いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

散歩:北九州市、八幡地区:いのちのたび博物館ー官営八幡製鉄所史跡

2024年09月29日 13時35分16秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

北九州市八幡東区を散歩した。いのちのたび博物館、官営八幡製鉄所史跡がある。後者は世界遺産。あと、大型商業施設。


大縮尺 バルーンマーク:官営八幡製鉄所旧本事務所 ↑↓


1.JRスペースワールド駅、2.北九州市立いのちのたび博物館、3.イオンモール八幡東、4.ジ アウトレット北九州 、5.官営八幡製鐵所 旧本事務所 眺望スペース、6.スペースLABO ANNEX・(世界遺産ビジターセンター)

■ 1.JRスペースワールド駅

■ ⇒ 2.北九州市立いのちのたび博物館

入場料、600円。

いのちのたび博物館 公式 web site https://www.kmnh.jp/

2023年3月にリニューアルした、展示総数6,000点を超える西日本最大級の自然史・歴史博物館。「いのちのたび」をコンセプトに地球の誕生から現在まで、生命の進化の道筋と人の歴史を展示解説しています。館内は、「自然史ゾーン」「歴史ゾーン」に分かれており、来館された方に楽しみながら学習していただけるようにエンターテイメント性の高い展示が行われています。一堂に並ぶ恐竜の骨格標本は大迫力。歴史資料も充実しています。(クロスロードふくおか)

アースモール:地球上の生命は約40億年前に現れてから多くの種が出現し、発展し、絶滅してきました。このアースモールでは、地球上に現れた生命のうち代表的なものを紹介しています。生命のたどったみちをふり返ってみましょう。web site

ティラノサウルス・レプリカ:中生代白亜紀後期の北米にいた肉食恐竜です。獣脚類の中でも大型で全長は約12mにもなります。大きな頭骨には強力な顎の筋肉が収まっており、鋭く太い歯で獲物を骨ごと噛み砕くことができたと考えられています。「超肉食恐竜」とも呼ばれます。祖先の仲間は羽毛恐竜で中国から見つかっています。web site

ディプロドクス(セイスモサウルス、レプリカ):中生代ジュラ紀後期の北米にいた植物食恐竜です。竜脚類の仲間で全長約35m、最大級の恐竜の一つです。長い首を左右に動かして広い範囲の植物を食べていたと考えられています。近年の研究で同じ竜脚類のディプロドクスの1種であったことがわかってきました。(web site)

▼ 2階:歴史ゾーン、探求館

このコーナーでは、北九州工業地帯として栄えた時代を紹介するために、昭和33年(1958)10月20日に社宅に暮らす家族の1日を再現しています。 建物は、昭和25年(1950)に当時の八幡製鉄所(やはたせいてつしょ)が建てた中原 (なかばる)住宅をモデルとして、平屋二戸建ての片側一戸分を復元しました。テレビや冷蔵庫、洗濯機などの電気製品が普及する直前の生活を再現しています。当時、風呂は公衆浴場が一般的でしたが、手作りの小屋を増築し自前の風呂桶を据える家も増えてきました。映像では昭和38年(1963)の五市合併前後の北九州を紹介しています。web site

▼ 文化学習園

今から100年以上前に建てられた北九州市内の農家の母屋(おもや)の一部を再現しています。茅葺(かやぶき)の大屋根が特徴です。部屋の中には囲炉裏(いろり)があり、湯を沸かしたり鍋の料理を煮るだけでなく、暖房設備にもなりました。土間には四季の農作業と農具を紹介しています。web site

■ ⇒ 3.イオンモール八幡東

イオンモール八幡東(イオンモールやはたひがし)は、福岡県北九州市八幡東区に、イオンモール株式会社[2]が開発・運営を行っているショッピングセンターである.

2006年(平成18年)11月22日開業。新日鉄都市開発(新日鉄興和不動産を経て、現・日鉄興和不動産)及び北九州市が新日本製鐵(現・日本製鉄)八幡製鐵所の遊休地(2001年(平成13年)に北九州博覧祭2001開催)を市街地整備した「八幡東田総合開発」のタウンセンター地区に位置する。事業主体は新日鉄都市開発。イオン八幡東店(イオン九州)を核店舗に、148の専門店が並ぶ。(wikipedia)

■ ⇒ ジ アウトレット北九州 

THE OUTLETS(ジ・アウトレット)は、イオンモールが新規開発・店舗運営を行うアウトレットモールである。

2号店:THE OUTLETS KITAKYUSHU(ジ・アウトレット キタキュウシュウ)

2022年(令和4年)4月28日、福岡県北九州市八幡東区にある『イオンモール八幡東』に隣接していたスペースワールド跡地に出店。 (wikipedia)

■ ⇒ 官営八幡製鐵所 旧本事務所 眺望スペース

1899年に建設された赤煉瓦組積造の建物。製鐵所の技術者による設計。骨組はクイーンポストトラス組み、煉瓦積みはイギリス式の一方、屋根は和式の瓦葺。1922年まで本事務所として使用された後、鉄鋼の研究所として使用された。見学不可だが、2015年4月に眺望スペースが設けられて遠景を見ることが可能となり、登録後から個人利用に限り写真撮影が認められている。wiki

■ ⇒ 東田第一高炉史跡、スペースLABO ANNEX・(世界遺産ビジターセンター)


旧東田第一高炉

スペースLABO(北九州市科学館)分館であるスペースLABO ANNEX内の「世界遺産ビジターセンター」では、「明治日本の産業革命遺産-製鉄・製鋼・造船・石炭産業」全体を紹介した展示を行っており、歴史や世界遺産価値を学ぶことができます。web site


1901年4月 伊藤博文と井上馨を中心とした集合写真


中央が伊藤博文、左が井上馨、右が和田維四郎(つなしろう)[wiki]、博文の後ろが麻生太吉[wiki]

 


筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第27週

2024年09月28日 18時00分00秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第27週

■ 今週のよその猫

■ 今週の筑豊境

■ 今週の花

■ 今週の博物館:いのちのたび博物館@北九州市

中央が恐竜の顔の正面です。頭が薄い(縦横比が大きい)。

■ 今週の丼

うどん屋さんで、牛丼です。

資さんうどん特製「牛丼」!甘辛く炊いた牛肉が特徴で、ホカホカご飯との相性抜群です!web site

味が濃く、甘いです。

■ 今週の誇大広告 : ごぼ天が小さい

資さんうどん:ぶっかけうどん(冷)。<荊の簪を挿した御方さま>の注文品。ごぼ天が小さい。皿の中に納まっている。広告の写真では皿からはみ出している。

資さんうどんのごぼ天は長さが14cmとの解説がある(web site 【資さん通信】「美味しいごぼ天の作り方をご紹介)。上記画像のごぼ天の長さの測定の記録は、もちろん、ない。

■ 今週の赤腕章

資さんうどんでは店舗にひとり、赤腕章をしているスタッフがいる。案内係と書いてある。


2013年、北京にて(愚記事の100枚以上載せた画像の最後から3番目の画像)

■ 今週の半額;

国産のさばを海外でフィーレ加工し丁寧に一枚ずつ手作業にて骨を取りました。
脂ののった国産さばを骨取り加工した安心・安全なフィーレ原料を使用しています。 
(大分県佐伯市野岡町山田水産 web site

⇒ おすすめレシピ

■ 今週の「鉄条網の向こうの世界遺産」:明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業/官営八幡製鐵所/旧本事務所


 福岡県北九州市八幡東区尾倉(google map)。遠くから見るだけです。

官営八幡製鐵所創業2年前の1899 年に竣工した初代本事務所は,中央にドームを持つ左右対称形の赤煉瓦建造物で,長官室や技監室,外国人顧問技師室などが置かれた。文化遺産オンラインweb site


模型:現場から離れた「スペースLABO ANNEX」の官営八幡製鉄所の展示ギャラリーgoogle map

■ 今週の「日本近代化の節目」1901年、あるいは、を参照としての近代化のあとさき、はたまた、博文と諭吉

福沢諭吉は『福翁自伝』で云っている;

ただ驚いたのは、掃溜はきだめいって見ても浜辺に行て見ても、鉄の多いには驚いた。申さば石油の箱見たような物とか、色々な缶詰の※(「士/冖/一/几」、第4水準2-5-22)あきがらなどが沢山たくさんてゝある。れは不思議だ。江戸に火事があると焼跡に釘拾くぎひろいがウヤ/\出て居る。所で亜米利加アメリカに行て見ると、鉄は丸で塵埃ごみ同様に棄てゝあるので、どうも不思議だと思うたことがある。(始めて亜米利加に渡る、事物の説明に隔靴の歎あり)(引用元

日本の前近代の特徴は鉄、鋼が貴重品だったのだ。


東田第一高炉史跡:福岡県北九州市八幡東区東田2丁目3 東田第一高炉(google map


1901年4月 伊藤博文と井上馨を中心とした集合写真

福沢諭吉は1901年2月に死ぬ。官営八幡製鐵所は同年同月に操業開始。


中央が伊藤博文、左が井上馨、右が和田維四郎(つなしろう)[wiki]、博文の後ろが麻生太吉[wiki]

福沢諭吉と伊藤博文は実際の歴史で交流があった。明治7,8年頃会ったとのこと。欧米情勢、欧化政策の情報交換でもしたのだろう。明治13年に「福澤諭吉は伊藤博文・井上馨・大隈重信の3人の参議から国会開設の意向を打ち明けられ、そのために官報のような新聞を発行することを依頼された。福澤は「是マデノ御決意トハ露知ラザリシ」と彼らの決心を歓迎し、これを快諾して準備を進めた。ところが、大隈が政府を罷免された翌年の明治14年の政変により、この件は一切立ち消えとなった。福澤は伊藤と井上に長文の書簡を送り、新聞発行が立ち消えとなった理由を問いただしたが、両者から返事はなかった。以後、2人とは絶交状態となった。引用元)」そして、「明治31年に福澤が開いた園遊会に伊藤が出席し、17年ぶりに2人は愉快そうに語り合ったという。その後まもなく福澤が倒れ、これが伊藤との最後の面会となった。(同上引用元)」

なお、明治24年に大槻文彦は日本最初の国語辞書『言海』を完成させた。出版祝賀会には福沢諭吉も伊藤博文も招待された。スピーチを頼まれた。大槻文彦、大槻磐渓親子と福沢諭吉は維新前からの旧知。でも、出席者に伊藤博文がいることを知ると「私は貴顕の尾につくのはいやだ、学者の立場から政事家と伍をなすを好まぬ」と、断った(高田宏、『言葉の海へ』)。

もっとも、諭吉は、そもそも、維新前1863年の長州藩による外国船無差別砲撃の処理の幕府の担当者であった。外国船無差別砲撃を主導したのは松下村塾出身の久坂玄瑞であり、伊藤博文と井上馨はむしろロンドンから帰ってきて止めることを長州藩に説得する立場であったが、諭吉は長州藩の跳ね上がり小児病的攘夷に怒り、幕府が外国軍と連合して長州を打てと幕府上層に提言した。

そして、1901年、伊藤博文と井上馨は官営八幡製鉄所の操業に貴顕としてその集合写真の中心に収まり、さらには、2015年、官営八幡製鉄所ばかりではなく松下村塾が世界遺産:明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業に認定されるのであった(愚記事:「世界で一番成功したテロリスト養成学校」を産業化の枠組みに押し込める(パッケージ化する)ものだ!)。 

・文化遺産オンライン:松下村塾

日本の近代化の思想的な原点となった遺産の一つ。特に,海防の必要性と,西洋に学び,産業,技術の獲得を重視する考え方が,長州ファイブや塾生に引き継がれ,後に,明治政府の政策に活かされ,日本の急速な産業化に貢献した。

松下村塾の出身者に正木退蔵[wiki]という人がいて、のちに東京職工学校(今の東工大⇒東京科学大学)の校長になったというのだ。

今では(2015年の世界遺産登録後)、松下村塾は、「産業革命の担い手となる人材の育成に貢献した吉田松陰の私塾」と説明されている(⇒松下村塾 | 明治日本の産業革命遺産)。

松下村塾といえば、世界史に残る最も成功したテロリストの養成所であることがその名を轟かせていたと思っていたのに、今じゃ、維新回天が「矮小化」され、産業革命の担い手の養成所扱いだ。アベノミクスのせい???

