いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第406週

2022年08月27日 18時16分14秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第406週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の花

■ 今週の柑橘

タルトの上に載ったオレンジ

■ 今週知った閉店



https://twitter.com/syokujiotaku/status/1210980453038977024

仙台市青葉区川内の養ちゃん食堂仙台参り 【2015】 昭和の生き仏のために)が、2019年末に閉店していたと知る。 コロナ前だ。

■ 今週のアクセスページ

詫 び る 老 「老紅衛兵」、あるいは、“要武”の顛末 この記事へのアクセスが突発した。何かあったんだろうなと思い調べると、すぐにわかった。テレビ番組らしい。みんな、宋彬彬さんを知りたかったのだ。 Twietter[宋彬彬]

「中国 女たちの愛と野望」

初回放送日: 2022年8月22日

中華人民共和国の建国式典に毛沢東と共に天安門に上る女性がいた。「革命の父」孫文の未亡人・宋慶齢である。中国の権力の攻防の陰にはいつも女性がいた。辛亥革命から権力者を支えてきた宋家の三姉妹、「一人は国を愛し、一人は権力を愛し、一人は富を愛した」と言われた。中国を恐怖に陥れた文化大革命を主導した江青、そのねらいはライバルの女性を失脚させることだった。権力の陰で繰り広げられた女性たちの愛と野望の物語。 (NHK site

■ 今週見つけた誤り

山川出版の世界史リブレット13、岸本美緒、『東アジアの「近世」』。図書館から借りた。明日返却。延長不可。次の予約の人がいる。16-18世紀の東アジアの歴史を「世界商品」(銀、生糸、人参、サツマイモ)を軸にみるショート・ストーリー。その中のp28 ;

当時の銀貨の紹介。メキシコの銀貨と香港の銀貨を載せているが、画像と説明文が取り違えられている。見てわかるように、右側の銀貨には漢字で香港と刻んである。左側の銀貨にはREPUBLICA MEXICOとある。

 

まちがい指摘はさておき、この本は「日本銀」についても書いてある。 デニス・フリン、『グローバル化と銀』と同じテーマ。チャイナを中心に、北方の女真族・満州族と南方の倭人・日本(秀吉)との「交通」(っていうか侵略)の原因・駆動力としての「世界商品」、交易を簡略に書いている。


1600年頃の1年間の銀の移動。

「日本銀」が1年間に50-80トン、チャイナに日本から移動している。その対価は生糸など。当時、チャイナに流入した銀は「日本銀」と「スペイン領アメリカ銀」。両者のチャイナへの流入量が下の図。日本とスペインは銀輸出という点で競合関係であった。

「スペイン領アメリカ銀」はメキシコからフィリピンのマニラに太平洋航路で運ばれてきた。マニラがスペイン帝国のアジアでの拠点。1571年にマニラを拠点化。それに先立つ、1557年にポルトガルがマカオに拠点を造る。そして、日本へのやって来て、「日本銀」とチャイナの生糸の交易の仲介を行い、利を得る。さらには、耶蘇、伴天連が日本にやってくる。イエズス会。日本にとってはとんだ厄災であった。なぜなら、日本人奴隷が海外に売られるようになったかたである。岸本美緒、『東アジアの「近世」』にはこの16世紀の東アジアの歴史を変えた「世界商品」を語るが、「奴隷」については一言もない。岸本美緒が語るのは;

本書では、この時期の東アジアの歴史に重要な役割を果たしたいくつかの具体的な物品を選び、その物品をとおして東アジアの「近世」像を描いてみたい。その物品とは、(1)この時期に世界を結びつけた銀、(2)国際交易の花形であった生糸や人参、(3)国家形成に大きな役割を果たした鉄炮などの火器、(4)アメリカ大陸から導入された煙草やサツマイモなどの新作物、である。

▼ 歴史学批判

この82ページの「本」はなかなか難しく、歴史学批判となっている。題名の近世は括弧付きとなっている。これは、「異なる社会のなかで共通の発達段階をみようとする」歴史認識を批判したもの。さらには、現在の国民国家的認識で過去を遡る歴史観も批判している。チャイナでの清朝成立後、南方の旧明勢力残党の鄭成功の反乱戦争について、「満州人の清朝」対「漢人の明朝」の対決として単純に考えることはできないないだろう、として; 

両者はともに、十六世紀以来、生糸や人参といった国際商品をめぐって中国の北と南に成長してきた国際市場から生まれた勢力であり、そのリーダーの身体に流れる血はけっして「満州人」「漢人」のみのものではなかったのである。諸民族の雑居状況を当然の環境として育った彼らの考え方や戦略的視野は、ともすれば国籍や民族を単位に人を区別する今日のわれわれとは、大きく違っていたことであろう。 岸本美緒、『東アジアの「近世」』

