いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

1968年革命 地球認識編

2016年07月31日 19時09分38秒 | その他

 ― でもあの月から見た地球の写真は魅力的でした。 ―


[1]  (『通販生活』の元ネタ ???)

なお、今の若い人は知らないだろうが、この当時、1ドル=360円である。この5ドルのカタログは当時の日本円で1800円。今じゃ、5ドルは、高々、500円だ。 

昔のことを知るのに難しいのは、昔に起きた事柄を理解することばかりでなく、その当時の当事者の認識状況がわからないことである。現在の普通の人の意識では当たり前のことでも、当時は画期的なことであり、そういう考えや認識を誰も持っていなかったり、少数派だったりする。

つまらない例え話でいうと、今は洋書を買うのに何の苦労もない。Amazonでワンクリックである。そして、すぐ来る。自宅に来る。30年前のおいらが学生の頃は全然違った。そもそも本のカタログがない。古典で書名が分かっていても、どこの出版社からいくらで販売されているのかわからない。新刊については、いわずがもなである。丸善に行って、電話帳みたいカタログを引く。注文する。納品まで数カ月かかる。そして、下宿に電話がないので、納品されたことを知らせる葉書を注文時に準備する必要があった。自分で自分の住所を葉書に書いて注文時に渡す。納品されると葉書が来てわかる。そして、丸善に歩いて行って、引き取る。 今思えば、丸善に歩いて行く距離は、今では歩く気になれない遠さではある。当時は、元気に、歩いて行ったのだ。1980年代中半、今から見ればバブルの時期である。

と、たとえ話が滑って関係ない話になった。つまりは、ネットのない時代というのがあったのだ。

話を戻す。1968年革命 地球認識編。1980年代中半、団塊の世代・"全共闘世代"[2]のすぐ下の世代が助教授(今の准教授)がとなり活躍しはじめた頃、自分たちの若い頃(高校生あたり)の印象深い思い出としてアポロ・プロジェクト、月面着陸を話す人を複数おいらは見た。

[2] "全共闘世代"の人は、結果的に、研究者にならなかった(ようだ)。

その時だったか知った。アポロ・プロジェクトの意義は直接人類(ってか米国人のみだが)月に行って帰って来たこと、あるいは、月表面の物質を持って帰って来たことばかりでなく、地球外から見た地球の姿を人類に示したことであったと。ある種のコペルニクス的転回である。 地球も「月」であると語った画像がこれ;


Google 画像

海洋と大気がみえるこの像も今では誰も感嘆しない。当たり前だからだ。今では、自分たちの上の空は気象衛星で毎日外から見れる。

今の常識とは全然違う1968年はこういう時代であったと知った。 この本に書いてあった;

 われわれが生活全般の革命を目指した時に、アメリカの『ホール・アース・カタログ』に刺激を受けたことがあります。それはただの商品カタログに過ぎませんでしたが、私たちはもっと自分の手仕事を増やすことで買うことを減らしていけると考えていました。でもあの月から見た地球の写真は魅力的でした。
津村喬、『戦略とスタイル 増補改訂版』、2015年、航思社 [3]

■ まとめ

本に出てくる知らない固有名詞もネットでググレばすぐわかる。アメリカの『ホール・アース・カタログ』も今知った。

半年前に老舎を知って、これまでがきんちょの頃から読んだ本を再読すると、「老舎」という言葉がぼろぼろ出てくる。それらの本は確かによんだのだ。さらには何度も読んだものもある。これはどういうことかというと、おいらは、いままで、老舎をスキップしてきたのだ。読書というのはこちら側が持っている言葉、知識に応じて立ち現われるのだ。バカがいくら本を読んでも、バカ相応にしか読み取ることができないのだ。 (愚記事

知らない固有名詞はすぐググれ! いい時代だ!!!(???=読書が進まないよ)

[1] 君は伝説のカタログ「Whole Earth Catalogue」を知っているか?

