いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第372週

2021年12月25日 17時06分38秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第372週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の富士山

■ 今週の花実

レモンの季節らしい。

■ 今週の月

■ 今週の灯油価格

灯油価格は上がっていない。

■ 今週の航空機

■ 今週の置き去り

■ 今週の三田評論

 

『三田評論』がある待合室で、『三田評論』をみた。それは、偶然、2021年2月号であった。その号に、齋藤秀彦、「●福沢諭吉をめぐる人々●  その53 大童信太夫」があった。これは、愚記事;「門閥に介入する諭吉; 福沢諭吉、『福翁自伝』の東西伊達家に関する記述への註、そして疑問」において引用したものだ。ネットで見られる。

三田評論 ONLINE

■ 今週の「支那」満載

<荊の簪を挿した御方>さまが借りてきた、佐野洋子の『北京のこども』を読んだ。「100万回生きたねこ」の題名だけを知っていて、内容は知らず、著者の佐野洋子についても全く知らなかった。この本、『北京のこども』はとても読みやすかった。短い文で、詩のように、自分の幼少体験を描いている。その場所が北京なのだ。なつめの木の広場や水売りと云った何気ないが、北京は大陸の街であることの象徴で綴られている。自宅となつめの木の広場が自分の<世界>で、その外への冒険など幼児の世界観が描かれていて、そうだよなと思う。野垂れ死んでいく乞食、傷痍軍人への慰問などの話も出てくる。そして、お手伝いさん、当時でいう女中である阿媽の思い出がたくさんでてくる。が、名前はない。なお、今、「阿媽」をググると「中国・インドなどの東アジア圏において、外国人の家庭に使役された現地人の召使を指す語。乳母またはメイドに相当する」(ソース)とあった。外国人の家庭に使役という条件がある言葉らしい。そして、このお話の最期で北京から大連に引っ越すとき、この阿媽がどうなったかは、書かれいない。

Amazon

『北京のこども』には、支那人、支那服、支那靴という言葉で出くる。現地の人は常に支那人と呼称される。ただ、ひとつだけ「中国人の女学生」という表現があった。なぜここだけなのか、わからなかった。

さらには、支那猫という言葉は出てこなかった。猫は「にゃん」という。だから、支那猫=しな・にゃん==死なニャン。支那猫が出てこれば、「100万回生きたねこ」(wikipedia)とつながってうれしかったのだが。

▼ 愚ブログに現れたる「北京のこども」

■ 今週の購書 (ブックオフ)

文庫本(ヘーゲル、精神現象学 下)より上の4冊が110円。この文庫と最下段の本はAmazonでの送料込みの値段より高かった。ブックオフは300円以上の値段の通販より安いか判断は難しい;その場でスマホで確認しないかぎり。

▼ 小泉信三、『福沢諭吉』。この本の存在自体を知らなかった。110円なので躊躇なく贖う。今年は、諭吉の「学問のすすめ」など基本書を読んでいる。動機は、なぜ奴隷制のある(諭吉訪米当時)のアメリカ、奴隷主が創った国アメリカ、先住民を駆逐・虐殺して創った国アメリカを「文明」なぞと認識していたのか知りたいからだ。こういう状況でブックオフに行くと、小泉信三、『福沢諭吉』を見つけた。

小泉信三は「天皇の師として、自由主義者として」という惹句(小川原正道)で飾られるが、おいらの関心亊はこれだ;

小泉信三は戦時中の慶応の塾長であった。上記のように激情的「攘夷」になったとのこと。激情的「攘夷」は諭吉が最も嫌ったものにほかならない。学生を戦場に送る立場であった。戊辰戦争のとき、上野の戦闘を「紅旗征戎吾が事に非ず」と講義を行った諭吉のような贅沢は与えられなかった。というか、諭吉もやらなかった政府への参画を「内閣顧問」として行っていたと清沢の証言でわかる。

慶応の塾長なら、国が決めた戦争だから従事しないわけにはいかない。ただ、せめてスポーツに参加するように淡々とルールに則り従軍すべし」くらいですましておけばよかったのに、「米国の奴隷」とか叫んでしまったらしい。その小泉信三が書いた諭吉の伝記。冒頭、諭吉の生没年とヴィクトリア朝時代が一致するとの指摘。なるほど、そうだ。ということは、諭吉が没した時、漱石はロンドンにて、ヴィクトリア女王の葬列を見送り、その後、『三四郎』で亡びるねと広田に言わせた日本は、諭吉の没後50年もたたず亡びるのであった。何なんだった、文明開化ってことだ。

ところで、戦中の言葉と戦後の行動を整合させると、小泉信三は米国の奴隷となって天皇の師となり、自由主義者であったことになる。

▼ 宇野重規、<私>時代のデモクラシー

110円なので躊躇なく贖う。関心事は南原繁。この本、「<私>時代のデモクラシー」は、南原繁とは関係ない。でも、宇野重規は南原繁を研究中とのこと。これから、著作がでるのだろう。さて、南原繁。

「南の洋(うみ)に大き御軍(みいくさ)進むとき富士が嶺白く光りてしずもる」

「ひたぶるの命たぎちて突き進む皇軍のまえにABCD陣空し」

と、対米開戦時に歌ったとのこと(子安宣邦、『「近代の超克」とは何か』より)。対米戦争開始に狂喜しているのだ。

昨日、今日、対米開戦80年で、巷では「負けるとわかっているはずの戦争という愚かなことをなぜしたのか」という惹句で横溢している。たんと反省する利口な人たちの「素朴」な疑問だ。でも、この素朴な疑問に対する小泉信三や南原繁の御解答が見当たらない。おいらの調査不足なんだろうか?

