いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

【狂人日記】 指彬罵晴、あるいは、野依・「真実」原理主義者の跳突;理研の紅衛兵をみた

2014年02月26日 17時58分00秒 | 日本事情

おれは今でもおぼえている。兄貴が論文の書き方を教えてくれたとき、どんな善人でも少しけなしてやると、マルをたくさんくれたっけ。悪人を弁護してやると「奇想天外」とか「独創的」とほめてくれたっけ。やつらが何を考えているのか、おれには見当のつくはずはない。まして、食おうと思っている際なんだから。
魯迅 [竹内好 訳] 『狂人日記』

  狂人の道は、キチガイ

いかさまの道は、いか@に続き、キチガイ編。

■ Yahooの画像検索で「小保方晴子」を検索すると、こうなっちゃう。これはおいらがコラージュしたわけではない。

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すごいベタで、苦笑した。

● キチガイから見える世界; セルバンテスの小説『ドン・キホーテ』の主人公「ラ・マンチャの騎士・キホーテ卿」は狂人である。騎士道物語を読み過ぎて、「普通」の人が見ている世界とは違う世界が見える。例えば、風車が悪の巨人に見える。だから、”風車”めがけて、闘いを挑 [いど] むのだ。

おいらも元来アタマがいか@れているうえに、最近は支那の物語に耽溺し、お支那さまで頭がいっぱいだ。そんなおいらには今回の騒動がこう見える↓

これこそ、コラージュである;

 

 今回の騒動の背景は簡単なことである。なんのことはない、これだ↓

STAP細胞のNature掲載の記者会見の2日後のニュースだ。重要な点は1/31の時点で政府がSTAP細胞研究推進を根拠に理研の「特定国立研究開発法人」を決めていることだ。おいらが邪推するに、Natureに受理されそうな段階から政府に根回しをして、STAP細胞の公開の記者会見の打ち上げ花火と歩調を合わせたのだ。誰か=相当の実力者が「絵図」を描いているのだ。

■ 予算 乞食 獲得役者の交代、あるいは、理研の宋彬彬登場

蓮舫のしばきに代表される科学技術予算への冷静な視線で理研はひところの研究バブルの甘い汁が吸えなくなった。さらには、大学教授並みの給料ではやってられない、天井なしの年俸制にしろ!との声もあがり、実現しかけている。そのためには予算獲得が必要だ。

事業仕分けの後の科学者たちの反撃は、ノーベル賞受賞者を中心とした、おじいさまたちだった。この記者会見に、「科学真理教」と揶揄する声まで聞こえた。こういう批判だ;

それに対し、あるノーベル賞受賞者が、「まず1つは、マスコミにもっとしっかりしてもらいたい」「メディアの力は大きい。メディアがもっと科学技術を理解 しないと、国民には伝わらない」と。  すると、会場では拍手が起こり、twitterでの書き込みも「○○新聞の記者の質問に対して良い切り返しだ」という意見をはじめとして、賛同の嵐 が……。 (内田麻理香、『科学との正しい付き合い方 疑うことからはじめよう』)

   
              枯れ木だけが、山のにぎわい
  - お支那さまで頭がいっぱいでキチガイのおいらは、両者が同じみえる。 -

上記、「絵図」を描いている理研の知恵者の実力者はこれじゃだめだと考えた。もっと、アホな大衆を味方につけろ!

そうだ、マスコミにしっかりしてもらい! とけんかを売るのではなく、マスコミを味方につけるのだ。元来アホなマスコミなんか扱うのは簡単だ。えさを投げてやればいいのだ。 

「おねぇちゃんだ」、しかも、キャラ立ちした、「おねえちゃん」;  毛沢東・林彪   上記、「絵図」を描いている知恵者の実力者は思いついた。

アホな大衆を、キャラ立ちした、「おねえちゃん」で、味方につけろ! 

割烹着、 リケジョ、 ムーミン、 なんちゃらの指輪 (おじさんわからないよ) だ!

これだ↓

   
  宋彬彬と申します        小保方晴子と申します
この時点で既に殺っていた。 この時点で既に「熱意に溢れて」いた
    17歳          30歳、でも日本最年少のお姉さんPI

 紅衛兵が当時手に手にしていたのは、毛沢東語録である。そして、今、理研の予算獲得役者の手にしているのは、理事長・野依良治の

『事実は真実の敵である』

に他ならない。

『事実は真実の敵なり』とは、野暮な解説をするまでもなく、ドンキホーテの言葉だ (google) 。ドンキホーテは、もちろん、狂人(キチガイ)物語である。騎士道の「理念」でもって、「事実」を、すべて当人の都合にあわせて、騎士道物語を生きるのだ。例えば、風車(事実)が敵である巨人(真実)に見える。 (愚記事; 堂堂たる狂人宣言

科学研究ってのは仮説がそのまま科学的結論になることなんざ、まぁない。実験すると、そうならない(事実)。もっとも、それはおまいがバカだからだという指摘はあるだろう。そして、いるのだ、仮説が百発百中の研究者さまが。そういう研究者さまは自分の脳内で考えついたことが「真実」なのである。だから、そういう真実である彼の仮説に反する実験結果(事実)が出ると、「<事実>は<真実>の敵である!」と叫び、槍を持ってロシナンテにまたがり、<真実>にあった<事実>コピペしちゃうのだ。あるいは、仮説を支持する<事実>コピペで作製するのだ。 (愚記事;  他人を欺かんと欲するものはまずは自らを欺け?... 


STAP細胞を真実と奉ずる当事者および周辺者は、事実は真実の敵と見える;


google [研究の基本は間違いありません]


STAP細胞を真実と奉ずる当事者および周辺者は、研究の基本は真実であり、誤りであろうはずもない。 小保方晴子さんの現在や過去の研究における不備、ずさんさ はただの事実であり、真実を揺るがすものではない。ましてや、「ドクターの頃から手癖の悪い」などいう物言いは誹謗中傷もいいところで、出所が2ちゃんねるだから、軽蔑こそすれ、歯牙にもかけないのだ。  「<事実>は<真実>の敵である!」

 ■ 支那の物語に耽溺し、お支那さまで頭がいっぱいで、そのうえアタマがいか@れているおいらには、安倍 主席 総理に寄り添う野依さんと山中さんが、林彪と周恩来に見えてくる。 まして、食おうと思っている際なんだから。

  
まして、食おうと思っている際なんだから。 まして、食おうと思っている際なんだから。

iPS山中さんは、STAP細胞にカチコミをかけられたのだ。

また、今回の研究成果は、多様な幹細胞技術の開発に繋がることが期待されます。それは単に遺伝子導入なしに多能性幹細胞が作成できるということに留まりま せん。STAPは全く新しい原理に基づくものであり、例えば、iPS細胞の樹立とは違い、STAPによる初期化は非常に迅速に起こります。iPS細胞では 多能性細胞のコロニーの形成に2~3週間を要しますが、STAPの場合、2日以内にOct4が発現し、3日目には複数の多能性マーカーが発現していることが確認されています。また、効率も非常に高く、生存細胞の3分の1~2分の1程度がSTAP細胞に変化しています。 (ソース: 理研のプレスリリース

