いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

文京区なんて馬鹿な名が発生する以前の話;王執中と高杉一朗の邂逅

2015年08月30日 14時00分28秒 | 東京・横浜

抜き書き1
足ばやに通りぬけながら、彼には、そこの一帯に楽しさが見られなかった。かえって、その窪地がもう一度高まって、小石川植物園をのせたあたり、そのへんに一種の楽しさが見だせていた。彼の暮らしている清水町の合宿、それを入れて上野公園へとつづくそこの高台、それから大学のあるこの第二の高台、それから植物園のある第三の高台、この三つの高台と、それに挟まれた八重垣町の窪地、指々谷町、八千代町の窪地の二つの窪地とが、自分の心理に不安定な混も雑をあたえているのを安吉自身も感じていた。三つの高台にも生活があり、二つの窪地にも生活があった。高台の方の生活には一種の合理性があり、窪地の方の生活には一種の不合理性があった。この合理性には小ブルジョア的なところがあり、不合理性の方にはプロレタリア的なところがあった。今では安吉に、ちんまりしたこの合理性が生理的にいやになっている。そこから生活を、引き抜いてしまいたい。しかしけない。それをそこに置いておくかぎり、過去からきて安心させるあるものがそこにある。彼は生活を、窪地の、乱暴な不合理性の方へ植えかえてしまいたい。しかし、できない。 (中野重治、『むらぎも』;江藤淳の『昭和の文人たち』の「『甲乙丙丁』の時空間 II」からの孫引き)

抜き書き2
「しかし何でまた文京区なんて馬鹿な名を思いついたのかいな。よりによって、そんな名を思いつくことが、そんな能力があるってことがおかしい・・・」  (中野重治、『甲乙丙丁』;江藤淳の『昭和の文人たち』の「時空間の変容と崩壊」からの孫引き)

抜き書き3
私が王執中と知りあったのは、いまから二十年ほどまえ、私が東京高等師範学校にまなんでいたころのことである。
東京師範学校は、大塚台から氷川下の谷に下ってゆく斜面の上につくられた三段のテラスからできあがっている。いちばん高いテラスのうえに立っている殺風景な校舎や図書館のあいだを抜けて、擬宝珠のある古風な陸橋を靴音をひびかせながら第二のテラスに下っていくと、そこはむかし松平大学頭の屋敷であったという占春園で、鬱蒼とした欅や樫の巨木が古い池をとりかこんでいる。池を迂回して、さらに道を第三のテラスに下ってゆくと、そこにはテニスコートやプールや武道館がならんでいて、それは垣根ひとつへだててすぐに氷川下の谷につながる。
 私がはじめて王執中の存在に気がついたのは、私が高等師範学校の三年生になった年の秋、その占春園のベンチのうえであった。
(高杉一郎、「遠い人」、『ザメンホフの家族たち あるエスペランティストの精神史』、初出『新潮』1954,1)

おいらの最近の基本は「林芙美子チャンネル」であり(愚記事群)、あんまりぶれてはいけない。けれど、改造社の編集者の高杉一郎の一連の著作(『極光のかげに』、『往きて還りし兵の記憶』、『わたしのスターリン体験』、『ザメンホフの家族たち』)を読んだ。印象としては高杉一郎という人物はかなり怪しいとおいらは睨んでいる。でも、怪しさの分析の前に、そうでもなさそうな部分(ってかそこがなにより怪しい点かも)についてブログねたにしてみよう。

高杉一郎は中野重治が好きらしく、実際に交際もし、編集も担当。高杉の著作には中野重治への言及も多い。おいらは中野重治の本は一冊も持っていないし、読んだこともない。でも最近、中野重治は林芙美子の同時代人でしかも同じ改造社の新鋭文学叢書の仲間だと知った(愚記事)。さらにはおいらが四半世紀前から読んでいる江藤淳の『昭和の文人』で取り上げられている作家が堀辰雄と中野重治。ともに、改造社の新鋭文学叢書の仲間だ。なお、おいらは本は堀辰雄の本を一冊も持っていないし、読んだこともない。全く読んだこともない作家を論じた江藤淳の『昭和の文人』はとてもおもしろい。特に、堀辰雄の分析。その江藤の方法は作品の文章と作家の伝記的事実の両面から堀辰雄を分析していく。そして、堀辰雄は小説のフィクションというものを逸脱した「嘘」を書いていると明らかにするのだ。その江藤の堀辰雄の"解体ショー"は堀辰雄の本を一冊も持っていないし、読んだこともないおいらにもとてもおもしろかった。そして、江藤が堀辰雄の"解体ショー"を経て言いたかったことは、堀辰雄に激烈に認められる「臆面もない出世主義と変身願望のエネルギー」こそが戦後の高度成長経済の原動力として世間に発現した精神のプロトタイプだということ。

