いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第390週

2022年04月30日 19時20分02秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第390週

■ 今週の草木花実

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の筑波山

■ 今週の常陸野(ひたちの)

■ 今週の3回目

今週、コロナワクチンの3回目摂取をした。ワクチンの接種説明書には「15分以上摂取を受けた施設でお待ちいただき」との指示ある。でも、看護師さんが貼ってくれる「解放時刻」シールは接種後10分であった。帰りの受付の時間を見込んでいるということか。

■ 今週の切り落とし

ふるさと納税返礼品。 web site : 福まる農場

■ 今週知った大和言葉、読めなかった支那文字

本を読んでいたら「肯う」とあった。訓めなかった。正直、肯=「がえんずる」は知っていた。でも、「肯う」には、「がえんずる」はあてはまらない。訓めない。 ググった。

 
https://www.kanjipedia.jp/kanji/0002200700

「うべなう」にあてる支那文字は、他に、宜う、諾うなどがあるとも知る。「うべなう」は大和言葉なので、生まれて一度も見聞きしたことがない。

■ 今週の大日本帝国の成仏のために

横浜市青葉区。 この建物は、敗戦前からあるとされる(軍需施設の付随関連施設)建物。

■ 今度出る本(1996年の本の文庫化)


Amazon

森山軍治郎の『ヴァンテ戦争ーフランス革命を問い直す』(Amazon)をいつか読みたいと思っていた。古本で2000-3000円ほどだとは知っていた。ただし、おいらはフランス革命のいろはも知らなので、初歩の本を読まなければならないのだか、積読だ。

森山軍治郎は北海道は美唄の出身。炭鉱の街。北海道大学に入る。一方、遅塚忠躬(ちづかただみ)wikiは、フランス革命けんきゅの「大家」。東大出でのち東大教授。ただし、1964-1969年に北大にいた。二人はその時、接点があったのだろう。師弟関係なのか、関係がどうであったのかは、おいらには、わからない。

■ 今週の「変」

学変は筑波学園研究都市の「学」、竜変は龍ヶ崎の竜。

■ 今週の改名

龍ヶ崎市。 愚記事「伊達政宗、来ました」。常磐線で本領仙台と飛び地が結ばれたのだ。

■ 今週の多摩川

■ 今週の利根川

■ 今週の焼きもの

梅どらやき。包丁で2つに切らずに、手で割ってよかった。なぜなら、梅は種入りだったからだ。

Google


新しい街でもぶどう記録;第389週

2022年04月23日 18時36分40秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第389週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の武相境斜面2;奈良長津田線の沿道は八重桜並木

こどもの国駅の西側から長津田駅方面へ南北に走る道路、奈良長津田線がある。この道路の脇は八重桜並木となっていると気づく。


奈良


あかね台

■ 今週の草木花実

■ 今週のコロナ禍推移

コロナ流行以来これまでバスの運転手席の後ろの客席は封鎖されていた。今日は開放されていた。

■ 今週のAI

A-I = Angro - Indian

【4月22日 AFP】インドを訪問したボリス・ジョンソン(Boris Johnson)英首相は22日、防衛や安保に関する協力でインド政府と合意したと発表した。(ソース、 Google)

■ 今週のキリ番

■ 先週の命日


https://twitter.com/granadakanko/status/1514098552867225602


wipipedia 狂女フアナ  愚記事:やれやれ顔のみんなが慢然と彼らの視線を向けている(居眠りしている人も複数だが)先の人物は、カスティーリャ女王・フアナ。

■ 今週借りた本;京女/狂女

先週の愚記事、高橋たか子の『どこか或る家』に続く、高橋たか子。

夫、高橋和巳の回顧。

いまから思えば、誇大妄想の自信家の男と、その男の才能を信すると、二人三脚で走りだしたようなものだ。

さらに、京大紛争の闘士(造反教官)として名をはせた高橋和巳についてのことで、語り草になっているあの文言はこの本にある;

 主人は要するに自閉症の狂人であった。私がこう書いて、驚く人があれば、その人の洞察力がにぶいのである。

▼ 1965-1967年の『逃走論』。 高橋たか子の『高橋和巳の思い出』は15年ばかり早い逃走論だとわかる。おフランス派は逃げるのだ、悪しき場所「日本」から。京都で育った京女の高橋たか子にとって、最初の「悪い場所」は京都をはじめ関西である。新婚の新居に高橋和巳の小松左京ら友人が酒盛りに来る。酒盛りが終わって帰ったはずなのに舞い戻って来てまた酒盛りを始める。高橋たか子は嫌になる。高橋和巳が作家として認められたので上京。鎌倉に1965年に500万円で家を買い、住む。ところが、関西勢がまたやってくる。東京の方がましだと思っていたのに。高橋たか子は1967年にパリへ逃げて行く、日本最悪と思って。

▼ 高橋たか子、『高橋和巳の思い出』。 この本は構想社という出版社から1977年に刊行されている。この構想社は坂本一亀がつくった出版社。高橋和巳は編集者坂本一亀により世に出たと高橋たか子はいっている。高橋和巳を自閉症の狂人と書いた文章は「かわいそうな人だといつも思ったこと」は1971年(昭和46年)に「群像」にでたもの。その他の文章をまとめてこの本となっている。この時期構想社から中村真一郎、武田泰淳、埴谷雄高の本が刊行されている。これの作家は高橋たか子が尊敬する作家たちである。

▼ (おいらからみて)狂女

高橋たか子は、晩年の日記で云っている;

一言で言えば、「フランス人に生まれたかった」ということ。私の存在をあげての、果たされなかった願望!

