いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第368週

2021年11月27日 18時29分01秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん

■ 今週のUU・IP、百万:ブログ開設6358日で。

 

▼ 新しい街でもぶどう記録;第368週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週のメタセコイア

■ 今週の草木花実


つつじが咲いています。

■ 今週知ったこと;中共映画・「長津湖」とアメリカ第1海兵師団の死闘・敗退

 
よくみると、制圧した米軍戦車の上で雄たけびを上げているとわかる。

愚記事に「マ元のペット;第1騎兵師団 (1st cavalry division)、朝鮮戦争で苦戦(一部壊滅)し、主なき東京ではなく、札幌へ帰還」がある。つまり、1950年、金日成が38度線を越えて南侵し、朝鮮戦争を開始。釜山付近まで韓国軍を追い詰めたが、米軍を主とする国連軍が反撃、仁川上陸作戦に成功、北鮮軍を押し返す。さらには、38度線を越え北進した。そして、鴨緑江に迫る勢い。そこで、中共軍が北鮮領内に「援軍」を出兵させる。ついに米中激突。主な衝突点は上記記事の雲山と長津湖。この2口で米中激突。中共軍は雲山では第1騎兵師団を押し返し、長津湖では第1海兵師団(wiki)を押し返した。第1騎兵師、第1海兵師団ともに米軍の花形部隊だ。<おれたち日本>にとって、第1騎兵師は日本を占領しに来たし、第1海兵師団はガダルカナルからの敵であった。その両軍とも中共軍に、事実上、敗退したのだ。


出典:学研、歴史群像シリーズ61、『朝鮮戦争<下>』p64

1950年11月24日の状況図で米軍の攻勢最大。ここで、中共軍が出てくる。

今年、第1海兵師団と中共軍の戦いが映画となって、中共で盛況と知る;

中国で公開中の映画「長津湖」が16日、興行収入46億8600万元(約831億円)を突破し、中国映画市場における歴代ランキングで第4位に浮上している。

「長津湖」は国慶節(建国記念日)の大型連休をターゲットに、先月30日に封切られた作品。1950年末、北朝鮮・長津湖の周辺で発生した国際連合軍と中国人民志願軍の戦い「長津湖の戦い」を描くもの (ソース

この映画の営業は盛況とことだが、これ以前に一番興行成績がよかった映画は「戦狼 ウルフ・オブ・ウォー」であり、戦争映画ではあるが設定は架空の国であるとのこと(wiki)。つまり、今年、中共は史実にあった米中激突である長津湖の戦いを題材に選んだ。中共肝いりの「愛国」映画。米中関係の険悪化で、ついに中南海も腹を決めたということか。なぜなら、一般庶民に火を付けると制御できなくなる可能性があるからだ。でも、長津湖の戦いで確かに米軍を押しやったが、中共の被害も甚大だった。長津湖の戦いとは何だったのか?

長津湖の戦い(ちょうしんこのたたかい)は、1950年11月27日から12月11日にかけて、現在の朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道長津郡長津湖周辺で行われた朝鮮戦争の戦闘の一つである。国連軍と中国人民志願軍が初めて交戦した戦い。「長津湖戦闘」などの名でも呼ばれる。(wiki)

わずか2週間で米軍側1万人(以上)、中共側3万人以上(台湾筋は10万人に近い数字も出している)の死者が出た。米軍・第1海兵師団にとってガダルカナル、ペリリュー、沖縄と敵(<おれたち日本>)を大量殺害する戦闘を行ってきたはずだが、わずか2週間で数万の敵兵(中共軍)を殺した。中共軍の戦死者が増えた理由は、第1海兵師団の高装備の銃器、米空軍のナパーム弾による大量焼却に加えて、凍死である。実は、かなりの中共軍兵士は凍死したとのこと。中共軍は「義勇軍」と、これまで、称されてきたが、多くの兵士は国共内戦後、台湾の対岸防衛に従事していた南方の部隊であったとのこと。もともと国民党軍でありながら、中共軍となった兵士も多くいた。寒さになれない南方の兵士が大量に凍死した。

戦場となった長津湖は朝鮮半島北部であり、12月であるということに加え、標高1000メートルを超える高地であった。厳寒の中の戦闘だった。降雪もあった。米軍は進軍方向に対し左右に中共軍に逆進され、各部隊が包囲された。


長津湖の戦いは高地での戦闘

YouTube:ドキュメンタリー 長津湖の戦い で詳細がわかる。

■ 先週買って、今週食べた最中

 

バターの塩気がきいていた。あまじょっぱい味。宮城県丸森町の栄泉堂。

ゲランド塩を効かせたバターがクセになる、栄泉堂リピート率ナンバーワンの人気商品です。甘すぎるものが苦手な方からも好評な味わいに仕上がっております。」 (宮城県物産振興会

 

丸森町は宮城県の福島県と隣接する南端地域の伊具郡にあります。

■ 今週の訳あり

熊本産(天水町など)。味が濃く、甘かった。 ほんと、みかけによらない。

■ 今週知ったサービス

出品者と購入者がお互いの情報を知らせることなく取引が行えます。プライバシーに配慮した、安心な配送方法です。JP郵便局 e発送サービス

■ 今週の購書


今週買った⑤号と以前買った創刊号

崩壊の一歩手前の有様をわれわれは見ているのかも知れない──
コロナ・パンデミックが突きつける大混沌状況のさなかでも真っ向勝負!
絶えざる「知」の営みをすすめる不撓不屈の思想誌、第❺号刊行です。Amazon

とAmazonのお品書きにある。でも、「アメリカとは何か?」につられて買った。Amazonの中古では値段が下がっていなかったが、他のマーケットで1000円だったので買う。その際の送付が上記のプライバシー配送だった。

この雑誌、「ひらく」は佐伯啓思。西部邁の「弟子」。佐伯の何が偉いかというと、最後まで西部と絶交しなかたこと。西部邁の多くの「弟子」の少なからず(ほとんど?)が、たとえば佐伯と大政小政だった間宮陽介などが、西部と絶縁したのに対し、佐伯は絶交しなかった。

ところで、「世田谷自然左翼」という言葉がある。自らの生活に困らずに、民主や人権、そして自然環境に高い意識をもち、きれいごとを云う金持ちリベラルを揶揄する言葉だ。それに対し、佐伯のこの雑誌「ひらく」は「世田谷自然左翼」の右翼版といった趣である。「京都はんなり保守」というところか? 西部邁は、チャンネル桜の社長・水島総から「日本が足りない」と指摘されていた。日本の辺境、植民地出身でさらに経済的にも文化的にも貧乏で学校文化(しかも敗戦直後の排日教育)だけで育ったので、しかたがない。それに比べ、佐伯は奈良(日本の中核だ、大和だ)出身で、親も大学教授というのだから、西部とは随分違う。その日本が満載なのが、雑誌「ひらく」だ。おいらは創刊号は直ちに買ったが、高踏的だし、高いしということで敬遠してきた。なにより長谷川三千子様の文章は理解したいが、ハードルが高い。いつか単行本化されたら読もうとも思っていた。

「自然」であるが、雑誌「ひらく」の大広告スポンサーがエイアンドエフという登山・キャンプ用品の会社である。創刊号から最新号まで広告が出ている。「世田谷自然左翼」がよく買いに行くのではないだろうか?