この本は1998年刊行。もう四半世紀前なんだ。その頃は、「グローバル・ヒストリー」なんて言葉は一般化していなかったであろう。

▼ 人参と貂(てん)の毛皮

当時の女真経済は、農業と共に狩猟採集に依存していたといわれるが、狩猟採集といっても獣を狩ってその肉を食べたり木の実を取って食べたりする素朴な自給自足経済ではなく、国際交易と深く結びついた貂や人参など特産品の狩猟採集であったことに注目する必要があろう。諸民族のいりまじる市場に若い頃から出入りしていたヌルハチは、有能な武将であると同時にまた「商業資本家」でもあったのである。(岸本美緒、『東アジアの「近世」』)

 うめちゃんと康熙帝(こうきてい)

康熙帝の先祖の初代・ヌルハチが人参や貂で財をなしたとは知らなかった。

「我が国は東珠・人参・紫貂・元狐・獪狸獅など珍奇な物を盛んに産出しており, 衣服や用具を整えるのに十分である。撫順・清河・寛奠・靉陽の四関で互市を行い,商取引を行っている。このため国も民も豊かである」(『清実録』「太祖高皇帝実録」巻二) ソース

▼ 人参屋さんの末裔

ソース

そういえば、人参は目に良いといわなかったっけ


新しい街でもぶどう記録;第405週

2022年08月20日 18時00分00秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第405週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週のメタセコイア

■ 今週の花葉

■ 今週のマメ

血豆をつくってしまった。

■ 今週のハサミで切ったもの

のし梅

■ 今週の半額

 

日頃は買わない瓶入り牛乳が半額だったので買う。低温殺菌牛乳。これでヨーグルトをつくったら、ゆるかった(固まり具合が低かった)。調べると、低温殺菌牛乳はある種の菌が生きていて、ヨーグルトの菌と競合し、ヨーグルトの出来に影響があるとのこと。知らなかった。

■ 今週借りて読んだ本

遠藤周作、『深い河』。おいらは、市立図書館(及び分館)には行かなくて(近くにないので)、予約して近くの公民館で受取、返却をする。その公民館には貸出図書(開架)があり、横浜市立図書館とは別の貸し出しカードで本を借りることができる。棚にあったので、借りる。遠藤周作の最後の作品だという。それぞれわけありの過去を引きずる日本人たちが(1984年に)ツアー旅行でインド(北部:デリー、バナラシ [ヴァーラーナシー wiki])に行く話。

この作品に関するweb siteは多く、解説、感想も多い。例えば、下記記事で作品の概要がわかる;
KEN書店 様 考察・解説・あらすじ『深い河』(遠藤周作)ー宗教・信仰・人生ー 

▼死んでも教えを離しませんでした:大津。「義人」大津は「サタン」の試練に遭う。「サタン」は同じ大学(設定としては上智大学としか思えない)の仏文科の美津子から弄ばれ捨てられる。美津子が大津を弄び捨てようとした理由は大津が「義人」=神を信じる者だからである。なぜかしら美津子は神と神を信じる者が気になるらしく、ちょっかいを出す。「なぜ神など信じるのか」と美津子は大津に詰問する。<神に(実は異常な)関心があることを自覚しない、さらには、神を信じたいのだが素直になれない人間>という設定。この「サタン」美津子が大津ののちの人生を見届けるというのが『深い河』の一つの軸となっている。

▼とほほ・大津、あるいは、非欧州・耶蘇教(ヨーロッパ・キリスト教)的耶蘇教

耶蘇教はイスラエルで発祥した。なので、現在のヨーロッパにとっては外来宗教である。ヨーロッパへの耶蘇教普及には修道院が大きな役割を果たしたとされる。さらに、修道院は修道士から構成され一人ひとりが強い意志をもった禁欲的で克己的な人間たちであったとされる(佐藤彰一、『禁欲のヨーロッパ』)。これがヨーロッパの個人主義の源流ともいわれる(関曠野、『なぜヨーロッパで資本主義が生まれたか』)。そういう連中が後世、15世紀にイエズス会としておれたち日本人の前に現れたのだ。イエズス会以外の修道会も公然と世界征服を企画、実行した。

そういう耶蘇教での修道がうまくいかず、司祭になれず事実上追い出されるのが大津。でも耶蘇教をやめない。なぜなら、自分は耶蘇を掴まえようとしているのではなく、耶蘇が自分を掴まえているからだと認識している。そして、大津が所属修道会の教えに順応しないのかは、「心にもない嘘をつくことは決してしない」からである。「決して嘘をつかない」大津は司祭になれず、インド、ヴァーラーナシーのインダス川の火葬場の死体担ぎとなる。

▼遠藤周作の「インド像」

遠藤周作、『深い河』の虚構のひとつは、ヴァーラーナシーの寺院「ナクサール・バガヴァティ寺」のチャームンダー女神像。「ナクサール・バガヴァティ寺」は架空の寺院である(google)。チャームンダーという女神は実際にいる。1990年に遠藤はデリーの国立博物館の下記チャームンダー女神像で、この女神を知ったらしい。遠藤周作にとって、チャームンダー女神像はインドの象徴である。

