いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

西部邁 "インティファーダ"(民衆蜂起)の場所、あるいは、国道の石をぶつけたり、ぶつけられたり

2020年01月26日 14時34分42秒 | 札幌

西部自伝への些細な註(1回目)の第2回目。西部邁は自分の生い立ちについて、1979年の『蜃気楼の中へ 遅ればせのアメリカ体験』から晩年の自伝、『ファシスタたらんとした者』まで、彼の複数の著書で何度も書いている。1979年の著書(これは西部にとって最初の非学術書)の副題が"遅ればせのアメリカ体験"である。これは1977年に渡米(のち英国へ移動)した記録である。でも、この副題は奇妙である。なぜなら、西部邁のアメリカ体験は6歳の時の米進駐軍との体験であるからだ。当時、米軍が進駐してきたその基地は、西部の家からわずか200メートルであると、今、わかった(後述)。そもそも1979年の本に、西部の家の台所に米兵が酒を乞いに立ち現れたと書いてある。これは、大江健三郎や江藤淳でさえ得られなかった体験ではないだろうか?

2021.5.5 訂正:「西部の家の台所に米兵が酒を乞いに立ち現れた」ことが書いてあるのは晩年の自伝、『ファシスタたらんとした者』。つまり、晩年に至るまで、米兵が不法に自宅に侵入してきたことは黙っていたのだ(⇒愚記事:反米「保守」の原点:石原慎太郎と西部邁の共通体験;占領軍米兵が家に入り込んできた)。

本記事では、【1】西部が進駐軍車両への投石(これをインティファーダ(民衆蜂起)と西部は云っている)を行った場所の確認、【2】1979年、西部が40歳の時以来自分を語ってきたが、いつからこのインティファーダを語り始めたか、【3】投げた「石」について、【4】西部の自伝とは関係ないが、現在の千歳線は昔は別ルートであったことについて書く。

【1】 インティファーダの場所

 データ元
赤矢印:1945年、西部邁兄弟が米軍車両に石礫を投げた場所=西部の家。黄矢印:信濃小学校。
西部の家と進駐米軍基地は200メートルしか離れていない。
航空写真は1960年代のもの。(千歳線がないことに注目)

西部邁が回顧する「インティファーダ」。下記、少年とは西部のこと;

 少年が米軍に小さくない敵意を燃やしたのは、彼の家と(垣根の)オンコの木々が厚く土埃で覆われる始末になったから、というだけではなかった。「敵が偉そうに目の前を通っていく」、「その偉そうな様子が嫌だ」という認識は六歳の児童にだって可能なのだ。彼は今でもはっきりと記憶している、兄が「やるか」と問いかけてきたのにたいして、「うん、やろう」と自分が答えたのを。つまり、この兄弟は米軍の行進にたいして抗議の投石をやろうと決意したのである。
 投擲用の石は道路上に無際限に敷き詰められていた。「敵と戦ってみたいし、戦わなければならぬ」というのは、その兄弟にとって、とりわけ「待つ」という振る舞いが苦手の弟のほうには、自明の理だったのである。三か月に及んで計十回ばかりというのが投石の実績であったろうが、とにもかくにも、勇を鼓して彼は戦った。一度、戦車がとまり、銃台がぐるりと回って少年に銃砲の標的があてられたときには、さすが隣の寺の裏に広がる雑木林へと逃げ込んだ。しかし、少年に臆する気持ちが芽生え、細心の注意を払いはじめたのは確かとはいえ、自分の臆病風を抑える努力も一方ではなく、投石を止めようとはしなかった。
 後追いでいうと、それは少年の「たった一人のインティファーダ」であった。インティファーダというアラビア語は「蜂起」の謂である。ぶんぶんと群れなせばこその蜂でであり、群れであればこそ蜂起に力が籠もる。「たった一匹の蜂」の蜂起など米軍にとって痛くも痒くもないと少年とてわかっていた。少年は、不確かな思いとはいえ、蜂起しようとはまったくしない近所の同胞に不快を感じていたようなのである。(西部邁、『ファシスタたらんとした者』、p22)

つまりは、家の前がインティファーダ実行の場所ということだ。西部の家は、現在の札幌市厚別区厚別、「札幌郡白石村字厚別」(『サンチョ・キホーテの旅』、西部邁)である。家の位置は『ファシスタたらんとした者』ではわからない。でも、『六〇年安保』(西部邁、1985年)に書いてある;

住所は札幌近郊の白石村字厚別にある智徳寺という遠戚の寺の隣である。

智徳寺の隣で、かつ国道に面しているという条件で上地図の赤矢印の位置をわかる。一方、進駐してきた米軍が屯したのは旧日帝陸軍厚別弾薬庫(上航空写真での"米軍基地")なので、西部の家から直線距離で200メートルしか離れていないとわかる。

【2】 1979年、西部が40歳の時以来自分を語ってきたが、いつからこのインティファーダを語り始めたか?

1979年の『蜃気楼の中へ』から2018年の『ファシスタたらんとした者』まで、西部の6歳の時の米軍との邂逅は書いてある。両方にパンパンの話がでてくることは前回書いた。一方、インティファーダの話が出てくるのは、1998年の『寓喩としての人生』(帯の惹句は「自伝による思想の物語」)、2008年、『妻と僕 寓話と化す我らの死』、2013年の『実存と保守 危機が炙り出す「人と世」の真実』、そして、『ファシスタたらんとした者』。1979年の『蜃気楼の中へ』にはパンパンの話は詳しく書いているが、米軍に投石した話は出てこない。

当初、西部がインティファーダ物語を語るのは9・11テロ(2001年)、イラク戦争後の西部の「反米化」が契機かと推定したが、違った。1998年の『寓喩としての人生』で既に米軍に投石した話が出ていた。さらに、1995年の新聞への投稿記事に投石の話を書いていた(現在、『破壊主義者の群れ』 1996年)。

ただし、1979年の『蜃気楼の中へ』では米軍に投石した話は出てこないし、パンパンへのある種の共感が書かれている。端的に云って「米国に阿っている」ようにおいらには邪推できる。

1979年の『蜃気楼の中へ』で認められた「米国への気遣い」は、1998年の『寓喩としての人生』以降認められない。事実、イラク戦争後直截に反米化する。これは学者稼業をやめ、娑婆に出たので、いい子ぶる必要がなくなったからではないかとおいらは邪推している。