一方、山中さんも反撃している;

 iPS細胞は極めて再現性の高い技術です。すでに世界中で何百という研究グループによって作られています。また特殊な疾患の患者さんを除いては、年齢を問わず、どんな方の細胞からも作ることができることが実証されています。
  また、iPS細胞は互換性の高い技術です。ES細胞と同じ方法で培養や分化誘導ができるため、30年を越える伝統があり、世界中に大勢いるES細胞の研究 者が、すぐにiPS細胞の研究を開始できました。iPS細胞に高い再現性と互換性があることは、この技術が世界中で急速に普及した原動力となりました。
  他の多能性幹細胞技術(例えば、MAPC細胞; Jiang et al., Nature 2002)は、当時、大きなニュースとなりましたが、再現性と互換性が十分ではなく普及しませんでした。STAP幹細胞についても、広く普及するには再現 性や互換性の検証が重要な課題になります。 (ソース; iPS研究所: iPS細胞とSTAP幹細胞に関する考察
 
山中さんは内心、再現性を疑っているのだろう。上品な反撃である。

 

● まとめ

ドクターの頃から「ずさんな研究態度」で成長した研究者が、世紀の大発見をできないか?というとそうでもないだろう。確率は低いだろうが。

15年以上も昔となってしまった旧石器の捏造事件があった。あの事件で残念な点のひとつがあの捏造者の旧石器コレクションの中に「本当の専門家」からみて、本物に間違いないと考えられる試料が入っていたことだ。ただ、捏造者はその「本物」も捏造品もごっちゃにしてしまったため、その本物に違いない試料の情報が学術的検証にたえないなのだ。

おそらく、今回のSTAP細胞のことは、何かこれまで人類が知らない「事実」も含まれているに違いない。だた、それを扱った「研究者」が功を焦り、「本物」も"熱意でつくったもの"もごっちゃにしてしまったのだろう。

