▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第25週
■ 今週のよその猫
まったく無視されました
■ 今週の筑豊境
■ 今週の半額:淡路島牛乳株式会社、淡路島藻塩プリン
淡路島藻塩プリン(web site)。キャラメル・ソースが含まれていない。
まろやかな塩味が甘さを引き立てます(同上)。口当たりは(ほんのり甘い)茶碗蒸し風だと思った。
■ 今週のさんとり(三鳥)
三羽ガラス
■ 今週の初めて飲んだ:サントリー?
ハイボールなるものを初めて飲んだ。ファミレスでだ。確かにウイスキーの香りはした。ただし、元のウイスキーは何であるのかわからなかった。関連愚記事:ハイボールなどという邪道との、闘いだ!
■ 今週のどんぶり
ガスト:たれカツ丼 味噌汁・漬物付き。
ガスト自家製の出汁のきいた甘辛ダレを、うすく伸ばしたカツにたっぷりと絡めました。
新潟名物の「タレカツ丼」からヒントを得た、ご当地気分を味わえる逸品です。(ソース)
「荊の簪を挿した御方さま」に奢ってもらった。払いは株主優待券。利率で1%相当を株主優待券として得ているそうです。市中金利よりよほど高いですね。たれかつ丼は新潟の名物と今知った;
「タレかつ丼」は、ごはんの上に揚げたての薄めのとんかつを甘辛い醤油だれにくぐらせたカツをのせた丼のこと。卵とじでない。ごはんとカツのみのシンプルな料理で、1つの丼にカツが2枚以上のっているのが特徴である。薄めの衣で、一般的なかつ丼のカツよりも薄い豚肉が使われている。江戸時代から北前船で栄えた新潟の港町には、飲食店や歓楽街が軒を連ね、今もなお風情が残る「古町」と呼ばれるエリアがある。洋食文化も早くから花開き、西洋料理店が西堀の屋台に並んでいた。そこに店を構えていた初期創業の老舗が発祥の店として知られている。「タレかつ丼」が誕生したのは昭和初期頃。当時、モダンな料理だったカツレツを大胆にも醤油だれにくぐらせてご飯の上にのせて提供したのが始まりだといわれている。瞬く間に人気となり、「タレかつ丼」が新潟市内に浸透していった。老舗店で修行した弟子たちが店を開き、今や「新潟のかつ丼スタイル」として定着した。特に新潟市のご当地グルメ、市民のソウルフードとして今も親しまれている。 (農林水産省 うちの郷土料理)
■ 米国に流入する移民の倫理向上、あるいは、人肉食から犬猫食へ
米国大統領選の討論で、外来の人々が米国に流入してくることへの危惧をトランプ候補が示し、印象深い「事例」(真偽未確定)を挙げた。「スプリングフィールドではハイチ移民が犬を食べたり猫を食べたりしている」
https://www.youtube.com/watch?v=EKTIjOIijwk
でも、それが本当だとしても、アメリカに流入する外来者は、ずいぶん倫理感が向上したと言えるだろう、なぜなら、400年前流入してきた白人=イギリス人は人を食っていたのだ;
北米初の英入植地で食人行為、少女の骨から分析=米研究
■ 今週見た誤り:「中川昭一は札幌パークホテルのバスルームで謎の死を遂げた」
https://www.youtube.com/shorts/RKFNjFeufnM?t=28&feature=share
まちがい。札幌パークホテルのバスルームで死んだのは親の中川一郎である。関連愚記事:奥に見えるのがパークホテル。中川一郎が自殺したホテル。
■ 今週の初めて知った人の訃報、あるいは、左翼の世襲議員、世襲総長:松前達郎[wiki]
東海大総長で元参院議員の松前達郎氏が死去、97歳(google)
松前重義[wiki]は知ってた。40歳過ぎて東条から二等兵として招集され戦地へ。
息子[wiki]が議員も大学総長も世襲していたと今週初めて知った。大学も同じだ。
これだけ大規模な大学の経営者なのだが、「左翼」なんだよね。というか、非自民。
息子も冷戦が終わった後も、ブルガリアだのロシアだのと旧共産圏と付き合っている。
■ 今週の「日帝被害者」:シンガポール華僑大量殺害事件@1942
シンガポール「華僑粛清」の生存者が日本人に託した言葉とは
1942年2月8日、山下奉文中将率いる第25軍はシンガポール攻略に取り掛かった。2月15日には連合軍が降伏し、日本によるシンガポール占領が始まる。日本軍は上陸前から”抗日分子”の排除を計画し、2月から3月にかけて抗日的な華僑を選別し殺害した。この「華僑粛清」と呼ばれる虐殺の犠牲者は、5000人とも5万人とも言われている。(同上リンク)
関連愚記事
・日帝遺産を不意に賜わる話;受難する日本(系)女子大生、今も昔も...