 

一切が虚無なので。
おまけに日本の一切が俗悪なので。

 しかしフランスが呼んでいる。(フランスこそ虚無を認知している国だが、それゆえにこそ、熱い人間的な(人と人との間の)アスピラシオン[1]がある)

『終わりの日々』

[1] 英語いえば aspiration:
Aspirationといきなり英単語ではあるが、最近知った。なかなかぴったりの日本語が見つからない。辞書では、aspiration= 強い願望、大志、憧れである。上昇志向の願望といったところか。さらには、最近の言い廻しに従うと、「何者かになりたい」欲ともいえる。(愚記事)

 

■ 


新しい街でもぶどう記録;第388週

2022年04月16日 18時18分56秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第388週

今週、葉が一気に開いた。

■ 今週の武相境斜面

■ 今週のメタセコイア

■ 今週の草木花実

■ 今週の月

■ 今週の春;買ったものと貰ったもの

今週はじめ、たけのこを半額で買った。糠はついていなかった。

今週末、たけのこを貰った。皮は剥いてあり、糠もいっしょにもらった。

■ 今週、<荊の簪を挿した御方>が借り、又借りして読みはじめた本

<荊の簪を挿した御方>が高橋たか子の本を借りた。借りた動機は、女性作家のエッセイということで、佐野洋子をかなり読んだ後に、高橋たか子にたどりついたらしい、ある人のブログで知ったらしい。

高橋たか子が高橋和巳の妻であることは知っていた。しかし、高橋たか子は1冊も読んだことはなかった。高橋たか子について知っているのは上野千鶴子による「ゴシップ」である。なお、<荊の簪を挿した御方>は高橋和巳を全く知らなかった。

上野千鶴子が、『サヨナラ学校化社会』の中で、偏差値一流の大学生の女子は「学歴資源」と「女性性資源」をもつとして、2つの類型に分けている。ひとつが、「女性資源」を利用して「学歴資源」の高い男(高い社会的業績)と結婚する女。もうひとつが「学歴資源」を活かすことを選び取り結婚や子育てをしない女。前者の象徴例として高橋たか子を挙げている。その項の題が「エリート女性がエリート男を求める理由」。

 私は、高橋たか子 ー高橋和巳の妻だった作家ー を印象深く思い起こします。彼女は能力と女性性の両方を兼ね備えたような人でした。一方、高橋和巳は私が学生だったころ、全共闘運動のヒーローでした。良心的知識人として煩悶し・・・。その彼の妻として和巳が売れない大学院生時代から、塾の教師や家庭教師のアルバイトで彼の生活を支えていたのが高橋たか子です。二人は京都大学の同窓生でした。 
 その彼女が、(和巳の死後出版した本で)和巳はどうしょうもなく自己中心的で傲慢な男というものでした。彼女は、なんでそんな自己中心的な男にそこまで仕えたのか。「この人は天才だと思ったから」と言うのです。天才は生活の労苦をなめてはならない。だからたつきというか、生活にかかわる労苦をすべて私が背負う、というのが彼女のプライドでした。実際、彼女は献身的に雑事をこなして、家事をこなし、そのうえ生計まで担って和巳を支えました。 (和巳はたか子の稼ぎをひとりで温泉に行くことに使ったりした)
 ここにあるのは高橋たか子自身の二重の意味での権威主義です。一つは天才だと思える男を自分が選んだと言うプライド。もう一つは自分が天才にふさわしい女だと言うプライドです。彼女のエリート的なアイデンティティと女性的なアイデンティティとの折り合いがつく地点を、彼女は「(天才)和巳の妻」という場に見出していたわけです。そういうことが私などには、おぞましく、恥ずかしく、こんなことよく書くよねと思いました。 見たくないもの、見てはならないものを見てしまった、という恥ずかしさです。
 自分が競争することを放棄したエリート女は自分の女性的なアイデンティティとエリート生を結び付けるために自分が検診して悔いない自分を投資する価値のある男を探そうとします。 (中略)
 高橋たか子はそのうち現世の男を天才だと思うような幻想から覚めて神という究極の権威に使えるようになります。神は裏切りませんして温泉にも行きませんから。