 Chamunda(wiki

『深い河』ではツアーの添乗員の江波にチャームンダー女神像を解説させる;

江波はそれを遮ぎって、「ぼくの好きな女神像を見てください」と一米 にみたぬ樹木の精のようなものを指さした。
「灯が暗いから近寄ってください。この女神はチャームンダーと言います。チャームダーは墓場に住んでいます。だから彼女の足もとには鳥にに啄まれたり、ジャッカルに食べられている人間の死体があるでしょう」
 江波の大きな汗の粒がまるで泪のように蝋燭の残骸が点々と残っている床に落ちていく。
「彼女の乳房はもう老婆のように萎びています。でもその萎びたた乳房から乳を出して、並んでいる子供たちに与えています。彼女の右足はハンセン氏病のため、ただれているのがわかりますか。腹部も飢えでへこみにへこみ、しかもそこには蠍が噛みついいているでしょう。彼女はそんな病苦や痛みに耐えながらも、萎びた乳房から人間に乳を与えているのです」  (遠藤周作、『深い河』)

遠藤周作が『深い河』でインド行きという設定を選んだのは、チャームンダー女神像に象徴される苦と悲惨の文明としてのインドで現代(設定は1984年)日本人がどう振舞い、考えるかを描くことを目的としたからだ。

▼ベタなオリエンタリズム?

愚記事より

チャームンダー女神像は、端的に「生病老死」を表している。ただし、貧と飢は含まれていないが。さて、18世紀半ばまでインドは総欧州と同じくらいの経済規模であった。別にインドがヨーロッパに比べ貧しかったわけではない。現在の「豊かな」先進国でも「生病老死」の問題はある。社会的貧困(格差、階層、差別に基づく)もあるだろう。したがって、チャームンダー女神像の苦悩は古今東西の悩みともいえるのではないか?近代以前のヨーロッパも「生病老死」+貧と飢があったはずだ。チャームンダー女神像はインドの苦の集積的象徴であってもインド全体の象徴とはいえないというインドに対する認識(インド像)もありうる。なお、遠藤周作がチャームンダー女神像に出会ったインド国立博物館で、おいらは「インド人は、おっぱい星人」というインド像をもった。

▼ 三條夫妻

遠藤周作が『深い河』の感想では、三條夫妻に言及するものはみない。脇役だからだ。三條夫妻は新婚旅行でツアーに参加。夫はカメラマン、妻は本当はヨーロッパに行きたかったがインドとなり不平不満を言いつのる。ヨーロッパ愛好の(当時の)普通の日本人の感覚の持ち主。それでは、なぜインドに旅行先を選んだ理由は夫が特ダネを撮りたくてインドに行くことにした。遠藤はこのカメラマンの三條をロバート・キャパに憧れキャパのような特ダネ写真を撮ることを熱望する。その熱望が結果的に大津を死に導く。遠藤は三條に「すべて要領、要領」という科白を言わせている。これは、「心にもない嘘をつくことは決してしない」との大津の言葉と対照的である。遠藤は三條に「ピューリッツア賞を目指す野心的な人物的属性」を与える。これは前述のようなイエズス会修道士的属性であり、大津と性格が対照的である。これは、遠藤の意図的な設定に違いない。

この若い軽薄な夫婦への沼田(1924年頃生まれ、遠藤と同時代)の科白が面白い;

「私たちの頃には外国に新婚旅行など、とてもできませんでしたよ。日本は繁栄して、若者も外人並みになったんです」

「若者も外人並みになったんです」のくだり。登場人物たちはそれぞれ悲運を抱えているが、登場人物の誰も戦後日本の「暖衣飽食」獲得の達成について、肯定にせよ否定にせよ、言及しない。そもそも、悲運を抱える登場人物が経たはずの「高度経済成長」について遠藤は特に書いていない。ただ、暗に水俣病が出て来るだけである。そういうなかで、「外人並みになった」と遠藤が登場人物に言わせているのが興味深い。「外人並みになった」のは、「高度経済成長」のおかげだ。この頃(1984年頃;プラザ合意が1985年)の日本で「外人並みになった」とよくいわれたとの設定は違和感がない。もっと実際にあった言い廻しは「欧米並み」か。「外人並み」という言い廻しは趣深く、「外人」にはインド人や中国人を含まないのだろう。字義上はそうではないのに。

なお、遠藤は「魂の救済」について、政治では解決できない故、文学があると云っている(下記YouTube)。経済については言及していない。「豊かになった」戦後日本を、福田恒存(『深い河』にはこの名が出てくる)のように「人間の不幸はすべて金で解決出来ると一途に思詰めている野郎自大の成上り者に過ぎない」というわけでもない。もちろん、『深い河』の敗戦前受難者の不幸は「高度経済成長」で癒えるものではない。でも、インドまで行けるのは「豊か」になったからである。