[3]

【著者より】

 68年を境に、左翼でも新左翼でもない、決定的に新しい質の左翼が登場しました。それが全共闘です。
 全共闘については多少混乱していて、2つの全く違った意味がありました。
 ひとつは、60年代初頭までの全学連と同じスタイルを持った、革マル系、第四インター、ブント、解放派、中国派や構造改革派のほか、のちに中核派も全共闘を名乗ったこともあります。
 しかしそれらとは違って、まったく新しい組織原理を全共闘が意味している場合がありました。
 まず彼らはノンセクトであり、セクトに従わないことに大きな価値を見いだしていて、「一人で決断する」「一人が参加しても集団は変わる」ことを原理に、状況によってたえず離合集散するけれども、前衛の役割を果たす。
  ですから党派の統一戦線としての全共闘と、諸個人の機能を指している全共闘には明確に区別をつけてほしいのです。それが大量現象となったことに、「68年 以後」の新しさがあるということです。本書はこの時代の「全共闘」の存在原理を確立しようとして書かれた本なのです。(…)
 本書は、国家を離脱 した人にこそ読んでほしい本です。まだそこまでいかずとも、意識の上で離脱した人々に。そして離脱しても、毎日の起居振る舞いと食生活は当然に続いてい て、そのレベルでの「日常生活における管理と脱管理との、支配者のスタイルの模倣と脱出者のスタイルとの闘争」がまさに永続的に続いているのです。

――「新版まえがき」より

出版社広告より

 


新しい街でもぶどう記録;第92週

2016年07月30日 22時00分01秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫


「わちきらのえさ代をしっかり稼いで来いよ!」とおいらを見送る愚猫ども

■ 今週のよその猫


東京都、江東区

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の花葉

■ 今週の御野立所 (おのだちどころ)

  
東京都、江東区、富岡八幡宮境内

の‐だて【野立て】      

1 貴人が野外で駕籠 (かご) などを立ててしばらく休むこと。のだち。     

2 大演習などで野外に設けた天皇の休息所。御野立所。のだち。  (引用元

 今週の富岡八幡宮 (東京都江東区)

 「御野立ち」の様子;

 
内務大臣より説明を受けるひろひとさん。 これが富岡八幡宮境内の「御野立所」の碑の由来らしい。下記動画よりカトコピペ。

⇒  関連愚記事;  皇国の荒廃この一帯にあり 
         
;  終戦ピクニック計画つまり、<主権者>は、ひろひとさんをして焼け野原を歩かせしめ、さらには、動画映像で記録させたのだ。

■ 今週の行幸啓記念碑

ひろひとさんは「行幸」ではなかったらしい。そして、あきひとさんとみちこさんは行幸啓なのだ。

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「反日」思想の源流;津村喬拾い読み

2016年07月28日 19時59分59秒 | 日本事情

最近、自分の誤解に気づいた。

いわゆる「南京大虐殺」をはじめとする大日本帝国(以下、日帝)の「侵略」戦争糾弾と当時者責任としての日本人糾弾は、結構、最近(といっても 四 半世紀前)の1970年7月7日からだったとの指摘。

おいらは、戦後ずうーっと、日帝の「侵略」戦争糾弾が行われてきたと思っていた。なぜなら、おいらが物心ついた1970年代後半からそういう反日的雰囲気であった。おいらが利用できる図書館にある本の世界は。そして、新聞なども。

こういうことに特に疑問を持たなかった。なぜなら、日帝の「侵略」の象徴であるいわゆる「南京大虐殺」などは東京裁判で責任問題となっていたからだ。いわゆる、東京裁判史観。くりかえすと、戦後ずっと東京裁判史観が日本を支配してきたというのが1980年初頭に中二病だったおいらの記憶。

事実、1963年に刊行された石田保昭、『インドで暮す』に書いてある;

 敗戦は悲しかった。中学にもどってふたたび勉強をはじめてはみたが、私は疑惑からのがれることができなかった。私が信じていた皇国と陸軍の栄光はくずれて行き、みにくい素肌が露出されてきた。一九三七年の上海上陸から南京までの道を、残虐のかぎりをつくしながら「皇軍」の進撃がおこなわれたことや、南京占領直後の大虐殺の事実などを私は知った。
 「皇軍」という心のよりどころをうしなって冷静に考えてみれば、満州事変いらいの日本の歴史は中国侵略の歴史だった。そのあいだに大陸の戦場にたおれた幾万の同胞将兵、そして、日本軍の戦死者の数倍、数十倍の罪なきアジアの民衆が、戦火の犠牲になっていったことも、かくしきれない事実だった。天皇は安奉だった。日本の戦争指導者たちは責任を回避するのに一生懸命だった。私はあのまま陸軍将校になっていたら、やはり、中国の人びとを殺すのに力をかしていただろう、と思うのだった。

