いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

仙台 雨宮地区の更地化;2020

2020年09月09日 19時09分52秒 | 仙台・竹雀・政宗

愚記事:仙台参り 【2015】 雨宮地区;「無用の用」は、220億円にて落札 で、仙台の雨宮地区の「再開発」について書いた。


google map

今日、Googleを、たまたま、見たら、雨宮地区は更地となっていた。もっとも、今日Googleで見ている画像はいつ撮影したものかわからない。今日現在は、もう、建設工事が始まっているかもしれない。いや、始まっているのだろう。

仙台は杜の都とよばれる(こともある)。定禅寺通りや青葉通りの街路樹を見て、なるほど、仙台は杜の都だと思ってしまっては困る。仙台が杜の都であるとは、藩政時代の屋敷の敷地内の樹木をさして、杜の都といっていた(らしい)。定禅寺通りや青葉通りの街路樹は戦後のものだ。そもそも、定禅寺通りや青葉通りという大通りは戦前にはなかった。

樹木を敷地内に持つ区画が、次ぐ次と消えていったのが近代の仙台。戦災で焼け残った樹木を敷地内に持つ区画も消えていくのだ。日本のどこのまちでもいいような街になっていくのだ。


今日の「嘘つき」= 伊達正宗が好きな者、あるいは、これぞ、自己欺瞞!

2017年02月28日 19時49分29秒 | 仙台・竹雀・政宗

今日の「嘘つき」= 伊達正宗が好きな者


http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1313322953

伊達正宗 と間違える 愚か者 [google] は 後を絶たない。

でも、伊達正宗 と間違える 愚か者は、いてもいい。

普通の馬鹿だ。 おそらく、その多くがLDP支持者だろう (???)

  そして、そのいくばくかは、へんなカルト幼稚園に行ってるんだろう  (???)。

でも、伊達正宗 と間違える 愚か者は、 貞山公を好きと言っては、ならないのだ。

伊達正宗、って、竹雀検定 受験 足切りラインだよな。

 wikipedia

 

 

 


東西伊達家居城の大手門、追手門の焼失

2016年10月27日 19時27分45秒 | 仙台・竹雀・政宗

 
  仙台城大手門          宇和島城追手門


伊達政宗の頭蓋骨 ネットでのパクリもの

戦国大名で頭蓋骨が残っていて、かつ学術調査された例は珍しいと思う。

伊達政宗は1636年(寛永13年)5月24日朝、江戸の桜田屋敷で死ぬ。70歳。

遺骸はその夜霊柩にて江戸から仙台へ向かう。6月3日、仙台に帰りつく。

翌日、遺骸は石櫃(いしびつ)に納められ、経ケ峰[地名]に埋められた。それが今の御霊屋・瑞宝殿瑞鳳殿に他ならない。

石櫃に納められて安らかに眠れるはずの政宗の頭蓋骨がこうして晒されることになってしまったのは、

1636年に土葬された伊達政宗が1945年7月10日未明に、「荼毘に付された」からである。

テニアン島を出撃したB-29、123機は、焼夷弾で、仙台を空爆した[wiki(仙台空襲)]。


仙台空襲焼失地域

仙台中心からやや離れた森にあった瑞宝殿瑞鳳殿は、なぜかしら、焼けた。上地図の範囲外である。

現在の瑞宝殿瑞鳳殿は再建物である;

瑞宝殿瑞鳳殿を再建する時(1970年末頃)、政宗の遺骸も「あらためた」のだ。

■ そして、1945年に瑞宝殿瑞鳳殿が焼けた時、仙台城の大手門も焼けた。

これは一般市民が住む仙台中心街を焼くより、「理由」が立つかもしれない。

なぜなら、旧仙台城の二の丸は日帝陸軍第二師団があったからだ。つまりは、軍事施設と云える。

日清、日露以来、日帝陸軍第二師団の出陣はこの仙台城の大手門からであった。

▼ さて、先日の宇和島参りで知った。

宇和島伊達家の居城の追手門も戦災で焼失したのだ。

仙台城の大手門が焼失した二日後の7月12日、宇和島もB-29の空爆を受け、宇和島城の追手門(当時、国宝)は焼失した(Google)。


宇和島城追手門

関連愚記事

 のこのこと、仙台参り【2011夏】 ④ 災い続く仙台城大手門 

木町通小学校

仙台参り 【2007】 おたまや

伊達政宗終焉の地 

● まとめ: 米英撃滅・尊皇攘夷・維新造反は、焼身「自殺」であったらしい。

 