さて、”基本は「林芙美子チャンネル」であんまりぶれてはいけない”に立ち戻ると、高杉一郎も江藤淳も林芙美子に言及した文章をおいらは見つけていない。ましては、評論の対象とはしていないはずだ。特に、高杉一郎は改造社の編集者だったのに、改造社の看板作家であった林芙美子について全く言及していない。唯一の例外は宮本百合子の文章の孫引きでわずかに林芙美子の名が出るだけである。高杉一郎は『文藝』の編集者の時、コクトーの特集をやった。コクトーが来日したのだ。林芙美子はコクトーに遭い、『文藝』に寄稿している。高杉一郎と林芙美子は知らぬ仲ではないはずなのに、高杉一郎の回想には林芙美子は全く出てこない。対照的に、高杉一郎は宮本百合子が大好きで、実際に交流も深かった。高杉の著作には宮本百合子への言及も多い。つまりは、「高台」の女性は好みだが、「窪地」から這い出て来て、作家として成功し、三段テラスを私有しお屋敷を建てた女には含むところがあるのだろう。なにより、林芙美子は「侵略戦争」への従軍作家だ。

中野重治にもどって、中野は"台地"と"窪地"を描いている。その描き方を江藤は「文学的時空間」として分析している。なお、中野重治の"三つの高台」と「二つの窪地」"の高台の北(西)限は小石川植物園の台地のことらしく、抜き書き3の大塚台は含まれないようだ。それにしても、抜き書き1の中野の「文学的時空間」ってとても図式的だよね。

ところで、高杉一郎、「遠い人」。辛亥革命を経た中華民国からの留学生、王執中の思い出話。のち仙台で支那/中国問題で口喧嘩することになる王執中との出会いは占春園と知る。そして、占春園は段丘崖の「テラス」にあると知る。この「テラス」といういいまわしは、河岸段丘の英語river terraceからのものだろう。

おいらは俯瞰的にみるとこういう場所とは知らずに、占春園に行った(愚記事:占春園、 茗荷谷参り )と知った。もう9年も前のことだ。それにしても、鬱蒼とした園とベンチは80年経っても変わらない風景らしい。

上記抜き書き3の三つのテラスをT1,T2,T3として記入してみた。左が高低地形図、右が地図(同じ地域)。

 

 

愚記事、特におちはない。ただ、自分のための忘備だ。

 

 


新しい街でもぶどう記録;第44週

2015年08月29日 14時28分13秒 | 草花野菜

 

■今週の看猫

通りすがりに、見かけた白猫

■今週の し ん か しゃ

google: 中国国営新華社通信が歴史問題をめぐり、天皇陛下に謝罪を求める記事を配信

日本人は外国語の習得が苦手だといわれることがある。その原因はいろいろあるだろう。おいらが思うのは日本語の音の貧しさである。日本語での発音しか知らないと、他の言語の音の多様性に驚く。日本語は基本的に発音が母音と結びついている。50音の発音の基本を習得すれば、日本語を結構運用できる。この日本語の音の貧しさこそが同音異義語の多さということの原因となっている。現行の日本文化は、日本語の音による分節化作用の貧しさを支那文字で、補償しているのだ。

そういう言語に支配されている典型的日本語人であるおいらには、上記天皇陛下に謝罪を求める記事をふまえて、「 し ん か しゃ」という音を聞くと、脳内の"音→支那文字変換ボード"には、「新華社」と「侵華者」と出る。「進化者」、「深化者」、「臣下者」なども出るが、本文脈には関係なさそうだ。

つまりは、「新華社」が「侵華者」に謝罪要求、ってことだ。 

もちろん、支那人にとって、新華 [华]社 (xīn huá shè) と 侵華 [华]者 (qīn huá zhě) は、音が違うのだが、音が貧しい日本語人には、両者とも同じだ。 今気づいたが、清朝マンセー!=朝は大陸のだ=清華は、qīng huáである。やはり、音は違うのだ。(おまけに日本では清華大学はせいか大学と発音する。もうむちゃくちゃだな、日本語の発音事情)