【3】投げた「石」について

西部が米軍車両への投石に使った石は、国道12号線を敷き詰めていた砂利の石だとわかった。一方、西部の複数回語る体験が父親から投石される話である。初出は1976年。

あえて忘れ難いことを拾えば、私事で恐縮だが、父に私にほどこした道徳的制裁のことが思い出される。たとえば、小学校四年の頃、私が近所の孤児に石を投げつけているのを父がみつけて、私を松の木に縛りつけ、まことに険しい形相で次から次と石をぶつけるのである。胸や腹に当たる分はまだよいのだが、顔に向かって飛んでくるやつは、たぶん記憶の中で増幅されてのことであろうが、びゅうんと唸りを生じており、懸命に顔をそむけるのが精いっぱいというところであった。 (西部邁、"「松の木」での教育"、[初出 1976年]、のち『大衆への反逆』1983年)

この「石」は、西部が米軍への投石で使った石と同じものであるとわかった。

 そのひねくれぶりに我慢できず、あろうことか意地が悪いので有名なもう一人の少年と一緒になって、一つ、二つ、石礫を彼にぶつけているのを父親にみつかってしまった。父親は私を松の木に縄でしっかりとくくりつけ、「お前のやっていたことはこういうことなんだぞ」と言い放ちつつ、私に石ころを思い切り投げつけはじめた。石ころは国道の上に無数にあるわけで、十発か二十発か憶えていないが、ともかく矢継ぎ早に石ころが飛んでくる。私もそうだが、父親の投球はコントロールがよく利いている。私は正確に射当てられ、顔面に向かってくるのを避けるのが精一杯であった。(西部邁、『寓話としての人生』1998年、第1章 吹雪と吃音)

【4】 千歳線

上の航空写真(1960年代)に千歳線がないことに気付いた。西部の家があったはずの位置のすぐ横には現在JR千歳線が走っている。でも、上航空写真にはない。下の現在の地図には、もちろん、ある。 調べた。

現在の千歳線は1970年代に新たにできたとのこと。それ以前は札幌線という路線で札幌から千歳へ向かっていた。
→ wikipedia [千歳線] 昔は、東札幌駅、月寒駅、大谷地駅などという国鉄駅があったと知る。

東札幌は定山渓鉄道が通っていたと知る。

旧札幌線は今、サイクリングロードになっている。


https://sapporock-bicycle.tan-web.com/cycling/20150930-shiroishikokoroad-el-fin-load

 


新しい街でもぶどう記録;第272週

2020年01月25日 17時54分51秒 | 草花野菜

▲ 今週の看猫
▼ 新しい街でもぶどう記録;第272週

■ 今週の「太子党」@チャイナ

中国版ツイッター「微博(ウェイボー)」に、「夫の祖父」が共産党の元老だという女性が北京の紫禁城(故宮博物院)に高級車を乗り入れて見物する写真を投稿し、猛烈な批判を浴びている。車両の乗り入れは禁止されている上に、当日は休館日。「権力者の家族は何でも許されるのか」と「特権階級」への反発が強まっている。ソース

「夫の祖父」が共産党の元老とは、何長工だと報道されている [1]。

(抗日戦争中の何長工) wiki [中国語]、[日本語翻訳]

[1] 紫禁城に車で乗り入れたのは何長工の孫の妻

何長工の本は岩波新書に翻訳されている。

 

Amazon [フランス勤工倹学の回想―中国共産党の一源流 (1976年) (岩波新書) ]

チャイナは10世紀の宋の時代から「デモクラシー」社会であるといわれる。ここで「デモクラシー」とはアリストクラシー(世襲貴族制)ではないという視点からの定義。チャイナでは宋の時代から「貴族」=世襲でその身分が保証される集団(日本での武士もこの定義での「貴族」に相当)がなかったとのこと。では誰が統治者であったかというと科挙で選ばれた宮廷官僚と皇帝。一君万民。科挙による(一代限り)身分取得は、実力勝負=メリトクラシーの結果。

問題は、今のチャイナでは「科挙」がないことが問題と指摘されることがある。そして、今の貴族が「太子党」。「太子党」という当事者が自覚している組織はないとのことだが、中国共産党設立メンバーの子弟が共産党政権の要職(習近平が典型例)やビジネス社会で権勢の一端を占めているらしい。

今回の問題は、特権集団となった「太子党」の態度が炎上した事件。

■ 今週の太子党@日本



小泉進次郎 第1子誕生 (google)

一方、日本ではアリストクラシー(世襲制)&選挙。

■ 今週の未達の果てに


日米安全保障条約60周年記念レセプション [google] (2020/1/19)

世界の平和と国家の独立及び国民の自由を保護するため、集団安全保障体制の下、国力と国情に相応した自衛軍備を整え、駐留外国軍隊の撤退に備える。

安保の問題は非対称性。つまり、米国は日本防衛ための軍事行動の義務があり、日本は基地提供の義務があること。日本の米軍への軍事的貢献が限られているため基地提供をしなければいけない。すなわち、駐兵権を米国に差し出している。しかし、駐兵権割譲は国家主権にかかわること。このことで、日本が対米従属、あるいは、属国、保護国といわれる。

上記の引用は、自由民主党の党の政綱(web site)、昭和三十年十一月十五日の6項目の一部。駐留外国軍隊の撤退を想定=当然視、準備せよと云っている。そのためには、自国軍隊(日本軍)による役割交代をしなければいけない。

これが昭和三十年(1955年)以来、ずーっとできていない。なので、自国の安全を保障するため在日米軍にすがり続けている。

■ 

合計 4,450 2,667
日付 閲覧数(PV) 訪問者数(IP)
1月18日 675 423
1月19日 599 338
1月20日 546 342
1月21日 639 412
1月22日 515 343
1月23日 520 358
1月24日 956 451

 

中国版ツイッター「微博(ウェイボー)」に、「夫の祖父」が共産党の元老だという女性が北京の紫禁城(故宮博物院)に高級車を乗り入れて見物する写真を投稿し、猛烈な批判を浴びている。車両の乗り入れは禁止されている上に、当日は休館日。「権力者の家族は何でも許されるのか」と「特権階級」への反発が強まっている。
中国版ツイッター「微博(ウェイボー)」に、「夫の祖父」が共産党の元老だという女性が北京の紫禁城(故宮博物院)に高級車を乗り入れて見物する写真を投稿し、猛烈な批判を浴びている。車両の乗り入れは禁止されている上に、当日は休館日。「権力者の家族は何でも許されるのか」と「特権階級」への反発が強まっている。
中国版ツイッター「微博(ウェイボー)」に、「夫の祖父」が共産党の元老だという女性が北京の紫禁城(故宮博物院)に高級車を乗り入れて見物する写真を投稿し、猛烈な批判を浴びている。車両の乗り入れは禁止されている上に、当日は休館日。「権力者の家族は何でも許されるのか」と「特権階級」への反発が強まっている。
中国版ツイッター「微博(ウェイボー)」に、「夫の祖父」が共産党の元老だという女性が北京の紫禁城(故宮博物院)に高級車を乗り入れて見物する写真を投稿し、猛烈な批判を浴びている。車両の乗り入れは禁止されている上に、当日は休館日。「権力者の家族は何でも許されるのか」と「特権階級」への反発が強まっている。

