いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

『米英東亜侵略史』 大川周明

2006年05月31日 21時04分41秒 | 


佐藤優さんの『日米開戦の真実 大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く 』がついに出た模様。この本当初は4月に刊行予定だったはず。先週都内に行ったさい、ジュンク堂、丸善などで見当たらず、なんでかなー?と思っていたら、刊行が遅れていたようだ。6/1刊行だって。

さて、『米英東亜侵略史』は昭和17年(1/23)に第一書房なるところから1円20銭で刊行された。この本は、大川がラジオにて、開戦直後の昭和16年12月14日から25日までの計12日間、米英東亜侵略史について語ったものを文字化したもの。真珠湾やマレー沖のプリンスオブウエールズ撃沈の成果の中、そしてシンガポール陥落の前という状況。

『米英東亜侵略史』は前編と後半に別れ、前編では米国東亜侵略史、後編では英国東亜侵略史、それぞれ6日分の講話が文字化されている。

目次では;
米国東亜侵略史
第一日
第ニ日
第三日
第四日
第五日
第六日

とある。内容は、ペリー来航(第一日)から、東亜新秩序を目的とする日本の軍事行動を米国は侵略視する故日米両国の衝突は遂に避けられない(第六日)、まで歴史を追ったつくり。

内容のノート;

第一日
ペリー来航。面白いのは大川はペリー(本書ではペルリ)やワシントンを賞賛し、現在(日米開戦時)の米国がもし黄金と物質を尊ぶ国に堕落していなかったら日米戦争はなかったという。つまり米国はワシントンの建国の精神から堕落した、といっている。

第ニ日
19世紀の米国の拡張主義への非難。特にフィリピン領有。アジア太平洋への進出への非難。
ターニングポイントとしての日清戦争。清国敗北故、列強がシナに群がった。(これは日本がパンドラの箱を開けて、アジアに列強を結果的に引き込んだといえる;いか@)

第三日
日露戦争と満州問題。日本が20万人の義性でロシアを追い払ったのに、ハリマンが満鉄買収を提案してきたことへの非難。アメリカの門戸開放提唱をもって、シナ・満州への経済進出の野望について。

第四日
日本の満州独占に門戸開放を唱える米国は横車と非難。第一次世界大戦で中立といいながら最後は参戦した米国は戦争の趨勢を見極めた上での漁夫の利と避難。そして、カリフォルニアでの日系移民排斥問題。

第五日
米国の海軍戦略について。ローズベルトは、マハンの『歴史における海上権の影響』をもとに大海軍増強を行い、一方、パナマ運河を開通させ米国の大西洋、太平洋の海軍支配をもって世界を制覇しようとした。日本はこの脅威に対処するため艦船建造競争を余儀なくされた。しかし、ワシントン会議で政治的に敗北し、米国は日本掣肘に成功した。さらに、これに飽き足らない米国はロンドン会議で日本は自国海軍劣勢化した。

第六日
ロンドン会議後事情は一変した。政府が米英に気兼ねしている一方、国民は日本国家の根本動向を目指して闊歩し始めた。満州事変。国際環境は、列強が世界恐慌でよそに目がいかないので、満州国建国に好都合。米国スティムソンは、国連を利用して満州国を撤回させようとした。大海軍を動因して太平洋で大演習をした。対日威嚇。のち、ローズベルトはスティムソンと対日政策が同じと表明。日米通商条約破棄、対日輸出禁止、資産凍結となる。ローズベルトはマハンの『歴史における海上権の影響』理論の実行をしている。

この日米戦争を元寇になぞらえ攻めてきたのは米国、日本は立ち向かうというスタンス。

以上、『米英東亜侵略史』の前半、米国東亜侵略史のみ。

■日米衝突へのいきさつについての記述とその言い分・スタンスについての新しい発見は(下記点をのぞいて)特にないのですが、米国の「東亜侵略」の理論がマハンであると見ていることが着目すべきかな。佐藤優さんもこの辺のところ、地政学的戦略論、アプローチを書くのではないでしょうか?

●おもしろいのは、「時の政府が断じて之(柳条溝事件)を欲せざりしに拘らず、日本全国に澎湃として張りはじめた国民の燃ゆる精神が、満州事変をしてその行くべきところに行き着かしめ、・・・」と満州事変、満州国建国を政府ではなく国民の成果と認識していること。


つり荷に下に入るな

2006年05月30日 21時31分58秒 | その他
 現場篇

 ポスター篇



■『下妻物語』ぶったまげた。すごい。 何がすごいって、勝手なことを考えさせてくれること。 あれって、ばったもん文明・近代日本のカリカチュアなんだよね? 

ふりふりろここにおぼれて、「自分はなんという土人の国に住んでいるんだ」ってなげいちゃだめだぞ。 

一方、ふりふりろここをわらうなら、わらってるおまいのざんぎりあたまや筒袖脚袢だっておかすいんだぞ、ホントハ。ふりふりろここをわらう自分をわらえないとだめだぞ。 

『下妻』のド田舎で浮いているふりふりろここ、ってだれかブログに書いてたけど、いなかじゃなくても地球上どこでも、ふりふりろここは変だぞ。

■参考
誰もが傷まみれなのだ。
日本という、文明も文化も芸術も知性も貴族性すらも贋物となりパロディとなる土人の地、「悪い場所」に生れ落ちたインテリ達=知的文化的資本を持てる者達は皆。 

 瓦礫のあとで; ブログ、「地を這う難破船」。
20代だそうだ、おそるべし。




おいらの見たい『下妻物語』↓

      

(無題)

