書く。②もうひとつ、この本は注をつけるのが楽しそうなので、おいらが見つけて、本書に書いてない点(註)を書く。

①. おいらが興味深く感じた点、そんなことがあったのかと初めて知って驚いた点

1.米英の親密さと物量格差

デリク・クラークの所属する英陸軍は1941年10月に英国から中東に向かう。日米開戦前。米海軍が護衛。デリク・クラークの所属する英陸軍は結果的にシンガポール防衛に向けて出発したことになる。日本の対米英宣戦布告前に出発していたことになる。当時英国はヒトラーのドイツの上陸の脅威にあったはず。ドイツの対ソ戦開始で、英国はドイツの英国への侵攻はないと読んだのではないだろうか?

英兵は米艦に乗るのだが、食料事情が米英で違うと書いてあった。米軍は捨てるほどの食料で過ごしていたのに、英軍はそうでもなかったと。

2.日本兵3名を瞬殺

デリク・クラークはシンガポール戦で日本兵3名を背後から瞬殺している。そして、殺した日本兵の最後の姿の絵を載せている。

戦争であるからそういうこともあるのだろうが、日本兵3名を一気に殺して、うれしかったとか後味が悪かったとか書いていない。

3.シーク兵とグルガ兵

シンガポールでの英軍降伏後、英印軍に所属していたであろうシーク教徒が日本側へ寝返り、降伏英軍兵の管理をしたとある。そして、そのシーク兵の英兵の取り扱いが日本兵よりひどかったと書いている。一方、グルガ兵は降伏後も英兵への忠誠心が高かったとのこと。このグルガ兵の話は、会田雄次の『アーロン収容所』にグルガ兵の忠誠心として出てくる内容と整合する。

4.日本到着、一般車両で移動

キプリングは香港から長崎へと来たが(1889年)、デリク・クラークは台湾から門司へと来た(1943年)。そして、一般客と混じって列車で東京まで来たとある。山陽本線、東海道線を通ったのだ。列車から見えたのどかな日本の風景が書かれている。デリク・クラークは廣島など数年後に空爆で灰燼に帰す各都市の風景を見たことになる。

汽車は村々を、そして街を通過した。街は古い日本と現代米国が入り混じった、風変わりな姿をしている。

街の景色は、明るい花柄の着物と地味な色合いの制服、活き活きした漢字とモダンなひらがな(漢字は中国の文字、ひらがなは単純な表音文字)、人力車と流線型の車が入り混じっている。
 日本は、我々と長期にわたって近代戦を戦い抜けるようには思えなかった。だが、彼らの最大の強みはその恐るべき精神力にあった。(第18章 大森捕虜収容所)

富士山が右手に見えたとある。???と思った。調べた。昔は東海道線は今の御殿場線を走っていたのだ。おいらは、今知った。

東京駅から大森駅まで行った。

電車の中はもう満員で、ロンドンの地下鉄のラッシュアワーと同じだ。車内には好奇心旺盛なニップもいて、ジロジロ見てヒソヒソ話している。しかし、ほとんどの乗客は全く我々に関心を示していなかった。(第18章 大森捕虜収容所)

5.池田徳眞(のりざね)との面接

 一日がものすごく長く感じられる。まだ我々は何もさせられておらず、東京に連れてこられた理由も聞いていない。 
 だがある日、状況に変化があった。
我々は一人ずつ事務所に呼び出された。二人のジャップが我々を聴取するという。
 やっと私の番がきた。事務所内に案内され、座るようにと言われた。質問者は二人の若いジャップだった[56]。洋服姿のきちんとした身なりで、そのうちの一人は完全な英語を話した。私の書類関係は彼の前にある。彼はいろいろと質問をした。
 まず次のように話した。
「えーと、あなたはウォトフォードに住んでいましたね。ウォトフォードはよく知っていますよ。バイパスやキングス・ラングレイの辺りをいろりろね」
 その後彼は、私が描いたスケッチのことや、演劇に関心があるか、絵を見せてもらえるか、どっちが戦争に勝つと思うか、などと質問してきた。それらの質問に答えると、彼はこういった。
「オーケー、これで終わりです。では次の人」
(第19章 ビーチの仕事)

完全な英語を話すジャップが池田徳眞(のりざね)[wiki]。訳注[56]に書いてあった;

56 クラークを面接した人物
参謀本部駿河台技術研究所放送部主任で日の丸アワー放送を担当した池田徳眞[のりざね](徳川慶喜の孫)と外務省ラジオ室の牧秀司。池田は外務省ラジオ室で海外放送傍受等を担当していたが、ゼロアワー放送の責任者に抜擢された。池田は東大文学部を卒業後、1932年に渡英し、オックスフォード大学に留学、英国で4年4ヶ月、豪州で一年半暮らした。放送開始前に、候補の捕虜53名のうち、40名が大森収容所に到着しており、池田は3週間前に10回大森収容所を訪問して、捕虜管理本部棟応接室で捕虜を面接、雑談しながら放送に使えるかどうか判断した。使えそうな捕虜には、その捕虜に応じたテーマで、文章を書く課題を与えた。最終的には恒石少佐と相談の上、最初の14名が選ばれた。

この池田徳眞は旧鳥取藩主池田氏第17代当主であり、18代目で鳥取(伯耆)池田家を絶家とする、つまり末代(鳥取池田家の絶家;marquiseの決断、あるいは、絶倫殿様の曾孫の絶家)の池田百合子の父親である。