▼ 遠藤周作、『深い河』のメイキングもの。

遠藤がデリーの国立博物館のチャームンダー女神像を知った(案内されたのではなく、自らひとりで「発見」したらしい)経緯などが紹介されており;

遠藤周作 深い河 最後の旅


新しい街でもぶどう記録;第404週

2022年08月13日 18時01分34秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 今週のぶどう、第404週目

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の武相境斜面2: 「カントリー・ジェントルマンの竹槍訓練

15年前の月刊『文藝春秋』で見つけた。あの白洲次郎 (wiki) が戦時中に竹槍訓練に参加したのだという。これは、大いに意外であった。

 母の話では、いよいよ本土決戦がささやかれ始めた頃、隣組で竹槍訓練が行われ、参加した父がリーダーに「この者は敵国の学校を卒業したにもかかわらず、竹槍訓練に参加するとは感心である」とお褒めの言葉を頂いたそうです。父の憮然とした顔が目に浮かびます。「白洲次郎・正子の奇妙な戦争」、牧山桂子(白洲次郎・正子長女)、特集「証言 父と母の戦争」、雑誌月刊『文藝春秋』2007年、9月号

文章を書いた牧山桂子さんは、英国留学に目くじらを立て、揶揄、抽象する「軍国日本」の世情を表現したかったのだと思う。しかしながら、そもそも、なぜ受難に至ったかというと、竹槍訓練に参加したことであると文章からわかる。英国流で戦時下でも自分の意に添わぬ国策には毅然としていたといったキャラクターで人気を博して来た(?)白洲次郎が竹槍訓練に参加していたという史実が意外であった。



左上から時計回りに、「武相荘」(「+」の位置)の地図、地形図、現在の航空写真、1960年代の航空写真。戦時中の状況は1960年代の航空写真とほぼ同じと推定できる。

なお、竹槍訓練の話とは別に;

戦時中なら国賊と言われたでしょうが、母(白洲正子)は一部の軍人たちに良い印象を持っていませんでした。よく、戦争に負けてよかった。もし勝っていたら彼らが威張り腐ってどうしようもなかったと言っていたものです。(同上)

「一部」と申し訳をしているのは、白洲正子(wiki)が軍人の家系だからだろう。ところで、「戦争に負けてよかった。もし勝っていたら彼らが威張り腐ってどうしようもなかった」というのは決まり文句なのであろうか? おいらが、このような科白を聞くのは2度目だ;

日本は戦争に負けてよかったのだというのが私の両親の一致した意見だった。勝っていたら軍部が威張ってどうしようもなかっただろう。

(愚記事:吉目木晴彦、『ルイジアナ杭打ち』について知ったいくばくかの公知情報

祖父、樺山資紀[すけのり](wiki)と白洲正子

■ 今週の花

■ 今週の「天ぷら」

 

メーカー かね貞 web site

おいらが生まれ育った北海道(札幌)では「薩摩揚げ」を「天ぷら」と云っていた。のち、内地で「薩摩揚げ」と(も)いうのだと知る。今週、「薩摩揚げ」を「かき揚天」という例に出会った。

■ 今週の訃報


Google[中井久夫さん死去]

関連愚記事: 精神科医へものを書くとき

■ 今週の突発的アクセス記事

1937-1972の大戦略;文麿と角栄の間

■ 今週の朝日新聞批判

福田達夫自民党総務会長(当時)が、統一教会問題に対し、「何か問題なのか、よく分からない」と発言した件。朝日新聞は大きく報道しなかったとのこと。「リベラル」系?YouTubeで指摘されていた。

https://www.youtube.com/watch?v=DFZqcrPgftI

「太子党」?: 祖父と父が首相であった三世議員の福田達夫は政界・マスコミ界の日本administration/ えすたぶりっしゅめんとの癒着集団で生きているとの う わ さ。朝日新聞など大手新聞に叩かれなかったのはこの癒着集団のおかげだろう。

自民党の関係者は、「あの釈明文書は、番記者の“推敲”を経て発表されたものです」と声を潜めて言う。

「会見の発言が炎上し、福田さんは『どうしたらいいんだろう』と、かなり慌てていたそうです。福田さんがマスコミ幹部に相談すると、『釈明したほうがいい』と忠告された。そのため自分で下書きを作成し、その後、安倍派を担当しているNHKやフジテレビなど5人程度の番記者が秘かに呼ばれ、福田さんは下書きを見せました。そして記者たちのアドバイスを受けてから発表したそうです」ソース

■ 今週の「実現されなかった演説」

今年、5月に撮影。韓国に年間数百億円を送金できるための金づる日本を守るということか?

