いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第463週

2023年09月30日 18時00分00秒 | 草花野菜


箱入り娘です

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第463週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週のよその猫

■ 今週の富士山

■ 今週の草木花実

■ 今週の交換

自転車のブレーキシューを交換した。

■ 今週の半額、あるいは、道産品

よつ葉と聞くとすぐ続くのが「3.4牛乳」。でも、今は、ないのだ。「よつ葉3.4牛乳」は1987年に消えたのだ。おいらが、離道した後だ。知らなかったのだ。そして、テトラパック牛乳も今はこの世にないらしい。


https://www.yotsuba.co.jp/milk-brand/

■ 今週借りて読んだ本、あるいは、「最後の誕生日の風景」

Amazon

松浦芳子、『自決より四十年 今よみがえる三島由紀夫』。著者の松浦芳子は政治家。杉並区議会議員。チャンネル桜の創設発起人とある。wiki。持丸博(wiki)の妻。若いころ、三島由紀夫とつきあいがあった。持丸博は、森田必勝の先代の盾の会の学生長だった。持丸博は、元もと、「論争ジャーナル」という右派学生が創った雑誌の編集人。『論争ジャーナル』を作ったのは、中辻和彦。三島は原稿料を取らずに、この雑誌に貢献した。松浦芳子は持丸博との関係で『論争ジャーナル』の編集部に出入りする。昭和42年(1967年)以降、三島由紀夫も週一の頻度で『論争ジャーナル』の編集部に出入りしていたらしい。そこで三島と松浦芳子のつきあいが生じた。そこには右派学生が屯していた。そして、三島は、この雑誌の周辺にいた若者たちを盾の会の会員とした。しかし、中辻和彦と三島は仲違いする。その事情は、松村剛、『三島由紀夫の世界』に見える;

昭和44年(1969年、三島自決の前年)のこと

「この年の夏のころ、日本文化会議の理事会か何かの席で三島と顔を合わせたら、彼が『中辻を呼んであるから、あとでつきあってくれよ』と耳元で囁いた。
 中辻和彦は昭和41年の暮に三島の家を訪問した萬代潔の仲間で、『論争ジャーナル』の編集責任者だった。何の用事かと思って会がおわったあと三島について行くと、行きさきは赤坂プリンス・ホテルの喫茶室だった。席に座るなり、彼は中辻君を面罵した。
  『君は雑誌なんかやめて、リュックサックを背負って田舎に帰れ。』
 理由は、三島は何もいわなかった。中辻和彦もだまっていたところから見ると、2人の間ではそのまえにはなしあいがあったのだろうと思われる。
 ある右翼系の人物から『論争ジャーナル』が財政上の支援を受けていたことが三島を立腹させた原因だったと、これもあとになってからきいた。多少誇張癖のあるその人物は、『楯の会』は自分が養っていると吹聴し、それが三島の耳に伝わったのである。『論争ジャーナル』関係の若者たちは『楯の会』の中核を構成していたし、会の事務所自体も編集部内におかれていたから、2つの組織は緊密に結びあい、雑誌が金をもらえば会の純粋性にも傷がつく。
 『楯の会』を外部からの金銭上の援助なしに独力で運営して来た三島にとって、これは許し難い背信の行為だった。絶縁宣言の立会人として、僕はその場に呼ばれたらしい。 松村剛、『三島由紀夫の世界』

この「ある右翼系の人物」とは誰であったのか? それは、田中清玄であったと、松浦芳子、『自決より四十年 今よみがえる三島由紀夫』には書いてある。

三島は中辻と絶縁したが、持丸夫婦には期待していた。三島の費用負担で、盾の会の専従にならないかと打診があった。持丸は断った。そして、盾の会と論争ジャーナルの両方と縁を切ったと、『自決より四十年 今よみがえる三島由紀夫』にある。

三島と持丸、そして中辻の溝、あるいは不一致で興味深いのは、信条的問題、あるいは、認識問題。具体的には、226事件の評価。三島は226事件の昭和天皇による解決方法を肯定していなかったとのこと。一方、持丸、中辻は平泉澄一門で、昭和天皇による226事件鎮圧を支持。その国体観の相違で、持丸は三島と袂を分かったというのだ。

▼ 「最後の誕生日の風景」

昭和45年(1970年)11月21日に自決した三島由紀夫の最後の誕生日は、同年1月14日であった。この誕生日を三島は友人の村松剛の自宅で祝う;

 四十五歳の誕生日を、三島は拙宅(村松剛の集合住宅の家)で迎えた。
 昭和四十四年の暮にぼくは住居を移し、年が明けてから二、三の友人とともに彼を新居に招いた。その日、一月十四日が、たまたま三島の誕生日にあたっていたのである。彼はグラナダで買ったという小型のテーブルを、引越しの祝いとしてもって来てくれた。 松村剛、『三島由紀夫の世界』

松村剛、『三島由紀夫の世界』に書かれていることは以上で、誰が参加したのか、三島がどのようないでたちで来たのかは書かれていない。さらに、事実関係として「たまたま」三島の誕生日であったというのも不正確かもしれない。詳細はこうだ。ここで、杉野とは、杉野栄仙であり、村松剛の妻であると、松浦芳子はいう。かつ、それは雅号だというのだ。ネットでは裏が取れない

杉野 最後の誕生日ですか・・・昭和四十五年一月十四日でしたよね。あれから三十年経ったのですね。
ある会で、突然三島さんから、「僕の誕生日のお祝い、村松さんちでしてくれない?」って言われたんです。
松浦 でも、お誕生日って、ふつうご家族でお祝いするじゃないですか。ひとのうちでお誕生日何ておかしいですね。
杉野 「家族だったら、毎年やっているでしょ。たまには、違った顔でやってみたい。」とおっしゃたのですよ。
松浦 そうですか
杉野 するのは良いけれど、瑤子夫人に許可を得ておいてくださいね、って言って、それでは、その日、どなたをお呼びしましょうか、とお聞きしますと、「大勢よばないで」と言われたのです。
それで、「自分の担当の、新潮の新田さんと、」と言われて・・・・・

それで、三島さんと、新田さんと、阿川さんと、村松との四人だけで、麹町の村松のマンションでお祝いをしたのです。

ヨーロッパ調の三十センチ四十センチぐらいのテーブルを肩に乗せて、盾の会の制服を着てたんです。
松浦 え!! 制服でいらしたのですか?本当ですか?へー 制服で歩いていらしゃったのですか?杉野 車でいらっしゃいましたよ。制服を見てね。「似合わないわそれ!だいたい豚のしっぽみたいな短剣がおかしいわ。どうしてそんな短い短剣しているのですか?」とお聞きしましたらね、
「これ以上長いと警察が、うん、と言わないのだよ」とおっしゃって・・・・。

以上から、集まったのは三島、新田、阿川、村松とわかる。そして、三島は、盾の会の制服で来たのだ。これは奇抜だったのではないか?新田、阿川、村松らは驚いたはずだ。でも、村松は『三島由紀夫の世界』で報告していない。村松は三島伝で、三島の同性愛と右翼を無視、あるいは軽視していたといわれる。これもその思想をもとにした村松による三島像づくりではないか。

▼ 最後の誕生日の前に誕生していた最後の言葉:「えろう面白いお話やすけど、松枝さんという方は、存じませんな

上記の松浦芳子と杉野栄仙との対話でその最後の誕生日の少し前の時期の話として杉野栄仙が重要な証言を行っている。

『天人五衰』の、最後の章が、出来あがったと聞いたのが、誕生日の前の暮れなんですけれども・・・・「やっと最後の言葉が出来て自分でも痛快だ。とても気持ちがいい」と、三島さんが、漏らしたことがあったのですよ。
(中略)
『天人五衰』というのはね。もうこれ以上はやっても駄目なんだ、ということです。だって、今の日本の状態を見通していたのですもの。

『天人五衰』は三島最後の作品で、昭和四十五年十一月二十五日に完と書かれている。自決の朝に、編集者に約束の時間を騙し、お手伝いさんに託して、原稿が渡された。

▼ 三島さんを殺した

この松浦芳子、『自決より四十年 今よみがえる三島由紀夫』はすごい。村松剛の妻とされる杉野栄仙の発言;

リーダーを作ろうと計画していたのを、ことわったのは、持丸さんですよ。三島さんは、持丸さんに、期待していたと思うのよ。ということは、持丸さんが、三島さんを殺したということも、なきにしもあらず、と言うことですよ。

松浦は絶句。

▼ 杉野栄仙の発言に疑問

杉野栄仙は三島の自決の日に村松剛はカナダ、トロントに出張していて日本に不在であったと語っている。でも、村松剛は『三島由紀夫の世界』で自分は香港、船上にいたと書いている。さらに、1970年1月の三島最後の誕生日会について、杉野栄仙はその誕生日会のあとすぐに村松はトロントに行く予定であったと云っているが、村松の年譜の情報と一致しない。結構、ちぐはぐである。


新しい街でもぶどう記録;第462週

2023年09月23日 18時00分00秒 | 武相境

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第462週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週のもったいない本舗

大きな袋だった。

10月、神無月の絵柄は、流鏑馬だった。鬼はいなかった。

■ 今週の宣伝と中身の異同

箱買いしたジュリーズの オーツ25 ストロベリーが残りひとつとなってしまった。

ジュリーズ オーツ25 ストロベリー(Amazon)。広告や包装の絵図は赤い粒が鮮やかに輝いている。でも、現実は上、画像。

■ 今週のいろいろの最後の2個

Google [お菓子のシアワセドー 喫茶去 240g] なお、「喫茶去」とは、「まあお茶でもお飲みなさい」という意味和楽 web


桃山(左)と満月

詳細は:⇒ 懐かしいお菓子ブログ(画像有り)ー時代遅れ団塊ジュニアのブログ 様  [懐かしいお菓子]お菓子のシアワセドー「和菓子の音色(和菓子のアソート袋)」を食べて画像撮りました。

■ 今週知ったライン:帝国海軍航空隊、谷田部ー神町

米陸軍、第11空挺師団の敗戦後の日本占領での駐屯基地を調べていたら、Jimmachiというのがあった。

Places of Significance in the History of the 11th Airborne Division in World War II