6.苛酷労働をする日本人女性

捕虜たちが使役させられた仕事は日本人もやっていたし、女性もやっていた。セメント袋の荷運びという過酷な作業を日本女性もやっているのを見て英兵捕虜が驚く場面の描写があった。

7.市街を移動する捕虜

作業所へは捕虜収容所から市街を通ってトラックで移動。途中、市街の日本人から罵られることは(少)なかったとある。空襲の後も、敵を憎み、報復しようとする日本人もいなかったと書いている。クラーク本人は石でもぶつけられるのではと怯え、覚悟したが、実際はなかったと書いている。

8.8月15日の心境

「天皇がさっき、ラジオで戦争をやめるって言ったんだよ」
彼は戻っていき、我々はみんな腰を下ろした。
笑うことも、泣くことも、小躍りしてよろこぶこともなかった。 (第36章 冒険終わる)

9.米軍の東京初進駐は8/29

米占領軍の東京への進駐は、9月2日に横浜港から上陸した第1騎兵師団らしい(愚記事;1945年9月2日横浜(⇒東京)に進駐する米軍を米英旗で迎えるがきんちょたち)。8/30には米軍は横浜に進駐しているが、その軍は東京へ進駐したかわからない。一方、『英国人捕虜が見た大東亜戦争下の日本人』では8/29に上陸舟艇で大森捕虜収容所に米軍が捕虜を救出しに来たとある。 (第36章 冒険終わる)

10. 英兵捕虜の復讐

註より

114 渡邊軍曹の異動とその後任
実際にバードこと渡邊睦裕軍曹が直江津収容所に異動したのは、1945年1月だった。畑で開かれたお別れパーティーでは、捕虜士官たちが餞別として渡邊軍曹にライスケーキを贈った。これには赤痢菌患者の排泄物が微量混入されていたが、渡邊軍曹には何の異常もなく、捕虜たちを落胆させた(終戦近い時期に渡邊軍曹が異動した満島収容所でも捕虜軍医らが同じことを試み、この時には渡邊軍曹を発病させることに成功している)。

 

解放されるまで

②. おいらが見つけて、本書に書いてない註を書く。

▼1.

『英国人捕虜が見た大東亜戦争下の日本人』に書かれる大森捕虜収容所で日本軍に直接殺された人の話はない。一方、作業場で事故死した事件が書かれている。

 数日後の、じめじめしたうっとうしい日。午後、我が班は、貨車から旋盤を降ろす作業をしていた。破壊工作に勤しんだ後、次の貨車を引っ張ってくる機関車を待っていた。一日4回、機関車は貨車を運んできては、空になった貨車を引っ張っていった。
 機関車が入ってくる時は、作業員は貨車から外へ出ることになっていた。機関車が貨車が貨車に追突することがあり、積み荷に潰される危険があるからだ。
 次の機関車がこっちのにくる音がする。突然、激しい衝突音がした。一瞬、我々は顔を見合わせたが、バジーはすぐに走り出し、他の連中もそれに続いた。カミバラのほうだ。貨車は脱線し、荷物を積んでいたトラックも横転して、ひどい有様だ。
 地面には鉄の棒が散乱し、楽団員のロイが倒れていた。運命のいたずらだった。本当は今日、ロイはここで作業をするはずではなかったのだ。
 ロイの班が荷おろししている作業現場での衝突事故だった。全員、咄嗟に飛びのいたのだが、ロイだけは反対側に逃げてしまい、鉄の棒に、そして運命に捉えられてしまったのだ。
 ウェグスが応急処置を施したが、だめだった。ロイは死んだ [106]。
 翌日、芝浦班はロイの告別式に出席するため、仕事は休みとなった。我々は集合場に整列、英国国旗がかけられた棺がその中央に運ばれてきた。従軍神父が葬送の辞を読み、収容所の所長が短い言葉を述べ、花輪を棺に捧げた。ラッパ手が軍葬ラッパを奏で、担ぎ手の親友が火葬場まで付き添い、将来英国の墓地に埋葬するため、遺骨を引き取った。
 全員、大変なショックを受けていた。ロイはみんなからとても好かれていたからだ。
 ジャップに対する憎悪は、その後しばらく、かなり激しいものとなった。決して起きてはならぬ事故であった。ジャップが注意を怠らなければ、起きるはずがない事故であった。 (第31章 悲劇と喜劇)

[106]  芝浦駅での死亡事故
ロイ・コンスタンブル(ノースランカシャー連隊第2大隊所属の兵卒 [private])の死亡事故は1945年5月20日に起きた。享年27。楽団の一員で、200ページの大森バンドの写真の中に、トランペットを吹くコンスタンブルの姿がある。事故10日前のショーでは、バシーらとともに「シバウラ・セレナーデ」に出演している。