高橋たか子の『どこか或る家』は、2006年に出版された。自伝的な文章、エッセイを集めたもの。文章が書かれた時期は広い。年譜もついている。2006年には高橋たか子は存命で、著者から読者へという文章がある。そこでは、小説の人物と高橋たか子を混同され困惑していると書いている。そして、高橋たか子は私小説を低いものと見なし日本文学の悪しき特徴と思い、「西洋文学」の優位をあからさまに表面する。

高橋たか子は1932年(昭和7年)の京都生まれ。1950年に京都大学に入学。仏文を修士課程まで修める。その後の人生は上記上野の文章にある。1932年(昭和7年)生まれといえば、江藤淳と同い年と気づく。江藤淳も最初は仏文志向で、サルトルに耽溺していた。さらには、高橋たか子は鎌倉に家を建て住んだ。1965年。これは江藤より約10年早い。ふたりの接点はあったのだろうか?江藤の『全文藝時評』(上下巻)を見ると、結構の高橋たか子の作品に言及していたとわかった。初期の作品は評価しているが、のちの『天の湖』対しては、造花のようだ、舞台のパリも鎌倉も書けていないと厳しい。


()内は昭和の元号年と月

高橋たか子は京都を日本の中で最も近代化の遅れた街と認識し、日本に生まれ育ったことが不幸であるという認識をもっている。これは江藤が指摘する昭和の文学の「現在の自分の状況を恥じる日本人」、「日本人であることを恥じる日本人」の極地ではないか。高橋たか子は、別の本、『終わりの日々』で、「知能」が西洋人と日本人では違う。「頭のよさ」の度合いが違う。西洋では存在全体をあげての「頭のよさ」があるが、日本人には欠けている、という認識をもっていることを書いている。すごい。出会えてよかった、高橋たか子。

『どこか或る家』で、初めて高橋たか子がカトリックだとわかり、延々日本との折り合いのあわないことが述べられている。その中で「証言」というものについて書いている。1980年代、日本が嫌になった高橋たか子はフランスのカトリック修道院で生活する。霊的生活らしい。修道院生活で、霊的討議があり、清貧、貞潔、従順などカトリック的課題について発言しなければならない。発言する。内容は日本文学の環境は貞潔ではないといったもの。恥をさらしてしゃべった。それに対し神父が「ひとつの章元を感謝します」といった。これは意外と高橋たか子は感じた。本当を語ることが証言なのだと理解したのだという。

この「証言」という観点で、高橋たか子のエッセイの文章はおもしろい。おいらは、敗戦時に13歳だった秀才女子が戦後どのように育ち生きたかという証言と集として、高橋たか子のエッセイはとても興味深いと思った。

『どこか或る家』では多くの海外での経験が書かれており。東西はロシアからスペイン、南北はノルウエーから(これまた)スペインの地中海側。興味深いことに、旅行はもちろん話題でも「アメリカ」が一切出てこない。

■ 今週見つけた些細な間違いと知ったこと

相模原の住宅発達史についての三浦展の記事。下記ある;

相模原における日本陸軍の各施設と戦後の米軍の進駐状況。注:アメリカルという表現は聞き慣れないがアメリカンではなく、アメリカルで正しい。「アメリカの」の意味である。 出所:『相模原市史 現代テーマ編』

まちがい。アメリカル=Americalは、「アメリカの」意味ではない。愚記事より;

アメリカル(Americal)とは何か?アメリカン(american)とは違う。Ameriaに何か接尾辞(physical、とかradical)が付いたものなのか?違った。アメリカル(Americal)のcalはニューカレドニア(NewCaledonia)のcal とのこと。オーストラリアの東にあるフランス領のニューカレドニアを防衛するための米軍師団。ガダルカナルで日本軍と戦闘。 アメリカル師団の wikipedia あり。

▼ 知ったこと;

(相模原の)都市計画の立案は神奈川県土木部都市計画課長の野坂相如(すけゆき)。作家の野坂昭如の父であった。(相模原の住宅発達史についての三浦展の記事


横浜・町田:多摩丘陵散歩 こどもの国⇒玉川学園⇒七国山⇒野津田公園⇒鶴川駅(その2)

2022年04月15日 18時29分33秒 | 武相境

横浜・町田:多摩丘陵散歩 こどもの国⇒玉川学園⇒七国山⇒野津田公園⇒鶴川駅(その1) の続き

1;東急・こともの国駅、2;奈良北団地南端、3;東玉川学園4丁目、4;小田急線・玉川学園駅、5;玉川学園4丁目、6;日向山公園、7;本町田東小入口交叉点、8;今井谷戸交叉点、9;七国山、10;鶴見川・丸山橋、11;野津田公園、12;小野路交叉点、13;大蔵、14;小田急・鶴川駅


横浜・町田:多摩丘陵散歩 こどもの国⇒玉川学園⇒七国山⇒野津田公園⇒鶴川駅 (その2)

■ 5;玉川学園4丁目、6;日向山公園、7;本町田東小入口交叉点、8;今井谷戸交叉点、9;七国山、10;鶴見川・丸山橋、

 

