いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

2008年回顧

2008年12月31日 20時35分04秒 | プロフィール
今年も終わり。って全然一区切りの実感はないのですが、一応回顧。

去年の大晦日、今の状況を全く予想できなかったし、来年の大晦日もどうなっているのかわからない。

2008年回顧のため自分のブログの今年分を通覧してみると、2月のインド出張なぞ遥か昔という印象。長いぞ1年。

来年の大晦日もどうなっているのかわからないので、来年もまめにブログでおいらの極私的状況とぐちやねたみやひがみを書くよ。



■内定取り消しの後、転職した。

それに伴い11年暮らしたアパートから引っ越した。

■出張った

2月 インド
12月 オランダ

■リアル世界で、おいらは今年、過去官僚(中央政府)の人と、元役人(地方政府)の子供から、別々の場面&似たようなシチュエーションで、「そういうこと言うのは、君の ひがみ だ」と公然と御指摘を受ける。

リアル社会でも、ねたみ・ひがみを出しまくりらしい。

■ブログを律儀?に更新

366日中、325日更新。 (内容は問わないでね。)

いろいろ頭に浮かんで、書きたいことがあったが、頭脳怠慢でまとまらず、指手怠慢で文章化できなかった。

■世界が進むのが速すぎ。

たとえば夏前に水野和夫の『人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』に触り始めたが、読み進められないうちに、「世界恐慌」になっちまった。

今年まとまって読んだのが、これまでその人物に関心がなく読んだことがなかった森嶋通夫(ウヨ的ステレオタイプでは、冷戦さ中、ソ連軍が侵攻してきたら白旗を上げて降参せよ!と主張した最悪のバカ サヨ。<but 文化勲章を授かっていた{いうまでもなく、文化勲章は天皇陛下から授かります} & 福田恒存から詫びを取った 経済学者&旧日帝海軍将校>) の素人向けの諸本。おいらも、バカサヨだろうと思って読んだら、大違い。吉田松陰(- - 武士の恥をしらざること今日に至り極まれり - - 「講孟箚記」)に肉薄する憂国の士にて亡国の徒なり。恐るべし。

自伝と日本没落論でとても考えることが多い。たとえば;

- - (ある大きい経済団体の)会長は、これからの日本の危機まど考えるような気がないような、楽観論だけを述べ続けた。日本で成功して高い地位についている人は、どうしてこんなに自己満足しているのだろう! - -  森嶋通夫 『なぜ日本は没落するか』1999年

そうなのだ、どうしてこんなに自己満足しているのだろう!というフレーズこそ、おいらが、愚民党や ぬっぽん・えすたぶりっしゅめんと へ向けてきた呪いのフレーズに他ならない。(上記、君のひがみだ、はこの 呪い への応答です。) さしずめ、「あなたとは違うんです!」と勝手に、かつ無根拠に、思い込んでいるから満足してんだろうけど。

 ニュース源

●まとめ; 来年こそ、愚劣ぬっぽんが亡びますように。 お月さまにそっとお願いしました。

年が変わらぬ前にぐちを......

2008年12月30日 22時04分59秒 | ぐち
年が変わらぬ前に今年のぐちを言っておかないと。

田母神騒動で一番の問題であることが改めて露呈した「村山談話」や中山大臣の放言のネタとなった「日教組」問題。

いわゆる「保守」派の人たち(ホントは絶対違うとおいらは睨んでいる)は、「村山談話」と「日教組」を目の敵にして、今の日本社会の諸悪の根源とみなしている。

実は、おいらもそう思う。「村山談話」や「日教組」なんか踏みにじればいいのである。重要な点は「踏みにじる」ことにある。事実、旧教育基本法を踏みにじることなく、ご丁寧に改正したが、世の中はもちろん、教育行政、教育現場はなんら変わらない。

さて、言いたいぐちは、「村山談話」は自民党も首班指名した村山富一さんが内閣総理大臣の内閣の成果物である。自民党は村山談話のA級戦犯だろうに。安部晋三さんだって麻生太郎さんだってみんな首班指名で「村山富一」って書いて入れ札したんだろう。

そういう自民党にこれまで特に文句を言うこともなく、今回の田母神騒動で村山談話を呪ういわゆる「保守」派の人たちって一体なんだろう。

このブログに相応しい品のあるたとえでいうと、眠たくてトイレにいくのが面倒くさいから(つねに政権にしがみついていたいから)、布団の横で うんこ して(首班指名で朝鮮労働党の友党である日本社会党の党首に入れ札して)、翌朝、あまりにくさいので、なんでこんなところに うんこ があるんだよー!と騒いでいるバカ者こそが、自民党系・田母神応援団に他ならない。

うんこ は、おまい がしたんだよ。

日教組も同様。中山って あほ か。自社さ政権で日教組は「政権与党」(w)の立場だぜ。おまいら、一緒に内閣張ってたんだべ。文部省と日教組は狎れあっているのは周知だろう。中山、おまい、現前の うんこ を罵倒するまに、頭の上に乗っけた うんこ を洗え。このタコ!