残念なことだ。

真実は事実の集積の果てにある、という時代が再来することを、願う。


近衛文麿、『英米本位の平和を排す』 全文

2014年02月23日 12時48分48秒 | 日本事情

1918年(大正7)、雑誌『日本及日本人』に掲載された、 近衛文麿、『英米本位の平和を排す』 全文をコピペ。なお[ ]はコピー元テキストでのふりがな。

載せる理由やこの論文についてはここに書くと予断を与えるので、末に書いた。


『英米本位の平和主義を排す

 戦後の世界に民主主義人道主義の思想が益々旺盛となるべきは最早否定すべからざる事実というべく、我国亦世界の中に国する以上此思想の影響を免かるる能わざるは当然の事理に属す。
 蓋し民主主義と言ひ人道主義と言ひ其基く所は実に人間の平等感にあり。之を国内的に見れば民権自由の論となり、之を国際的に見れば各国平等生存権の主張となる。平等とは個人若[もし]くは国民的差別を払拭するの意に非ず、個人としては其個性を、国民としては其国民性を十分に発揮せしむるに当り、之が障害となるべき一切の社会上の欠陥、例之政治上の特権経済上の独占の如きものを排除して以て其個性若くは国民性の発揮に対する機会を均等ならしむるの意なり。かくの如き平等感は人間道徳の永遠普遍なる根本原理にして、所謂古今に通じて謝らず中外に施して悖らざるものなり。固陋の徒或は平等の語を聞きて我国体に反するが如く考ふると雖も、我国体の観念は此人類共通の根本的倫理観念を容るる能はざる程しかく偏狭のものに非ずと信ず。
 何はともあれ、民主主義人道主義の傾向を善導して之が発達を期するは我国の為にも吾人の最も希望する事なるが、唯茲[ここ]に吾人の遺憾に思ふ我国民がとかく英米人の言語に呑まるゝ傾ありて彼等の言ふ民主主義人道主義の如きをも其儘[まま]割引もせず吟味もせずに信仰謳歌する事是[これ]なり。勿論吾人は英米政治家の云為[うんゐ]を全部誠意なきものとなすに非ず。ウヰルソンの如き、ロイド・ジョージの如きは、真摯熱誠なる人道の愛護者なるを認むるに躊躇せずと雖、世には善良なる人にして自ら意識せずに虚偽を為す事あり。動機に於いて純なるも結果より見て不純なりしを曝露する事往々にしてこれあり。況や蠢々[しゅんしゅん]たる他の群小政治家・評論家・新聞記者の言動に於てをや。
 曾[かつ]てバーナード・ショウは其「運命と人」の中に於てナポレオンの口を藉[か]りて英国精神を批評せしめて曰く「英国人は自己の欲望を表すに当り道徳的宗教的感情を以てする事に妙を得たり。しかも自己の野心を神聖化して発表したる上は何処迄も其目的を貫徹するの決断力を有す。強盗掠奪を敢てしながらいかなる場合にも道徳的口実を失わず、自由と独立を宣伝しながら殖民地の名の下に天下の半を割[さ]いて其利益を壟断しつゝあり」と。ショウの言う所稍奇矯に過ぐと雖、英国殖民史を読む者は此言の少くも半面の真理を穿てるものなることを首肯すべし。
 吾人は我国近時の論壇が英米政治家の花々しき宣言に魅了せられて、彼等の所謂民主主義人道主義の背後に潜める多くの自覚せざる又は自覚せる利己主義を洞察し得ず、自ら日本人たる立場を忘れて、無条件的無批判的に英米本位の国際聯盟を謳歌し、却つて之を以て正義人道に合すと考えふるが如き趣あるを見て甚だ陋態[ろうたい]なりと信じるものなり。吾人は日本人本位に考へざる可からず。日本人本位とは日本人さへよければ他国はどうでもかまはぬと言ふ利己主義に非ず。斯る利己主義は誠に人道の敵にして、戦後の新世界に通用せざる旧思想なり。吾人の日本人本位に考へよとは、日本人の正当なる生存権を確認し、此権利に対し不当不正なる圧迫をなすものある場合には、飽く迄も之と争ふの覚悟なかる可[べか]らずと言ふ也。これ取りも直さず正義人道の命ずる所なり。自己の正当なる生存権を蹂躙せられつゝも尚平和に執着するはこれ人道主義の敵なり。平和主義と人道主義とは必しも一致せず、吾人は人道の為に時に平和を捨てざる可らず。英米論者は平和人道と一口に言ひ、我国にも之に倣[なら]ひて平和人道也とする迷信家あれど、英米人の平和は自己に都合よき現状維持にして之に人道の美名を冠したるもの、ショウの所謂自己の野心を神聖化したるものに外ならず。彼等の宣言演説を見るに皆曰く、世界の平和を攪乱したるものは独逸[ドイツ]の専制主義軍国主義なり、彼等は人道の敵なり、吾人は正義人道の為に之を膺懲[ようちょう]せざる可らず、即ち今次の戦争は専制主義軍国主義に対する民主主義人道主義の戦なり、暴力と正義の争なり、善と悪との争なりと。吾人と雖、今次戦争の主動原因が独逸にありし事即ち独逸が平和の攪乱者なる事は之を認むるのみならず、戦争中に於ける独逸の行動が正義人道を無視したる暴虐残忍の振舞多かりし事に対しては深甚の憎悪を禁ずる能はざるものにして、英米の論者が是等の暴力的行動を罵るは誠に当然なりと思考するものなれど、彼等が平和の攪乱者を直に正義人道の敵なりとなす老獪なる論法に対しては其の根拠に於て大に不服なきを得ず、平和を攪乱したる独逸が人道の敵なりとは欧州戦前の状態が人道正義より見て最善の状態なりし事を前提として初めて言ひ得る事なり。知らず、欧州戦前の状態が最善の状態にして、此状態を破るものは人類の敵として膺懲すべしとは何人[なんぴと]の定めたることなりや。
 吾人を以て之を見る、欧州戦乱は已成の強国と未成の強国との争いなり、現状維持を便利とする国と現状打破を便利とする国との争なり。現状維持を便利とする国は平和を叫び、現状打破を便利とする国は戦争を唱ふ。平和主義なる故に必しも正義人道に叶ふに非ず軍国主義なる故に必しも正義人道に反するに非ず。要は只其現状なるものゝ如何にあり。もし戦前の現状にして正義人道に合する最善の状態なりしならば、之を打破せんとするものは正義人道の敵なるべく、もし其現状にして正義人道に叶はざりしならば、此現状を打破したるもの必しも正義人道の敵に非ざると同時に、此現状を維持せんし平和主義の国必しも正義人道の味方として誇るの資格なし。而して欧州戦前の現状なるもの之を英米より見れば或は最善の状態なりしならんも、公平に第三者として正義人道の上より之を見れば決して最善の状態を身と無るを得ず。英国の如き仏国の如き其殖民史の示す如く、早く已[すで]に世界の劣等文明地方を占領して之を殖民地となし、其利益を独占して憚らざりしが故に、独り独逸とのみ言わず、凡ての後進国は獲得すべき土地なく膨張発展すべき余地を見出す能はざる状態にありしなり。かくの如き状態は実に人類機会均等の原則に悖り、各国民の平等生存権を脅かすものにして正義人道に背反するの甚しきものなり。独逸が此状態を打破せんとしたるは誠に正当の要求と言ふべく、只彼が採りし手段の中正穏健を欠き、武力本位の軍国主義なりしが故に一世の指弾を受けたりと雖、吾人は彼が事茲に至らざるを得ざりし境遇に対しては特に日本人として深厚の同情なきを得ず。
 要之[これをようするに]英米の平和主義は現状維持を便利とするものゝ唱ふる事勿れ主義にして何等正義人道主義と関係なきものになるに拘らず、我国論者が彼等の宣言の美辞に酔うて平和即人道と心得其国際的地位よりすれば、寧ろ独逸と同じく現状の打破を唱ふべき筈の日本に居りながら、英米本位の平和主義にかぶれ国際聯盟を天来の福音の如く渇仰するの態度あるは、実に卑屈千万にして正義人道より見て蛇蝎視すべきものなり。吾人は固[もと]より妄りに国際聯盟に反対するものに非ず。もし此連盟にして真実の意味における正義人道の観念に基きて組織せらるるとせば、人類の幸福の為にも、双手を挙げて其成立を祝するに吝[やぶさか]なるものに非ずと雖、此聯盟は動[やや]もすれば大国をして経済的に小国を併呑せしめ、後進国をして永遠に先進国の後輩を排せしむるの事態を呈する恐れなしとせず。即ち此聯盟による所なきのみならず、益々経済的に委縮すと言ふ如き場合に立至らんか、日本の立場よりしても正義人道の見地よりしても誠に忍ぶ可らざる事なり。故に来るべき講和会議に於て国際平和聯盟に加入するに当り少くとも日本として主張せざる可らざる先決問題は、経済的帝国主義の排斥と黄白人の無差別的待遇是なり。蓋し正義人道を害するものは独り軍国主義のみに限らず。世界は独逸の敗北によりて硝煙爆雨の間より救はれたりと雖、国民平等の生存権を脅かすもの何ぞ一に武力のみならんや。
 吾人は黄金を以てする侵略、富力を以てする征服あるを知らざる可らず。即ち巨大なる資本と豊富なる天然資源を独占し、刃に血塗らずして他国々民の自由なる発展を抑圧し、以て自ら利せんとする経済的帝国主義は武力的帝国主義否認と同一の精神よりして当然否認せらるるべきものなり。
 吾人は戦後大に其経済的帝国主義の鋒鋩[ほうぼう]露はし来るの恐れある英米両国を立役者とする来るべき講和会議に於て、この経済的帝国主義の跋扈を抑圧し得ずとせんか、此戦争によりて最も多くを利したる英米は一躍して経済的世界統一者となり、国際聯盟軍備制限と言ふ如き自己に好都合なる現状維持の旗織を立てて世界に君臨すべく、爾余の諸国、如何に之を凌がんとするも、武器を取上げられては其反感憤怒の情を晴らすの途なくして、恰もかの柔順なる羊群の如く喘々焉[ぜんぜんえん]として英米の後に随ふの外なきに至らむ。英国の如き早くも已に自給自足の政策を高唱し、各殖民地の門戸を他国に対して閉鎖せんとする論盛んなり。英米両国の言ふ所との矛盾撞着せる概ね斯[かく]の如し。吾人が英米謳歌者を警戒する所以、亦[また]実に茲にあり、もしそれかくの如き政策の行われんか、我国にとりては申す迄もなく非常なる経済上の打撃なり。領土狭くして原料品に乏しく、又人口も多からずして製造工業品市場として貧弱なる我国は、英国が其殖民地を閉鎖するの暁に於て、如何にして国家の安全なる生存を完うするを得む。即ちかゝる場合には我国も亦自己生存の必要上戦前の独逸の如くに現状打破の挙に出でざるを得ざるに至らしむ。而して如斯[かくのごとき]は独り我国のみならず、領土狭くして殖民地を有せざる後進諸国の等しく陥れらるべき運命なりとすれば、吾人は単に我国の為のみならず、正義人道に基く世界各国民平等生存権の確立の為にも、経済的帝国主義を排して各国をして其殖民地主義を開放せしめ、製造工業品の市場としても、天然資源の供給地としても、之を各国平等の使用に供し、自国にのみ独占するが如き事なからしむるを要す。次に特に日本人の立場よりして主張すべきは黄色人の差別的待遇の撤廃なり。かの合衆国を初め英国殖民地たる豪州加奈陀[カナダ]等が白人に対して門戸を開放しながら、日本人初め一般黄人を劣等視して之を排斥しつゝあるは今更事新しく喋々する迄もなく、我国民の夙[つと]に憤慨しつつある所なり。黄人と見れば凡ての職業に就くを妨害し、家屋耕地の貸付をなささざるのみならず、甚しきはホテルに一夜の宿を求むるにも白人の保証人を要する所ありと言ふに至りては、人道上由々しき問題にして、仮令[たとひ]黄人ならずとも、苟[いやしく]も正義の士の黙視すべからざる所なり。即ち吾人は来るべき講和会議に於て英米人をして深く其前非を悔いて傲慢無礼の態度を改めしめ、黄人に対して設くる入国制限の撤廃は勿論、黄人に対する差別的待遇を規定せる一切の法令の改正を正義人道の上より主張せざる可ならず。想ふに、来るべき講和会議は人類が正義人道に基く世界改造の事業に堪ふるや否やの一大試練なり。我国亦宜しく妄りにかの英米本位の平和主義に耳を籍す事なく、真実の意味に於ける正義人道の本旨をて体して其主張の貫徹に力[つと]むる所あらんか、正義の勇士として人類史上永[とこし]へに其光栄を謳はれむ。
(大正七年十一月三日夜誌す)
(『日本及日本人』 1918年12月15日号)

