いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第18週

2024年07月27日 18時09分55秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第18週

■ 今週の筑豊境

■ 今週の定食:魚天ぷら定食

酒に漬けた白身のお魚を大葉で巻いて揚げたもの。

■ 今週のお餅:わらび餅

■ 今週のミルフィーユ

ごろっと白桃のミルフィーユ仕立て(ガスト

■ 今週の支那文字:鰂

魚へんに則で「鰂」は何て読む?

■ 今週の「シオニスト」大集会、あるいは、<野蛮>を駆動する「文明」の呪い

ネタニヤフ首相は、ハマスとの戦闘について「文明同士の衝突ではなく、野蛮と文明の衝突だ」と位置づけて正当性を強調。google

▼ 米国とイスラエルは「シオニズム」国家

イスラエルのネタニエフ首相と米議会はとてもよく似合う。両者の根本イデオロギーが一致しているからだ。「シオニズム」。シオニズムとはシオンの丘は約束の地であり、そこに国を創るが当然であるとの思想に基づくユダヤ人の運動だ。これを米国に比喩として当てはめると、アメリカ大陸は白人キリスト教徒の約束の地であり独立国を創って当然だということだ。成功した。ただし、その成功は先住民の駆逐とジェノサイドの結果だ。米国の建国は完了した。一方、イスラエルは現在進行中なのだ。先住民の駆逐とジェノサイドを継続中。お互い存立構造が同じなのだ。

明白なる使命

あれだけガザなどで民間人を殺害しているイスラエルを米国が批判どころか、肯定するのは、そうしなければ、自分たちの所業が肯定されないからである。

<野蛮>との闘いは米国建国後も続く。いや、続けないといけないのだ。米国は常に<野蛮>からの挑戦を受けるので、闘い続ける。その闘いでは、「文明」のために<野蛮>を殲滅しつづける。無辜であっても<野蛮>は<野蛮>だ。

ネタニヤフ首相は、ハマスによる襲撃を受けた2023年10月7日は「1941年12月7日(真珠湾攻撃)や2001年9月11日(米国同時多発テロ)と同様に、不名誉として永遠に語り継がれるだろう」と述べた。ソース

つまり、ネタニヤフ首相は真珠湾攻撃なぞする<野蛮>には、広島、長崎、東京...のジェノサイドが当然なのだ。事実、ネタニヤフ首相率いる内閣の大臣はガザへの核攻撃を主張した。

広島、長崎、東京...もすべて、野蛮との戦いとして文明国アメリカがやった正統な行為であると主張しつづけないと、自分たちの根本思想が疑われる。ネタニヤフ首相はそれをわかっている。つまり、米国とイスラエルは永遠に「文明」のために<野蛮>を殲滅しつづけるのだ。

<野蛮>な俺たちの末路

現在のイスラエルのジェノサイドを止めさせることは必要だ。でも、ジェノサイド完了の恩恵を受けている成功したシオニズム国家、アメリカ合衆国の 寄生者 既得権者たちのイスラエル批判には説得力がない。


成功したシオニズム国家、アメリカ合衆国で悠々自適、イスラエル批判のユダヤ人

ジェノサイドの街・東京で、旧?<野蛮>人に教えを垂れる米国から来たユダヤ人

▼ 文明


文明の政治には六つの要訣あり[google]。文明の裁きをこえて[google]が出てこなかったので、「勝者」で。

おいらは、「文明」と聞くと身構える。<野蛮>を駆動する呪いの言葉に聞こえる。おいらはずっと長く疑問に考えていることは、なぜ、福沢諭吉は、先住民の駆逐とジェノサイドの結果できたアメリカを文明と考えたかである。さらには、「奴隷貿易は、人類が犯した最悪の犯罪の中でも、最も広く深く行われたもの」とされるが、奴隷主たちが建てた国を文明国と考えたかである。諭吉はインヂヤンに言及しているが(愚記事)、もちろん、アメリカを「鬼畜」よばわりしていない。

さらには、諭吉が英米と対峙していた時期は、イギリスのインド支配、アヘン戦争の時代だ。そういうのが文明だというのだ。諭吉のインド、支那認識は述べられている ⇒同上愚記事。もちろん、イギリスを「鬼畜」よばわりしていない。