▼ 町田市立第5小学校 ⇒ 5;玉川学園4丁目 ⇒ 6;日向山公園 ⇒ 7;本町田東小入口 ⇒ 8;今井谷戸交叉点


α;町田市立第5小学校、5;玉川学園4丁目、β;「白い家」、γ;本町田遺跡公園、6;日向山公園、7;鎌倉街道 本町田東小入口、8;今井谷戸交叉点(鎌倉街道、団地いちょう線交叉)

◆ 玉川学園駅西側斜面 ⇒ α;町田市立第5小学校 ⇒ 5;玉川学園4丁目 ⇒ β;「白い家」


α;町田市立第5小学校

このあたりが丘の最高地点。この先、北西方面に向かい丘を緩やかに下ってゆく。


β;「白い家」

住宅地を散歩する楽しみはこういう家を見つけること。何か、すごいよね。

◆ β;「白い家」 ⇒ γ;本町田遺跡公園 ⇒ 6;日向山公園


鶴川街道、市立博物館入口


右手が本町田真之山ふるさとの森。道の奥が市立博物館。

1967年から1968年、藤の台団地造成にともなって発掘調査が行われ、縄文時代前期の住居跡4軒と、弥生時代中期の住居跡7軒が見つかりました。その一部が史跡として保存されています。現在は縄文、弥生時代の住居各1軒が復元され、内部も見学することができます。(町田市web site 縄文時代と弥生時代の住居を復元―本町田遺跡公園

昭和に住居である団地を造ろうとしたら、縄文・弥生時代の住居が発見されたという話。

本町田遺跡公園から、下る。


Google

▼ 6;日向山公園

◆ 6;日向山公園 ⇒ 7;鎌倉街道 本町田東小入口 ⇒ 8;今井谷戸交叉点(鎌倉街道、団地いちょう線交叉)

藤の台団地(ふじのだいだんち)は、東京都町田市藤の台にある住宅団地(集合住宅)。日本住宅公団(現:都市再生機構)により公団住宅の大量供給期に建設された、一般賃貸・普通分譲型の団地である。


首都圏の人口が爆発的に広がる中、すぐ近隣の町田山崎団地と共に日本住宅公団により建設され、1970年(昭和45年)に入居を開始した。町田駅からの交通の便も良いことや、新宿まで1時間以内で行けることなどから、すぐに全室が埋まり約1万6千人が入居した。

町田市に多くある谷戸と台地が繰り返される土地に作られたため、団地内は急な坂や階段が非常に多くなっている。 (wikipedia

▼ 7;鎌倉街道 本町田東小入口

▼ 8;今井谷戸交叉点(鎌倉街道、団地いちょう線交叉)

◆ ⇒ 9;七国山 ⇒ 10;鶴見川・丸山橋

自然の概要

昔、この山頂から7つの国が見えたので七国山と呼ばれる、なだらかな起伏の続く丘陵地の中でも一段と小高い地域である。数条の尾根と谷戸が入り組んで、変化に富んだ地形をなし、区域内の西部には鎌倉古道の遺構が南北に縦貫している。ほぼ全域にコナラ-クヌギ林が分布し、中央部及び周辺部の緩斜面の一部に耕作畑、果樹園、竹林等が散在する変化の多い植生である。東京都環境局web site 2 七国山緑地保全地域


鶴見川

◆ ⇒ 11;野津田公園

1990年(平成2年)に陸上競技場を中心とした公園西側の第1期区域(面積約15.4ha)が開園。その後は公園東側の拡張整備を行い、2001年(平成13年)に第2期区域が開園し、現在に近い形となる[3]。広さは約39.8haで、町田市立の公園としては最大規模を誇る。園内には町田GIONスタジアム(町田市立陸上競技場)、野津田球場、上の原グラウンド、野津田公園テニスコートなどのスポーツ施設がある。wikipedia


1960年代の航空写真

図中の「+」の右の低地=谷筋を鎌倉古道が走っていた。

1960年代と比べて現在の方が「森」が増えている。増えた分は造られた「森」とわかる。

 

◆ ⇒ 12;小野路交叉点

◆ ⇒ 13;大蔵

◆ ⇒ 14;小田急・鶴川駅

まとめ

その2の通過町

東京都町田市 玉川学園、本町田、藤の台、山崎町、野津田町、大蔵町、能ヶ谷

 


横浜・町田:多摩丘陵散歩 こどもの国⇒玉川学園⇒七国山⇒野津田公園⇒鶴川駅(その1)

2022年04月10日 18時12分55秒 | 武相境

多摩丘陵への散歩は、これまで、小田急線鶴川駅を出発としてきた。今回、七国山に行くことにした。今まで行ったことがないからだ。そうすると、鶴川駅よりは、玉川学園駅の方が便利だ。これまで、玉川学園駅周辺にあまり行ったことはない。理由は、「自然」が少ないから。でも、最近、多摩丘陵の歴史を考えると、住宅開発こそが多摩丘陵の歴史的「大事件」。その進展は日本の(戦後、本格的に深化した)近代化の結果だと、改めて、知る。地理学的にみても、丘陵地帯がこれだけ大規模に地形を変えられた事例は、人類史上珍しいのではないか。