 

 


伊予吉田伊達家陣屋跡地参り、あるいは、猫と殿様

2016年09月27日 19時31分20秒 | 仙台・竹雀・政宗

竹雀マニアによる伊達家陣屋めぐり。仙台伊達家の常陸領一万石の龍ヶ崎陣屋跡地(関連愚記事)と比べ、ここ伊予吉田三万石は大違い。龍ヶ崎陣屋跡地は今は何もない。それとは対称的に伊予吉田伊達家三万石の陣屋跡地は上記の画像のごとし。これは町の図書館。おそらく公式には陣屋の復元とも云ってないと思われる。なぜなら、藩政時代に伊予吉田伊達家三万石の陣屋がこんな立派であったという証拠はないのであろうとおいらは邪推している。

戦後、日本で多くの城が復元、再建された。それは残った資料に基づく復元。

吉田の陣屋は実際どういうものであったか?そして、この町の図書館と似ているのか?わからない。

なお、谷田部細川一万六千石  の陣屋(門と玄関が残存)はこんな感じ⇒愚記事。 参考まで。

塀の瓦には三つ引き紋が使われていた。

覗いてみた限りでは、伊予吉田伊達家三万石についての展示的なものは見当たらなかった。

● そして、伊予吉田の人たちは、伊予吉田伊達家三万石が好きらしい。

 

伊予吉田伊達家三万石の家紋はこんなんだ;

 

■ 猫と殿様

 伊予吉田伊達家三万石の最初の藩主は、伊達宗純(むねずみ)[1636-1708]。政宗の孫。宗純のおばあさんは、今では「猫御前」と称される飯坂の局[1569-1634]。政宗にとって最初の男の子である兵五郎、のちの伊達秀宗が宗純の父親。伊達秀宗は宇和島十万石の初代藩主。宗純は五男。宇和島伊達家は秀宗の三男が継ぐ(長男、次男は早死)。でも、秀宗は十万石のうち三万石を分地して五男宗純に譲ると遺言。ここから、宇和島伊達家と吉田伊達家の紛争が始まる。本家―分家の親戚争い。もっとも、宇和島伊達家は宇和島伊達家で仙台伊達家と親戚争いを起こしている。お家騒動は伊達家のお家病だっちゃ。この背景には、政宗が独裁すぎて、制度による支配機構の発達が遅れたのが原因かと思われる。

 その伊達宗純の生母は側室だが、嫡母は井伊直政の娘。三万石の「独立」を幕府に認めてもらうため本家の宇和島伊達家と紛争を起こしていたとき、事態の収拾を行ったのが井伊直孝とされる。もちろん、井伊直孝は井伊直政の息子。伊達宗純にとっては、「嫡おじ」となる。三万石の「独立」は、母の実家・井伊家のお陰だ。井伊直孝はもちろんあのひこにゃん(関連愚記事;ひこにゃんから賀状)の井伊直孝だ。

どうして、豪徳寺が猫寺(招き猫寺)であるかは;

江戸で直孝が鷹狩に出た帰りに小さな貧しい寺(弘徳庵)の前を通りかかると、中に入るよう手招きする猫がいたため、その寺に入った。すると辺りは突然雷雨 となった。雨宿りをしながら寺の和尚と話をしているうちに、直孝は和尚と親しくなった。この寺は後に寄進を受け、立派に改築されて井伊家の菩提寺とされ、 直孝の法名にちなんで豪徳寺と号した。それからその寺では、猫の手招きが寺の隆盛のきっかけになったことから「福を招き縁起がいい」として、招猫堂を立てて祀った。この話が招き猫、ひこにゃんの由来である。(wiki)