現在、あちらのお国では「華」の字は簡略化され「华」という文字になっている。したがって、「中人民共和国」という文字列はわれらが倭人にのみ流通する文字列である。かの地の本場では、「中华人民共和国」である。折角の「中華」[=お花畑のど真ん中]も「中华」では、貨物のど真ん中におもえる。華麗も华麗と切り下げだ。貨物に囲まれてばかりではひと咲かせたくなるのが人情で、それが先日の天津大火に違いない。

さて、「侵華」=「侵华」。典型的には、日本侵华战争というふうに用いられる(google)、大日本帝国による1930年代から1945年までの支那大陸での軍事行動のことである。お華畑を踏みにじった東夷日帝による戦争のことだ。日帝=東夷は、世界の中心でありこの世の華である我らを「侵」(おか)すというとんでもないこと=地球史上最極悪のことをしたのだ!というお支那さまの認識に基づく言葉だ。

そのお華畑を踏みにじった東夷日帝の軍と政府の最高責任者である天皇は謝罪せよ、と新華社は言ったのだ。でも、ご本人はもういない。そうであるなら、「息子」が謝れ、って。たしかに、その息子さまは敗戦の12歳までは、大きくなったら「大元帥」になるように教育されていたのだ。でも、今では、「戦後民主主義の帝王」である。12歳のとき、「大元帥」にはなれなかったが、ジミーさんになった。「一身にして二生を経る」というのが、昭和時代であったのだから。大元帥さまだってファミリーグランパになったのだから。「侵华」の当事者たちの末端兵員も復員して、ファミリーを形成した戦後のまさに「象徴」ではある。

でも、お支那さまは、過去を呼び覚ましてくれたのだ。「おまい、大元帥の息子だろう!」と。

ウヨにとって、新華社は敵なのか?、天祐なのか?

    
大元帥@任務遂行中   「復員」した大元帥と息子と(ユウゾン天皇のパパ)の戦後ファミリーの図

(もちろん冗談だが、あきひとさんは国営新華社通信には「江沢民派」にみえるのではないだろうか?
国営新華社通信による”習政権の「江沢民派」討伐”への阿りか?

 
■今週のドレイのドレイ (あるM2のつぶやき)


https://twitter.com/PON_Ph/status/637206030561087488

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高杉一郎、佐多稲子(窪川いね子)その後

2015年08月27日 20時02分34秒 | その他

先日のブログ記事(林芙美子-改造社「チャンネル」で、窪川いね子/佐多稲子に三度出くわした。 )において、高杉一郎著、『極光のかげに、 シベリア俘虜記』を読んだら、インテリ兵が窪川いね子の無節操を非難する場面があったと書いた。長いコピペは上記リンク先にあるが、一部を再掲すると;

「僕なんか気の利かない学校教師だから、いつもバスに乗り遅れてばかりいるけどね、人間の思想的変貌というのはどうなんだろうな。突然そう言ってもわからんかもしれないが、例えば窪川稲子ね、いつか 『日本新聞』に、彼女がマッカーサー司令部を訪問したという記事があったろう。窪川は『キャラメル』工場からで売り出したいわゆるプロレタリアート作家 だ。それが、戦争がはじまったら陸軍報道部あたりの金で南方に行って来てさ、そうかと思ったら、こんどはまたあの記事だ。いったい、彼女の立場というの は、どうなんだい?」
 なにごとについても歯に衣をきせない江戸っ子気質の川上が、ばっさりと斬ってすてるような放言をした。
 「女給というものは、新しいお客が入ってくるたびに笑顔を見せなければならないのさ」

といった風。

この場面を、おいらは、これは絶対創作だろうに違いない、と思ってしまった。ちなみに、創作とおもった第一の理由は、「「僕なんか気の利かない学校教師だから、いつもバスに乗り遅れてばかりいるけどね」のくだり。時流に乗り遅れている教師の自覚というのは創作者じゃないと気づかないのではないか?と思ったからだ。まずは、時流の乗り遅れる教師の対極にあるものとして時流に乗って世渡りがうまい作家という理想形がある。その理想形をさがすと、いた! つまりは、その理想形として窪川が選ばれたのではないか。事実に即して。事実、窪川いね子は、プロレタリア文学作家であったのに今では従軍作家であった。こういういきさつで、このある教師のインテリ兵士が無節操な知識人を揶揄・罵倒したという場面をつくったのだとおいらは思った。