「将来英国の墓地に埋葬するため」とあるが、現在は、横浜の墓地に眠っている(本記事最上部の写真)。ネットで確かめることができる;



https://www.cwgc.org/search-results?term=constable%2Broy&name=constable%2Broy&fullname=constable%2Broy

 
https://www.cwgc.org/find-war-dead/casualty/2207796/constable,-roy/


英連邦戦死者墓地(横浜市保土ヶ谷区)。愚記事より。


愚記事より

▼2.米俵が the white man's burden になった時

 我々は米の荷おろし作業に取りかかった。これは小屋のすぐ近くの長いプラットフォームで行われた。そこで我々を待ち受けているのは、無蓋貨車の長い列だ。英国の貨車と似ている。
 貨車には米俵が大量に積まれていた。一つが60キロほどの重さで、それをプラットフォームに降ろす。みんな英国の港湾労働者が使うような鉄のフックを持っており、それを手にして作業に取りかかった。最初私は、他の連中が作業するのを見ていた。
(中略)
 しかし実際にやってみると、なんてことだ。転がってきた俵が側頭部にぶち当たり、ものすごい衝撃を受けた。首が折れ、耳がもげるかと思った。必死にフックで俵を押さえようとしたが、後ろに滑り落ちたようだ。膝が震え、俵を担ごうとしても後ろに落としてしまう。(第20章 クリスマスの願い)


手鉤(てかぎ)[右手に握っている]で米俵を運ぶ作業者(物流博物館の展示より)
手鉤(google画像

鉄のフックを持っており、それを手にして作業に取りかかった。は上記の手鉤のことだろう。

本書ではデリク・クラークは米俵を担ぐことに苦労したことは書かれているが、無事運べるようになった、運んだということは書かれていない。結局、米俵を担げなかったらしい。

The white man's burdenも大したことがなかった(!!! ???)とわかるのであった。


[1]

The White Man's Burden

Take up the White man's burden --
Send forth the best ye breed --
Go bind your sons to exile
To serve your captives' need;
To wait in heavy harness
On fluttered folk and wild --
Your new-caught, sullen peoples,
Half devil and half child.

Take up the White Man's burden --
In patience to abide,
To veil the threat of terror
And check the show of pride;
By open speech and simple,
An hundred times mad plain.
To seek another's profit,
And work another's gain.

Take up the White Man's burden --
The savage wars of peace --
Fill full the mouth of Famine
And bid the sickness cease;
And when your goal is nearest
The end for others sought,
Watch Sloth and heathen Folly
Bring all your hope to nought.

Take up the White Man's burden --
No tawdry rule of kings,
But toil of serf and sweeper --
The tale of common things.
The ports ye shall not enter,
The roads ye shall not tread,
Go make them with your living,
And mark them with your dead!

Take up the White man's burden --
And reap his old reward:
The blame of those ye better,
The hate of those ye guard --
The cry of hosts ye humour
(Ah, slowly!) toward the light: --
"Why brought ye us from bondage,
"Our loved Egyptian night?"

Take up the White Man's burden --
Ye dare not stoop to less --
Nor call too loud on freedom
To cloak your weariness;
By all ye cry or whisper,
By all ye leave or do,
The silent, sullen peoples
Shall weigh your Gods and you.

Take up the White Man's burden --
Have done with childish days --
The lightly proffered laurel,
The easy, ungrudged praise.
Comes now, to search your manhood
Through all the thankless years,
Cold-edged with dear-bought wisdom,
The judgment of your peers!

Rudyard Kipling


白人の責務

白人の責務を果たせ ―
諸氏の育てた俊勇を送れ ―
諸氏の息子を海外に送り
困窮せる虜囚のために働かせ
一致団結して役務につかせよ
動揺する蛮族のために ―
被征服民、うっとうしい連中
半ば悪魔、半ば子供のために。

白人の責務を果たせ ―
忍耐強く我慢して
恐怖の脅しを隠し
誇りを見せびらかすな。
百倍も分かりやすく
率直かつ明快に語れ。
連中の利を追求し
連中の益を齎すため。

白人の責務を果たせ ―
平和ため残忍な戦闘に参加し ―
飢饉の口を一杯に満たし
疫病を追放せよ。
諸君の連中への目的が
達成目前に注意すべきは
諸君の希望を無にする
怠惰や邪教の愚行だ。

白人の責務を果たせ ―
豪奢な王者の支配ではなく―
奴隷や掃除人の苦役を ―
普通の連中の話を。
諸君に禁じられた港を
諸君に禁じられた道を
諸君は生きてこれらを使い
諸君は死して標を残すのだ。

白人の責務を果たせ ―
そして白人の報酬を得よ。
連中の非難を和らげ
連中の憎悪を見守れ ―
大勢の嘆きに同調し
(徐々に!)光明に向ける ―
「わしらが好きなエジプトの夜
なんで解放するのかね?」

白人の責務を果たせ ―
諸君は卑下することはない ―
といって疲れを隠そうとして
声高に自由を叫ぶことはない。
諸君が叫ぼうとも囁こうとも
投げ出そうとも努力しようとも
不機嫌で無口な連中は
諸君の神と諸君を信じ始める。

白人の責務を果たせ ―
子供の時代に別れを告げ ―
さっそく差し出される月桂冠
躊躇なき賞賛の声。
さあさあ、男らしさを
尊い知恵で研ぎ澄ましても
報われざる歳月を終え
同胞の評価を求めよ!