■ 今週の発見:東大歴史学教授さま(山内昌之 [wiki])の誤解

ボリシェヴィキを彷彿とさせる長州藩の妥協なき理想追求
幕末長州~松下村塾と革命の志士たち(10)攘夷のリアリズムと実行テンミニッツTV

どこか間違いかというと、英米仏蘭の4か国による連合艦隊による報復の戦は、翌月ではなく、翌年のことです。間違いと云っても、ただの翌月と翌年を間違えただけのものかと見えます。しかしながら、さらに間違っています。4か国による連合艦隊による報復の戦で確かに前田砲台は上陸した軍隊に占領されました。しかし、それは英米仏蘭の陸戦隊による占領です。上の山内の文章は間違っています。よく言っても不十分です。襲撃した軍艦は4か国による連合艦隊です。ただし、間違いの原因は容易に推定できます。前田砲台がフランス軍艦(のみ)に襲撃されフランスの陸戦隊(のみ)が上陸し、同地が占領されたことがあります。それは4か国による連合艦隊による報復の戦の前の年(1963年)のことです。上記文章の前半の「5月10日がやってきます。(中略)下関(馬関)海峡、現在の関門海峡を通過していくアメリカの商船、フランスの通報艦、オランダの軍艦に対して、次から次へと砲撃を仕掛けていった」で言及される1963年の戦でのことです。なお、1864年にも前田砲台は占領されました。主流は英国陸戦隊です。

山内が云う「4か国による連合艦隊による報復の戦で下関の「前田砲台」を占領され」たとは下記画像で示される史実に違いない。


写真作品名:「アレクサンダー大佐による砲台の大砲の解体」(google
フェリーチェ・ベアト(Felice Beato)撮影 [wiki]。

【間違いの原因】 山内昌之の間違いをした理由は容易に推定できる。下関戦争の2年、2度にわたる戦闘を混同し、個別戦闘の詳細を理解していないからだ。例えば、前田砲台は1963年、1964年の2回とも<毛唐兵>が上陸し占領されている。

【下関戦争、1963年の戦い、1964年の戦いの性格の違い】 1963年と1964年の戦闘の性格が違う。長州側の当事者も変わる。1963年と1964年の戦闘の間に京都で政変があり、長州勢は朝敵となる。欧米列強側も当事者が変わる。それらを下記まとめる。

【1863年の戦い】

対峙国:米仏蘭
長州側&攘夷派当事者:久坂玄瑞、赤禰武人、中山忠光、光明寺党浪士、毛利能登[wiki]
大義名分:孝明天皇に対する将軍家茂の攘夷実行の約束期限(文久3年5月10日)
軍艦 庚申丸、癸亥(きがい)丸

<第1次攘夷戦> 文久3年5月10日(1863年6月25日)。米国商船ペンブローク号(Pembroke)をいきなり不意に襲う。ペンブローク号は逃走。孝明天皇、褒勅を下す。

<第2次攘夷戦> 5月23日。フランス軍艦(通報艦)キャンシャン号(Kien-Chang)に砲撃。水兵4人死亡。長崎へ逃走。

<第3次攘夷戦> 5月26日。オランダ軍艦メデューサ号(Medusa)を砲撃。死者4名。逃走。

<第4次攘夷戦> 6月1日。米軍艦ワイオミング号が報復のため来襲。庚申丸、撃沈。癸亥丸、大破。長州砲台も艦砲射撃で損害大。米側死者6人、長州側8人。

<第5次攘夷戦> 6月5日。フランス軍艦セミラミス号、タンクレード号が報復のため来襲。艦砲射撃の上、陸戦隊が上陸し前田砲台を占拠。前田村焼討ち。ジョレス少将[wiki]上陸。(現地散歩愚記事)

アメリカとフランスは一方的に攻撃されたので、数日をおいて、報復攻撃を行った。一方、オランダは報復攻撃をしなかった。

【1864年の戦い】

対峙国:米仏蘭
長州側&攘夷派当事者:戦闘;奇兵隊、山縣有朋、赤禰武人、
和平;高杉晋作、伊藤博文、井上馨

<英国参加と襲来まで> 長州の攘夷戦の対象として英国船はなかった。その頃(1963年)、英国艦隊は薩摩襲撃に従事していた。英国は被害を受けていないのにもかかわらず、長州懲罰の主力となった。当時日本近海で最大の海軍勢力は英国海軍であり、その奉じるところのイデオロギーは「自由」貿易の強権的実施である。その典型的成果がアヘン戦争ーアロー戦争の勝利である。