    
久坂玄瑞    正木退蔵

 
産業化のための師

■ 今週の訃報

写真家の細江英公さん死去google

写真家の細江英公さん死去 91歳 三島由紀夫を撮った「薔薇刑」
人間の身体に迫る大胆な表現で、戦後写真界の中心的存在として国際的に活躍した写真家で文化功労者の細江英公(ほそえ・えいこう、本名・細江敏広=ほそえ・としひろ)さんが16日、左副腎腫瘍のため死去した。ソース

写真家・細江英公は三島由紀夫ばかりでなく、江藤淳の写真も撮っている。

 

おそらく、ニューヨークの摩天楼を背景にした江藤淳の写真が細江英公により撮影され、『江藤淳著作集4 西洋について』の巻頭写真に載っている。写真撮影の由来は説明されていない。ネットで調べると、この写真は江藤の単行本『アメリカと私』(朝日新聞社)に使われたとわかった。撮影日時は1964年5月。撮影場所は、やはり、ニューヨーク(エビデンスソース)。

愚記事、江藤淳が、三島由紀夫を「殺した」のか?で書いたように、江藤淳の有名な文章、『「ごっこ」の世界が終ったとき』(1970年 !)の三島由紀夫批判は結構深刻であり、今の視点からみて、相当穿っている。

それは三島由紀夫の「盾の会」を全共闘と並べて「ごっこの世界」での事象と捉えるばかりでなく、自衛隊を「自主防衛ごっこ」と考えている。そして、自衛隊を日本の軍隊と感じることができないと江藤は表明し、この感覚は江藤ばかりでなく自衛隊の将校たちこそ痛切に感じているはずだとする。「自衛隊は人気がないのではなく、その成立と性格の根源に人気を凍らせてしまうものを含んでいるのである」という。これは、自衛隊が日本のためでなく、マッカーサーの命令で創設されたことを云っているのだろう。江藤淳は自衛隊を「アメリカの日本人によるアメリカのための兵力」、あるいは、「米衛隊」と云っている。確かに、三島由紀夫は自決時の檄でこのままではアメリカの傭兵で終わると云っている。しかし、自衛隊は創設時からアメリカのための兵力であった。


筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第26週

2024年09月21日 18時00分00秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第26週

■ 今週のよその猫

■ 今週の筑豊境

■ 今週の道産原料、あるいは、岐阜県大垣産 餡

松下製餡所 web site

■ 今週の半額、あるいは、生まれて2度目


食べ終わって気づいたのだが、おいらは、ふぐを口にするのが生まれて初めてだ。噛み応えがあり、やや口に残る食感。ふぐというは専門店でしか食べられないと思っていた。(愚記事)

■ 今週の訃報:宋彬彬/宋要武@元紅衛兵のアメリカ人

愚ブログの記事のアクセス数で、訃報がわかることがある。今週、記事「詫 び る 老 「老紅衛兵」、あるいは、“要武”の顛末」にアクセス数が多かった。何かあったらしい。


詫 び る 老 「老紅衛兵」、あるいは、“要武”の顛末

わかった。死んだらしい。

中国の文化大革命(1966~76年)当時、教師殴打など暴力を主導した「紅衛兵」の象徴的人物、宋彬彬が16日(現地時間)、米ニューヨークで持病のため死亡した。享年77歳。google


毛沢東に紅衛兵の腕章を「授ける」宋彬彬/宋要武 [wiki]

■ 今週わかったこと、三島由紀夫、福田信之、中辻和彦(盾の会)講演の日時

愚記事・新しい街でもぶどう記録;第438週で言及した三島由紀夫の写真;

NHKスペシャル「三島由紀夫〜50年目の素顔〜」の動画を見た。三島は晩年に複数の大学に出向き学生と対話しようとしていたとあった。つまり、あの東大駒場の学生たちとの討論は一連の三島の若者対話の一コマだったのだ。あの東大「全共闘」@駒場だけではなかったのだ。この動画の48分のところである大学(〇橋大学、一橋か?)での講演の写真があった。そこに福田信之 [1]の名前があった。主催の「日文研」というのは、恐らく名前から邪推して、反共右翼系団体か? 時期は1970年頃だろう。つまり、福田信之の東京教育大学時代だ。筑波移転でもめていた頃か?

場所と日時がわかった。

昭和43年/1968年 9月、一橋大学・日本文化研究所主催の討論集会『国家革新の原理』らしい。

山本舜勝、『三島由紀夫 憂悶の祖国防衛賦』1980年、(Amazon) の年表より。

■ 今週のまさかの福沢諭吉、あるいは、諭吉の夢の実現、はたまた、小泉信三の正嫡性

福沢諭吉は毀誉豹変が激しい。特に問題となっているのは諭吉主宰の新聞社の社説だ。支那、朝鮮に対する論評がひどいという件。毀派からすれば、複座諭吉こそアジア蔑視、のちのアジア侵略のイデオローグということになる。誉派は、社説はすべてを諭吉が書いているわけではない、特に、石河幹明がひどいことを書いたのだという。

安川・平山論争:論争は「福澤諭吉がアジア諸国を蔑視していたかどうか」が問題となっておこなわれた。さらに、福澤がアジア諸国を蔑視していた証拠とされる「時事新報論集」は無署名の論説から成るため、「時事新報の無署名論説を福澤が執筆したのかどうか」も議論された。wiki

さて、その社説に「圧制もまた愉快なる哉(かな)」というものがあるらしい。こういっている(文章は雁屋哲が現代語訳したもの)

我が帝国日本も、幾億万円の貿易を行って幾百千艘の軍艦を備え、日章旗を支那印度の海面に翻して、遠くは西洋の諸港にも出入りし、大いに国威を輝かす勢いを得たら、支那人などを御すること英国人と同じようにするだけでなく、その英国人をも奴隷のように圧制して、その手足を束縛しよう、と言う血気の獣心を押さえることが出来なかった。引用元

諭吉は1901年に死んでいる。諭吉の死後41年後の世界だ↓

 
左:シンガポールで降伏する英兵、右:泰緬(タイメン)鉄道で酷使される豪兵(絵出典

上の絵はたまたま豪兵だが、「英国人をも奴隷のように圧制」した⇒(Google: Thai-Burma Railway british soldiers forced labor)。