・And I told you there's no-one there
■ 今週のラーメン食べた:九州とんこつ味噌ラーメン
味噌ラーメンは戦後、札幌で発祥したと聞いたことがある。今では、とんこつラーメンの味噌味だ。炒めたもやしが載せてあるが、ちゃんとひき肉を入れて炒めてあった。ただし、北海道風にさらに玉ねぎも入れて炒めるということではなかった。
九州らしさは、紅生姜を載せられる(トッピングできる)こと。麺はふつうにした。太い。
■ 今週借りた本:
『三島由紀夫事件 50年目の証言 警察と自衛隊は何を知っていたか』、西法太郎、新潮社、2020年
この本は1970年11月25日の三島事件についての本。三島事件は、作家三島由紀夫(本名平岡公威 45歳)が仲間4人と共に日本刀をもち、自衛隊の東京市ヶ谷駐屯地の東部方面総監部二階の総監室に総監を挨拶の訪問する。しかし、豹変し、総監を人質に取り、駆け付けた幕僚たちを切りつけ撃退し、立てこもった。そこで、自衛隊を外に集合させることを強要し、バルコニーから集合した自衛隊員にクーデターを呼びかける演説をする機会を得るも、野次と怒号で応酬される(動画を見よ)。撤退し、警視総監室に戻り、三島と森田が割腹、介錯斬首され死亡した事件。
◆この三島事件について、『三島由紀夫事件 50年目の証言』は、「三島事件は主にノーベル文学賞級作家の自害という面から語られてきた、しかし国家の危機管理という面から見たとき、これほど危ういことはない(p219)」という認識をもって書かれている。特に、①裁判記録を開示請求し明らかにしたこと、②事件関係者の平城弘通(自衛隊)と 佐々淳行(警察)にインタビューを行い事情を明らかにしたことに本書の新規性、価値がある。その事実に基づき、疑問点の提示と仮説 [1]の提示と検討がなされている。その仮説とは警察は三島由紀夫の決起を情報収集から予期し、わざと「泳がせ」ていたというもの。警察の動機は自衛隊の「弱体化」である。ここで「弱体化」とは治安出動という任務において警察と自衛隊が競合関係にあったことを背景とする。すなわち1967年秋の羽田事件以来、沖縄返還、安保条約自動延長(70年安保)と街頭での左翼勢力と機動隊との激突の収拾についてだ。もし、警察に手に負えなくなると自衛隊が出動する(治安出動)。そして、後述するが、「自衛隊は治安出動を望んでおり、その出動は事実上の戒厳令となり憲法改正が惹起され、自衛隊が「国軍化」する」という考えがあったそうだ➡ [2]。その考えを持っていたのが三島由紀夫だ。
[1] :仮説:警察が三島由紀夫と盾の会を泳がせていた
私(著者 西法太郎)は、対自衛隊強硬派の後藤田正晴をトップとする当時の警察が、三島たちが市ヶ谷で決起することを察知し、しかし阻止せず、そのままにした蓋然性があると考えている。 自衛隊があのような不祥事に見舞われれば、その経緯は失墜し、 国民の信頼は失われ、士気は低下し、自ずと弱体化するからだ。(第1章、p71)
[2] 平城弘通(google)インタビュー
平城弘通は自衛隊員。
1920年、広島県に生まれる。1941年、陸軍士官学校を卒業し(第55期)、中国大陸を転戦中、銃撃を受け負傷。1943年、少年戦車兵学校区隊長となり、終戦を迎える。1951年、警察予備隊に入隊。1953年、保安隊本部情報調査部ソ連情報係。1956年、自衛隊中央資料隊第一科長。1960年、第七師団第七戦車大隊長。1964年、陸上幕僚監部第二部別班長、別名「ムサシ機関長」となる。その後、第七師団第二三普通科連隊長、東部方面隊二部長、統合幕僚会議第三室先任幕僚、統幕学校教育課長などを務めたあと、1973年、陸将補で自衛隊を退職。現在、株式会社OSC平城事務所会長。(ソース)。