(http://kubrick.blog.jp/archives/52074616.html様よりコピペ [訳者不明])

 

 

 

 


前歯が無傷で肉体(太った)を早大でくつろがせていた津村君へのメッセージ

2016年08月09日 20時01分45秒 | 

江藤淳 [愚記事群] が云うところの"1967年秋以降激しさを増した反体制運動=学生の「革命ごっこ」である暴力行為"の時代、はたまた、絓秀実 [愚記事群] さんが云う世界にふたつしかない世界革命のひとつである1968年革命において、1970年以降内ゲバの時代となっていった契機は、1970年7月7日の「華青闘告発」の勃発らしい。華青闘告発は、マイノリティーによる対抗運動の初めての登場。その「華青闘告発」がセクト間の内ゲバになっていった機序(メカニズム)は、おいらはよくわかっていないのだが、絓秀実さんは自著で説明している(が、おいらはまだよくわかっていない)。

そして、恐らく絓秀実さんはなぜ自分の頭がかち割られる事態に至ったのか?描きたいのだろう。

西部 [1] 「あなたは、伝え聞くところによると、内ゲバで頭をかち割られても”いいよ、いいよ”って言ってたって (笑い)」
絓秀実によるインタビュー録、『LEFT ALONE 持続するニューレフトの「68年革命」』、2005年 (Amazon
([1] 西部邁:愚記事群

その1970年7月7日の「華青闘告発」の"イデオローグ"(←この表現は事大主義的で気恥ずかしいよね)とされているのが津村喬 [愚記事群] 。

その津村喬の『革命への権利』、せりか書房、1971年を図書館で借りて、ペラペラ眺めていた。もちろん、よくわかない。

 Amazon

そうしたら、元々は1ページ丸々白紙のところに、落書き;

なお、この津村喬、『革命への権利』の本文には、「待機主義的文学青年集団革マル派」という揶揄がある。

まだ、内ゲバ時代ではない頃(内ゲバ時代の直前)の話なんだろう。

 


新鋭文学叢書 林芙美子 『放浪記』(しかも初版本)の 幻

2015年10月28日 20時42分53秒 | 

高見順の『昭和文学盛衰記』の第八章 全女性進出行進曲の林芙美子の項に書いてある;

 そうしてこの林芙美子の出世作としてされる『放浪記』が『女人藝術』に発表されたときは、「好評悪評さまざまで、華々しい左翼の人達からはルンペンとして一笑されて」しまった、林芙美子は『文学的自叙伝』で書いている。『放浪記』が真に出世作らしい拍手で拍手で迎えられたのは、昭和五年に『新鋭文学叢書』の一冊として改造社から出版されからのことで、これは今で言うベスト・セラーになった。(私の持っているその小型の、定価三十銭の本の奥付を見ると、昭和五年七月三日初版発行が九月十日ですでに四十版となっている。)

林芙美子の最初の単行本は上記のごとく改造社の『新鋭文学叢書』の一冊としての『放浪記』である。『新鋭文学叢書』とはどういうものか?は以前に書いた(愚記事:改造社、新鋭文学叢書; 林芙美子 『放浪記』はその一巻)。シリーズ全巻装丁が同じなのだ。こういうデザイン;

カンディンスキーのコンポジション(1920年代)[1]の余波を受けたようなデザインだ。なお、この『隕石の寝床』といういか@さま風のイメージ喚起的表題の小説を書いた中村正常は、中村メイ子の父親だと最近しった。現在この『隕石の寝床』の古書価格は4000円以上(日本の古本屋 在庫検索)。

[1]

コンポジションⅧ

話を林芙美子の『放浪記』に戻して、現在、ネット通販の古書店でこの改造社、『新鋭文学叢書』の一冊としての『放浪記』は売りにでていない模様である。もっとも、『新鋭文学叢書』初版全揃い30万円というのはあった。

ところが、オークションサイトに「林芙美子、『放浪記』 初版、1000円」というのを見つけた。変だ、怪しいと思ったが、入札。1000円で落札した。来た。開けた。表紙は確かにあこがれの昭和レトロのモダンデザイン。でも、異常に真新しい。一度も読まれていない雰囲気。

奥付を見ると、昭和五年七月三日初版発行、定価三十銭。高見順の記述と合致する。

でも、この時点でからくりがわかった。

印紙と押印が変だ。印紙が貼ってない。

これは、レプリカなのだ。

本物の印紙と押印例を、林芙美子、『戦線』(朝日新聞社刊)で示す。

名著復刻全集 近代文学館(google画像)というのが1969年に出て、その1冊なのだ。でも、原本のデッドコピー=写真コピーらしく、絵と字は当時ママを伝えている。 広告も復元されている;

 

 

 


林芙美子-改造社「チャンネル」で、窪川いね子/佐多稲子に三度出くわした。

2015年08月13日 20時50分18秒 | 

【愚記事要旨】 最近、林芙美子(1903-1951)を調べていて、改造社の方へ行ってしまっている。そんな中、窪川いね子/佐多稲子(1904-1998)に3度出くわした。窪川いね子と林芙美子が義姉妹のように見えた。ともに、最初の結婚に失敗。ともに、カフェーの女給。ともに、改造社の新鋭文学叢書の企画シリーズの作家。ともに、「従軍」...。

■ 最近は、林芙美子-改造社「チャンネル」に淫し、現を抜かしている; 愚記事( 1936年北京、中秋の月の下; 林芙美子と老舎のすれ違い): チャンネルとして、最近のおいらがのぞきこんでいるのが「林芙美子」の世界だ。