 


近衛文麿、『英米本位の平和を排す』 という論文がある。近衛文麿の伝記では必ずその一部が引用される。『英米本位の平和を排す』というコピーはその後の米英撃滅戦争に突入し、瓦解した大日本帝国の方針の嚆矢ではないかと人々に思わせる。この『英米本位の平和を排す』のテキストをネット上で探してみた。おいらの努力の限りでは見つけることができなかった。なので、広くネット利用者にも読めて、その一部を気軽にコピペできるように、電子テキストに落とした。元のテキストは北岡伸一 [編集・解説]、『戦後日本外交論集』、中央公論社、1995年刊行のものを使った。


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この『英米本位の平和を排す』論文が書かれたのは1918年11月3日である。この論文で「戦後」といっているが、書いた時点で未だ第一次世界大戦は終わっていない。第一次世界大戦の終了は11月11日のパリのコンピーニュの森での休戦調印である。しかし、近衛がこの論文を書いたときにはドイツの敗北が必至であり、それがわかったのであろう。

この論文を書いた時、近衛文麿は27歳。 この論文発表からひと月後の1919年1月14日、神戸からヴェルサイユ講和会議の随員としてパリに出発。

 世間の目が近衛に集まるようになった直接の原因は、彼がヴェルサイユ会議全権団の随員に選ばれたことであろう。この会議は世界の視聴を集めた晴れの舞台であり、ここに登場できたということは、それだけで有能な人物であるという証明書をもらったようなものである。
 さらに、西園寺公の抜擢ということがある。政界に絶大の力を持つ西園寺が、彼を庇護し、彼を育て上げようとしているということは、それだけで彼が将来大物になるという約束手形を持っているようなものである。彼に期待の目が集まるのは、当然といっていいだろう。 (杉森久英、『近衛文麿』) 愚記事; パリ講和会議へは松岡洋右、近衛文麿、吉田茂などが若手として参加

 このパリ(ヴェルサイユ)講和会議への日本から派遣される外交団のために御前「壮行会」が催された。そこへ山縣有朋、松方正義、東郷平八郎などが出席している。つまり、27歳の近衛文麿はこの時80歳の山縣有朋(1838年生まれ)とすれ違っているのだ。 知らなかった。 この世紀の場面を描写した歴史小説や映画、ドラマをみたことがない。肇国の公爵と亡国の公爵との邂逅、一期一会である。なお、この時点で漱石は既に鬼籍(関連愚記事; 「滅びるね」 @浜松駅  )。


愚記事; じゅげむ・じゅげむの弁当箱

 パリに行く途中近衛文麿は上海で孫文に会っている( 間違ってきた15歳クンのために; 当時ヨーロッパには船か鉄道で行く。飛行機がなかった。シベリア鉄道はあったがこの時ロシア革命直後。船でヨーロッパに行く途中に上海に寄ったのだ [関連しない愚記事; 上海参り 2012 ] )。孫文が近衛文麿を知ったのはこの論文『英米本位の平和を排す』のせいである。上海の排日系の雑誌『ミラード・レヴュー』に訳され、掲載された。その訳載の理由は排日アメリカ人のミラードが日本は世界秩序に反逆しようとしているという非難攻撃の宣伝のためである。皮肉にも、アメリカ人による宣伝のおかげで、アジア主義者同志ということで孫文と近衛文麿は遭ったのだ。 

 孫文には褒められたが、西園寺公望には叱責された。国際社会=既得権を持つ勝者=米英仏との協調を旨とする思想を根拠にしてである。

西園寺公望の希望は、後継と託する近衛文麿にも、大日本帝国肇国の主策である「既得権を持つ勝者=米英仏との協調を旨とする思想」を有して欲しかったのだ。

(西園寺公望の希望は、大嗤いとなったことは既に書いた⇒ 自分の孫がゾルゲ事件に連座、曾孫が紅衛兵だ!  
      公望=おおやけののぞみという名前が皮肉で、悲報!)

親の心子知らず!

 論文・『英米本位の平和を排す』について認められる特徴は、中二病的側面である。中二病の定義はめちゃくちゃになっているらしい。でも、次のような中二病の症状がある (wikipedia [中二病]);

社会の勉強をある程度して、歴史に詳しくなると「アメリカって汚いよな」と急に言い出す。

ここで、「アメリカ」の記号的意味は、世界での最大主流派であるということである。その偉そうな「主役」の欺瞞に気づき、憤慨することが典型的中二病的症状ということだ。

世界の支配的権勢の欺瞞を暴いた自分の知性に内心うれしい近衛文麿は義侠的でもある。つまりは、世界の支配的権の世界独占、植民地の囲い込みが原因で勢力が拡張できず、自存の権利を守るために「やむをえず」ドイツは戦争に打って出たとその戦争動機に共感を持っている。義侠心=弱きを助け、強気を挫く。ドイツに心情的に加担し、英米の強国として欺瞞を暴いたつもりなのだ。

   (ここで、近代の欺瞞の暴露という ニ ー チ ェ 的 精 神 が垣間見れることに注意されたい。 本当は何なんだ?近衛文麿!)

この考えと昭和16年・1941年の自存自衛のための対米英宣戦布告という現実は整合性があるように見える。この時27歳だった近衛文麿はのち数度内閣を担い、支那事変の拡大、大政翼賛会、日独伊三国同盟、国家総動員法、仏印進駐などの諸策を実施。これまた、この『英米本位の平和を排す』の気分を具現化したかのように見える。

ただ、事態は複雑なようだ。近衛文麿が論文・『英米本位の平和を排す』を書いたのは大学卒業直後。つまりは机上の勉強しかしてないことの総決算である。実際の欧米社会を知らなかった。このパリ(ヴェルサイユ)講和会議の後、近衛文麿はドイツ、英国、米国と半年近く、見聞旅行をしている。さらには、後に息子=次の公爵となるはずの文隆を米国に留学させている。見聞したからと行って、西園寺公望のように「国際社会=既得権を持つ勝者=米英仏との協調を旨とする思想」を持つようになるかはわからない。ただ、支那事変の拡大、大政翼賛会、日独伊三国同盟、国家総動員法、仏印進駐など対米戦争のために戦略的に動いていた、と少なくとも後世からは見える、近衛文麿は対米戦争には恐怖し、躊躇したと伝えられる。もっとも、この躊躇したというのは宣伝かもしれないのだが。そして、戦後戦犯容疑者に指定され逮捕直前に自殺するときに書いた遺書には「僕は米国に於いてさへ、そこに多少の知己が存することを確信する」とある。

 『英米本位の平和を排す』を著し、孫文に遭い、ヴェルサイユ(パリ)講和会議を「物見」した近衛文麿は、半年にわたり、独英米を見聞した。その記録がこれだ ↓ ; キューガーデンにも行っているのだ(関連愚記事; ロンドンに行った時、キューガーデンに"参拝"。もっとも英語ではKew Gardensであるが。ロンドンで一番行きたかったところだ)。 その時すでに日本庭園はあったのだ。