なお、このエイアンドエフという登山・キャンプ用品の会社は、「アメリカよりアウトドアのスピリットと道具類が日本に紹介され40年」とある(site)。アメリカ精神と道具の販売会社なのだ。

西部の「後継」集団には、佐伯とは別に、雑誌「クライテリオン」を刊行する藤井聡の一派がいる。彼らはMMT理論を根拠に経済の賦活を主張する。それに対し、佐伯は経済成長を信仰していない。事実、雑誌「ひらく」には経済成長問題は(あまり)ない。むしろ、斎藤幸平が寄稿している。さらには、田島正樹という哲学者;安保法制成立の時、(こんな法案を成立させた)愚民には相当の報いがあるだろうとブログに書いていた、とおいらは記憶している、人も寄稿している。

特集Iの「アメリカとは何か?」は4人の学者・研究者の寄稿。主にアメリカの現状分析と歴史上の重要事象の解釈。冒頭の佐伯の文章は、最近の「ノマドランド」という映画、リーマンショックで失業したアメリカ人がキャンピングカーで放浪し暮らす話をネタに、そもそもアメリカ創成時から入植者であった彼らはノマドだったのではないか、と指摘する。ただし、アメリカ創世記の入植者・ノマドが将来への希望があったのに対し、現代のアメリカのノマドには希望がないといことで話を落としている。

結構、微温的だと思った。アメリカ創世記の入植者はノマド(放牧者)というより、「ヴァージニアの入植者は当初は友好的であったが、食糧危機に直面した1610年からインディアンの村を襲撃するようにな」るような武装難民であり、ノマド(放牧者)などという呑気なものではないのだ。

1619プロジェクトについては、井上弘貴ということが解説している。1619プロジェクトのハンナ・ジョーンズは、(おいら反米ウヨからみて残念なことに)アメリカを否定しようとするのではなく、奴隷だった黒人が理想である人権を獲得していくアメリカの歴史を構築すようとする点が興味深い。これは、1619プロジェクトのハンナ・ジョーンズが先住民に対するジェノサイド、迫害を、黒人奴隷問題ほど、重要視しないことと整合する。つまり、将来のアメリカ人は民主制の理想が実現されてこの地に生存が許されることを意味する。

満州国を否定され、立ち退いた、<おれたち日本人>にとって、面白くない。

■ 

 


東京散歩;早稲田・漱石山房記念館 ⇒目白・肥後細川庭園 ⇒雑司ヶ谷・宣教師邸 ⇒池袋

2021年11月21日 15時27分19秒 | 東京・横浜

11月17日(水)、早稲田-雑司ヶ谷付近へ行く。行ったこととがない肥後細川庭園に行くことにして、周辺の名所を探すと、漱石山房記念館、雑司ヶ谷・宣教師邸が未訪問なので散歩経路に入れた。結局、地下鉄・早稲田駅からJR池袋駅まで歩いた。

1;地下鉄・早稲田駅、2;漱石山房記念館、3;肥後細川庭園、4;護国寺、5;雑司ヶ谷・マッケーレブ宣教師邸、6;鬼子母神、7;池袋駅

■ 1;地下鉄・早稲田駅 ⇒ 2;漱石山房記念館

新宿区立漱石山房記念館(しんじゅくくりつそうせきさんぼうきねんかん)は、夏目漱石の生誕150周年を記念して東京都新宿区が開設した記念博物館である。2017年(平成29年)9月24日に開館した。

漱石は新宿区で生まれ育ち、また1916年(大正5年)の死没までの9年間を現在の新宿区早稲田南町の「漱石山房」で過ごした。「漱石山房」は漱石の弟子や知人など多くの文人が集うサロンの様相を呈していたが、1945年(昭和20年)の空襲で焼失し、戦後その敷地の半分は「漱石公園」、残る半分は区営住宅(元は都営住宅)となっていた。2011年(平成23年)、この区営住宅の立て替え・移転を機に、区では「漱石公園」の敷地と合わせてかつての「漱石山房」を再現。wikipedia


漱石山房記念館 web site

森田草平展をやっていた。漱石の弟子として有名なのは、小宮豊隆、森田草平。

Q: 森田草平と小宮豊隆は、宿命的ライバル関係にあり、・・・・実際はどうだったのですか。)

A: その後の人生にしても東北大学の教授になり漱石の遺品を空襲から護り抜いた豊隆と法政大学騒動で野上・内田と言う漱石門下の友人達を大学から追放しようとした草平とは対象的です。  (ソース :Yahoo)

▼ 些細な指摘

史実として、漱石の弟子であった小宮豊隆が仙台の東北帝国大学の図書館長であり、昭和18年(1943年)に同図書館が、この地のこの漱石山房にあった漱石の蔵書と資料を購入した[1]。展示には、譲渡とある。この購入に小宮豊隆の決断があった。ただし、この蔵書売買については、漱石縁者との摩擦があったとされる。

[1]  東北大学附属図書館「湫石文庫」について 木戸浦豊 (リンク

漱石山房は戦災にあった。1945年5月25日。もし、この地にそのまま蔵書があれば灰燼に帰したに違いない。そして、漱石山房の展示の説明には、「これにより漱石の蔵書は戦災を免れ、今日に伝えられることになったのです」とある。しかし、これは結果である。漱石の蔵書があったはずの仙台の東北大学(片平)の周辺の戦災状況は下記のごとし;

赤い部分が戦災被害地域 愚記事より

黄色の矢印の地区に漱石の蔵書を購入した図書館があったはず。つまり、「偶然」焼け残ったのだ。

かの男は、すましたもので、「滅びるね」と言った

漱石の終焉の地、家屋は亡びたが、蔵書が残ったいきさつである。

■ ⇒ 3;肥後細川庭園


神田川

本園は無料です。庭園は河岸段丘の段丘崖を含む区域で、段丘崖を登ったところに永青文庫があり、入館料、1000円。

文京区立肥後細川庭園 [web site] 

肥後細川庭園(ひごほそかわていえん)は、東京都文京区目白台にある文京区立の公園。改修工事に伴い新名称を公募し、2017年3月18日、「新江戸川公園」から改称された。

当地一帯は江戸時代中頃まで幕臣の邸宅があったところであった。その後、幾度かの所有者の変遷を経て、幕末に細川家の下屋敷のひとつとなり、明治時代には細川家の本邸となった。1960年に東京都が当地を購入し、翌年には公園として開園。1975年、文京区に移管されて現在にいたる。当地付近は目白台からの湧水が豊富な地点で、その湧水を生かした回遊式泉水庭園を主体とした公園となっており、江戸時代の大名屋敷の回遊式泉水庭園の雰囲気を現在でも楽しむことが出来る。wiki

■ ⇒ 4;護国寺

目白台地を上がる。

和敬塾。 google [村上春樹 和敬塾]