ググると山形県の現在神町駐屯地 [wiki]とわかった。自衛隊の駐屯地であり、進駐軍の基地でもあったのだから、旧軍の基地なのだろうと察しがついた。wikipediaで調べると、敗戦前は神町海軍航空隊の基地とわかった。上の情報によると、神町駐屯地は米軍によって Camp Younghans と名付けられていた。なお、上表の左の「Tounghans」のTはタイポスである。wikipediaの神町駐屯地(日本語)とJGSDF Camp Jinmachi(英語)では記載情報が違う。英語版には、 Camp Younghans のことが書いてある。日本語版には、キャンプ・ヨンハンスの語はみえない。

この施設は、第二次世界大戦後、日本の降伏後の1945 年にアメリカ軍に接収されました。この基地は当初、第11空挺師団の第674空挺砲兵大隊が占領し、 1945年3月31日にフィリピンのルソン島で戦死したレイモンド・M・ヨンハンス中尉にちなんでキャンプ・ヨンハンスと名付けられた。JGSDF Camp Jinmachi(英語)の機械語訳

さらに、この神町海軍航空隊は、谷田部航空隊の下部組織と知る。谷田部航空隊は現在のつくば市にあった基地。愚記事に「旧谷田部航空隊跡地」ある。谷田部海軍航空隊(wiki)。

なお、現在、つくば市の谷田部航空隊の基地は占領軍に接収されなかったようだ。緊急開拓地となった。愚記事:「今日はつくば記念日;松竹梅のつくば戦後開拓集落について」参照。

■ 今週の御達者倶楽部


https://twitter.com/nahotoyamamoto/status/1705211613039698248

十代の頃、アダルトビデオが蔓延しているわけでもなく、まして、ネット・スマホでAV動画が気軽に見れる時代でなかった頃、おいらは、オンナの裸目当てに見ていた深夜番組「トゥナイト」で、利根川裕が「今日、小林秀雄が死にました」と感慨深げに言ったのを覚えている。「書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行こうとした」ばかりの頃だった。

■ 今週の購書 1868年と1937年の皇軍

村松剛、『歴史に学ぶ』、1982年。Amazonでは500円ほどで売ってる。おいらは、もったいない本舗から919円、ポイント利用割引を使って、実際は、321円で購入(送料込み)。この本を買った理由は、村松が会津について語っていると知ったからだ。保守派、右翼は明治維新をどう語るか?特に、会津をどう了解するかは、傍から見ていて、興味深い。村松は、会津に同情的である。薩長をほぼ「鬼畜」扱いしている。

 会津城下にはいってからの官軍は、婦女子への強姦輪姦をほしいままにしていた(この事態は、落城後までつづく)。元和堰武(げんわえんぶ)[1]以降、徳川幕府支配下の日本は治安がきわめてよく、戊辰戦争がはじまってからも会津が暴虐を働いた場所はほかにない。要するに会津人の立場からいえば、史上類を見ない無頼の集団が、錦旗をかかげて乗り込んできたのである。 [1] 元和堰武(げんわえんぶ): wikipedia 村松剛、『歴史に学ぶ』 会津の悲劇


この記述を今の我らがネトウヨさんが読んだら、どう反応するだろうか?もっとも、我らがネトウヨさんの日本デヴューでの初陣は、『戦艦大和の最期』を読んで、吉田満を「サヨク!」、「反日!」よばわりしたことだ。

さて、唐突だが、最近のユダヤ系英国人戦略学者の見解を見てみよう;

一九三七年十二月(十三日)に日本軍は街(南京)を占領した。彼らは入城したとたんにやりたい放題の状態となり、約六週間にわたって殺人、略奪、強姦を行った。彼らは国民党軍の軍人を探すためと主張したが、それでも残虐行為を正当化することはおろか、それを説明できなかった。今回は「ニューヨーク・タイムズ」紙のF・ティルマン・ダーティン記者が自分の目撃した恐怖を語っている。彼はこの激しい暴力を「戦略的なもの」であるとして「日本軍は、日本に抵抗した結果の恐ろしさを中国人に印象づけるために、できるだけ長く惨状を残したいと考えているようだ」と説明している。 L・フリードマン、『戦争の未来』2017年(奥山真司 訳 2021年)、第6章 総力戦

会津と南京で「活躍」したのは、我らが「皇軍」である。もちろん、村松剛は1868年と1937年の皇軍を同一視をしていない。薩長軍は赤軍に同一化されたのだ;

 薩長の藩兵が会津で行ったことは、第二次世界大戦の末期にソ連軍が満州やベルリンで行ったこととほぼ同じである。掠奪強姦が、白昼あたりまえのようにくりひろげられた。 村松剛、『歴史に学ぶ』 会津の悲劇

 


敗戦後、1946年、札幌に進駐した米陸軍、第11空挺師団の演習場所:札幌飛行場、羊ヶ丘、あるいは、接収された北大

2023年09月18日 15時03分38秒 | 札幌

米陸軍の第11空挺師団について、愚ブログでは、何度も言及している。米陸軍の第11空挺師団とは落下傘部隊で終戦前はフィリピンで戦っていた。敗戦後、マッカーサーが「厚木」に到着する数日前にやって来た部隊だ(愚記事:マッカーサーと一緒に「厚木」に来たこの子猿はどこへ行った?)。

その後、この米陸軍第11空挺師団は、仙台や札幌に進駐する。仙台で過ごした第11空挺師団の元兵士の回顧録の話は少し前にした。仙台駐留組用の訓練所(Jump School  現在の王城寺演習場と思われる)の画像。

 
Jump School, Sendai, Japanとある

The 11th Airborne Division established a Jump School in Sendai during Japanese Occupation Duty, from 1945 to 1949. Months before, in Lipa, Luzon, the 187th GIR, in true airborne fashion, changed the designation of their unit from GIR to PGI – “Para-Glider Infantry”. (ソース)

朝鮮戦争(1950年)前に、この米陸軍第11空挺師団は日本から去った。しかし、去年、再生したことはこの記事(米陸軍第11空挺師団の再興2022と再来;They shall return, again since 1947)に書いた。

仙台駐屯組とは別に、スイング少将率いる米陸軍第11空挺師団の一部は札幌に移駐した。その札幌進駐時代の情報がちらほら集まったので、メモする。

▼ 米陸軍第11空挺師団の札幌進駐

米陸軍第11空挺師団の札幌進駐は、昭和21年(1946年)4月7日

▼ 北大の接収

敗戦で北海道大学(北大)は接収されたのだ。あんまり、知らなかった。はっきりした資料があった。北大の低温研は敗戦後、1945年10月3日に接収された。「48時間以内に出ていけ」と通告されたのだという。低温研の所長はあの中谷宇吉郎 [wiki]だ。

岩波新書の中谷宇吉郎、『雪』の初版は昭和13年だ。今は、岩波文庫に入っている。上の『雪』は第10版、昭和24年刊行のもの。まだ、占領下の時代だ。定価、85圓。

このとき北大低温研を接収したのは、米陸軍の第77歩兵師団である。第77歩兵師団はニューヨークの部隊。この記事で話題にする第11空挺師団は第77歩兵師団を交代するため札幌に2番目に来た部隊である。

当時の北大の研究者からみて、第11空挺師団は、前任の第77歩兵師団と比べ、荒くれもので、紛争も起した。

しかし間もなく最初の占領部隊であった騎兵隊が次の空挺部隊に代わるとともに、急に米兵の行状が乱暴となり学内での事故が急増した。 (低温科学研究所.  二 米軍の庁舎接収 引用元

◆ 騎兵隊?

なお、上記の引用元(低温科学研究所.  二 米軍の庁舎接収 引用元)で、「最初の占領部隊であった騎兵隊が次の空挺部隊に代わる」とある。第11空挺師団の前に札幌に駐屯していたのは第77歩兵師団である。騎兵隊ではない。一方、同上の報告には下記ある;

 

最初の進駐軍はニューヨークの騎兵隊(右に置かれた板に馬首のシンボルマークがある)で規律も守られていた。とある。若干、整合性がない。ニューヨークの部隊は第77歩兵師団であり(上の"自由の女神"がシンボルマーク)、騎兵隊ではない。なお、首馬のシンボルマークは第1騎兵師団であり、マッカーサー元帥の「ペット」といわれた部隊でこの時、東京およびその周辺にいた。したがって、この写真に写っているシリー軍曹なる兵士が第1騎兵師団の所属とは思えない。ただし、きちんと「右に置かれた板に馬首のシンボルマークがある」と自覚的にかいてある。でも、上記写真では我々は確認できないが。もし、本当に第1騎兵師団の兵士であるのであれば、東京から部隊を超えて出張してきていたのもおしれない。というのも、当時占領とは軍政を担う軍人がいた。占領政策を立て、日本の部署、部局に実行させる軍人。本国では民間人だが日本占領のため軍に出仕していた米国人は多かった(例えば、ヒーレン・S・クルーゼ少佐 (Heeren S. Kruse))[1]。何しろ、彼は工学士と自称しているのだ。何か専門人で、東京の第1騎兵師団からの軍人かもしれない。

一方、第11空挺師団は、軍政よりも、訓練をたくさんやっていたより実践的な部隊らしい。

[1] 敗戦後、米占領軍の住宅を設計したのは、太平洋陸軍總司令部技術本部設計課、ヒーレン・S・クルーゼ少佐 (Heeren S. Kruse) という人と知る。少佐とはいっても徴用/出向してきた建築家 or 工業デザイナー。"シカゴに本拠地があるシアーズ・ローバック⑤のチーフデザイナーであった"  (愚記事

◆岡田大学?