違った。実話だと、高杉一郎はいうのである。高杉一郎、『往きて還りし兵の記憶』に書いてあった。この『極光のかげに、 シベリア俘虜記』が掲載された雑誌が発行されてまもなく窪川稲子から怒りの手紙が高杉一郎のところに来たとのこと。

高杉はおっとり刀(?)で住んでいた静岡から(?)上京。東京といっても、北多摩郡。窪川の家をアポなしで訪問、弁明しようとした。でも、結局許してもらえなかった。

なお、窪川稲子の具体的な怒りはかかれていない。ただ、「女給」という表現が問題であるとのことは書いてあった。そして、「女給」という表現を使ったことの妥当性を高杉は述べている。

ところが、一番肝心な点であろう知識人の節操ということ、つまりは窪川がなぜ軍部の仕事を受けて南方に行ったのか?という疑問は高杉一郎によっては全く探究されていない。ただし、宮本百合子が”『キャラメル工場より』を書いた窪川稲子、『くれなゐ』を書いた窪川稲子が、侵略戦争のために協力するということは会得できないことであった"に文章にはじまり窪川を分析している文章を引用して、宮本百合子が心をこめて窪川を批判していると高杉は書いている。

結局、高杉は窪川と和解することができなかった。

 さらに後日談がある。1956年。高杉が窪川と決別して5年ほど後。静岡市で開かれる講演会に畔柳二美と窪川稲子が講演者となる予定だった。しかし、二人は静岡に先立つ九州での講演会の後、物見遊山に興じるため、静岡での講演をドタキャンしたらしい。畔柳二美本人がその事情の文章を発表したらしい。その事情を知った高杉一郎は;

私自身はこの事件の直接の被害者ではなく、ただの傍観者でしかなかった。しかし、これは普通の市民道徳から考えただけでも、ゆるせないと思った。そこへたまたま雑誌『新日本文学』編集部が私に原稿をもとめてきたので、私は「サボタージュについて」という文章を書いて送った。
 私は東京から一通の手紙を受け取った。差出人はまだ一度もお会いしたことのなかった古在由重で、「よくぞ書いてくださった」という鄭重な手紙だった。 (高杉一郎、『往きて還りし兵の記憶』)

 


今日知った言葉; 殻斗 (かくと)=いわゆるどんぐりの「椀」

2015年08月25日 19時53分39秒 | 草花野菜


 - 一切の執着を捨て去ったものども -

まだ生き残りの蝉が発声にがんばっている今朝、もう半袖もおわりかな?と感じるくらい涼しかった。

そして、おいらは、どんぐりが足許にわらわら落ちていることに気づく。

その個体数は、亡骸となって無残にさらされている蝉より多いではないか。

どんぐりたちは、下に放たれているのだ。

しかも、みんな「帽子」被っていない。おいらは帽子をかぶったどんぐりが好きだ。

こやつらの帽子はどうしたのだろう?

その疑問を解消するために、そもそものやつらの出自を見上げた。

帽子は樹木本体に残っているのだ。

これは「帽子」ではなく、放下(ほうげ)[google]の発射装置だとわかる。

すごいな、どんぐりたち。

さて、この「帽子」は殻斗(かくと)と命名されている、とググって知った。Google [殻斗]

 


知らない猫、初めての訪問

2015年08月23日 18時58分25秒 | ねこ

ふとベランダの窓を見ると、知らない猫が、おいらを見ていた。

首輪がついているので、飼い猫なのだろう。

人に馴れているらしく、すぐには脱兎のごとく逃げなかった。

これで、こやつは、猫のぬいぐみを被ったうさぎではなさそうだとわかった。

網戸を開けてデジカメでちゃんと撮ろうとしたら、ゆっくり去っていた。やはり、ウサギではないのだ。

なお、愚猫どもはおらず、スクランブル迎撃発進がなかったので、こういういきさつ(知らない猫がおいらをガン見)になった。

なにやってんだか!? 愚猫防衛隊。


▼ ぎょっ!