目白台三丁目

目白台地を下る。

■ 4;護国寺

■ 4;護国寺 ⇒ 5;雑司ヶ谷・マッケーレブ宣教師邸

■ 5;雑司ヶ谷・宣教師邸 ⇒ 6;鬼子母神

■ 6;鬼子母神 ⇒ 7;池袋駅

この古本屋が、好きです。

池袋東口の、宮城県のアンテナショップへ行く。


新しい街でもぶどう記録;第367週

2021年11月20日 17時31分31秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第367週

■ 今週のよその猫


新宿区立漱石山房記念館


宮城県丸森町の栄宝堂の猫最中 (google) 中は、柚子白あんでした。

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の変

■ 今週の渋谷スクランブル交差点

■ 今週の宮城県

池袋東口のアンテナショップ  [ web site ]


バター最中

■ 今週の庭


文京区立肥後細川庭園 [web site] 

肥後細川庭園(ひごほそかわていえん)は、東京都文京区目白台にある文京区立の公園。改修工事に伴い新名称を公募し、2017年3月18日、「新江戸川公園」から改称された。

当地一帯は江戸時代中頃まで幕臣の邸宅があったところであった。その後、幾度かの所有者の変遷を経て、幕末に細川家の下屋敷のひとつとなり、明治時代には細川家の本邸となった。1960年に東京都が当地を購入し、翌年には公園として開園。1975年、文京区に移管されて現在にいたる。当地付近は目白台からの湧水が豊富な地点で、その湧水を生かした回遊式泉水庭園を主体とした公園となっており、江戸時代の大名屋敷の回遊式泉水庭園の雰囲気を現在でも楽しむことが出来る。wiki

■ 今週のメリケンハウス

雑司が谷旧宣教師館(旧マッケーレブ邸)、竣工:1907(明治40)年

雑司が谷旧宣教師館は、明治40年にアメリカ人宣教師のマッケーレブが自らの居宅として建てたものです。マッケーレブは、昭和16年(1941)に帰国するまでの34年間この家で生活をしていました。豊島区内に現存する最古の近代木造洋風建築であり、東京都内でも数少ない明治期の宣教師館として大変貴重なものです。

ジョン・ムーディー・マッケーレブは1861年、アメリカ・テネシー州ナッシュビル郊外に生まれました。生後6か月で南北戦争により父を失い、以後多くの苦労を重ねながら勉学に励み、敬虔なクリスチャンの青年に成長しました。27歳の時、ケンタッキー州レキシントンにあるカレッジ・オブ・ザ・バイブルに入学し、ここで先輩の宣教師アズビルと出会い、彼の勧めによって日本伝道を決意したのです。

1892年、新婚の妻デラらと日本に渡ったマッケーレブは、築地・神田・小石川と伝道活動を展開、そして1907年雑司が谷に移り住み、以後この地を拠点に、太平洋戦争開戦直前まで、さまざまな困難に遭いながらも、ピューリタニズムに基づいた宣教活動を続けていったのです。約50年間にわたるマッケーレブの日本での活動は、慈善事業から幼児や青年の教育活動にまで及び、数多くの人々に感銘をあたえるものでした。 (豊島区web site: 雑司が谷旧宣教師館の概要・沿革

上の説明文にはないが、昭和16年(1941年)の早春(2月?)に帰国しているが、在京米国大使館から退避命令が出たとのこと。真珠湾攻撃は12月だが、アメリカは戦争不可避の状況の認識をもっていたことを示唆している。

■ 今週の購書

▼ うちゾッキ本(100円の本)

▼ 往来座で購入本

「エリア1(ワン)」なるものを知った去年だ(愚記事;最近、横山剣が「ワシン坂を下りると米軍のエリア1(ワン)」と云っているのを見た(YouTube))。知って、いろいろ検索して、エリア・ワンについて知った。~♪~エリアワンの角を曲がればお袋のいた店があった 白いハローの子に追われて逃げてきた~♪~にも出会ったし、伊藤潤、『横浜1963』も検索出て来た。実物は見たことがなかった。今週、往来座で見たので、買った。

■ 今週の購書2

先日、旧米軍大和空軍施設(Yamato Air Station)に行った(愚記事)。Yamato Air Stationと立川基地に当時いた Michel Skidmore という人の本。買ってわかったこは、この本の内容は、彼のブログを日本で印刷したものであること。本には出版社も書かれておらず、落丁の問い合わせはAmazon.co.jpカスタマーサービスへ、とあった。ISBNコードはついていた。


Amazon

■ 今週の「お互い上り詰めて」、ボス交

バイデン米国大統領は、米中関係が険悪化する中かねてから、私が習総書記に直接会談すれば分かり合えると云っていたとされる。その根拠は、二人は以前からの旧友なのだ。バイデンが副大統領、習近平が副国家主席の時からだ。そして、今週、はれて、お互いトップに上り詰めて、ボス交とあいなったのだ。

■ 今週の阿(おもね)り

思いやり予算増額へ 日本政府受け入れ、年内実質合意へ

日米両政府が交渉を進めている令和4年度以降の在日米軍駐留経費負担(思いやり予算)に関し、日本側が増額を受け入れる方向で調整に入ったことが17日、分かった。年内に大筋合意に達し、4年度予算案に盛り込む。google

一方的に価値観を押し付けて制裁するやり方も一つだが、寄り添って問題を解決する役割を日本は期待されている。紛争を助長したり、事を荒立てたりするのがすべてではない。

中谷元・首相補佐官(国際人権問題担当)は15日夜のBS日テレ番組で、中国新疆(しんきょう)ウイグル自治区や香港での人権状況について「看過できないような状況がある。日本としてどう対応していくか政府で検討する必要がある」と語った。google

■ 今週の goo blog

■ 忘備

原爆がヨーロッパの白人ではなく、日本人になされてよかったと日記に遺しているのは、カナダ首相のマッケンジー・キング(wiki)。マッケンジー・キングは戦時中のカナダ首相。したがって、カナダの日系人強制収容の責任者。なお、原爆の開発と行使について、米国は英国、カナダと「共同」で行っている。

After Hiroshima he wrote: “It is fortunate that the use of the bomb should have been upon the Japanese rather than upon the white races of Europe.”(ソース

マッケンジー・キング首相が「原爆がヨーロッパの白人でなく、日本人の上に落とされてよかった」と言った (ソース

 


立川参り2021;昭和記念公園 ⇒ 旧米軍大和空軍施設(玉川上水駅)

2021年11月17日 20時01分47秒 | 東京・横浜

毎年恒例とした昭和記念公園参り。今年で5年目(2016, 2017, 2018, 2019, 2020)。立川・昭和記念公園も年々深まってきている。本やネットでだ。最近知ったのは、米軍大和空軍施設。<やつらの言葉>でYamato Air Base。立川基地以外にも近くに米軍基地があったのだ。立川基地、現昭和記念公園から歩いていける距離なので、今年は散歩経路に入れた。2019年と同じく砂川口から出るのだ。

1;JR立川駅、2;オリオン書房、3;昭和記念公園、あけぼの口、4;いちょう並樹、5;池、6;広場、7;日本庭園、8;砂川口、9;阿豆佐味天神社、10;玉川上水、11;旧大和空軍施設