この第11空挺師団の札幌進駐に参加した人の回顧をネットでみつけた。 ソース(Cpl. Wayne Hilton served in 11th Airborne Division during the occupation of Japan after WW II )

We were housed in dorms at the University of Okada. = 「我々は"岡田"大学の寮に住まわされた」とある・

University of Okada? 前後の文章からわかる;

“I was sent to Japan as part of the occupation troops. I went to Sapporo on Okada, the northernmost island of the Japanese island chain,” = 私は占領部隊の一部として日本に送られた。オカダの札幌に行った、オカダは日本列島の最北の島だ。 つまり、北海道だ。彼には、Hokkaido がOkadaと聞こえ、晩年にいたるまで、日本の最北の島は、Okadaだったのだ。

わかることは、北大の寮も進駐軍に接収されたらしい。ただし、ネットでググると(Google [北大 恵迪寮 "進駐軍"])、そんなに情報は出ない。ただし、

昭和20年9月、進駐軍が事前連絡無しに部内の備品を農学部側の倉庫に押し込めてしまい、学生ホールは使用できなくなる。ソース) とあった。

▼ 訓練場 札幌飛行場、羊ヶ丘・牧場

第11空挺師団は、落下傘部隊であり、よく訓練をしていたらしい。仙台ではキャンプ・シンメルフェニヒ(現在、苦竹の仙台駐屯地)に駐屯し。訓練は、Carelus operation field in Yamato (現在、王城寺原演習場 [wiki])に列車で通い、実施した。一方、札幌での訓練は?札幌飛行場だというのである。札幌飛行場というのは丘珠飛行場ではなく、北大の北端の北、北24条と西5丁目から北西の広がっていた飛行場。


1945-1950年の航空写真

昭和20年8月15日の終戦に伴い、9月には「繰り上げ卒業」と言うことで学窓を押し出され、仙台から帰札した私は進駐軍のスイング少将指揮下の第十一空挺師団が、愛する「飛行場」で盛に降下練習をしているのを望見し、敗戦の惨めさをしみじみと感じて、もう二度と行くまいと強く決心した。(札幌原人 様 「札幌飛行場」の巻(1980. 4.№1) )

一方、羊ヶ丘も演習場であったとのこと。なお、下記の「真駒内の現場」とは当時建設中のキャンプ・クロフォードの建設現場のこと。のち、このキャンプ・クロフォードに第11空挺師団は駐屯する。

昭和22年頃のことだ。真駒内の現場で、大工達が南東方面を指さして騒ぎだしたので、フト目をやると、何と空一面にパラシュートの華が咲いているではないか。この記憶は鮮明に残されているので、記録をたどってみたら、「昭和22年、種羊場の南700haは、米軍の演習地となる」とあった。
 成程、当時スイング少将指揮下の「第11空挺師団」というのが進駐していたので、彼等の降下演習場になっていたのだ、と云うことが今更のよう納得できた次第だった。(札幌原人 様 覚書その三「月寒種羊場」の巻

空一面にパラシュートの華というのはこういう情景でしょうか。下記は第11空挺師団のの表紙です。

 


新しい街でもぶどう記録;第461週

2023年09月16日 18時00分00秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第461週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の尾長

カナヘビ?

■ 今週のアリストクラシーとメリトクラシー

 
親の力で人生が決まる       自分の能力で人生が決まる

内閣改造で、加藤鮎子[wiki]がこども政策担当大臣となった。ところで、8月に松川るい[wiki]参議院議員がパリ出張で、遊んでいたんだろうと炎上し、雲隠れした時、実は、次の入閣候補者であったとうわさされた。加藤鮎子は東大出の外交官であった加藤紘一の娘。加藤紘一といえば、その昔はわれらがネトウヨの不倶戴天の敵である。一方、松川るいは自分が東大出の外交官だった。

今回、大臣となった加藤鮎子は当選3回である。当選7回でも大臣待ちの国会議員がたくさんいるそうだ。そういう中で、当選3回で加藤鮎子が大臣になれたのは、世襲議員であるからであり、実家が「名家」であるからに他ならない。今回の組閣で初入閣は3人は全員世襲議員とのこと。自民党の政府のつくり方は露骨に門閥主義である。

さて、問題はここからである。松川るいのメリトクラシー:自分の能力で人生が決まるにおいて、こういうことをしてしまうことが能力があるといえるのか?が問題だ。

いずれにせよ、自分の「能力」で人生が決まることに変わりはない。

■ 今週の「あなたたちのために」

最近にいたるまで、『三田評論』のある待合室に通っている。そこでみた『三田評論』で、高校生向けの論文コンクールがあることを知った。お題はいくつかあるのだが、そのひとつが、「福沢諭吉が今の日本を見たら」。ネットにある。もし、諭吉が今の日本に降臨したら、やはり、<諭吉歓迎会議の幹部さま>は下記の方々に違いない。なぜなら、現世で権勢を奮っているからである。

 そのうち
左から加藤鮎子、福田達夫、中曽根康隆、石破茂、奥野信亮     岸田翔太郎

KO出の政治家はたくさんいるだろうが、上記の方々は、世襲議員であり、かつ、その初代や先代が東大出身で官僚を経て政治家、場合によっては首相になった方々である。つまり、初代や先代と同じ教育や経歴を辿ったわけではないが、その職業だけは襲うである。そして、なぜかしら彼らはKOに行くのだ。KOといえば、福沢諭吉。諭吉といえば、「門閥制度は親の敵で御座る」。ここで、門閥を辞書で引くと、高い格があると昔から世間で認める家柄、いえがらが良い家。上記の方々、首相や有力大臣輩出の家がら。諭吉が親の敵といった門閥制度の賜物で政治家になったに違いない。例えば、上の高校生論文コンクールで入賞した論文の冒頭に書いてある:

私達は「門閥制度は親の敵[かたき]で御座る」と言い放った青年一人の青年の悔しさを忘れてはならない。引用元

そこで、<諭吉歓迎会議の幹部さま>が迎える中、諭吉が降臨したら?

上述の通り、今回の組閣で初入閣は3人は全員世襲議員であり、露骨に門閥主義である政府を横に、諭吉降臨。「福沢諭吉が今の日本を見たら」。

実は、問題ない。なぜなら、諭吉の文章をよく読むと、諭吉は「私のために門閥制度は親の敵で御座る」といっているのだ [1]。私のために、といっているのだ。つまりは、個人的体験に基づく、個人的感想なのだ。もし、諭吉が上記諭吉歓迎会議の幹部さまに対し、「門閥制度は親の敵で御座る」と言い放ったとしたら、上記<諭吉歓迎会議の幹部さま>たちは、「それってあなたの感想ですよね?」と応じればいいのだ。

もちろん、諭吉は、上記<諭吉歓迎会議の幹部さま>たちに対し、「あなたたちのために門閥制度は親の形見」というだろう。

[1] 全文

如斯こんなことを思えば、父の生涯、四十五年のその間、封建制度に束縛せられて何事も出来ず、むなしく不平をんで世を去りたるこそ遺憾なれ。又初生児しょせいじ行末ゆくすえはかり、これを坊主にしても名を成さしめんとまでに決心したるその心中の苦しさ、その愛情の深さ、私は毎度この事を思出し、封建の門閥制度をいきどおると共に、亡父ぼうふの心事を察してひとり泣くことがあります。私のめに門閥制度は親のかたきで御座る。(引用元

■ 今週の購書

村松剛『アメリカの憂鬱』 1967年刊行

Amazonでは、4,000円ほどするが、日本の古本屋で、400円で買った。1967年刊行。この本は、当時立教大学助教授だった村松剛が、1965年9月ー1966年6月まで、半年の滞米、その後、スペイン、フランスとまわった滞在、旅行記録。スポンサーは、フォード財団とロックフェラー3世財団の基金。立教大学を約1年、留守にしたことにある。サバティカルだ。なお、サバティカルは本来、キリスト教の牧師が7年に1度1年会遠地で過ごす制度に由来する。現在の日本の大学では制度化していないが、北米ではある。立教大学はキリスト教系大学だから、サバティカル制度的なものがあったのか?

年譜にはこうある;

昭和40年10月 ニューヨーク・ジャパン・ソサイアティーの招きでアメリカ,ヨーロッパに赴く。アメリカではハーヴァード大学研究生となる。(ソース

 村松剛は米国においてはボストンに滞在(上記の「アメリカではハーヴァード大学研究生となる」)、週に1度、飛行機でニューヨークに通った。

そのニューヨークでは、1965年北アメリカ大停電 [wiki]に遭遇する。ニューヨーカーは冷静で、その非常時に、案外、うきうきしていると見取っている。

▼ まさに米国繁栄の頂点、1966年

今からみると、米国の衰退はベトナム戦争から始まる。テト攻勢でベトナム戦争が泥沼化すのが1968年1月以降だ。だから、村松が米国にいた時は、米国人は、まさかこのあと5.8万人が戦死し、事実上、敗退するとは思ってもいなかった。むしろ、逆の心配をしていたハーバード大学教授を村松は紹介している。そのハーバード大学教授は「道徳的退廃」を心配している。ここで興味深いのは、「道徳的退廃」とは米国人が麻薬に溺れるとか社会規律が乱れるとかそういうことではなく、むしろ逆で、強すぎる米国が自分の政治的価値観を外国に武力を以て押し付け、しかも勝利するので、敗戦国に非寛容で独善的になることである。村松はこれをやられたのが敗戦国日本であったという認識をもち、このハーバード大学教授を村松は紹介している。

▼ 米国の生活

村松剛は米国の中産階級の生活を全く評価していない。閉鎖的で退屈、軍隊のように画一的で質素で堅実であるとの認識。家は大きく日本よりずっといいが、殺風景。「日本人はアンリカ人にくらべて貧乏だけれど、日本の庶民の方が、たぶん生活を多彩にする方法を、はるかによく知っている。」と村松は云う。

特に、食生活については全くダメだと書いている。

食べ物に関しては、殆んどノイローゼ的状態になった。
はじめの一か月くらいは、それでももの珍しさにまぎれて、味の方はたいして気にもならなかった。しかし生活が堕ちついてくるにつれて、そのまずさー というより味のなさ ーが、どうにも我慢できないものに見えはじめる。まずさの第一の原因は、インスタント食品と、大量生産の冷凍品が大部分を占めることに由来するのだろう。