 大英帝国の時代

そのイデオロギーからして、下関海峡を封鎖して航行の自由を奪う行為は断固軍事的にでも解決されなければならない(暴「長」膺懲!)。まずは、筋を通して、日本政府である徳川幕府に申し入れをした。

すなわち、6月14日アメリカ公使館から幕府への四か国連盟の公文書において「二十日以内に下関通航の安全に関して現実的変化がみられない場合、またはそれに対する満足な保証が得られないときは、事前協議なしに軍事行動に出る」と。なお、この文書を日本語に翻訳した幕府の官僚は、福沢諭吉である。

実施したのは英国公使のオールコック。本国は日本での戦争に難色しめしたが、訓令の前にオールコックは戦争を開始。

<第6次攘夷戦> 1864年8月5日-8月7日。英米仏蘭総勢17隻、英(9)、米(1)、仏(3)、蘭(4)の連合艦隊が下関に襲来。艦砲射撃で砲台を破壊、陸戦隊が上陸し占拠する(前田地区)。それが上記のフェリーチェ・ベアト撮影の写真。英米仏蘭、死者12、長州18。

山縣有朋の奇兵隊はユーリアラス号艦長のアレクサンダー大佐率いるイギリス海兵大隊と交戦(参考)。銃撃と槍突撃で70数名の死傷者の損害を与えた。

<講和> 高杉晋作が英国艦隊のキューパー司令官と交渉。
①下関海峡の外国船の通航の自由、
②石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、
③悪天候時の船員の下関上陸の許可、
④下関砲台の撤去、
⑤賠償金300万ドル
の5条件で講和が成立。特に、最後の賠償金300万ドルの支払いは幕府が支払うということで、長州と四か国連盟代表英国と合意。この300万ドルというのは当時の幕府の年間予算の1/3であったらしい。当時、10万ドルで軍艦1隻が買えた。軍艦30隻分だ。

【1863年の戦いと1864年の戦いの間】 八・一八政変、蛤御門の変。

<久坂玄瑞の死>
1863年の戦い、文久3年のことを下関事件、1864年の戦い元治元年のことを四国艦隊下関砲撃事件と呼んで区別しているとも云えり。2つを区別している。戦いの性質が違うからだ。前者、1863年の戦い、下関事件は、ほとんどテロである。今でいうなら、フーシ派だ。いきなり、なんの警告もなく艦船に砲撃を加えた。これを実現させたのは久坂玄瑞の意志である。久坂玄瑞は吉田松陰の愛弟子い他ならない。松陰の志を実現した。孝明天皇からお褒の勅を賜ったともある。その後、下関事件の後、そのまま久坂玄瑞は行動し続ける。そして、死ぬ。蛤御門の変。

<奇兵隊誕生>
下関事件が終わらない時点、すなわち、第4次攘夷戦の後、第5次攘夷戦の前、長州毛利家の藩主から命じられて、騎兵隊を創設する。のち日清、日露戦争を敢闘する山縣有朋も一員だ。

■ 今週の「まさかの福沢諭吉」: 長州再征に関する建白書、あるいは、暴「長」膺懲!

2005年からのテーマです:おいらが最初彼らを知って調べたとき、外国船に砲撃するわ、英国公使館を焼き討ちするわ、老中暗殺を企てるわ、こいつら きちがい だな!と思っていた(愚記事:They look just like two Gurus in drag ! 西のグル、北のグル

福沢諭吉は攘夷派を嫌っていた。暗殺がいやなのだ。当然、テロやクーデターもいやなのだろう。王政復古となり新勢力=薩長が政権を握った時、攘夷派が政権をとったと思い、絶望した。でも、薩長新政府は、「開国・開明」路線に転じた。それでも、福沢諭吉は新政府には出仕しなかった。

そもそも、徳川家には見切りをつけた。でも、明治になって、福翁自伝には、諭吉は薩長のテロとクーデターを非難することもなく、その正統性に疑義を呈することもなく、過ごしていたと見える。