という背景で、南原繁信者の本を眺め始めたのだ。

■ 今週の購書 (新刊)

 Amazon

現在起こりそうな、次の戦争は、予想外の形態となるのだろう。でも、考えられうる未来の戦争について知りたくて買った。真珠湾や南京の事例が書かれ、真珠湾を予想したバイウオーターの話などがあり、まずは読んだ。

▼翻訳者の奥山真司さんによると(少なからずの)原著での誤りが直されているそうです;

 


新しい街でもぶどう記録;第371週

2021年12月18日 18時20分33秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第371週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週のメタセコイア


東京都世田谷区

■ 今週の草木花実

■ 今週のお寺;豪徳寺

■ 今週の中止

「令和3年世田谷のボロ市」の中止について (世田谷区)

■ 今週の風俗習慣

世田谷区立郷土資料館の展示

奥澤神社の大蛇お練り行事(世田谷区 web site

江戸時代の中頃、奥沢の地に疫病が流行し多くの村人が病に倒れたことがありました。ある夜、この村の名主の夢枕に八幡大神が現れ「藁で作った大蛇を村人が担ぎ村内を巡行させるとよい」とのお告げがあり、早速そのとおりに実行するとたちまち流行疫病が治まったそうです。この言い伝えによって奥澤神社の例大祭に大蛇のお練りが行われるようになり、鳥居に厄除けの大蛇が飾られることとなりました。

■ 今週のレコンキスタ史跡訪問;用賀駐屯地

この建物群は敗戦前からあるかもしれない。下記、航空写真。左から、敗戦前、敗戦後、現在;

旧軍時代からの施設であれば、当然、進駐軍に接収された可能性がある。wikiには、占領軍に接収されたと書いてある。

旧陸軍衛生材料廠の跡地に位置し、米軍の接収を経て1963年(昭和38年)3月31日に開設され、陸上自衛隊衛生補給処が立川駐屯地から移駐。

敗戦後、占領軍のどの部隊が進駐したのかをネットで調べてみたが、わからなかった。東京を占領したのは、米陸軍・第1騎兵師団なので、「第1騎兵師団、用賀」= 1st cavraly division & Yoga でググった。出て来たのこんなんだ;

Thunder Horse 2-12というのは、1st cavraly divisionの2nd Battalion, 12th Cavalryという部隊らしい(wiki)。ヨガのトレーニングをしているのだ。

■ 今週のわけあり

熊本産(天水町など)。今季2回目(1回目)。やはり、味は濃く、あまい。

■ 今週の購書:ブックオフ

▼ 入江昭、『歴史を学ぶということ』を贖う。この本自体は知らなかった。入江昭の自伝、研究者人生の回想録。入江昭、1934年(昭和9年)生まれ。存命である。江藤淳の1歳下。入江昭の人生の詳細を始めて知った。

おいらが本というものを50冊、恐らく30冊も持っていなかった頃買ったのが、この入江昭、『日米戦争』だ。10代であり、まだ高校生だったと思う。そこに至った経緯。初めておいらが買った本は、忘れもしない、山岡荘八の『山本長官機かえらず』だ。小学校3,4年生の頃だ。テレビで見た映画で山本五十六の物語をやっていたのを見て、もっと詳しく知りたく、近所の紀伊国屋で買った。近所に紀伊国屋があったのだ。その後、戦記物をたくさん読んだ。何より、テレビでたまにやる実録第二次世界大戦とかいう実写映像を使った番組が好きだった。本は図書館で読んだ。中高生になると戦記物から歴史ものというか戦争への国際政治に関心が移り、図書館でその手の本を読んでいた。が、内容は「日本は侵略しました、虐殺しました」と日本を非難することばかりで、その原因や経緯も「軍部の台頭」に終始するものであった。今でいう「自虐的」、「反日的」な本ばかりであった。書名などは忘れた。そんな中、入江昭、『日米戦争』に出会った。図書館で。おいらは、この本で初めて詳細に、学術的に大東亜会議について知った。さらには、タイのピブン首相も出てきた。当時独立国であったタイは英米に宣戦布告した。日本軍のシンガポール陥落前だ。『日米戦争』は、こういう史実が書いてある本であった。この入江昭、『日米戦争』以外に、その後長らく、タイのピブン首相が書いている本を見たことはなかった。ただし、村嶋英治『現在アジアの肖像9 ピブーン 独立タイ王国の立憲革命』という本が1996年に出たそうだ(読んでない)。もちろん、入江昭は「右翼」でも「アジア主義者」でもなく、当時のアメリカ歴史学の主流派である「現実主義」、「権力政治主義」的、実証主義的な歴史記述だ。当時の日本の歴史学の偏向がひどいので、おいらには、入江昭が「右翼」に見えて、うれしかった。もちろんこれは誤読で、向こう様が迷惑である。

その入江昭の自伝であるこの本には、高卒後18歳で渡米してからの修行時代と研究者・教育者人生が描かれている。この本は2005年の本。なお、2014年に入江は『歴史家が見える現代世界』で、一国主義はだめで、地球人であるべきという思想の信者となった。

入江昭の研究人生は長く、年を経ると過去との距離感が変わるのがわかる。これは、おいらも実感する。すなわち、子供の頃、戦争は生まれる前の遠い昔のことと思っていたが、今から思うとその時点は敗戦後30年ほどなのだ。

入江(80歳)は『歴史家が見える現代世界』での思い出ばなしで、1969年の細谷千博との共同研究について、「終戦からまだ25年もたっていなかった」と書いている。

一方、44歳の入江は、1978年の『日米戦争』では、「日米戦争も遠い過去のものとなった」と書いている。1969年と1978年の9年間で急に日米戦争が過去に遠ざかるわけでもないとおもうので、44歳と80歳では過去との距離感が違うのだ。