 ぼくは日本の食物には未練のない方で、外国で米の飯やお茶がほしいなどと思ったことは、あまりない。しかしアメリカばかりは特別だった。

 アメリカ人の貧困をきわめた食生活を見て、ぼくは日本の将来が心配になった。アメリカの酒がまずいのは、禁酒法いらいだといわれ、アングロ・サクソンはもともと味覚が鈍感なのだともいう。そういうことはるにしても、根本的な問題はやはり、工業化、大衆社会化がもたらす食生活の変革である。

1965年のボストンの食料品事情を想像できない。そんなにひどかったのだろうか?あるいは、村松の舌が相当肥えていたのだっろうか?「ぼくは日本の食物には未練のない方」といってるのだから、よほどのことだったのだろう。加工していない野菜などや普通の生の肉は売ってなかったのだろうか?売ってるものすべてが冷凍食品だと思えないのだが。ちょっと、理解できない。

▼ 山崎正和、ユダヤ人、真珠湾

そのニューヨークで、ぼくはある歴史学者の夫人から
「自分たちは真珠湾を忘れない。だから私は、日本人というものをいまでも信用しないのだ」
といわれたことがある。  村松剛『アメリカの憂鬱』、第5章 アメリカと現代世界

この席には山崎正和も一緒だったという。

 村松が報告しているのだが、この頃、米国の文学界で活躍しているのはユダヤ人ばかりであったとのこと。その背景は主流アメリカ人(WASP)は、反知性主義的で、文学、哲学、芸術などに関心をもたないと云っている。なお、別章、ニューヨークの同性愛事情を報告。ある演劇関係者によると、演劇界では同性愛者が多いと。ある演劇関係者とは山崎であり、山崎の自伝にある、握手の仕方で同性愛者であるかわかる(=相手が自分が同性愛者であると暗に伝えてくるとおいらは解釈した)、手を強く握らないというあのことだ。

▼ 子供と人種問題

村松剛『アメリカの憂鬱』のヤマは第2章 アメリカとアメリカ人 第5項 子供と人種問題だ。

村松は家族で行った。子供を公立小学校へ入れた。トラブル。その頃、他の日本人の子供が学校で人種問題でいじめられ委縮していることを村松は知った。そこで自分の子供たちには、正々堂々と生きよいう。おそらく、日本人にしては委縮していない=彼ら見て生意気に受け取られたのだろう。暴力沙汰を誣告される。学校から「お宅の子供がガラスの破片で友だちを殺そうとした」と連絡。村松は滞米15年の親戚の女性を伴い、小学校に行き、教頭と対決。結局、小学校をやめさせる。しかし、噂を聞いて、隣町の教育委員会から連絡があり、ケネディが通った小学校に通う。この体験で村松は両極の二つのタイプのアメリカ人にあったと書いている。

▼ 中米紀行、あるいは、スペインの前に?

実は、村松剛『アメリカの憂鬱』の半分は中米紀行である。キューバを挟んで、東西。

まずは、ドミニカ。アメリカ軍によるドミニカ共和国占領 (1965年-1966年) [wiki]の頃。

そして、グァテマラ、マヤ文明遺跡訪問

米国の後、スペインに行っているはずだが、スペインについての話はない。

▼ ド・ゴールを見に

村松剛『アメリカの憂鬱』のヤマは実はこっちかもしれない。

村松は、ヴェルダン50周年記念式のド・ゴールの演説を聞きに行く。

見わたすかぎり林立する何万、何十万の十字架の列をまえにすると、言い知れない徒労感におそわれる。同じヨーロッパの二つの国が、何という無駄な、愚かな、むなしい戦いをしたものか・・・。同じ日のフランスの新聞は、ここには無数の、未来のアインシュタインたちが、パストゥールたちがクロオデルやブレヒトが眠っている、と書いていたが、当事者になれば、たしかに思いはいっそう深刻だろう。 村松剛『アメリカの憂鬱』

 

 


新しい街でもぶどう記録;第460週

2023年09月09日 18時00分00秒 | 武相境

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第460週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の花

■ 今週の10%引き

 

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■ 今週気づいた「古い」教会、あるいは、住宅より早く

筑波みことば教会は茨城県つくば市東のプロテスタント教会です。同教会 web site

上の画像は1984年の筑波大学学生新聞から。住所が、谷田部町東、となっている。

40年前からあったのだ。下の1984年の航空写真で「+」の位置。右の楕円が梅園公園、左端の林が赤塚公園。

図中の西大通りという文字の右は、鉄塔の絵。これは、気象研究所の気象観測鉄塔。これは1975年にできたらしい。昔はつくばのランドマーク的存在だった。しかし、2011年に撤去された。

ソース

■ 今週のおフランス

フランス、学校でのアバヤ着用禁止

Google

フランスの行政裁判所の終審である国務院は7日、イスラム教徒の服「アバヤ」の学校での着用を禁止するとした政府の決定を支持し、差別的で憎悪をあおりかねないとするイスラム教系団体からの訴えを退けた。 (ソース)

■ 今週借りて読んだ本

 

神谷光信、『村松剛』。2023年4月刊行。法政大学出版、4,500円。ごめんよ、買わなくて、法政大学出版と著者。読みやすく、たくさんのことが書いてあり、とても勉強になった。 ⇒ 出版社による本書情報:『村松剛』 

出版社の内容紹介;

東西冷戦期、福田恆存や江藤淳と似た「保守」の立場から活動したフランス文学者・文芸評論家、村松剛。小林秀雄との出会い、ヴァレリー研究、アイヒマン裁判の傍聴、アルジェリア戦争の取材、中東戦争への眼差し、内閣調査室への協力、三島由紀夫や遠藤周作らとの人的交流。その生涯を丹念に追い、いかにして議会制民主主義を尊ぶ保守派のリベラル知識人となったのかを記す、初の評伝的一冊。法政大学出版

特徴は公知情報に基づく評伝。村松を知る人へのインタビューなどから得られる未公開情報はない。さらに、評伝の進め方は、複数の各テーマについて、村松と同時期にその問題を考えた人の見解を紹介して、村松の見解と比較して村松の特徴をはっきりさせる方法をとっている。例えば、中東問題では板垣雄三、日米関係の問題では江藤淳とか。繰り返すと、この本は(おそらく)すべて公知情報から成り立っている。その整理、提示の仕方が「独創」である。なお、村松剛の公知文献、出版物のリストはあるが、新聞、雑誌への寄稿のリストはない。したがって、村松が「世界日報」や統一教会系の雑誌(「思想新新聞」)に寄稿していなか、明らかにされていない。

本業はフランス文学、ヴァレリー、その後、(フランスの植民地の)アルジェリア、イスラエルに行き、当地の知見を深める。さらに米国にも滞在し、体験記を書く。これら日本から地理的に離れた水平的に隔離した視点から日本を見る水平的視線、そして、後醍醐研究という歴史的に現代日本から離れた垂直的視点という2つの視点から現状を見て、評論、情勢論を書く。背景が海外見聞と強記博覧。こういう背景で、村松は公知情報から、日本の素人向けの解説書が多い。これはよい商売になったのだろうが、後世に残る創作物とは言い難い。村松は死の直前、偉大な創作を残せなかったと遠藤周作に云ったとされる。余談だが、遠藤周作の作品は遠藤の死後もものすごく売れているそうだ [1]。

[1] 何といっても一番売れているのは『沈黙』です。遠藤さんが亡くなった後で、文庫だけでも40万部出ています。(出典)

▼ 始まりは小谷野敦学術博士

小谷野敦学術博士が2007年に指摘した:「なお村松剛には年譜がないようで、これには驚いた」。(jun-jun1965の日記 2007-12-21 南日恒太郎と村松剛)。同年、小谷野博士は「村松剛を見損なう」と書いている。見損なったということは、それまでは、高く評価していたことを示している。村松剛のどういう点を評価していたのか、わからない。そして、出た。村松剛の評伝。この書への小谷野博士の評がある(神谷光信「村松剛: 保守派の昭和精神史」アマゾンレビュー(削除された))。

なお、小谷野博士は、下記、云っている;

学者というのは、定年退官、退任する際に大学紀要に年譜が載ることが多くこれはいい資料になる。東大には紀要がないが、比較文学の人は『比較文学研究』に載るともいえるが、実際は著作一覧だけである。あと東大教授の場合は学会誌に載ったりする。 
 しかし時おり、載らない場合があって、片々たる学者ならそれでもいいが、割と重要な学者の年譜がなかったりする。村松剛が、ない。 (2011-07-03 パヴェーゼに挫折する

1992年に村松 剛先生略歴・著書目録 (村松剛先生退官記念号)がある。

▼ 『村松剛』の著者、神谷光信 さんについて

村松剛の評伝を書いた神谷光信 さんとはどんな人なんだろう?と素朴な疑問がわく。著者紹介には下記ある;

1960年横浜市生まれ。関東学院大学キリスト教と文化研究所客員研究員。昭和文学会会員。博士(学術)。著書に『ポストコロニアル的視座から見た遠藤周作文学の研究』(関東学院大学出版会、2017年)ほか。 (もっと詳しいプロフィールはこちら

関東学院大学キリスト教と文化研究所の研究員であり、遠藤周作の研究家であるということは、キリスト教徒なのだろうと思い込んだ。さらには、『須賀敦子と9人のレリギオ カトリシズムと昭和の精神史』という著作がある。

なお、先日本屋に行ったら、『世界文学としての遠藤周作文学:ポストコロニアリズムと移動の観点から』(Amazon)、董 春玲、という本があった。ポスコロと遠藤周作、流行っているのか?