多摩丘陵の住宅地こそ戦後創成された中産階級という「流民たち」の新たな住処だ(賃貸しだがおいらもその一匹だ)。特に、多摩丘陵には、一部、「アッパーミドル」を目指したらしい?意識高い系の住宅もある。もちろん、通常ミドル用の団地もある。したがって、これら住宅を見物することを散歩のひつの目的とした。事実、起伏の大きい多摩丘陵では特徴的な住宅分布が認められた。

そもそもの多摩丘陵散歩の目的は近代以前の谷戸の風景。この谷戸の風景は人為的に保護され、むしろ設備投資され、保存されている。燃料と食料を自給していた江戸時代が偲ばれる。

1;東急・こともの国駅、2;奈良北団地南端、3;東玉川学園4丁目、4;小田急線・玉川学園駅、5;玉川学園4丁目、6;日向山公園、7;本町田東小入口交叉点、8;今井谷戸交叉点、9;七国山、10;鶴見川・丸山橋、11;野津田公園、12;小野路交叉点、13;大蔵、14;小田急・鶴川駅


横浜・町田:多摩丘陵散歩 こどもの国⇒玉川学園⇒七国山⇒野津田公園⇒鶴川駅 (その1)

■ こどもの国 ⇒ 玉川学園

その今昔;

現在ではなく、1980年頃の航空写真。中心の「」が小田急線の玉川学園駅。右の城塞風の建物群が奈良北団地(横浜市)、右最上が緑山スタジオ(横浜市)、左上の団地が藤の台団地(町田市)。

」が小田急線の玉川学園駅の上下(南北)を小田急線が走っている。沿線北側(図の上宝)の東西両方に緑地が残っている(玉川大学)。それ以外の地域はほぼ建物で埋め尽くされている。1960年代の航空写真が下画像。

1960年代、玉川学園駅の東側、横浜市や町田市成瀬台などは谷戸のまま。白く樹枝状に延びているのが谷戸。谷に堆積物がたまった地域。水田と利用できる。黒い部分が高地、丘陵部。土地利用は山林。近代以前は燃料となる木の産地。

玉川学園駅周辺は開発が始まり、玉川学園1丁目付近は宅地造成されている(駅の左下、南西方面)。むしろ駅に近い2丁目が宅地造成されていない。これは土地が急峻なためであろう。恩田川に面して山地の険しさが緩かった1丁目が先に開発しやすかったと推定できる。

この劇的に開発された地域を散歩する。

▼ こどもの国駅から玉川学園四丁目まで


1960年代の航空写真

◆ 1.こどもの国駅 ⇒ 2.奈良北団地南端


1;こどもの国駅、2;奈良北団地南端、黒矢印;成瀬尾根、(黄色丸);都県境

西へ向かう道。向こうは尾根。

上の地図の「a」。緩やかな坂だが、「切通し」となっていて尾根を切っている。上の地図で刻まれた細い谷となっている。

「切通し」から階段で尾根に登る。

南北に走る尾根の上の道を北上。道の右の柵の右側が横浜市。道が東京都町田市。

尾根から横浜側を見る。尾根の東側が急な崖となっている。上の凹凸地図で崖がわかる。

尾根を行くと、陸橋。

尾根の終点から平坦部の成瀬台を行く。洋風家屋に外車の家をみる。

◆ 2.奈良北団地南端 ⇒ 3;東玉川学園4丁目

奈良北団地の南端。団地は横浜市。ここも都県境。

成瀬台の北端から南を望む。1960年代は完全に谷戸、丘陵だった地域が宅地開発されている。この地域にしては開発後の平坦部域が広く、道路も直線状に長く伸びている。成瀬台。上の地図参照。

成瀬台北端を西へ向かう。都県境。

右手の柵より右が横浜市。

このあたりが「峠」。この先が玉川学園。

玉川学園7丁目と東玉川学園1丁目の境

このあたり、「すりばち」の上辺部分。最標高部に瀟洒なレンガの家をみた。

航空写真ではただの街並みに見るが、高低が全然違う。↓凹凸図↓ 


「すりばち」地形

「すりばち」の底へ降りていく。

⇒ 3;東玉川学園4丁目

「すりばち」の底。東玉川学園4丁目。 この当たりはアパートが多い。

◆ ⇒ 4;小田急線・玉川学園駅

振り返って、「すりばち」の底を見る。

さらに「すりばち」斜面を登る

「すりばち」の上辺の縁。

「すりばち」の外の方(玉川学園駅方面)を見る。ここが「峠」あるいは尾根となっている。最高地点。ここらの家は見晴らしがよい。

反対方向の「すりばち」の方向の景色。

「すりばち」の「尾根」から反対側へ降りる。

・ 小田急線・玉川学園駅

線路を渡って、北上。

小田急線は谷筋を走っている。したがって、線路の両側が斜面となっている。ちなみに、玉川学園駅周辺は平坦地が少ない。

◆ ⇒ 5;玉川学園4丁目

駅の西側の山の最高部付近。


3丁目こども広場 (Google Map

町田第5小学校。 下の地図の右上の「文」のところ。

玉川学園駅が両方を「山」に挟まれていることがわかる。


1960年代の航空写真。玉川学園1丁目の開発が早い。「山」の2丁目の開発はあまり進んでいない。

その1 まとめ

通過町

神奈川県横浜市青葉区 奈良

東京都町田市 成瀬台 東玉川学園 玉川学園


新しい街でもぶどう記録;第387週

2022年04月09日 18時37分25秒 | 草花野菜

 