ということで、戦後ずっと東京裁判史観が日本を支配してきたという印象をもっていた。

さて、反日運動。東アジア反日武装戦による三菱重工爆破事件は、当時小学生だったおいらの、記憶にある。

かの小谷野博士の記憶にもあるらしい(愚記事;小谷野敦博士[#1]の『ヌエのいた家』(文學界 9月号)を見たら書いてあったより);

ちょうど二百十日あたりの、涼しくなりかけの、どんよりとした曇りの日だったように記憶する。すると母から電話が掛かり、爆破事件のことを聞かされ、お父さんの会社も近いけどと言われて、どきんとした。 『ヌエのいた家』

ただし、おいらは、自分の街の、和人のアイヌ領侵略支配を攻撃する北海道庁爆破事件の当日の事件を知った瞬間の記憶はない(関連愚記事がきんちょのとき起きた道庁爆破事件は知っている。そして、どうでもいいことだが、おいらは大森勝久さんを見たことがある。)。

今思えば、もし、戦後ずっと東京裁判史観が日本を支配してきたのであれば、1950年代や1960年代に反日テロ事件が起きてもよかったのだ。

実際は違ったらしい。すなわち、1970年7月7日の「華青闘告発」までは、新左翼も含め、日帝に「侵略」のオトシマエをとらせるという行動にはでていないばかりか、自己中心的なナルシシズムに耽っていたというのだ(絓秀実、『1968年』)。

最近初めて、津村喬の本を見はじめた。そして、気づいた。これらは、『反日革命宣言 東アジア反日武装戦線の戦闘史』のネタ本だと。

1945-1970年の間、ぬっぽんずんは特に「中国侵略」の詳細を自責的にとらえて、何かしらほとばしる行動はとらなかったようだ。そういえばそうだよな。60年安保とかの記録で、日本の過去の侵略戦争のオトシマエをつけろ!とか云ってないよな。

何より、戦後って、米英撃滅国民大会を主催した新聞各社がそのまま生き残って活動してるんだから。

つまり、現在に流行の反日思想の源流は東京裁判ではなく、「津村喬」だと。

絓秀実さんにより、1970年7月7日の「華青闘告発」の大きな理論的貢献者とされているのが、津村喬。

もっとも、津村喬自身こう云っている;

絓秀実さんが、入管闘争でぼくの役割が非常に大きかったように書いてくれましたが、実際にたいしたことはしていません。その経験を思想的に総括をしたとはいえるかもしれませんが。

インタビュアーの「一九七〇年の七七シンポが日比谷公会堂であったさいに華青闘が反対集会をします。津村さんは華青闘に傾斜したスタンスだったと思いますが。」という質問に答えて。
馬場公彦、『戦後日本人の中国像 日本敗戦から文化大革命・日中復交まで』

その津村喬拾い読み(1968年6月21日付の津村の文章);

 われわれにとって戦争体験とは、そして戦争責任とはなんであろうか?
 かつて権力に「芦溝橋事件」を許し、国家=天皇制という民族共同体的幻想に眩惑し、銃を中国の兄弟たちに向けたわれわれの祖父、父たち、そしてその世代によって遂に解決されぬままの「意味」を負わされつつ「戦後」に生き始めたわれわれは、沖縄核武装化、日帝のベトナム侵略参加の現実の中で、どこまで図々しくも被害者を演じうるか、御都合主義の、あまえきった「国際連帯」を「支援」を「友好」をとなえつづけるのか!
津村喬、七・七(芦溝橋事件)三一周年早大宣言、『魂にふれる革命』、第三部 日本文化大革命への模索

 今、Amazonで高い

 どこまで図々しくも被害者を演じうるか、御都合主義の、あまえきった「国際連帯」を「支援」を「友好」をとなえつづけるのか!ってすごい啖呵だよね。でも、ホントそうだよね。米英撃滅国民大会を主催した新聞各社が平和と民主主義を唱えてきたのが戦後。今では、日帝侵略(元)子供が、平和と民主主義を唱えている!(今朝の文化放送のラジオのコメントで云っていた、アジアの部外者である米国を呼び込んで)中国さまに逆らうな!