「大日本帝国臣民」と書かれた身分証は国連にも認められている (google)

台湾桃園に「大日本帝国再建政府」、1000人を超える「臣民」―中国メディア (Yahoo ニュース

誰か、持ってますか?「大日本帝国臣民」身分証。 (ねぇ~よ、そんなもん)

なお、全然関係ないですが、

米穀通帳が廃止されたのは中曽根内閣の時。1980年代。おそらく、みんな「闇米」を買っていたのだ。

1980年に大人だったみなさん! 持っていましたか?、米穀通帳

 


新しい街でもぶどう記録;第43週

2015年08月22日 17時32分18秒 | 草花野菜

■今週の看猫

■今週の武相境斜面

■ 今週の愚民党、あるいは、今週の「万引き学派」

西部邁に感化された人は多いらしい。あの"偽「リベラル」"狩りの「リベラル」である井上達夫も感化組とのうわさ(google)。

その西部邁の弟子筆頭が佐伯啓思( 関連愚記事群 )。西部に万引きも教わったのだ。

ニュース: 自民党の武藤貴也衆院議員(36)=滋賀4区=は19日、未公開株購入をめぐる金銭トラブルが発覚google


https://twitter.com/tonton1965/status/628407613852495872

いや、思い出した。三十三歳にもなってから、自分が一度だけ万引をやったことを。そのころ、東京大学助教授であった私は、娘と息子が立て続いて生まれ、貧乏といってよいような生活をしていた。しかし私のところにきていた四、五人の大学院生はもっと貧乏で、そばで聞いていると、食べ物についての心配話が多い。で、御茶ノ水の飲み屋に向かう途中、乾物屋の店先で何点かの食料を万引してみせ、「男たるもの、是が非でも必要なものについては、心配する前に、法を犯してでも獲るべし」と宣うたわけだ。彼らは、今、あちこちで押しも押されもしない大学教授をやっている。私のなした大学院教育のなかで彼らの記憶しているのはこの件くらいであるらしい。それにたいして私は、法治と徳治のあいだに深い溝があるということを教えることができただけでも満足だ、と居直っている。 (西部邁、『寓話としての人生』)


「男たるもの、是が非でも必要なもの(=金銭@愚民党の一番大切なもの)については、心配する前に、法を犯してでも獲るべし」

ってか、まずは、おまいが、正気をとりもどせ!

■今週の「おめぇ、さしづめ [1] "侵略者"だな!」


「戦わないのが、この国のあり方」 山田洋次監督、安保法案を批判

ニュース: 山田洋次 戦わないのが、この国のあり方 (google

[1] さすずめ:てめえ、さしずめインテリだな (google)

おいらは、われらが日本が再び戦争をできる国になることを願っている。  なぜなら、戦争する権利=戦争しない権利を有し、「つまり共同体の運命の主人公として、滅びるのも栄えるのもすべてそれを自分の意志に由来するものとして引き受けるという覚悟」(江藤淳、「 「ごっこ」の世界が終ったとき」、『一九四六年憲法―その拘束』に収録)を持って生きた方がいいと信じるからである。

日本が戦争できる国になることに反対であるいわゆる「平和主義者」は、「"侵略者"」(現在日本政府公認:村山談話@1995)が多い、とおいらは高校生の頃から気づいていた。

おいらはとらさん映画とか見たことないし、山田洋次さんについての詳細をしらなかった。なんだ、日帝植民地支配者だったんじゃないか!子供だけど。そして、知ったさ。東大法学部、文化勲章! すごいね、文化勲章もらってんだ。とらさん映画で(?)。つまりは、天皇主義者ってことだ。この点孫崎享さんと一致する(愚記事; 「侵略と植民地支配」の張本人@子供の孫崎享さんは、一体、何に対して「点」を稼いでいるのだろうか?)。

でも、彼ら安倍政権に批判的な反体制表現者たちが天皇主義者であっても何ら不思議はないのだ。なぜなら、 孫崎、山田さんら"引き揚げサヨク"は、実際は、「日帝植民地支配者」の息子たちであり、一方、かのひとこそが大元帥の息子だからだ。彼らは、自分の親の所業に直面しないことで、戦後をお気楽に過ごしているのだ。偽善的な謝罪と反省を処世の武器にして。


 聖家族!元大元帥を中心に。 愚記事;アルカイーダ→ポチ・相転移  より

孫崎享さんとか山田洋次さんとか、表現活動が旺盛は御仁は、余力を使って、なぜ自分の親が日帝の「侵略戦争と植民地支配」(村山談話)の尻馬に乗ったのか、調べて報告したらいいのではないか? 「戦わないのが、この国のあり方」なんて将来の日本についての傲慢な断定ではなく、自分の足跡、そして自分が一番よく知っている親の足跡を調べて報告すればいいのだ。その方がよっぽど日本の将来にためになる。なぜなら、現在の日本で、日帝の「侵略戦争と植民地支配」(村山談話)の尻馬に乗ったお調子者どもの情報が欠如しているからだ。

