いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

線路を渡る猫

2013年03月31日 18時32分25秒 | ねこ


       ― 線路を渡る猫、名古屋近郊にて ―


飼い猫らしい。鈴がついている。

■ 瑕疵を見つける;

週末は、のんべんだらりんと、銭理群、『毛沢東と中国(上) ある知識人による中華人民共和国史』(Amazon)を読んだ。 日本語として読みやすい。銭理群って知らなかった。北京大学の「名物」教授なのだそうだ。1939年生まれ。74歳。

平川祐弘さんが書いている;

 今、文明世界で棟梁の材は試験と投票で淘汰(とうた)され抜擢(ばってき)される。一党専制の大陸は変則で、党政治局クラスの子弟で優秀な者を取 り立てるか(太子党)、学校や党の試験の合格者(共青団出身者)で現支配者の眼鏡に適(かな)った者を指名する。当然コネがものをいう。そんな中国の党幹 部の収賄・蓄財・資産の海外移転、「以権換銭」(権力をカネに換える)という構造的腐敗は遂に世界周知となった。

 そんな風潮を見かねて北京大の名物教授、銭理群が最近の学生気質を痛罵した。「北京大も清華大もえり抜きの人材を集めているが、大学で培養される 学生は計算高い利己主義者に過ぎない。世故(せこ)に長(た)け周囲の動きに敏感で、体制に迎合し体制を利用して自らの利益を図ろうとする。問題はこうい う連中が一番成功してすでに現体制の権力継承人になっていることだ。これこそ民族の未来にとり大きな『隠患』となるに違いない」

 「隠患」は、「隠れた不安」と訳されているが、私は「死にいたる病患」と訳したい。 (ソース:「死に至る病」中国の構造的腐敗

 

銭理群、『毛沢東と中国(上) ある知識人による中華人民共和国史』は、自分の経験を織り込んだ、中共戦後史だ。これまで、紅衛兵体験を語った本は読んできた。この銭理群の自分の経験を織り込んだ、中共戦後史は、文革ばかりでなく、中共建国直後の国民党系残党と共産党の闘争から始まり、大飢饉を招いた大躍進での著者の体験(虫瞰的視点)と、鳥瞰的歴史が書かれている。そして、毛沢東についても極めて冷静に分析・批判(ただの批難ではない)している。かなり踏み込んで、「自由」に書いているので、おいらは少し驚いた。余華の『ほんとうの中国の話をしよう』(Amazon)が、中国で出版禁止という状況を考えると、この『毛沢東と中国』がなぜ出版禁止にならないのか?中国当局の検閲基準が不明である。

その銭理群、『毛沢東と中国(上) ある知識人による中華人民共和国史』では、詩人たる、つまりは夢想家たる毛沢東が、政治的権力を握り、詩的に、夢想のために、世の中を動かすことによって、どれだけの厄災が生じたか!と指摘している。 

  *ぬっぽずんでよかった@明治時代。

支那における毛沢東現象って、日本で喩えていえば、詩人で夢想家(アタマの中おばたけ)の吉田松陰が総理大臣になるみたいものだろう (愚記事;松陰は玄瑞にアメリカ使節など、元寇の北条時宗にならい、切り捨ててしまえという)。 夢想を理解しない、実際派の伊藤博文(@才劣り学幼くも、質直にして華なし、)が政府を経営したから、日本は破滅しなかったのである(愚記事;伊藤は英国の文明の進歩と国力が強大であるのに感服し、すぐに攘夷の考えを捨てた)。

   *ぬっぽずんでよかった?@昭和時代。 中国化していた日本!

詩人と夢想家が軍事・政治に跋扈した時代。愚記事;米英撃滅国民大会; デマゴーグ宣言!朝日新聞

 

 ○それにしても、なぜ、こういう本って、誤字脱字、そして事実誤認とかがないのだろう?と思っていた。誤字脱字、そして事実誤認の本を性懲りもなく、連続して、たくさん出している人もいるのに。

でも、みつけたよ。 まつがい。  437ページ。

葉剣英の生没年が、一八九七 - 一九六六、となっている。

まつがい。 葉剣英は1986年まで生きていた (wiki)。 もちろん、ただの誤植だろう。

 ▼ そして、知ったさ、詐欺師・葉剣英;

 「華僑の大物」を自称していた葉剣英こと畑隆氏容疑者(65歳)が、農事組合法人アジア・アグリ連合会での架空の投資話で、富山県の会社役員らから現金数億円を騙し取ったとして、詐欺容疑で逮捕された。 ソース

 息の長い「謎の中国人」だったが、普通の常識を備えていれば、1時間でおかしな人間であることに気づき、2回も会えば詐欺師を疑うはずである。本人もそれを承知で数千億、数兆円と話を大きく膨らませ、それでも自分を信じる1割と付き合えばいいと考えているようだった。

騙された人たちは、中国共産党の十大元帥(wiki)の葉剣英を知らないのだ。もし、知っていれば、この(自称)華僑と会ったとき、「あの葉剣英元帥と同じお名前ですね?」、「偶然ですか?」からはじまり、どうでもいい支那ヲタ的教養を備えていれば、3分でおかしな人間であることに気づくはずだ。


ぶどうの木再生日記;第2週目

2013年03月30日 12時55分14秒 | 草花野菜

▼ 今週の筑波山; 火曜の朝。

今週月曜深夜に雨が降った。筑波山頂付近では雪だったのだろうか?