▼ はたまた、小泉信三の正嫡性

小泉信三は戦後皇室で皇太子の教育を担った。小泉についてのある伝記の副題は「天皇の師として、自由主義者として」とある(Amazon)。なお、三島由紀夫は週刊誌天皇をつくったのは小泉信三として、戦後の皇室(三島が気に入らない)を形作った「元凶」としている。

しかし、小泉信三は戦時中は「気狂い」だった。ここで「気狂い」とは諭吉の言葉だ。定義をみよう。

幕末に諭吉は、外国船に無差別砲撃をした長州から帰った大村益次郎に向かい、「如何だッて、この世の中に攘夷なんて丸で気狂いの沙汰じゃないか」といった。

戦時中、小泉信三は大村益次郎のように「気狂い」だったのだ。



小泉信三は戦時中の慶応の塾長であった。上記のように激情的「攘夷」になったとのこと。激情的「攘夷」は諭吉が最も嫌ったものにほかならない。学生を戦場に送る立場であった。戊辰戦争のとき、上野の戦闘を「紅旗征戎吾が事に非ず」と講義を行った諭吉のような贅沢は与えられなかった。というか、諭吉もやらなかった政府への参画を「内閣顧問」として行っていたと清沢の証言でわかる。愚記事

でも、おいらは、今週知ったさ。攘夷はダメだけど、圧制による奴隷化は望むところであったと。「気狂い」のように無差別砲撃はダメだが、圧制による奴隷化はOKってこと(???)

■ 今週返した本

 


筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第25週

2024年09月14日 18時00分00秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第25週

■ 今週のよその猫


まったく無視されました

■ 今週の筑豊境

■ 今週の半額:淡路島牛乳株式会社、淡路島藻塩プリン

 

淡路島藻塩プリン(web site)。キャラメル・ソースが含まれていない。

まろやかな塩味が甘さを引き立てます(同上)。口当たりは(ほんのり甘い)茶碗蒸し風だと思った。

■ 今週のさんとり(三鳥)

三羽ガラス

■ 今週の初めて飲んだ:サントリー?

 

ハイボールなるものを初めて飲んだ。ファミレスでだ。確かにウイスキーの香りはした。ただし、元のウイスキーは何であるのかわからなかった。関連愚記事:ハイボールなどという邪道との、闘いだ!

■ 今週のどんぶり

ガスト:たれカツ丼 味噌汁・漬物付き

ガスト自家製の出汁のきいた甘辛ダレを、うすく伸ばしたカツにたっぷりと絡めました。
新潟名物の「タレカツ丼」からヒントを得た、ご当地気分を味わえる逸品です。ソース

「荊の簪を挿した御方さま」に奢ってもらった。払いは株主優待券。利率で1%相当を株主優待券として得ているそうです。市中金利よりよほど高いですね。たれかつ丼は新潟の名物と今知った;

「タレかつ丼」は、ごはんの上に揚げたての薄めのとんかつを甘辛い醤油だれにくぐらせたカツをのせた丼のこと。卵とじでない。ごはんとカツのみのシンプルな料理で、1つの丼にカツが2枚以上のっているのが特徴である。薄めの衣で、一般的なかつ丼のカツよりも薄い豚肉が使われている。江戸時代から北前船で栄えた新潟の港町には、飲食店や歓楽街が軒を連ね、今もなお風情が残る「古町」と呼ばれるエリアがある。洋食文化も早くから花開き、西洋料理店が西堀の屋台に並んでいた。そこに店を構えていた初期創業の老舗が発祥の店として知られている。「タレかつ丼」が誕生したのは昭和初期頃。当時、モダンな料理だったカツレツを大胆にも醤油だれにくぐらせてご飯の上にのせて提供したのが始まりだといわれている。瞬く間に人気となり、「タレかつ丼」が新潟市内に浸透していった。老舗店で修行した弟子たちが店を開き、今や「新潟のかつ丼スタイル」として定着した。特に新潟市のご当地グルメ、市民のソウルフードとして今も親しまれている。 (農林水産省 うちの郷土料理

■ 米国に流入する移民の倫理向上、あるいは、人肉食から犬猫食へ

米国大統領選の討論で、外来の人々が米国に流入してくることへの危惧をトランプ候補が示し、印象深い「事例」(真偽未確定)を挙げた。「スプリングフィールドではハイチ移民が犬を食べたり猫を食べたりしている

https://www.youtube.com/watch?v=EKTIjOIijwk

でも、それが本当だとしても、アメリカに流入する外来者は、ずいぶん倫理感が向上したと言えるだろう、なぜなら、400年前流入してきた白人=イギリス人は人を食っていたのだ;


北米初の英入植地で食人行為、少女の骨から分析=米研究

■ 今週見た誤り:「中川昭一は札幌パークホテルのバスルームで謎の死を遂げた」

https://www.youtube.com/shorts/RKFNjFeufnM?t=28&feature=share

まちがい。札幌パークホテルのバスルームで死んだのは親の中川一郎である。関連愚記事:奥に見えるのがパークホテル。中川一郎が自殺したホテル。

■ 今週の初めて知った人の訃報、あるいは、左翼の世襲議員、世襲総長:松前達郎[wiki]

 東海大総長で元参院議員の松前達郎氏が死去、97歳google

松前重義[wiki]は知ってた。40歳過ぎて東条から二等兵として招集され戦地へ。

息子[wiki]が議員も大学総長も世襲していたと今週初めて知った。大学も同じだ。

これだけ大規模な大学の経営者なのだが、「左翼」なんだよね。というか、非自民。

息子も冷戦が終わった後も、ブルガリアだのロシアだのと旧共産圏と付き合っている。

■ 今週の「日帝被害者」:シンガポール華僑大量殺害事件@1942


シンガポール「華僑粛清」の生存者が日本人に託した言葉とは

1942年2月8日、山下奉文中将率いる第25軍はシンガポール攻略に取り掛かった。2月15日には連合軍が降伏し、日本によるシンガポール占領が始まる。日本軍は上陸前から”抗日分子”の排除を計画し、2月から3月にかけて抗日的な華僑を選別し殺害した。この「華僑粛清」と呼ばれる虐殺の犠牲者は、5000人とも5万人とも言われている。(同上リンク)