▼ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第387週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の都県境

柵より右が神奈川県(横浜市)、右が東京都(町田市)

■ 今週の草木花実

■ 今週のつむじ風

■ 今週の印度旗翩翻

玉川学園

■ 今週の20円

チロチョコ Google (チロルチョコ 20円)

■ 今週の製造所

20円のチロルチョコレートはどこで製造されれているのか、わかった。

松尾製菓;福岡県田川市市川宮1191-1

Google Map

福岡「チロルチョコ アウトレットショップ」人気の秘密と購入のコツ

■ 今週の輪を持つ人

■ 今週の防火に熱心な家

■ 今週の訪問者の由来元

タグ 佐野洋子

■ 今週の正しいことをいうが、戦争を翼賛する人を多く輩出した組織

戦前の日本が侵略戦争に向かったときも反対を貫いた唯一の政党だ

この命題は考察すると興味深い。戦前の日本共産党は委員長や幹部だった佐野学、鍋山貞親などは、転向 [1] したばかりではなく、日本の戦争を評価し、肯定する理論を喧伝することとなる。確かに、この転向で日本共産党は佐野、鍋山を除名する。ただし、日本共産党の党員の多くが雪崩を打ったように転向する。さらに、転向後「ただの人」になったのではなく、満州国に行ったり、近衛新体制に参加したり、「天皇制ファシズム体制」を促進する人材となっていく。(さらに彼らは敗戦後、再び共産党、あるいは左翼運動に参画する)。そして、「反対を貫いた唯一の政党だ」といっても日本共産党は組織として壊滅していたのだから、政党として存在していない。存在していない政党が「侵略戦争に反対を貫」ぬくことはできない。

なお、このについて、つっこみ記事&コメントがあるが、日本共産党ほど戦争翼賛の「力強い」知識人を輩出した組織はないというツッコミがない。したがって、この愚記事で言及してみた。

[1] 共同被告同志に告ぐる書 (wikipedia). 
共同被告同志に告ぐる書(きょうどうひこくどうしにつぐるしょ)とは、1933年6月10日に日本共産党幹部の佐野学と鍋山貞親が公表した左翼労働運動の方針に関する転向宣言。俗に「佐野・鍋山転向声明」・「転向声明」という。 

 


新しい街でもぶどう記録;第386週

2022年04月02日 18時15分57秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第386週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の紅白 ①

■ 今週の紅白 ②

■ 今週の撮る人

■ 今週の似て非なるもの

左;高菜、 右;ほうれん草

■ 今週の文房具

uniball signo[0.38mm] ユニボール シグノ)の替え芯10本を使い尽くした。

■ 今週(<荊の簪を挿す御方様>が)借りた本; 

「埠頭を渡る家族」のその後


佐野洋子、『シズコさん』。

その時でも子供五人というのは多かった。大連の埠頭を茶色いふとん袋をかついだひょろけた父のあとを私達一家がゾロゾロ歩いていると、同じ引き揚げ者から「まあ、沢山お子様がいて」と何回も声をかけられた。その声には、同情と尊敬と感嘆が含まれていた。 (佐野洋子、『シズコさん』)


大連港の埠頭、2005年

『シズコさん』は、絵本『百万回生きたねこ』が総計200万部以上売れた作家である佐野洋子の語る家族史。特に、呆けた母親を施設に預けることに自責の念を語るところが、多くの読者に感銘を与えているらしい(Amazonレヴューより)。おいらは、満鉄調査部勤務の学者・研究者である引き揚げ者とその家族という観点 [1] から読んだ。

上記の引用の情景は、昭和22年(1947年)に大連港の埠頭から引き揚げ船に乗船するところ。この時、佐野洋子は9歳、父・佐野利一は40歳、母・シズコは33歳、兄ヒサシ11歳、弟ヒロシ6歳、弟タダシ2歳、妹1歳。家族7人が埠頭を渡った。

引き上げ直後、兄ヒサシ、弟タダシと新たに生まれた弟の3人が死ぬ。遠因は栄養失調だ。

おいらは、かつて書いた;

ところで、これは中二病の頃からうすうす感じていたんだけど、「自分は日帝侵略兵士の子供だから、親をしばいた!」とか、あるいは逆に悩んでいたとか、はたまた、「自分は日帝侵略兵士の子供だから恥ずかして生きていけないから自殺する」とかいう話はきかないよね。おいらが知らないだけなのかもしれないが。(愚記事:「反日」思想の源流;津村喬拾い読み