すべて、「ファシストと軍国主義者」のせいになっている。

■ 

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(無題)

2015年08月18日 20時09分41秒 | その他

あー、疲れた。 11時間の賃労働だ。

でも、武相境斜面に来て、少しは、落ち着いた。

冬は辛かった。新しい仕事に順応するために。

やっと、春からルーチンで実験データが出るようになった。

今から思えば2月はブログをやる余裕もなかったのだ。

転勤した11月から始めた実験大系は、未経験分野。

実験装置のくみ上げから苦労した。

おいらは、今だに、ドクターの学生みたいことをやっているのだ。

■ 2月は購書の余裕もなかった。

最近は少し買っている。

昨日は、改造社の戦時中の雑誌『時局雑誌』を発注した。

高杉一郎(愚記事群)が編集者だった雑誌そうだ。

なお、改造社が戦時中に横浜事件で潰れたことは知っていたが、その横浜事件の容疑となる細川論文はこの『改造』より前の号だったと知った。

さらに、横浜事件では改造社の山本実彦社長自身も「連日辛烈な取り調べを受けた」(朝日新聞1945年10月9日記事"「中央公論」「改造」解体の真相")らしいが、wikipediaには記載されていない。


1945年敗戦時、共産党出獄組の「マッカーサー元帥万歳!」について

2015年08月16日 21時52分54秒 | 日本事情

敗戦直後、マッカーサー占領米軍と共産党が蜜月であったことはよく知られている。そして、1950年にレッドパージ=共産党追放で、占領軍の権力によって共産党は迫害・追放される。選挙に当選していた議員も公職追放なのだから、これは "「日本軍国主義」もやらなかった暴挙" だとおもうのだが、今日ではそんなに回顧されていように思う。日帝時代の治安維持法は悪魔の如く呪詛されるが、マッカーサーはそんなに怨嗟の的にはなっていない。

つまりは、共産党は占領軍に使い捨てにされたのだ。占領下で「自由」があると思うのが大間違いであったのだ。

さて、敗戦時の蜜月は、1945年10月10日に始まる。秋は月!。獄中にあった共産党員、(正確に言えば当時共産党は壊滅して組織が存在しないので「元」共産党員)、のうち府中刑務所組は1945年10月10日に出獄した。この出獄は占領軍・マッカーサーによる命令であった(民権自由に関する指令 [google])。

この共産党員の出獄は有名で画像も残っている。徳田球一、志賀義男などこの後日本共産党の指導者となるお歴歴の釈放だった。

 
政治犯釈放で一団となって府中刑務所を出る徳田球一(左から2人目)、志賀義雄(同3人目)ら共産党員 1945年10月6日 東京・府中刑務所で。 (なお、日付については最後尾の註を参照のこと) 
ソース: http://showa.mainichi.jp/news/1955/07/post-dc11.html

この時、共産党はアメリカ占領軍を「解放軍」と認識、喧伝した。その文書はパンフレットとしてあるらしい。

さて、今日の記事を書いた理由は、おいらは、徳田球一、志賀義雄らが出獄した時、「マッカーサー元帥万歳!」と叫びつつ出獄したというイメージを持っていた。上記画像の場面でのことなんだろうか? この徳田球一、志賀義雄らの「マッカーサー元帥万歳!」の史実はどうなんだろう?とその根拠は何だろう?と素朴に思っていた。

最近知った。あった。 平林たい子の『宮本百合子』にこうある;

 (=10月9日に網走刑務所を出獄した宮本顕治:いか@註)より一日あとで府中刑務所を出た徳田球一や志賀義雄らは、外にいる人達の奔走でととのえられた再建共産党を手みやげに、お祭りさわぎで迎えられた。
 示唆運動さながらの行進の周囲では、タブロイドのリーフレットが一部五円でとぶように売れる景気のよさだった。彼等のリーフレットには進駐軍を「解放軍と規定する」とかいてあった。彼等はマッカーサー司令部の前で、マ元帥万歳をした。徳田もまた在獄十八年からの復帰第一声に、アメリカ軍の好意を感謝した。
 アメリカ軍との蜜月はしばらくつづいた。彼等は占領軍の微妙な戦術におどって、虜に感じる快さだけで、アメリカ軍に対していた。伊藤律や伊藤憲一などは、マ司令部に入り浸った。 (平林たい子、『宮本百合子』)