■ 1;JR立川駅付近

■ 2;オリオン書房

初めて立川に来た時、入った本屋はオリオン書房。地元の書店らしい。そこで昔の立川の写真集をみた。地元の書店なので地元関連の本を平積みにしていたのだろう。1977年まで、米軍がいたのだからそうなのだろうが、実感はなかった。「基地の街、立川」の過去画像」の集大成をネットで見つけ; https://www.flickr.com/photos/20576399@N00/albums/72157648726604968 「新鮮」な驚きをもった。ほんと、アメリカンなのだ。最近知ったのだが、立川基地には米軍が1万人近くいて、日本人従業員も1万人ほどいたらしい。1960年代の基地最盛期、ベトナム戦争の頃か。日本人従業員1万人って一大産業だ。もっとも、パンパン(米兵相手の売春婦)は最盛期には3,000-5,000人が立川にいたいう(ソース)。「土地」を売り、「体」を売って生き延びる敗戦国の焦点だった。その跡地に、「緑の回復と人間性の向上」を唄いできたのが、昭和記念公園だ。いまだに、日本の回復(レコンキスタ!)を言えない日本の国権の隠語が「緑」にほかならない。昭和記念公園は昭和天皇記念館がある国立公園だ。

ということで、オリオン書房の地元関連図書架台を確認にいった;

■ 3;昭和記念公園、あけぼの口


黄帽の人たち

■ 4;いちょう並樹

■ 5;池

■ 6;広場

■ 7;日本庭園

▼ こもれびの里

こもれびの里は、水田や畑、農家と屋敷林等、昭和30年代の武蔵野の農村風景やそこでの暮らしを再現しています。また、「昭和・武蔵野・農業」をテーマに単に昔の風景を垣間見ることではなく、暮らしの中で培われてきた知恵を再発見し、継承していくことを目的としています。国営昭和記念公園 web site

今年は幟旗はなかった。上の画像は2019年のお参りで撮影。

興味深いのはこの幟旗が昭和記念公園すなわち立川基地の北の砂川五番の村のものであること。立川基地の北といえば、米軍立川基地の滑走路延長に反対し、結果、延長を阻止(砂川闘争)の集落のはずだ。

万延元年に「ひたすらわへいのかみ むらむらのこてきをきく」とうたっている。

■ 8;砂川口

■ 8;砂川口 ⇒ 9;阿豆佐味天神社

阿豆佐味天神社(あづさみてんじんじゃ)は、東京都西多摩郡瑞穂町にある神社。

また、立川市砂川町に鎮座する阿豆佐味天神社は、1629年(寛永6年)のちに砂川村となる地域の開拓に伴い、その鎮守として勧請し、1738年(元文3年)に本殿が造営された。砂川の新田開発を行った岸村(現在の武蔵村山市岸)の村野氏(後の砂川氏)は村山党の後裔を称する。wiki

■ 10;玉川上水

■ 11;旧大和空軍施設

玉川上水駅前

大和空軍施設(やまとくうぐんしせつ)は、かつて東京都東大和市及び立川市に所在していた米軍基地である。大和基地とも呼ばれる。面積343,537平方メートル(約34ヘクタール)のうち、東大和市所在分は約31ヘクタールで立川市所在分は約3ヘクタールだった。wiki


1960年代の航空写真


同上の航空写真の域の現在の地図


現在の航空写真


1967年の Yamato Air Staionの正門らしい(ソース:Mike Skidmore様より)

このYamato Air Staion(大和空軍施設)は滑走路があるわけではなく、目的はおいらにはわからない。ただし、学校があったという情報がある。近所の立川や横田など滑走路がある空軍基地とは別の役割、特に駐留米空軍のバックアップ業務、駐留米空軍家族の教育施設のための施設らしい。

two schools, kindergarten and grade school thru Jr high with the high school located at Yamato Air Station a few miles awayソース

なお、この施設は敗戦時にすぐに接収されたのではなく、朝鮮戦争が終わり、講和も終わった1953年に接収された。おそらく、朝鮮戦争で立川や横田の軍備充実で敷地が足りなくったのであろう。

1960年代に米空軍は横田以外に6つの基地・施設・住宅を東京、武蔵野ー埼玉にもっていた。ジョンソン基地、モモテ住宅地区、グラントハイツ(住宅)、グリーンパーク、関東村、府中、そして大和基地だ。

このうち、グリーンパークと大和基地を知らなかった。 他の3つは、レコンキスタ史跡訪問を行っている。

愚記事;
モモテ住宅地区、グラントハイツ(住宅)
関東村、府中

▼ 関東計画;KPCP

立川はじめ上記6基地は横田基地に集約された。これは「関東計画」とよばれている。ただし、「関東計画」とは、1973 年 1 月に日米間で実施が合意された「関東平野地域における施設・区域の整理・統合計画」(Kanto Plain Consolidation Plan)の通称 (「関東計画」の成り立ちについて  小山 高司

ソース

■ 旧大和空軍施設史跡

Yamato Air Stationの跡地に米軍関連の遺跡はない(ようだ)。ただし、我らが日帝遺産はある;

旧日立航空機立川工場変電所

旧日立航空機立川工場変電所(きゅうひたちこうくうきたちかわこうじょうへんでんしょ)は、東京都東大和市にある、1938年(昭和13年)から1993年(平成5年)まで使用されていた変電所である。戦災建築物であり、東大和市の指定文化財(市史跡)に指定されている。wiki

■ Yamato Air Stationの情報はMike Skidmoreという人が多量に発信している。Mike Skidmoreという人は1958年に8歳で船で横浜に米空軍軍人の親に連れられ来たが、そうそう、はためく赤旗とヤンキーゴーホームに迎えられた(ブログ:Growing Up in Japanan)。高卒までYamato Air Stationの学校に通っていた。YouTubeもある。

Yamato High School 1959-1973 Tachikawa Air Base Japan 1945-1977


小田原散歩:古稀庵(山縣有朋 庭園)⇒ 皆春荘 ⇒ 小田原城

2021年11月14日 16時38分56秒 | 国内出張・旅行

山縣有朋の三庭園は、椿山荘、無鄰菴、そして古稀庵。今年、春も無鄰菴に行ったが古稀庵は初めて。

山縣有朋の史跡探訪ブログ愚記事;

山縣有朋記念館 那須高原

京都・無鄰庵:1度目;2006年、2度目;2016年、3度目;2021年

1.箱根板橋駅、2.古希庵、3.皆春荘、4.老欅荘(ろうきょそう)、5.城山四丁目、6.小田原高校・相洋高校、7.東海道線跨橋、8.小田原城、9.旭丘高校付近、10.小田原駅

■ 1.箱根板橋駅、2.古希庵

 

古稀庵は山縣有朋終焉の地である。

古稀庵(こきあん)は、1907年(明治40年)に、神奈川県足柄下郡大窪村(現:神奈川県小田原市板橋)に建てられた、政治家・山縣有朋の別荘である。

神奈川県足柄下郡大窪村板橋の、南向きの傾斜地に立地。総面積約11,630平方メートルの中に、和風木造平屋建の本館、伊東忠太設計の木造二階建の洋館、ジョサイア・コンドル設計のレンガ造平屋建の洋館等の建物と、入口に茅葺屋根の門、面積約4,600平方メートルの庭園により構成されていたとされる。
古稀庵の庭園