関連愚記事
日帝遺産を不意に賜わる話;受難する日本(系)女子大生、今も昔も...
And I told you there's no-one there

■ 今週のラーメン食べた:九州とんこつ味噌ラーメン

味噌ラーメンは戦後、札幌で発祥したと聞いたことがある。今では、とんこつラーメンの味噌味だ。炒めたもやしが載せてあるが、ちゃんとひき肉を入れて炒めてあった。ただし、北海道風にさらに玉ねぎも入れて炒めるということではなかった。

九州らしさは、紅生姜を載せられる(トッピングできる)こと。麺はふつうにした。太い。

■ 今週借りた本:

『三島由紀夫事件 50年目の証言 警察と自衛隊は何を知っていたか』、西法太郎、新潮社、2020年

この本は1970年11月25日の三島事件についての本。三島事件は、作家三島由紀夫(本名平岡公威 45歳)が仲間4人と共に日本刀をもち、自衛隊の東京市ヶ谷駐屯地の東部方面総監部二階の総監室に総監を挨拶の訪問する。しかし、豹変し、総監を人質に取り、駆け付けた幕僚たちを切りつけ撃退し、立てこもった。そこで、自衛隊を外に集合させることを強要し、バルコニーから集合した自衛隊員にクーデターを呼びかける演説をする機会を得るも、野次と怒号で応酬される(動画を見よ)。撤退し、警視総監室に戻り、三島と森田が割腹、介錯斬首され死亡した事件。

◆この三島事件について、『三島由紀夫事件 50年目の証言』は、「三島事件は主にノーベル文学賞級作家の自害という面から語られてきた、しかし国家の危機管理という面から見たとき、これほど危ういことはない(p219)」という認識をもって書かれている。特に、①裁判記録を開示請求し明らかにしたこと、②事件関係者の平城弘通(自衛隊)と 佐々淳行(警察)にインタビューを行い事情を明らかにしたことに本書の新規性、価値がある。その事実に基づき、疑問点の提示と仮説 [1]の提示と検討がなされている。その仮説とは警察は三島由紀夫の決起を情報収集から予期し、わざと「泳がせ」ていたというもの。警察の動機は自衛隊の「弱体化」である。ここで「弱体化」とは治安出動という任務において警察と自衛隊が競合関係にあったことを背景とする。すなわち1967年秋の羽田事件以来、沖縄返還、安保条約自動延長(70年安保)と街頭での左翼勢力と機動隊との激突の収拾についてだ。もし、警察に手に負えなくなると自衛隊が出動する(治安出動)。そして、後述するが、「自衛隊は治安出動を望んでおり、その出動は事実上の戒厳令となり憲法改正が惹起され、自衛隊が「国軍化」する」という考えがあったそうだ➡ [2]。その考えを持っていたのが三島由紀夫だ。

[1] :仮説:警察が三島由紀夫と盾の会を泳がせていた

私(著者 西法太郎)は、対自衛隊強硬派の後藤田正晴をトップとする当時の警察が、三島たちが市ヶ谷で決起することを察知し、しかし阻止せず、そのままにした蓋然性があると考えている。 自衛隊があのような不祥事に見舞われれば、その経緯は失墜し、 国民の信頼は失われ、士気は低下し、自ずと弱体化するからだ。(第1章、p71)

[2] 平城弘通(google)インタビュー

平城弘通は自衛隊員。

1920年、広島県に生まれる。1941年、陸軍士官学校を卒業し(第55期)、中国大陸を転戦中、銃撃を受け負傷。1943年、少年戦車兵学校区隊長となり、終戦を迎える。1951年、警察予備隊に入隊。1953年、保安隊本部情報調査部ソ連情報係。1956年、自衛隊中央資料隊第一科長。1960年、第七師団第七戦車大隊長。1964年、陸上幕僚監部第二部別班長、別名「ムサシ機関長」となる。その後、第七師団第二三普通科連隊長、東部方面隊二部長、統合幕僚会議第三室先任幕僚、統幕学校教育課長などを務めたあと、1973年、陸将補で自衛隊を退職。現在、株式会社OSC平城事務所会長。ソース)。

西法太郎に平城弘通は証言している:「自衛隊首脳には、治安出動し、憲法を廃棄し、自衛隊を正規の国軍にすることを秘かに期待している者もいた」。

一方、自衛隊から見た警察は、「自衛隊の本格的出動は望まない、という決意がうかがえた」と平城は証言している。具体的には佐々淳行(警察)の発言「警察が全滅するような状態になったら、そのときは我々の屍を乗り越えて治安出動していただきたいとい覚悟である」を証言している。

◆ そもそも犯罪侮辱:激しく斬りつける傷害と屈辱的猿轡と縛り上げ

三島事件の了解のされかたは、有名作家三島由紀夫の自刃というものだ。事実、文学的伝記では三島のクーデターを呼びかけたのちの自刃ということに重点がおかれる。この事件で三島は日本刀を本気で振り回し8名に容赦なく斬りつけ、傷害を与えたこと。そして益田(ました)兼利[wiki]総監に猿轡をして、さらに、縛り上げて人質とした。自衛隊高官に屈辱を与えた。これらの犯罪行為については詳しくは伝えられていないし、三島文学愛好者にも情報共有されているとは思わない。

大きな傷を受けた第三部防衛班室の班長であった中村二佐の受傷経緯は、三島らが立てこもった総監室に突入した。そして;

先頭の中村がドアを開けると、そこには日本刀関の孫六を持った三島がいた。三島は刀を振り上げてきた。中村はサーベル様の玩具と思い、左手でつかんでもぎ取ろうとした。そのとたん刀を引かれ、血が天井まで飛び、手のひらが裂かれた。(p109)

中村二佐は全治6か月以上であった。これは一例で三島は自衛隊員をガンガン斬りつけた。もちろんこれは犯罪行為であり、なにより日本を守る自衛隊員の血を流す許しがたい反国家行為である。

なお、有名な三島由紀夫の伝記である村松剛の『三島由紀夫の世界』には上記の事件詳細は一切書かれていない。ただ、「三島由紀夫は、議会制民主主義体制の支持者だった」とあるのみ。

今、冷静に考えると、昨今は「不祥事を起こしたクリエイターの作品は、消えるべきなのか?」とさえ言われるご時世だ。実際は、犯罪者・三島由紀夫の作品は売れてる。ブックオフに行っても定価の半額程度。100円コーナーにはほぼない。切腹自殺した文学者というイメージは流布している。犯罪者・三島由紀夫という認識が共有されている気配はない。