堀田正敦 @隠れ竹雀

2008年12月29日 18時56分12秒 | 仙台・竹雀・政宗

『鮭図』の高橋由一、つまりは幕末の開国に際しいち早く西洋に引き付けられた人物は下野(しもつけ)、今の群馬県の佐野藩のお武家さまでした。佐野・堀田家の藩主に堀田正敦(まさあつ、1755-1832)という人がいました。後述するようにロシヤ、オランダを通じて西洋への知見があった人です。自ら蝦夷地に地検に行って、知見を広めたそうです。したがって、由一の佐野藩には西洋愛好の家風があったことは想像に難くありません。一方、幕末の老中に堀田正(まさよし、1810-1864)がいます。蘭癖と呼ばれた現実・開国派です。今では、堀田家の老中で一番有名でしょう。正睦が子供のころ、堀田家の長老が正敦でした。


堀田正敦(ほったまさあつ) *1

■19世紀を目前にしていたころの1796年から19世紀に入っての1841年まで、仙台伊達家の藩主は次々と夭逝する。すなわち、1796年に8代藩主斉村(なりむら)が23歳で、1812年に9代周宗(ちかむね)が13歳で、1819年に10代斉宗(なりむね)が25歳で、1828年に11代斉義(なりよし)が30歳で、そして1841年に12代斉邦(なりくに)が25歳で死ぬ。

これだけ次々と藩主が若くして死んで、封建時代の藩の一番の存在理由は滞りない存続であるから、普通の藩ならとっくに改易されても不思議ではないだろう。でも、仙台伊達家は表高60万石(実態は百万石であったらしい)の大藩なので、幼年藩主を押し立て、なんとか体裁を整えた。 

■<仙台伊達家後見人 堀田正敦>
事実、この次々続く藩主交代において、連続する幼年藩主を幕府に認めさせ、9代から12代までの幼年藩主の後見役になったのが、堀田正敦という人です。

幕府の若年寄でした。当初のボスは松平定信。自分の領地は、最初は近江堅田藩、そして下野佐野藩へ転封。

■<堀田家長老 堀田正敦>

(コピペ)
堀田正睦は、 文化7年(1810年)8月1日、第3代藩主・堀田正時の次男として生まれる。

文化8年(1811年)、正睦が2歳のときに父が死去したが、藩主は嫡系(正時の兄の子)の堀田正愛が継ぎ、その後に正愛の養子となった。初名を正篤(まさひろ)という。

文政8年(1825年)、正愛が長年の闘病の末に病死した際には若年寄を務めていた堀田一族の長老・堀田正敦(近江堅田藩主)がその後見を務めていたが、藩政を牛耳っていた老臣・金井右膳らは正篤を嫌って正敦の子を藩主に擁立しようとした。だが、正敦がこれを拒否したために正篤が藩主に就任した。


ウィキペディア(Wikipedia)堀田正睦

つまり、堀田正敦は仙台伊達家と堀田の本家佐倉堀田家の危機のときに、管理・貢献した人です。

■ <対露施策、蝦夷地の管理者 堀田正敦>

当時危機だったのは何も仙台伊達家や佐倉堀田家ばかりではない。蝦夷地にロシアが来航。北方防備をしないと蝦夷地がロシア領になる。事実1806年と1807年にはロシアの軍艦が来襲、物品略奪、番人連行を働いた。この事件を契機に幕府は仙台伊達家に蝦夷地への出兵を命じ、翌月、会津松平家にも出兵を命じた。なぜ、仙台伊達家が国事で一番重要な国防の責務を負ったかというと、当時伊達家の後見人だった、幕府若年寄の堀田正敦が仙台に頼みやすかったと推定される。結局、仙台は2000もの兵を出した。