でも、薩長が攘夷戦争をしていた時、諭吉は幕府「直参」としてどう振舞っていたのか?対薩長戦には全然乗り気でなかったことは自伝に書いてある(さて慶喜さんが京都から江戸に帰って来たというその時には、サア大変。(略)君たちは戦うとも和睦しようとも勝手にしなさい、僕は始まると即刻逃げていくのだから 愚記事)。ただし、当時の対薩長観は、あまり書かれていない。

そんななか、平山洋の『福沢諭吉』をみて、知った。諭吉は1866年前後のことを『福翁自伝』で言及していないと。そして、この間、諭吉は「長州再征に関する建白書」という長州成敗をちゃんとやれ!という意見書を書いて、提出していたと。長賊外交の路を絶其罪状を万国へ嗚候事。(全文)「長賊」ですよ、「長賊」。暴「長」膺懲! 攘夷の長州を武断で黙らせて、幕府が開国外交をすすめよ、ということだ。

知らなかったよ、諭吉。すこしは、まともじゃん。

 

 


筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第17週

2024年07月20日 21時01分13秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第17週

■ 今週の筑豊境

お祭り

■ 今週の半額

三富 桜餅おはぎ詰合せ 3個入;桜餅、あんのおはぎ、きなこのおはぎが楽しめる詰め合わせ。 (引用元

三富株式会社
和菓子の製造・販売を行う会社饅頭や羊羹などを扱っている企業
福岡県に拠点を置く和菓子の製造・販売を行う会社です。羊羹製作事業、饅頭生産事業、もち菓子製造事業に取り組み、飲食・外食、食品、和食、和菓子の業界で活動しています。引用元

⇒ みんなの食品口コミサイト もくなび 三富の商品

■ 今週の3割引き、あるいは、天然もの

天然真鯛の刺身

■ 今週返した本

◆ 『三島由紀夫「最後の1400日」』、本多清、毎日ワンズ(2020年)Amazon (出版社からのコメントあり)

三島由紀夫の盾の会 [wiki] は100人ほどいたらしい。当時、1970年頃、学生だった人たちなので、現在は70代後半。団塊の世代。もう死期を考え、体験を書き残そうということか。盾の会にいた人が複数自伝を書いていると気づく。この人は三島から遺書ももらったという。原文が公開されている。

● <盾の会 ー ド・ゴール> ライン::五十嵐九十九、あるいは、元祖コスプレイヤー

この本で、目次を見ると、「ド・ゴールと盾の会」とあった。ああ、やはり、盾の会はド・ゴール主義が好きなんだろうなと思った。もちろん、ド・ゴール主義とは、

ド・ゴールの国際政治における主要な主張は国家の主権であり、その思想の実践としてNATOや欧州経済共同体(EEC)のような国際組織に対して、ある程度反対の立場を取った。その基本的な信条は、「フランスの存続のためにフランスは外国に依存すべきではなく、フランスはいかなる外国の圧力に対しても従属すべきではない」というものだった。
  この信条に基づき、ド・ゴール政権下のフランスは独自の核抑止力を作り、アメリカ合衆国への過度の従属を避けるためにNATO軍事機構からの脱退を行うこととなった。wiki

というものだ。

このド・ゴール主義を日本に当てはめれば、日本の核武装と米国と距離を取ることになるはずだ。だから、三島由紀夫と盾の会の軍事・外交の政策において、この点が書かれているのだろうと思った。この本を手にとったとき目次で見て気づき、真っ先に読んだ。

全然、違った。

 

衣装のことだった。

応募者たちが憧れた「盾の会」の制服は、冬服はカラシ色、夏服は純白で、道ゆく人が目を見張るほど派手なものだった。よく若い女の子からすれ違いざまに「かっこいい!」と黄色い声をかけられたものだった。この制服はド・ゴール仏大統領の軍服をデザインした五十嵐九十九氏の手になるもので、当時の金額で一着一万円もしたらしい。

ド・ゴール将軍と三島由紀夫、盾の会の制服のデザイン/縫製者が同じ五十嵐九十九(wiki)という人なのだという話だ。自主防衛、自主核武装、ド・ゴール主義の話ではないのだ。