◆ しかしながら、「腰抜け」、あるいは、「斬ってしまえばよかったんだ」

益田総監以下自衛隊員は被害者ではある。ただし、彼らの存在意義からしてこの被害こそ彼らの屈辱である。そもそも防衛組織が、しかも素人から、こんな攻撃を甘受して、被害を出してはいけないのだ。おいらは言葉を慎むが、佐々淳行は「腰抜け」と云っている。これは言葉を選んでいるのかもしれない。しかしながら、実態は、間抜けだ。本当の防衛組織なら返り討ち、即座に鎮圧して当然だ。ましてや自衛隊の高官が、おめおめと、人質になぞなっていけない。総監を人質に取られた幕僚も間抜けだし、益田総監も、残念ながら、間抜けだ。「軍人」は、素人の人質になるくらいなら、殺すか死ぬしかない。生きて虜囚の辱めを受けず。益田は陸士出だ。

さらに、佐々淳行は、「三島由紀夫は益田総監を斬ってしまえばよかったのだ」とまで言っている。

実は、三島事件の副産物、もしかして主産物は、自衛隊が間抜けであることを明らかにしたことである。しかし、三島事件後、おめおめとやられた自衛隊についての論議は、世間では認められない。

◆ 哀しき益田総監

佐々淳行の「三島由紀夫は益田総監を斬ってしまえばよかったのだ」発言の前後は下記;

現場から救出された益田さんの顔は真っ青だった。三島さんたちは総監にひどい屈辱を与えた。総監にあんな恥をかかせてはいけない。生き残った総監は気の毒だった。斬ってしまえば良かった。そうしていれば、五・一五事件、二・二六事件になっていた。総監が猿轡され縛られた写真があるが、(その写真が)あること自体を秘密にした。現場に駆けつけた警察が、室外から三島たちの行動を撮影し続けていたのだ。三島さんの生首は出てしまったが、これは絶対に出さない。出したら息子(後に同じ東部方面総監に就いた)には屈辱だろう。p124

益田総監は三島事件の3年後に死んだ。西法太郎は死因がはっきりしないと指摘する。旧軍時代から部下であった平城は葬式に参列していないという。そして平城は益田の死を憤死と推定している。息子の証言が紹介され、西の解説が続く

 「父は最後まで三島さんを恨んでいなかった。(略)三島さんと呼んで慕っている様子だった。」(朝日新聞でのインタビュー)

 益田が三島を「さん」付けで呼んでいたのは、単なる思慕だけでなく、胸中に秘めた苦哀もあっただろう。先にふれたとおり、益田兼利は事件直後に「三島さんは武士道をまっとうしたが、 俺の武士道はどうしてくれるのか」と憤慨していた。 その心境が3年の間に変わったのだろうか。 p216

興味深いのは、三島も、平城も、益田も「武士道」の連呼である。これは理解できない。自衛隊はもちろん大日本帝国陸海軍は「武士」の否定が原点であり、原則である。これこそ「建軍」の精神のはずだ(徴兵告諭 [google])。

そして、哀しいのは、武士道といいながら、おめおめと人質になった益田兼利さんだ。この人は旧軍と自衛隊と経た。すなわち、一生にして二世を経る人生だった。

◆ 憤る平城弘通のインタビュー回答。平城は三島由紀夫と一度すれ違っている。すなわち、平城の上司であった山本舜勝[きよかつ](wiki)が自衛隊で三島の面倒を見ていた。平城と山本は旧軍時代、陸軍士官学校の頃から先輩(52期)、後輩の関係であった。三島事件で三島が発した檄[wiki]について語っている;

「檄」は 全文を通して、自衛隊が政治家や一般 マスコミ、世論、官僚政治におどらされ、反自衛隊とのさげすみに反発する男、武士の魂を持ったものはいないのか 魂を持ったものはいないのか、 という 自衛隊蔑視論である。 
 警察予備隊以来、その名のごとく、警察の下におかれた自衛隊の実情であったことは認めざるを得ない。
  しかし、これに反発し、自衛隊を 真の国民的軍隊にせねばならないと念願したのが、 制服組幹部の大部分であった。ただ旧軍の政治関与の弊を犯すことを自戒して慎重姿勢をとっていたのだ。
(中略)
  自衛隊は継子扱いされているがために、国民に支持され、愛される部隊たるべく、努力をつづけている。 しかし それを 識者といわれる人々、 マスコミ、 メディアなどが、左翼的言論で我々の努力を骨抜きをはかっている。 まさに 中国、 北朝鮮、 ロシア の手先の役をなしている。
(中略)
 三島氏自身、当日身を挺して暴徒
に斬り込む決意であったが、武士の魂を失ったものと、なぜ、非難するのか。

上の平城の言葉は平城の世界観を示しており、興味深い。第一に自衛隊は継子扱いされているという認識、そして、武士、あるいは武士の魂というものを認めていること。さらには、中国、 北朝鮮、 ロシアを敵視すことは当然としている。そして、自衛隊は日本列島米軍天国のための米軍の「手先」であるという認識はなさそうだ。すなわち、米軍というのは本来ポツダム宣言により占領が終了がすれば撤退すべきであるにもかかわらず、安保条約による駐留軍という制度上の糊塗で以て、事実上日本占領を継続していること、そして、本当の愛国者であれば「アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である」として米軍を代替する本当の日本軍建軍を志向すべきであるという考えは特にないことを示す。

 自衛隊への痛憤と題された部分の平城弘通の見解を抜き書きする;

 平城は三島の愛国の至情には感銘しているという。しかしその精神を具現するために、あれだけ世話になり恩を受けた自衛隊を舞台にして、総監に監禁の侮辱を与えた行為は絶対に許せないと語った。

 平城は「三島氏のしたことは自衛隊側からだけでなく、一般人から見ても暴挙であることは明らかだ」と言う。大義のないところに軍隊権力が前面に出れば、不幸な歴史を繰り返すことになる。三島があの距離 出たことは、自衛隊に恩を仇で返す、武士ならとってはならない行動だ。平城はそう思っている。いっぽう三島はそれが分からない人間ではなかったはずだ。平城はそう信じている。三島 ほど武士の面目を重んじる者が、なぜ自衛隊をあのように挑発したのだろう。 矛盾した行動に出た謎は深い。