西法太郎に平城弘通は証言している:「自衛隊首脳には、治安出動し、憲法を廃棄し、自衛隊を正規の国軍にすることを秘かに期待している者もいた」。
一方、自衛隊から見た警察は、「自衛隊の本格的出動は望まない、という決意がうかがえた」と平城は証言している。具体的には佐々淳行(警察)の発言「警察が全滅するような状態になったら、そのときは我々の屍を乗り越えて治安出動していただきたいとい覚悟である」を証言している。
◆ そもそも犯罪と侮辱:激しく斬りつける傷害と屈辱的猿轡と縛り上げ
三島事件の了解のされかたは、有名作家三島由紀夫の自刃というものだ。事実、文学的伝記では三島のクーデターを呼びかけたのちの自刃ということに重点がおかれる。この事件で三島は日本刀を本気で振り回し8名に容赦なく斬りつけ、傷害を与えたこと。そして益田(ました)兼利[wiki]総監に猿轡をして、さらに、縛り上げて人質とした。自衛隊高官に屈辱を与えた。これらの犯罪行為については詳しくは伝えられていないし、三島文学愛好者にも情報共有されているとは思わない。
大きな傷を受けた第三部防衛班室の班長であった中村二佐の受傷経緯は、三島らが立てこもった総監室に突入した。そして;
先頭の中村がドアを開けると、そこには日本刀関の孫六を持った三島がいた。三島は刀を振り上げてきた。中村はサーベル様の玩具と思い、左手でつかんでもぎ取ろうとした。そのとたん刀を引かれ、血が天井まで飛び、手のひらが裂かれた。(p109)
中村二佐は全治6か月以上であった。これは一例で三島は自衛隊員をガンガン斬りつけた。もちろんこれは犯罪行為であり、なにより日本を守る自衛隊員の血を流す許しがたい反国家行為である。
なお、有名な三島由紀夫の伝記である村松剛の『三島由紀夫の世界』には上記の事件詳細は一切書かれていない。ただ、「三島由紀夫は、議会制民主主義体制の支持者だった」とあるのみ。
今、冷静に考えると、昨今は「不祥事を起こしたクリエイターの作品は、消えるべきなのか?」とさえ言われるご時世だ。実際は、犯罪者・三島由紀夫の作品は売れてる。ブックオフに行っても定価の半額程度。100円コーナーにはほぼない。切腹自殺した文学者というイメージは流布している。犯罪者・三島由紀夫という認識が共有されている気配はない。
◆ しかしながら、「腰抜け」、あるいは、「斬ってしまえばよかったんだ」
益田総監以下自衛隊員は被害者ではある。ただし、彼らの存在意義からしてこの被害こそ彼らの屈辱である。そもそも防衛組織が、しかも素人から、こんな攻撃を甘受して、被害を出してはいけないのだ。おいらは言葉を慎むが、佐々淳行は「腰抜け」と云っている。これは言葉を選んでいるのかもしれない。しかしながら、実態は、間抜けだ。本当の防衛組織なら返り討ち、即座に鎮圧して当然だ。ましてや自衛隊の高官が、おめおめと、人質になぞなっていけない。総監を人質に取られた幕僚も間抜けだし、益田総監も、残念ながら、間抜けだ。「軍人」は、素人の人質になるくらいなら、殺すか死ぬしかない。生きて虜囚の辱めを受けず。益田は陸士出だ。
さらに、佐々淳行は、「三島由紀夫は益田総監を斬ってしまえばよかったのだ」とまで言っている。