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さて、・『英米本位の平和を排す』的気分は、当時、インテリにおいても流布していて、愚ブログでは志村五郎さんの例を挙げている;

・開戦時の思い出; ―しかし開戦に対する私 の反応は書くべきであろう。(中略)一二月十日のマレー沖でのイギリス二戦艦プリンス・オブ・ウエールズとレパレスの撃沈が印象に残った。ほかのことは忘 れたがこれだけは「痛快だ、ざまあ見ろ」と思った記憶があり、そう思った事を今でも後ろめたくは感じていない。 
 現代の人は歴史の書物でしか学ばないが、当時の世界地図を見ると大英帝国の領土が驚くべき面積を占めていた。色分けしてあるからひと目でわかるのである。
― (愚記事: 「私ぐらい嫉妬された数学者はいないのではないか」、志村五朗

とまれ、近衛文麿の・『英米本位の平和を排す』には強者に対する反感が感じられる。端的にそういう気分をルサンチマンというのだ。

近衛文麿解読のおもしろさは、そういう強者に対する反感、具体的には対米英ルサンチマンが大衆に横溢した時代に、そのルサンチマンの核になったことだ。近衛文麿を「共産主義者」という人がいる。いやちがうのだ。そして、なぜそう誤解させるかというと対米英ルサンチマンという視点が近衛文麿分析には必要なのだ。ルサンチマンと「共産主義者」は親和性が高いので、近衛文麿は「共産主義者」という誤解が生じるのだ。

尾崎秀実=「共産主義者」は、近衛のそのルサンチマンにつけこんだのだ。

その点、近衛文麿・『英米本位の平和を排す』は彼の政治思想信条の出生証明書としては、よくできているといえるのではないだろうか。


ぶどうの木再生日記;第49週目

2014年02月22日 10時33分57秒 | 草花野菜

■ 今週の筑波山麓

寒さ [ΔT] というばかりでなく、降雪=水分供給 [Δμ] の賜物である。 

■ 今週の春

▼ 今週の いすゞ のトラック


~♪~ は~しれ、走れ ~、 いすゞ のトラック ~♪~ と応援してあげた。
 そのトラックは桜印の代紋を背負っていた。
   ⇒最近知った、full version があるんだ: YouTube いすゞのトラック 日本語のdictation付き

● 今週の看猫; 今日は2/22 猫の日

■ 今週のおもわず に や り としたネットで見つけた言葉

「3年くらい前から徐々に聞こえるようになってきた!」

「3週間くらい前から急に再現できないようになってきた!」

     通奏低音は同じ


https://twitter.com/hitoshi_takagi/status/437439295662473216

どっちが通奏だか、メロディーやら 

いかさまの道はいか@

おいらは特に自慢できることはないのだが、いかさまをみつける嗅覚は鋭いらしい; 

今から10年前、2004年。おいらは、後に過剰演出、というより端的にうそ、で番組が終了となったNHKのプロジェクトX  に、つっこみを入れている。

愚記事; にがて!NHK プロジェクトX 

この当時、「国民」におけるこの番組の人気はものすごいもので、これにケチをつける奴はよほどの天邪鬼と思われた時代である。

おいらが今も昔も思うのが、なすてぬっぽんずんはこういういかさまにまんまとひっかかるのか?!ということだ。

ひとつの原因が、ぬっぽん通奏低音だ。送り手側の「ストーリーとしての騙煽(へんせん)戦略」である。 騙[だま]して、煽[あお]るのだ。 スト騙。

ということで、こんなブログをみている貴殿は、気をつけるように!

この節のまとめ; 刺激不足: 急にできなくなった=惹起するほどの刺激が足りない???

▼ 今週の気づき

出典

なんだ。大学と同じじゃないか!  関連愚記事; A day in my industrial life @しかも、バイト

● 今週の「北朝鮮かと思った」


スノボ平岡、母校でメダル披露 同級生「格好良かった」

● 今週の中二病

google

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栗塚、 そして、船橋洋一 『内部』がきた、あるいは、円本を肴に

2014年02月19日 19時00分00秒 | 筑波山麓


 栗塚

栗塚なんてことばがあるのか知らなかった。あった→ google

栗塚古墳、ってのもあった; リンク

裁かれる江青女史の言葉 ― 

「私に過ちはない。もしありとすれば、ただ一つ、それは権力闘争において、おまえたちに破れたことだ」。

さすがに元女優、恐らく一世一代の名台詞であろう。 

福田恒存、『問いただしき事ども』(1981年、新潮社; 初出:中央公論 昭和五十六年 [1981年] 三月号) (かなづかいなどは勝手に今風に変更;訳文も勝手に変えた)


http://news.takungpao.com.hk/history/story/2013-07/1774136_2.html

 3日前の愚記事 [リンク] で、船橋洋一、 『内部』の古本を発注したことを書いた;

来た。

船橋洋一は1980年2月から1981年12月まで朝日新聞の北京特派員だったのだ。

その北京・中国滞在を基にした本。内容は当時、随時、記事になっていたもの。

文化大革命が終り(1978年)、四人組が逮捕され、裁判にかけられていた時期だ。

船橋洋一、 『内部』でもエピソード的に触れられている;

また、八〇年末のいわゆる「林彪・四人組」裁判で法廷に引きずりだされた江青夫人が、居並ぶ裁判官、検事をにらにつけ「一体お前たちの中で長征したものはいるのか。私は故毛沢東主席に従い、長征したのだ」といった趣旨の言葉を吐いたが、これなども中国共産党内で長征幹部の持つマジックを物語るものであり、江青発言はその意識をそのままに表したに過ぎない。

もっとも、文革終焉と船橋在中の間には中越戦争があった。日本政府・大平正芳が小平によるベトナム懲罰戦争を「黙認」した話はまた今度。

ちなみに、この1981年の時点で、福田恒存は「 「四人組」の運命はまだはっきりしない。毛沢東の文革派はまだ生きている」といっている。

今から見れば、文革が終ったこの頃と六四天安門事件の1989年の10年間が日中関係が良かった。 日中の小春日和!