特に庭園については、庭園好きの山縣がその築造に心血を注ぎ、日本古来の「山水回遊式庭園」の形式をあえて採らず、作風の主題を「自然」、とりわけ「水流」に求めた「自然主義的庭園」の形式を京都別邸・無鄰菴に続いて採ったとされる。その庭園は、高低差14.9mの間に上段の庭、中段の庭、下段の庭等といった形で構成され、その高低差を巧みに利用した流水や、洗頭瀑、聴潭泉といった滝を配したことが特徴として挙げられる。同じく山縣の所有であった東京・目白の椿山荘や、京都の無鄰菴と共に、近代日本庭園の傑作とする評価もある。wiki

■ 2.古希庵 ⇒ 3.皆春荘

皆春荘は、第23代内閣総理大臣の清浦奎吾(肥後出身)によって明治40年(1907年)に土地が購入され、清浦の別邸として建てられたものです。その後、大正3年(1914年)に南に隣接する古稀庵と総称される山縣有朋の別邸の別庵として編入されました。山縣の小田原別邸は、古稀庵のほか、皆春荘、暁亭により構成されていましたが、当時の場所に残る建物は皆春荘が唯一となっており、板橋地区の歴史的風致を構成する優れた意匠の数寄屋建築とされることから、平成28年(2016年)3月に本市の歴史的風致形成建造物に指定されました。なお、ほかの別邸は解体、市外へ移築されています。
主屋は、座敷棟、玄関、台所棟、離れ棟、納戸棟から成り、面皮付部材、絞り丸太、曲線を用いた垂壁等の数寄屋風建築の特徴を随所に見ることができます。
また、庭園はほかの邸宅と同様に山縣が自ら作庭を指揮したと伝えられる自然を重視したものとなっています。かつては、各部屋から相模湾や箱根山を借景とした眺望を楽しめました。さらに、庭園内に流水を設けるために水源として山縣水道を開き、庭園の北東より南西にかけてせせらぎを造っており、現在も形を残しています。 (出典:小田原市

■ 3.皆春荘 ⇒ 4.松永記念館/老欅荘(ろうきょそう)

■ 4.松永記念館 ⇒ 5.城山四丁目 ⇒6.小田原高校・相洋高校 ⇒7.東海道線跨橋

▼ 6.小田原高校・相洋高校

▼ 7.東海道線跨橋

■ 小田原城

▼ 天守閣からの眺望

■ 9.旭丘高校付近 ⇒ 10.小田原駅

■ まとめ

小田原市

板橋、城山、城内、栄町

 


新しい街でもぶどう記録;第366週

2021年11月13日 18時06分33秒 | 武相境

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第366週

■ 今週のよその猫


神奈川県小田原市

■ 今週の草木花実

■ 今週の庭

小田原、古希庵。山縣有朋がつくって今に残る庭のひとつ。あとは、椿山荘、無鄰菴(京都・無鄰菴再訪 2021年春)。

■ 今週の「自由」を遮るもの「わすれられないたいけん いばらき


JR上野駅、猪熊弦一郎の壁画『自由』を遮る茨城県の広告「わすれられないたいけん いばらき

■ 今週の変


茨城県、石岡市

■ 今週の富士山

多摩モノレールより。立川付近。

■ 今週の神社

阿豆佐味天神社・立川水天宮。 猫返し神社。

愛猫の無事や健康を祈りに多くの方がいらっしゃいます。境内社の蚕影神社(こかげじんじゃ)がその社で、蚕の天敵がねずみ、猫を守り神にしています。「絵馬」に願いを書いたら、無事に帰ってきたという報告も寄せられています。
また、境内には「ただいま猫」の石像があります。やさしく撫でて下さい。阿豆佐味天神社・立川水天宮

■ 今週の石; 仙台石


阿豆佐味天神社・立川水天宮。殉国慰霊碑は仙台石でできていた。仙台石って知らなかった。

仙台石: 稲井石とは、「仙台石」とも呼ばれ、全国にその名を馳せてきた名石「稲井石」。 その歴史は古く、文永五年(西暦1268年)に建てられた宮城県河北町の板碑に使われているのが確認されています。 石質はくろくどっしりと重厚感があり、美しい石目が特徴で、文字を刻むと鮮明な白が浮かび上がることから、明治以降各地の記念碑、墓碑に数多く利用されてきました。ソース

■ 今週のフェンスの向こうのアメリカ

在日米軍、相模原補給廠。 JR横浜線車中より。

■  今週のレコンキスタ史跡探訪: 旧米空軍大和空軍基地跡 (東大和市)

大和空軍施設(やまとくうぐんしせつ)は、かつて東京都東大和市及び立川市に所在していた米軍基地である[1]。大和基地とも呼ばれる。面積343,537平方メートル(約34ヘクタール)のうち、東大和市所在分は約31ヘクタールで立川市所在分は約3ヘクタールだった。
基地建設

2020年現在の東大和市桜ケ丘2丁目から3丁目辺りは第二次世界大戦中には日立航空機の立川工場があり、工場ではエンジンや機体を製造していたが、米軍の3度(1945年2月17日、4月19日、4月24日)にわたる空襲により、工場は壊滅する。

第二次世界大戦後、工場跡地は日興工業や西武鉄道の所有となっていたが、1950年(昭和25年)6月の朝鮮戦争によって新規に基地を建設する計画が持ち上がり、1952年(昭和27年)9月に西武鉄道の所有地が米軍兵舎用地として利用される通告が外務省及び東京都からなされる。大和村(現:東大和市)の人々は「在日合衆国軍兵舎接地反対期成同盟」を組織し村民大会を開催するなど、反対運動を展開した[3]が、1953年(昭和28年)2月27日には土地収用が認定され、同年7月15日に土地収用がなされる。wiki

 

玉川上水駅前にある当時の現物プレート。この看板が基地の門に掲げられていたとのこと。英文の下に日本文がある。日本文は下記に画像と文章を示す。

旧日立航空機立川工場変電所

この変電所は、航空機のエンジンを生産する軍需工場へ送電する変電施設として1938年(昭和13年)に東京瓦斯電気工業株式会社変電所として作られた。翌年には日立製作所と合併、日立航空機株式会社立川工場<立川発動機製作所>の変電所に改称する。戦局の激化に伴い1945年(昭和20年)2月17日、F6Fヘルキャット戦闘機、4月19日、P-51ムスタング戦闘機らによる機銃掃射、4月24日にはB-29 101機の編隊による空襲により被災。隣接する工場は大破したが変電所は大きな被害は免れた。wiki

大和空軍基地」昭和三十一年二月二十四日 正式開設

 我々は世界の平和が総ての自由愛好国家の間に於ける親睦友好関係に対する努力を通して得られることを心に銘記して居ります。
  日本とアメリカ合衆国両国民の間に育てられた固い絆は平和のための永久の防波堤となるでありましょう。
  我々は大和空軍基地将兵が当基地と大和町民とによって現在享有されている尊敬友情を更に助長するよう総ゆる面に於いて身を処して行くことを願うものであります。