彼等はマッカーサー司令部の前で、マ元帥万歳をした。」とある。そうか、徳田球一、志賀義雄らが出獄した時、府中刑務所から、都心まで出て来て、皇居お堀端の第一生命ビルのマッカーサー司令部に釈放感謝のあいさつに行き、そこで、「マッカーサー元帥万歳!」とやったのか、とわかった。

でも、この平林たい子の記述の根拠は何か? この平林たい子の記述を知ったあと、ググった。

あった; 

日本共産党の創立メンバーで麻中刑務所に収監されていた徳田球一と志賀義雄らは、一九四五年十月十日、解放される前に『赤旗』復刊第一号を外部の印刷所で刷りあげていました。 ... 街頭デモに移り:マッカーサー司令部前で万歳を叫んで解散した」(『朝日新聞』一九四五年十月十一日付

『ひと目でわかる「GHQの日本人洗脳計画」の真実』(Amazon)という本に情報ソースが記されていた。(この本の本文もネットで見れる→ここ)なお、著者の水間 政憲さんという人は「事実」に基づく歴史の再認識を主導されている人らしく、おいらも、YouTubeで見たことがあった。

つまりは、徳田球一、志賀義雄らの共産党のデモ隊がマッカーサー司令部で「マッカーサー万歳!」とやったという史実の根拠は朝日新聞の記事ということになる。

朝日新聞の記事なのか、それじゃ抜粋縮刷版(「朝日新聞に見る日本の歩み(昭和20年-21年)」)で確認すればよいとおもい、おいらはみた。

昭和20年10月11日の朝日新聞。見出しは;出獄者歓迎、 共産派の気勢。 

本文(冒頭一部)は;

解放運動犠牲者救援会、朝鮮政治犯釈放委員会などの主催による「出獄戦士歓迎人民大会」は十日午後二時から芝区田村町飛行会館五階講堂で行われた。会場には赤旗が立ち「一切の戦争犯罪人を処罰せよ」「人民共和政府樹立」などのビラが貼られ聴衆約千人、その中には多数の婦人が含まれていた(中略)
 ついで赤旗を先頭に雨の街頭をデモに移った。なお徳田球一、志賀義雄等はこの日府中の拘禁所より出獄したが、獄内の様子陳情のため直ちに米軍第一騎兵師団に出頭、結局この大会には参加しなかった。

とある。「マッカーサー万歳!」の記述は見つけられなかった。別の朝日新聞の記事に「マッカーサー万歳!」のことが書いてあるのだろうか?

 
1945年(昭和20年)10月11日の朝日新聞記事

■ なお、上記出獄時の画像の説明で釈放が10月6日とある。毎日新聞はネット上でそう云っているのだ。一方、朝日の当時の報道では釈放は10月10日である。こういう基本的な事実も合っていない。 いろいろ、難しいな、史実。 


新しい街でもぶどう記録;第42週

2015年08月15日 20時03分36秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の「負けてよかった」。

(関連愚記事: ① 自分の父祖達が以前 自ら負けてよかったと言うような戦争をしたのだ と聞かされたものだった(愚記事)、②自ら負けてよかったと言うような戦争をしたのだ; 陸軍幼年学校編  (愚記事) )

ニュース: 従軍作家・火野葦平の新資料発見

終戦から3か月後、アメリカから聞き取り調査を受けていたときの記録。

昭和20年終戦を迎え、その3年後、火野は著作を通じて戦争に加担したとして公職追放されました。 その後も、「戦犯作家」という批判を受けながらも、「花と龍」など新たなベストセラーを出すなど執筆活動を続けますが、53才で自殺しました。

8年にわたりみずから体験した戦争。 火野は聞き取り調査の記録の中でこう総括していました。

「結果から見ると今では負けた事が却って国民にとって幸福だと思っている」。

聞き取りに対し、「結果から見ると今では負けた事が却って国民にとって幸福だと思っている」と言ったとされるのが敗戦三カ月後。この時点で、火野は、この後、「戦犯作家」として吊し上げられ、結果、自殺に追い込まれるとは思わなかったのであろう。