▼ 栗本慎一郎、『全世界史 経済人類学が導いた生命論としての歴史』も買う。

前項の入江昭は11歳で敗戦を迎え、日米関係の再興を願うジャーナリストの父の勧めで渡米する。端的に端緒は対米敗戦である。一方、栗本慎一郎は4歳で敗戦。進駐軍やパンパンが行きかう渋谷で育つ。今から見ると、栗本はアメリカにこだわっていた。おいらが10代に読んだ『幻想としての経済』にある;

元来、均質な文化を持たないアメリカは、とくにアジアの有色人種に対しての他者理解の知的方法を欠いたのである。東京・渋谷にあったワシントン・ハイツを思い起こしてみるが良い。彼らは、異国を全くアメリカとして住んでいた。別の見方をするなら、面白いことが言える。もともと単一のパラダイムを持っていなかったアメリカは、他者(外国)を通じて、その体内の基地などに一つのアメリカを現出させしめたということである。

10代にこれを読んだはずのおいらは、ワシントン・ハイツの意味をわかっていないに違いなく、さらには、ワシントン・ハイツって何だろうとも思わなかったのだろう。たとえ、何だろうと思っても、ネットなぞない時代だし、学術用語でもなさそうなので辞典にも載ってないと思い、調べようがないと考えたに違いない。  

東京でパンパンを目の当たりにして育った栗本が、のち、アメリカに女を買いに行く、というかアメリカ滞在中に金銭を媒介に女と交際する話は『南部』に書いてある。

そんな、端的に端緒は対米敗戦に違いない栗本の生涯の主題は「白人」=ヨーロッパ文明の解明だ。こういう人と知っていたので、この『全世界史 経済人類学が導いた生命論としての歴史』を買った。

「トンデモ」の香りもするが、端的に、  

今は白人が世界の主流の位置を占めるわけだが、初期には逆に差別を受ける弱い立場だったことは間違いない。コーカサスをでなければならなくなった白人化したゲルマン人が、日照が少ない北欧にまず向かったことを白人となっていたからと考えるのは無理のない想定である。

などある。

■ 今週の購書;通販

『日米同盟半世紀』は2001年の本。半世紀とうたっているので、日米同盟は旧安保の時代も含むこととなる。すなわち、この認識だと内乱が起こると出兵してくる国との条約が「同盟」だということになる。もちろん、交戦権のない国が他の国を「同盟」を締結しうるという認識(現在日本の大多数の認識)である。安かった(200円)ので買った。

西部邁、『文明の敵・民主主義』をもっていなかったので買った。バイデンの民主主義サミットは、評判はよくない。自民党の外交部会長の佐藤正久さんも残念がっている YouTube。自分たちは民主主義だから偉くて、おまえらは権威主義だからうんぬんかんぬんとか、当世、通用しそうもない。何より、米国内が問題だ。さて、西部の民主主義批判の核心は同じだろうけど、「文明の敵」というものいいに惹かれ買う。

「文明の敵」=歴史=伝統の敵ということか。自生社会は、歴史的にできてきた習慣がある。民主制の名のもとに、自生社会を破壊すること、破壊しすぎることはやめろということか。例えば、1票の格差とか解消する必要はない。東京や横浜の流れ者(おいらもそうだ)より、先祖代々その地に慣習に従い暮らす鳥取県民の方が「偉い」ので、1票の価値が高くて当然だ、という考え。

 


東京散歩:東急世田谷線・宮の坂駅⇒ 豪徳寺⇒ 世田谷城址⇒ 世田谷代官屋敷⇒ 馬事公苑⇒ 用賀駐屯地⇒ 桜新町駅

2021年12月17日 17時49分55秒 | 東京・横浜

豪徳寺に行った。今年5月に訪問したが、開いてなかった。豪徳寺は何度も訪れているが、世田谷城址、世田谷代官屋敷は行ったことがなかった。今回の散歩経路とした。

 

1;東急世田谷線・宮の坂駅、2;豪徳寺、3;世田谷城址⇒、4;世田谷代官屋敷、5; 馬事公苑、6; 用賀駐屯地、7; 桜新町駅

■ 三軒茶屋

三軒茶屋は昭和の街だと気づく。

■ 宮の坂駅

■ 豪徳寺

井伊家歴代の殿様のお墓が並ぶなか、花が添えてあるのは直弼のお墓だけであった。

■ 世田谷城址

東京都指定旧跡 世田谷城跡 (ソース

大正8年10月 指定

〈所在〉 東京都世田谷区豪徳寺2丁目14番周辺

〈時代〉 中 世

世田谷城は、清和源氏・足利氏の一族である吉良氏の居城として知られています。貞治5年(1366年)に吉良治家によって築城されたと言われていますが、正確な築造時期は不明です。その一部、世田谷城址公園付近には土塁と空堀の一部が残されています。

世田谷郷が吉良氏の所領となった時期は少なくとも永和2年(1376年)以前であることは確実です。(「鶴岡八幡宮文書」) 

12世紀後半~13世紀前半にはこの地に吉良氏が領地をもっていたことがわかっています。しかしながら、吉良氏が「世田谷吉良殿」と呼ばれ、世田谷郷を本拠地としていたことが確認できるのは、その後の応永33年(1426年)になってからです。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めによる北条氏の没落に伴い、吉良氏は上総国生実(現在の千葉市)に逃れ、世田谷城は廃城となりました。

また、城内には吉良氏ゆかりの「弘徳院」(豪徳寺の前身)が存在していました。現在は、郭(くるわ)、土塁や空堀の一部をみることができます。最近行われた弘徳院境内と推定される地区の発掘調査で、空堀、土塁のほか、掘立柱建物、井戸、地下式坑などが発見されています。

■ ⇒ 世田谷代官屋敷

■ 世田谷代官屋敷

世田谷代官屋敷(せたがやだいかんやしき)は、彦根藩世田谷領の代官を世襲した大場家の私邸かつ役宅で、大場代官屋敷とも呼ばれる。現在の東京都世田谷区世田谷1丁目に置かれた。