神谷光信 さんはキリスト教徒なのだろうと思い込んだのは、神谷さんっていうのだから、神谷美恵子さんの縁者なのかもしれないと空想が広がった [2]。違った。神谷光信 さんはキリスト教徒ではないそうだ。御本人のインタビュー記事がネットにあった;

2017年9月 放送大学博士号(学術)取得 神谷光信 さん(取得時57歳 )
文学を通して、世界を美しくしていくための人間的努力なのですソース

⇒ 神谷光信 さんTwitter

⇒ 書評 竹内洋  醒めた保守の論壇史 『村松剛』神谷光信著

[2] 今、ネットでググったら、あった: 神谷光信 さん、神谷美恵子さんを語る(彼のblog

▼ 以下、神谷光信、『村松剛』に関すること、本書には関係ないが村松剛についての思いつき

● 愚ブログと村松剛

おいらにとって、村松剛で印象的なのは、彼が進駐軍相手の闇商売で成金となったことと、幕末の安政の「大獄」についての事実の提示のふたつ。前者はこの愚記事で書いた。動機は統一教会問題。一方、後者は愚ブログの早い時期。こっちの記事。ただの引用であったが、おいらの明治維新・再認識の「おはよー!」体験でのこと。

もっとも、村松剛の代表作の『死の日本文學史』と『醒めた炎 木戸孝允』を読んでない。時評を中心に読んだのだ。

● 遠藤周作ー村松剛

なぜ神谷光信 さんが村松剛の評伝を書いたかの動機ははっきりと書いたものを確認していないが、推定できる。神谷光信 さんは遠藤周作について博士論文を書いた。遠藤周作と村松剛は若いころから死ぬまで交友があった。遠藤周作は村松の葬儀で弔辞を読んだ。神谷光信は『村松剛』は、博士論文からの「派生」なのだろう。

おいらは、去年9月に、遠藤周作が書いた村松剛像を引用した。遠藤周作と村松剛は深い仲だったのだ。今思えば、『西欧との対決』にも遠藤周作論があった。

● 最も受難した保守知識人

村松剛の特徴は左翼からの受難。1960年末の大学紛争の時、立教大学教授を辞めている。名目が懲戒免職なのだという。後、これは歴史に残すべきテロ事件だと思うだが、1990年の筑波大の村松剛居住である大学官舎の焼き討ち事件。

● 心の隙間?

村松剛を知ったのは1980年代初頭。おいらは10代の頃からソ連が嫌いで(米国も嫌いだったが)、反共主義の本を探していていた。勝共系の人たちの本もみた。読んで、違和感があった。その理由がわかった。勝共系の人たちというのは、かつて共産主義運動(山村工作隊とか)に参加し、党に裏切られ(と本人たちの認識)、運動に挫折した人たちなのだ。元アカ。その挫折でできた心の隙間を埋めるための思想、それが勝共思想と気づいた。典型例が、福田信之。そういう中で、村松剛を知ったので、この人もその種の人なのではないかと考えてきた。なにしろ、筑波大学にいたので。当時、雑誌、正論や諸君での村松の論文を読んで、その主張に関心をもったのだと思う。ただし、単行本には(本屋でみなかったので)縁がなく、今手元にある文庫、『帝王後醍醐』、『血と砂と祈り』を1980年代初頭ー中頃に買った。『血と砂と祈り』のアルジェリア兵士と肩を組む村松の写真は印象に残った。それでも、村松剛は統一教会系/勝共系のひとではないかという疑念は払拭できなかった。冷戦時代だ。

その後、冷戦が終わり、昭和の終焉と湾岸戦争で、村松は皇室論、主権国家論で活発化する。その頃の本を読んだ。

村松剛についてはその「本性」が別途あるのではないか?という疑問が抜けなかった。つまり、ある種のキリスト教、もっといえば統一教会の「エージェント」=宣伝工作員ではないかという疑問だ。本書(『村松剛』)により、他の家族はそうであったのに、村松剛はキリスト教徒ではなかったと、おいらは知った。なお、情報元は入江隆則。

 妹の英子は一九七八年、両親、娘とともにカトリックの洗礼を受けた。しかし、入江隆則に拠れば、本人は「キリスト教は、「村松剛の思想の否定を意味する」として強く拒んでいるとのことだった」(『衰亡か再生か 岐路に立つ日本』)。カトリシズムは西洋文明の骨格であるから、日本人として人生を締めくくるにあたり、「終油[病人塗油]の秘跡」を拒むことで「攘夷」に徹したかったのだろうか。われわれに残された謎である。  神谷光信、『村松剛』

● 東大仏文の御家芸?

村松剛は東大仏文の出身。博士課程を満期終了するまで、つまり1959年まで、在籍していたのだ。本書で渡辺一夫との接点を知ったし、ヴァレリーで加藤周一との比較も興味深かかった。加藤周一が出てきて、ああ、ビンゴと、おいらが思いついたことがあった。加藤周一が辰野隆のマラルメについての講義に出ると、マラルメの借りた家の家賃がいくらかであったかを詮索していると驚く。落ちがあって、中村真一郎に愚痴ると、「運がいい。今年はマラルメの話だ。マラルメ誕生まで講義が1年かかった」。この家賃がいくらであったかということでマラルメとその時代を把握しようとする姿勢。思い出した。村松剛の『帝王後醍醐』。

 こんな状態でも米価は建武元年に一斗百文(『護国寺供養記』)で、それほど暴騰というわけではなかった。若狭が飢饉という報告があるが、一般には天候に、どうやらめぐまれたらしい。酒は一升二十文、兎が都では一羽九十五文である(『東寺百合文書』)。昭和五十三年の米価を基準にすると、酒一升が千円、兎が一羽五千円前後になる。 村松剛『帝王後醍醐──「中世」の光と影』

物価に敏感。東大仏文のお家芸?

● コラボで金持ち東大院生

 おいらにとって村松剛の属性で一番興味があるのは、村松が学生時代(彼は博士課程満期までやっているので、長い)進駐軍相手の「闇商売」をやって、大儲けしたこと。この学生時代の闇商売を語った1986年に「今より、金もちだった」といっている。この時村松は筑波大学教授だから、年収1000万円をもらっていなかったであろうが、学生時代に1000万円程度(以上)の稼ぎがあったと証言していることになる。なお、村松には自伝はなく、自分について体系的に語った文章はない。この点も村松剛の特徴である。もどって、コラボというのはフランスでドイツによる占領時代にドイツに協力した人たち;コラボラシオン: Collaboration。

 村松剛の属性の最大特徴は博覧強記で、情報整理能力が高いことである。一方、その能力が高くても元の情報が必要だ。神谷光信『村松剛』には書いておらず、さらにはどこにも書いていない、おいらの推定では、「闇商売」をやって、大儲けした金で、洋書・外国雑誌をたくさん買ったのではないか?当時の知的活動の多寡は、入手する情報が重要だ。小林秀雄は辰野隆からヴァレリーの本を貸してもらえたから仕事ができた。

● 大帝後醍醐の時代;地方史の重要性

『村松剛』第17章 和服を着た肖像では、日本史三部作のひとつ、『帝王後醍醐──「中世」の光と影』について書かれている。その中で、後醍醐を知るためには地方史研究が重要であり、村松は各地方の歴史家と交流し、歴史を研究し、『帝王後醍醐──「中世」の光と影』を書いた事情を説明している。後醍醐と地方史で思いついた;

村松の『帝王後醍醐──「中世」の光と影』の後、後醍醐論『異形の王権』を書くことになる網野善彦は、「茨城県」の中世史も書いている。なお、網野の『異形の王権』では、村松の『帝王後醍醐──「中世」の光と影』に言及し、後醍醐とその父後宇田との疎隔について述べるところで参照文献として挙げ、

村松剛『帝王後醍醐──「中世」の光と影』が細かく辿っているように、後醍醐の母忠子は亀山に寵愛され、亀山は孫後醍醐を一旦、皇太子にしようとしている。後宇多・後醍醐の父子関係は、この点からも疎隔があったのである。(強調:おいら、網野善彦『異形の王権』)

と云っている。

ここで、目を引いたのが、後醍醐の歴史そのものより、「細かく辿っている」。

● 細かく辿る村松剛

「細かく辿っている」がビンゴ!ビンゴ!ビンゴ!。なんのことかというと、村松剛の「レポート」は、細かいのだ。たとえば、中東戦争の解説。たしかに、村松剛は細かい。

 

● 情勢論/原理論

「細かく辿っている」の続き。下記の神谷光信の指摘は興味深い;

村松は中東情勢に関する該博な知識を披露しているが、全編を通してそこで述べられているのは情勢論であり、原理的省察ではない。

 村松の分析が情勢論に傾きがちであることは事実である。(中略)アメリカ合衆国とその「保護領国家」日本との関係も、イスラエルとパレスチナとの関係も、村松はそれぞれのケースにおける情勢論、状況論、相対主義で捉えている。それゆえ判断の基準が揺れ動く。  神谷光信、『村松剛』 p240 ch13

● ひっかかること

神谷光信、『村松剛』では村松像を現すため、類似の人物を比較参照として示し、相違を明らかにする方法を撮る。対外関係についての村松剛の態度・見識を「現実的な開化論」とし、対照となる江藤淳を「攘夷論、民族主義」とする。

大著『醒めた炎 木戸孝允』(一九八七年)で幕末明治を雄勁な文体で描くことになる村松は、本来は主知的な「現実的な開化論」の立場なのであって、西郷隆盛論『南洲残影』(一九九八年)を情念に満ちた文体でロマン主義的に描いた江藤淳が「攘夷論、民族主義」であったのとは対照的である。村松剛のナショナリズムは右翼的心情とは無縁である。 神谷光信、『村松剛』(p136 ch9)

これはよくないと、感じた。類型で考えている。しかも、スナップショット。江藤も村松も対外関係、特に対米関係は愛憎半ばし、時に矛盾した見解、感情をもってきた。なにせふたりとも著作活動の期間が長いのだから、時代や状況でも変化する。たしかに、江藤の晩年の西郷隆盛論について、江藤への驚きが表明されている。一方、江藤はアメリカを嫌いだとは一言も云っていないが、村松はアメリカという国は好きになれないと明言している。つまり、複雑なのだ。それを、「現実的な開化論」とか「攘夷論、民族主義」とか類型化し、決めつけてしまっている。

神谷光信、『村松剛』にはたくさんの情報があり、それらを読みやすくならべるため方便が必要なのは理解する。そして、とても勉強となった。しかし、一方、それら事実に対する批評的な点では、ひっかるところがあった。文章とはなめるように読むべきものだと、おいらは、考えるからだ。

● 村松剛の「細かく辿る」癖との対蹠的文学者たち

湾岸戦争での日本の文学者たちの声明についての神谷光信のコメント;