実は、三島事件の副産物、もしかして主産物は、自衛隊が間抜けであることを明らかにしたことである。しかし、三島事件後、おめおめとやられた自衛隊についての論議は、世間では認められない。
◆ 哀しき益田総監
佐々淳行の「三島由紀夫は益田総監を斬ってしまえばよかったのだ」発言の前後は下記;
現場から救出された益田さんの顔は真っ青だった。三島さんたちは総監にひどい屈辱を与えた。総監にあんな恥をかかせてはいけない。生き残った総監は気の毒だった。斬ってしまえば良かった。そうしていれば、五・一五事件、二・二六事件になっていた。総監が猿轡され縛られた写真があるが、(その写真が)あること自体を秘密にした。現場に駆けつけた警察が、室外から三島たちの行動を撮影し続けていたのだ。三島さんの生首は出てしまったが、これは絶対に出さない。出したら息子(後に同じ東部方面総監に就いた)には屈辱だろう。p124
益田総監は三島事件の3年後に死んだ。西法太郎は死因がはっきりしないと指摘する。旧軍時代から部下であった平城は葬式に参列していないという。そして平城は益田の死を憤死と推定している。息子の証言が紹介され、西の解説が続く;
「父は最後まで三島さんを恨んでいなかった。(略)三島さんと呼んで慕っている様子だった。」(朝日新聞でのインタビュー)
益田が三島を「さん」付けで呼んでいたのは、単なる思慕だけでなく、胸中に秘めた苦哀もあっただろう。先にふれたとおり、益田兼利は事件直後に「三島さんは武士道をまっとうしたが、 俺の武士道はどうしてくれるのか」と憤慨していた。 その心境が3年の間に変わったのだろうか。 p216
興味深いのは、三島も、平城も、益田も「武士道」の連呼である。これは理解できない。自衛隊はもちろん大日本帝国陸海軍は「武士」の否定が原点であり、原則である。これこそ「建軍」の精神のはずだ(徴兵告諭 [google])。
そして、哀しいのは、武士道といいながら、おめおめと人質になった益田兼利さんだ。この人は旧軍と自衛隊と経た。すなわち、一生にして二世を経る人生だった。
◆ 憤る平城弘通のインタビュー回答。平城は三島由紀夫と一度すれ違っている。すなわち、平城の上司であった山本舜勝[きよかつ](wiki)が自衛隊で三島の面倒を見ていた。平城と山本は旧軍時代、陸軍士官学校の頃から先輩(52期)、後輩の関係であった。三島事件で三島が発した檄[wiki]について語っている;
「檄」は 全文を通して、自衛隊が政治家や一般 マスコミ、世論、官僚政治におどらされ、反自衛隊とのさげすみに反発する男、武士の魂を持ったものはいないのか 魂を持ったものはいないのか、 という 自衛隊蔑視論である。
警察予備隊以来、その名のごとく、警察の下におかれた自衛隊の実情であったことは認めざるを得ない。
しかし、これに反発し、自衛隊を 真の国民的軍隊にせねばならないと念願したのが、 制服組幹部の大部分であった。ただ旧軍の政治関与の弊を犯すことを自戒して慎重姿勢をとっていたのだ。
(中略)
自衛隊は継子扱いされているがために、国民に支持され、愛される部隊たるべく、努力をつづけている。 しかし それを 識者といわれる人々、 マスコミ、 メディアなどが、左翼的言論で我々の努力を骨抜きをはかっている。 まさに 中国、 北朝鮮、 ロシア の手先の役をなしている。
(中略)
三島氏自身、当日身を挺して暴徒に斬り込む決意であったが、武士の魂を失ったものと、なぜ、非難するのか。