(この小春日和に、中曽根康弘さんは靖国参拝で中共に妥協した! 妥協すべきと思ったほど、日中は小春日和であったのだ;
もっとも、中曽根さんが靖国参拝をやめる理由、すなわち、"親日派"="民主改革派"の胡耀邦+趙紫陽の立場を慮ったという考えは、小平の六四天安門事件で全くの"勘違い"であったと判明する)

船橋洋一、 『内部』にはさまざまなことが書いてあるが、やはり文革後の中国社会の細部を書いてある。

たとえば、傷痕。

傷痕文学とは文革で受難した者たちの回顧文学である。船橋が中国にいた時(1980-1981)にはすでに、世に出ていた。

中国で1977年から1979年ごろにかけて書かれた、文化大革命の悲惨さを描く一連の文学作品。廬新華の「傷痕」に基づく名称。劉心武の「班主任」などがある。 (傷痕文学:デジタル大辞泉site

船橋洋一、 『内部』には「傷痕」という一節を含む"「歴史問題 - 引きずる重い過去」"という章がある。そこには文革で戦前に京大を出た医学博士で医師の夫(chinese)を殺された日本人妻の体験記が紹介されている。1980年に名誉回復の葬式が執り行われた。「きょう来てくれた人の中には、かつて先頭に立って私たちを迫害した人もいた。そういう人に対しても母は微笑を絶やさず手を握っていたが、私は笑えなかった」と娘の話。さらに、「追われた元のポストに旧文革派の幹部が居座っていたり、」と1980年の北京の状況が船橋洋一、 『内部』では報告されている。上記、福田恒存の指摘はまんざら的はずれではない。

▼ 傷痕皇帝

この船橋洋一、 『内部』にはいたるところに下放青年の話が出てくる。すなわち、1955年前後の生まれ(を中心に)、特に北京、上海などの大都市部の青年が文革前期(1967-9年ごろ)に地方の農村に移住させられたこと。船橋が北京にいた1980年頃は彼ら下放青年たちが20代中盤あたりでまだまだ生まれ故郷の都市に貧困の農村から復帰することを切望していた頃だ。

1980年と言えば、中国で大学が正常化して数年後の頃だ。

この下放青年は傷痕世代である。そして、今の皇帝さまは典型的な下放青年である。ただし、中国共産党高級幹部子弟の典型的な下放青年。他の下放青年とは違って、北京に復帰、大学に行けた。

この船橋洋一、 『内部』の時代には、30年後に下放青年から皇帝=中国共産党総書記が出るとは夢にも思わなかったろう。

なお、船橋洋一、 『内部』を読むと、この頃1980年にはすでにエズラ・ヴォーゲルは中国に出はいりしているとわかる。おそるべし、毛唐さまの研究力。

■ まとめ

 
  長征幹部     下放幹部
(関連愚記事;毛主席に従い


今日の元ネタ

  
問ひ質したき事ども (1981年) 1円 Amazon    内部(neibu)―ある中国報告 1円 Amazon

『円本』の呼び名は出版社側の命名でなく[5]、たまたま、1925年大阪、1927年東京に登場した市内1円均一の『円タク』から、派生したと言われる。 

1円は当時、大学出の初任給の約2%に相当した[6]。それを廉価とうたえたほどに、それまでの本は高価だった。 (wikipedia


いか註; 現在の大卒初任給(平均)は、20万1800円だそうだ[根拠]。 そうすると、大学出の初任給の約2%とは、4000円となる。

本1冊、4000円。 


習近平の「近平」の由来を知る; あるいは、産経、朝日 「支那通」にみる出自

2014年02月16日 18時37分53秒 | 中国出張/遊興/中国事情

日没する処の天子さまからみて、おいらは、「腹がいっぱいになって暇になった外国人」である。腹はいっぱいではあるが、出世しそこなって所を得なかったので暇だ。だから、隣の国の「皇帝」さまの評伝・矢板明夫、『習近平 共産中国最弱の帝王』を読んだ。さらに、46年前の文化大革命の勃発直後の取材記録・柴田穗、『報道されなかった北京 =私は追放された=』も読んだ。両者はサンケイ新聞社-産経新聞社から北京に派遣されていた/いる記者である。


図1

図1の『報道されなかった北京 =私は追放された=』は裸本。表紙付はとても高価で買えなかった。表紙をネットで採取。こんな表紙。

 矢板明夫、『習近平 共産中国最弱の帝王』のAmazonの書評には、こうある;

著者は、天津市に「残留日本人」二世として生まれ、15歳で帰国し、慶応大学卒業後、1998~2002年にかけて中国社会科学院日本研究所で特別研究員 として学んだ。著者が、同年代の中国人と夜を徹して議論できる素地は、多分、この経歴にあるだろう。現在は、産経新聞北京特派員である。著者は、果たし て、文革報道で伝説の特派員となった「柴田穂」になれるのか?著者は、身内に「中国」を微妙に感じているように見える。それは、今後の著者の魅力ともアキ レス腱ともなりうるものである。出典 by  閑居人 さん (太字強調 いか@)

 一方、中国研究家の矢吹晋さんからは、「著者がここまで取材できるのは、中国育ちの語学力を駆使してのことであろう。これは得難い条件だ。」と評されている。  矢吹 晋氏による書評

 この矢板明夫、『習近平 共産中国最弱の帝王』のまとめは上記矢吹氏の書評、というよりまとめに書いてある。

 ▼ ひとつおいらにとって面白かったのが、習近平の近平の名前の由来;

 1952年9月、毛沢東は習仲勲を北京に呼び、中央宣伝部長に任命した。習近平は一家が北京に移った直後に生まれたため、「北京が近くなった」という意味で「近平」と名付けられた。1949年までは北京は「北平」と呼ばれていた。 (矢板明夫、『習近平 共産中国最弱の帝王』、第7章)

 おいらには「北平」⇒「北京」問題が面白かったのだが、そのことの展開の前に、習近平の父親の習仲勲について。習仲勲についてはwikipediaにも書いてある。習仲勲は15歳の時から中国共産党に入った古参メンバーではあるが、中共古参メンバーの御多分に漏れず、文革期には受難する。受難の理由は劉少奇に近かったということより、そもそも文革前にしくじったらしい。宣伝担当なのに不適切な小説の出版を許したという罪である (1962年9月の第8期10中全会で反党小説劉志丹事件が持ち上がり、康生を主任とする審査委員会が発足、半年後に反党集団として党内外の全職務を解任された) 。

文革中は、16年間も拘束される。「遊街」される習仲勲の画像が残っている↓

 習仲勲の受難


 http://www.flickr.com/photos/prchistory/4380598751/

 そういう父を持つ習近平は15歳から1969年から7年間陝西省延川県に下放され、農夫をやっていた。すなわち、15歳から7年間、習近平は教育を受けていないのである。人間が一番知的活動に勉め強いられる時期に、おそらく、知的活動を行っていない。別に、おいらは習近平を貶めたいわけでもない。"皇帝には基礎学力が必要であるか?"という課題は解決されていないからだ。例えば、「文盲」=読み書きができなかった皇帝の話は以前にした(愚記事; 文盲の万能人、アクバル大帝)。なにより、現支那の皇帝には知的能力なぞ超えた属性が期待されているからだ。べんきょーなぞできるより、大切なことがあるのだ。

■ 励ましあう二人

しかし、いずれにしても、当初の貴族からその相続者に貴族の称号を伝えることということには、ある種の矛盾がある。その点では中国人のほうが論理的であって、継承の順序を逆にする。つまり、息子を父が貴族とするのではなくて、息子が貴族権を得ることによって、それを祖先たちにまでさかのぼらせ、かれらの賤しい家系をかれの努力によって名門にするのである。 (オルテガ、『大衆の反逆』)

太子党というのは当事者たちが自覚的に組織を維持している集団ではないらしい。太子党と呼ばれるに値する人間は数万人いるらしい。定義は古参の共産党メンバーの子弟だ。

習近平登場前に習仲勲はそう有名ではなかったと思われる。それは薄一波 - 薄熙来親子とは違う。薄一波は、薄熙来が有名になる前に、文化大革命の歴史の本に出てくる。一方、習仲勲の名は見たことがない。例えば、2001年に出版された『中国高級幹部人脈・経歴字典』には、習仲勲・習近平ともに載っていない。薄熙来は載っていないが、薄一波は載っている。