愚記事より

とまれ、伊達宗純の伊予吉田伊達家三万石の誕生はねこのおかげである。

▼ 蛇足; 竹雀マニアにとって、こういう猫はいけません;


雀を獲った愚猫 (愚記事より)

■ 吉田違い

宿泊先の松山のスーパーでみかんを買った。青いみかんだ。

吉田産と書いてある。 極早生だそうだ。  「青切りみかん」、とも称していた。

  

見かけの青さの印象とは違い、酸っぱさを残しながらも濃い甘さも発揮していた。

でも、違った。 南宇和郡愛南町の吉田なのだ。 ⇒ 地図

 

 


仙台八重洲書房; いがらしみきお の しおり

2016年05月17日 06時30分14秒 | 仙台・竹雀・政宗

週末、昔の本をみていたら、仙台八重洲書房(関連愚記事:旧仙台八重洲書房跡地をお参りした); いがらしみきお の しおりが出て来た。

Google [仙台八重洲書房]

今はなき、仙台八重洲書房の、ビブレに移った(1987年)後の、バブル期のしおりとおもわれる。

仙台八重洲書房は1993年になくなったらしい。この時、おいらは既に仙台にいなかった。

今からみると、このしおりは閉店数年前のものとなる。

さて、なぜ、いがらしみきお、なのか?

wikiでみると、いがらしみきおは中新田(なかにいだ)の出身なのだ。

 


京都での仙台藩邸は、どこにあったのか?

2016年03月31日 05時50分05秒 | 仙台・竹雀・政宗


京都仙台藩邸の跡地。 今早春のおけいはん参りにて。

京都での仙台藩邸は、どこにあったのか?

竹雀検定試験1級の想定問題です(!!! ???)。

  

答え: 西洞院通中長者町南側付近

京都守護職邸の横にあったのだ。幕末の京都守護職は、もちろん、松平容保 公 [愚記事群]。のち、薩長「新」政府が会津討伐を仙台伊達家に命じたとき、仙台伊達家は拒否。奥羽越列藩同盟の結成へとなっていく。

蛤御門と御所と京都守護職邸の位置関係はこうなんだ! とても、近い!と驚く。

Google [京都 仙台伊達屋敷  西洞院通中長者町南側付近]


高杉一朗と王執中; 仙台テラス けんか編

2015年12月13日 16時34分11秒 | 仙台・竹雀・政宗

今年も終わりなので、残務の遂行。 8月30日の愚記事「文京区なんて馬鹿な名が発生する以前の話;王執中と高杉一朗の邂逅 」は、続編を予定していた。今年初めて知った著述家のひとりが、高杉一郎 (愚ブログ関連愚記事)。 おいらは、この高杉一郎をあやしいと睨んでいる。が、その体験談が興味深い。なお、高杉一朗は、その人生で、巴金、老舎、郭沫若、郁達夫、田漢と会っている。

さて、愚記事と前記事(高杉一朗と王執中 茗荷谷テラス 馴れ初め 編: 文京区なんて馬鹿な名が発生する以前の話;王執中と高杉一朗の邂逅)は1930年の出来事の回顧録。1937年の盧溝橋事件/支那事変勃発直前に、高杉一朗が改造社で新進「支那」作家の翻訳作品を編集していた7年前の話。その新進「支那」作家、簫軍や簫紅を推薦したのは魯迅。

その7年前の1930年、高杉一郎は、魯迅を知らなかった。高杉一郎は、魯迅を、茗荷谷(現在、東京文京区)で、王執中という留学生から教えられる。

その場面を、創作 「遠い人」に書いてある。その舞台である王執中の下宿先は華族邸[1]となっている。

「ここは、どういう家なんです?」
「お国 - 王執中はそういう言葉をつかった。私はへんな気持でそれを聞いた。 - 華族ですよ。いままで順ぐりにひとりずつ、中国の留学生をあずかってくれているのです。」

高杉一郎、創作 「遠い人」 、『ザメンホフの家族たち』

 ( 華族邸[1] 関連愚記事: 大宮は、私の家の門構えを見て、また動かなくなった。 「こういう家は苦手だ」 )