上の平城の言葉は平城の世界観を示しており、興味深い。第一に自衛隊は継子扱いされているという認識、そして、武士、あるいは武士の魂というものを認めていること。さらには、中国、 北朝鮮、 ロシアを敵視すことは当然としている。そして、自衛隊は日本列島米軍天国のための米軍の「手先」であるという認識はなさそうだ。すなわち、米軍というのは本来ポツダム宣言により占領が終了がすれば撤退すべきであるにもかかわらず、安保条約による駐留軍という制度上の糊塗で以て、事実上日本占領を継続していること、そして、本当の愛国者であれば「アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である」として米軍を代替する本当の日本軍建軍を志向すべきであるという考えは特にないことを示す。
自衛隊への痛憤と題された部分の平城弘通の見解を抜き書きする;
平城は三島の愛国の至情には感銘しているという。しかしその精神を具現するために、あれだけ世話になり恩を受けた自衛隊を舞台にして、総監に監禁の侮辱を与えた行為は絶対に許せないと語った。
平城は「三島氏のしたことは自衛隊側からだけでなく、一般人から見ても暴挙であることは明らかだ」と言う。大義のないところに軍隊権力が前面に出れば、不幸な歴史を繰り返すことになる。三島があの距離 出たことは、自衛隊に恩を仇で返す、武士ならとってはならない行動だ。平城はそう思っている。いっぽう三島はそれが分からない人間ではなかったはずだ。平城はそう信じている。三島 ほど武士の面目を重んじる者が、なぜ自衛隊をあのように挑発したのだろう。 矛盾した行動に出た謎は深い。
平壌が 何より痛憤するのは、有事にあたり迅速適切な措置ができなかった身内の現場監督官たちに対してだった。 昭和四五年六月に日米安保条約が自動延長され、自衛隊の人事は有事から 平時に切り替わっていた。その弊も出たとの見方がある 平城は私に語った。
平城:三島 たちの異変を察知して 総監 室に飛び込み 緊急対応したのは 丸腰の士官級の自衛官 ばかりだった。彼らは全て撃退された。不甲斐ないことである。
自分ならその時点で 次のような処理を決心した。三二連隊だけでなく 腕に覚えのあるものは 基地内に多数いる。入団者を十人ほど集め、 木銃を持たせ 突入の準備をさせる。 (p207-209)
◆ 警察予備隊/保安隊/自衛隊、あるいは、継子扱い
西法太郎の警察予備隊/保安隊/自衛隊の認識は以下のごとし;
自衛隊は戦後朝鮮戦争の勃発直後、昭和25年8月、警察予備隊としてスタートした。 その名が示すように 警察の下位に置かれた。名称を 保安隊と改め 自衛隊となってからも継子扱いされ続けた。当時は 今以上に 警察庁から出向した官僚が防衛庁を支配していた。戦前のように 軍隊が独走しないよう、警察官僚が制服組を徹底的にコントロールする体制が敷かれた。旧帝国軍人の制服組の多くは内心それに反発し、真の国軍にしなければならないと思っていた。
興味深いのは、「継子扱い」という認識。この「継子扱い」という認識は平城ももっている。自衛隊を継子扱いとは今ではすっかり言われなくなった。これは1990年代以降のいくつかの大震災における災害救済への自衛隊の出動と活躍によるものだろう。国民からの理解は十分深まっている。ただし、国防そのものというより災害出動が理由で。さて、昔いわれた「継子扱い」とは何か?継子とは、辞書によると、「自分の子で、血のつながりのない子。実子でない子」とある。