西部邁死去2年、3回忌、あるいは、西部自伝への些細な註

2020年01月21日 19時00分37秒 | 日本事情

西部邁が死んで今日で2年。仏教では3回忌ということになる。2年前の西部の死で印象深かったのは西部が死んで関東が雪原になったこと。西部は土曜深夜、1/21の日曜早朝に多摩川で入水自殺。その西部が死んだ日の夜から関東は大雪に見舞われ、圧雪となるほどの積雪であった。印象を深くした理由は西部に「私の原風景」という文章があり、雪原の孤独を回顧している。子ども時代の本当の雪原と東大助教授時代に勉強のし過ぎで降雪の幻想を見るという話だ。おいらは初出を新聞(道新)でみた。

 

左:新聞記事はここで読めます(出た画像をもう一度クリックすると字が読めるほどに拡大します)。右:2018年1月22日の横浜

さて、西部の最後から2番目の著書『ファシスタたらんとした者』(2017年6月刊)という自伝の些細なことについて書く。

■ 玉音放送から米軍進駐までの間

 八月の末であったかのか九月の初めであったのか、少年の一メートル目の先に「米軍」が登場することによって、「敗戦」がこの上なく明白なものとなった。国道十二号線の砂利道をアメリカの戦車、ジープ、トラックなどがやかましく音立てて、そして砂埃と土煙をもうもうと舞い上げて通過していった。それは、当時は、占領された近所の基地からやってくるのだと少年は考えていた。しかし、あんな小さな基地に何十台もの戦車が駐屯する必要がなかったはずだ。おそらくは、千歳あるいは真駒内の基地から直接に旭川方面に向けて北上する部隊だったのだろう。旭川にはかの(満州で活躍したので)有名な旭川連隊がかつてあり、その跡を対ソ防衛の拠点として襲う、というのが米軍の目論見であったに違いない。(西部邁、『ファシスタたらんとした者』、p21)

米軍が札幌に進駐したのは1945年(昭和20年)10月5日である。したがって、西部の「八月の末であったかのか九月の初めであったのか、」というのは記憶違いである。何より、八月の末というが、米軍が東京に進駐したのは9月8日 [1]。マッカーサーが厚木に降り立ったのが8月30日。特殊な先遣隊の日本上陸はまれ[2]。ミズーリ号での調印式が9月2日。こういう歴史的事情であるから、そもそも、八月末ということはない。

[1] 関連愚記事;1945年9月8日横浜(⇒東京)に進駐する米軍を米英旗で迎えるがきんちょたち

[2] 捕虜収容のため(大森:『英国人捕虜が見た大東亜戦争下の日本人』では8/29に上陸舟艇で大森捕虜収容所に米軍が捕虜を救出しに来たとある。[愚記事])、あるいは、マッカーサー到来のための先遣隊など

 西部が見た進駐軍は国道12号線を北上、旭川方面に向かったと西部は云っている。史実は、10月6日に旭川進駐 [3]。そして、この部隊は10月5日に小樽に上陸した [4]。したがって、米軍は札幌に向かった部隊とは旭川に部隊がいて、両者とも小樽から直接目的地に向かった。西部が思った「当時は、占領された近所の基地からやってくるのだと少年は考えていた。しかし、あんな小さな基地に何十台もの戦車が駐屯する必要がなかったはずだ。おそらくは、千歳あるいは真駒内の基地から直接に旭川方面に向けて北上する部隊だったのだろう。」というのは違うのだろう。何より、真駒内の基地とはキャンプ・クロフォード[5]のことだと思うが、キャンプ・クロフォードができたのは敗戦の翌年である。

[3] 進駐軍による日本全国への兵力展開は極めて迅速に行われ、9月末にはほぼ内地進駐を終え、10月には北海道の進駐(旭川・10月6日)を完了した。最も遅いのは松山で、10月22日である [31] (引用元

[31] 大江健三郎に会うことになる進駐軍はかなり彼を待たせたのだ

[4] 昭和二十年十月四日、まず米第八軍九軍団の六千名がバーネル少将の指揮下に函館港に入港、つづいて北海道進駐米軍最高司令官ライダー少将および七七師団長ブルース少将が部下八千名をしたがえて小樽港へ向かった。(奥田二郎、『北海道米軍太平記』)(愚記事より)

[5] キャンプ・クロフォード; 関連愚記事群

これらのことは西部がもつ構成された記憶が「事実」と違うことを示し、些細なことと言える。でも興味深いのは、現実は玉音放送から米軍進駐までひと月半の時間があったことである。この時間を敗戦国民たちがどうすごしたか?一般に、敵軍の進駐に不安と緊張で過ごした記録はある。例えば、横浜では玉音放送から米軍進駐の2週間に年ごろの娘をもつ父親は本気で娘を隠す穴を掘っていたという報告もある[6]。

西部の伝記では、玉音放送から米軍進駐までの間について、特にエピソードはない。

[6] 『田奈の森―学徒勤労動員の記』 (Amazon))

■ B29と北海道

彼は戦争なるものの片鱗をみせられる成り行きとなった。というのも、自宅から東南に二キロほど先に、日本軍の基地、格納庫兼弾薬庫が、野幌原生林に隠れるようにして、あったからである。飛行機はすでに一機もなく、弾薬とて残り少なかったのであろうが、そこを探索すべくグラマン戦闘機が(二機編成で)五百メートルばかり上空をすさましい爆音と速度で飛んでいった。B29爆撃機も、二度、気味の悪い爆音を残して、一万メートル上空を通り過ぎていった。今にして振り返れば、ソ連が(ヤルタ秘密協定にもとづいて)北海道の東半分を分捕ろうとしていたのであるから、アメリカもにわかに北海道に関心を向けずにおれなかったのであろう。(西部邁、『ファシスタたらんとした者』、p17)