■ 今週のレコンキスタ史跡再訪

立川の昭和記念公園。

▼ 今週知った立川l基地の歴史; タイ国空軍が駐留していた。

朝鮮国連軍というのがあり、日本にいる。その朝鮮国連軍の一国としてタイの空軍が1969年まで立川基地に駐屯していたとのこと。

朝鮮国連軍は,1950年6月25日の朝鮮戦争の勃発に伴い,同月27日の国連安保理決議第83号及び7月7日の同決議第84号に基づき,「武力攻撃を撃退し,かつ,この地域における国際の平和と安全を回復する」ことを目的として7月に創設された。また,同月,朝鮮国連軍司令部が東京に設立された。

横田飛行場に所在する朝鮮国連軍後方司令部には,ウィリアムス司令官(豪空軍大佐)他3名が常駐しているほか,9か国(オーストラリア,イギリス,カナダ,フランス,イタリア,トルコ,ニュージーランド,フィリピン,タイ)の駐在武官が朝鮮国連軍連絡将校として在京各国大使館に常駐している。外務省、朝鮮国連軍と我が国の関係について

▼ 横田基地の歴史に書いてあった;

一方、国連軍分遣隊として立川基地に駐留していたタイ王国空軍が、1969年12月、立川基地の閉鎖に伴って横田基地に移って来ました。その時初めて国連の旗が横田基地に掲げられました。タイ王国空軍の兵士は去ったものの、国連旗は現在に至り横田に掲げられています。ソース

■ 今週の武蔵野

■ 今週の流れ

■ 今週のゾッキ本

ウヨのおいらは、逆・エコーチャンバー効果として、「リベラル」の本をみた。

~となりを横目でのぞき、自分の道をたしかめる~ ためだ。

・姜尚中の『朝鮮半島と日本の未来』は以前から気になっていた。なぜなら、最近、やっと朝鮮戦争の意味がわかってきたからだ(愚記事:①今年6月で朝鮮戦争勃発70年、②マ元のペット;第1騎兵師団 (1st cavalry division)、朝鮮戦争で苦戦(一部壊滅)し、主なき東京ではなく、札幌へ帰還、1951年の「帷幄上奏」;リッジウエイによる朝鮮戦争説明、あるいは、敗軍の大元帥、戦況を問い質す)。この姜尚中の『朝鮮半島と日本の未来』は最近まで中古価格が下がらなかったが、ついに100円となったのを見つけ、購入。なお、同じ日に、別のブックオフでは500円台だったのをみた。

読むと、北朝鮮の「責任」をかなり相対化しているといわざるを得ない。北朝鮮は絶対悪か?という問いを立てて、そうではないだろうと誘導する。だからといって、他の諸国と同じくらいの責任(端的にいって悪)ではないだろう。金日生が中ソを抱き込んで戦争を起こしたのだから。姜尚中はそのことについて全く言及しない。

さらに、この本の一番の特徴は、中共(中華人民共和国、あるいは、党)についてほとんど言及していないこと。南北朝鮮の今後のことは米中の合意なしにはどうにもならないに違いない。米中とも朝鮮半島に多大な自国兵士の血を吸わせている。中共は金日生の冒険主義の失敗の尻ぬぐいのため17万人(中共の発表)が死んだ。本当はもっと多いとされている。これだけ犠牲を払っているのだから、朝鮮半島での潜在的覇権を中共が手放すとは思えない。

姜尚中の『朝鮮半島と日本の未来』は、南北朝鮮の今後における中共の役割、出方など全然言及していない。

よくもわるくも日本の役割は限られているのであり、日韓関係の改善のために、仮に韓国の要求を日本が全部受け入れても、南北朝鮮の統一に寄与できることは限られている。

・西崎文子って名前も知らなかった(ググったら、サンモニ文化人らしく、苦笑した)。樋口陽一は知っていて、全く説得されないのだけど、この本は読んでなかったので、買った。パラ見すると、玉蟲左太夫が出ていた。江藤淳も出て来て、憲法の専門家が議論しつくしたことをセンセーショナルに議論する(という大江健三郎の表現)といっている。そして、共通の理解の基盤がない人とはどうしようもないみたい物言い。なお、西崎文子も樋口陽一は仙台出身と知った。おそらく二人とも学者の子供だ。そして、革命国家米仏を「精神的祖国」?としてがんばっているらしいという偏見をおいらはもった。

~またひとつずるくなった~ ~当分、てれ笑いがつづく~ ???


高坂正堯、江藤淳;「ペリー艦隊は太平洋を渡って来た」と誤認した二人のその後の「何事もなかったかのように」

2021年11月11日 17時39分08秒 | 日本事情


1853年 米国東インド艦隊、マシュー・ペリー来航

▼ 高坂正堯の場合

高坂正堯が1965年に「ペリー艦隊は太平洋を渡って来た」と誤認したことをブログ記事にした;

① あるいは、奴らはどっちから来た !? 
② 高坂正堯が見なかったもの、あるいは、南シナ海、再び、世界史の海へ

些細な誤りをあげつらうようだが、その誤りの背景には意味があると、おいらは思う。そして、この「ペリー艦隊は太平洋を渡って来た」という誤認は、高坂正堯だけでなないということが、この誤認を出来させる構造的なものがあることを示唆する。「ペリー艦隊は太平洋を渡って来た」という誤認をしていたのは、江藤淳だ。1964年。つまり、ほぼ同時代。むしろ、江藤の誤認の方が早い。

▼ 江藤淳の場合

しかし、中国は、フルシチョフ失脚に追い打ちをかけるように一発の核爆発でその巨大な存在を認めることを要求した。それは、認めざるを得ない外界の侵入だという意味で、一世紀前に提督ペリーが徳川幕府に対して行なった要求に似ていた。違うのは、ペリーが太平洋を越えて黒船でやってきたのに対して、この第二の侵入者は日本海を越えて来る放射能雨というかたちで姿をあらわしたという点である。 1964年12月 「文藝春秋」 のち、「江藤淳著作集6 政治・歴史・文化」に『幻影の「日本帝国」』として収録。

このように江藤淳は「ペリーが太平洋を越えて黒船でやってきた」と誤認している。[1]

この文章の背景は、1964年(昭和39年)の第一回東京五輪の開会式に中共(中華人民共和国)は核実験を行った。中共にとって初の核実験であり、成功し、核保有国であることが明らかとなった。その中共の核実験・核保有国宣言を江藤は日本にとっての第二の黒船=認めざるを得ない外界の侵入と認識している。そして、第一回目の本当の黒船は上海を経て日本に来たののに、「ペリーが太平洋を越えて黒船でやってきた」と誤認しているのだ。

