■ 今から、20年ほどまえ、20世紀末、おいらの指導教官(昭和18年生まれ)[@nature,scienceに論文多数]が、研究仲間の他大学の助教授(以下、助教授B)とおいらと雑談していた。そのとき、おいらの指導教官が、団塊の世代の助教授Bさんに「なぜ、団塊の世代って人数が多いんだ?」と聞いた。おいらはびっくりした。そんなの常識だろう、って。助教授Bさんは、「そりゃ、きまってますがな、戦争から帰ってきてみんな子供つくったんですがなぁ」と答えたので、安心した。
(愚ブログに顕われたる 復員兵)
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鬼頭春樹著、『求同存異 - 国交正常化交渉 北京の五日間―こうして中国は日本と握手した-』という本がある。元々はNHKのドキュメンタリー番組で報道された内容を書籍化したものらしい。
この本の傑出した点は、日中国交がなぜ実現したかという経緯を描いたことばかりではなく、本書の最後の数ページのあとがきにおける著者の「身の上話」である。
私の亡き父は、日中戦争での戦闘で、心身ともに深く傷つき、その傷跡は死ぬまで続いた。
(中略)
団塊の世代の私が子供心に知る父とは、一緒に風呂に入ったときの胸から腹部に至る長く醜いミミズ腫れのような開腹手術の傷跡だった。さらにはラジオの「尋ね人の時間」でハイケンスのセレナーデが流れ始めると、どこにいようが受信機の前に現れ、荒々しくスイッチを切る父。その行為は雄弁に自己の意志を伝えていた。「戦争のことは、なにも思い出したくない」。そして就寝するとしばしば暗闇を切り裂くように大きな悲鳴が響く。戦場の悪夢にうなされているのだ。それは前線で仮眠中に中国軍ゲリラに襲撃されたときの手榴弾が炸裂する断末魔の光景か、それとも瀕死の状態で担ぎ込まれた野戦病院手術室で蝋燭に照らさし出され鈍く光るメスの陰惨な修羅場か。あたかも夜間奇襲作戦のように突然襲ってくる叫び声は、幼い私にとっての≪戦争≫の疑似体験となる。まさしく「心的外傷ストレス障害(PTSD)」が父にとりついていた。戦場は桂林に至る景観の地、中支から南支に至る「大陸打通作戦」に父は従軍していた。「B29の発進基地を叩いていたんだ」と幼い私には話している。夜間行軍して翌朝目覚めると、そこは息を呑むような南画に描かれた山紫水明の絶景が続いているはずだ。だが、終生、父は再訪したいとは語らなかった。
最晩年、大腸がんに冒され、やがて脳に転移する。語ることをやめ、うなずくことさえ途絶えた入院先の大部屋の病室で、ますます大きくなった眼を見開き無表情に天井を見つめているだけの生活になったある日、妻が看護師に呼ばれる。「実はお父さんが夜中に変な声を出すんだけど、なにか心当たりは」。私は不意打ちを食らって驚愕した。周囲の働きかけに反応せず植物人間に近いと思われていた父の脳の深層では、半世紀近くを経ても、まだ戦争が続きいている。心的外傷(トラウマ)が執拗に生き続けていたのだ。改めて天才フロイトが第一次世界大戦の熾烈あ塹壕戦を経験した兵士たちの症状をもとにした概念の有効性を悟る。
がんに冒される前、元気だったころの父は銀行員を定年退職し、歴史教養書をむさぼり読む。とりわけ昭恐慌から第二次世界大戦に至る激動の時代に貪欲に目を向けた。口癖のように言う。「戦前の教育に騙されていたんだ。本当のことを何も知らされなかった」。「なぜ銀行員なんてつまらない仕事に」という私の無遠慮な詰問に唇を噛んで答える。「不景気な時代で安定した職がすべてに優先した―」 (鬼頭春樹著、『求同存異 - 国交正常化交渉 北京の五日間―こうして中国は日本と握手した-』のあとがき)
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(それにしても、上記文章は味わい深い。父は、「戦前の教育に騙されていたんだ。本当のことを何も知らされなかった」 という。その「本当のことを何も」国民に知らせず、大本営発表を垂れ流していたのが、NHKである。そのNHK職員の息子に、「なぜ銀行員なんてつまらない仕事に」と言われちゃうのだ。そして、。「不景気な時代で安定した職がすべてに優先した―」と抗弁する哀れな元敗残兵の父。そういう奴隷根性で、徴兵にも唯々諾々と応じたのだろう。なお、一緒に風呂に入ったときの胸から腹部に至る長く醜いミミズ腫れのような開腹手術の傷跡だったとある。状況から邪推して内風呂ではないか?団塊の世代で内風呂とはかなり裕福な家に違いない。)
父親が復員兵であり、かつ戦争の後遺症を持っていたと書く団塊の世代を、おいらは初めてみた。
戦争後遺症: PTSD !