■ 【訂正】 先日の愚記事(今日の些細: アインシュタインと毛沢東; ハブとしての山本実彦 )で、太田哲男、『若き高杉一郎―改造社の時代』に一か所、深田久弥に言及している箇所・情報を見つけた。と書いたが、一か所ではなく、下記太田哲男による高杉一郎(=小川五郎)のインタビューが書いてあった。高杉一郎(=小川五郎)の人格について自ら述べる重要な情報である;

太田 一九四〇年ごろの先生は、精力的に仕事をされていますが、当時先生が接した人で、他に印象に残っている人としてどんな人がいますか。

小川 雑誌『文藝』である座談会(中略)を企画したことがあった。たぶんその帰りに、銀座の「はせ川」に行った。片岡鉄平が一緒だった。そのとき、小林秀雄が時局に関連して、いきなり猪口をもって立ち上がり、「そんなこともわからんのか」と、中島健蔵に酒をぶっかけたことがあった。中島さんはあくまで理性的に対応していた。そのときぼくは、中島に共感したが、小林秀雄の気持ちもわかると思った。これは二つの個性のみごとなぶつかり合いだと思った。
 ぼくは、鎌倉に行くと、小林の家、深田久弥の家によく行った。人間的には、小林も中島も両方とも好きだった。小林は独断的な発言をしたが、権威があった。
 中野重治と対極的な位置に小林がいた。中間に片岡鉄平がいた。ぼくは、人間の思想によって人間を見るのではなく、人間を見るという考えだった。小林秀雄に対する敬意はつねにあった。 太田哲男、『若き高杉一郎、 改造社の時代』、p172

■ そして、高杉一郎、『極光のかげに』を読んだ。 シベリア俘虜記だ。正直、そう陰惨、苛酷なものではなかった。これは、シベリア抑留生活というのは相当苛酷なものであるという認識がおいらには強く、無意識にでもその水準から読んだからだろう。

捕虜なのに収容所の事務所で一緒に働く赤ん坊をもったバツイチ女性(もちろんソ連人)の家に遊びに行く話も出てくる。その他いろいろ面白いのあるが、一点おもしろいと思った場面(これは絶対創作だろうに違いない);

 旧い軍隊の階級序列がまったく無視されている学生同志のような私たちの交友が、新鮮で 風変わりな感覚をみんなのあいだをかきたてるように思われた。
 作業から帰ってくると、私たちは誰か仲間の藁蒲団の上に円座をつくっては雑談をした。あるとき、遠藤がこんなふうに問題を持ち出した。
「僕なんか気の利かない学校教師だから、いつもバスに乗り遅れてばかりいるけどね、人間の思想的変貌というのはどうなんだろうな。突然そう言ってもわからんかもしれないが、例えば窪川稲子ね、いつか『日本新聞』に、彼女がマッカーサー司令部を訪問したという記事があったろう。窪川は『キャラメル』工場からで売り出したいわゆるプロレタリアート作家だ。それが、戦争がはじまったら陸軍報道部あたりの金で南方に行って来てさ、そうかと思ったら、こんどはまたあの記事だ。いったい、彼女の立場というのは、どうなんだい?」
 なにごとについても歯に衣をきせない江戸っ子気質の川上が、ばっさりと斬ってすてるような放言をした。
 「女給というものは、新しいお客が入ってくるたびに笑顔を見せなければならないのさ」
 私は、川上の放言にたいして反駁しないではいられなかった。
 「作家が時代によって、多少衣装の色模様を変えるのは止むを得ないと僕は思うな。衣装だけ見ていると、ひどく無節操のように見えるかもしれないが、中身は案外変わっていないんじゃないか。たとえば、君にしてもだよ、中味は江戸っ子のディッレンタントで、思想的には福沢さんの流れを汲んだ自由主義者だろう。それが戦争の世の中になれば将校服に身をつつんで日本刀もつるし、戦いに敗れれば、また昔にかえって新劇の話などもしようというわけさ。戦時中、日本文学報告会に名を連ねなかった作家はごくすくないと思うが、それじゃ日本の作家が全部が全部ファシストだったかというと、そうは言えまい。むしろ、腹のなかは自由主義者が大半で、なかには左翼だって入っていたんじゃないかな。さっきの窪川にしても、戦争時代の『素足の娘』という小説を読んだことがあるが、僕には報道部文学だとは思えなかった。それでいいんじゃないかね。人間て、結局はひどく脆いもんだからね。それ以上のことは、なんじらの中、罪なき者先ず石をなげうて、さ」
(高杉一郎、『極光のかげに  シベリア俘虜記』)

これは面白い。そして、なぜ、窪川稲子[ママ](本当は、窪川いね子、が"登録商標")がひっぱりだされるのか?おいらは先日知ったが、窪川稲子は林芙美子とともに、 改造社の新鋭文学叢書の企画シリーズ(愚記事)の作家のひとりだ。高杉一郎と窪川稲子は旧知らしい。

"登録商標"「いね子」の証拠。 この画像のコピペ元 → ハナ書房

なお、窪川稲子(窪川いね子)がマッカーサー司令部を訪問したという史実は、ネットでちょっとググったが、確認できなかった。でも史実なんだろう。

■ 桐野夏生、『ナニカアル』

 おいらが、林芙美子が昭和17年/1942年に南方に従軍作家として旅をした時、窪川稲子(窪川いね子)と一緒だったと、桐野夏生、『ナニカアル』で知った。 なお、桐野夏生、『ナニカアル』でも、窪川稲子、となっている。