なお、山谷えり子さんと旧統一教会との「深い」つながりを示すエビデンスは現在のところ認められていません。御本人も支援などを否定しています。でも、日本は金づるだとは認識していたのだろう。そうでなければ、政治家失格程度の無知。ということは、金づる日本を容認していたことになる。

もちろん、安倍元首相の暗殺で、9/23の安倍元首相の講演は露と消えた。

■ 今週の「弟」さん

YouTube: https://www.youtube.com/watch?v=u1HLkVOAkL4

山谷えり子さんの弟さんのYouTube。戦後日本の対米従属体制の批難。その対米従属は日本のestablishmentにより実行されていて、その根拠となる世界観は「巨大な嘘」により形成されていること。そして、その誤認である嘘の世界観を持っていることへの批判。その中で、その嘘の世界観から脱却している人として村田良平が挙げられ、彼の回想録の入手が困難であることが語られ、図書館で借りてね!と云っている。

村田良平とは?;

さて、「米国に隷属した国、平たく言えば属国」とは、反米ウヨらしい口ぎたいもの言いをするものぞと、首をすくめる貴兄が多いとは思う。でも;

よって私は五十二年(1952年)四月二十八日に、日本は、こと防衛に関する限り、これからも長期に米国に隷属した国、平たく言えば属国でありつづけると認識した。

と云っているのは、駐米大使、事務次官まで務めた the 外交官さまなのだ(後述)。

米軍にしてみれば、占領当初の日本の非軍事化という目的は十二分に達成したものの、日本列島の各要地に、代替不可能といっても良い軍事基地を手にしている以上、これを恒久化しようととの願望が生まれたとしても何ら不思議ではない(施政権を返還した後の沖縄についても同じことが言える)。
 このために、不幸なことに、米国では、予算節約や純軍事的見地といった米側のみの都合から整理したものは別として、日本占領で一旦手に入れ一層整備拡大した基地はそのまま保持することが当然視された。独立国から軍事基地を提供してもらうことに際して当然払うべき配慮、遠慮、評価、感謝といった心理が生まれないままだったと言える。そして、日本政府も当初の”止むを得ない”という感情をそのままずるずると持ちつづけた。それ以後現在まで五十六年間、この日米間の了解が、抜本的な見通しのないまま今日に至っている。日米安保体制の実質はその後かなり変化しているが、その発足時の日米双方の心理的な受取り方は、途中一応の条約の改正はあったものの、今日まで五十数年間変わっていないことは実は歴史的にも極めて異常な状態なのである。
 また、米軍は名目上は日本防衛にも当るとはいえ、米軍の日本駐留は米国自体の国益のためであり、かつかかる状況が恒久化したのは大東亜戦争で日本が早期降伏の機会を逸して完敗し、ポツダム宣言を受諾したための日本の完全な武装解除と日本全土の六年以上にわたる占領の結果であることも、これまた否定できない。よって私は五十二年四月二十八日に、日本は、こと防衛に関する限り、これからも長期に米国に隷属した国、平たく言えば属国でありつづけると認識した。不幸にして冷戦の継続もあり、私のこの認識は、今日に至っても基本的変化はない。(『村田良平回顧録  -戦いに敗れし国に仕えて- 上巻』2008年) 愚記事:忠米外交官 松田慶文 さんはその後どうなったのか? 相模原戦車輸送阻止闘争 - 1972

■ 今週の新本・古本両市場にない[#1]本の図書館での予約数

[#1] ここ数日、Amazonに出ました。「日本の古本屋」には在庫なし。

 Amazon

『村田良平回想録』は、外務省事務次官、駐米大使を務めた外交官の回想録。当世の「保守」でこういうことを云うひとがいなくなった。

そもそも、米軍が、占領時代の基地にそのまま、いることがおかしいという日本国人の「主権」を実現するための「当たり前」を確認する;

私が現在も「葛藤」と呼ぶ感情を抱くのは、敗戦後二〇年間位ならともかく、それ以後も米軍は当然のこととして日本に居すわり、また日米政府も国民も、「自国の領土を占拠されている」という事実の根源的な不自然性に鈍感となってしまったとの状態が、冷戦終了後も何ら変わらないことへの割切れない気持ちからである。

なお、当世、在日米軍の存在に抵抗感がないというのが、「保守層」、(政府系)安全保障専門家の大多数の認識、意識、感情(上記の村田の「葛藤」なぞない)である(例えば、高橋杉雄。東浩紀が「国家の主権」を云うことに対峙している)。

さらには、村田良平の米国観は下記;

また米国は、世界の多くの地域で、徐々に不人気の道を加えているが、この理由の根本は、米国人の「唯我独尊」病というほぼ治療可能な病を持つ国民性と制度(例えば米国議会という組織を学べばすぐ分かる極端な独自性)によるもので、個別政策に由来するものではない。よって米国への不信や敵意は、今後も久しく続くであろう 。

おいらにとっては痛快だが、これまた、やはり、当世「保守」界には受け入れられないだろう。それにしても、米国人の「唯我独尊」病というほぼ治療可能な病を持つ国民性とはすごいにゃ。

■ 今週のガ島

ガダルカナルの戦い80周年の式典(google

太平洋戦争中の激戦で知られる「ガダルカナルの戦い」から今年で80年です。現地で行われた式典には日米の高官が揃って出席 (ソース

式典には自衛隊も参加したらしい。その場合、「(日米)どっちの立場」で参加したのだろうか?