魯迅を知った場面はこうだ;

 壁紙のうえに、私がいままで見たことのないひとの写真が鋲でとめてある。カーテンを背景に立っているそのひとのふとい眉と鋭い眼、通った鼻筋と濃い口髭は、意志的なひとのもののようである。
「あれは誰ですか?」と、私はたずねた。
「ああ、これは僕とおなじ浙江省のひとでしてね・・・・・」
 そういう言葉で王執中が説明しはじめたことを、私はいまでもはっきり覚えている。(中国人にも郷党意識があるのかな。)という考えが、そのときチラと私の頭をかすめたからである。デスクのうえの紙きれに「魯迅」と鉛筆で大きく書いて見えせてから、王執中は私がまったく期待していなかったような熱心さで、そして聴いている私がすこしも積極的な興味を示さなかったのにもかかわらず、実にながながと、しまいには私が退屈するまで説明を続けた。それだけ説明してもまだ気がすまなかったらしく、王執中はその作家の傑作である『阿Q正伝』の鐘憲民によるエスぺラント訳を書棚のなかから見つけだしてきて、「これをお読みなさい」と言って、私に貸してくれた。

    高杉一郎、創作 「遠い人」 、『ザメンホフの家族たち』

このように、読んだ『阿Q正伝』はエスペラント語だ。エスペラント語の『阿Q正伝』ときいて、おかしいやら、驚くのは、あの『阿Q正伝』冒頭の阿Qの伝をどんな伝にするか「推敲」するあの場面、すなわち、列伝、内伝、外伝、別伝、家伝、小伝・・・のどれにするか?の場面のエスペラント語の語彙はどうなっているのか、ということだ。

そして、今日の続編、仙台テラス けんか編。高杉一郎は王執中と仙台に行く。魯迅の跡を探すのだ。ちなみに、魯迅が仙台にいたのは1904年なので、四半世紀あとということになる。

 高杉一郎、創作 「遠い人」は、ほとんど、恋愛告白記のようである。その出会い編は、前述愚記事「文京区なんて馬鹿な名が...」にあるが、キーワードがテラスである。二人の出会いはテラス。 そして、仲睦まじいふたりのけんかもテラスだ。ここでテラスとは河岸段丘のこと。二人が出会った茗荷谷のテラスに続き、仙台のテラスでの出来事。でも、高杉一朗は仙台については全くテラス意識はない。

(王執中と高杉一郎(本名高杉五郎)が一緒に旅行に行った) もう一度は、翌年の夏休みにはいってから仙台にいった。言いあらそいをしたのは、この旅行のときである。

 もともと仙台にいったのは、王執中が魯迅の学んでいた、そして魯迅に『藤野先生』の思い出を残した医学専門学校のある仙台の町を見たいと言いだしたからである。私たちは中央郵便局の近くに宿をとり、宿屋のあるじにむかしの医学専門学校のあった場所をたずねてから、すでに夏休みにはいって学生の姿の見えない東北大学の構内にはいっていった。そして、宿屋のあるじが、「多分、あのあたりでしょう」といった死体置場を中心にして、大学の構内をあてもなくさまよった。それから、魯迅が「最初、私は監獄のそばの宿屋に泊まっていた」と書いてあるその監獄を探しもとめて、どんな道を通ったのかもうすっかり忘れてしまったが、鉄道線路を越えた街外れまでながい道のりをあるいていった。そんな日程に疲れはてて、午後もおそくなってから、もう一度大学の方へひっかえして、今度は青葉城址の方へぶらぶらと疲れた足をひきずっていった。

 そのとき、私たちはやっぱり魯迅のことか、中国のことを話題にのせていたらしい。というのは、私がうっかり「支那」といったのを王執中がとがめたからである。それまで王執中になんども注意されて、私は王執中が「支那」とか「支那人」とかよばれるのをひどくきらっていることをよく承知していた。そして、すくなくとも、王執中と話をするときには、つとめて中国とよぶように心がけていた。しかし、ながいあいだの習慣というのは恐ろしいもので、書くときはともかく、話すときは意識しないでいて、つい「支那」という言葉がでるのである。そんなわけで、いつもならば私はすなおに「中国」と言いかえたろうと思うのだが、そのときはひどく疲れていたせいもあって、こう言って意地わるくやりかえした。