 さて、文学者の反戦声明に関する当時の文章を読むと、イラク、クウエート、サウジアラビア、イスラエルといった中東諸国の政治状況への言及がほとんど存在しない事実に驚かされる。紛争地域への関心がなければ、そもそも反戦の主張は成立しないし、批判もありえないのではないだろうか?当事者たちの現実とまったく関係のないところで議論が行われている印象を拭いきれない。批判者も含めて、彼らは一体、何に「アンガージュマン(政治参加)」したのだろうか。 p368 ch20 湾岸戦争

 文学者の反戦声明を起草した文学者たちは日本国憲法に根拠を定めるしかなかった理由は何であろうか。それは彼らが中東地域の歴史と政治の理解に乏しく、詳細な分析を行うことが不可能だったからではないだろうか。 神谷光信、『村松剛』

詳細な中東地域の歴史と政治の理解を有したのが村松。

● ビンゴ! 四方田犬彦ー村松剛

神谷光信『村松剛』の年譜にある。1990年、モロッコの作家モハメッド・アジズ・ラバビと会見。同席者が、平岡千之、小林康夫、四方田犬彦。村松剛と四方田犬彦に接点があったのだ。なお、神谷光信『村松剛』によると村松と由良君美は東京高等師範学校附属小学校で一緒だったらしい。

四方田犬彦はこの神谷光信『村松剛』の書評を書いているとのこと(「週刊金曜日」(1426号、2023年06月02日発行)。

あと、四方田犬彦と村松剛の共通点は、コリア。政治的立場の違いはあろうが、両者とも1980年頃、コリアに入れ込んでいる。村松剛の韓国との交流はこういう(サンケイグループ系)「保守派」の影響下でのものだろう。


https://twitter.com/jomaruyan/status/1157307690156085249

● 筑波大学

村松 剛は1974年8月に筑波大学の教授となる。筑波大学は1974年4月に第1期生を受けれたらしいので(エビデンス)、開学メンバーではなかったのだろう。都会人の村松はどうやって暮らしていたのだろう。週に数日、東京から通っていたのか?1974年の筑波大ってこんな感じ↓。


リンク  上:1974年 下:現在

村松 剛は、1974-1992年、18年間、勤める。筑波大学での活躍の様子は下記リンクの学生による追悼文からわかる。

<遣悼> 村松 剛先生を偲んで

https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjji_a_z5yBAxWNVd4KHRRWCJAQFnoECBAQAQ&url=https%3A%2F%2Ftsukuba.repo.nii.ac.jp%2Frecord%2F4303%2Ffiles%2F8.pdf&usg=AOvVaw13d0KcJheaWvh5LM47xbwO&opi=89978449

● テロと維新と、村松剛

1990年に村松剛は居住していた筑波大学官舎を極左集団により焼き討ちされる。この背景には昭和の終焉で、天皇論が活発となり、尊皇派論客として村松は目立ったのだろう、なおこの頃、西部邁と意気投合したらしい。おいらは、座談会で西部が天皇について原理論的な立場からそのあり方を述べると、松村から「過激だね~」と感嘆、感心されていたと記憶している。そして、村松つくば住居焼き討ち

西部邁によればこうだ;

 夕方のTVニュースで筑波大学の村松剛氏の公務員宿舎が爆破されたと知った。瞬間発火温度は一三〇〇度だ、とのことだった。熟年者(西部のこと)はすぐ村松氏の自宅(留守電)に見舞の言葉を入れた。(西部邁『ファシスタたらんとした者』)

これは明らかなテロ行為である。村松剛は不幸中の幸いで現場にいあわせなかった。さて、村松剛は、南ア問題でマンデラ氏をテロリストとして非難している。中東問題では、テロリズムを非難している。PLOのアラファト議長をテロリストと呼び、その来日を非難している。ところで、焼き討ちといえば、駐英公使館焼き討ち事件がある。幕末維新での出来事だ;

英国公使館焼き討ち事件は、文久2年12月12日(1863年1月31日)江戸品川御殿山で建設中のイギリス公使館が焼打ちされた事件。隊長:高杉晋作、副将:久坂玄瑞、火付け役:井上馨、伊藤博文、寺島忠三郎、護衛役:品川弥二郎、堀真五郎、松島剛蔵、斬捨役:赤根武人、白井小助、山尾庸三ら (wikipedia

「保守」知識人の明治維新に対する認識は重要だと思う。おいらは、村松剛の代表作とされる『醒めた炎 木戸孝允』をまだ読んでない。そして、偶然なんか、何なのかわからないが、英国公使館焼き討ち事件参加者に木戸孝允の名前が見えない。

● 天皇親政問題、あるいは、クーデター(革命?)政権の正統性

明治維新の正統性は天皇が維新勢力に勅を出したことにある。天皇が幕府打倒を命じたという建前となっている。賊臣慶喜を 殄戮せよ。この明治維新がなぜ実現できたかたというと、天皇の命令による鎌倉幕府の討伐という先例があるからだという。その先例としての建武の中興を描いたのが、村松剛『帝王後醍醐──「中世」の光と影』。この天皇の命令による現体制転覆=天皇親政の合理化が、現在や今後に適用できるか、すべきかは議論があるだろう。もし、三島由紀夫のあの事件を合理化するとすれば、この論で合理化できる。錦旗革命。あるいは、明治維新がよくて、なぜ今後の維新が認められないのかという合理的説明はあるのか?今は議会制があるだろうというのは、有効な反論になるとは限らない。今後の錦旗革命は認められないし、明治維新もよくなかったという見識があってもよい、むしろ、保守とはそういう見識をもつことではないかと、おいらは、思う。

● ジェノサイド(大量殺人)の街とその不確かな対米認識

おいらは、今回、神谷光信『村松剛』を読むまで、村松がアイヒマン裁判を傍聴し、見聞録を書いたとは知らなかった。というか、村松剛についてほとんど知らなかったのだ。おまけに、おフランスなぞ無縁なので、ヴァレリー、アンドレ・マルローなぞ読んだこともない。ただ、20年ほど前、他人(ひと)から『ムッシュー・テスト』(岩波文庫)をもらったことがある。未だに積読であった。なお、おいらの人生で他人様から本をもらったのはこれくらいだろう。くれた人はネットのオフ会で出会った人で、未だに本名を知らないし、なぜこの本をおいらにくれたのかもわからない。

さて、村松剛は東京生まれ、東京育ち、敗戦の玉音放送も東京で聞いた。東京といえば1945年3月9日の墨東地区に始まる空襲により、民間人大量殺害が行われた街である。村松剛は、アイヒマン裁判を契機に『大量殺人の思想』という本を出したのだという。今度、読んでみたい。でも、大量殺人の思想というのであれば、米軍の東京でのジェノサイドの思想的背景も検討すべきでないだろうか?村松剛に限らず、日本の「保守派」で、米軍の東京でのジェノサイドについて、『大量殺人の思想』を検討した例を聞かない。

たしかに、村松剛は、早くから、1970年から、江藤淳より早く、検閲批判を含む米国の占領政策を批判している。でも、米軍の東京でのジェノサイドとその思想については言及していない。

● 村松剛 本

2022/9/4にもっている村松の本を集めて、画像を撮った。このとき、『ユダヤ人』、『血と砂と祈り』、『悲劇は始まっている』、『西欧との対決』を集めそこねていた。さらに、神谷の本を読んで、『動乱のヒーロー』を購入した。

■ 今週返した本(全)

 

 


新しい街でもぶどう記録;第459週

2023年09月02日 17時47分56秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第459週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週のキリ番

ブログ開設から7000日

■ 今週の果物

■ 今週の100年、あるいは、可燃物・人間

100年前のこの摂政・ひろひとさんの関東大震災視察の動画があると知る ⇒ 動画:本所深川方面を視察する摂政宮

震災教育で教えられているかわからないのだが、関東大震災での死因(おそらく最大)は焼死であり、その大量焼死は人が避難のため集まったところに火が付くことである。生身であっても人間はものすごい可燃物なのである。

上記本所深川:「今度の大災禍で酸鼻の極を尽したのは何んといっても本所の被服廠跡に避難した三万五千人の焼死である」。

関連愚記事:わざわいでのすめろぎさまのかしらのたかさのうつりゆき; 縮減される庶民の頭の置き場の空間

■ 今週の紅衛兵

東京都内の公共施設にあった迷惑電話の発信元の番号に電話をかけると、中国語で応答があった。声に幼さが残る少女は、江蘇省在住の14歳の女子中学生だという。SNSに投稿された日本に迷惑電話をかける動画を見て、友人と5人で電話をかけた。動機は「刺激が欲しかった」。少女から罪悪感は感じられなかった。(ソース

でもさ、中国の中学生って、昔、政治的に煽られて、人を殺していたんだよ。

「副校長だった卞仲耘氏を「毛沢東思想に反対した」と決め付け撲殺」

愚記事:詫 び る 老 「老紅衛兵」、あるいは、“要武”の顛末

■ 今週借りた本

「全共闘」小説/大学紛争小説3つ

星野光徳『おれたちの熱い季節』、松原好之『京都よ、わが情念のはるかな飛翔を支えよ』、三田誠広『僕って何』の3冊。1960年代末の大学紛争についての小説。もっとも、『京都よ、わが情念の・・』は大学入学前の浪人生だが。

星野光徳『おれたちの熱い季節』、松原好之『京都よ、わが情念のはるかな飛翔を支えよ』について、初めて最近しった。知った経緯は、笠井潔が全共闘小説2冊としてこの2冊を挙げていたからだ。その挙げた背景は、村上春樹の初期三部作および『ノルウエーの森』との比較、参照としてだ。村上春樹の上記初期作品は<あの時代>を「おれたちの熱い季節」ではなく、醒めて、クールに!描いた作品だからだ。