当然、自衛隊は警察予備隊として誕生。警察予備隊とはマ元(マッカーサー将軍)の命令でポツダム政令で発足した。自衛隊は、法制上、大日本帝国陸軍とは何の関係もない。法制上ばかりでなく、思想、実体も関係ないことが要請されているはずだ。自衛隊の「将校」たちは旧軍とは絶縁した思想と組織を成すことを教育されているはずである。

と考えることも、上記の村田良平思想と同じく、当世では全くアホなことなんだろうなぁ、通用しないんだろうなということは、感じている。


新しい街でもぶどう記録;第403週

2022年08月06日 18時01分04秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第403週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週のメタセコイア

■ 今週の花

■ 今週の輸入品

ジュリーズ ル・モンド レモンクリーム サンド 170g × 4個 [ 個包装 マレーシア産 ] 

¥636 (2021年7月) ⇒ ¥893(2022年8月)

メーカーについて調べた。Julie’sというマレーシアのメーカー。創立が1985年、創業者は、 Su Chin Hock という人。漢字の名前、史進福もあり 愚記事

■ 今週のDown Under、あるいは、豪国

https://twitter.com/AJEnglish/status/1555144243534077952

先住民族の上院議員が、就任宣誓の際に公式の宣誓にいくつかの選択肢の言葉を追加した後、オーストラリア議会で物議を醸しました。(ソース)

アボリジニの女性であるLidia Thorpe上院議員は、エリザベス女王が英国の君主への忠誠を誓うことを意図した誓いの中で、月曜日に女王を「植民地化する」女王(Queen Elizabeth II a “colonizing” queen )とラベル付けしました。

緑の党の上院議員が就任宣誓を行うように呼ばれたとき、彼女は右手の拳を高く掲げてブラックパワーの敬礼をして歩きました. 彼女はしぶしぶながら、オーストラリアやカナダを含む多くの旧英国植民地の国家元首であり続けている英国の女王に仕えることを誓った.

(注意、警告を受けて)

ソープは最終的に、2 回目の読み上げで「植民地化」を省略し、書かれたとおりに宣誓を唱えました。

事件後、ソープはツイッターで「主権は決して譲らなかった」Sovereignty never ceded と宣言した。

アボリジニの女性であるLidia Thorpe上院議員=Lidia Thorpe (wikipedia) 

オーストラリアの先住民系の議員が、議員となるための宣誓で「ごねた」とのこと。でも、結局、ひっこめる。

なぜこのニュースを取り上げたかというと、豪国は先の大戦後の日本処分(人道への罪を責めた東京裁判)で、日本に苛酷なことを求めた。

エヴァット外相は1945年9月10日、「天皇を含めて日本人戦犯全員を撲滅することがオーストラリアの責務」と述べている。昭和天皇の訴追問題

おまえたちが、そもそも、虐殺者・侵略者のくせに。そして、77年後、「先住民」の逆襲。ブーメラン(オーストラリアの原産物!)が当たればいいのだ。

■ 今週気付いた耶蘇的なもの

 

「アンパンマン」の絵は見たことがあったが、内容は知らなかった。でも、今週、「困っている人を助けるために自らの顔(あんパン)を差し出すwiki)」と知る。何だ、耶蘇じゃないか! 「イエス・キリストは自らの全身について<私はパンである>と話しかけた」。

絵にMitsukoshiとデザインしたのは、アンパンマン・やなせたかし氏とのこと。 (愚記事:越後屋 絵師

■ 今週の「華ひらく」?

 出典

米国議会下院のナンシー・ペローシ議長が台湾訪問。訪問前から中共は恫喝。でも、実力行使はせず。ペローシ議長が台湾を離れた後に、台湾島の周り6か所で軍事演習開始。中共の華ひらく?、あるいは、後の祭り?

■今週の「同志」


https://twitter.com/ReutersJapan/status/1555297525875220483

北京市民のザオさんは「ペロシ氏の訪台は良いことだと思う。台湾を包囲する機会が訪れた。ペロシ同志に感謝すべきだ」。

■ 今週返した本

『グローバル化と銀』は先日ブログ記事にした。

高橋たか子の「自選小説集4」を読む。長編「装いせよ、我が魂よ」(1982年)が入っている。これは高橋たか子が1980年にパリに行って書いた作品。のちの『亡命者』などのようなヨーロッパでの「青い鳥症候群」的旅をする女性の物語。ただし、この「装いせよ、我が魂よ」は主人公がカトリック信者ではなく音楽家。「何か」を求めて旅する。読みやすいかったが、やはり、他の「青い鳥症候群」的旅をするカトリック信者の物語と同じく、何を求めているのか、何から逃れようとしているのかよくわからなかった。それが小説の主題のはずなのに。