 桐野夏生、『ナニカアル』は、桐野夏生が林芙美子に成りきって作話するというもの。相当、林芙美子とその周辺を調べて書いているのが、ニワカ林芙美子読者のおいらにもわかる。もっとも、エピソードや人間について、どこまでが史実でどれが作ったのかが分からないことが問題。もっとも、史実のような嘘、嘘のような史実というのが、林芙美子には似合うのであるが。

 おいらは、現時点で桐野夏生、『ナニカアル』に描かれた窪川稲子像しか知らいない。それらの彼女の履歴、エピソードをみると林芙美子もびっくりといったところか。いや、違うのだ。あの時代、1920年代、つまり、昭和が始まった頃、「"若き"林芙美子/窪川稲子/平林たい子」が東京にいっぱいいたに違いない。

 そう思いついたら、思い出した;

 おそらくそこ(出自を恥じ、変身願望が熾烈なこと@いか註)には、治安維持法と普通選挙法の成立以後の日本の大衆社会における父と子の問題、具体的にいうなら、親許を離れて都市に出、革命的な「プティ・ブルジョア・インテリゲンツィア」たらんとした青年たちと、高等女学校や女子専門学校を出て上京し、これらの青年たちの恋人や「ハウス・キーパー」となり、やがて新劇団の女優やカフェの女給になって行った娘たちの問題が、重ね合わされるはずである。 (江藤淳、『昭和の文人』 平野謙論)

 この江藤淳、『昭和の文人』の本の帯の宣伝文句に「昭和文学の時空間を貫く左翼とモダニズムの本質を問う」とある。そして、この本で論じられている作家は中野重治と堀辰雄。ふたりとも、 改造社の新鋭文学叢書の企画シリーズの作家である。

■ 3度目に出くわした窪川稲子; 石堂清倫、『20世紀の意味』

1920年代(林芙美子の高等女学校時代、そして上京した頃の日本社会の状況;モダニズム&共産主義運動など)を知るため読んだ。

 中野重治が「転向」のゆえに宮本顕治からいいように引きまわされるのは見ておられない、その不当を論じてもらいたいと佐多稲子(窪川稲子)が私に求めてから久しい。彼女と中野と私のあいだには昔からの或る関係があって、私は彼女の訴えのいくつかを中野にとりつぐようになっていた。そのうち書くつもりでいるうちに、彼女は亡くなった。やっと決心して、私は告別式に一文をとどけた。それがこの「再論」である。 (石堂清倫、『20世紀の意味』、「転向再論」)

 

▼ 高杉一郎、『極光のかげに』にもどって、この本は1950年の出版で、同時に「スターリニスト」の攻撃にあったそうだ。当時の日本共産党はスターリン崇拝時代であったらしい。その変のことを書いた高杉一郎の本、『ザメンホフの家族たち』、『往きて還りし兵の記憶』、『私にスターリン体験』を発注した。

▼ ネットですごい画像を発見。勝手にコピペする。

吉屋邸の東側サンポーチと思われる部屋の、窓際近くで撮られたと思われる記念写真。
右から左へ、宇野千代、吉屋信子、窪川(佐多)稲子、林芙美子

コピペ元: ブログ記事: 吉屋信子邸を拝見する。 by ブログ 落合道人 Ochiai-Dojin 殿 

なお、この4人で、宇野千代だけが従軍していない。宇野千代が従軍を断る場面が、桐野夏生、『ナニカアル』にも出てくる。

おばあさんの 宇野千代しか知らないおいらはこの画像にびっくりした。

そして、林芙美子について、「失礼だけど、実物より写真顔の方がずい分よく」といった円地文子(平林たい子、『林芙美子』)の評あり。

 


今日の些細; 改造社、雑誌 『文藝』

2015年08月04日 22時19分16秒 | 

昨日知ったこと;雑誌『文藝』は改造社より刊行していた。

先日書いた;

ところで、小林秀雄には、「林芙美子の印象」という文章がある。昭和9年/1934年。すなわち、このスキー 旅行の3年前。「林芙美子の印象」は深田が小林に、林芙美子の印象を書け、書け!というので、困ったが(しぶしぶ)書いたみたいなことを、小林はこの文章 で云っている。そして、ねじり酒のせいにして、「林芙美子の印象」が書いてある。 (愚記事; 林芙美子 些細; スキー編  )

この「林芙美子の印象」という文章(昭和9年/1934年)は雑誌『文藝』が初出だ、と小林秀雄全集の説明に書いてあった。さらに、この「林芙美子の印象」では深田(久弥)が『文藝』の編集者であると書いてあった。おいらは、????。深田久弥は雑誌『改造』の編集者で小林秀雄の『様々なる意匠』を扱ったのではなかったか?不思議に思った。でも、ここで、雑誌『文藝』は改造社の刊行とすれば何ら不思議もなく理解できると、傍からは見えるだろう。しかしながら、先週のおいらは、雑誌『改造』『様々なる意匠』や『敗北の文学』を載せるような文藝も扱う雑誌であるから、同じ改造社から別途文芸雑誌が出ていたという考えに至らなかった。雑誌『改造』文藝雑誌でもあることは林芙美子が端的に書いている;

