いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

若泉敬 荒松雄 インド1952 

2008年10月09日 20時51分53秒 | インド・2・4・5回目
-- 「目玉焼きは卵が二つ、バターも本物、たっぷりミルクを入れた紅茶は飲み放題。食水準は東京より何倍も上がった。心配無用」と書き送ったことを覚えている。 --
                 荒松雄、『多重都市デリー』

■文芸春秋社の雑誌『諸君』の先月10月号から若泉敬の森田吉彦という若センセによる評伝の連載が始まった。若泉敬はAmazon: 『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』で知られた、沖縄返還の特使・密使だったとされる人物。公然の顔は国際政治学者。 今月号を読むと、若泉敬は、まだ学生時代に、1952年にインドに行き、二ヶ月半も滞在したとのこと。1952年と言えば前年にサンフランシスコ講和があって、やっと日本人が外務大臣が発行するパスポートで海外に行けることになった時期。もっとも一般の日本人が海外に行くことは事実上不可能。ちなみに、この時点で60万から100万の日帝兵士がいまだシベリアにいた。

■インドと沖縄;
「いつも沖縄のことを気に掛けている人だった。」と言われることになる若泉敬がなぜ1952年にインドに行ったのか? 森田吉彦による若泉評伝には「軍国少年であった若泉が、このときアメリカに対してわだかまりを残していたであろうことは容易に察しがつくし、生来完璧主義の傾向を持つ彼にしてみれば、多数講和(米国を中心とする諸国との講和を優先させる策:全面講和の反対。いか@註)という選択は、独立というには中途半端にすぎたのかもしれない。」とある。おいらが妄想するには、このサンフランシスコ講和の時点、つまり1951年に、若泉敬には「インド」幻想があったのではないか?つまり、ネルー率いるインドがサンフランシスコ講和に参加しなかった理由は、米国の沖縄占領に反対したからである。のちに沖縄問題に尽力することになる若泉を考えると、沖縄問題をその当時指摘したネルー・インドに「幻想」を持ったのではないかとおいらは空想している。これはなにも「空想的平和主義」ではなくむしろ現実的パワーポリティクスを考えてのこととも考えられる。事実、岸信介はインドとの外交を、実の方はともかく、象徴的に演出し、対米関係の「相対化」のテコにしようとしたフシがある。ちなみに、サンフランシスコ講和で調印しなかったインドは同年すぐに個別に日印平和条約を調印。だからこそ、1952年に若泉敬、荒松雄らはインドに行けたのである。

■インド幻滅と皮肉;
そんな若泉はインドに幻滅したと評伝は言う。帰国後若泉はインド見聞記を『独立インドの理想と現実 インドは「第三勢力」たりうるか』を著し、「現在、巨象インドは飢えていてほとんど立ち上がる気力すらないといってよい。それはひどい貧困であり、あとにのべるごとく飢餓が拡がり、加うるに無知と疾病である。大きな期待をいだいて渡印したわたくしがみたものは、薄汚い布をまとい跣足でとぼとぼ街を歩く民衆たち数知れぬ乞食の群れ、それに動物として尊重されているという甚大な牛群であった。」と報告。若泉はインド政府が後援する国連アジア学生会議に出席し、インド政府から「最大限の厚遇を受けた」が、経験したのは上記の食水準は東京より何倍も上がったというものではなかったらしい。そして、若泉は言う。「長い狡猾な英国の支配になれてしまったインド民族は、背骨まで麻痺させられて容易に立ち上がれないのではあるまいか。どうも、かれらには毅然たる独立精神とか、自主独立の気概といったものが欠けているように思われた。」

■核武装し大国化するインド;
56年前の若泉の見解を、歴史の結果が出た現在からの視点で、○×つけるつもりはないし、何も若泉がインドを侮っていたことを責めたいわけでもないが、米国や仏国などの既存核武装国家からの核武装の承認を事実上受け大国化したインドについて56年前に語ったその言葉のブーメラン・皮肉効果には笑ってしまった。

「長い狡猾な英国の支配になれてしまったインド民族は、背骨まで麻痺させられて容易に立ち上がれないのではあるまいか。どうも、かれらには毅然たる独立精神とか、自主独立の気概といったものが欠けているように思われた。」

もちろん、ブーメラン・皮肉効果とは、上記の批判の英国を米国に、そしてインドを現代日本として読み直すことに他ならない。

▼追記、インドは飢えていたのか?/餓えているか?