● 華やぐ筑波山麓

 

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梟雄が放った盲の鶺鴒が、400年の後、大地震で崩れた土蔵で、古の教唆煽動を囀る

2013年03月27日 20時03分06秒 | 仙台・竹雀・政宗

きょうゆうはなっためくらせきれいが、400ねんのちだいじしんくずれたどぞうで、いにしえきょうさせんどうさえず


  -25日、朝、東海道新幹線、車内にて―

今週月曜日、朝から、清州のとなりの名古屋に行くため、新幹線の のぞみ に乗った(おいらは、何の望みもないのに...)。

ところで、政宗公が初めて、箱根の山を越えて、「名古屋」に行ったのは、彼が23歳の時だ。

同僚であるはずの蒲生氏郷から訴えられたからだ。

その訴えとは、氏郷と政宗が共闘して討伐すべき一揆を、実は裏で煽動しているのは、政宗であるというものだ。

それで、秀吉に呼び出されて、清州に向かったのが、1591年 (天正18年) である。

そんな、清州・名古屋へは、東京からは、いまじゃ2時間もかからない。

それに、きしめんだって、なかっただろう。残念な、政宗。

その名古屋へ向かう車中で、ニュースがいったさ、「伊達政宗の密書発見」。

こういうニュースだ;

東日本大震災で損壊した茨城県ひたちなか市の土蔵から、戦国大名・伊達政宗の起請文(きしょうもん)(誓約書)が見つかった。

 対立する佐竹氏につく常陸(ひたち)(茨城県)の武士に、佐竹氏を裏切るよう促した「密書」とみられる。関東に送られた政宗の起請文が見つかったのは初めてという。

 被災した土蔵などにあった文化財が建物ごと処分されないよう活動するボランティア団体「茨城史料ネット」が確認した。壁や瓦が崩れた蔵の所有者家族が、片づけ中に「政宗」と読める文書に気づき、昨秋、ニュースで活動を知った同ネットに連絡した。

 代表の高橋修・茨城大教授(日本中世史)によると、起請文は1589年(天正17年)、常陸の大名・佐竹義宣の配下にあった小野崎昭通(あきみち)に 宛てられた。「中川北ニ江戸領之内(中略)可宛行(那珂川以北の江戸氏の所領をあてがう)」と記され、近隣の江戸氏に打ち勝てば、その領地の一部を与える と約束している。佐竹氏からの離反を条件としていたとも読み取れる「其元事切候以後(お前が手切れした後)」との記述もあった。

(2013年3月25日09時22分  読売新聞)
 
わお! 葛西大崎一揆事件まんま、じゃないか!
 

 ―政宗が小野崎昭道に宛てた書状 (左下の鶺鴒の花押に注目)―
⇒ 解説 web site  伊達政宗の密書  (額田城址保存会)
 
葛西大崎一揆事は政宗領から見て北でのことだ。このニュースのひたちなかは、政宗領から見て南のことだ。時代も全く同じだ、1589-1590年。やはり、政宗は、四方八方に、盲の鶺鴒を放っていたのだ!
 
このニュースの政宗の教唆煽動の書簡の意味を見てみよう。
 

1582年 (天正 9年)本能寺の変。織田信長、死没。

1585年 (天正12年)秀吉、関白となる。<豊臣秀吉>の「誕生」

1586年 (天正13年) 人取橋の戦い(政宗18歳)

南部戦線の戦闘。佐竹との戦争に戦術で敗れるも、佐竹内での内紛を工作。伊達家の殲滅を逃れ、戦略的に負けなかった。

1587年 (天正14年)  惣無事令 (秀吉による戦争禁止令。政宗はこれを無視して戦争やりまくりで、ぬっぽん有数の戦国大名となる領地を確保する)

1589年 (天正16年)  政宗、この密書(小野崎昭道に宛てた書状)を書く(政宗21歳)

1589年 (天正16年)  摺上原の戦い[秀吉の麾下の葦名氏を滅ぼす](政宗21歳)

1590年 (天正17年) 秀吉、小田原征伐

               政宗、小田原参陣(6月)。秀吉に服従。この後の蒲生や木村親子など西からの占領軍・進駐軍のみちのく支配を許す。政宗、西からの占領軍・進駐軍の「手先」という役割を担わされる。政宗の本心は不明。