▼ 母親・シズコさん

佐野洋子は書いている;

 母さんは北京にいた時が、一番幸せだっただろうと思う。
 家の中の板の間にスベリ台があった。庭で兄がイギリス製のおもちゃのオープンカーに乗っている写真がある。父さんは砂場も作った。ブランコも作ってくれた。落ち着かないように箱型になっていた。やたらに器用な人だったの。お手伝いさんもいた。

 我が家も植民地を支配した「ワルモン」の生活をしていたのだ。

佐野洋子は母親・シズコさんを人間として嫌っていると表明している。その理由のひとつは、チャイナ滞在時代の外地における偉そうな母親・シズコさんの挙動だ。『シズコさん』とは別の本に書いてある;

正気の時は乱暴でがさつでパワフルだった。正気の時は母さんとの確執に苦しんだ。
 母さんは私が在日韓国人と友達になっていると「朝鮮人とつき合っちゃ駄目」と云った。当然のように云った。
 北京や大連に居た時は平気で「チャンコロ」と云っていた。
 正気の時はずーっとそう思っていたと思う。
(佐野洋子、『役ない日に立たない々』2008年)

乱暴でがさつでパワフルという性格以外に、虚栄心が強いことも佐野洋子が母親・シズコさんを嫌う理由だ。端的に見栄を張るために虚言を弄するとのこと。

母親・シズコさんはモガ(モダンガール;昭和初期に欧米化・近代化した風俗を取り入れた若い女性)であり、帝大性/東大生と結婚することを目指し、佐野洋子の父である佐野利一を「捕まえた」というのが佐野洋子の見立て。

▼ 父・佐野利一

佐野洋子の父は、山梨の農家の七男で、東大を出て、北京大や満鉄に勤めていた。著書として、『南満州鉄道』(昭和16年)が認められる。 引き上げ後は静岡県の清水市で高校教師をした。佐野洋子はこれを遁世と評している。

佐野洋子は「父の娘」である。佐野を名乗っているし。佐野洋子は幼いころから利発で中学も附属中学に行っている。努力しなくても勉強ができた。家事の手伝いは苛酷にやらされた。子供の頃、絵画の才能を発揮し、父・佐野利一に芸大に行く進路を定められたと佐野洋子は云っている。佐野洋子は父親に苛酷に扱われた経験は書いていない。でも、佐野利一は、かなり強烈な人だったらしい。自分が努力しなくとも学業成績がよかった人にありがちな属性で、勉強ができない人を理解できないのかもしれない。犠牲になったのが弟ヒロシ。今でいう「教育虐待」だ。この「教育虐待」の描写も『シズコさん』のすごいところだ。

そして、何より佐野利一もすごい。この人がいて、シズコさん、佐野洋子ありきとしかいいようがない。「埠頭を渡る家族」はキ〇ガイ家族に他ならない。

▼ Aspiration

Aspirationといきなり英単語ではあるが、最近知った。なかなかぴったりの日本語が見つからない。辞書では、aspiration= 強い願望、大志、憧れである。上昇志向の願望といったところか。さらには、最近の言い廻しに従うと、「何者かになりたい」欲ともいえる。

「埠頭を渡る家族」は、皆これに憑かれることが運命となっている。正確に言うと、父・佐野利一は子供たちにaspirationを注入しようとした。

▼ 伏兵 弟ヒロシ

佐野利一の「教育虐待」の犠牲となった弟ヒロシは、ヒロシが16歳で佐野利一が死んだとき、喜んだ。弟ヒロシは、大学は出て、市役所に勤める。佐野利一的基準からは不満足なaspirationだったかもしれない。そして、弟ヒロシの嫁とその後ヒロシが起こした事故/事件で、母・シズコさんの新たな人生が始まる。

[1] 満鉄調査部;東大出、左翼、転向

佐野利一の戦前の履歴はわからない。佐野洋子、『シズコさん』には佐野利一が左翼運動にかかわり特高に目を付けられ実家にも「迷惑」が及んだとのこと。この「左翼」活動から何がどうしてチャイナ大陸に渡り満鉄調査部に勤めたかは説明されていない。佐野利一は1907年生まれ。とすると、石堂清倫と3歳しか違わない。石堂清倫とは;

1904年、石川県石川郡松任町(現白山市)生まれ。東京帝国大学在学中、新人会で共に活動する。1927年東京帝国大学文学部英文科卒業同年10月、日本共産党入党、11月無産者新聞の編集に携わる。1928年、「三・一五事件」に連座し逮捕。1933年11月保釈。

1933年、転向・釈放後、1934年3月日本評論社に入社、「ゾルゲ事件」で死刑となる尾崎秀実などと相知る。数々の書籍編集及び翻訳を手掛けたあと、1938年7月、満鉄調査部に入社、当時の満州国の大連に赴く。1943年7月、満鉄調査部第二次検挙(第二次満鉄事件)で逮捕、投獄。1944年12月釈放。敗戦後、大連のソ連司令部と折衝するなど在留日本人引き揚げに尽力。wikipedia