こういう言い分; どこまで図々しく御都合主義の、あまえきった考えをしつづけるのか!は、1945-1970年の間はなかったらしいのだ。ホントなんだろうか?

調査は続く。

ところで、これは中二病の頃からうすうす感じていたんだけど、「自分は日帝侵略兵士の子供だから、親をしばいた!」とか、あるいは逆に悩んでいたとか、はたまた、「自分は日帝侵略兵士の子供だから恥ずかして生きていけないから自殺する」とかいう話はきかないよね。おいらが知らないだけなのかもしれないが。もっとも、米英撃滅国民大会を主催した新聞各社が恥知らずに存続してるんだからね。

● まとめ

どこまでも図々しく、御都合主義の、あまえきった自分で渡世するぬっぽんずん!


(今はない)札幌石川書店(古書)支店;南4西2

2016年07月26日 21時50分41秒 | 札幌

以前書いた(愚記事: 札幌老舗古書店の サッポロ 表記  );

なお、昭和末には石川書店は2店舗あった(はず)。南四西四の本店?と、西二丁目(南四条)あたり。この情報は、今、ネットでみあたらない。

Google [札幌 古本屋 石川書店 閉店]

西二丁目(南四条)あたり」がわかった。値段の表示が本店(南4西4)と支店(南4西2)とでは、ちゃんと、違ったのだ;

↓ 本店値段票

のんべんだらりんと本を見ていたら、気づいた。

ペグマンで今の状況を見た;

このパタゴニアアウトレット札幌南のビル、あるいは向かって左の更地駐車場あたりに石川書店の南4西2支店はあったと、おいらは、思う。




agitated スタイル; 様々なる帝国本国人どもの衣装・意匠 [styles!] @ 1967; 日米比較

2016年07月24日 19時53分29秒 | その他

 

 わたしは六一年二月、ミサイル試射場の設置をめぐって争いの続く新島にいったが、島に泊まり込んだ右翼と島の設置賛成派の青年たちが、一様にヘルメットをつけて投石したりするのを、異様な印象でみつめた。ヘルメットは日本でも、まず暴力とおどしのシンボルだったのだ。これらの経験をつんで、学生、労働者のデモ隊がヘルメットをはじめてかぶったのは、一九六七年秋、佐藤首相の南ベトナム訪問に反対する羽田闘争のときである。それは「整然たる統一行動」か「一点突破」かという、六〇年以来の不毛な対立をこえる大衆行動の方式をきりひらき、新左翼の起点となった。翌年から全国にひろがった学園闘争や街頭行動に、ヘルメットはたちまちひろがっていった。
針生一郎、「ヘルメット考」、『文化革命の方へ』 (赤太字下線調 いか@)

 実際この社会では、あらゆる行為がいつの間にか現実感を奪われてしまう。学生の暴力行為が「革命ごっこ」としか見えないのは、かならずしもテレビのせいだけではない。彼らの反体制運動が、一九六七年秋以降過激化してとどまるところを知らないのは、彼らにあの手の届かぬものに対する欲求があり、何かを経験したいという渇望が熾烈だからであろう。しかし皮肉にも、行動が熾烈になればなるほど彼らの目的は遠くに飛びすさり、経験への渇望は決して癒されることがない。彼らは真剣に革命を志向し、手応えのある経験を求めたのに、気がついてみると一切は「ごっこ」の世界に括弧でくくられてしまっている。
江藤淳、 「ごっこ」の世界が終ったとき  (赤太字下線調 いか@)

 僕が口上として、「世界の常識を覆すような漫才をやるために、この道に入りました。僕達が覆せたのは、努力は必ず報われる、という素敵な言葉だけです。」
又吉直樹、『火花』  (赤太字下線調 いか@)