1590年 (天正17年) 葛西大崎一揆 蒲生氏郷と共に政宗は一揆討伐にあたる。

           しかし、「一揆を煽動していた」と、氏郷に訴えられる。

           煽動の証拠は、政宗が一揆勢力に発した書状。

1591年 (天正18年) 清洲にて、葛西大崎一揆煽動の査問を政宗が受ける。

        書状の花押の鶺鴒の目に穴がないことを理由に、偽書状と主張。

       「有罪」を免れる。しかし、大規模転封。東北北部へ押しやられる。

        (政宗23歳)

すなわち、今回見つかった教唆煽動起請文は、政宗が「乱発」していたに違いないもののひとつなのだ。

  梟雄が放った盲の鶺鴒が、400年の後、大地震で崩れた土蔵で、古の教唆煽動を囀る!

そして、葛西大崎一揆の時、蒲生氏郷に訴えられた政宗は、清州に秀吉から呼び出され、査問される。

その時の「言い逃れ」が、今となっては、政宗物語の一大名場面(いちだい めいばめん)となる、鶺鴒の目、だ。

 一揆と政宗の関係は、はたしてどのようであったか。総じて、秀吉勢力に対する政宗の意図ないし態度は、いかなるものであったか。

次に、これをみることにしよう。

 第一に、須田伯耆が、氏郷にもたらした政宗の書状の真偽はどうであろうか。秀吉がこの書状を政宗に示したところ、政宗は、その筆跡の似せ方の巧妙さは、弁解の余地がないが、しかし、花押は明らかに贋である、自分の用いる鶺鴒形の花押には、必ず眼孔を開けておくことが、これにはない、という申し開きをした。

これによって、政宗の許されたのを聞いた井伊直政のちに親戚となるとは思いもしない頃だ)が、家康に向かって、異心歴然たる政宗を許した秀吉の不明をつげたところ、家康は、これを知らぬ秀吉ではないが、命に応じて上洛した勇気と自署の檄文として弁明した器量に免じたのだ、事前から心がけて花押を書く用意をもった政宗は実に大将の器ではないか、とかえって直政をさとしたという。 (小林清治、『伊達政宗』)

だから、今回見つかったひたちなかの政宗の起請文の鶺鴒には、当然、眼孔はないのだ。

さて、事実はどうだろう。 近日、一般公開されるとのこと。


そして、おいらは、名古屋できしめんを食べた。

 

 


ジンギスカン仕立て カリカリ (猫用乾燥えさ)

2013年03月24日 19時02分13秒 | ねこ

愚猫どものエサのカリカリに、ジンギスカン仕立てなるカリカリを買う。

どういうつもりでこんなのを作ったのだろう?

道産子の愛猫家が、自分が好きなジンギスカンを、飼い猫にも食べさせたいと考えるということなのだろうか?

原料表をみると、「羊肉エキス」とあった。

  製造元サイト 

  
   羊風味で満足、満足のうめさんとみけさん。

うちの愚猫は、とっくに羊の血な舐めさせている(愚記事;今日の御血会)。

少し関連する愚記事;

1.・七輪食堂 ドラゴンフライ ;つくば・ジンギスカン 
2.・中国出張③ 北京でも羊食べた 
3.・ジンギスカン 屋に行った。 
4.・ 大『帝国』にあやかる焼肉屋

▼ 最近、知ったこと。 河豚計画=1930年代に日本で進められた、ユダヤ難民の移住計画。

ニュースで、中国は上海を流れる川に数千頭の豚の死体が流れているとあった(Google ニュース)。

かわにブタって、河豚(ふぐ)かいな!、と思った。

「河豚 上海」で、ググったら、河豚計画が出てきた。 知らなかった、河豚計画。

1930年代の事情を知ることは、今を生きる上で非常に重要であると最近特に感じているので、勉強しようと思った。

 

● 与太話; ニューディーラーの時代に... あるいは、混乱する「(自称)保守論壇」

現在の安倍政権って、サヨ・アカ内閣でないべか?

アベノミクスって、リフレ派的イデオロギーに基づくとしたら、ニューディーラーではないか。

「リフレ政策」とは何だろうか?リフレは、「リフレーション(refration)の略語であり、デフレ(物価が持続して下落すること)を脱却して低い水準のインフレを実現することで、経済成長や失業率を改善することだ。リフレーションはもともと1930年代の世界大恐慌のときに、当時のルーズベルト米国大統領の政策アドバイザーであったアーヴィング・フィッシャー(イエール大学教授)が唱えたものだ。(『亡国の脱デフレ政策バッシング』、田中秀臣、雑誌、「正論」2月号)

米国民主党は、最近、国民皆保険の実施に難儀した。理由は、「保守」派との政策論争に手こずったからだ。米国では医療費の負担は自己責任であり、国民皆保険みたいな「アカ」のような政策は採るべきでないという主張がある。国民皆保険は個人の自由を侵害する憲法違反という主張だ。