大場家の屋敷は、はじめ元宿(世田谷区役所のあたり)にあったが、天正の初め(1575年)ごろに現在の場所に移された。現在の建物はその後、7代の盛政が1737年(元文2年)に立て直したものである。1739年(元文4年)に盛政が代官になった際にその私邸が代官屋敷となったため、世田谷代官屋敷は公の陣屋ではない[1]。

現在の敷地内には、後述する表門と主屋のほかに、お白洲の玉砂利が白洲跡として残され、世田谷区名木百選に選定された樹高19メートル、幹周り2.85メートルのタブノキも立つ。 (wiki

▼ 世田谷区立郷土歴史資料館

台地、段丘の模型展示がよかった。とても、わかりやすかった。

■ ⇒ 馬事公苑


むさしの森珈琲 世田谷オークラランド店  今年9月にオープンしたらしい。

 ベリーベリークレープをいただく。<荊の簪を挿した御方>様のおごりだ。

■ 馬事公苑

工事中だった。

■ ⇒ 用賀駐屯地

この建物が戦前からあるらしい。下、航空写真を参照。


左より、敗戦前、敗戦直後、現在の航空写真

同じ場所に同じ寸法で建て直したのかもしれないが。現在の建物がコンクリート製である。戦前にコンクリート製で建てたのか?ところで、六本木の連隊の建物はコンクリート製で、戦後も(東大物性研として)使用された。そういう事例もあるので、戦前からのコンクリート製兵舎なのかもしれない。

なお、この陸上自衛隊の用賀駐屯地は、国立医薬品食料衛生研究所と隣接している、というか事実上同じ敷地にある=両者の間に公道がないようである、とわかる。


google map

国立医薬品食料衛生研究所は知っていた。2017年に散歩したからだ。その時、こう考えた;

衛生材料廠跡の石碑があったので、日帝時代の軍の医薬品製造工場であったのかと思ったら、戦前から厚生省の管轄だった、とのこと。

今思うに、戦前から厚生省の管轄であったとしても、旧軍の敷地にあったらしい。やはり、2017年のおいらの勘はあたっていたのだ。ただ、2017年には用賀駐屯地に気付かなかったのだ。

今、こういう情報を見つけた;

旧陸軍衛生材料廠の跡地に位置し、米軍の接収を経て1963年(昭和38年)3月31日に開設[2]され、陸上自衛隊衛生補給処が立川駐屯地から移駐。1998年(平成10年)3月26日、中央補給処の統合・改編により、衛生補給処が陸上自衛隊関東補給処用賀支処に改編された。旧軍時代から衛生材料の兵站中枢として現在に至っている。 (wiki

やはり、旧軍の組織だったのだ。

国立医薬品食料衛生研究所のweb siteの沿革に下記あった;

昭和21年(1946年)には、神田和泉町の庁舎から世田谷区用賀に移転し、昭和24年(1949年)には、国立衛生試験所と改称

厚生省は昭和13年(1938年)に発足。敗戦で、旧軍の施設を引き継ぎ、この地に移転してきた。ところで、戦後、厚生病院というものがあった。これは旧軍の陸軍病院だの海軍病院だのを厚生省が引き継いだ病院である。なお、用賀の旧軍施設の厚生省以外の区域=今の陸上自衛隊の区域がどう利用されたか? 占領軍による接収されたと上記wikiにある。ただし、米軍のどの部隊が駐屯していたかなどは不明。もちろん、第1騎兵師団の一部だと思うのだが。

■ ⇒ 東急田園都市線・桜新町駅

メタセコイア並樹。2017年は新緑の季節だった。実は、国立医薬品食料衛生研究所=用賀駐屯地は、このメタセコイア並樹を見て、思いだして、ここの場所が、国立医薬品食料衛生研究所=用賀駐屯地と気づいた。

建物が、昭和である。

 

 

 


椿山荘訪問;山縣有朋の庭、東京都文京区関口

2021年12月12日 15時21分18秒 | 東京・横浜

常陸野に住む親類縁者と東京で会おうということになった。それでは、椿山荘での食事にしようと決めた。理由は椿山荘の庭を見物したかったからだ。椿山荘は元来山縣有朋の庭、というか一万八千坪の大邸宅であった。山縣の生前の1918年(大正7年)に「一木一石も旧観を失わないこと」を条件に藤田平太郎に譲渡される。現在は藤田観光のホテル椿山荘となっている。

今年は、春に京都の無鄰菴[A]、秋に小田原の古希庵[B]と山縣有朋の庭に行った。椿山荘はもちろん知っていたが、ホテルに用がないので、行く機会がなかった。なお、数年前は神田川沿いの冠木門から入って庭が見れたらしい。現在は、庭見物はホテル利用者のみとweb siteで云っている。

[A] 京都・無鄰菴再訪 2021年春 ;プロポーザル入札制度のあとさき
[B] 小田原散歩:古稀庵(山縣有朋 庭園)⇒ 皆春荘 ⇒ 小田原城

椿山荘は神田川の北の目白台地の東端の関口台にある。上記地形図の矢印で示す場所の局部的な開析谷を含む敷地が椿山荘だ。ただ段丘崖を含むだけでなく、小さな開析谷をもつ。ちなみに椿山荘の西隣が肥後細川庭園である。肥後細川家の戦時中の当主は細川護貞であり、近衛文麿の娘(温子)と結婚。すなわち、細川護貞は近衛文麿の娘婿であり、戦時中は近衛文麿の側近であった。現在、近衛家の当主は細川家からの養子らしい[1]。