「(インドで)農耕に用いられている土地は、国土全体の52パーセント近くにも達する。日本場合はたかだか12パーセントにすぎないから、これは驚異的な数字である。

全耕地面積でも、旧ソ連、アメリカに次いで、世界第三位にランクされ、世界全体の14.4パーセントを占める。

インドの穀物自給率は107パーセントほどである。」

山下博司、『ヒンドゥー教 インドという<謎>』




インド細密画  インドミニアチュール

2008年08月29日 19時37分38秒 | インド・2・4・5回目


本屋に行くと、浅原昌明 『インド細密画への招待』  Amazonという新書が平積みになっていた。
別の本屋でも平積みになっていた。
あまたでる新書の中の売り出し推進作品らしい。

好きです、インド細密画。むしろ、インドミニチュアールといいます。こんなのです↓。
これはデリーでさんざん探して買ったものです。


街頭でも売っていました。が、なんちってもの・バッタもので、いいものを見つけるのは難しいです。


■デリーのインド国立博物館のインド細密画(ミニチュアール)の展示コーナー;





●で、肝心のこの本について何もかいてませんね。まだ、読んでいません。というか、少なからずインドの歴史を知っている者にも読みずらいです。しかし、きれいなインド細密画の絵がたくさん掲載されているので、画集をみるように見るとうれしくなります。


迦陵頻伽

2008年08月14日 21時21分19秒 | インド・2・4・5回目

 

- - 「あんた、カリョウビンガ知らんの。」

「はあ。」

「へえ、生島さんでも知らんことあるんやね。」- -

                車谷長吉、『赤目四十八瀧心中未遂』




- アクバルの居城、ファテープル・スィークリーにて - (本文と全然関係なし)

■ラジオを聞いていると、カリョウビンガは源氏/紫式部、あるいはその周辺にも出ているのだと知った。 Google; 迦陵頻伽 紫式部 つまり、カリョウビンガという言葉は古くからの日本語なんだ。知らなんだ。 

■おいらはこれまで2度カリョウビンガに「出会い」かつ記憶に残っていたので今調べた。記憶に残った理由のひとつは、音/語感が変だから。

初めて知ったのはがきんちょのころで「レコード」出してた人たちのグループ名。KARYOBIN。 パープルモンスーンという曲が当時とても新鮮だった。

2ちゃんねる、 上田知華+KARYOBINについて語ろう

当時ラジオ番組で上田知華が「KARYOBINは名前を覚えてもらえず、かつ間違えられやすく、火炎瓶、と間違えらたこともある」と言っていたことを思い出した。

今CDとても高い; Amazon, KARYOBIN

ちなみにYouTUbeにアップロードはない模様。 たくさんある

●で、2度目が20年たっての上記の車谷長吉、『赤目四十八瀧心中未遂』。アヤちゃんの背中に彫ってあったのがカリョウビンガ。このときはじめて、カリョウビンガというのは鳳凰のような壮麗な鳥とわかる。

今、生まれて初めてカリョウビンガをちゃんと調べた。

ウイキペディア; 迦陵頻伽

サンスクリット語起源なんだ。kalavinka。kalavinka → 迦陵頻伽。

これは、7世紀に儀浄はナーランダで10年勉強して、たくさんのサンスクリット文献を母国・唐に持ち帰る。これを契機にサンスクリット語→漢語の大翻訳時代が始まり、多くの漢語(概念)がシナで作られた。の一環でのことらしい。(拙記事:『議論好きなインド人』 アマルティア・セン その3

つまり、支那知識人の大暴走族時代でのことである。迦陵頻伽! パーラ、パーラと聞こえそうである。元祖暴走万葉仮名に他ならない。

そして何より、『赤目四十八瀧心中未遂』でアヤちゃんは、「へえ、生島さんでも知らんことあるんやね。」と言って、手提げから手帳を出して、迦陵頻伽、と書いてみせるのである。「アマのバタ屋で育ったような女やのにな」と自称する女が、迦陵頻伽、と書いちゃう。不思議だ。でも、そうなのだ、彼女も族あがりなのだ。