一方、われらがぬっぽんは、国民皆保険だ。 岸内閣の時に始まった。 米国保守派から判断すれば、「アカ」の施策だ。

岸信介首相(His granpa!)は、最低賃金制や国民皆保険や国民皆年金など社会保障制度を導入した。米国保守派から判断すれば、「マッカ」だ。

安倍晋三さんは、初めて首相になった頃、雑誌のインタビューで、上記、「岸信介首相は、最低賃金制や国民皆保険や国民皆年金など社会保障制度を導入した」を誇らしげに指摘していた。

そして、サヨ。現在の安倍政権って、サヨ・アカ内閣でないべか?のサヨ。吉田ドクトリン。

「国家正当防衛権に依る戦争は正当なりとせられるようであるが、私はかくのごとを認めることこそが有害であろうと思うのであります。」  吉田茂内閣総理大臣答弁(本会議)、1946年6月28日。

この前の日米首脳会談では、集団的自衛権のことが全然進捗しなかった。どうやら、オバマ民主党米国政府は、日本にそのまま「吉田ドクトリン」を奉じていてください、と言ったらしい。背景は、米国は、中国さまとネンゴロにやっていきたいのだと。

1930年代のルーズベルト米国大統領政府にはソ連のコミンテルンや中国の宋美齢を筆頭とする工作組織のスパイが相当暗躍していたことが、現在となっては、明らかになっている。

今も、米国、豪国などアングロサクソン系の自称・「自由を至上の価値とする」政治家たちはチャイナ・マネー、ときにはチャイナ・ハニーにやられている。

正論ライターのが書いた本の冒頭にある;

 コミンテルンとルーズヴェルトの時限爆弾―迫り来る反日包囲網の正体を暴く

「日米戦争を引き起こしたのは、ソ連に好意的であったルーズベルト民主党政権と、アメリカの政権内部で暗躍したコミンテルンのスパイたちではないのか」

今では、コミンテルンはないが、コミンテルンを中国共産党の工作組織と読みかえればいい。

それにしても、『コミンテルンとルーズヴェルトの時限爆弾―迫り来る反日包囲網の正体を暴く』の著者・江崎 道朗さんは、現在の米国の「保守派」に期待するが、その米国の保守派の価値基準から見たら、現安倍政権の政策は、米国民主党より、「アカ」である。

 

■ そして、ヤルタ―ポツダム体制の守護者となった中国共産党

  & 
  -スターリンと同盟者たち―          ボランティア

新たに中国共産党の頭目となった習近平さんは、一番にロシアに行った。そして、「第2次大戦の結果と戦後の国際秩序を守らねばならない」と演説(google ニュース)。ヤルタ―ポツダム体制の維持を訴えた。皮肉なことに、ヤルタ―ポツダム体制の推進者のルーズベルトとスターリンのうち、スターリンのソ連は瓦解した。そして、現在の中国共産党はソ連のようにだけはならないと決意しているとのこと。つまりは、ゴルバチョフのような体制内からの「革命家」の出現だけは避けたいと。もっとも、ソ連共産党がなくなっても、その奴隷根性が染みついたロシア人には強権政権がお似合いだ。だから、習近平さんはロシアに行ったのだ。

それにしても、ヤルタ―ポツダム体制の形成に、中国共産党は関与していない。そもそも、中国・蒋介石が戦後秩序に関わったのはカイロ会談までだ。そして、「第2次大戦の結果と戦後の国際秩序を守らねばならない」とかいうけど、第二次世界大戦の後の国共内戦で、秩序を破って体制をつくったのは中国共産党である。

そして、現在、その帝国主義的施策で膨張して、国際秩序に挑戦しているのも中国共産党である。

 

 


杉の木は残った。そして、ぶどうの木の再生を始めました。

2013年03月23日 08時44分21秒 | 草花野菜

先週、梅の木が撤去されました(愚記事;梅の木、も失う)。

でも、杉の木が残っています。この杉の木は土地と家屋の所有者である家主さんのものです。

先週、そして借景だけが残された、と記しました。

間違い、です。

杉ノ木は残った、が真実です。

ゆるしてください。

 

▼ ぶどうの木再生計画

  
    ―秘かに、鶴千代と名づけている―

2月の初めに伐採されたぶどうの木の一部を、水につけておきました。

枝を水に挿しておくだけで、芽がでます。

今期は、このぶどうを再生させたい。

 

▼ 今週の華道的

 

● 金目鯛の押し寿司

今週ファミレスで金目鯛の押寿司を食べた。広告と実物を対比した。


広告 金目鯛の押し寿司 


  実物

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秀麿さんは、島田娘、あるいは、「おい、ご飯だよ!。カッカ」

2013年03月20日 19時54分21秒 | 日本事情

―秀麿さんは、島田娘の仮装―
愚記事より

■ 秀麿さん、子供の頃の思い出;