つまり、このあたりは目白台地の端辺の段丘崖を利用した壮大な屋敷が並んでいたのだ。

[1]山縣有朋と近衛文麿。いうまでもなく、国を肇[はじ]めた公爵さまと国を亡ぼした公爵さまである。

■ JR目白駅

■ 椿山荘


Google map

上の航空写真で、北側(図の上)の棟(バンケット棟)から入る。


バンケット棟

料理屋がある「ホテル棟」まで渡り廊下を行く。


渡り廊下から見えた庭

▼ お昼ご飯  日本料理・みゆき[google]に行きました。

お料理をいただく。

■ そして、お庭へ


庭園で歩いた順番を①から⑥まで記した。⑥のあと、①に戻り、ホテル棟に帰った。以下写真での番号は上の道順の番号に対応する。

滝。水は段丘崖の湧水。椿山荘の隣から水を引いている。このような「派手」な水の流れは有朋のどの庭(無鄰菴、古希庵)にも認められる特徴。有朋は流れる水が好きなのだ。


椿山荘の航空写真。左より、終戦前、終戦直後、現在。

椿山荘が無鄰菴、古希庵と大きく異なるのは、戦災にあったこと。空襲[1]で椿山荘の建物はほぼ焼失。樹木も焼けている。ただし、三重塔は残った。

[1] 1945年(昭和20年)5月25日の空襲。この空襲では、椿山荘から神田川を挟んで1km離れた、漱石山房[C]も焼尽。なお、漱石は有朋より先に死んだ[49歳]。
[C] 東京散歩;早稲田・漱石山房記念館 ⇒目白・肥後細川庭園 ⇒雑司ヶ谷・宣教師邸 ⇒池袋

椿山荘、無鄰菴、古希庵の三庭のうち、椿山荘は一番古い。1877年(明治10年)だ。つまり、西南戦争の年だ。

明治維新を経て西南戦争の功により、元勲の山縣有朋は年金740円を与えられ、それを元手に1878年(明治11年)旧屋敷を購入。「椿山荘」と命名して趣味である作庭を行った。wiki

庭師は、岩本勝五郎。椿山荘についての説明がweb siteにあった;

明治11年、東京の本邸として有朋が、つばきやまと呼ばれていたこの地を購入し、その名にちなんで「椿山荘」と名付けました。南には牛込を越して宮城の森が見え、西に富士、北には筑波、東に房総の山々が見える絶好の丘に、自ら指揮して築庭し、約2万坪(東京ドームの約1.5倍)の起伏豊かな地形を巧みに生かし、林泉回遊式庭園を造り上げました。椿山荘は単なる築庭師では考え及ばない眺望雄大な名園として、いまも定評があります。当時、明治天皇をはじめ政財官界の第一人者がしばしば椿山荘を訪れ、重要会議を開いたと伝えられています。現在は、結婚式場「椿山荘」としてよく知られています。山縣有朋記念館


段丘崖を登る。


イベントの「雲海」

庭園の頂上に建つ三重塔は、元々広島県賀茂郡入野(現東広島市)の竹林寺にあった塔で、創建時期は明らかではないが、平安前期に小野篁が創建し平清盛が第1回の修復を執り行ったという言い伝えがある。大正時代に強風にあって三層目が大破してしまったものを藤田平太郎が譲り受け、1925年(大正14年)に椿山荘に移築し、三層目を復元した。太平洋戦争末期、1945年(昭和20年)5月25日の空襲で発生した早稲田の火災の際も、木立に囲まれた環境もあり奇跡的にも三重塔と御神木は焼失を免れた。wiki

東京雲海なる「パフォーマンス」。20分に1回、蒸気を噴霧して、雲海をつくる。ホテルweb site.

神田川の方へ

冠木門から来た道を引き返す。


庭からホテル棟に戻る。


ホテル棟から出る。


さよなら、椿山荘

 


新しい街でもぶどう記録;第370週

2021年12月11日 17時10分22秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第370週

■ 今週の草木花実


東京都文京区

■ 今週の庭

▼ 椿山荘

▼ 六義園

■ 今週の駅ホーム


渋谷駅

■ 今週の非濁音(清音)

ふたたまがわ

■ 今週の自衛隊

陸上自衛隊と米海兵隊による日米共同訓練「レゾリュート・ドラゴン21」が4日、青森県八戸市など国内各地で始まった。陸自第9師団(青森市)の第5普通科連隊を中心とした約1400人、米海兵隊員約2650人が参加。17日まで、対艦戦闘や空中機動作戦、攻撃ヘリの射撃などの訓練を行う。 (ニュース:陸自と米海兵隊による日米共同訓練始まる 八戸など全国各地で 三沢にオスプレイ

■ 今週の80年と40年、あるいは、折り返しの40年としての1981年

今週の2021年12月8日は対米英(蘭支)開戦記念日だ。


ワシントンのスミソニアン博物館のショップで購入

さて、おいらが10代だった1984年、日露戦争80年を迎え、当時の総理大臣の中曽根康弘さんは、自分がわかかった頃40年前の日露戦争なぞ大昔のことで実感がなかった。今の若い人が先の大戦(第二二次世界大戦)を実感がないというので驚いているが、自分の日露戦争に対する実感と同じなのだろうと云っていたと、おいらは記憶している。

ところで、中曽根内閣のこの時期(1984年)は、「日米同盟」はわずか5年なのだ。すなわち、日米首脳会談で公式に「日米同盟」が発表されたのは1979年5月2日に大平正芳首相がホワイトハウスで、ジミー・カーター米国大統領との会談においてである。

この「日米同盟」の実体は、1978年に三木内閣のもと出された「日米防衛協力のための指針」(旧ガイドライン)であった。1978年まで米軍と日本国自衛隊は共同作戦をすることが念頭になく、共同訓練を行われていなかった。一緒に「戦争」をしない者同士は、やはり、定義上、「同盟」ではないだろう。1978年に海上自衛隊のリムパックの参加により、日米共同訓練が始まった。

三自衛隊のうち、陸上自衛隊は最後であり、1981年に初めて、日米共同訓練を実施した。真珠湾攻撃から40年目である。

つまり、1978年以降の「日米同盟」時代は、日米共同訓練を実体としてもつ関係であるとわかる。

さて、自衛隊の米軍との共同作戦。指揮権とかどうなっているのだろうか?そもそも。「交戦権」がないはずの自衛隊との米軍の軍事作戦はどう運営されるのか?何か専門書に書いてあるのだろうか?