『議論好きなインド人』 アマルティア・セン その3

2008年08月10日 20時11分11秒 | インド・2・4・5回目

- - インドと中国は、国境問題をめぐって対立し、一九六二年にはついに軍事的衝突に発展した。結果はインドの完敗。インドの平原近くまで進撃した中国兵の姿にネルー首相は非常な衝撃を受け、この敗戦のショックがネルー首相の死期を早めたともいわれている。 - - 小川忠 『ヒンドゥー・ナショナリズムの台頭』


『議論好きなインド人』 アマルティア・セン その3、「第8編 中国とインド」のノート。

インドと中国の文明的交流に書いてある。ただし、交流が大規模にあった古代、中世のみについて。 だから、中印戦争なぞ全く触れられていない、ロマンティックな中印交流史。

仏教。中国からインドに多くの学僧が仏教を学びに来た。儀浄とか(ウイキペディアになし。)。(ただし、2ちゃんに、「支那は唐僧の儀浄がインド仏典から音訳した漢語で 日本では新井白石が使用していた。」とある。 つまりは、「シナ」はサンスクリット語由来で、それを音を通じて、漢字に落とした、ということらしい。ホントなのか? ということは英語のChinaは、もともと、サンスクリット語由来ということなのか?)

7世紀に儀浄はナーランダで10年勉強して、たくさんのサンスクリット文献を母国・唐に持ち帰る。これを契機にサンスクリット語→漢語の大翻訳時代が始まり、多くの漢語(概念)がシナで作られた。

センが特筆するのは、インドと中国の知的交流を宗教の伝搬という視線だけで捉えるのは間違いである。すなわち、インドから中国にもたらされたサンスクリット文献は仏教に限るものではなく、「世俗的」な健康・医学、科学、数学の諸学に及ぶ。こういう世俗的諸学をインド・中国の文明において軽視する態度は、物理学者であったニュートンにおいて、実はニュートンはキリスト教・神秘学をもまた研究していたことを無視する態度と共に解釈上の偏向であると注意喚起している。

特筆2; センが指摘し、普通の歴史入門にも書いてあることで、インドでは書かれた歴史資料が少ない。一方、中国では多い。インドの古い文献は宗教書が多い。こういう背景で、インド文明は宗教的であるという偏向解釈が流布する。

だから、インドと中国の交流を研究する上で、どっちで起源したかという解釈はむずかしい。

■ あと、こういうセンの物言いはどうだろうか?

ジョン・スチュアート・ミル、ジョン・ロールズ、ユルゲント・ハーバーマスらの政治哲学者が主張するように、公共的議論が民主主義の根幹であるとすれば、民主主義の世界的起源の一部は、インドと中国(さらには日本や朝鮮その他)における公的討論の伝統に求められよう。この伝統は、仏教教団の対話への熱意によって強く促されたのである。また注目すべきは、中国、朝鮮、そして日本における初期の印刷術の試みのほとんどは、仏教徒の技術者によるものであったことである。 

仏教が民主主義を準備した、って?

■蛇足;

また君か!


やかましい、方が元気があって良い?


インド; 世界第2位のイスラム人口

2008年08月06日 20時13分06秒 | インド・2・4・5回目


- - デリーにて。2007年10月14日。 ただし、これはイスラムの大祭の日 - -

デリーの年中の日常にムスリム衣装の人があふれているわけではない。なにしろ、インドは世俗国家である。ムスリム女性も日常はスカーフをしなければならないわけではないだろう。なぜなら、デリーの日常で、イランの街頭でのように、頭からすっぷりムスリム衣装をかぶっている女性を見ないからだ。

■小川忠『ヒンドゥー・ナショナリズムの台頭』より;