 顔を見合わせた僕ら弟達は何ともいえぬおかしさがこみあげてきて、

「カッカなんてこの辺で聞いたこともないな」

「そんな変な者はいないよ」という調子で追い払ってしまった。

 後で、食事のときに何となくこの話をしたら、もう卒業まぎわの京大生だった兄は、少しはバツが悪そうに、

「それはおれのことだろう」とポッツリいった。喜んだのは我々弟達だったわけだ。それからというもの、

「カッカ、起きろ」

「おい、ご飯だよ。カッカ」

「カッカ、散歩に行かない?」

「カッカ」

 とうとう頭にきた兄は、このためばかりでもあるまいが、

「もう東京に帰ってくれ」ということになってしまった。 [1]

■ おいらの毎晩の楽しみは、酒っこくらって、YouTubeでさまざまバージョンの分列行進曲を聞いて、地団駄を踏むことである。おいらは、毎晩、地団駄を踏んで、後進 行進している。そして、週数日、ブログの更新もしている。

そんな、YouTubeのさまざまなバージョンの分列行進曲で、交響楽によるものは、これひとつだ。 新交響楽団。指揮、近衛秀麿。

 【軍歌】陸軍分列行進曲 (扶桑歌)

敗戦直後、近衛文麿が戦犯容疑者としての取り調べに出頭を命じられた頃、弟の秀麿が3度会っている。数々の近衛文麿の伝記でこのくだりを読むと、8-9年の絶交の果ての再会と記されている。さて、上記の文麿がヒトラーに、秀麿が島田娘に仮装した時は、1937年である。したがって、伝記にある絶交はいつから始まったかわからない。つまり、この仮装パーティーの直後なのだろうか? 兄弟が再会する1945-1946年まで8-9年だ。調べた。文麿と秀麿の絶交の理由を記した、おいらが探せた、唯一の資料は岡義武 「近衛文麿」(岩波新書)。「秀麿は曾つて東京音楽の改革を構想し、そのことが因で兄と衝突して、久しく不和の関係になっていた」とある。東京音楽の改革問題で公爵家の兄弟が不和になるというのも不可解ではある。何か深刻な問題が兄弟間にあったのだろう。

さて、その近衛秀麿さんの自伝を読んでみた(Amazon 近衛秀麿、『風説夜話』)。知らなかった。1945年春、ドイツにいたのだ。米軍の俘虜となり、「もう数十時間、飲まず、食わず、眠らず立ちつづけた。時々意識が朦朧となると膝を折って泥土の上に座りそうになる。(略) もう何人か、老兵が倒れて運び出される。生きているのか、死んだのか、米軍は手を下さない。捕虜同士の手で門の外の草の上に鮪のように並べられている。仮に死体になったにせよ、横たわれるということは羨ましい。」とある。

その俘虜記で特に印象的な場面;

 朝、頭をジャン刈りにされた三人の若い女がぶち込まれて入ってきた。衛兵の話では頑強なナチだという。欧州女にとって、この恰好で引き廻されることは、耐え難い屈辱に違いない。ヒットラー始め巨頭が皆死んだり捕われてたりして、ナチズムそのものが歴史の上から消失した今日、まだその主義の為に抵抗をつづけている三人の若い女性達を午食に整列したとき、無量の感慨を以って改めて見直した。

(中略)

女の内二人は今日は悄然としているが、一人だけは相変わらず無謀の抵抗をやめない。銃の台尻でこづかれても、投げ飛ばされても「ドイツは敗けない。今に見て居れ!」・・・・

■ そして、上の扶桑歌の録音は、昭和3年。世界大恐慌の前年だ。ブルジョアの小春日和に録音されたのだ。恐慌への順応としての共産主義とファシズムの時代が来る直前なのだ。

それは、恐慌への順応としての共産主義とファシズムの時代がひとだんらくしようとした1945-1946年の時代だ。秀麿は俘虜、でも九死に一生を得る。そして、文麿は自殺に追い込まれる。 そして、文麿の長男がソ連に「殺されるのは」この後、10年後である。


[1] 近衛秀麿、 風説夜話

 


プラタナスの立ち枯れる街で、

2013年03月17日 13時49分33秒 | 東京・横浜

3月平日、東京メトロ東西線の九段下駅で下車。地上にあがった。

何年かぶりで神保町に行くためだ。

プラタナスが立ち枯れていた。

安楽死処置=撤去処理が来る6月19日に実施されますされましたとの告知が貼ってあった。

プラタナス=すずかけは、明治末期以降日本の街路樹に採用されるようになった。「世界四大街路樹」なる言葉がある。その四つとは、プラタナス、楡(にれ)、菩提樹(ぼだいじゅ)、マロニエだ。プラタナスは、大気汚染に強いので、都市の街路樹として最も採用されているらしい。

スペインのマドリーに初めて行ったとき、街のプラタナス並木が印象的だった。その足で行ったドイツのフランクフルトもプラタナスが茂っていた。そして、上海の旧フランス租界のプラタナス並木は有名。