復員兵の子どもたち

星野光徳『おれたちの熱い季節』。著者の星野光徳;昭和26年(1951年)札幌生まれ、昭和44年(1969年)栃木県立宇都宮高校卒、昭和48年(1973年)千葉大学人文学部国文科卒。この作品は、昭和52年/1977年度、文藝賞(河出書房新社)、選考委員は、江藤淳、小島信夫、島尾敏雄、野間宏。知らなかった、こんな小説。何より、江藤淳が選考委員だったのだ。江藤は<あの季節>の頂点&退潮の始まりの190年に、間もなく沖縄・反安保闘争の挫折を主題にした小説が数限りなく書かれるであろう。そしてそれは、いわゆる「経験」が経験の影にすぎなかったという残酷な認識に到達したものでないかぎり、すべて私小説の実質感と抑制を失った”私小説の影”のようなものになり、しかも決して私小説の限界を超えることがあるまいと思われる。と云っている。1977年に現れたこの小説は江藤にとって「間もなく沖縄・反安保闘争の挫折を主題にした小説」のひとつだったのだろう。ただし、この星野光徳『おれたちの熱い季節』への江藤淳評をまだおいらは見つけられていない。なお、この3年後の文藝賞の受賞作が、あの『なんとなく、クリスタル』である。

さて、おいらは、かつて書いた(団塊=復員兵の子供たち、あるいは、few J-children sing, what did you kill ?);

父親が復員兵であり、かつ戦争の後遺症を持っていたと書く団塊世代の人間で、親が戦争で民間の支那人を殺した、と言っているのをみたことがない。もちろん、民間の支那人を殺した復員兵は黙っているのだ。

昨今の従軍慰安婦問題もそうだろう。なぜ、父親が復員兵であり、かつ戦争中戦場で慰安婦に慰めてもらったと書く団塊世代の人間はいない。そもそも、父親が復員兵ですと書く団塊世代の人間はめったにいない。書くのが商売な人なら、父親が復員兵だったら、戦場で何をしていたか聞いて、書けばいいじゃないかと思うのだが。

あったよ。この星野光徳『おれたちの熱い季節』だ。大学紛争にかかわる登場人物・武井和夫の父親について:

親父は酔うと必ず戦争体験を誰彼となく話しかけたがった。そして軍歌だ。俺には、自分の父がまるで過去についてそれ以外の話題を持たず、戦争の時代を殆ど懐かしむようにだらだらと同じ話を繰り返すのが耐え難く苛立たしかった。
(中略)まったく、日本が勝っていれば、中国は日本のものさ。そうすればなあ。まったく残念だったなあ。そうすれば、父さんも今頃は佐官級で、こんな町役場なんぞにはいなかったぞ。なあ、和男。お前だって今頃は見習兵くらいにとられて、大学なんぞ行って生意気なこと言っている暇はない。もっと鍛えられていたろうさ。なあ。」
「チャンコロの奴ら、岩の影なんかから急に攻撃かけてきやがる。あれは、チェッコ銃でなあ、こう、タンタンタンッという軽い音で撃ってくるんだが、まあ性能はいい機関銃だったなあ。一台ぶんどってやったら、チャンコロの奴ら、捕虜になると顔を地べたに擦りつけてなあ、あいきょーあいきょーって泣きやがる。人間の首をはねるってのはなあ、力と気合いがいるんだ。この首の骨を叩っ切るんだから。」
 彼は、箸を両手で軍刀を握るように持って、切り下ろす振りをして見せる。俺はその話をもう何十回聞かされたことか。(星野光徳『おれたちの熱い季節』、第1章 4)

そして、武井和夫は父親と仲違いし仕送りを止められる。そして、活動家仲間とバイトをするのだが、そのバイトは「土方仕事」であり、一緒に働いている中年の男が戦争体験を自慢する。でも、彼は「土方仕事」をする同じ労働者仲間のはずである。

「しかし、実のところ、その殺人者どもに育てられた訳だからなあ。妙な時代に生まれた訳さ、俺たちは。・・・だが、そういう連中と連帯するなんてことができるんだろうか。革命は遠いな。」

と、武井和夫の仲間、山本執一は云う。

というわけで、星野光徳『おれたちの熱い季節』は自分が日帝侵略兵士である男の子供であることを自覚した人物が登場する小説なのだ。

おいらは、以前、こうも書いた;

ところで、これは中二病の頃からうすうす感じていたんだけど、「自分は日帝侵略兵士の子供だから、親をしばいた!」とか、あるいは逆に悩んでいたとか、はたまた、「自分は日帝侵略兵士の子供だから恥ずかして生きていけないから自殺する」とかいう話はきかないよね。おいらが知らないだけなのかもしれないが。 (「反日」思想の源流;津村喬拾い読み

上記、武井和夫は、戦争自慢をする父親に、自分がどんなに残虐なことをしてきたか自覚しろと迫る。どうすればよかったのか?との父の問いに答える

「・・・赤旗振って牢獄に入るとか、徴兵忌避で銃殺刑になるとか・・・
「この馬鹿野郎・・・」
父の拳が飛んだ。

そして、喧嘩別れ。登場人物は、若いのに、復員兵に負けちゃうのだ。反撃しないのだ。「親をしばいた!」とかいうのは、現実味がなかったらしい。

星野光徳『おれたちの熱い季節』のあらすじ

舞台はC大学のノンセクトグループ(工・文共闘)、時代は1968-9年頃。登場人物は、武井和夫(文学部)、山本執一(文学部)、高沢志津子(文学部)、田崎進(工学部)、篠原次郎(工学部)、加藤守郎(工学部)。自衛官在学問題に端を発し、学内での団交。第1章は武井和夫の主観で物語が進む。グループの中心人物田崎進と山本執一に誘われ(オルグされ)グループに参加。活動を深める。グループメンバーで禁欲的に活動と資金稼ぎのバイトなどを行い、稼いだ金はビラづくりなどに使用。禁欲的求道的修行的学生運動生活。学内闘争から街頭闘争へと田崎進が路線を転換し、推進する。田崎は大衆は豚だと言い始める。メンバー間の意識のずれ。武井、山本は街頭闘争に躊躇。そして、この時点で高沢志津子はグループから脱落気味。結局、田崎に引きずられ街頭闘争、新宿での「10・21」闘争に参加。この裏には田崎の既成セクトへの取り込まれがあった。そして、新宿での「10・21」闘争。脱落気味だった高沢志津子が参加、逮捕される。武井も逮捕。ノンセクトグループ(工・文共闘)の瓦解。田崎進は消える。第2章は山本執一の主観で語られる。その後、学内では共闘組織(全闘委)が制し、バリケード・ストライキを行う。そのバリ・ストの中、封鎖された棟から飛び降り高沢志津子は自殺。田崎はT大全共闘にいると判明。このバリ・ストはのちに機動隊に排除される。
 なお、この小説は冒頭があの<季節>の3年後であり、会社員となった武井が、会社の組合に入らない男をあの<季節>を学生として過ごしたはずなのになぜだといぶかしがる場面から始まる。Sは「嫌いなんですよ、組織は。」と断固主張する。第3章は2年後。冒頭の組合に入らない男(S)の話が再び。そして、地方で暮らす山本からの手紙を武井が受け取る。あの<季節>の「総括」を試みる。夢か幻か、必死に説明しようとする状況が書かれている。この小説は終わったあとの回顧の物語である。

▼ あの<季節>での態度・認識

武井和夫の態度・認識

大学の構内は連日、授業を放棄した学生たちで、各派のデモと集会と議論に埋められ、俺たちはいつも勃起したように昂奮し、緊張していた。政治学生たちは、現状分析と称して世界情勢を細ごまと言い争い、日本が帝国主義的に自立したか、とか、街頭ゲバルトの意味とか、闘争の過程で大学に設けるべき完全な自治組織の形態とかについてひどく観念的な口先だけの罵り合うような議論を誰彼となくふっかけ、そのような刺々しく若い観念が学内の到る所に充満し始めたように見えた。しかし、それは俺の目にはまるで、学生がすべて何らかの形で現状という忌々しい世界の破壊を意志し始めた<季節>だった。そうだ、世界は必ず変わらなければならない。そして、C大も。俺は熱に浮かされたように信じ込んだ。

山本執一の態度・認識

 そうだった。あの晩、俺は初めて会った田崎の言葉に自分の思いを確かめ、大学の新しい<季節>の兆しの中で、彼こそが俺の求める連隊のオルガナイザーになるだろうと予感したのだった。彼の言葉は、その後俺たちがこの<季節>の象徴としての意味を籠めて用いるようになった<自己否定>と<徹底せる主体性>という二つの核を、俺の心に確実に共鳴させたのだった。徹底せる主体と不断の自己変革!その後の俺がどんなにか自分の心の中に烈しく叫び、刻み付けようとしたそれら。そしてどんなにか遙かで獲得し難いものであるかを幾度となく思い知らされた空しいそれらだ。俺たちは自分を覆い埋めているすべての不自由から解き放されるというなら、それと引き換えに、世界中の一切を犠牲にしてもかまわないと思っていた。俺たちは、ただ自分だけが自分の支配者でありたいと希ったのだ。

「大学に幻想を抱くなよ。ここは真理を追究する所ではない。むしろその逆だ。ここでは真理というものがどれほど限られ隠されなければならないかを実践しているに過ぎないんだ。
 いいか。真理がどのように利用されるかということは、真理そのものの価値とは別のものさ。支配する者とされる者がいる限り、支配者には支配者の真理があり、支配される者にはされる者の真理がある。真理、平等、自由といえども、普遍的な形で存在する訳ではないんだ。
 大学の自治といい、学問の自由といい、ふざけきった幻想だよ。(中略)
俺たちはそのようなごまかしの構造をこそ、いま打ち破らなけりゃならない。」

山本執一と高沢志津子は同じ高校の出身で、ふたりとも貧しい家庭だった。特に、高沢志津子は私生児で生活保護を受けていた。一方、ふたりとも成績が優秀だった。まわりの経済的に恵まれて、かつ成績が悪い学生は僻んで貧乏なら働けという。そういう状況で山本執一は云う;

)ちくしょう、俺たちはお前らなんぞに負けない。俺も必ず大学へ行ってやるぞとひとり呟くことで、辛うじてその口惜しさに耐えたのだった。
 そうだ。その頃の俺は、訳も解らず、ただ進学を果たすことが、級友たちに伍して自分を貧しさの卑屈から救い出せる唯一の手段であるかのように哀れにも思い込み、更にその一つの手段を目的であるかのように目指すことによって、あの貧しい受験勉強の日々をしのいだのだ。