○ インドは「ヒンドゥー教国」ではない

 日本人がインドに対して犯す最大の誤解は、「インドはヒンドゥー教国」と認識することである。「インドは仏教国」という、より古典的な誤解もある。一九八一年の国勢調査によれば、ヒンドウー教徒は人口の82.6%である。たしかに彼らは最大多数であり、インド社会において圧倒的な影響力をもつ存在であることに間違いないが、イスラム教徒も一億人を超えていて、人口比の11.4%を占める。その数は、サウジアラビア、イランそしてパキスタンといったイスラム教国よりも多い。インドは、インドネシアに次ぐ世界二位のイスラム人口を有する国でもあるのだ。



Amazon: ヒンドゥー・ナショナリズムの台頭―軋むインド

■もっとも、このデータは1981年と古く、バングラディシュもパキスタンも人口は増えているはずだから、インドが世界第2位のイスラム人口という事情はかわったかもしれない。ただし、インドが屈指のイスラム人口を持つ国というのは変わらない。

参考サイト; ムスリム人口

びっくり。中国のムスリムは、アフガン、イラク、サウジアラビアより多いんだ。

やっぱ、最近の事件はそういう背景なんだなぁ。

でも、インドではインド国籍ムスリムのテロって、たぶん、ないんだと思う。
ニュースで聞かないし。


文盲の万能人、アクバル大帝

2008年08月05日 20時19分27秒 | インド・2・4・5回目

- アクバルの居城、ファテープル・スィークリーにて -

■「文盲」の万能人だなんて、いつもの、 「単なる奇をてらった毒舌偽悪芸が目的の」このブログの調子で、ゆるしてください。 でも、PC(political correctness)で文盲率は非識字率になったけど、文盲な人を非識字な人といっても回りくどいし、読み書きのできない人というのはもっとわずらわしい。

■昨日来、アマルティア・センにより、かれの著作『議論好きなインド人』で絶賛されているのがアクバル大帝であり、その理由は彼が、モンゴル・ムスリムの出自にもかかわらず、ヒンドゥー教、キリスト教、パールーシー、ジャイナ教、ユダヤ教、そして無神論者などさまざまな宗教家や知識人と会話し、議論しあったからだと。

そして、ウイキペディア Akbar によらずとも、万能人であったと伝えられている;

Akbar was an artisan, artist, armorer, blacksmith, carpenter, emperor, general, inventor, animal trainer (reputedly keeping thousands of hunting cheetahs during his reign and training many himself), lacemaker, technologist and theologian. 

■イエズス会士モンセラーテは『ムガル帝国誌』に言う;

アクバルは学識ある人びとを非常に厚遇している。したがって常に学者を自分の近くにひかえさせ、哲学上の諸問題や宗教や信仰にかかわる事柄を自分の前で論じさせ、歴代の王や過去の輝かしい出来事の歴史を説かせている。判断力にすぐれ記憶力も抜群で、他の人びとの議論にじっと耳を傾け、多くの事柄についてすくなからず学び、相当な知識も得ている。こうすることはたんに文字をしらないこと(彼は読むことも書くこともまったくできない)を補うばかりでなく、難しいことを明白かつ明確に表現する能力を身につけることも可能ならしめている。それにまた、どんなことを訊かれても正確に要領よく答えることができるようにもなっているので、事情を知らない人はすべて彼が文字を知らないどころか、非常に深い知識と学識をそなえた人物であると判断することであろう。しかし事実はこのとおりであって、われわれが述べたように王は鋭い才能を発揮するのみならず、雄弁の才においても、王の権威とその高い地位に相応しく、知識の点ですぐれている王宮の学者の大部分をはるかに凌駕しているのである。 

『世界の歴史14 ムガル帝国から英領インド』より孫引き

■センのアクバル大帝論には、議論好きインド人筆頭の彼が文盲であったことには触れていない。一方、現代のインド貧民層も議論好きであると主張する。そのわりには、インド貧民層の識字率と議論好きの関連性は、あるにせよないにせよ、言及されていない。もし、インド人が議論好きであるのでれば、つまりは口語による情報伝達、お互いの認識披露と評価、議論が盛んであれば、その原因の一旦は必ずしも高くない識字率と関係しているのんでないべか。もっとも、アクバルの場合その権力により学者から口頭で情報を得ていたともいえる。