西部は北海道にB29が来たと云っている。おいらは、おかしいではないか、と思った。なぜなら、B29の飛行距離と出撃基地から考えて、敗戦まで北海道はB29の空爆可能地域になったことはないはずだからだ(図1参照)。ちなみに、愚記事に「B-29が来なかった街に生まれて」がある。



図1(引用元)

調べた。西部が云う「B29」がわかった。B-29には同型で改造した偵察機型F-13というのがあった(wiki)。おそらく偵察機なので爆弾の代わりに燃料タンクを大きくしたのであろう、北海道にも来ていたのとわかった[7]。

[7]  で、個人的に知りたかった留萌市への偵察について・・・ありましたありました。しっかり空撮されています。本書によれば石炭の石油化実験プラントを目標にしたものとのこと。(Amazon 米軍の写真偵察と日本空襲 - 写真偵察機が記録した日本本土と空襲被害

■ パンパンへのまなざし;1979-2017

 札幌から汽車でやってきたらしい「パンパン」の三人組が「基地」へ向かって歩いていくのをみたとき、少年は「穢い女たちだと」と思ったーパンパンというのはアメリカの植民地フィリピンのある村の名前で、そこはアメリカ軍人相手の娼婦基地であったようだー。実際、その女たちには生け図々しいといった風情があった。(西部邁、『ファシスタたらんとした者』、p23)

最晩年の自伝では、パンパンを「穢い女たちだと」と思ったことだけを書いている。でも、1979年はもっと深みがあった。

西部にはいくつか伝記がある。西部の著作の最初は『ソシオ・エコノミクス』であり、学術書。2番目が『蜃気楼の中へ 遅ればせのアメリカ経験』、1979 [Amazon])である。自伝だ。西部の米英での滞在記。この後、西部は「保守」志向を明確にする。その『蜃気楼の中へ 遅ればせのアメリカ経験』では自分とアメリカの関係を述べる。小学校時代の占領米軍との遭遇と基地をめぐることがいくばくか書かれている。そして、パンパンについても書いている;

(西部が緬羊のための草を基地から盗んだとき、米兵から銃をつきつけられたことをふまえて )銃と緬羊の構図というのでは、アメリカ占領軍の像はまるで抽象画のようですが、そこに、当時パンパンと呼ばれていたアメリカ軍人相手の娼婦が登場すると、かなり具象的になります。ジープや何やで家の前の砂利道を疾走していくアメリカ兵にしても、時おり酒をねだり身振りで台所口にぬっと現れる雲つく大男にしても、余りに異形であってつかみどころがなく彼女らがジープに便乗していたり、大男の腕にとりすがる形で仲立ちしてくれてはじめて、僕たち少年は彼らアメリカ兵たちとのつながりの可能性を感じたらしいのです。(中略)僕たち子供は、少なくとも僕の知る限り、彼女らを強く軽蔑していました。ペラペラした洋服、どぎつい口紅、いわゆるパンパン英語、アメリカ兵にぶらさがる無様な姿、そうしたものを軽蔑の念なしに眺めるには、僕たちはまだまだ世間しらずだったのです。しかし、同時に、彼女らは畏怖の対象でもあり、彼女らも方もそれを意識して傲岸な素振が上手だったようです。
 彼女らが僕たちと占領軍の間の媒介者であるという漠然とした感じが明確な形をとったのは、僕の妹が煮湯をかぶって大火傷をしたとき、一人の娼婦が(たぶん片言のアメリカ語を駆使して)ペニシリン軟膏を調達してくれ、そのおかげでケロイドをほとんど残さずにすんだような場合です。権力に寄生するものが権力の言葉をじゃべることができ、それによって被征服者たちに重要な恩恵をほどこしているわけです。何せ戦争の直接の被害がほとんどなかった北海道にいて、しかも親戚その他の近い知合いに戦死者が一人もいなかったのですから、子供の感じる占領軍のイメージは何かおぼろげで、娼婦たちが媒介してくれなければ、それはただ、武器という沈黙した権力の仮面みたいものに思われたでしょう。(西部邁、『蜃気楼の中へ 遅ればせのアメリカ経験』、1979 [Amazon])

つまり、2017年の伝記とは視線が少し違う。あるいは、晩年の回顧にはパンパンの媒介者という役割については言及していない。西部の複数の自伝で、ある時期から突然、少年の頃、占領米軍にインティファーダ(抵抗運動)をしたと書き始めた。『ファシスタたらんとした者』にも書いてある。でも、『蜃気楼の中へ 遅ればせのアメリカ経験』、1979にはそんなことは書いていない。

つまり、自分のあまたの体験を現在の視点で回顧、物語の構想を行っているのあり、各時代で西部の視点が異なるのだ。これは西部のいくつかの自伝を丹念に読むとわかるので、おもしろい。

▼ 媒介者としてのパンパン

なお、「彼女らが僕たちと占領軍の間の媒介者であるという漠然とした感じが明確な形をとった」とある。パンパンの媒介者としての役割についての指摘は海老坂武が書いていると先日書いた(⇒ ギブミーチョコレートにおけるパンパンの役割、あるいは、媒介者


新しい街でもぶどう記録;第271週

2020年01月18日 18時29分35秒 | 草花野菜

▲ 今週の看猫

▼ 新しい街でもぶどう記録;第271週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の鳥

普通のデジカメじゃ全然撮れなかった。


イソヒヨドリらしい。

■ 今週の「落書き」

■ 今週の月

■ 今週の売り切れ

野菜直売場に行くと、ビーツとあった。でも、現物は売り切れていた。武相境でビーツが売っていて、驚いた。このあたりで、作っているらしい。例えば、ロシア料理のボルシチには、ビーツが必要。

合計 6,139 2,503
日付 閲覧数(PV) 訪問者数(IP)
1月11日 1,189 383
1月12日 894 361
1月13日 992 319
1月14日 901 355
1月15日 1,020 408
1月16日 600 351
1月17日 543 326

 


ギブミーチョコレートにおけるパンパンの役割、あるいは、媒介者

2020年01月16日 19時38分26秒 | 日本事情

敗戦直後、日本に進駐してきた占領軍に子供たちが群がり、チョコレートなどをもらっていたことは歴史書に写真入りで出てくる。「ギブミーチョコレート」ってやつだ [1]。ところで、占領軍兵士=事実上米兵に「ギブミーチョコレート」といってチョコレートをもらいましたと書いた自伝を、おいらは、見たことがなかった。むしろ、米兵に物をもらったが父の命令で捨てたという話は読んだ(保坂正康の話;愚記事)。