  
                         薄一波の受難

まさに、オルテガがいうように、習近平は息子が貴族権を得ることによって、それを祖先たちにまでさかのぼらせ、かれの努力によって名門にするのであるのだ。上記のよう習仲勲のに文化大革命で市中引き回しになっている歴史的事実が証拠として残っているが、おそらくこういう中国共産党古参メンバーの文化大革命での市中引き回しの写真は無数にあって、その後子孫が偉くなったら光が当てられるのだ。

・受難者の太子たちも色々;

    
 皇帝@中南海     犯罪者@やがて秦城監獄

● なぜ、習近平が中国共産党の主席になったかといえば、それは中国共産党を保持しようとするに違いないと前世代から認められたからだ。つまり、経済改革ひいては政治改革で中国共産党が解体する事態も引き起こすかもしれない改革派にだけは主席になってほしくないのだ。当初、次の中国の最高指導者と下馬評が強かった李克強が主席になれなかったのは、保守派が「李克強は中国のゴルバチョフになる」と宣伝したからだと、矢板明夫、『習近平 共産中国最弱の帝王』にある。この習近平と李克強の相克・権力闘争は、人間社会一般論として、aristocracy(世襲主義)とmeritcracy(能力主義)の相克としてみれるので、興味深い。李克強は庶民出身で、大変な秀才として有名である。おそらく、基礎学力のない習近平とは人間社会における型=タイプがことなる。

なので、突然話は飛ぶようだが、習近平はそのタイプからみると、我らが安倍晋三さんと極めて似ているのだ。

習近平さんの任務は北京の天安門広場から毛沢東の肖像が撤去されることを絶対さけることであり、安倍晋三さんの任務は実力部隊としての皇軍の魂の根拠の靖国神社の保全と何より皇室の護持だ。 おそらくふたりは、建国の経緯を重視しているのだろう。銃が政権を生む!革命とクーデターが政府をつくる!って(関連愚記事群)。憲法なんて足枷になってうざったい。むしろ立憲の根拠となる思想が重要だと考えているのだ。憲法をどうまわすかは、只の秀才ちゃん(meritocracisim perosns)がやる仕事で、皇帝さまの仕事は立憲主義の源泉の思想の保全が重要と考えているのだ。

蛇足ながら、日本の李克強は誰か?というと自ら恃むところ頗る篤く、最後には自民党も裏切った舛添要一あたりか。

とまれ、やはり、ふたりは近いところにいるのだ。


愚記事; 励ましあうふたり

■ 産経新聞社、朝日新聞社の 「支那通」にみる出自

伝説の文革報道をした柴田穗さんは1930年に東京に生まれたが、1939-1947年に中国在住。17歳で「引き揚げ」=帰国したらしい。

一方、矢板明夫さんは1972年天津生まれ。1988年、15歳で「引き揚げ」=来日したらしい。「残留孤児2世」とあるが、意味不明。親が残留孤児ということなんだろう。孤児が1世―2世と続くのは論理的でない。なお、父親は中国人との未確認情報もある。もしそうでるなら、余計「残留孤児2世」は意味不明。

で、話しがそれた元=おいらには「北平」⇒「北京」問題が面白かったに戻る。

wikipediaにこういう記述を見つけた。ある人物に関する記述だ;

ここで、中華民国とは、中華民国臨時政府のこと(wiki)。

今の北京は、日本の敗戦時(1945)まで北京と称し(関連愚記事; 北京の玉音放送)、1945-1949が北平。その間、4年。

そして、中国人民共和国建国で、再び、北京となったのだ。

つまり、習近平の近平の平はわずか4年間を反映しているのだ。

さて、上のwikipediaの経歴の人は、「親米保守の経済記者で、CIA協力者リストに名前が上がっている」とwikipediaに書かれ、「終生変わらないはずの親米派」と評される(ロナルド・ドーア)朝日新聞の船橋洋一さんである。北京生まれなのだ。wikipedia [橋洋]

そして、彼はその商売も中国屋さんが出発点らしい。

昨日注文した;


Amazon  内部(neibu)―ある中国報告


―  いい本なので出品しています。 -

● まとめ: 1. 本日紹介の 「支那通」3人は、万が一日本政府の村山談話の表現に従うのであれば、「植民地支配と侵略」の当事者の子孫である。

          
元日帝侵略子供  日帝侵略者子孫   元日帝侵略赤ちゃん@朝日新聞=三つ子の魂百までも

2.腹がいっぱいばかりではなく、出世しそこなって所を得なかったので暇なおいらは、暖衣飽食状況下での下放である。ありがとう!ぬっぽん。


ぶどうの木再生日記;第48週目

2014年02月15日 12時45分07秒 | 草花野菜


 出芽を確認

■ 今週見たかまくら


 都内、多摩川岸、二子玉川
↓ この画像のどこかに上記かまくらが見える:

● 今週の看猫

▼ 今週の物言い

wikipediaの「日本の哲学者」には、長谷川三千子さんは載っていない。

女性という属性でみると、例えば、石黒ひでさんは載っている。

一方、長谷川三千子さんと共に左近司祥子さん、坂口ふみ先生は載っていない。池田晶子さんは、当然(!!!???)、載っていない。

なお、どうでもいいことだが、日本の哲学者に載っている高橋里美、坂部恵は男性である。

ちなみに、当の森岡正博さんは載っている。

▼ 今週の反帝闘士

google: 森喜朗氏「外国語はかつて敵国語」 

森喜朗会長(76)が日本語で話したことで、語学力が乏しいのではないかと外国人記者から厳しい質問を受けた

英語帝国主義 [wiki] への、造反!

▼ 今週の役立たず


自分の過去を振り返って大学院が役に立ったとは全く思えません。超有名校博士課程の部下もいましたが、役に立ちませんでした。

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我孫子駅 弥生軒

2014年02月12日 23時52分33秒 | その他

JR常磐線、我孫子駅ホームのやよい軒で唐揚げそばを食べた。

唐揚げっていうからゴルフボールくらいの大きさの普通の唐揚げを想像し、2個のそばを頼んだ。

違った。 にぎりこぶしくらいの大きさの唐揚げだった。 

びっくりした。

食べ始めて、食べきれるか一瞬不安がよぎった。

食べた。 こんな大きな唐揚げの中までよく火を通るものだと感心した。

唐揚げそばというより、唐揚げをだし汁につけてたべる料理という感じ。そばはおまけ。


デ レ ッ キ で ぶ っ て 、... グレッチが何だかわかった

2014年02月09日 17時11分25秒 | その他

 

西部 [邁] (略) 思い出しても恥ずかしいのはね、ストーブを引っかきまわす棒って、何て言いましたっけ?