上記事件を受けて1807年正敦自身蝦夷地へ赴いた。

■<鳥学者、堀田正敦>

堀田正敦は鳥さんが好きだったらしい。禽譜という鳥図鑑を刊行しています。さらに蝦夷探訪の報告記もあります。

Amazon; 江戸鳥類大図鑑 THE BIRDS AND BIRDLORE OF TOKUGAWA JAPAN (大型本)

出版社 / 著者からの内容紹介

徳川幕府の若年寄、下野佐野藩主堀田正敦(1755~1832)の鳥類図鑑、いわゆる「堀田禽譜」を中心に、一部の失われた鳥の図を、この図鑑にゆかりの深い、同じ原図を含むものなど、同時代の鳥類図譜から補って構成したもの。鳥名およびその説明の部分と、古典からの膨大な引用は翻刻に止めたが、正敦による鳥の解説は現代語に訳し、それに加えて編著者が解説を施している。

内容(「MARC」データベースより)

江戸時代の大名・堀田正敦が執筆した鳥類図鑑「堀田禽譜」を中心に、同時代の鳥類図譜から引用した鳥の図などを補い構成した、豪華鳥類百科。美しい細密画に、正敦による解説の現代語訳と編著者の解説を施す。

■<幕閣42年やりました、堀田正敦>

'内務'として仙台や佐倉の面倒を見、’外務’として蝦夷地の国防を担った堀田正敦さんの若年寄在任は1790-1832年の42年に及びました。

■<で、堀田正敦、って誰だ?>

そんな大業を堀田正敦はなぜできたのでしょうか? そもそも堀田正敦って誰なのでしょう?

堀田 正敦は仙台伊達家第6代藩主の伊達宗村(1718-1756)の八男。庶子。運よく(?)近江堅田の堀田家の養子、娘婿になり、近江堅田の藩主となる。そして幕府に入り出世。つまりは伊達の殿様の子供にして幕閣だっちゃ。

徳川家幕府の主柱である老中家の堀田氏もよい養子をもらったものだ。政宗の血筋なので幼帝時代の仙台の管理も、地元の抵抗を受けることなくできたし、北方警備にも堀田 正敦の゛実家″である仙台伊達家にその軍役負担を押しつけることができたのである。

蛇足ながら、こういうことをしてきたから旗本は幕末には腐れていたのである。

それにしても、次々若死にする藩主がいる一方、77歳まで生きて42年も幕閣をやる人間もいるのであるから、人間は体力、知力の個人的資質に大差があることがわかる。

ウィキペディア(Wikipedia)堀田正敦

▼別の隠れ竹雀

*1、堀田正敦像、『仙台市史、通史編5、近世3』より転載。

ちなみにこれは朝廷儀式用の礼服だっちゃ。

▲若者への教訓;

どうだい!? 今からワシントンか北京へ「養子」に行って、

滅亡寸前の ぬっぽん の後見人を目指してみれば!


親方日の丸オールジャパン研究者ども  45億円で1報

2008年12月28日 20時30分11秒 | 日本事情
うめちゃんが撤退したので、ブログ書きます。

■人の不幸を嗤うという、このブログの本義たる下種なところを披露。

おいらは、12/14に書いた;

▼例えば、山中センセのiPS細胞のブレイクスルーはすばらしいのではあるが、その大成功の展開は,ちんけでつまらない「オールジャパン」なるものの形成だ。つまり、世紀の大発見なので当然政府は研究費を出す。なので、それに日本人のマウス屋さんからオタマジャクシ屋さん(?)までが研究費目当てに色めきたち群がろうとした。 でも、やるべきことは、「オールジャパン」なんて田吾作丸出しのことなぞせず、世界中から優秀なヒトiPS細胞研究者を日本に日本政府の資金で集め、山中センセを核として再生医学での実用化を目指すプロジェクトをなすべきなのだ。 そもそも、ヒトiPS細胞研究は米国でもほぼ同時になされ熾烈な競争が現在進んでいるはずであるが、米国のヒトiPS細胞研究者トップ数十人のなかでアメリカ人が何割いるんだろう?調べたわけではないが、多くが世界各国からやってきた俊才の任期付き研究員なんだろう。つまり、「オールUSA」などというケチくさい発想があろうはずもないのである。そもそも(2回目)山中センセ自身が米国のどっかの研究組織にも席があるんだよね(?)。 