[1] 西部邁と小林信彦がそれぞれ別のメディアの場において、われわれは後続の世代から「GMC=give me chocolate!」の世代と云われるが、自分は絶対そんなことはなかったと、聞かれもしないのに、言っていた。(愚記事)

一昨年読んだ本で初めてみた。米兵に「ギブミーチョコレート」といって、チョコレートをもらった人の話。海老坂武(wiki)、1934年・昭和9年生まれ。敗戦時、11歳だ。でも、事情が想像外だった。パンパンが出てくるのだ。そして、パンパンの役割が描かれている。

じっさい、私はなんの抵抗感も覚えなかった。まだ卑屈という感情を知らなかったということもある。そして生まれてはじめての英語をおそるおそる口にしたのだ。誰かが教えてくれた「ギブミーチョコレート」「ギブミーチューインガム」を何回か試みた。相手はもちろん進駐軍の兵士だ。何回目かの「ギブミー」に一箱のチューインガムが投げてよこされた。パンパンと呼ばれていたお姉さんにぶらさがられている兵隊だった。
「ギブミー」の声に鋭く反応するのは兵隊たちではなく、これらのお姉さんたちだった。いわば彼女たちの口利きで、この片言英語がその後、再三効果を発揮することになる。そして最初にハーシーのチョコレートを、忘れもしないハーシーのチョコレートを投げてくれたのは、彼女らの一人だった。こうした優しいお姉さんたちをどうして悪く言うことができよう。どうして「パンパン」という言葉を、誹謗する言葉として使うことができよう。(海老坂武、 『戦争文化と愛国心――非戦を考える』、2018 [Amazon])

そういえば、これに似た状況を踏まえて、パンパンについて考察した自伝があったなと思い出した。西部邁(1939年・昭和14年生まれ、敗戦時6歳)の記憶だ。1979年の証言である。

(西部が緬羊のための草を基地から盗んだとき、米兵から銃をつきつけられたことをふまて )銃と緬羊の構図というのでは、アメリカ占領軍の像はまるで抽象画のようですが、そこに、当時パンパンと呼ばれていたアメリカ軍人相手の娼婦が登場すると、かなり具象的になります。ジープや何やで家の前の砂利道を疾走していくアメリカ兵にしても、時おり酒をねだり身振りで台所口にぬっと現れる雲つく大男にしても、余りに異形であってつかみどころがなく彼女らがジープに便乗していたり、大男の腕にとりすがる形で仲立ちしてくれてはじめて、僕たち少年は彼らアメリカ兵たちとのつながりの可能性を感じたらしいのです。(中略)僕たち子供は、少なくとも僕の知る限り、彼女らを強く軽蔑していました。ペラペラした洋服、どぎつい口紅、いわゆるパンパン英語、アメリカ兵にぶらさがる無様な姿、そうしたものを軽蔑の念なしに眺めるには、僕たちはまだまだ世間しらずだったのです。しかし、同時に、彼女らは畏怖の対象でもあり、彼女らも方もそれを意識して傲岸な素振が上手上手だったようです。
 彼女らが僕たちと占領軍の間の媒介者であるという漠然とした感じが明確な形をとったのは、僕の妹が煮湯をかぶって大火傷をしたとき、一人の娼婦が(たぶん片言のアメリカ語を駆使して)ペニシリン軟膏を調達してくれ、そのおかげでケロイドをほとんど残さずにすんだような場合です。権力に寄生するものが権力の言葉をじゃべることができ、それによって被征服者たちに重要な恩恵をほどこしているわけです。何せ戦争の直接の被害がほとんどなかった北海道にいて、しかも親戚その他の近い知合いに戦死者が一人もいなかったのですから、子供の感じる占領軍のイメージは何かおぼろげで、娼婦たちが媒介してくれなければ、それはただ、武器という沈黙した権力の仮面みたいものに思われたでしょう。(西部邁、『蜃気楼の中へ 遅ればせのアメリカ経験』、1979 [Amazon])

この記事は、「パンパンへの視線」ということ「西部邁のパンパン、あるいは米占領軍描写の変遷」というのを今後書こうかなと思っているので、その時のための引用文章として、コピペ、打ち込みをした。


新しい街でもぶどう記録;第270週

2020年01月11日 18時32分55秒 | 草花野菜

▲ 今週の看猫

▼ 新しい街でもぶどう記録;第270週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の「お引き取りください」

■ 今週の政府打章

■ 今週知ったこと;「トールポピー症候群」

トールポピー症候群は tall poppy syndrome の訳。wikipediaでは日本語がない。

翻訳サイトでの訳は;

背の高いケシ症候群は、高い地位の人々が同級生よりも優れていると分類されたために、憤慨され、攻撃され、切り倒され、絞首刑にされ、批判される文化の側面を表します。 この用語は英語圏の文化で使用されています

とある。英語圏での言い回しなので、日本ではなじみがないのだろう。

「出る杭は打たれる」の類義語だろう。tall poppy syndromeという言葉をパキスタンのジャーナリストの文章でみた。わからなかったが、ググって、上の意味であると知る。その文章は米中対立の分析であり、原因は米国の中国への「トールポピー症候群」だといっている。つまり、台頭してきた中国を米国が「切り倒そう」としていると。

日本語での良い解説を探したら、あった;⇒ トールポピー症候群:目立つ人はなぜ嫌われるのか?

トールポピー症候群は、ヘロドトスの著書の中で初めて言及され、アリストテレスが考察した」とある。

アリストテレスの考察が書かれているのは、『政治学』の第3巻第13章。

民主制をとっている国々がまた陶片追放の制を定めている」と指摘し、僭主の発生を防ぐことが、陶片追放の理由であるとしている。「抜きんでた人間を取り除かなければならない」。「陶片追放は或る意味では抜きん出た者を刈り込んで追放することと同一の効果をもつ」としている。取り除く理由をその人の「悪」ではなく、卓越性としている。以上は国内政治について。そして、

しかし同じことは他の国々や民族に関しても、覇権を握った国が用いているのである、例えば、アテナイはサモスやキオスやレスボスに関して用いている(というのは実際、アテナイは支配権を強力に把握するや否や、その条約に反して彼らを抑圧したからである)、またペルシア王もメディア人やバビュロスニア人やその他、かつて支配の位置に就いたというので思い上がっている民族をしばしば刈り込んだものだった。