佐野洋子、『シズコさん』には、佐野利一についての研究仲間からの評が報告されている。

■ 今週の「生まれた初めて食べた」

佐野洋子、『シズコさん』には引き揚げ船での経験が細かく書かれている。コメのオジヤに感動している。なぜなら、それまではコメは食べられず、こうりゃんを食べていたからだ。

 引き揚げ船の中で出された初めての食事は、さばと大根の入っているおじやだった。巨大なたるの中にそれは入っていて、大きなひしゃくで、家族が持ってきたなべの中に流し込まれた。
 おじやが米であることに、私たちは感激した。おじやはねっとりして甘かった。パサパサしたコウリャンのおかゆや、とうもろこしの団子を食べていた私達に、米のねばりは心からの充足と、これから帰る日本への希望を与えてくれた。私は次の食事を待ちのぞみ、アルミのおわんを洗う必要のないほどなめつくした。
 私はその食事以外に何者望まなかった。
 貨物船の船底は荷物がびっしりと埋まり、その間に、人が荷物に寄りかかって座っていた。 
佐野洋子、とどのつまり人は食う、初出 『猫の手帖』、1979年、のち『私の猫たち許してほしい』、『とどのつまり人は食う』など

おいらは、こうりゃんを食べたことがない。<荊の簪を挿した御方様>にねだって、買ってもらった。大津屋からだ(上野、アメ横のスパイス・豆の専門店、大津屋に行く;おいらは、絶対、路地裏派!)。今回は、通販だ。

煮茹でた。食べると、ツブつぶ感が強い。消化にわるいかも。

これだけ、毎日、沢山食べさせられたら、つらいかも。

大津屋では「こうりゃん」ではなく、タカキビというのだ。wikipedia

■ 今週知ったこと; 米国雑誌「マッコールズ」


Google  

Google: 雑誌「マッコールズ」

  夜なきそばが食べられるのは、大したお金持ちの時だけで、夜中におなかがすくと、マリちゃんと私は、音もなく食堂に忍び込んで真っ赤なのりみたいなジャムをべったり塗ったコッペパンを盗んで、私のベッドにひっくり返って、ジャン・バルジャンになったみたいな気分になった。ベッドから寝転んで見えるところに私は、アメリカの「マッコール」という雑誌から破った料理の写真をベタベタたくさん貼った。私の部屋にはそれ以外の装飾物は何もなくて花一本なかった。
 脂をしたたらせたローストビーフの塊に銀色のナイフが、ペロリとおいしそうなピンク色をしているのを1枚、今まさに切り落とそうとしているのとか、缶詰の黒桃がとろりと缶からでかかっているのとか、花畑のようにオープンサンドが盛大に並んでいるのとかを見ながら、私たちは結んだコッペパンを食べた。私は何にも食べるものがなくても、その美味しそうな写真を眺めずにはいられなかった。
コッペパン、佐野洋子、『とどのつまり人は食う』

戦後日本において、敗戦の困窮を経た人、その中でも(学校という注入文化を受容した)「エリート層」が、お手本としてのアメリカさまに魅了される情景の自己申告記録として貴重だ。

上目遣いにアメリカさまを仰ぎ見る戦後日本人の姿がきちんと描かれている。アメリカさまをありががたがる戦後日本人の形成過程だ。

■ 今週の「早く人間になりたい」

米国のアカデミー賞を受けた濱口竜介監督のインタビュー;

濱口竜介監督:

『ドライブ・マイ・カー』のモチーフは、これまで海外で異彩を放ってきた日本特有の文化ではなく、普遍的なものです。

「アメリカの観客のある種の厳しい目線に耐えるような、役者さんたちの素晴らしい演技がこの映画には映っていて、本当にこの役者さんたちの感情というものを感じて、アメリカの観客も、肌の色も言葉も違うけど、同じ人間なんだと。同じ弱さや同じ傷を抱えていたりする、そういう人間なんだということを、すごく受け止めてもらったんじゃないか。ここが“到達点”だったら嫌だなと。ここが“通過点”だといいなと思っています」

ソース 濱口監督「同じ人間なんだ」米アカデミー賞国際長編映画賞『ドライブ・マイ・カー』

なぜ、ある種の厳しい目線をもつアメリカの観客に耐えることに価値があるのか?わからない。そして、ある種の厳しい目線をもつアメリカの観客に耐えることの原因が「同じ人間なんだ」ということであるとのこと。つまり、「同じ人間なんだ」と認めてもらうのためには、ある種の厳しい目線をもつアメリカの観客に耐えなければならないということだ。さらに、「普遍的」...。

何なんだ、これ。おいらの認識がゆがんでいるのか?ひがみ根性か?

■ 今週の検索語彙; オクラホマ景気

オクラホマ景気