私は、その秋の改造十月号に『九州炭坑街放浪記』と云う一文を載せて貰うことが出来ました。その時のうれしさは何にたとえるすべもありません。広告が新聞に出ると、私は、その十月号の執筆者の名前をみんな覚えこんだものでした。創作では、久米正雄(くめまさお)氏のモン・アミが大きな活字で出ていました。森田草平(もりたそうへい)氏の四十八人目と云うのや、谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)氏の卍(まんじ)、川端康成氏の温泉宿、野上弥生子(のがみやえこ)氏の燃ゆる薔薇、里見(さとみとん)氏の大地、岩藤雪夫(いわとうゆきお)氏の闘いを襲(つ)ぐもの、この七篇の華々しい小説が、どんなに私をシゲキしてくれたか知れないのです。 (林芙美子、「文学的自叙伝)

そこで、おいらは、勝手に空想した。深田久弥はフリーの編集者で『改造』と他社の雑誌『文藝』の編集を掛け持ちしていたのだろうか?と。

何のことはない、改造社は、1933年秋(昭和8年)雑誌『文藝』を創刊したのだ。深田は、社内の人事移動で、『改造』から『文藝』に移ったのだ。そして、翌年には小林秀雄に林芙美子の印象を書いてくれと頼む。昭和12年の小林秀雄、深田久弥、林芙美子のスキー旅行も改造社の編集者の深田がハブだったのだろう。

ちなみに、改造社は林芙美子の『放浪記』が50万部の大売れをする前は、円本ブーム、さらには「マル・エン全集」、「魯迅大全集」などを刊行し、儲かっていたらしい。林芙美子が魯迅に二度会えたのは、改造社の紹介だろう。林芙美子も魯迅も改造社で儲けさせてもらい、改造社も林芙美子と魯迅で儲かったのだ。なお、林芙美子はロンドンに行ったとき、マルクスの墓参りをしている。これは、改造社の山本社長の依頼で、「マル・エン全集」で儲けさせてもらった改造社の名代として線香を上げにいったに違いないとおいらは睨んでいる。間違いない!(???)。

さて、この雑誌『文藝』はすごい。 ところで、なぜ、昨日おいらが、雑誌『文藝』は改造社より刊行していたと気づいたかというと、老舎(関連愚記事; 1936年北京、中秋の月の下; 林芙美子と老舎のすれ違い )の作品の日本への紹介はいつ頃、どのうように、誰の翻訳で、日本に紹介されたのであろうか?という疑問を持ったことである。

ネットでググった。

そうしたら、書いてあった; 支那事変の勃発の頃(すなわち、もう満州国はできている時)、

改造社『文藝』には、中国人作家の作品や中国関係の記事がさまざまに並んでいた。ここにその著者名をあげれば、郭沫若、魯迅、周作人、簫軍、林語堂、蕭紅、老舎、景宋、胡風などである。当時、中国人作家たちの作品がこれだけ紹介されていた点も、この雑誌の特色として見逃せない。(学位請求論文要旨 『高杉一郎の改造社時代』 太田 哲男)

さらには、改造社の雑誌『文藝』には支那事変の頃、盛んに中国人作家、しかも抗日作品も掲載されていたらしい;

同年2月の「“大なる時代”と作家」(老合作)は,「国を教ふことは我々の天職であり,文褻は我々の技術だ,この二者は必ず一致すべきである。救国の工作がすなわち救国の文章を生む,友人等よ,何でも工作せよ!国を愛して人後に落ちるな,雨る後にこそ語れ」と,激烈な調子で救国を訴える抗日文書である。

 さらに1939年1月号のグラビア「活動せる国際作家」の欄には,「茅盾(支那)一八九六年生。支那の新文學運動の初期より活動し,しかも今なほ文壇の現役として第一線にある……現代支那文壇に於ける指導的な重鎮。……極く最近までは廣東で『文褻陣地』を編輯して,“人”を描け,いつも問題の核心をなすものは“人”であると主張してみた」という解説付きで,茅盾の写真が掲載されている。

  このほか,薫紅や薫軍の小説,林語堂の随筆,魯迅未亡人・許広平の随筆など,「華威先生」前後(1937.7~39.5)に掲載された中国人作家の文章は,合計12篇にのぼる三昌〕日中戦争の時代に,“敵国”の作家たちの文章をこれだけ載せることは,それ自体がひとつの立場の表明を意味する。しかもその中には,老台のようにあからさまに抗日を主張する文章も見られた。 
「華威先生」の"訪日" : 日中戦争下の文学交流と"非交流" )

ということで、『若き高杉一郎―改造社の時代』(Amazon)を発注した;

 



改造社、新鋭文学叢書; 林芙美子 『放浪記』はその一巻

2015年07月26日 19時52分08秒 | 


 上画像はネット上からパクリました。

もちろん公知のこと。おいらは、知らなかった。 林芙美子 『放浪記』は1930年に改造社から発刊されたと本に書いてある。その 林芙美子 『放浪記』は、改造社の新鋭文学叢書の企画シリーズ(全部で20冊程度)の一冊として刊行された。そして、シリーズの中で、林芙美子 『放浪記』が50万部売れたのだ。この年は、世界恐慌が日本にも波及した頃だ。さらに1931年には東北、北海道地方はひどい冷害であった。「1931年(昭和六)には東北・北海道が冷害による大凶作となって、岩手県三万人、青森県一五万人、秋田県一万五千人、北海道二五万人など、計四五万人が餓死線上にたたされた」(大系昭和の歴史⑭、「二つの大戦」、江口圭一)。