「しかしね、それは君の方がすこし神経質すぎやしないかね。君は『支那』という言葉に侮辱を感じるかもしれないが、それをいう僕の方で侮辱をこめていなければかまわないんじゃないか。それに、僕に納得できないのは、君たちが日本人の場合だけ文句を言って、ヨーロッパ人の場合には平気でいることだね。イギリス人はチャイナといい、フランス人はシーヌといい、ドイツ人はヒーナといい、われわれのエスペラントでさえチニーオというが、これはみんな支那とおなじ語源からきてるんじゃないかね。」

 激昂して反駁するかと思った王執中は、なぜか淋しそうな顔をした。そして、力のない声で、ただこう答えた。
「ヨーロッパ人は僕たちと文字をおなじくしないが、日本人は僕たちの国の正名をちゃんと理解できるはずだと思うので、とくに君には正名でよんでもらいたいというんだよ。」

 それから、二人はおたがいに不機嫌な顔をして、黙ってあるいていった。第二師団司令部のまえを通って、疲れた足を青葉城址までひきずっていくと、伊達政宗の銅像の下に腰をおろして、ひとことも口をきかれずに仙台の町をながめていた。しかし、いつまでもそうしているわけにもゆかず、やがて疲労が回復すると、どちらかともなく、御機嫌をなおして、宿屋までひっかえしたのであた。
  高杉一郎、創作 「遠い人」 、『ザメンホフの家族たち』

 

高杉一朗と王執中の仙台での足跡。泊まった宿は中央郵便局と書いてある。これは、北目町のことに違いない(図中①)。ここから、②の医学専門学校跡に行き(図中②)、その後、”魯迅が「最初、私は監獄のそばの宿屋に泊まっていた」と書いてあるその監獄を探しもとめて”移動。これは、仙台刑務所のことと思われる。図中③よりもっと左(東)。結構、青葉城址より離れたが、彼らは、青葉城址に向かう。このとき、テラスを、中町段丘→下町段丘→大橋・広瀬川→下町段丘→中町段丘(第二師団司令部のまえを通って;図中④)→青葉山面(図中⑤)と進む。


    仙台テラス 事情。 ネット上からのパクリ。

 彼らが歩いたのは大橋を通り仙台城までを貫く通り。藩政時代は参勤交代の行列が発着のため行進したはずだろうし(愚記事;仙台のぺージェント通り)、日帝時代は、陸軍第二師団が出撃のためのデモンストレーションをした通り。


  ―第二師団司令部のまえを通って― (第二師団司令部門の古写真)
昭和20年仙台空襲で焼失。


 それから、二人はおたがいに不機嫌な顔をして、黙ってあるいていった。
   - 大橋からお城の方を見た画像 -


 - 疲れた足を青葉城址までひきずっていくと、伊達政宗の銅像の下に腰をおろして、
ひとことも口をきかれずに仙台の町をながめていた -(画像は愚記事より)

高杉一郎、創作 「遠い人」には上述のように『阿Q正伝』をエスペラント語で読んだと書いてある。でも、これは創作かもしれない。なぜなら、高杉一郎は別途「私がはじめて読んだ魯迅の作品は、一九三五年に岩波文庫から出た佐藤春夫と増田渉共訳の『魯迅選集』だったから、そのときの私はまだ魯迅の作品はなにひとつ知らず、ただ郷党の作家の足跡を訪ねたいとい留学生の希望につきあっただけのことだった」と書いている(高杉一郎、「スターリンの「言語論文」、『往きて還りし兵の記憶』)。つまり、高杉一郎は魯迅が仙台で過ごしたことも何も知らなかったのだ。