平壌が 何より痛憤するのは、有事にあたり迅速適切な措置ができなかった身内の現場監督官たちに対してだった。 昭和四五年六月に日米安保条約が自動延長され、自衛隊の人事は有事から 平時に切り替わっていた。その弊も出たとの見方がある 平城は私に語った。

平城:三島 たちの異変を察知して 総監 室に飛び込み 緊急対応したのは 丸腰の士官級の自衛官 ばかりだった。彼らは全て撃退された。不甲斐ないことである。 
 自分ならその時点で 次のような処理を決心した。三二連隊だけでなく 腕に覚えのあるものは 基地内に多数いる。入団者を十人ほど集め、 木銃を持たせ 突入の準備をさせる。 (p207-209)

◆ 警察予備隊/保安隊/自衛隊、あるいは、継子扱い

西法太郎の警察予備隊/保安隊/自衛隊の認識は以下のごとし;

自衛隊は戦後朝鮮戦争の勃発直後、昭和25年8月、警察予備隊としてスタートした。 その名が示すように 警察の下位に置かれた。名称を 保安隊と改め 自衛隊となってからも継子扱いされ続けた。当時は 今以上に 警察庁から出向した官僚が防衛庁を支配していた。戦前のように 軍隊が独走しないよう、警察官僚が制服組を徹底的にコントロールする体制が敷かれた。旧帝国軍人の制服組の多くは内心それに反発し、真の国軍にしなければならないと思っていた。

興味深いのは、「継子扱い」という認識。この「継子扱い」という認識は平城ももっている。自衛隊を継子扱いとは今ではすっかり言われなくなった。これは1990年代以降のいくつかの大震災における災害救済への自衛隊の出動と活躍によるものだろう。国民からの理解は十分深まっている。ただし、国防そのものというより災害出動が理由で。さて、昔いわれた「継子扱い」とは何か?継子とは、辞書によると、「自分の子で、血のつながりのない子。実子でない子」とある。つまり、警察予備隊/保安隊/自衛隊は日本の子ではないのだ。それでは、誰の子か?つまり、誰の子か?すなわち、実父は誰か?という問題だ。答えは簡単だ。それはマッカーサー元帥(以下、マ元)である。警察予備隊はマ元=占領下軍事独裁政権の事実上の独裁者の独断的な命令で創設された。つまり、1945年には日本弱体化のため国家主権を担保する軍隊を完全解体したが、戦勝国(米ソ連合赤軍)の仲間割れで朝鮮戦争が勃発し日本列島の米軍が朝鮮半島に総出動しなければならなくなり占領地の安全治安を保全する軍事力が足りなくなった。その状況を打破するため背に腹を替えられなくなり日本人の軍事組織が必要となった。米軍を補完するため占領地の民の軍事組織が必要となった。つまり、1945年のマ元の思いつき日本非武装化計画が破綻したのだ。そのマ元の思いつきの破綻を糊塗するため、米占領軍を補完する警察予備隊/保安隊/自衛隊の創設がなされた。国会の審議を受けていない。日本国民は認知していないのだ。占領軍を補完するための軍事組織が警察予備隊。つまり、「日本軍」ではないのだ。警察予備隊は米軍の物資、武器を使用し、米軍顧問団が指導にあたった。英語で訓練されたのだ。マ元により公職追放中の旧軍人は採用しない決定がなさた。旧軍の幹部は参加していない。部隊幹部を旧軍将校以外と追放されなかった予備役から求めた。すなわち、ほぼ日本軍ではない。
 サンフランシスコ講和条約で米占領軍は駐留軍となった(安保条約)。そして、警察予備隊/保安隊は自衛隊となった。

この本、『三島由紀夫事件 50年目の証言』では、警察予備隊/保安隊/自衛隊の誕生はマ元の命令であるという前提的事実は特に書かれていない。この点は興味深い。今の人は「継子扱い」をわからないだろう。

◆ 藤原岩市、杉田一次、あるいは、村松剛

本書で藤原岩市、杉田一次の名前が出てきた。二人は「シンガポール・マフィア」だ。すなわち、藤原と杉田はシンガポール陥落の時現地にいて英軍降伏に立ち会った(愚記事)。すなわち、大日本帝国が大英帝国をアジアから駆逐した栄光の日の栄光の現場にいたのだ、そして、屈辱の場にもいた::杉田一次:下記画像左(中央の日本兵)、右は1945年ミズーリ甲板(⑧の人物)。

その二人が旧軍出身者として戦後自衛隊に参加したのだ。
 三島由紀夫が自衛隊に体験入隊する経緯は、村松剛が藤原岩市を三島に紹介したというのだ。平城の証言だ。初めて知った。村松の三島伝には書かれていないと思う。

◆ 山本舜勝、平城弘通、あるいは、「別班」、なにより、アメリカの非公然傭兵

 <三島がはじめて体験入隊したのは昭和四二年四月。その時 山本舜勝は陸上自衛隊調査学校に勤務していた。調査学校とは Military Intelligence School、すなわち 諜報・防諜に関する教育、訓練の組織で、昭和四二年暮れに初見した二人は 急接近。翌四三年から四四年にかけて、山本は三島が思い描く祖国防衛隊の中核要員(後に「盾の会」の名が与えられる)の訓練を支援、指導することになる。しかし、まもなくその関係は、双曲線のように離れていった。調査学校副校長となったこともあり次第に距離を置く山本に秘して、三島は森田必勝ら盾の会の一部の者とともに先を急ぎ、自衛隊に蹶起を訴える計画を進めていくのだ。>(井上隆「書評 山本舜勝著『わが生涯と三島由紀夫』、「三島由紀夫研究19」鼎書房、令和元年)  p64-65

三島の自衛隊との繋がりは三島と「自衛隊」というより、山本舜勝の個人的裁量に依存していたと推定できる。山本舜勝が三島に何を期待させたかは不明だが、両者は最初は意気投合したかもしれないが、同床異夢状況となったようだ。最後は三島は山本に「話が違うじゃないか!」と怒る(愚記事:「私はパンが嫌いだ!」)。

平城は三島と山本との関係について証言している;