日本も冷戦終結後、トールポピーだったので(一時、一人あたりのGDPが米国を抜いた)、刈り取らて、その後の停滞が今に至っている。今度は中国の番だ。

もちろん、アリストテレスの民主制の例とは整合しない。民主制は下からの刈り込みだが、米国のはナンバー2を刈り込む上からの攻撃だ。

■ 今週の modi-fied India

India’s new Army Chief reserves right to ‘preemptively strike’ | Diya TV News

カシミールでの紛争でテロに対しては先制攻撃も辞せず、とのインド陸軍長官。

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老舎の死の日本への伝わり方 III; 武田泰淳、堀田善衛の発言 

2020年01月09日 18時53分01秒 | 中国出張/遊興/中国事情

中国の作家、老舎の死(文革勃発直後に糾弾され死に追い込まれた)の日本への伝わりかたについて下記愚記事がある;

老舎の死の日本への伝わり方; 水上勉、『こおろぎの壺』を読んだ。
老舎の死の日本への伝わり方 II; 水上勉、『北京の柿』を読んだ、あるいは、張教授の事実誤認
呉智英さんへの恩返し

上の3つの記事の概要は、文革勃発直後に糾弾され死に追い込まれた老舎の死の情報が日本にいつ伝わったか調べた。その結果、うわさとしては死亡直後から伝わっていた。老舎の死が確実であることは文革終了直前であった。

上の愚記事3つ以降、うわさを含む日本への伝わりかたについておいらが知ったことはなかった。ところが、先日、『対話 私はもう中国を語らない』(Amazon)という武田泰淳(wikipedia)と堀田善衛 [1](wikipedia)の対談本(1973年刊)に書いてあった。

[1] 関連愚記事; 堀田善衛『インドで考えたこと』

該当部分を抜き書きする;

革命におけるインテリゲンチアの死

堀田 同情といえば、中国の場合、文学者がいろいろ消えていった。老舎も消えていった。そういう、消えていったインテリゲンチアに対するシンパシーは、武田さん・・・。

武田 それはありすぎる。

堀田 ぼくは憤懣にたえませんね。だって、なぜ中国の歴史そのものを体現した老舎のような作家が死ななければいけないのか。ぼくがいちばん不愉快なのは、楊朔[2]という、これがつまり、ぼくが十何年間、アジア・アフリカ作家会議をやるためにいっしょに協力し、つねに交渉していた人ですね。この運動の草創と初期の苦労を、はじめは一九五六年にインドで、それからセイロンで、また東京で、それからカイロで、ぼくは彼とともにして来た。これが朝鮮戦争のときの孤児を四人養ってたわけですよ。孤児を四人養ってて、なおかつ自殺しなきゃならないなんて、おそらく死んでも死に切れる思いだったろうと思う。そんなことをやってる中国の権力者、毛沢東を初めとして、ゆるしがたいという気持がありますよ。ぼくには。
 こんなことをいえば、またミスター・ホッタを中国へ絶対に入れてはならない、といわれることになるになるのでしょうけど、そんなことはしょうがない。ほんとうにゆるしがたい。このぼくらの敬愛していた友人のことに限っては、文化大革命ゆるしがたし。

武田 それはつまり、文学においてぼくらの愛した文人が消えていった。それはまだ政府の発表はないんだから・・・・。

堀田 うん、それはそうなんだ。発表はないけれども、国際的な関係のなかで働く、あるいは単に働くだけでもいい、そういう文学者というものの危うさというものは、ぼくは肌身に感じてひしひしとわかる。どうでっちあげられるか知れたものじゃないから。しかし、死なせることはないだろう・・・・・。
(中略)

武田 発表があったのは、謝冰心[3]だけなんだから、個人的には秘密というか、それをぼくは向こうの文学者から、一人一人確かめたんだ、こういうことかって。それである程度はわかったけれども、政府の発表じゃないから、国際関係においてはいえないわけだ。ぼくは黙っていたけれども、それはもちろん抹殺されたか抹殺されかかったな。抹殺されても、されなくても、それは公表すべきだと思うんだ。そうじゃないと、文化大革命において文学者に対して、どういう考えをもっていたのか、公の声明が出されたことは、なんにもないんだから、ぜんぜんわからない。
 それはな、造反派の人から先輩文学者を非難したということは少しはきいたよ、個人個人でね。だけれども、老舎が死んだということに対しても、なぜ死んだか、はたして裏切り者であったから死んだのか、ということはね、一回も報道してない。つまり文学の問題としても、政治の問題としても。

堀田 どうして死んだかということも、発表していない。

武田 発表されてないわけだ。ただ、わずかにわかったのは、幹部学校にいた謝冰心が改心したということだけだけれども、それじゃ、なんのことだかまったくわからないね。

堀田 わからない。しかしね、わからないままで放っておかれている。彼らの古い友人であるわれわれの立場というものは、どういうことになるのかね。ぼくは、なんというか、愚弄されているような気がするよ。(p80)

楊朔[2]  wikipedia (訳)

謝冰心[3]   wikipedia

つまり、うわさ以上に出版物として公言できるほどの信ぴょう性をもち老舎の死の情報は、1972年には関係者には確認されていたことになる。1973年に出版されたこの本に対談は1972年に行われたとある。老舎の死は武田泰淳が直接中国の関係者に聞いたとのこと。武田泰淳は3度訪中し、そのうち2回は文革中とのこと。1回は1967年という文革最盛期の頃である。今から見れば、老舎関係者、あるいは中国文学関係者、日中交流関係者の一部は未確認情報(当局未発表情報)として老舎の死を知っていたのだろう。ただし、当局が公式発表しないので表で言及することははばかられていたということなのだろう。ただし、それ以上の武田泰淳の訪中情報はわからない。今後、武田泰淳の伝記などを読んでいきたい。

[1] 1967年の武田訪中。杜宣(解説web)に会った。杜宣は日本留学経験がある中国人作家。カイロで行われたアジア・アフリカ作家会議で武田と堀田は杜宣に会った。

武田の文革中の訪中で老舎、巴金など会えるはずの人に会えなかった話;

武田 ソ連の粛清なんてすごいですからね。たまたま日本では、まあまあ粛清ということは珍しいことである。日本では、やめれば命まではとらない(中略)だけど向こう(中国)じゃ文学者だってあぶないぜ。
 この間、謝冰心が幹部学校でやられて、出て来て、いままでのはぜんぶまちがっていた、というわけでしょ。それから巴金と老舎。北京へ行けば老舎先生、上海に行けば老舎先生、上海に行けば巴金に会って、それまでにもAA会議でも文学者にたくさん会っている。北京へ着いたらまず茅盾、これはいわば文化大臣になった人ですから、それが中国側の代表だと思っていたんですね。それが文革のときに行ってみると、いままで会えた中国の文学者には、だれにも会えないし、どうなったかわからない、というから、心配になるのです。(p88)