つまり、警察予備隊/保安隊/自衛隊は日本の子ではないのだ。それでは、誰の子か?つまり、誰の子か?すなわち、実父は誰か?という問題だ。答えは簡単だ。それはマッカーサー元帥(以下、マ元)である。警察予備隊はマ元=占領下軍事独裁政権の事実上の独裁者の独断的な命令で創設された。つまり、1945年には日本弱体化のため国家主権を担保する軍隊を完全解体したが、戦勝国(米ソ連合赤軍)の仲間割れで朝鮮戦争が勃発し日本列島の米軍が朝鮮半島に総出動しなければならなくなり占領地の安全治安を保全する軍事力が足りなくなった。その状況を打破するため背に腹を替えられなくなり日本人の軍事組織が必要となった。米軍を補完するため占領地の民の軍事組織が必要となった。つまり、1945年のマ元の思いつき日本非武装化計画が破綻したのだ。そのマ元の思いつきの破綻を糊塗するため、米占領軍を補完する警察予備隊/保安隊/自衛隊の創設がなされた。国会の審議を受けていない。日本国民は認知していないのだ。占領軍を補完するための軍事組織が警察予備隊。つまり、「日本軍」ではないのだ。警察予備隊は米軍の物資、武器を使用し、米軍顧問団が指導にあたった。英語で訓練されたのだ。マ元により公職追放中の旧軍人は採用しない決定がなさた。旧軍の幹部は参加していない。部隊幹部を旧軍将校以外と追放されなかった予備役から求めた。すなわち、ほぼ日本軍ではない。
サンフランシスコ講和条約で米占領軍は駐留軍となった(安保条約)。そして、警察予備隊/保安隊は自衛隊となった。
この本、『三島由紀夫事件 50年目の証言』では、警察予備隊/保安隊/自衛隊の誕生はマ元の命令であるという前提的事実は特に書かれていない。この点は興味深い。今の人は「継子扱い」をわからないだろう。
◆ 藤原岩市、杉田一次、あるいは、村松剛
本書で藤原岩市、杉田一次の名前が出てきた。二人は「シンガポール・マフィア」だ。すなわち、藤原と杉田はシンガポール陥落の時現地にいて英軍降伏に立ち会った(愚記事)。すなわち、大日本帝国が大英帝国をアジアから駆逐した栄光の日の栄光の現場にいたのだ、そして、屈辱の場にもいた::杉田一次:下記画像左(中央の日本兵)、右は1945年ミズーリ甲板(⑧の人物)。
その二人が旧軍出身者として戦後自衛隊に参加したのだ。
三島由紀夫が自衛隊に体験入隊する経緯は、村松剛が藤原岩市を三島に紹介したというのだ。平城の証言だ。初めて知った。村松の三島伝には書かれていないと思う。
◆ 山本舜勝、平城弘通、あるいは、「別班」、なにより、アメリカの非公然傭兵
<三島がはじめて体験入隊したのは昭和四二年四月。その時 山本舜勝は陸上自衛隊調査学校に勤務していた。調査学校とは Military Intelligence School、すなわち 諜報・防諜に関する教育、訓練の組織で、昭和四二年暮れに初見した二人は 急接近。翌四三年から四四年にかけて、山本は三島が思い描く祖国防衛隊の中核要員(後に「盾の会」の名が与えられる)の訓練を支援、指導することになる。しかし、まもなくその関係は、双曲線のように離れていった。調査学校副校長となったこともあり次第に距離を置く山本に秘して、三島は森田必勝ら盾の会の一部の者とともに先を急ぎ、自衛隊に蹶起を訴える計画を進めていくのだ。>(井上隆「書評 山本舜勝著『わが生涯と三島由紀夫』、「三島由紀夫研究19」鼎書房、令和元年) p64-65