この本多清の本によれば、堤清二に三島が連絡あったというのだ。

「今度おもちゃの軍隊を作ることになったんだが、制服はうんと格好良くなくちゃいけない。僕が調べたところド・ゴール将軍の軍服が一番いい。あれを作ったデザイナーを調べてくれないか」と依頼されたのです。調査の結果、そのデザイナーは五十嵐九十九という日本人で、おまけになんと当時西部デパートに努めていたということがわかりました。

この証言で注目すべきは、デザイナー・五十嵐九十九(wiki)に加えて、「今度おもちゃの軍隊を作る」という三島の発言だ。おもちゃの軍隊。

五十嵐九十九インタビュー

・五十嵐九十九 氏 シャルル・ド・ゴールの軍服や三島由紀夫の「楯の会」の制服を卓越した技術で仕立てる。



五十嵐九十九氏が作られた「楯の会」の制服   出典:『平凡パンチ』(昭和43年11月特別号)


おもちゃの軍隊:「楯の会学生長持丸博の記憶によると、この2年間で三島が楯の会につぎ込んだ金額は1,500万円以上になったという。三島は貯金が1/10になってしまったと女友達の湯浅あつ子にも愚痴っている。」(引用元

三島由紀夫は1,500万円使ったとある。この1,500万円の価値を考える。1970年7の大学初任給は39,900円。今は23万円とのこと。そうすると、現在の価値で8,600万円に相当する。

● 未公開写真

 『三島由紀夫「最後の1400日」』、本多清、毎日ワンズ(2020年)

兵隊ごっこ」で、演習での「敵軍」将校の役。これも、コスプレ。

● 三島由紀夫の近代日本認識

「国防に関する意見書」。昭和44年(1969年)春ー初夏頃(全共闘との討論の頃)。『武士道と軍国主義』というみだしの項での一文;

 日本の軍国主義なるものは、日本の近代化、工業化などと同様に、すべて外国から学んだものであり、日本本来のものではなかった。さらに、この軍国主義の進展と同時に、日本の戦略、戦術の面から、アジア的特質が失われてしまった。
 日本に軍国主義を復活させよ、などと主張しているのではない。武士道の復活によって日本の魂を正し、日本の防衛問題の最も基本的問題を述べようとしているのだ。日本と西洋社会の問題、日本の文化と西洋のシビライゼーションの対決の問題が、底にひそんでいるのだ。(『三島由紀夫「最後の1400日」』)

三島由紀夫の大日本帝国への見解は、実は、体系的に語られていない。さらに、「明治維新」については全く語られていない。仮初にも、「クーデーター」を実施しようと思ったのであれば、成功したクーデーターである「明治維新」に照らして、自分の企図するクーデターを語るべきであったと、おいらは、思うのだが。

三島由紀夫は戦後日本の皇室の在り方には明確に違和感を表明している。さらに昭和天皇の在り方を、三島は自分の考える天皇の在り方ではないと明言している(不敬者!)。一方、明治天皇については明言していないと思う。上記の通り、三島は大日本帝国(あるいは、明治国家)についての評価を明言していない。したがって、大日本帝国陸海軍(旧軍)の評価についての文章をおいらは知らない。一方、三島は「武士」を称賛している。自衛隊は武士たれ!とアジっている。ところで、大日本帝国陸海軍は武士を否定して成立した軍隊である。明治5年の明治新政府による太政官告諭の『徴兵告諭』において「双刀ヲ帯ヒ 武士ト称シ抗顔坐食シ、甚シキニ至テハ人ヲ殺シ」と武士を罵倒している(愚記事)。これが、大日本帝国陸海軍だ。つまり、王政復古し天皇が統治することになった近代日本で武士が公式に認められたことはないのである。

三島由紀夫の見解を著者の本多清が綴った文章;

 太平洋戦争にいたる軍部の誤った戦略展開は、わが国の文化の基となる天皇国家をねじ曲げた。さらに敗戦、被占領によって、我々は美しい伝統と民族の心をうしなったのである。
 今物質的な豊かさとは裏腹に、人々は誇りを失い、心を失っている。(『三島由紀夫「最後の1400日」』)

武士が好きで、大日本帝国陸海軍を否定はしないが言及(肯定)もしない三島由紀夫が理論的に筋を通すのであれば、明治維新を否定して、武士の世の中を再興しなければならない。天皇はどうする?一君万侍?