     
 マドリー       フランクフルト      上海       ロンドン

そもそも、おいらの生まれ育った街、札幌でもプラタナス並木は多いのだ。そして、おいらの持っているプラタナスの形の典型的イメージはこれ↓  上海のあの独特の形は、わざと加工しているのだ。 作品群なのだ。

 
 ―プラタナス生い茂る札幌の街; 大通り西6丁目交差点―

 出典:札幌のプラタナス

 そして、東京;

・樹齢は長く、余程のことがない限りは途中で枯死することはない。(上記、札幌のプラタナス、より)

  ゲロの街の墓標なんだろうか? 悪い場所であると示すために。


梅の木、も失う

2013年03月16日 12時29分51秒 | 筑波山麓

オーナーさんが、うめの木を持ち去る。これで、ぶどうの木も梅の木も失った。
  借景だけが残された(愚記事:借景生活)。

よそんちの梅

初ふぐり

▼今週の看猫

なぜかしら、挙手するみけちゃん。

草をはむ白三毛(近所の猫、愚記事:近所は三毛猫祭りか?

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in 1952年@ぬっぽん"主権"回復, ロンドンで ひと冬, over 1万人死亡、大気汚染で

2013年03月13日 22時04分24秒 | 欧州紀行、事情

おいらは、2006年5月に書いた;

■事実、戦後一貫して、4月28日を「日本独立記念日」として祝う風潮は、左右ともに、なかったといえる。む しろ、4月28日を「日本独立記念日」として祝うのを嫌ったのは、保守・体制派であろう。だから彼らは1970年代になって、日帝時代の紀元節を、「建国 記念日」として復活させた。それは占領されたことに目をそむけたい心理を動機としている。従って、竹村らの感覚と「建国記念日」を復活させ日本は2600 年前から「独立」していたと主張したい従来保守派には温度差があることが明らかになった。これは、竹村が対米従属体制においてフルブライトの資金支援で留 学して米国流に生きることを実践し受益してきたことに加え、日本社会全体が戦後数十年たって米国流の生き方が人間の善い生き方という暗黙の合意が拡散浸透 し、血肉化してきたことを背景とする。 (愚記事; 4・28伝説 

ニュース: 安倍晋三内閣、主権回復の日の式典開催を閣議決定

サンフランシスコにおいて、主権を放棄する=国家主権の発動たる戦争の放棄という憲法を抱えて、主権者たる旧敵国=占領軍諸国と調印したのが、1951年。その発効が1952年4月28日。

「国家正当防衛権に依る戦争は正当なりとせられるようであるが、私はかくのごとを認めることこそが有害であろうと思うのであります。」という思想を日本が甘受することが、「主権回復」だっていうんだから...。 このねじれが戦後日本のアルファでオメガである。はたまた、阿吽であり、この阿吽の呼吸こそ、「豊かで、平和」なぬっぽんを「実現」してきたというのも、ねじれに捻じれ切ったぬっぽんの元吉/元凶である。

■ まぁ、ぬっぽんのことは置いておく。 そして、話は飛ぶ、戦勝国の公害大量死へ。 1952年つながりというだけで。

この冬、北京をはじめ中国主要都市での大気汚染、公害問題が急激に大問題となった。

でも、他人事と嗤ってばかりもいられない。

なぜなら、ぬっぽんでも公害問題が深刻化した時代があった。「世界の工場」となった時代だ(関連愚記事;水俣病患者に土下座する石原慎太郎環境庁長官)。 中国も世界の工場となった。公害問題だっておきるだろう。

   子供叱るな来た道だもの、 年寄り笑うな行く道だもの

21世紀の世界の工場たる中国の公害問題の発生は、資本主義経済の発達には、やはり、一般則があるのだ、すなわち「経済学」はあってもいいのだ、と教えてくれる。

それにしても、最近しったよ。

日本が米英など旧敵国との講和条約が発効したその1952年に、旧敵次席の英国さまはロンドンで、わずかひと月あまりの間に、大気汚染=スモッグで、1万2千人が死んだって。

知らなかった。 ⇒ wiki ロンドンスモッグ

1952年12月5日から12月10日の間、高気圧がイギリス上空を覆い、その結果冷たい霧がロンドンを覆った。あまりの寒さにロンドン市民は通常より多くの石炭を暖房に使った。同じ頃、ロンドンの地上交通を路面電車からディーゼルバスに転換する事業が完了したばかりだった。こうして暖房器具や火力発電所、ディーゼル車などから発生した亜硫酸ガス(二酸化硫黄)などの大気汚染物質は冷たい大気の層に閉じ込められ、滞留し濃縮されてpH2ともいわれる強酸性の高濃度の硫酸の霧を形成した。

大スモッグの次の週までに、病院では気管支炎、気管支肺炎心臓病などの重い患者が次々に運び込まれ、普段の冬より4,000人も多くの人が死んだことが明らかになった。その多くは老人や子供や慢性疾患の患者であった。その後の数週間でさらに8,000人が死亡し、合計死者数は12,000人を超える大惨事となった。

知らなかったょ、戦勝国の公害大量死。

その数カ月後、明仁・皇太子はそのロンドンを訪れた。


愚記事; プリンスオブやまと (当時) が、尖兵だったのだ。  noblesse oblige! 