『議論好きなインド人』 アマルティア・セン その2

2008年08月04日 20時37分53秒 | インド・2・4・5回目

ファテープル・スィークリーの窓

死んだムスリムの残したものは、

アマルティア・セン、『議論好きなインド人』の第III部 政治と異議申し立て、 第12篇 インドと核爆弾においては、インドとパキスタンが核兵器を持って対峙することについての考察。

いきさつとしては、昨日書いたヒンドゥー至上主義の風味をもつインド人民党が政権に就いていた1998年にラージャスターン州のポカランで核実験を行った。首相はインド人民党のバジパイ。実務責任者は核物理学者のカラム。カラムに実際に会ったセンは「心暖かく、穏やかな物腰の人物」と書いている。核実験後カラムは、「1500年のあいだ、インドは一度として侵略を行わなかった」と言ったそうだ。

にやり。そうだよな、インドは数千年に渡り、外来侵入者の吹きだまりではあったが、打って出たことはない。いつも、カイバル峠から やつらは やってくる。

事実、デリーこそ歴代侵入ムスリムの吹きだまりであり、彼らの残していったものの展示場である。

12世紀以来のデリーに残されたムスリムのモスク

↑ これって、ぬっぽんずんの税金を使った、ぬっぽんずんのデリー建物ヲタのコレクションにほかならない。

こわれた館とゆがんだドーム

他には何も残さなかった

帝国ひとつ残せなかった


もうムスリム来襲はないのか?

英領インドは、ムスリム主体のパキスタン・バングラディシュとインドに分離した。この時の分離の騒動で双方殺し合い、百万人(以上)が死んだとされている。これは、原爆で死んだ人よりはるかに多い。そして、印パは大量破壊兵器どころか機関銃以下の武器で、お互い面と向かって殺しあったらしい。その殺意の根源がわからない。

さて、むしろムスリム襲来の問題は、インドが引き受ける問題ではなく、パキスタンが受ける脅威かもしれない。なぜなら、北方のアフガニスタンやイランからのイスラム原理主義の浸透をまともに受けないといけないのはパキスタンであるから。

さらには、実はパキスタン政府、あるいは軍部が、陰に陽に、タリバンを支援しているらしい。タリバンの発展した勢力が、かつてのバーブルのように、アフガンと今の核武装したパキスタンを征服したらどうなるであろう。

インドは「文明国」(欧米)から支援された核戦争最前線となるであろう。

■ おりこうさんの作文

さて肝心のセンセンセの核問題への「思索」であるが、インドをめぐる事実関係以外は得るところなく、従来の道徳的観点からの核兵器保持反対以外、核兵器の問題への新たで真摯な切り口は何一つない。

日本の高校生の夏休みの宿題の「平和問題」作文程度である。

逆の視点からいうと、宿題をお持ちの方は、センの本文をどうぞお読みください。


『議論好きなインド人』 アマルティア・セン その1

2008年08月03日 11時53分23秒 | インド・2・4・5回目

アクバル帝の居城、ファテープル・スィークリー

- - 私がやるのは、学ぼうとすることです。だってわかるでしょう、「インド人のアイデンティティとか「ベンガル人のアイデンティティ」とかいうのを聞くと、私は本当に笑えますからね。 - -  『スピヴァク みずからを語る』、ガヤトリ・スピヴァク

■『議論好きなインド人』(明石書店)は、ノーベル賞を受けたインド人経済学者アマルティア・センによるインド論。

もっというと理想的インドの歴史的、文明的根拠を提示したもの。

この本はこれまでセンがエッセイとして発表した文章、あるいは講演した記録のテーマ別の集成。インドにまつわる諸問題をたくさんの観点から論じている。なので、一冊の本としての統一性や論証したい結論へ向けての序章から最終章への強い論理的展開なはい。逆に言うとこれは、この本はどの章から読んでもよいことを示す。事実、どこからでも読める。"笑える「インド人のアイデンティティ」"問題へのアプローチの集大成に他ならない。