 高杉一郎が魯迅を知ったがまだ読んでなかった1930年の2年後に、林芙美子は魯迅に上海で会う(愚記事)。そして、なぜ高杉一郎が全く林芙美子に言及しないのはなぜなのだろう?というのが愚ブログの疑問ではある。高杉一郎が自分が魯迅を知った経緯を創作するほど魯迅に関心があるのに、実際に魯迅に会った林芙美子に、原稿を依頼した編集者と作家という間柄(下記)であるから、魯迅について何か聞いたに違いない。それなのに...。

高杉一郎も江藤淳も林芙美子に言及した文章をおいらは見つけていない。ましては、評論の対象とはしていないは ずだ。特に、高杉一郎は改造社の編集者だったのに、改造社の看板作家であった林芙美子について全く言及していない。唯一の例外は宮本百合子の文章の孫引き でわずかに林芙美子の名が出るだけである。高杉一郎は『文藝』の編集者の時、コクトーの特集をやった。コクトーが来日したのだ。林芙美子はコクトーに遭 い、『文藝』に寄稿している。高杉一郎と林芙美子は知らぬ仲ではないはずなのに、高杉一郎の回想には林芙美子は全く出てこない。対照的に、高杉一郎は宮本 百合子が大好きで、実際に交流も深かった。高杉の著作には宮本百合子への言及も多い。

愚記事

王執中のその後; 王執中は、戦争という理由ではなく(満州事変は1931年9月)、卒業せずに1930年春に帰国(上海)。その後の消息は不明、と高杉一郎報告している。


仙台川内大工町段丘崖;あるいは、子供ながらに魅せられた陥落街

2015年04月05日 20時44分11秒 | 仙台・竹雀・政宗

30年経ってわかった「意味」。

今夜もどうでもよい些細なことです。自分のための記録です。


←東   西→

下の地図の左側の「宮城県仙台二高」と書いてある付近です。上の画像の右手の建物が「仙台二高」です。

この「通り」、画像に向かって左が低地です。


←西   東→


最上画像の通りから、ある建物を撮影。この建物崖に接して立っています。根が生えています。

仙台二高の東側の通り(最上画像)の東側に急な階段があります。
30年前は特に気にしていなかったが、これは段丘崖なのだ。


画像の左が仙台二高。画像が平面的で高低差は読み取りずらいが仙台二高の右の通りが最上の画像の通り。この画像の右側が下町段丘の低地。


赤丸が上画像の段丘崖。①が下町段丘、②が中町段丘。仙台二高は中町段丘にある。


web 上 http://www.hirosegawa-net.com/kids/tokutyou_kinou/zu_1.html より

なお、今このあたりの一戸建ての価格;

 

あ~、おいらは、住めないんだなぁ、と気づく。

wikipedia)に書いてある; 「西側の下町段丘には庶民的な下町の川内大工町があり、[強調、いか@]」...。 庶民的な街には住みたいなら、4000万円、用意せよ!

■ 子供ながらに魅せられた陥落街; 仙台第二高校・南地区を初めて知った。

1999年に出版された浅野裕一、『儒教 ルサンチマンの宗教』の冒頭に書いてある;

 高校時代、たまに学校の図書館で勉強したことがある。建物はPX(酒保)と思しき進駐軍の遺物で、正面の入口から左右両翼に分かれており、右側が図書閲覧室であった。おそらくホールに使われていたのであろう、その大きな部屋の東南の隅には、バンドが陣取ったらしい棚田風のステージがあった。

その浅野裕一さんの経歴を見ると、1946年仙台生まれ。東北大学文学部卒業、 とある。

これらをみて(1999年頃)おいらは、 (仙台での[今から思えば、いたいけ牧歌的]修行を経て、しかも、もっと苛酷な山陰での下放時代の修行、そして、カナダでの修行を経て)、 この浅野さんの高校とはどこなんだろう?とおもった。仙台生まれで東北大学に行くなら仙台一高か仙台二高である可能性が高い。そして、仙台二高がある川内は敗戦後占領軍が進駐した。占領軍がこの地に進駐した理由は大日本帝国陸軍の第二師団の駐屯地だったからだ。こういう状況なら、この浅野さんが「進駐軍の遺物」をみたのは仙台二高の可能性が高いはずと、1999年頃においらは、当時いた筑波山麓で、考えた。