大学に入り紛争にのめりこんで疲れた高沢志津子は云う: 「わたしたちは何しに大学に来たの?」

▼ 星野光徳と村上春樹

村上春樹は<あの時代>とその後についてあちこちで手短に、言葉を与えて示している;

僕が学生だったのは、1968年から1969年 という、カウンター・カルチャーと理想主義の時代でした。 既成秩序に対する革命や蜂起を、人々が夢見ていたんです。 そうした日々は過ぎ去り、 僕は大学の卒業証書を手にしました。けれども、 僕はどんなオフィスにも、 どんな会社にも所属したくなかった。ただ自分自身でありたかった。ひとり独立してね。 派閥や集団を基本にする 日本のような国においては、簡単なことではありませんでしたが、それを実行することができました。僕は、 クラブや流派には一切 属していません。 (村上春樹、『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』)

そして、村上春樹の初期三部作および『ノルウエーの森』は<あの時代>とその後についてののちの時代からの回顧だ。この<あの時代>とその後を語るという点で、星野光徳『おれたちの熱い季節』は村上初期作品群と対蹠的であり、ネガとポジといえる。つまり、星野光徳『おれたちの熱い季節』はあの時代を直接的に語り、村上春樹の初期三部作は過去の夢・幻かのごとく語る。ただし、思わせぶりな表現が村上作品には、確実に打ち込んである(鼠が大学を去ったのには幾つかの理由があった。その幾つかの理由が複雑に絡み合ったままある温度に達した時、音をたててヒューズが飛んだ。そしてあるものは残り、あるものははじき飛ばされ、あるものは死んだ。    村上春樹、『1973年のピンボール』)。

星野光徳と村上春樹の<あの時代>とその後を語る作品の大きな相違のひとつが、登場人物の家族関係、特に親との関係を描くか、描かないかである。村上初期作品に与えられた評の典型が、川本三郎による「都市の感受性」を表出する作家=村上春樹、らしい(柴田勝二、村上春樹研究への眼差し、『世界文学としての村上春樹』)。

::「都市とは、おびただしい商品と情報のなかで虚と実が反転していき、人間の情念や感情も生々しさを脱色されて軽さを帯びてしまう空間である。村上作品の主人公たちは「告白や熱い自己主張よりは引用やレトリックを楽しむ」人物たちであり、そうした姿勢によって「気分のよさ」を重んじて生きる「小さな個人」であることを肯定しようとしている。::

星野光徳『おれたちの熱い季節』には、もちろん、「気分のよさ」を重んじて生きる「小さな個人」なぞ出てこない。組織に入る、入らないに始まり、組織の方針を変える、変えない、そして、変わった組織に従う、従わないとう話だ。

さて、興味深いのは、星野光徳『おれたちの熱い季節』では、父親が復員兵である学生運動家が描かれている。彼の父親は復員兵であるばかりか支那兵を斬首したことを自慢する。一方、村上春樹の初期三部作および『ノルウエーの森』が出版されて(商業的に大成功する)しばらくたって、村上春樹の父親は復員兵でどうやら支那兵を斬首にかかわったらしいとわかってきた。わかった経緯はイアン・ブレマーのインタビューだ(愚記事より)。

村上春樹の人生で、最重要なのは、彼が小学生の頃父が息子に自分のチャイナ出征時代にチャイナ兵(以下、支那兵)の処刑に「立ち会い」、支那兵が殺され、死んでいく様子を聞かされた。それが、村上春樹の心障(トラウマ)になっていると告白している(『猫を棄てる』)。この心障(トラウマ)が原因で村上春樹は中華料理を食べられないと伝えられている。さらには、デビュー作以来、チャイナへの、独特の、こだわりが表現に組み込まれている。村上春樹は父親と確執があり、父親の死に際まで没交渉であった。その原因は必ずしも上記の心障(トラウマ)であるとは明言されておらず、別の原因(父が村上春樹に「エリート」街道を進むことを望み、息子が拒否した)が述べられている。しかし、この支那兵の死はのちまで村上春樹の心を占めていたことは、イアン・ブルマーにより伝えられている。そもそも、村上春樹は自分の父親について絶対人にしゃべらなかった(妻の証言)。理由は、上記のように、自分の父親が日帝侵略兵士であり、虐殺に携わっていたからだ。そして、息子は父のチャイナでの所業について詳しくは知らないらしい。知ろうとしなかったのだ。

父親に中国のことをもっと聞かないのか、と私は尋ねた。「聞きたくなかった」と彼は言った。「父にとっても 心の傷であるに違いない。 だから僕にとっても 心の傷なのだ。 父とはうまくいっていない。子供を作らないのはそのせいかもしれない。」
 私は黙っていた。彼はなおも続けた。「僕の血の中には彼の経験が入り込んでいると思う。そういう遺伝があり得ると僕は信じている」。村上は父親のことを語るつもりはなかったのだろう。 口にしまってしまって心配になったらしい。 翌日電話をかけてきて、あのことは書きたてないでくれと言った。 私は、あなたにとって大事なことだろう、と言った。彼は、その通りだが、微妙な問題だから、と答えた。

(イアン・ブルマの『日本探訪 村上春樹からヒロシマまで』における春樹への直接インタビューを元にした文章(1996年))

現在となっては、上記のように、村上春樹は『猫を棄てる』で書かれている。つまり、村上春樹の初期三部作および『ノルウエーの森』を書いていた頃は、少年のとき受けた心障(トラウマ)=村上春樹の父親は復員兵でどうやら支那兵の斬首に立ち会った、を持っていたのだ。すなわち、星野光徳『おれたちの熱い季節』では、時代背景として、学生運動家たちは世代的に復員兵の子どもたちであり、復員兵に育てられたこと、さらにそれを認識し解釈すること(上述)が作品に記されているのに対し、村上春樹の初期三部作および『ノルウエーの森』ではそうではないのだ。さらには、星野光徳の父親が現実に復員兵であり、実際に支那兵捕虜を斬首したかは不明である。しかし、村上春樹は父親が支那兵捕虜の斬首に立ち会ったと語ったという事実をノンフィクション作品で報告している。

▼ 村上春樹を読む星野光徳

さて、現在、星野光徳は村上春樹作品を体系的に読んでいるらしい。

⇒ Cinii検索(星野光徳  村上春樹)

■ 松原好之『京都よ、わが情念のはるかな飛翔を支えよ』

1997年、第3回すばる文学賞受賞。松原好之:1952年生まれ、岐阜県出身。金山町立下原小学校、金山町立濃斐中学校、岐阜県立岐阜北高等学校を経て、1978年大阪外国語大学外国語学部英語学科を卒業(wikipedia)。ネットには「1978年3月26日、三里塚空港、管制塔占拠で逮捕された著者が獄中で半分ほど執筆」した作品なのだという(ソース)。

どういう話か:大学紛争の話ではない。大学紛争当事者予備軍の自意識過剰の東大・京大を目指す若者の話。自意識過剰と過剰行動が「痛い」。主人公・空知 [そらち]。静岡で高校時代を過ごし京大を受験するも落第。京都の予備校に通う。下宿で同じ高校出身で活動家だったと吹石と同じとなる。吹石はさらに自意識過剰でカリスマ性を装う。吹石は上から目線で空知と組んでやるという態度で「連隊」する。下宿で「闘争」を行う。大家との闘争。下宿にいた祐天寺は大阪の伝説の高校生活動家。吹石は祐天寺を崇拝。下宿の闘争でのいざこざで吹石と祐天寺は下宿を出る。のち祐天寺は自殺。吹石と祐天寺は同性愛関係。空知は露店商からナイフを買い、痴漢まがいのことをする。改心する。そして、ある女子大生と関係を深める。最後、受験当日、吹石と祐天寺と空知にはみえる活動家の煽動にのり、受験場から去る。

■ 三田誠広『僕って何』

1977年、芥川賞受賞作。三田誠広:1948年生まれ。1968年早大文学部入学というので、村上春樹と一緒である。

おいらは、この本を約40年ぶりに読んだ。そして、当時、三田誠広は嘘をついていたらしい。これは数年前に気づいた。すなわち、あの<季節>の嚆矢とされる「10・8」[じゅっぱち](羽田事件)で死んだ山崎博昭は三田の高校時代の同級生であり、wikipedia には、大阪府立大手前高等学校で岩脇正人、佐々木幹郎、山崎博昭らの学生運動に参加するとある。

しかしながら、1985年の『保守反動に学ぶ本』(1985年刊)[関連愚記事]では、自分の経歴で、左翼体験全くなしと報告している。

三田誠広『僕って何』 あらすじ:経済的に恵まれた地方出身の学生が母親がかりでアパート借りて一人暮らしを始める。主人公はこの世に対するルサンチマンも情念も思想信条も特になさそうである。誘われて政治セクトB派に入る。そこで組織の中間管理的リーダー、レイコと知り合う。のち、同棲。B派が暴力沙汰を起こしたことをきっかけに、「全共闘」的ノンセクト運動が盛り上がる。海老原登場。本当はE派の工作員なのだが、主人公「僕」をB派から離脱させ、「全共闘」的ノンセクトに引き入れる。しかし、主人公「僕」は海老原の本性を知り、B派に入ったり、辞めたり、うろうろしている自分に「僕って何」?と問う、おXXなお話。

あの<季節>は何であったかという問いに対し、「自分探しであった」という回答が小熊英二からなされ(『1968 若者たちの叛乱とその背景』)、スガ秀実が怒っているらしい。そういう観点からみて、三田誠広『僕って何』とは、自分探し系といえるのではないだろうか?

それにしても、三田誠広は山崎博昭の友人であり、『僕って何』を書いた時点(1977年)で、川口大三郎事件(wiki)が歴史となっていて、『僕って何』の物語というのは、川口大三郎事件への過程であったはずだと、『僕って何』を書いた時点(1977年)でわかっていたことを考慮すると、こんなのんきな作品でよかったのか?と今、おいらには思える。