さらに、武士を否定した天皇中心の大日本帝国の国是は「智識を世界に求め、大に皇基を振起すべし」(五箇条の誓文)とある。「世界に求め」というが実際は欧米だ。そして、日本人は「筒袖・股引」の装いとなった。刀も棄てた(廃刀令)。こういう歴史的経緯で、三島の盾の会は「筒袖・股引」のいで立ちで、三島由紀夫は武士道と日本刀を叫ぶ。

武士道と日本刀と明治政府に罵倒された人たちの「衣装」はこれだ;


米国での「最後」の日本人たち

● 「私はパンが嫌いだ!」

この場面は、自衛隊の山本舜勝 [きよかつ wiki] と三島と盾の会幹部との食事でのこと。山本舜勝は盾の会を指導していた。この日、三島は山本にクーデターの実現を迫った。それを山本が逸らした。それに対し三島が「話が違うじゃないか!」と怒る。そして...

「私はパンが嫌いだ!」。この発言は何を暗示しているのか? 三島は自宅で純粋西洋風晩餐で客をもてなしたと伝えられている。今さらパン嫌いでもなかろうと思うだが。しかし、昭和37年(1962年)、村松剛は三島に「きみは頭のなかの攘夷を、まず行う必要がある」といわれている(『三島由紀夫の世界』)。村松はこの後三島は日本への「回帰」が始まると評している。とはいえ、盾の会の衣装、軍服はやはり「筒袖・股引」であり、ド・ゴールの軍服を真似たものだ。つまりは、体系的文化的様式というより、その場、その事案ごとに三島が「美しい」と思ったものどもをかき集め採用しているのだ。だから、ド・ゴールの軍服/グループサウンズの衣装に、武器は日本刀という理論を唱えることとなる。その文化的、文明的思想体系、あるいは系譜という「内実」がない。つまり、「からっぽ」な何かなのである。

ところで、三島由紀夫はディズニーランドが好きだった。米国のDLに通った。今の人は知らないかもしれないが、三島が死んだ頃、日本にはディズニーランドがなかったのだ。三島が死んだのち、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、経済大国となった日本にディズニーランドが開園したのである。


無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、 若い二人は夢中になれるから

もちろん、ディズニーランドは夢の国、「王国、お姫様ごっこ」の世界だ。そして、盾の会も「兵隊ごっこ」だ。つまりは、コスプレイヤーの世界だ。

したがって、三島の文章は肝心な点が足りなかった。無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、コスプレ大国が極東の一角に残ったのだ。もちろん、盾の会はそのコスプレ大国の嚆矢であることはいうまでもない。

■ 今週返した本

 


散歩:大分県中津::福澤諭吉旧居·福澤記念館、中津城・奥平家歴史資料館

2024年07月18日 18時11分39秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

大分県旅行の第2日目は、中津。

1.JR中津駅、2.福澤諭吉旧居·福澤記念館、3.中津城(奥平家歴史資料館)、4.中津市歴史博物館、5.Café こはこ

■ 1.JR中津駅

福岡県、というか九州に来て学んだこと。SunLive(サンリヴ)はいたるところにある。そして、洗脳されている。

■ ⇒ 2.福澤諭吉旧居·福澤記念館

■ 2.福澤諭吉旧居·福澤記念館

web site

福澤記念館は撮影禁止。

 

■ ⇒ 中津城

中津城(なかつじょう)または中津川城(なかつがわ(の)じょう)は、大分県中津市二ノ丁(豊前国中津)にあった日本の城。黒田孝高(如水)が築城し、細川忠興が完成させた。 大分県指定史跡。享保2年(1717年)からは、奥平家が居城としていた(中津藩も参照)。(wiki)

黒田如水
黒田 孝高(くろだ よしたか、旧字体:黑田 孝高)は、播磨国の姫路生まれで戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・軍師。キリシタン大名でもあった(洗礼名はドン・シメオン)。戦国の三英傑のうち、織田家(羽柴秀吉の重臣として)、豊臣家に重用され、筑前国福岡藩祖となる。(wiki)

黒田如水が伴天連だったと今知った。

▼ 奥平家の歴史

■ 中津歴史博物館

web site

 