■ 今週の参謀総長、あるいは、中共と緊張関係にある国の軍トップの運命

インド空軍は8日、インド南部タミルナドゥ州で、陸海空軍を統括するビピン・ラワット国防参謀長とその妻ら14人の乗ったヘリコプターが墜落したと明らかにした。 インド軍トップを乗せたヘリ墜落、13人が死亡 事故とみて調査

ビピン・ラワット将軍(wiki

▼ 一方、去年;

2020年1月2日 17:42

【台北=伊原健作】台湾の国防部(国防省)は2日、13人が乗った軍用ヘリコプター「ブラックホーク」が同日朝に台湾北部の山中で墜落したと発表した。軍制服組トップである沈一鳴・参謀総長ら8人の死亡が確認された。軍などが原因究明を急いでいる。11日に総統選が迫るが、各政党は直近で予定されていた選挙運動を取り消した。台湾で軍ヘリ墜落、参謀総長ら死亡 総統選の活動一時停止

ちなみに、我らが「参謀総長」=統合幕僚長は、山崎幸二陸将です

■ 今週の分断:米国・デモクラシーによるリーさん分断


1923年生まれの李(リー)さんふたり

バイデン米大統領が111の国・地域の指導者らを招待したオンライン形式の「民主主義サミット」が10日、2日間の日程を終えて閉幕した。バイデン氏は演説で「専制主義国家は、世界中の人々の心の中で燃えさかる自由の炎を決して消すことは出来ない」と述べ、中ロを念頭に民主主義の優位性を強調。来年は対面式となる2回目のサミットを開く考えを示した。(ニュース:バイデン氏「専制国家は自由の炎消せない」 民主主義サミットが閉幕)

民主主義サミット(英:The Summit for Democracy)は、2021年12月9日から10日にかけてアメリカ合衆国の大統領ジョー・バイデンが主催した、Web会議形式の仮想サミットである。目的は「国内の民主主義を刷新し、海外の独裁国家に立ち向かうため」とされた 。主題は、「中華人民共和国やロシア連邦といった権威主義からの防衛」「汚職への対処と戦い」「人権尊重の推進」の3つであった 。wiki

このバイデン米国大統領による民主主義サミット(the summit for Democracy)の目玉は台湾の招致である。これは中共に対抗する意図をあらわにするものだ。一方、興味深いのは、シンガポールが招待されなかったと。シンガポールはグローバル経済の雄であり、一人当たりの経済力ではアジア随一である。そのシンガポールが招待されなかった。明るい北朝鮮と揶揄されこともあるシンガポールは、その興隆の一大原因はリークアンユーの「独裁」的な指導力にあった。リークアンユーは天安門事件で中共をい支持し、歴代の中共国家主席の指南役(メンター)であったとされる。その点、リークアンユーは台湾の李登輝とは、中共認識において、意見があうはずもなかった。その二人のシンガポールと台湾。今度、アメリカさまのお眼鏡に叶ったのは台湾であった。

▼ 火消にあわてる米外交筋

ダニエル・J・クリテンブリンク国務次官補(東アジア・太平洋担当)はシンガポールに赴き、シンガポールを民主主義サミットに招待しなかったことは2国間関係の見直しではないと表明。火消に躍起としか思えない。

世界の民主主義の「選ばれた数」が討議するものだと弁明しているが、参加国が100を超えるのだから、選ばれない方が少数派である。

■ 今週の「民主化」の果てに (この事例こそ「民主主義サミット」えで討議してもらいたい)

【カイロ=佐藤貴生】イラク駐留米軍は9日までにイラクでの戦闘任務を終了した。米英などで構成する有志連合軍のサイトで同日明らかにした。今後はイラク治安部隊に対する助言や訓練に専念する。8月末のアフガニスタンからの撤収完了に続く活動縮小で、周辺国への軍事的威圧を強める中国への態勢を整える狙いとみられる。

イラクには約2500人の米兵が駐留している。ロイター通信は欧米の軍事筋の話として大規模な兵力削減は行われない見通しだと伝えた。近年は米軍の戦闘への関与は減少していたとされる。(ニュース:イラク駐留米軍、戦闘任務を終了 IS、親イラン民兵などが勢いづく懸念も

米国の子ブッシュ大統領は2007年、イラク戦争と戦後処理についてこう云った;

ある晴れた朝、何千人もの米国人が奇襲で殺され、世界規模の戦争へと駆り立てられた。その敵は自由を嫌い、米国や西欧諸国への怒りを心に抱き、大量殺人を生み出す自爆攻撃に走った。

 アルカイダや9・11テロではない。パールハーバーを攻撃した1940年代の大日本帝国の軍隊の話だ。最終的に米国は勝者となった。極東の戦争とテロとの戦いには多くの差異があるが、核心にはイデオロギーをめぐる争いがある。

 日本の軍国主義者、朝鮮やベトナムの共産主義者は、人類のあり方への無慈悲な考えに突き動かされていた。イデオロギーを他者に強いるのを防ごうと立ちはだかった米国民を殺害した。

国家宗教の神道が狂信的すぎ、天皇に根ざしていることから、民主化は成功しないという批判があった。だが、日本は宗教、文化的伝統を保ちつつ、世界最高の自由社会の一つとなった。日本は米国の敵から、最も強力な同盟国に変わった。