目次は;
第I部 声と異端
 第1篇 議論好きなインド人
 第2篇 不平等、安全の欠如、そして声
 第3篇 大きなインド・小さなインド
 第4篇 ディアスポラと世界
第II部 文化とコミュニケーション
 第5篇 タゴールとかれのインド
 第6篇 私たちの文化、かれらの文化
 第7篇 インドの諸伝統と西洋の想像力
 第8篇 中国とインド
第III部 政治と異議申し立て
 第9篇 運命との約束
 第10篇 インドにおける階級
 第11篇 女と男
 第12篇 インドと核爆弾
第IV部 理性とアイデンティティ
 第13篇 理性の射程
 第14篇 政教分離とその批判
 第15篇 暦から見るインド
 第16篇 インド人のアイデンティティ
訳者の解説1, 2


Amazon: 『議論好きなインド人―対話と異端の歴史が紡ぐ多文化世界』

そこで繰り返し語られ、おいらには目立ったのが、アクバル帝への称賛と現代のインド人民党に代表されるヒンドゥー・ナショナリズムへの繰り返しの憂慮。

【先駆的な多文化主義者としての皇帝アクバル】
表紙の絵が象徴的である。これがセンの理想的インド像。すなわち、アクバル帝がヒンドゥー、ムスリム、キリスト教徒、パールーシー、ジャイナ教、ユダヤ教、そして無神論者を集めて、議論に興じた。先駆的な多文化主義者としての皇帝アクバルを評価している。

アクバル(1542-1605)はムガル帝国の第3代(日本でいうと豊臣秀吉(1537-1598)と同時代人。ムガル帝国初代バーブルはティムールの孫でサマルカンドからカーブルに移り、北インドに侵入。アクバルはその孫。元来、モンゴル/トルコの血統でムスリム文明の系統であったので、インド従来のヒンドゥー教徒との融合がムガル帝国隆盛への課題であった。そして、実現した。

アクバルは、センが評価する先駆的な多文化主義者としてばかりではなく、ファテープル・スィークリーで(上画像)、イスラム系、ヒンドゥー系、キリスト教系の妃を摂って暮らして、政治実践とした。(ファテープル・スィークリーでおいらはガイドの人にバカなことを聞いてしまいました。3P禁止!インド・アクバル帝寝台 ゆるしてください。)

【インド人民党への憂慮】
1990年代にヒンドゥー至上主義が台頭した。議会でもインド人民党が多数派を占め、政府を取った。そのヒンドゥー至上主義による極端な事件が1992年の「バーブリー・マジッド破壊事件」。前述したムガル帝国初代のバーブルが建てたモスク、バーブリー・マスジッドをヒンドゥー至上主義が破壊した。破壊した理由は、バーブリー・マスジッドはムガル帝国がインドを侵攻したときにヒンドゥー寺院の上に建てた、いわばムスリム・ムガルによるインド支配の象徴であるから。つまり「マスジドはヒンドゥー教寺院を破壊して建てられた『邪悪な侵略者であるイスラーム教徒』の建築物であり、この地を本来のヒンドゥー教寺院に戻すべきだ」と (ヒンドゥー教による レコンキスタ!)。 ウイキペディア; バーブリー・マスジッド

さらには、ヒンドゥー主義のインド人民党は歴史認識の修正にも熱心であった。つまり、ヒンドゥー教徒の主流派のアーリア人はインドの先住民であると。なぜこういうことを主張しなければいけないかというと、アーリア人自身北方からインドに侵入し、先住民のトラビダ人を征服し、ヒンドゥー教を作っていったというのが「史実」であるので、これでは、アーリア人も侵入者ムスリムと同じ外来からの侵略者になってしまうからであろう。

センは、ヒンドゥー至上主義者やインド人民党によるバーブリー・マスジッド事件や歴史修正に憂慮している。寛容が「インドであること」に重要であると。インドの政教分離とは複数の宗派の存在のもとで為政者が中立的であることが重要。それが歴史においてアクバル帝やアショカ王に認めらられるとセンは書いている。


本書表紙のアクバル帝(右端)と宗教者たち。ファテープル・スィークリーにあったとされる「信仰の家」での様子らしい。


襲われるデリー

2008年07月31日 20時23分19秒 | インド・2・4・5回目

デリーのインド国立博物館にて。 2004年

■襲われるムガール朝デリー

デリー案内などでは触れられていないが、デリーはムガール帝国時代の1739年にペルシア(現在のイラン)のナーディル・シャーに襲われ、占領され、数万人が殺され、ムガール帝国の蓄えてきた財宝を強奪された。