心配になったので中国の関係者に確かめて、老舎の死を知ったのだろう。

■ 武田泰淳、堀田善衛、『対話 私はもう中国を語らない』

『対話 私はもう中国を語らない』は1973年の刊。前年の1972年に日中国交回復。本書は国交を回復させた日本政府・自民党とは別に以前から日中関係改善に関与してきた武田と堀田が当時の中国の状況、および日中国交回復に言及し、自分たちの戦時期での中国体験を回顧する対談集。テーマとして1970年の三島事件について武田が言及している。当時、三島事件を受けて周恩来が日本軍国主義復活を喧伝していた。

中共が孤立していた頃(今の人は戦後まもなくは中共と国交がある国は現在の台湾と国交がある国の数くらいだったとは想像していないかもしれない)、中共とつきあって来た二人が、日本政府の中共との国交樹立という状況、あるいは、中共内部の文革という状況で、もう中共とのつきあいはやめると宣言した対談だ。

『対話 私はもう中国を語らない』は中古でも高い値段がついている(上記Amazonリンク)。図書館で借りた。返さないといけないので、興味深い点を抜き書きする;

■ ぐち

堀田 中国が、どこともほとんど国交のなかったあいだに、そのあいだに中国がつくった各国における中国の友人というもの、それは大きかったな。これからの日本がどうしたらいいのか。

武田 友人がいままではなかったですからね。 (p128)

■ 民主主義なんて知らないよ

(戦争がおわったとき、日本支配が終わった上海で、人々が今後の身の振りを考えなければいけない状況で)

武田 自分たちのほうが動きがさわがしいわけだ。急いですべてのことを解決しなけりゃならないでしょ。共産軍の宣伝文書ははいって来るし、重慶側は自分たちでまとめなければならないしね。そのときにぼくは、初めて共産主義と民主主義はちがう、ということを知ったんです。ぼくは共産主義と社会主義については、わりあい常識的に知ってたんですよ。だけど、もうひとつ民主主義というものがあるというんだな。

堀田 その話はおもしろいよ。

武田 そのことを、そのとき初めてきかされてね。それまでジャーナリズムに出てなかったんですよ、民主主義というのは。

堀田 武田さんはね、いま共産主義と社会主義は知っていたけれど、民主主義というものは知らなかったという。ぼくはぼくで、明治の民権自由の婆さんに育てられた。生まれつきの日本共和国論者ですから、レパブリカンですから、民主主義のことは知ってたよ。

武田 ぼくは民主主義っていうのがあるときいてね、ほんとうかな、と思ったね。日本にも民主主義をやるなんて、うまくゆくのかな、と思ったね。そんなもの、ぜんぜん日本人に縁もゆかりもないもんだ、と思ったんだ。(笑い)

■ 憲法

武田 ぼくは憲法っていうのは、まったくわからない。というのはね、つまり、自由自在に解釈を変更して来ているからね。憲法を守るという運動は、気持としてはわかるけども、ああいうものをかんたんに守れると思ったり、その条文がいつまでも変わらないでいると思うのは、まちがいだと思うよ。だって憲法というのはバケモノみたいなものでね、手や足がたくさん出たり、形のわからないものだと思う。いくら日本は戦争を放棄したっていったって、違うと思うんだ。

■ 大東亜文学者大会

この大会には日本の各文学者団体が参加したが、竹内好、武田泰淳らの中国文学研究会は参加を断った。(wiki

本書(p48)では、武田泰淳は、代表ではないがオブザーバーで参加したと書かれている。そこで陶晶孫(google)と行き会ったとある。

■ 中国人観

堀田 それから解放以前と解放以後とをくらべて、どう考えるか、ということね。解放以後の一九五八年ごろでしたかね。ぼくは初めて北京へ行ったわけですけれども、そのときにぼくがいちばん驚いたのは、やはりパレードでしたね。国慶節だったと思う。パレードがあってね。じつに整然としていることに、ぼくは驚いたですね。それはつまり、わたくしや武田さんが、戦中戦後、上海にいてね。上海の中国の人たちなんかと行き来していて、あるいは、かれらの生活を見ていて、整然たる、ああいう大パレードができるとは、とても想像がつかなかったですね。おそらく、いくぶんバカにしていたような気持が、ぼくらのほうにあったんでしょう。

武田 ああ、そう・・・。 (p131)

■ 三島由紀夫と武田泰淳

武田 だけど、三島君はね、ぼくはたとえ周恩来に非難されようと、好きであったということは、ハッキリいえるよ。三島君は、われわれが経験し、予測する事態に対しては、目をつぶっていたけれども、日本を守りたいという。子どもじみた考えはね、そこまでかれは考えて、あえて文学を棄てても、これで自分の生涯を完結しましょう、と思ったとおり、やっちゃったわけだな。
 だけども、ほんとうはね、じっさいにできないから文学というものはある、そもそも、そういうふうにハッキリやれるものなら、やっちゃたら いいんでね。それがやれないから、文学なんて余計なものがくっついてるんですね。最初から文学やらなきゃいいですよ。文学をやって、そういう結論に達したということは、ぼくは反対だけどね。
 ただその心、それが純粋だったということは、ぼくは疑うことはできないんだ。いくら周恩来が、軍国主義復活といったってね。三島君は、あの人は人を一人も殺していないじゃないですか。三島君は人を殺せる人ではない。かれは中国を侵略することもできないし、中国人を一人だって殺すことはできない。日本人だって殺すことはできない。そんなやさしい心の人は、自分しか殺すことはできない。それがそこまでやったっていうことはね、ぼくはやっぱり友達として認めてやらなきゃならない。

■ 三島由紀夫情報

武田 (前略)秋瑾が中国の民衆を知らなかったように、三島君も日本の民衆というものを愛していなかったですね。じっさいに東大法科を二番で卒業して、やることなすことをぜんぶ首席でね。民衆なんか忘れてしまって、古典の中にだけ美を認めるわけだから、現代というものがないいんです。 (p70) 

■ 中国人作家のシャイネス

堀田 よく日本人は恥ずかしがりだ、シャイだというでしょう。そんなことはないね。中国の偉い人のほうが、ズッと恥ずかしがりだな、文学者に関していえば。

武田 じっさいそうだ。

堀田 中国の偉い文学者、たとえば老舎、それから茅盾、巴金さんでもね、みんな自分の作品の話をされると、いても立ってもいられないほど、恥ずかしがるんですね。逃げだしちゃうんだよ。

武田 自分のことをよく知ってるんだよ。代表者になるような人はね。

■ 武田泰淳 2 26, 5 15への共感

堀田 武田さんは、満州事変について、なんか記憶がある?