果たして、

山中教授「日本は1勝10敗」 国内外のiPS細胞研究比較

論文掲載わずか1

 様々な細胞に変化できる「新型万能細胞(iPS細胞)」を作製した京都大の山中伸弥教授=写真=は25日に開かれた文部科学省の会合で、2008年の国内と海外のiPS細胞研究の進み具合を振り返り、「1勝10敗くらいで負けた」と語った。

 科学技術振興機構によると、主な科学誌に08年に掲載された国別のiPS細胞関連の論文数は日本の1本に対し、米国が8本、ドイツが1本だった。

 米科学誌サイエンスは、今年の科学研究成果の1位にiPS細胞関係を選んだが、山中教授は「評価されたのは、米国のハーバード大が病気の患者の皮膚などからiPS細胞を作製した成果。政府の素早い研究費の支援を受けたのに、日本の研究者はふがいない」と述べた。

 今年iPS細胞関連に同省から45億円の研究費が投じられた。
(2008年12月26日 読売新聞) 


山中教授「日本は1勝10敗」 国内外のiPS細胞研究比較

論文わずか1報というのは、NSCなどの超有力誌でのことだとは思うが、米国に大きく差をつけられているのは事実。

理由は、おいらの指摘したとおりだと思う。

45億円も使ってねぇ~。 うらやましいかぎりだよ。

まあ、来年以降陸続として「主な科学誌」で日の丸成果が閲覧できると信じている。

そうじゃないと、親方日の丸オールジャパン研究者は、単なる税金ドロボーということになってしまうではないか!



それでも、おいらは、毎週梅の木の写真を撮っていきます。49

2008年12月27日 09時51分31秒 | 筑波山麓


【いか@ 筑波山麓 『看猫録』】のアクセス・ランキング

アクセスとランキングの状況を表示します。
過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)
日付 閲覧数 訪問者数 ランキング
2008.12.26(金) 398 PV 120 IP - 位 / 1154822ブログ
2008.12.25(木) 418 PV 120 IP - 位 / 1154263ブログ
2008.12.24(水) 430 PV 116 IP - 位 / 1153746ブログ
2008.12.23(火) 397 PV 101 IP - 位 / 1153293ブログ
2008.12.22(月) 374 PV 98 IP - 位 / 1152762ブログ
2008.12.21(日) 361 PV 98 IP - 位 / 1152166ブログ
2008.12.20(土) 715 PV 120 IP - 位 / 1151606ブログ
過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)
日付 閲覧数 訪問者数 ランキング
2008.12.14 ~ 2008.12.20 4184 PV 1452 IP - 位 / 1151606ブログ
2008.12.07 ~ 2008.12.13 3154 PV 946 IP - 位 / 1147639ブログ
2008.11.30 ~ 2008.12.06 3347 PV 800 IP - 位 / 1143470ブログ


柑橘系もはじめました。

床次正精 『福山城』

2008年12月25日 20時49分42秒 | 筑波山麓



昨日の記事)「巨匠たちの足跡から、今、あらためて時代の潮流をふり返る
1st. 「日本近代洋画への道」 平成20年12月3日(水)~平成21年1月12日(月・祝)

の話の続きです。

この展示でおいらが一番気に入ったのは、床次正精(とこなみ・まさよし) 『福山城』。

さんざんネット上を画像を求めて探し回り、やっと見つけました。でも小さくて、本物のよいところがほとんど見えません。でも、雰囲気だけでも見てください。

どんな絵かというと、おいらは表現ビンボーなので、ひとさまの文章をパクリます;

明治初めの絵師武士・床次正精『福山城』 石垣の上にぽこぽこ城が建つ。岡鹿之助風な描き方で、しかもアンリ・ルソー的構図。 素朴派が日本にもこの頃?という感じ。実に可愛い。  ブログ・遊行七恵の日々是遊行 さま、記事「日本近代洋画への道」

ちなみに、岡鹿之助 ってこんな風。

はたまた; 技術の稚拙さや素朴さが、逆に魅力となっている例もある。例えば、独学で油彩画を習得した床次正精(とこなみまさよし)の「福山城」には、フランスの日曜画家アンリ・ルソーにも通じる、不思議な静けさ、詩情が漂う。 神戸新聞の記事; 「日本近代洋画への道」展に見る明治 神戸

アンリ・ルソーはこんな風。 なお、アンリ・ルソーの本物が一枚日動美術館にはあります。

■床次正精さんの『福山城』は大きな絵で、ともに黎明期の「洋画家」・徳川慶喜さんの小さな絵、それは床次さんの素朴な印象とは違いリアリスティックで渋い色調の風景画でした、のとなりに展示してありました。