小生は三島がクーデターを計画していたこと等、山本さんから一切聞かされておらなかった。三島は、山本さんを過信していたんだろうな。山本さんが起てば自衛隊が動くと思っていたんだろうが、山本さんは性格が自信家だから、三島に自分を過大視させていたかもしれない。p67

なにより、アメリカの非公然傭兵

三島に期待を持たせた山本舜勝であるが、彼は陸上幕僚監部運用支援・情報部別班の構成員であった。陸上幕僚監部運用支援・情報部別班は米軍からはMIST(=軍事情報特別訓練)と呼ばれた。

MISTとは 在日米軍の大幅撤退後の情報収集に危機感を持ったハル極東軍司令官が、昭和二九年頃吉田首相に持ちかけてできた。米軍は自衛隊員の秘密工作員教育を直接支援していたのだ。 そこで育った隊員が後に「ムサシ機関」の構成員になった。当時の 西村直巳防衛庁長官と杉田一次陸上幕僚長が承認し、広瀬栄一陸爆第二部長が米陸軍と秘密協定を結んだのは 昭和三六年、いわゆる六〇年安保が合意に至った翌年のことだった。こうして 日米両国の共同 情報活動が隠密にスタートした。

山本舜勝、平城弘通共に、この組織にいた。その組織は、御丁寧に、Camp Drake (現、朝霞駐屯地)の中にあった。アメリカの非公然傭兵!

つまり、自決の直前の檄で「このままでは自衛隊はアメリカの傭兵となるのだぞ!」と訴えた三島由紀夫は米軍が育てた諜報機関の導きで自衛隊で訓練していたことになる。

◆ 警察・公安は自衛隊の何を気にしていたのか?

上記の通り、自衛隊の諜報機関は日本政府より米軍との距離が近かったに違いない/推定される。すなわち、自衛隊の諜報機関は情報を米軍には渡していたが、日本政府には報告していなかった可能性がある。警察・公安にとっては気になってしょうがない存在に違いない。さらに、ナショナリズムの感情からみて、外国軍と秘かに通じている組織を警戒して当然である。外国軍とはいっても自衛隊にとっては実父だ。なぜなら、そもそも、警察予備隊/保安隊/自衛隊はマ元の命令で創設され、直接米軍に育てられたからだ。トロイの木馬である。おそらく、警察・公安、端的に後藤田正晴は「別班」と米軍の怪しい関係を掴んでいたのではないか?そして、その怪しい「別班」と三島由紀夫がべったりであったのだから、三島由紀夫と盾の会を警戒して当然ではないか。

西法太郎、『三島由紀夫事件 50年目の証言 警察と自衛隊は何を知っていたか』の仮設提示はp71に続き、p247で繰り返される;

 どうして警察は何もせず、止めもせず、放置したのだろう。 
  自衛隊が不祥事に見舞われれば、その面目はつぶれ、権威は失墜し、国民の信頼は失われ、士気は低下し、自ずと 弱体化する。それは同盟国の意にも叶う。警察にとって 三島は、自衛隊に肩入れし、クーデターを起こしてでも改憲して、国軍にしようとくわだてる。厄介で、 目障りな存在だった。そこに楯の会の決起を放置し、死にたがっている三島に自決させた蓋然性があったと考えられる。でなければ自決は、ああも易々と完遂されはしなかっただろう。 (第3章、p247)

 


筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第24週

2024年09月07日 18時19分04秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第24週

■ 今週のよその猫

幾分朝夕は涼しくなったせいか、猫を見かけるようになった。

■ 今週の筑豊境

■ 今週の花実

■ 今週の光透過食品

ピータン。今月2回目(1回目)。どの店もきゅうりが付き物だ。

■ 今週の倭国産支那料理

エビチリ。実はエビチリは日本生まれで、中国にはエビチリという料理はありません。中国の料理人・陳建民が昭和33年に日本で中華料理店を開いた時、四川料理の「乾焼蝦仁(カンサオシャーレン)」をもとに作ったのが発祥なのです。ソース

関連愚記事(天津麺 (捏造された支那料理)

■ 今週の半額1@はちみつアップ

■ 今週の半額2.熊本工場産

お米は高いが、パンは半額! 製造所記号:UF

■ 今週の(そんなことは、とうに)「知ってた」


YouTube: https://www.youtube.com/watch?v=W5r9PZTZGEY

⇒ 愚記事:8月27日は、筑波山・文化大革命記念日、あるいは、革命国家の日々:歴史と日支は、糾える縄の如し。

■ 今週見つけた誤り:司馬遼太郎、『「昭和」という国家』

1999年の本。第二章 ”脱亜論”私の読み方、において、福沢諭吉の脱亜論について論じてる。そこで、諭吉についての説明で「福沢という人は幕末に幕府の下級の役人、つまり通訳になって二回外遊しています。」と書いている。

間違い。諭吉の外遊は3回である;

福沢諭吉は3度欧米に行った。いずれも、明治維新前。つまり、徳川幕府が派遣した外交団としての洋行。1度目と3度目は米国。2度目が欧州。愚記事

 


1945.9.2 戦艦ミズーリでの降伏文書調印の署名時刻 

2024年09月02日 18時37分14秒 | 日本事情

1945年 (昭和20年) 9月2日、東京湾の戦艦ミズーリ号上で連合国に対する降伏文書の調印式は有名。日本全権の面子に [1] ついての解説記事はアクセスが多い。さて、この降伏文書には署名した時刻が記録されていると、レプリカをみて、気づいた。


降伏文書全体。この右上部の拡大画像が下記;

日本全権の調印時刻は9時4分、連合軍代表のマッカーサーの調印時刻は9時8分とわかる。

 9時4分

 9時8分

なお、日本全権は立って署名し、マ元は椅子に座って署名したと映像は伝えている。

■ [1] 参照


①重光葵 ②加瀬俊一 ③岡崎勝男  ④太田三郎  ⑤梅津美治郎 ⑥宮崎周一  ➆永井八津次  ⑧杉田一次  ⑨柴勝男 ⑩横山一郎 ⑪富岡定俊 所属 ①-④外務省、⑤-⑧陸軍、⑨-⑪海軍

■ [2]

木箱の中には降伏文書のレプリカが展示してある。大分県杵築市、無迹庵(むせきあん):重光葵の実家跡。