でも、そんなはずはない、とも思った。なぜなら、仙台二高(敗戦時は仙台二中)の裏に、昭和最末期、住んだことがあるおいらは、仙台二高(敗戦時は仙台二中)の敷地は、旧陸軍第二師団の敷地ではないと知っていた。さらに、おいらが仙台に来た1980年代半(なかば)には、仙台二高の敷地周辺には off-limits boundary (占領軍による立入禁止境界) 的遺物はなかったからである。謎であった。(この考えの背景は少し説明しないといけない。昭和末期、中曽根自民党が300議席取って、戦後政治の総決算!と勢いずいていた時代、仙台川内(奥の方)にはまだ米軍のカマボコ兵舎が残っていたのだ。)

という全然深刻でない疑問を長年持っていた。

そして、こないだ知った。ネットで知った。なんのことはない、仙台二高には通りを挟んで南地区というのがあり、その南地区が占領軍の施設だったのだ。この本校舎との間の通りが off-limits boundary (立入禁止境界)だったのだ。つまり、敗戦後、仙台二高はその地で通常営業したようだ。つまり、占領軍の向かいで営業していたのだ [1]。

現在の南側の校地は、戦後の占領下に進駐軍キャンプとして利用され、米兵とその家族用の50mプールや幼児プール(15m×15m)が設置された。進駐軍撤収後は同校のプールとなり、西公園プールが完成するまでは宮城県下唯一の50mプールとして県下の水泳大会の会場として利用された。また、幼児プールは地域の子供に開放された。 (wiki 宮城県仙台第二高等学校

[1] だから、遠いアメリカは変だぞ。隣のアメリカだろう、という話はこちら:常盤新平は仙台第二高等学校(この時代ならまだ旧制かもしれない;旧制仙台二中)に通学していたのだから、

 
   西を向いて撮影
仙台二高前交差点。おいらが立って撮影している「象限」(第四象限)だけが非occupied Japan地域で、この画像に写っていない「第三象限」が仙台二高・南地区とのこと。今月知った。

 
  画像左が西
青丸が撮影位置。赤線が off-limits。赤矢印方向が占領軍占拠地域。

ネットで調べると、占領時代の off-limits についての情報があった;

幼いころの細い記憶を辿ると
 
ある風景が浮かびあがって来ます。

白い詰所?

 (ボスの記憶の中では 事務所・・と言うよりむしろ白いボックス)

その 小さい箱詰所の外に立つ

白ヘルメットの大きな外人さん。

そこで

用紙に何かを書き込んでいる母の横顔。

この風景が今回の思い出。  (ブログ: サクラっぴーinわたり 様 、記事: 進駐軍が居た頃(幼少時の思い出

そして、書いてあった;

当時 一般の日本人がそこ(米軍キャンプ内)を通過するとか 入るには

書類に必要事項を記入して許可を取る必要があったようです。

この記憶にあるMPボックスは 中の瀬橋を渡って

二高を右に見て道路を渡ったすぐ、

今の県美術館前あたりだった気がいたします。

今の県美術館前あたりだった気がいたします。⇒ ここだ ↓ !

 
愚記事: 仙台参り 【2015】 宮城県立美術館

 約60年前にMPのポリボックスがあった場所で、山下菊二の戦時中の作品『人道の敵米国の崩壊』のち『日本の敵米国の崩壊』に改題、そして、敗戦後の「山村工作隊」経験色濃い『あけぼの村物語』が展示された。

 

■ まとめ

1.「歴史」が抹殺されそうな「場所」で、歴史を考えてみた。

2.そして、おいらが立って撮影している「象限」(第四象限)だけが非接収地帯、

すなわち、

基地外、ということだ!

ようこそ、キチガイブログへ!

おそるべし、敗戦国・ぬっぽん!