デニス・フリン、『グローバル化と銀』;1571年生まれのグローバル化と支倉常長、あるいは、慶長遣欧使節の時代背景

2022年08月02日 21時09分56秒 | 

グローバル化はいつから、どのように始まったのだろうか。16世紀を「銀の世紀」と呼び、アメリカ・アジア・ヨーロッパを結ぶ銀の流通から世界史を論じるフリン先生の歴史学講義(表紙の文言)

■ 現在の高校の世界史に「日本銀」(世界史の窓)という用語がある。40年ほど前はなかった。16世紀には南アメリカと日本が銀の生産地で、銀は最終的にはチャイナに流入した。理由は、チャイナに銀の需要があったからである。需要があった理由は納税手段が銀と定められ(一条鞭法)たので、支払い手段として銀が必要となり需要が高まったからである。

■ 銀のチャイナへの流入はグローバル化で可能となった。「コロンブスの航海」(大西洋)と「マゼランの航海」(太平洋)を経て諸大陸が交易、疾病、自然環境、文化において永続的に結びついたことがグローバル化の始まり。特に、1571年のスペイン帝国によるマニラ建設は太平洋航路を定常化し銀がアメリカからチャイナに流入することを可能にした。交易の逆方向として絹などをメキシコ経由でヨーロッパに流入させた。

■ なお、デニス・フリンがグローバル化の誕生の年とした1571年は、支倉常長の誕生の年である。その支倉常長は伊達政宗の外交官としてスペインを訪問する。つまりは、グローバル化での端的な政治的現象なのだ。その奥州伊達家使節団の欧州訪問の時代状況としての世界経済として、この時代の世界商品でありグローバル化推進の駆動力となったのは銀とのこと。その銀に関係深かったのが日本で、スペイン領アメリアに次ぐ銀の産出があった。その銀の多くがチャイナに流入した。日本とスペインはチャイナに対する銀供給国として競合関係にあったともいえる。

■ デニス・フリン、『グローバル化と銀』(秋田茂、西村雄志 編)、2010年、山川出版社は、デニス・フリンの3つの論文と冒頭の秋田茂、西村雄志による解説から構成される。図書館から借りた本なので、デニス・フリンの3つの論文について、忘備をとった;

・グローバル化は1571年に始まった; 新大陸銀とマニラ・ガレオン

「ダイナミズムをもったヨーロッパ」論への批判。チャイナの銀需要。

産業革命前の2度の銀ブーム;①1540-1640年、②1700-1750年。

太平洋航路:アカプルコーマニラ、ガレオン船は、1600年代に毎年50トンの銀をチャイナに輸送。

16-17世紀の銀産出:日本はスペイン領アメリカ(現ボリビアのポトシ銀山)の半分を産出。日本・スペインが銀の2大産出国であり、チャイナへ輸出。チャイナからの輸出物産は、金、生糸/絹。

日本の銀をチャイナに運んだのはポルトガル人。ポルトガル人は商人&輸送業者であり、日本からの銀、チャイナからの生糸/絹で利益を上げる。

1630年代:日本のポルトガル人追放。オランダへの貿易相手変更。

18世紀中葉のアジアでの貿易変化:イギリス台頭、蘭仏衰退。18世紀はチャイナとインドで世界のGDPの2/3。

「アジアの優れた経済力を言い立てる近頃流行の言辞をまたやっているのかと読者に思われても困るので」

ポメランツ ヨーロッパと中国の生活水準を系統的に比較し、ヨーロッパのもっとも発達した地域は、産業革命の時期までに中国の発達した地域と大体同じ生活水準に達した。スミス的成長()と環境・資源の制限による発展飽和。

「コロンブスの航海」(大西洋)と「マゼランの航海」(太平洋)を経て諸大陸が交易、疾病、自然環境、文化において永続的に結びつけた。 

徳川幕府とスペイン・ハプスブルグ帝国; グローバルな舞台での二つの銀帝国

・17世紀にヨーロッパからインド、チャイナに渡った銀は(少なくとも)16,000トン。さらに、13,000トンの銀がマニラ経由(太平洋航路でアメリカから)でチャイナへ流入。

・山村耕造と神木哲男の推計:1560-1640年に日本からチャイナに9,450トンの銀が輸出された。田代和男の推計:17世紀初頭の最盛期には年200トンの銀を輸出。これらから、16世紀末ー17世紀初頭の総計は10,000トンの銀が日本からチャイナへ輸出と推定される。この量は、ヨーロッパから東(インド、チャイナ)に流れた銀の2/3。