武田 それはね、五・一五とかね、二・二六とかね・・・。あれは、ぼくはかなり同情的に見ていたんだ。下層下士官兵が、貧農地帯から出て来てね、ところが当時の支配階級は堕落しとる。で、日本はこれでますます沈みゆくばかりであって、おれたちがやらなければ、日本帝国は滅びるんだ、と思ったでしょう。それはまちがっていたけれどもね、まちがっていたけれども、それは、真実そう思い込んで、そう思っていた。非常な不景気でしょう。現在では想像もできないような不景気で、農村の子供は売られるわ、餓死はあるは・・・・。  (p25)

■ 戦争

武田 それからね、戦争っていうものが、どういうものかっていうことはね、いちおう話しておかなけりゃならないだろうな。ぼくとしては、ひじょうに恥ずかしいし、苦しいし、いやなことだけどね、やっぱり、いちおう告白しておかないと、いけないと思うんだ。
 ぼくは兵隊にとられて、貨物船に乗せられてね、上海のそばの呉・ウースン港に上陸したわけだ。ぼくが上陸したのは、上海の港から少し離れたところでね、そこに上陸してさいしょに会った中国人は、生きた中国人じゃなかった。死骸になった中国人だった。そうしてそれからズッと、まあ、半年くらいは毎日死骸を見た。食事をとるときも、寝るときも、井戸の中にも、川の中にも、丘の上にも、あるものはぜんぶ死骸ですからね、いやでも、その間を縫って歩かなきゃならなかったわけですよ。どこへ行っても死臭がただよってる。(p38)

■ 徴発

武田 ぼくが感じたのはね、農民ですよ。中国の農民がいかに強いかということ。(中略)日本の兵隊よりも、むこうのほうが大きいんだな。(笑い)(中略)
 その百姓たちがね、ぼくたちを見る眼が、こいつら、たいしたことない、自分たちのほうがずっと優秀である、という眼なんだよ。ということが、自然にわかっちゃうんだな。
 そこへこっちは徴発に行って、そういう人たちと対決するでしょ。こっちは武器をもってるし、むこうはもっていない。そうすると、向こうは遠巻きにして笑って見ている。おじいさんはトウモロコシなんかゆでるし、向こうじゃヒツジの肉がお釜の中で煮えてるしね。それはもう、農村文化っていうものが、非常に強いっていうかな、日本人が何いったって、蚊がとまったほどにも感じなくて、最後にはむこうが勝つということ、のみこんじゃうということね。点と線をのみこんじゃうということは、ちょっと見てもわかっちゃうんだな。

▼ まとめ

武田泰淳の発言は三島由紀夫事件の余韻でなされている。

▲ 武田泰淳、堀田善衛、『対話 私はもう中国を語らない』をなぜ読んだのか?理由は「江藤淳の影」。今回この本で武田泰淳を初めて読んだ。初期江藤において武田泰淳の「影響」があると平山周吉の『江藤淳は甦える』にあった。江藤は若いころ武田泰淳、堀田善衛と縁があった。一方、江藤における「中国の影」。江藤淳は佐藤内閣の頃政権の取り巻き知識人だった。周りに永井陽之助、高坂正堯、山崎正和などがいた。この中で後に中共に行ったのは江藤ただ一人であり、鄧小平にまで会った。この「中国の影」を背負う江藤は若いころ、武田泰淳、堀田善衛と縁があり、高校生の頃は竹内好の講演に感銘を受けたと平山周吉の江藤記伝にある。


新しい街でもぶどう記録;第269週

2020年01月04日 18時39分24秒 | 草花野菜

▲ 今週の看猫

▼ 新しい街でもぶどう記録;第269週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週のメタセコイア

■ 今週の草木花実

■ 今週の伐採

■ 今週のゴミ;読売新聞がばらまいた

■ 今週の「山本五十六」

イラン革命防衛隊の精鋭部隊「コッズ部隊」のトップ、カセム・ソレイマニ司令官が3日、イラク・バグダッドで米軍の空爆によって死亡した。米国防総省は、「大統領の指示」によって司令官を殺害したと認めた。ソレイマニ司令官は、イラン国内できわめて重要で人気の高い、英雄視される存在だった。google

2011年にウサマ・ビンラディンが殺害された。その時、米国はこれは「山本五十六殺害」と同じものであるといった。今回もそういうのであろう。

【ワシントン共同】ホルダー米司法長官は4日、上院司法委員会の公聴会で国際テロ組織アルカイダの指導者ウサマ・ビンラディン容疑者殺害について「敵の指揮官を攻撃目標にすることは合法だ。例えば、第2次大戦中に山本(五十六・連合艦隊司令長官の搭乗機)を撃墜した時も行った」と証言し、殺害が正当だったと強調した。

愚記事より)

■ 今週の天下り



https://twitter.com/shop_kakiko/status/1213207728379682816

 彼はまた私を見つめた。私はうなずいた。
「それは二重の意味で忘れがたい晩になった。数ヵ月後に大異動があり、おれは潜水学校をとり上げられて突然軍令部出仕を命ぜられた。軍令部長もかわった。そしておれは間もなく待命をおおせつけられ、予備役に編入された。・・・そのころ、おれは海軍次官に訊かれた。『君はこれからいったいどうする?』とな。おれは答えた。『御用がないようですから、仕方ありません。魚屋にでもなります』軍令部に行ってみてもポストがなく、悶々としていたころだ。そういうわけでおれは魚屋になった」
 たしかに彼は、敗戦後追放されるまではある大手の漁業会社の役員をしていたはずであった。

江藤淳、『一族再会』、もう一人の祖父

戦前は海軍の退役軍人が大手漁業会社に「天下り」して、海軍と「癒着」していたのであろう(推定)。

ただし、大日本帝国海軍は組織的に公式に日本の漁船の事実上の保護をしていたのは史実である。このtweetはこの史実を云っているのであろう。大手漁業会社は母船を出し、自営の小型漁船から魚を買い集めるのだ。

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