2006年05月29日 20時20分28秒 | 筑波山麓


茨城は豚肉天国

さて、今夜は、われらが筑波山麓、『下妻物語』だ、見よっと。

フカダキョーコって、おデブだよね。サイトウユキがむかすからおデブだったとの素敵な奥様の彗眼に一票。セイジュン-オデブ(でも陰でヤリマクリ)の系譜でせうか。




考えなさい。

2006年05月26日 19時24分39秒 | その他
■問題:

「創作をしたことのない批評家は卑怯者である。それは人妻に言い寄る神父に似ている。(その似ている点とは)○○○○○○○○○○○○○○○○。(である)」

○○○○○○の「おち」の部分を前の2文を基に、考えなさい。ちと、ゴーマン

おこたい。

注意!
ずぶんで答えも出さずに、見てはいけません。 あたまを働かせて、考えなさい。これまた、ちと、ゴーマン



ベゴニア(各論2)

2006年05月25日 20時46分14秒 | 草花野菜


筑波山ベゴニアガーデン
ベゴニア(各論)

■小谷野敦さんが

日本の伝統であるとして天皇制を擁護する人もいるが、大日本帝国憲法と皇室典範の発布までは、天皇の地位は法で定められていなかった。七〇一年の大宝律令以来、日本の基本法は律令だったが、律令のうち地位の規定である令に、天皇の地位に関する規定などない。なぜなら、それは「自然」なものだったからだ。天皇の地位を法で定めると、天皇が法以下の存在になってしまう。

と書いていた(『なぜ悪人を殺してはいけないのか』、第二部、戦後転向論)。でも、家康の禁中並公家諸法度があったんではなかんべか、とつっこみをいれたが、よく見ると小谷野は「天皇の地位は法で定められていなかった」と書いている。そうだ、地位の規定だ。

それで、そもそも、朝廷に任ぜられる征夷大将軍が、なすて、いかなる根拠にて、天皇に法を以ってとやかく言えたのか、不思議になった。ちなみに、この禁中並公家諸法度は家康、秀忠、そして二条昭実の名で出されている。

天子御芸能の事、第一御学問也。

もちろん、内容は悪くないかもしれないが、なぜ家康らが天子さまにあーせー・こーせーといえるのか、その根拠は?

禁中並公家諸法度を読むと、天子さまは学問せー、和歌をよめ、(どーせよむなら、声に出してよめ!、 ウソ )と、『禁秘抄』に、いえり。 と諭吉戦法を家康は使ったとのこと。

『禁秘抄』とは、鎌倉時代に順徳天皇が著した<天皇マニュアル>らすい。家康はてんすサマにあーせー・こーせーと言ったが、それはむかしのてんすサマが後代に言ったお言葉なのだ。(ネタ元;横田冬彦『天下泰平』、日本の歴史16)

つなみに、順徳天皇って、島流しにあったてんすサマなり。順徳天皇 島流し。討幕派だったわけだ。つまり、順徳天皇って、必ずしも「天子御芸能の事、第一御学問也」=天皇はノンポリ(←死語だよね)であれ、ではなかったのだ。

幕府に流され、another幕府にダシにされる順徳サマ


 てんすサマが流される島のすっすんだす。

つづく。 かな?

■今日のお勧めブログ;闘いうどんを啜れ; 見田宗介の新著のことなど




占春園、 茗荷谷参り

2006年05月24日 20時21分28秒 | 東京・横浜
--わたしは、あのとき、女子学生とともに、旗をふって、出陣学徒を見送った。--
                       『マルクス』 小牧治 @ブックオフで100円

■都内・茗荷谷で仕事。茗荷谷に生まれて初めて行く。

茗荷谷は、日帝の、~♪~仰げばし、我がの恩~♪~の、尊師の養成場があったところ。

あの日、雨の神宮外苑で旗を振って学生を戦場に送り込んだ小牧センセは、戦後はマルクスのご研究にご尽力あそばされる。その経緯が少しだけ上記『マルクス』に書いてある。この本1966年の初版だが、今でも版を重ねて新刊書にあるだよ。

東京教育大・文学部といえば、小牧センセなんてだれもしらないだろうけど、家永三郎センセは有名。平泉澄の弟子で、終戦直後もむつひとさんの御製をたくさん引いて涙を禁じえないってやっていたのに、東京裁判の判決の頃から、あーなっていったことは有名。このことについて説明を求められた家永は、昔は知的能力が低く平泉史学・皇国史観をやっていたが、知的に進歩して今の考えにいたったと弁明した。

こういう三百体言はそらぞらしくて、その時・その時の体制の教義を喧伝しているに過ぎないことは明明白白、メイケイ会である。ガッコのセンセは国家のイデオロギー装置の祭祀であり、戦前は教育勅語、戦後は教育基本法・"戦後民主主義"を聖典として身過ぎ世過ぎをして、時に反省!前進!と前向きなニヒリズムを実践してきた。つまりは、茗荷谷はそんな悲しい人々の魂のふるさとなのである。


 ハルマゲドンすっぱい。

   
滅亡狂騒曲              ハルマゲドン成功!


通行手形


■お昼休みにお参りに上がる。

もともと江戸時代は守山藩の大名屋敷と庭園。その庭園の名が占春園。いまでは特に庭としての手入れがなされていないようで、雑木林化している。帰化植物の木さえある。

  
雑木林化している。                    樹木と御対面の御婦人。


じゃーん! 発見。 ひろひとさん行幸の石碑。昭和6年にきますた、ってさ。

こんな派手な行幸碑は、おいら的(爆)には、過去最大。

お得意の漢文調の文にて、かいてありました。キーワードが「徳」でした。