・ドハーティ=フリン・モデル:銀の需要ー供給曲線。100年かかって銀の市場価格が生産コストとなった(利益がでなくなり、鉱山稼業停止)。価格革命の停止。

・輸送コスト。金銀は世界規模の市場(世界市場)をもつ。世界各地で異なる金銀価格比の相違が銀移動の駆動力。チャイナでは銀に対する金が安いので、銀が集まり、金が出ていく。

・100年にわたるチャイナの銀需要により、スペイン(領アメリカ)と日本銀の生産で利益を上げ続けることができた。原因はチャイナの銀需要。その原因はチャイナの幣制の混乱。混乱とは紙幣が信用を失い、流通しなくなり、銀が支払い手段として必要になった。世界第一の経済大国のチャイナの銀需要は甚大。1600年前後の日本とスペインの中央政府の財政はチャイナの銀需要の賜物。

・このチャイナの銀特需の特徴は100年も続いたこと。スペイン帝国と日本・徳川幕府の強国化に貢献。

・スペイン、ひいてはヨーロッパへの銀流入が資本主義の発展の原因となった説(ケインズからウヲーラーステインまで)にフリンは反対。スペインは銀を資本主義確立に有効利用できなかった。スペインは宗教主導の軍事的冒険主義を実践し、英蘭など北方諸国と戦争。結果、アルマダの海戦で敗れ、オランダは独立。銀からの収入が減り、スペイン帝国は衰退(ただし、今にいたるまで、亡びていない)。

・銀の流入が経済発展の原因であるという説を否定。スペインは銀の流入で得た利益を北方戦争(対蘭、対英戦争)で蕩尽した。

・日本が銀で得た利益をどうしたか? この富でチャイナの朝貢体制から独立した日本圏の形成に成功(「鎖国」ともいえる)。

・もし「日本銀」がなかったら?(思考実験)。スペイン帝国はもう少し長く栄えた。そうなれば、英蘭はどうなっていたか?たらればの話となるが…

・銀貿易で利益を得ていた日本、スペインが第一銀特需(1560-1640年)の後、スペインだけが衰退したのか?フリンは3つの原因を挙げる;

1)日本は銀鉱山閉鎖の後、銅の輸出が可能となった。世界での銅需要があった。
2)スペインは、対外戦争をして、国内のインフラ整備に投資しなかった。そもそもスペインは大部分が農耕地に向かない(乾いた大地 La Mancha)。
3)国内の交通事情。スペインは卓上地で大きな河川もなく、都市が内陸にあり、海岸線を使っての交通が発達しなかった。日本は沿岸航路と海岸線の長さと港の数、そして、沖積平野の河川など交通網が発達。17世紀に農耕地激増。

貨幣と発展なき成長; 明朝中国の場合

・長期にわたるチャイナへの銀の流入は、チャイナの長期的な経済発展に貢献したのか、有害であったのか?の検討。でも下記2点も否定しない;

*チャイナの経済成長は外国からの銀の流入に対応するため起きた、
*銀輸入はチャイナ内部の再編を市場主義で促進させた

フリンの主張:経済成長はしたが、経済発展には失敗した。

・銀輸入を実現させたのは絹。絹・生糸の生産が発達した。雇用も生まれた。17世紀はチャイナは2,500トンの絹を生産し800トンを輸出。

・重農主義的批判(明朝交換  徐光啓)。銀を貯めても豊かになれない。反重商主義(アダム・スミス的)。

・チャイナは、銀を得るために、絹産業を発展させた=経済成長した。銀は通貨部門でのみ利用されるので、消費、投資など非通貨部門での利用ができず、経済発展には寄与しなかった。

・流通貨幣としての銀の獲得のため絹の生産を行った。資源を費やした。もし紙幣が流通していれば銀は不要であり、銀の獲得のために絹生産に費やした資源も節約できた。社会発展に貢献しなかった。成長理論と貨幣。商品貨幣を紙幣に代替した国家において生活水準があがるのは、資源製薬海将のメカニズムが機能するから。チャイナではこれが起きなかった。

・「私的部門」の役割。明は紙幣流通に失敗し、銀が実際の貨幣となった。中央政府ではなく民間の自主流通=自由経済状況による銀本位制の維持。何世紀も続いた。社会的コストであった。このコスト負担は、私的部門により、銀流通と銀調達は「自由貿易」と「自由市場」により行われた。

・ウォーラーステイン(1980年)批判。ヨーロッパの初期資本主義はスペイン領アメリカからの金銀の蓄積があったから生じた説の誤りを、フリンは、指摘。なぜなら、銀が蓄積されたのはチャイナだから。ウォーラーステイン(1980年)はアメリカ銀がヨーロッパ(世界経済の「中核」)に蓄積されたと考えていたことを、事実誤認だし、世界経済モデル(ヨーロッパ=世界経済の「中核」)も批判。

もっとも、ウォーラーステイン(1980年)の世界経済モデルの「中核」をチャイナとすればよいのであった、その点ウォーラーステイン(1980年)は「先見性」があったと云っている。