たとえば、Koh-i-Noor ダイアモンド

ウイキペディア;ナーディル・シャー

インドは南方は海に囲まれ、北方はヒマラヤ山脈とアフガニスタンとの間のスライマン山脈がインドを守っている。ただ、そのアフガニスタンとの山脈にはあのカイバル峠があり、イスラム勢力が幾度となくインドの平原になだれこんだ。



この1739年にペルシア帝国に襲われたムガール帝国もその統治の文明的基調はペルシア・イスラム文明。帝国の祖・バーブル; (ウイキペディア) はカイバル峠を越えてアフガンからインド平原へやって来た。宮廷ではペルシア語がつかわれていた。ただし、ムガール帝国の血統、あるいは正統の根拠とされる系統はチンギスハーンに続くモンゴルとされていた。

ただし、ムガール帝国の后はペルシア系らしく、タージマハルの墓の主もペルシア系の妃。

●現在、イランが核武装したいと考える理由のひとつがインド問題。潜在的ライバルのインドが核武装したなら、我もという考えらしい。

インドの現在の国際社会での地位は確実に向上している。一方、歴史的にみると、その文明的背景が豊かなペルシア・イランは割りを食っている。

次期米国の外交課題がアフガン問題の解決であるという。でも、地図を見ると、パキスタンとイランが米国にそっぽを向いていたら、アフガン問題は解決しないだろう。

そして、皮肉なことに、「民主化」とか「言論の自由」をパキスタンやアフガニスタンやイランで拡張させると、反米イスラム主義が庶民、つまりは貧乏人であり所を得ない人々に拡大するであろう。

このことは、「独裁国家」サウジアラビアと米国ががっちり組んでいることと背景を同じにしている。

Manekshaw 元帥; 英国の嫡流

2008年07月08日 19時25分48秒 | インド・2・4・5回目


■タイム誌の新着をめくっていたら、目を引く写真。「将軍」と分捕ったパキスタンの戦車とインド兵。

Framji Jamshedji Manekshaw さんの訃報記事らしい。

■目を引いた理由は、パキスタン戦車を分捕ったインド兵。

2007年10月メーラットに行った。 メーラットはインド大反乱(セポイの乱)が1857年に起きた街。
(参考愚記事:蛤御門の変+大東亜戦争=皇帝追放・属領化

メーラットはインド訪問5回のいずれも通過していたのだが、2007年10月には、インド大反乱関連史跡を、インド人のインテリ青年の案内で、計画的に訪れる。

↓あった。 叛逆するスィーパーヒィー兵。


メーラットは、インド大反乱の時も、今も陸軍の大駐屯地。駐屯地もふつうの街と隔絶しているのではなく、広大な敷地の中は一般道。そういう街に史跡がある。 そのメーラット参りツアーの中で、同じく、タンクが飾ってあり。 車で横を通過するとき、インド人たちは、あれこそがパキスタンから分捕った戦車だ!と沸いた。



そうなのだ、対パキスタン戦争は、インド陸軍にとって、対英戦争と並んで、あるいは、それ以上に、重要らしい。

■ 今日の見た記事は、Framji Jamshedji Manekshaw陸軍元帥が94歳で先月末27日に死んだことを伝えるものだが、その履歴について、彼を陸軍元帥にした14日間の対パキスタン戦争が主であるが、第二次世界大戦では日本と戦ったことが紹介されている。そして、最後に、Manekshaw陸軍元帥は、インドが英国から受け継いだ古い流儀のscotch-in-the-officers'-club army cultureの体現者である、としている。

TIME; Sam Manekshaw

Wikipedia: Sam Manekshaw

●うーん、そうなのか。 おいらは、インド陸軍は大日本帝国の支援で、シンガポールでチャンドラ・ボースによってできたと思っていた。 
拙記事;Chalo Delhi! INA :インド国民軍

同じく、別の English mediaで、Manekshaw 大元帥の訃報を伝えている。

一方、日本語Googleで、マネクショウでググると、ニュースでは0件。全体では、わずか、1件。

サムマネクショウ死んで元帥