おそらく、団塊もリタイアの時期に入り、かつその復員兵だった親も死に始めたのだろう。故人となったから語れる歴史的事実が公開されはじめたのだ。特に、死ぬ間際まで黙っていた復員兵たちも死ぬ前に語り始めているらしい。
この鬼頭春樹さんという人の親の経験は、まだ映画のような弾丸飛び交うという戦闘に類する話だ。でも、生還した日本兵の深刻なトラウマになっているはずの戦争体験とは、徴発 (wiki)、ではないだろうか。戦時中支那大陸には100万人(ほど)の兵隊がいた。別に内地から100万人分の食料を供給していたわけではない、現地調達したのだ。大部の支那人は唯々諾々と農産物を奪われたのであろう。でも、少しは抵抗した支那人もいただろう。そして、殺されたのだ。
父親が復員兵であり、かつ戦争の後遺症を持っていたと書く団塊世代の人間で、親が戦争で民間の支那人を殺した、と言っているのをみたことがない。もちろん、民間の支那人を殺した復員兵は黙っているのだ。
昨今の従軍慰安婦問題もそうだろう。なぜ、父親が復員兵であり、かつ戦争中戦場で慰安婦に慰めてもらったと書く団塊世代の人間はいない。そもそも、父親が復員兵ですと書く団塊世代の人間はめったにいない。書くのが商売な人なら、父親が復員兵だったら、戦場で何をしていたか聞いて、書けばいいじゃないかと思うのだが。
-団塊=復員兵の子供たち― 戦闘のミーム(wiki)はしっかり継承。
そもそも、兵士になれなかったなれず者、と団塊=復員兵の子供たち
■ そして、村上春樹
万事用意周到で、全く脇が甘くない、あの村上春樹が、突然、復員兵の父親に言及したのは、2009年のエルサレム章受章での講演、Always on the side of the eggの中であった;
昨年私の父は90才でなくなりました。彼は元教師でたまにお坊さんとして働いていました。彼は大学院にいた時、徴兵され中国に送られました。戦後生まれの子供として、父が朝食前に長く深い祈りを仏壇の前で捧げていたのを目にしましたものです。ある時、私がどうしてお祈りをするのかたずねたところ戦争で死んだ人々のために祈っていると答えてくれました。
味方と敵、両方の死んだ人たちすべてに祈りを捧げていると父はいいました。仏壇の前で正座する彼の背中をながめると、父にまとわりつく死の影が感じられるような気がしました。
父は亡くなり彼の記憶も共に消え、それを私が知る事はありません。しかし父に潜んでいた死の存在感は今も私の記憶に残っています。それは父から引き出せた数少ない事のひとつであり、もっとも大切な事のひとつであります。 (和訳; from this site)
deeply-felt prayers at the Buddhist altar in our house とは、英語としても村上春樹の父親の実行動はわからない。deeply-felt prayers at the Buddhistって仏壇の前で読経をしていたのではないだろうか?
「味方と敵、両方の死んだ人たちすべてに祈りを捧げていると父はいいました。」って、役人的もの言いである。 邪推心に溢れるおいらは言っちゃう。村上春樹の父親は戦争で支那人を、しかも無辜の支那人を、殺したのではないのか?。戦争だから人殺しは当たり前という感覚で、戦後を何食わぬ顔で過ごした元学徒兵も多いかもしれないが、村上春樹の父親は良心の呵責に苛まれ、読経していたのではないだろうか?
こういう情報もある (引用元:村上春樹はなぜ両親について語らないのか―全共闘世代のルーツ);
村上春樹は、the Beatlesが好きだと言っている。そのbeatlesの曲の中にある1作、The Continuing Story Of Bungalow Bill
歌詞の一部はこんな風;
All the children sing
さあ子供達、歌おう
Hey, Bungalow Bill
よう バンガロウ・ビル
What did you kill
何をしとめてきたんだい
Bungalow Bill
バンガロウ・ビル
The Beatles - The Continuing Story Of Bungalow Bill
https://www.youtube.com/watch?v=YlkZ8Ud8uoA