[1] 江藤淳が「ペリーが太平洋を越えて黒船でやってきた」と誤認していることは、小谷野敦が『反米という病 なんとなくリベラル』で指摘している。

江藤は、オリンピックが終わった後の一九六四年十二月の『文藝春秋』に「『平和の祭典の光と影』 幻影の『日本帝国』」を書いており、これは単行本に収録されていないようだ。ここで江藤は、ペリー来航以来の日本の歴史を屈辱とともに思い返し、敗戦の痛手の中で怨念を込めて行われたのがオリンピックだと位置づけている。聖火リレーの最終走者に「原爆の子」が選ばれたのは、「報復」だと江藤は言っている(なお江藤は、ペリーが太平洋を越えてやってきたと書いているが点、ペリー は東海岸から喜望峰回りで来航している)。反米気分の横溢した文章で、帰国後の江藤の心裡をうかがうにたる。 (小谷野敦、『反米という病 なんとなくリベラル』)

この文章は単行本には収録されいないかもしれないが、上記のように、著作集には改題され収録されている。

▼ 1971年のそんな誤認はなかったかのように

1971年に、「座談会 外交の芸と術」というのが雑誌「季刊藝術」1971年秋 第19号に載った。座談会の参加者は神谷不二、高坂正堯、永井陽之助、江藤淳。その時代背景は、2つのニクソンショックだ。ひとつは、金とドルの交換停止。これで変動相場へ移行することになり、安い円で輸出を促進していた日本に打撃。もうひとつが、キッシンジャーの極秘訪中とその結果のニクソン訪中決定だ。米国に追随しているつもりで対中共強硬策を採っていた佐藤内閣は梯子を外された。キッシンジャーは周恩来に向かい、日本をジャップよばわりしていたのだ。

そういう時代だ。 でも、この引用は、こういう背景での座談会の趣旨にはあまり関係ない。引用目的は、「ペリー艦隊は太平洋を渡って来た」と誤認した高坂正堯と江藤淳がそのような誤認なぞしなかったかごとく振舞う様子、あるいは、その誤認を些細扱いする様子がみえて、おもしろいのだ。

神谷 戦後これだけ長く、四半世紀のあいだ海洋国家的な生き方をして順調にいってて…、しかし、ここへきて中国の問題がひとつ出てきますとこれだけひっくり返りそうでしょう。結局のところは安全保障の感覚じゃないですかね。つまり、日本の場合安全保障というのは、それに対して脅威が来るとすればオロシア以来、なんか西から来るという感覚ですよ。「西力東漸」だね。黒船はその意味じゃ安全保障に対するというところは案外素通りしちゃったような感じかな。

永井 ぼくぐらいがいったのかな。

高坂  いやいや 、末梢的なことながら黒船も西から来たんだよ。太平洋を横切れないから回ってインド洋をこう来たんですよ。

江藤 そう、沖縄の方から来た…。

高坂 西から来たんだよな。象徴的ではあるね。

江藤 そう思うと、沖縄があんな先鋭な問題になっているのは、あれは非常に象徴的なことですね。沖縄と朝鮮。そこへ行くと台湾は日本にとってはそれほどでもない。中国にとっては別だけれども。(以下、略)

このように高坂と江藤は、ペリー艦隊が西から来たことはあたりまえのように語っている。ふたりとも。なぜ自分たちは6-7年前に事実誤認をしたかという自己分析などはない。

▼ 1971年の座談会メンバーとその時代

 上記の座談会のメンバー4人はある種の同志であった。どういう同志であったかというと佐藤栄作内閣(1964-1972年)の知識人としての支援者たちであった。国際関係懇談会という組織を佐藤栄作は発足させた(1971年8月)。メンバーは、江藤淳、高坂正堯、石川忠雄、梅棹忠夫、衛藤瀋吉、神谷不二、永井陽之助、中嶋嶺雄、山崎正和の13人(この情報は服部龍二、『高坂正堯 ー戦後日本と現実主義』より)。

 つまりは、佐藤政権の取り巻き知識人グループだ。高坂と江藤はこの中にいた。でも、彼らは、当時、知識人世界では、反時代的存在と云ってよいだろう。時代は、ピークを越えたとはいえ、「1968年"革命"」ー大学紛争の時代。大学教員は戦後民主主義を良いとする人々が主流であったに違いない。さらに、戦後民主主義を批判したとされる新左翼的集団も、高坂正堯の研究室を荒した(同上書より)時代だ。

▼ 1971年の座談会メンバーとのその後

 江藤淳の伝記的視点から上記13人を見て興味深いのが、中嶋嶺雄、山崎正和のふたりの名前が見えること。このふたりこそ、江藤が1983年に発表した「ユダの季節」(現在、『批評と私』に収録)に名指しされた「ユダ」にほかならない。ユダというのは右翼だ左翼だ御用学者だ反体制知識人だという以前に、人から信じられず、人を信じない、人間より教義を信じる人々のこと。良心が外在化しているので、教義のためには人間を裏切る。さらには、現実の認識もできなくなり、嘘を信じることになる。具体的には、(話は飛ぶようではあるが)占領軍が検閲を行い、かつ検閲を行ったこと自体を秘匿する命令があったことを無かったことにする認識を持つようになる。

 この「ユダの季節」は、粕谷一希を批判する文章だが、粕谷を支援する「徒党」として中嶋嶺雄、山崎正和のふたりがあわせて批判されている。

▼ 吉田茂認識問題

 江藤淳が1983年に「ユダの季節」を書いた原因は、山崎正和らがいわゆる"吉田ドクトリン"、すなわち国家主権の根幹である交戦権を放棄しながら経済発展に注力した戦後体制を寿ぐ組織的活動を行ったことだ。1981年のサントリー文化財団主催のシンポジューム。この成果は高坂正堯編の『吉田茂ーその背景と遺産』にまとめられている。江藤自身も参加。「吉田茂における養子性」を指摘した、と平山周平、『江藤淳は甦える』にある。なお、内容は『吉田茂と養子政治』(江藤淳、『同時代への視線』1987年、初出:「吉田政治」を見直す、雑誌『正論』、1983年9月号)のことだと思われる。

▼ 江藤淳と高坂正堯のその後

 この「吉田政治」礼賛派と江藤が認識し、かつユダと批難した者たちに高坂正堯は入っていないようだ。上記、サントリー文化財団のシンポジウムに加わり、編者もしているが。さらに、江藤淳が(占領軍の検閲を看過/肯定しているという理由で)非難している猪木正道は高坂正堯の近い位置にいたのに。実際は、江藤と高坂は仲たがいせず、のちのちまで関係は続く。例えば、1994年に対談している(『日本のしなやかな孤独』、「文藝春秋」、平成6年5月号、現在、『日本よ、亡びるのか』に収録)。高坂の死ぬ2年前だ。

▼ まとめ

1964-1965年に「ペリー艦隊は太平洋を渡って来た」と誤認していた江藤淳と高坂正堯はその後そろって佐藤栄作内閣のブレーンとなった。共通の友人・ブレーンの仲間だった山崎正和、中嶋嶺雄と江藤はけんか別れするが、江藤は高坂とは絶縁しなかった。高坂はそもそも、『宰相吉田茂』で世俗には1963年に登場。その後、湾岸戦争まで「護憲派」だった。最後のさいごに憲法改正しないと日本は亡びると主張(したはず。おいらは今頃何言ってやんだと思った記憶がある)。政治思想は江藤と違うと思うのだが、なぜか、仲良かったようだ。

というか、もう一度アメリカと戦争せにゃいかん」と激昂したとされる高坂は、アメリカへのある種の感情を抑圧していたのではないだろうか?とおいらは邪推している。

 


新しい街でもぶどう記録;第365週

2021年11月06日 18時31分50秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第365週

■ 今週のメタセコイア

■ 今週の武相境斜面

今週の日曜は選挙だった。

■ 今週の草木花実

■ 今週の行事

■ 今週の自称?