林芙美子って、その名前と代表的作品名、『浮雲』、『清貧の書』、『牡蠣』、『風琴と魚の町』など古臭い印象を今の人に与えているのではないだろうか?おいらだけが持った印象であろうか?事実は、林芙美子は1920年代のモダニズムの寵児である。さらにはモダニズム主流派?より過激なアナーキズム的グループにもいた。一方、プロレタリア文学にも少し参画している(雑誌、文藝戦線)。なにより、性的アナーキスト(平林たい子 評) だ。

 
   あっぱれ人妻 (ともに身長145cm)

そのモダニズムの時代の子という証拠が、林芙美子 『放浪記』の装丁である。上図。改造社の新鋭文学叢書の企画シリーズは全てこのデザインであったらしい。典型的、モダニズム(ロシア・アバンギャルド風味の)である。

新鋭文学叢書の企画シリーズの著者を見ると、その錚々たること、驚く。すごいな、当時の改造社の編集者。

『東倶知安行』   小林多喜二
『耕地』      平林たい子
『暴露読本』     貴司山治
『海と飛魚の子と』  林房雄
『鉄の規律』    明石鐵也
『傷だらけの歌』   藤澤桓夫
『浮動する地価』  黒島傳治著
『労働日記と靴』  鹿地亘
『辻馬車時代』   藤澤桓夫
『労働市場』     橋本英吉
『研究會挿話』   窪川いね子
『正子とその職業 』 岡田禎子
『情報』      立野信之
『歩きつゞける男』  片岡鐵兵
『ボール紙の皇帝萬歳』  久野豊彦
『約束手形三千八百圓也』 徳永直
『ブルヂョア』   芹澤光治良
『十九の夏』   龍膽寺雄
『屍の海 』   岩藤雪夫
『反逆の呂律』  武田麟太郎
『放浪時代』   龍膽寺雄
『隕石の寝床』   中村正常
『不器用な天使』  堀辰雄

(情報の元:cini 新鋭文学叢書 )

当然だが、この新鋭文学叢書シリーズには「右翼/ファシスト/日本浪漫派」はいない。もっというなら、その頃「右翼/ファシスト/日本浪漫派」の思潮は「なかった」のだろう。彼らは、モダニストやプロレタリア文学者たちであったのだ。

彼らの多くが、林芙美子も含めて、後に逮捕される。そして、転向。つづく総動員・戦争時代を生きていく。

というか、満州事変・支那事変(日中戦争)・大東亜戦争での文化活動の主要実施者はこの1930年組(彼らの多くは1900年前後に生まれている)である。

この中で、一番商業的に成功したのが、林芙美子 『放浪記』とのこと。50万部売れたそうだ。

一方、外国語に訳されたのは徳永直である。林芙美子の訪欧記に徳永の「太陽のない街」がドイツ語に訳されたことを知る場面がある。

 

 

 


車谷長吉の 「青」 ; 20年の時を超えて、あるいは、「美しい」と言ってしまうこと、そして、迦陵頻伽への路

2015年07月05日 21時32分53秒 | 

新潮文庫、車谷長吉『鹽壺の匙』の「なんまんだあ絵」と「鹽壺の匙」などを読む。

ひとつ気づいた;

ある時、おかみはんは哲男が雪彦山で捕って来た「おおむらさき」という美しい蝶を見せられた。在所で生まれ育ったおみかはんには蝶など珍しくもないものだが、哲男が見せて呉れたそれは目を見はるばかり美しい蝶だった。 (車谷長吉、「なんまんだあ絵」、昭和47年(1973年)作)

おいらは、「おおむらさき」という美しい蝶といのがどのようなものかわからないので、ググった;


Google画像 オオムラサキ

うん、なるほど、確かに、「美しい」。 

 一方、同じく新潮文庫、車谷長吉『鹽壺の匙』の「鹽壺の匙」にある;

 また次の日、吉田に行くと、市川の葭 [ヨシ] の繁みで捕えたばかりの翡翠[カワセミ]を見せてくれた。螽斯籠 [ギイカゴ] の中のそれは、目の底が慄 [フル] えるほどに美しい鳥だと思った。 (車谷長吉、「鹽壺の匙」、平成4年(1992年)作)

おいらは、翡翠は知っていた。誰でもしっているだろう。これだ;


Google画像 カワセミ

■ まとめ

車谷長吉は青くて飛ぶものが好きなんだよ。それは「美しい」:美しい蝶、美しい鳥。

そして、それらは捕えないと得られないものであり、しかも、逃げるものでもある。なにより、「自由」に空を舞うものたちである。

それにしても、小説で、「美しい」って言ってしまうことはどういうことなんだろう。 A(あるもの)は、美しい、と言ってしまうのであれば、表現活動など不要なのではないだろうか?なぜなら、Aは、「美しい」!、 Bは「美しい」!、Cは「美しい」!...陸続...で終わりではないか???

 本愚記事、YouTube ブルー・ライトヨコハマ を聞きながら書きました。

後記: 1997年の迦陵頻伽は、多彩である。