日本政府 内閣官邸にコミンテルンがいた日々

2013年03月10日 20時12分26秒 | 日本事情

 

ニュース元; 官邸に「左翼80人」入り込んでいた 飯島内閣官房参与が明かした「惨状」

ちょっと古いニュース。 

「飯島参与は小泉純一郎元首相の秘書官を長年勤めたことで知られ、安倍政権の発足に伴い、小泉政権時代以来約6年ぶりに官邸に「復帰」した。そんな飯島参与はゲストとして登壇するや開口一番、

「官邸に入って驚いたんですが、むっちゃくちゃ。村役場以下ですよ」

と目をむき、民主党政権が官邸に残した「負の遺産」を並べ立ててみせた。」

その80人って、民主党政権にあいさつに来てた元祖サヨの自民党員(註: 元祖バカサヨの孫、麻生太郎のことかね?

まぁ、首相官邸には、コミンテルンがいた時代もあったじゃないか、とおいらは思った。

コミンテルンってなんだか知らない御仁、特に若い諸君、もいるかと思う。 おいらもよく知らない。 調べた。

国際共産主義運動を実現させようとした組織らしい。⇒wiki.

全世界赤色化革命世界同盟!って組織らしい。 Paint the globe RED! (地球を赤く塗りつぶせ!)という組織なんだろう。

元祖、グローバリゼイションに他ならない。

なお、厳密にいうと、ゾルゲの所属は「コミンテルン」ではない。赤軍(労農赤軍参謀本部第4局 wiki)。しかし、尾崎は自分は「コミンテルン」の一員、つまり「コミンテルン」からの指示をゾルゲ経由で受けて活動していると認識していた。

そのコミンテルンに奉仕すると自覚し、かつそれを表明するとその目的であるコミンテルンへの奉仕が実現不可能なので、周囲を欺瞞し、つまりは自分はコミンテルンに奉仕していますと表明しないで、日々コミンテルンに奉仕していた人たちがいた。地球上、あちこちにいた。特に近代化した地域、つまりは資本主義が始まった地域にいた。

われらが日本にもいた。そして、彼は、首相官邸に事務所を開いたのだ。「左翼80人」よりよっぽどインパクトがある。

その尾崎秀実が近衛内閣の嘱託として、首相官邸に事務所をもらい、首相官邸内を闊歩できるようになったのは、第一次近衛内閣が発足した昭和12年(1937年)6月である。この、のちに自分はコミンテルンへの協力者であり、「共産主義者」であると自供することとなる尾崎秀実が首相官邸に事務所を開けるようにしたのは、近衛内閣の内閣書記官長(現在の官房長官の役割)であった風間章(wiki)である。

もちろん、その風間章を内閣書記官長に任命したのは、近衛文麿である。しかしながら、近衛文麿は内閣発足まで一度もこの風間章に面識がなかったらしい。会ったこともない、どういう人物かもよくしらないのに、内閣の書記官長にして、官邸の管理権限を与えたのだ。

もしかして、16歳なのに、このブログに(間違って)来て、尾崎秀実って誰!?という君は、どうぞ→ 尾崎秀実 wiki

■ 尾崎秀実の赫々たる業績、あるいは、尾崎秀実の謎

尾崎秀実の目的は、日本(当時は大日本帝国)を日中戦争(当時の尾崎秀実がいうとすれば、日支戦争)へ引きずり込み、中国における米英権益を日本に襲わせ、これに対応せざるを得ない米英などと日本を戦争させる、帝国主義間戦争の実現であったろう。アカの定石である。それにしても、そんなことを「ひとり」の工作でできるのであろうか?

昔からあって、今ごろやっとそれに気付いてた人が騒いでいる説がある。それは大東亜戦争はコミンテルンの陰謀であったというもの。おいらは、基本的に陰謀説を信じない。なにより、陰謀説は立証ができない。立証されたものを信じるという凡庸な近代人であるおいらは、陰謀説が苦手だ。

でも、陰謀説とは別に、史実もある。上記、コミンテルンへの奉仕者が日本政府の内閣官邸に事務所を開いていたのも、史実なのである。こういう史実という点をたくさん集めて線を結ぶという地道な努力は大切だ。

一方、線が見えてしまったので、もう点はどうでもいい、ということになってしまうと、何でもありということになる。陰謀論の氾濫。

しかしながら、見えてしまった線を見て、その線の下には点はないだろうか?と探すことはありうる。

さらに回避しなければいけないことは、点である史実の意味を考えないことである。その点はどんな線をなしうるかの解釈を怠ることである。 史実認定に淫すると、ただの切手集め(愚記事;「すべての学問(科学)は、物理学か切手収集のいずれかに分類される」)に終わることとなる。

点で短し、線では長し、とかくこの世は知り難い(???)!