鈴木 [宗男] 僕らはデレッキと言っていましたね。

西部 [邁] そうそう、そのデレッキもわが家では結構な貴重品だったことがあるんです。 (肝心の思い出しても恥ずかしいエピソードは略)

鈴木宗男、 宮崎学、 西部邁、 『日本と戦う』 (Amazon

 

椎名林檎の1999年2月発売のアルバム「無罪モラトリアム」に収録されている"丸の内サディスティックス"という曲がある。

その歌詞で、~グレッチでぶって~というくだりがある。 グレッチ、ってなんだか知らない。雰囲気と同アルバムにある"歌舞伎町の女王"からの連想で、何かSM道具の一種類くらいであろうと勝手に脳内で処分していた。

今から思えば、リッケン620から連想すれば、わかったかもしれないのだ。そもそも、調べればよかったのだ。

でも、調べる気はなかった。そして、今日となっては見てしまったが、きちんとした文字となった歌詞を見ればよかったのだ。見る気はなかった。なぜなら、きこえたままの音をそのままおぼえて、しばしば、唄っていたのだ。こういうことをすると持っている音=言葉に対応して現実が突然立ち現われたりするからだ。例えば、愚記事: お茶の水は楽器屋が多いとはじめて知る

さらには、音=言葉に対応して現実が突然立ち現われたりするより、むしろ日ごろやることは、得た音=言葉でイメージを脳内で喚起することだ。例えば、~しょうらい そう になって けっこんしてほしい~は、最近まで、~将来 躁になって 結婚して欲しい~と思っていた。だから、おいらの脳内では、鬱病に悩む彼氏を激励する女を空想していた。そして、鬱病患者を激励しちゃだめなんだよ、とおいらの空想は伸びていった。

そして、~グレッチでぶって~というくだりでは、女王さまにぶったたかられている豚野郎を空想していた。

なぜ、グレッチが何かSM道具の一種類くらいとなるのか、説明しなければいけない。

それは、デレッキというものからの連想である。 グレッチとデレッキが脳内の言葉に引き出しが一緒なのだ。 アタマが悪いので分解能が低いのだ。

さて、デレッキとはこういうものである;

デレッキ; google 画像

 一方、グレッチとはギターメーカーなのだ。リッケン620から連想すればよかったのだが、おいらはグレッチギターを知らなかったのだ。


 google 画像

■ デレッキの思い出

おいらは、デレッキをさわったことがある最後の世代なんじゃないかと思う。後続の団塊ジュニア世代の道産子はデレッキを使ったことがないだろう。

おいらが通った小学校、高校は札幌オリンピックの後にできた。一方、中学校はオリンピック以前にできたらしく、コークスをだるまストーブで燃やして暖房としていた。そのコークスストーブにデレッキが付いていた。

遊んだ。鍛冶屋さんごっこ。デレッキを燃えているコークスに長くつっこみ続け、灼熱したところで、これまたダルマストーブに付随しているフタを開けるための15cm位の金属製棒で、叩くのだ。デレッキの先を直線状にしたり、また、90度曲げたりして、遊んでいた。

● まとめ

デレッキでぶたれたら、相当痛い。

↓ ネットでの拾い物

 


ぶどうの木再生日記;第47週目

2014年02月08日 08時03分54秒 | 筑波山麓

■ 今週の借景生活


  今週の借景生活  - ”金閣” 付き -

● 今週の北海道で見ない風景


  たちばなに雪


  竹に雪

▼ 今週の春


 オオイヌノフグリ

▼ 今週の「山の手右翼」

長谷川三千子センセイがNHKの経営委員とやらになったとも知らずにいたが、ニュースで見た。「長谷川三千子氏、政治団体代表の拳銃自殺を称賛(google)」。

おいらは、長谷川三千子センセも野村秋介さんについての世間の誰もが得ることができる情報の一部を少しは知っているのだが、長谷川センセの野村秋介さんへの追悼文のことは知らなかった。長谷川三千子センセは極右なんだから(関連愚記事; 極右、あるいは偽毛唐、そして何より、狂気 )、そういうことがあったとしても、そんなもんだろうとしか思えない。

長谷川三千子センセは言っている; 

戦後にはびこった、「民主主義」の大宣伝や、「進歩的文化人」たちがその元凶なのでもないことを、彼は知っている。それらは単なる症状にすぎない。本当の根は、日本人がとことん戦い抜いて全滅するかはりに生き延びてしまったことにある―その事実を彼は、くっきりと見て取ってゐるのである。

だから、「戦って、ちゃんと死んだ」野村秋介さんが好きだったのだろう。そして、今、なぜか、NHKの経営委員だ。

NHKの経営委員って、長谷川三千子センセってテレビみてるんだろうか? そうなら、少しショック。

で、今日、wikiで初めて知った。長谷川三千子センセは野上弥生子の孫なんだ(wiki)。

野上弥生子と言えば、右翼の長谷川三千子さん理解のため、参照として戦後民主主義真理教の教祖について、江藤淳の(口述筆記)文章を引用しよう;

 だから大江君なんか大変ですよ。この人は褒められることしかしていないから、もっと大変だ。それも公私ともに褒められることしかしていないから。これはもう、大変ですよ。まあ才能があるから、どうやら乗り切ってきてるんだけれども、それだってねえ。
 (中略) 僕は大江さんってのはね、やっぱり何かこう、ライフ・スタイルとか、いろんなものの上に、ある憧れの対象というものがあると思う。渡辺一夫先生とか、野上弥生子さんといかね、そういうものがあるんだと思いますよ。これは非常に大衆的な感情なんです。大江君はその大衆的に瀰漫している感情の高いところを代表しているのであって、もうすこしわかりやすく言えば、やっぱりあれは一億総中流階級の気分、ないし感情を代表しているんです。
江藤淳、 『離脱と回帰と  昭和文学の時空間』

             
(昭和の)大衆感情の代表   (昭和の)大衆感情を逆なで→平成大衆へのプロパガンダ経営を
 @努力して教祖        @祖母の孫娘@@父の娘: 「別に褒められなくてもいいの」


   「山の手左翼」

* 蛇足の引用;

ミヨシ:  僕は、自分が東京の山手で生まれたとか四国の一小村で育った --という言い方で語り始めたくはないのです。一度そういう言い方をしてしまうと、そのレッテルが固着して東京人とか四国の小村の出身だったとかいうことになり、どこか違う空間に移動しても、依然としてその起源を続けるということになってしまう。  マサオ・ミヨシ X 吉本光弘、 『抵抗の場へ』

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過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)

日付閲覧数訪問者数ランキング
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越冬する セ イ タ カ ア ワ ダ チ ソ ウ @ しかも孤高派

2014年02月05日 18時51分22秒 | 草花野菜


 立春だけど、つくばで積雪7cm

「その存在が目立つようになったのは第二次世界大戦後で、アメリカ軍の輸入物資に付いていた種子によるもの等が拡大起因とされて」いる

アレロパシーを有しており、根から周囲の植物の成長を抑制する化学物質を出す。これはcis-DMEという名称で知られるが、この物質はセイタカアワダチソウ自身の成長も抑制する。

以上、wikiより。

花盛りで元気だった秋の姿 ↓ セイタカアワダチソウはぶわぁーと群生することで有名。
このセイタカアワダチソウは、孤高派。少数者の諸君! だけど、ちびっこ。 
ちびっこだけど孤派とはこれいかに。

小さくなって(関連愚記事; 小さくなって、すごいでしょう)、耐雪性向上!