 我々は中東でも同じことができる。イラクで我々と戦う暴力的なイスラム過激派は、ナチスや大日本帝国や旧ソ連と同じように彼らの大義を確信している。彼らは同じ運命をたどることになる。

つまり、イラクも戦後日本のように「親米」国家になると云ったのだ。

そして、結果が現状だ。 アラブ人は誇り高いので簡単には従属しないのだ。

■ 今週の隔世の感;米英豪加、2022年北京冬五輪を外交ボイコット


2008年の北京五輪

北京五輪開幕とともに「五輪グローバルサミット(首脳会談)」も幕が上がった。

五輪出席のため中国を訪れた90カ国100人の最高級のリーダーたちが「首脳外交戦」に本格突入したのだ。100人を超える首脳らが一堂に会する機会は国際外交の舞台でも非常に珍しい。 (ソース

13年前の北京五輪は100人ほどの各国最高首脳が集まったのだという。胡錦濤が浴した栄誉を、習近平さんは受けられないのだ。来年。プーチンとか以外大物は誰が来るのか?

さて、米英豪加はウイグル「ジェノサイド」など人権問題を理由に外交ボイコットする。しかし、米英豪加こそ先住民ジェノサイドで国をつくってきた連中だ。奴隷だって売買、使用してきた。カナダなぞ「ジェノサイド」の真実が最近も明らかにされ、未解明の案件もあるのだろう。興味深いのは、「ジェノサイド」というのはナチス・ドイツがやったガスチャンバーという方法に限らず、今日的方法があると指摘。その今日的方法を中共が使用していると批難している。つまり、「ジェノサイド」の概念を広げ、直感的にはユダヤ人大量虐殺的悪行をやっていると宣伝しているのだ。一方、「過去」の米英豪加の先住民虐殺はナチス・ドイツと同一視している気配はない。ただの人権侵害扱い。英豪のタスマニア人絶滅は、ドイツがユダヤ人さえできなかった、完全絶滅を行った。

なお、2008年の北京五輪にドイツのメルケル首相は外交ボイコットしている。それに対する米国の対応;

北京五輪の式典ボイコットは責任の回避=米政府高官

4月13日、ハドリー米大統領補佐官、チベット問題での中国への抗議のために北京五輪の式典をボイコットするのは責任回避と指摘。3月26日撮影(2008年 ロイター/Kevin Lamarque)

 [ワシントン 13日 ロイター] ハドリー米大統領補佐官(国家安全保障問題担当)は13日、チベット問題での中国への抗議のために北京五輪の式典をボイコットするのは責任回避であり、「静かな外交」よりも効果は低いとの見方を示した。

 ドイツのメルケル首相は先に、北京五輪開会式への不参加を表明したほか、ブッシュ米大統領やそのほかの各国首脳にも不参加を呼び掛けていた。

 これに対し、フォックス・ニュースでハドリー補佐官は、開会式への不参加を表明することでチベット問題に対応していると考えるのは責任回避だと指摘。

 また「チベットについて懸念しているのなら、われわれが行っている静かな外交に取り組むべきだ」とし、中国当局に対しては、チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世との対話を行うよう「静かに」圧力をかけるべきだとしている。


うるさい二人

■ 今週の「国際情勢は複雑怪奇」?、いいえ、昔のやり方です;

アメリカのバイデン政権を揺さぶる思惑もあるとみられる。

ロシアのプーチン大統領は6日、ニューデリーでインドのモディ首相と会談し、貿易問題などについて協議した。

また、これに先立って、両国間では初めてとなる外務・防衛閣僚級の協議も行っていて、両国は、軍事や安全保障での関係を強化する姿勢を示している。

インドは、アメリカや日本、オーストラリアとの4カ国の枠組み「クアッド」で連携する方針を示す一方、ロシアとの関係も良好。 (ニュース:ロシア・インドが首脳会談 2プラス2も実施 米日豪印クアッドの一方で

ロシアのプーチン大統領とインドのモディ首相が6日会談し、軍事や科学技術など幅広い分野で両国の関係を強化することで一致しました。
アメリカが懸念を示しているロシア製の地対空ミサイルシステムのインドへの移送が12月始まったことも明らかにされ、今後計画どおりに進めるとしています。(ニュース:ロシア地対空ミサイルシステム インドへ移送開始 ロ印首脳会談

インドは冷戦期には兵器の供給先をソ連に頼っていた。ソ連崩壊後、兵器の入手先がなくなることもあった。現在では、ロシアとの兵器貿易が復活しているとわかる(愚記事;杉原薫 『世界史のなかの東アジアの奇跡』 第12章 "戦後世界システムとインドの工業化" メモ

 


東京散歩;九品仏 ⇒自由が丘 ⇒田園調布 ⇒多摩川台公園 ⇒武蔵小杉

2021年12月05日 11時56分19秒 | 東京・横浜

九品仏の真浄寺参りは恒例となった(2019年12月2020年12月2021年5月)。紅葉がきれい、新緑もきれい。真浄寺のあとは自由が丘に出て、その後田園調布へ行った。有名なあの駅舎はみたことがなかったので、行った。田園調布は、地理的には、田園調布台地という下末吉台地の一部の上にある。そのあとは、多摩川台公園。これも、多摩川台地。多摩川に浸食されずに残った台地。でも小さい。その台地は古墳が列をなして存在する。そのあとは、多摩川を渡って、武蔵小杉へ。