■ cafe こはこ

食べログ

■ ⇒ 中津駅


散歩:大分県杵築 [きつき]、重光葵 [まもる]・無迹庵 [むせきあん]⇒城下町域:酢屋の坂

2024年07月15日 18時23分54秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

大分県に行った。大分県は、おいらが今住んでいる福岡県の隣の県。これまで一度行ったことがある。当時は「つくば山麓」から出張で行った。ホバークラフトに乗った。今知ったが、この空港から大分をつなぐホバークラフトはこの後なくなったらしい。そして、今、再開を検討中とのこと。

2006年 愚記事

今回の大分県旅行の第1日目は、杵築(きつき)に行った。目的は(外交官、政治家の)重光葵(しげみつ まもる)の出身地であり、家がある。JR杵築駅から歩いていく。

重光葵(1887-1957)

明治44(1911)年東京帝大法科大学卒。昭和4(1929)年以降、上海総領事、駐華特命全権公使等を歴任し、7年には爆弾テロ事件で片足を失う。8年以降、外務次官、駐ソ、駐英、駐華の各特命全権大使を務め、また東条内閣、小磯内閣、東久邇宮内閣でそれぞれ外相に就任し、戦中、戦後外交を進めた。23年A級戦犯として禁固7年の判決を受け、25年仮釈放。27年改進党総裁、同年第25回総選挙で衆議院議員に当選し、以後第27回総選挙まで連続当選。日本民主党副総裁、第1次~第3次鳩山内閣の外相を務め、日本の国際連合加盟に尽力した。近代日本人の肖像

1.JR杵築駅、2.無迹庵、3.杵築バスセンター、4.酢屋の坂、5.きつき城下町資料館

■ 1.JR杵築駅 


小京都というけれど、京都に天守閣はない。

杵築駅(きつきえき)は、大分県杵築市大字八坂野添にある、九州旅客鉄道(JR九州)日豊本線の駅。当駅から日出駅までが単線区間である。特急は「にちりん」「にちりんシーガイア」と「ソニック」のそれぞれ一部が停車する。また、大分方面からの一部普通列車が当駅で折り返す。wiki

■ ⇒ 2.無迹庵(むせきあん)

■ 2.無迹庵(むせきあん):重光葵(まもる)が幼少期ー旧制高校入学まで過ごした屋敷

日本の変革期に名を残す名外相「重光葵(まもる)」が幼少期に過ごした屋敷。重光葵は明治20年(1887)に大野郡三重町(現豊後大野市)に士族の次男として生まれ、3歳の時に父の実家の杵築に移住。杵築高等小学校、首席で卒業した旧制杵築中学校と幼少期のほとんどを杵築で過ごした。努力家で蔵の2階で勉強に励んだという屋敷は「無迹庵(むせきあん)」と名付けられ、遺品や写真の数々が展示されている。(杵築市 web site)

▼ 母屋内部

木箱の中には降伏文書のレプリカが展示してある。

 

兄・簇(あつむ)、葵(まもる)、弟・蔵(おさむ)の三兄弟

▼ 別棟

▼ 庭

「本庄」バス停から杵築バスセンターに向かう

■ ⇒ 杵築バスセンター

3.杵築バスセンター、4.酢屋の坂、5.きつき城下町資料館、A:大扇旅館(お食べ家まる)、B:勘定場の坂

お食べ家 円 (食べログ

 


マップ 3.杵築バスセンター、4.酢屋の坂、5.きつき城下町資料館、A:大扇旅館(お食べ家まる)、B:勘定場の坂

河岸段丘の段丘崖らしい。坂で段丘面に登る。

▼ 

段丘面のに上がる。武家屋敷街。

▼ 酢屋の坂

今立っているのが北台。北台と南台の間に谷筋が走っている。その谷に降りる坂。

杵築市北台南台伝統的建造物群保存地区(杵築市 web site

谷筋。谷町。

南台へ登る。

振り返って見る。

振り返って見る。

▼ 展望台

杵築城: 

杵築城は、室町時代初期に木付氏によって八坂川の河口にある台山(だいやま)の上に築かれた。台山は、北は高山川、東は守江湾に囲まれた天然の要害である。連郭式の平山城で、台山を空堀により4区画に区切られていた。