仮説を設定して、事実を見つけ、その仮説の是非を検証するというのは、ひとつの研究的方法である(作業仮説による真理への到達方法)。 仮説を設定するところで終わるのが、陰謀論だ。

そして、設定した仮説に都合のよい実験データを「準備」することが、我がぬっぽんを始め世界中で大流行の科学研究者による「捏造」である(愚記事⇒秀才バカ=ストーリーにあわせて「証拠」を揃える。:他人を欺かんと欲するものはまずは自らを欺け?...  )。

さて、尾崎秀実の問題に戻る。

尾崎秀実は日本を日中戦争に引きずり込もうとした(仮説)。つまりは、近衛内閣の官邸で、対支那強硬策を煽った。事実、近衛内閣発足後1カ月で盧溝橋事件(wiki)が勃発した。問題は、事件が勃発したということよりも、現地で当事者同士で停戦合意がなされ、事件勃発後数日は日本兵はひとりも死んでいないのにもかかわらず、近衛内閣は、閣議で3個師団の派兵を決定した。そして、戦争が始まった。さらには、その5カ月後、「帝国政府は爾後国民政府を相手にせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、これと両国国交を調整して再生支那の建設に協力せんとす」、と声明する [1]。相手がいない戦争をするのか?戦争でさえなくなった。支那を混沌とさせ、収拾がつかないようにしたのだ。

[1] 関連愚記事:1937-1972の大戦略;文麿と角栄の間

この大東亜戦争はコミンテルンの陰謀であったという仮説の結論をいうと、近衛はまんまとコミンテルンの挑発にのったのだ。つまりは、盧溝橋で発砲したのはコミンテルンだろうし、何より足もとの日本政府・内閣ではコミンテルンの工作者が日中停戦の現場合意を踏みにじる政策をなしたのだ。

しかし、ここで、派兵の主体となった陸軍でのコミンテルンの陰謀があったという裏を取らないと、上記「線が見えてしまったので、もう点はどうでもいい、ということになってしま」う。

どうやら、陸軍の参謀本部の作戦課の武藤章がキーパーソンらしい。 上司はあの石原莞爾。

今となっては、どの歴史通俗書にも、この盧溝橋事件が起きたときの陸軍参謀本部作戦課の石原莞爾と武藤章の言動が書かれいる。

1. ・支那事変勃発の際、参謀本部作戦課長であった武藤は、軍事課長の田中新一に電話をかけ、「ウン田中か、面白くなったね、ウン、大変面白い、大いにやらにゃいかん。しっかりやろう」と課員に聞えよがしに大声で話していたという。

2. ・武藤が石原に向かってこう言ったそうです。『石原さん、なにをおっしやるんですか。私は、あなたが満州事変の柳条湖事件の時にやられたことと同じことをやっているんですよ』 [出典]

尾崎秀実の謎; 尾崎秀実は実は陸軍に太いパイプを持っていたと「推定」されている。ここで、推定とあるのは、証拠・歴史的資料が出てこないから実証できないのである。

ただし、傍証はある。武藤章と尾崎秀実は交友関係があった。事実、1942年(昭和17年)4月にゾルゲ事件の発覚等により更迭され、近衛師団長となるwiki武藤章)。

そもそも、なぜ、朝日新聞の記者が内閣の嘱託となったかの詳細は不明らしい。ただし、陸軍の推薦・押しがあったとの傍証がある。これは、ゾルゲ事件で陸軍との関係が一切出ていないことである。陸軍はナチスの組織員としてのゾルゲと交流があった(とされる)。(ゾルゲは日本ではナチス党員ということで活動していた)ゾルゲと陸軍参謀本部との関係の証拠が出ていない。つまりは、陸軍がゾルゲ-尾崎に相当やられていたと考えるのが普通だろう。もちろん、日本陸軍の考えが白紙の状態にゾルゲ-尾崎が入れ知恵したとか、ましてはゾルゲ-尾崎が洗脳したとかいうのではなく、元来好戦的で自己組織拡大のために戦争を欲する政府官僚としての陸軍の利害と戦争を励ますゾルゲ-尾崎の入説に、一部の陸軍官僚が共鳴していたのだろう。そして、もちろんそういう日本陸軍官僚はホントにゾルゲ-尾崎はコミンテルンの工作員とは思わず、同盟国ドイツの対日協力者だと信じて疑わなかったのだ。ゾルゲはナチス党員として日本で活動していた(参考愚記事;コミンテルンと吉田茂、あるいは、日独防共協定の皮肉)。

■ さて、今は昔、昔は今。

日本を戦争に引きずり込む本当の支那からの工作員は誰だ!?