1;九品仏駅、2;真浄寺、3;自由が丘、4;玉川田園調布交叉点、5;田園調布駅、6;多摩川台公園、7;多摩川浅間神社、8;丸子橋、9;武蔵小杉駅

■ 1;九品仏駅 ⇒ 2;真浄寺

■  ⇒ 3;自由が丘

自由が丘は道が狭い。街が造られた1930年代はこんなに車社会になると想定していなかったからだろう。

中央の航空写真は敗戦前、右は現在。

ピーコックストア自由が丘店の跡地

■ ⇒ 4;玉川田園調布交叉点

■ ⇒ 5;田園調布駅

田園調布の「高級住宅街」の西端。この先は谷だが、さらに西は多摩川台地。

宝来公園

■ ⇒ 6;多摩川台公園

谷を渡る。多摩川台地へ上る坂。


多摩川台公園の北端の入り口。

宝萊山古墳(ほうらいさんこふん/ほうらいざんこふん、宝来山古墳)は、東京都大田区田園調布にある古墳。形状は前方後円墳。荏原台古墳群(荏原古墳群)を構成する古墳の1つ。東京都指定史跡に指定されている。 

東京都南部、武蔵野台地南西部の多摩川左岸の台地縁辺部に築造された大型前方後円墳である。台地上では荏原台古墳群(荏原古墳群)の営造が認められており、本古墳は亀甲山古墳(国の史跡)とともに荏原台古墳群を代表する。古墳名の「宝萊」は古くから見られる名称になる。これまでに1934年(昭和9年)に土取りで後円部の3分の2が失われ、その際に埋葬施設が露出して副葬品が出土している。その他の墳丘残存部は良好に遺存している。 (wiki

この先、神社までずっと古墳群域(古墳マップは後出)を走る道を行く。


google map

▼ 多摩川台公園古墳展示室  (大田区web site

多摩川下流域左岸の台地上に分布する古墳時代後期の古墳群。6世紀前半に円墳の2号墳、その後2号墳を前方部に利用した1号墳(全長39mの前方後円墳)、以降3~8号墳(直径15m前後の円墳)が7世紀中頃まで継続して築造された。調査が行われた古墳の石室からは装身具や武器・武具、馬具、土師器、須恵器などが出土、墳丘からは埴輪が発見された。都指定史跡、2000(平成12)年指定。古墳マップ


古墳マップ  『大田区 古墳ガイドブック』というのが200円で売っていた。その中の地図。

■ ⇒ 7;多摩川浅間神社

四季の野草園・水生植物園(元調布浄水場跡地)

調布浄水場 ⇒ wiki 

荏原水道組合の浄水場として竣工した。原水は多摩川の伏流水を取水して砂ろ過のうえ、ろ過水は大田区の一部に送水していた。

多摩川台公園 ⇒ wiki

▼ 多摩川浅間神社

■ 8;丸子橋

■ ⇒ 9;武蔵小杉駅

■ まとめ;通過町

東京都
世田谷区 奥沢
目黒区 自由が丘
世田谷区 奥沢、玉川田園調布
大田区 田園調布

神奈川県
川崎市 丸子通、新丸子東

 


新しい街でもぶどう記録;第369週

2021年12月04日 18時50分09秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第369週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週のメタセコイア


東京都大田区

■ 今週の空

今週火曜深夜に雷雨。翌朝、晴れて、虹が出た。

■ 今週の草木花実

■ 今週の灯油価格:113円/1リットル

■ 今週の鉄条網

■ 今週の下末吉面


東京都大田区田園調布。このあたりは、下末吉台地の一部である田園調布台地。比較的小さな台地であるが、横浜から東京・港区に分布する下末吉台地の一部。下末吉台地の真ん中は多摩川に削られた。田園調布台地はその残存。まわりより高い地形となっている。だから、「丘の上の街」。1930年代に英国を模して設計したらしいが、なんとか(米国流の)ハイツにはならず、「田園」を称した。英国の「都市および農村の魅力を併せもつ理想都市「田園都市」の建設」に倣った。でも、田園調布台地は、水取得が難しいだろうから、耕作地に向きそうもない。江戸時代の土地利用はなんだったのだろうか?

さて、敗戦後、戦前からの高級住宅街であったこの地は、進駐軍に狙われたのだろうと推定して、ググるとすぐに出た;

焦土と化した東京におけるDDHH は,,「ワシントン・ハイツ」に代表される欧米の住宅形式を持ち込んだ「住宅地区」を主体とし、焼け残った田園調布における住宅接収も”洋風住宅”あるいは設備の整った近代住宅が接収の対象となった (占領期京都における接収住宅に関する研究

■ 今週の変


中変

■ 今週の逆光の中の七五三

東京都大田区多摩川浅間神社

■ 今週のかち割り

台湾は中国の神聖な領土で、他の人が勝手に手を出すことは絶対に容認しない。中国人民のマジノ線に挑戦すれば、必ず頭が割られて血が流れるだろう google 

自民党の安倍元総理大臣が講演で「台湾有事は日本有事であり、日米同盟の有事でもある」などと発言したことに対し、中国外務省は「極めて誤った発言だ」として、1日夜、北京駐在の垂秀夫大使を呼んで抗議しました。
これに対して、垂大使は「一方的な主張は受け入れられない」と反論しました。(ソース)

  
深夜に呼び出し、    頭かち割るゾ

■ 今週の購書

陸上自衛隊の幕僚長と海上自衛隊の幕僚長の顔写真が帯に。陸上幕僚長と海上幕僚長とは、旧軍で云えば、陸軍の参謀総長と海軍の軍令部長にあたる。対米戦争のときは、杉山元と永野修。それくらい偉い人たちなのだ。

で、本当に中国を「抑える」ことができるのだろうか? 核武装もしていない日本が、とおもい、買った。読んでみよう。

■ 今週の皺

洋梨、「ラ・フランス」の食べ時判断は難しいのではないだろうか?木っ端のように固いのが、数日で急にやわらかくなる。ネットで調べたら、ヘタ(軸)の回りの皺がよい指標(indicator)にあると知った。

ラ・フランスの食べ頃が、一発で分かる方法とは?

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