■  今週のおバカ; 遺書なぞ根拠にせずとも


Google: 細川護熙元首相「祖父、近衛文麿の“遺書”が裏付けた侵略戦争

遺書によらずとも、近衛文麿が大日本帝国を亡ぼした最大の責任者であることは明らか。昭和12年以降の大陸での中国人の戦争被害の最大の責任もこいつ。理由は;

・国家総動員法成立
・大政翼賛会成立
・日独伊三国同盟
・支那事変&暴支膺懲&国民政府を相手とせず
・仏印進駐;対米戦を不可避にする

問題は「侵略」ということだけでなく、近衛文麿が日本史上最悪の政治家であること。そして、そのことが、なぜかしら、国民にはそう受け取られていない。

東条英機を怨嗟の的とする大衆世論と対照的。

今だに、近衛文麿が人気だったりする。そして、亡国のその一族は の さ ば り)、孫は(賢明なる選挙民の支持と承認に基づく良識なる代議士の選出により)総理になっている。何て国なんだ?!と、おいらは、素朴に思う。

そして、細川護熙は大衆に人気があった。近衛文麿のように。

こういう自分だけがわかってるような物言い、最低ですね。

さて、遺書のどのような文言が「侵略」を裏付けるのか説明がない。

おいらは、別に日本が侵略していないとか、日本はちっとも悪くないと主張しているのではない。大日本帝国は失敗し、敗残したのだ。やったことは、「侵略よりもっと極悪な何か」である。だって、侵略というのは目的があってやるのだろう。例えば、その地域を支配して統治するとか。支那事変って何だ?何がしたかったんだ?内地に残ったのは近衛師団と第七師団(旭川)だけだったという。何をしたかったんだ?支那人殺しの快楽殺人をしたかったのか?戦争は政治目的を達成する手段である。目的は何だったんだ?もし目的が明確化していたとして、そして、その目的達成の現実味は?

戦争は政治目的を達成する手段である。 その政治の責任者が近衛文麿であったのだ。

こういう記事も特に遺書の文言も検討せず「お殿様」の言い分を一方的に垂れ流す新聞もバカだな。なお、細川護熙は米英撃滅国民大会を(他の大手新聞社と共に)主催した朝日新聞の記者であった(愚記事)。亡国が好きなんだよ。

なお、細川護熙って、おそらく、「自分は祖先の過ちを直視できる立派な人間。こういう負の遺産を背負うことこそ貴族なのだ。一方、過去に目を背け、侵略を侵略と認められないのは弱い下司な連中なのだ!」くらいに思っているのだろう。エリート主義だ。傍からみたら、大嗤いだけど。

近衛文麿の“遺書”が裏付けた侵略戦争。 違うんだよ。近衛文麿は「侵略とは違うもっと極悪」を成したのだよ。それに目を背けているのだ。「侵略とは違うもっと極悪」に目を背けたいために、軍部や東条英機が人身御供になっているのだ。


ふ み ま ろ; 盧溝橋事件の三カ月前

■ 今週の転調;グローバル化礼賛の終焉

幸福度を統計的に測るということ自体がばかばかしいとおいらは思うのだが、この結果に下司なおいらは、ざまぁと思ってしまった。

政府の諮問会議に参加しているある有識者は、シンガポールで金持ちがフィリピン人など(低賃金労働者)のベビーシッターを自由に雇えるように、日本もそういうことができる法整備をしろ!と主張している。あの話はどうなったのだろう?

Google: シンガポール「幸福度」世界最下位 アジアで最も豊かなはずが

シンガポールは、全く、日本とは違う文明である。よきにせよ、わるきにせよ、である。やはり、ぬっぽんの「上等正規構成員」は(農業従事者という意味での)ヒャクショーを中心とする庶民である。『なぜ我々は田舎にとどまるのか?』 [google] を読まずしてのローカリスト&ファシスト である。  シンガポールというのはお金を求める流れ者どもの集積地ではないか!とローカリストは考えているのだ。  なにより日本は自生的社会 (自生的秩序) [google]である。死ぬ時だって事前に詩の準備が必要だ(辞世的社会!)。一方、シンガポールは a fabricated nation (技巧的人造国家) である。 (愚記事再掲)

タムコー(田村耕太郎)が行くところだもんな。あわてる乞食は貰いが少ない。陽の当たるところばかりうろつこうとする奴は、幸せになれない。

おいらは、流れ者として鳥取に住んでたけど、いいところだったよ(関連愚記事;駄経(だきょう)寺町

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