三島の自衛隊との繋がりは三島と「自衛隊」というより、山本舜勝の個人的裁量に依存していたと推定できる。山本舜勝が三島に何を期待させたかは不明だが、両者は最初は意気投合したかもしれないが、同床異夢状況となったようだ。最後は三島は山本に「話が違うじゃないか!」と怒る(愚記事:「私はパンが嫌いだ!」)。
平城は三島と山本との関係について証言している;
小生は三島がクーデターを計画していたこと等、山本さんから一切聞かされておらなかった。三島は、山本さんを過信していたんだろうな。山本さんが起てば自衛隊が動くと思っていたんだろうが、山本さんは性格が自信家だから、三島に自分を過大視させていたかもしれない。p67
なにより、アメリカの非公然傭兵
三島に期待を持たせた山本舜勝であるが、彼は陸上幕僚監部運用支援・情報部別班の構成員であった。陸上幕僚監部運用支援・情報部別班は米軍からはMIST(=軍事情報特別訓練)と呼ばれた。
MISTとは 在日米軍の大幅撤退後の情報収集に危機感を持ったハル極東軍司令官が、昭和二九年頃吉田首相に持ちかけてできた。米軍は自衛隊員の秘密工作員教育を直接支援していたのだ。 そこで育った隊員が後に「ムサシ機関」の構成員になった。当時の 西村直巳防衛庁長官と杉田一次陸上幕僚長が承認し、広瀬栄一陸爆第二部長が米陸軍と秘密協定を結んだのは 昭和三六年、いわゆる六〇年安保が合意に至った翌年のことだった。こうして 日米両国の共同 情報活動が隠密にスタートした。
山本舜勝、平城弘通共に、この組織にいた。その組織は、御丁寧に、Camp Drake (現、朝霞駐屯地)の中にあった。アメリカの非公然傭兵!
つまり、自決の直前の檄で「このままでは自衛隊はアメリカの傭兵となるのだぞ!」と訴えた三島由紀夫は米軍が育てた諜報機関の導きで自衛隊で訓練していたことになる。
◆ 警察・公安は自衛隊の何を気にしていたのか?
上記の通り、自衛隊の諜報機関は日本政府より米軍との距離が近かったに違いない/推定される。すなわち、自衛隊の諜報機関は情報を米軍には渡していたが、日本政府には報告していなかった可能性がある。警察・公安にとっては気になってしょうがない存在に違いない。さらに、ナショナリズムの感情からみて、外国軍と秘かに通じている組織を警戒して当然である。外国軍とはいっても自衛隊にとっては実父だ。なぜなら、そもそも、警察予備隊/保安隊/自衛隊はマ元の命令で創設され、直接米軍に育てられたからだ。トロイの木馬である。おそらく、警察・公安、端的に後藤田正晴は「別班」と米軍の怪しい関係を掴んでいたのではないか?そして、その怪しい「別班」と三島由紀夫がべったりであったのだから、三島由紀夫と盾の会を警戒して当然ではないか。
西法太郎、『三島由紀夫事件 50年目の証言 警察と自衛隊は何を知っていたか』の仮設提示はp71に続き、p247で繰り返される;
どうして警察は何もせず、止めもせず、放置したのだろう。
自衛隊が不祥事に見舞われれば、その面目はつぶれ、権威は失墜し、国民の信頼は失われ、士気は低下し、自ずと 弱体化する。それは同盟国の意にも叶う。警察にとって 三島は、自衛隊に肩入れし、クーデターを起こしてでも改憲して、国軍にしようとくわだてる。厄介で、 目障りな存在だった。そこに楯の会の決起を放置し、死にたがっている三島に自決させた蓋然性があったと考えられる。でなければ自決は、ああも易々と完遂されはしなかっただろう。 (第3章、p247)
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