3.山下菊二の『日本の敵米国の崩壊』、『あけぼの村物語』など展示された『わが愛憎の画家たち; 針生一郎と戦後美術 』  は、レコンキスタ (失地回復闘争) [wiki]であったと気づく。

 

 

 


仙台参り 【2015】 昭和の生き仏のために

2015年03月26日 19時47分47秒 | 仙台・竹雀・政宗

2015年3月13日(金)、宮城県美術館で開催の「針生一郎と戦後美術」を見物するため、おいらはJR仙台駅から歩いて仲の瀬橋を渡った。その日、新幹線から見た仙台は雪がちらついていた。

歩いて宮城県美術館に行く前に、まずは、センチメンタルジャーニーだ。旧仙台八重洲書房跡地をお参りした、昭和の成仏のために。

(仙台)八重洲書房;伝説の本屋だ。 なお、なぜ(仙台)八重洲書房と表記するかというと、東京駅八重洲口の大型書店の八重洲ブックセンターと区別するためである。両者は関係ない=支店ではない。ググるとこうなる⇒ Google[仙台八重洲書房]。

おいらが仙台に来る頃だっただろう、ビートたけしがラジオで、「おまえたちは、おいらと同時代を過ごしただけでも、ありがたいと思わないといけない!」と言っていた。その超自大=事大主義的発言には少し驚いた。歴史に出会っている時、そのことは分からないのである。そして、おいらは、今となっては、 あの仙台八重洲書房に行ったことがあるということが「歴史」に立ち会っていたのだ!と思わざるを得ない。

まだ、本屋が情報メディアとしての意味があった時代のことだ。昭和末期だ。

おいらが仙台に来てまもなく、仙台でもバブル期となり、仙台八重洲書房は仙台ビブレ地下に移転した。売り場面積も増大した。

■ 仲の瀬橋

仲の瀬橋は広瀬川を跨ぐが、同時に河岸の低地の河岸段丘面をも跨ぐのである。 この道を真直ぐいけばこの風景に出合た。でも、おいらは、橋を渡ったあと180度反転し、坂を下った。なぜなら、センチメンタルジャーニー的猫のパトロールをしなければいけないからだ。

仲の瀬橋を渡って、振り返った風景。仲の瀬橋が跨いだ、低い土地:そこにはちゃんと街がある:。

低い土地の街はよく昭和を保存している。

昭和の食堂;養ちゃん食堂:Google[養ちゃん食堂]。少なくとも30年前はあった。

おいらは「昭和の成仏のために」シリーズをやっている。

でも、今日は、生き仏を参拝だ。 昭和の生き仏のために!

 

半チャン&ラーメン ¥750

 

ごめんなさいね、おいら見ちゃったの。養ちゃん食堂のどんぶり。店の電話番号が昭和の桁で書いてある。

■ 昭和の生き仏のために; 仙台川内、高林

灯油を買いに来た青年。

30年前おいらは上記養ちゃん食堂に行ったのは1回あるかないかである。記憶はおぼろげにあるのだが、はっきりしない。当時のおいらは、その後もずっと、自炊派である。外食で750円っも使うなどとは信じられない。なぜなら、もし700円もあれば、豚肉が700g買えるのである。エンドーチェーンに行けばいいのだ(今2015年じゃ、ないらしい)。700gは食いきれない。

そんなおいらが当時、卵を1個1個買っていたのが、養ちゃん食堂の斜め前にあった、そして今もある、高林だ。高林はたまごをバラ売りしていた。当時の贅沢の臨界は「三つ葉」を買えるかどうかだった。卵は1個10円で買えたが、三つ葉10円分は売ってくれなかった。みつばは足が早く、ひとり暮らしの食材には不向き。これは冷蔵庫の問題とは関係ない(今では術が発達しているらしい⇒便利★三つ葉を冷凍保存 つくったよレポート)。三つ葉はいい。たまご丼に三つ葉かかしわか、と選択を迫られたら、おいらは、三つ葉。たまご丼への三つ葉の有無が贅沢の臨界だった。

その高林へは灯油を買いにきた。ポリタンクを持って。そんな30年前の”おいら”を見た。

30年変わらない仲の瀬橋下の風景を確認した。