●『福山城』が一番好きな絵だったので、床次正精を調べました。ネットでです。

薩摩藩士でした。 「 なぜ、旧幕臣は洋画を 」は底が浅かったです。

長崎で、西洋の船に乗り込んだとき洋画と出会い、画家になったとありました。

なぜ薩摩藩士の床次さんが長崎で西洋の船、それは英国船だった、に乗り込んだかというと、薩英戦争で英国の威力を思い知った島津久光に「おまえ、長崎で英国など西洋の軍事力の強さを見てこい」と指示され、薩摩から長崎に行ったらしい。そこで洋画と出会ったらしい。

慶応元年の十二月に島津久光公の命で、外国の事情を探りに藩士数十人づれで、長崎へ出張せられたことが有る。是れはつまり英艦と戦つた結果で、英艦はどうやらこうやら退却させて仕舞つたやうなものゝ、彼我の兵器は到底比べ物にならないことを悟つたのであつた。其処で、英人のガラハと云ふ者に就て、色々取調をされた。丁度英国の艦隊が碇泊して居て、床次君等一行の為めに態態湾内で演習をやつて見せたり、戦艦内へ導いて其構造設備の完全な所を示したりしたので、一行は大に敬服したそうだが。又一日ガラハが皆を招いて、大に饗応したそうだが、其時四壁に洋画の額が掛けてあつた。元より画好きの床次君の事であるから、直に其額に目が着いて、見れば見る程真に迫つて、只驚くの外は無かつた。是れが床次君の洋画の見初めで、亦是れから始めて洋画をやつて見たいと云ふ念も起つたのである。

と、床次さんは黒田清輝さんに語ったそうだ。 黒田清輝、「故床次正精君」に書いてある。


高橋由一、『鮭図』。あるいは、ヤン坊とマー坊を取り違える

2008年12月24日 20時04分59秒 | 筑波山麓
昨日の記事、まちがいです。昨日おいらが茨城県笠間の日動美術館で見た『鮭図』(下記)は、芸大所蔵の『鮭図』とは別の、山岡孫吉(ヤンマー創業者)コレクションの『鮭図』なのでした。



そうなのだ、高橋由一、『鮭図』は2つあるのだ。紙に描いたものと、板に描いたもの。
左が芸大所蔵。 右が山岡コレクション。 ふたつ揃って、鮭図だ。紙と板とで鮭図だ。


ブログ・「昼間の青い月 美術館・博物館めぐり 」さん、日本近代洋画への道(目黒区美術館)から、勝手に拝借しました。

▼恐るべし、ヤン坊マー坊の山岡。








なぜ、旧幕臣は洋画を

2008年12月23日 18時59分35秒 | 筑波山麓


高橋由一の『鮭図』(東京芸大所蔵)が今、茨城県笠間の日動美術館に来ているので、見に行きました。 
展覧会は洋画黎明期の作品を集めたもの。
巨匠たちの足跡から、今、あらためて時代の潮流をふり返る 1st. 「日本近代洋画への道」 平成20年12月3日(水)~平成21年1月12日(月・祝)

鮭図は「極端に縦長」で有名です。正面壁の真ん中に見えます。



公開時には、こんな感じだったらしいのですが;

東京藝術大学大学美術館がオープンしたのは確か1999年秋。その12月に、高橋由一の「鮭」を見るために、2時間並んでやっと入場できたことが、今でも鮮明に心に残っています。 ブログ・遊歩道、 高橋由一 『鮭』

今日はほとんど人がおらず、のんびり見物できました。お茶も飲めました。

近くで見ると、やけに鮭がのっている板の木目が生々しく異常に写実的で驚くも、そもそもこの絵は布キャンバスに描かれたものではなく、板の上に描かれたものと初めて知る。

■上に書いたように、展覧会は洋画黎明期の作品を集めたものですが、なんと慶喜の作品もありました。やや小さいサイズの油絵風景画でした。写真は趣味だと知っていましたが、油絵も描いていたとは知りませんでした。

書き忘れていましたが、高橋由一さんは徳川幕府の譜代の堀田家の分家の佐野藩(現在、栃木県の一部)の藩士でした。

▼鮭絵
この前オランダに行ったとき、鮭の絵を見ました。深紅の色合いが絵になりやすいのでしょうか。