■ 今週の日本事情

■ 今週返した本

『アメリカの世紀と日本』と『基地の消長』

▼ 『基地の消長』(川名晋史)は「1968年革命」[#1]の時代の関東平野からの米軍の撤兵・基地整理についての政策史。米国政府の政策の成立と実行の詳細を書いている。特に、米国政府の内部(軍部、国務省、大統領府、在日米軍の現場など)の詳細を説明している。このあたりはノートを取って、いちいち語句を検索して調べて理解した上で読まないといけない。まさに専門書。一方、おいらにとって役立ったのは米軍基地の詳細が記載されていること。例えば、山王ホテルは1980年まで米軍に接収されたままであったと初めてしる。その他、立川基地のことは最近多少知ったが、返還前のこの頃(1960年代)日本人のの基地従業員で1万人近くいたと知る。

ということで、この本は、レコンキスタ史跡巡りにはとても有益だ。

さて、この本にはこの時代の本土の米軍基地リストがある。でも、先日探した「Kajikawa naval base, Japan (かじかわ [梶川?] 海軍基地)」は、みあたらなかった。沖縄の基地なのだろうか?

#1 『基地の消長』には、絓 秀実の本が参照にある。

さらに、この本の表紙は、東松照明(wiki)の「チューインガムとチョコレート」。東松照明を、おいらは、初めて知った。


モノクロでとらえる写真展。東松照明 「チューインガムとチョコレート」

基地の消長 1968-1973  日本本土の米軍基地「撤退」政策 の時代はこういう時代だ;

 
新宿騒乱事件(wiki)                                         三島事件(wiki


でも、こういう事件が生じていた東京には、米軍が何万人も屯(たむろ)[1]していたのだ。さらに、横須賀、座間、厚木など東京周辺にも屯していた(今でも屯している)。いうまでもなく、これら米軍は1945年9月2日に東京に占領軍として進駐して以来、ずっといるのだ。すなわち、こういう左右の「決起」/「暴発」なども本当に問題となれば、在日米軍が出動して終わりなのだ。

[1] 蛇足だが、「屯」という漢字は戦後、常用漢字ではなかった。したがって、日本政府は「屯」の字を使用できなかった。「屯」の字が常用漢字に登録されるまで、駐屯地は「駐とん地」と記されていた。日本全国の自衛隊の基地の正門には「駐とん地」の看板が掲げられていた。これは敗戦時の占領軍になされた文化的ジェノサイドによるひどい罰であった。

実は、本当の問題は、左右の当事者たち(三島や新左翼)はそれを知っているのか、米軍天国という現実を見ないようにしていたのかということだ。

まさに、「ごっこ」の世界だ。 これは、これらを「革命ごっこ」、「自主防衛ごっこ」と論じた江藤淳の『「ごっこ」の世界が終わったとき』(1970年)に書かれた状況だ。

そして、1967年末、ベトナム戦争ではテト攻勢が起こり、負傷兵が東京、横浜に運び込まれていた時代、少なからずの米兵が日本に担ぎ込まれ日本で死んだ。米国中枢では日本の関東平野の基地整理、撤兵を検討し、実行した。その詳細を書いたのがこの本、『基地の消長 1968-1973  日本本土の米軍基地「撤退」政策』。

なお、著者、川名晋史は、1979年、北海道出身とある。『日米地位協定』を著した山本章子(1979年、北海道出身)と同じだ。彼らは別のある本の共著者であると知った。彼らは、子供の頃、在日米軍を見たことはなかったのであろう。おいらもなかった。この時代米ソ冷戦時代でソ連軍が北海道に上陸してくるという想定を自衛隊は持ち、北海道には大戦車部隊など自衛隊がたくさんいた。米軍は千歳の通信部隊だけで、1980年代初頭には撤兵した。

すなわち、『基地の消長 1968-1973  日本本土の米軍基地「撤退」政策』にはこの時代(1968-1973)の米国政府は在日米軍は日本防衛のために駐屯しているわけではないことを言明していることが繰り返し紹介されている。つまり、本当に脅威があった北海道は自衛隊が防衛していたのだ。

さて、1979年、北海道出身のふたりが日米関係、基地問題の研究者。 ただの偶然か? 何か意味があるのか?

そして現在;『基地の消長』のは東京の米軍基地の整理、は沖縄のことだ。米軍基地の移転先だ。今の首都圏の人は米軍基地の存在をそんなに気にしているようには見えない。占領の継続であると屈辱感に囚われているは、おいらなど少数派に違いない。この背景は米軍の整理・統合というより不可視化なのだと『基地の消長』はいう。なるほど、そうだ。米軍は占領開始の時以来、70年にもなるのに、ずっといる。横田、座間、横須賀、相模原などなど。自衛隊とも基地共有となり、不可視化を促進しているのだという。

何より、1968-1973 と一番変わったことは、ドルの暴落=円が強くなったことだろう。

▼ 『アメリカの世紀と日本』

ケネス・パイルという歴史家を知らなかった(wiki)。1936年生まれで、存命。85歳。安倍政権の集団的自衛権の解釈改憲をも書いているので、最近までの日米関係をもフォローしている。でも、その安倍政権認識は凡庸な「リベラル」で、反感しかもてなかった。特に、安倍政権が内閣法制局を制御して解釈改憲をしたことを、官僚から権限を奪ったという表現を用いている。しかし、官僚を制御することが民主的なのではないのか?そのくせ、ケネス・パイルは民主主義、民主主義という。ケネス・パイルの言い分は、内閣法制局を制御した安倍政権は憲法違反なので、民主的ではないという主張なのであろうか?

そうであるなら、これまで内閣法制局をして集団的自衛権の行使を禁じてきた憲法は、占領下の軍事独裁制で制定された、ハーグ条約違反のしろものである。

ケネス・パイルはそのことを知っているのだ。というか、この『アメリカの世紀と日本』とは、米国がが軍事占領下で専制的に民主主義を日本で実現させた事情を描いている。その背景と実現させた根拠は無条件降伏だ。

無条件降伏して恣に改造され、主権=交戦権を奪われた日本が講和で選べた選択肢は旧安保条約だ。これをケネス・パイルは「覇権同盟」と呼称する。「覇権同盟」とはケネス・パイルしか使っていないようだ。何のことはない、属国、軍事的植民地ということだ。

おいらが、中二病の頃から「平和と民主主義」に反感をもってきたのは、それは占領米軍の支配の方便であると無意識にわかっていたからだろう。のち、江藤淳を読んで、確信した。なお、ケネス・パイル、『アメリカの世紀と日本』には占領軍の検閲について書いてるが、無条件降伏問題も含めて、参照には江藤淳の名はない。五百旗頭眞は頻出するが。