戦国時代には大友氏と島津氏の戦い(豊薩合戦)の舞台となり、江戸時代には杵築藩の藩庁が置かれた。wiki

■ きつき城下町資料館

きつき城下町資料館 大分県博物館協議会

■ ⇒ 杵築バスターミナル

● 11時頃杵築駅に着き、14:40に杵築バスセンターから去った。時間が全然足りなかった。特に、肝心の武家屋敷はまわれなかった。交通はあるが、便数が少なく、時間が取れなかった。また来る。


筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第16週

2024年07月13日 20時03分13秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第16週

■ 今週のよその猫

■ 今週の筑豊境

■ 今週の花茸

■ 今週の違和感


JR宇佐駅の駅のシンボルデザイン

大分県宇佐には宇佐神宮がある。神宮といえば数えるほどしかない格式の高い霊験あらたかな神社のはずだ。つまりは、「純ジャパ」の聖地のはずだ。それがどういうことだ!? 上記のデザイン。 こじらせのおいらの意識過剰か? でも、

   

宇佐=USAだからということなのだろう。

▼ もやもやするので、とりあえず、ハンバーガーを食べた(???)

 

■ 今週の城下町、その1、中津(大分県)


中津城

■ 今週の城下町、その2、 杵築(大分県)


杵築城

■ 今週の( 生家 )育家、その1、福沢諭吉

■ 今週の( 生家 )育家、その2、重光葵

右下の箱はミズーリ号での降伏文書(のレプリカなのだろう)。(なぜかしら)撮影禁止。ネットで見られるものだが。


東京都江戸東京博物館のレプリカ(愚記事

■ 今週のビンゴ:諭吉ー重光ライン

上の画像の左上の額の字が諭吉のものだというのだ。下記が説明文;

■ 今週の昭和の成仏のために

大分県中津市 大師食堂 食べログ

 

 


筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第15週

2024年07月06日 18時46分06秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第15週

■ 今週の筑豊境

■ 今週の葉木


▲ プラタナスの葉

▼ 柏の葉


柏餅

■ 今週のたこ


蛸のマリネ

■ 今週のツクリタケ


マッシュルームのアヒージョ。

アヒージョは、オリーブオイルとニンニクで食材を煮込んだ料理のことで、「タパス」と呼ばれるスペイン南部の伝統的な小皿料理のひとつです。厳密には、アヒージョとはスペイン語で「小さなニンニク」や「刻んだニンニク」を表す言葉でしかなく、料理のことを指す場合は「食材名+アル アヒージョ」となります。出典

スペインに何度が行ったことはあったが、アヒージョを食べたことがなかった。オリーブ油のまったり感+にんにく風味+塩味。

■ 今週の富士山

すかいらーくグループ、ガスト web site 富士山大盛りミートソース 

底にキャベツが敷いてある。

■ 今週のおまいう?:「戦争がいかに愚かな結果を招くか」、あるいは、賢い戦争

「戦争がいかに愚かな結果を招くか」高知市の自由民権記念館で戦争と平和を考える展示

1868年、徳川慶喜が大政奉還をして公儀による日本統治を天皇に申し出たが、それでは独裁ができなくなると考えた薩長はテロとクーデーターを起こし、強引に戦争を惹起させた。その尻馬に乗ったのが土佐だ。大日本帝国の成立。


賢い戦争? 会津戦争で降伏する松平容保を睥睨する板垣退助

その大日本帝国の結末だ ↓。


高知大空襲の戦災状況(出典)。

■ 今週のうそ


出典

写真家・高嶋敏展さん:
「1つだけ間違いなく言えることがある。それは戦争で幸せになった人は1人もいない

小学生に大嘘を教える大人

戦争に勝って喜ぶ米国人。(出典

戦争に絶対必要なものは武器ばかりではない。戦争に絶対に必要なもうひとつのものは、正義である。古今東西、おれたちはワルモンだからちょっとおれたちの実力を見せつけるため、オマエをやっつける!と云って戦争を始める集団はいない。必ず、正義を掲げ、その正義の実現のため悪を排除すると云って戦争を始める。そして、戦争により正義が実現されると至福の絶頂となるに違いない。さらに、その正義を主張する集団を煽動し武器を売って幸せになる集団もいるだろう。戦争で幸せになる人は少なからずいるのだ。

だからこそ戦争はなくならないのだ。それなのに、「それは戦争で幸せになった人は1人もいない」という嘘から出発していては、戦争はなくならないだろう。