  津村喬関連で『戦略とスタイル』を図書館から借りた。見た。今は手元にない。よくわからなかった。拾えたイメージは標題の『戦略とスタイル』のスタイルという鍵語句。スタイルとはあのゲバ学生の格好;ヘルメットに角材ゲバ棒という衣装・意匠のことらしい[google画像]。おいらが生まれたばかり頃の出来事で、よくわからないが、後世から見て「過激派」と呼ばれるあの格好は1967年10月8日の羽田事件で、歴史に、登場したらしい。そして、それは画期的なことだったらしいのだ。その画期さにうれしくなったのが芸術評論家の針生一郎(上の引用文)。


helmet over your hair

 背景はベトナム戦争。当時の「日本」は米国のベトナム戦争の前線出撃基地。米国統治下の沖縄からは北爆(北ベトナムの空爆)のためのB52が出撃し、当の東京では横田基地など米軍基地で骨休みしていた米兵が東京の巷の酒場で遊んでいた。今すぐ引用できないが、西部邁の文章で酒場で米兵とすれちがう話があった。西部の友達が酒場で米兵に”How many Vietonamese did you kill?” [google画像] と聞いたことに、無神経だなあという趣旨(だったと記憶している)。

 おいらから見ておもしろいのは、当時の新左翼(大学紛争当事者の学生)は、巷の米兵をしばいたりせず、首相=日本政府の対米協力に対し、訪越阻止という象徴的=パフォーマンスとして反対していたのだ。理由は簡単で佐藤栄作はやさしいお父さんの象徴であり、多少反抗の素振りを見せても、おれさまたちはお勉強ができる学生さまであり、結局は許されるという甘えた気持ちを復員兵の子供たち=団塊の世代=当時の新左翼の学生はもっていたからに違いない、とおいらは邪推している。実際やったことは機動隊(同世代のにいちゃん)を角材で殴ることでであった。

 もし、ホントに米兵をやっちまったら、すぐさま、米軍政が実施されただろう。もちろん、マッカーサー憲法は、あれは冗談でした!と新米軍政が云うだろう。そして、米兵をやっちまった新左翼(大学紛争当事者の学生)は、すぐ射殺。交戦権を放棄した政府に存続する契機はないのである。ウヨ(三島由紀夫)・サヨ(全共闘・新左翼)ばかりが「ごっこ」なのではなく、ひろひと天皇・日本政府が国「ごっこ」だったのである。そして、今もそうだ。

 つまりは、ウヨもサヨも天皇も政府も、米国を自分たちの自由を奪っている掣肘者であることを、実は、わかっていて、それに弓をひくことを禁忌としていたのである。その象徴が、原爆やむを得ない発言である。

 さて、その米国。日本で夷を焼いた末に、憲法制定権力として君臨し、無辜を数百万人焼き殺したのに、日本国天皇から叙勲されたかのルメイ様率いる米軍が、次なる「日本」(=「野蛮」な社会を征服しても問題ない)として、越国を標的として、B52による無辜焼き殺しに勤しんでいた。

 その一方、米国による越国征服の前線基地の日本でゲバ学生が暴れはじめた年、1967年。太平洋の対岸の米帝本国での俗謡は唄っていた:スコット・マッケンジー "花のサンフランシスコ" (原題はSan Francisco (Be Sure to Wear Some Flowers in Your Hair) );

If you're going to San Francisco
Be sure to wear some flowers in your hair
If you're going to San Francisco
You're gonna meet some gentle people there

words by John Phillips [wiki]

   もしサンフランシスコへ行くつもりなら
   必ず髪に花をさすんだよ
   サンフランシスコへ行ったなら
   きっとやさしい人たちに出会えるはずだから [引用元]

(赤太字強調 いか@)

 
   flowers in your hair [google画像]

Be Sure to Wear Some Flowers in Your Hair [google画像]

なお、gentleのantonymsを引くと、筆頭にagitatedと出た。

● まとめ

1967年日本の一部若者(その少なからずが復員兵の子供たちである)がagitated peopleで、戦争で死に損なった元日本浪漫派の文化人にアジられた(agitated)のであった。

 

 


新しい街でもぶどう記録;第91週

2016年07月23日 17時10分11秒 | 草花野菜

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洗たく処 (東京、墨田区)

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「野蛮」な社会を征服しても問題ない;あるいは、西園寺一晃[サヨ]と恵隆之介[ウヨ]の共有舞台

2016年07月21日 21時36分04秒 | その他

あの西園寺一晃 (関連愚記事: 「みんなありがとう」 ぼくは..。日本人最初?の紅衛兵、最後は孔子さまに到る、あるいは公望の成果)のインタビューがネット上にある。

その中で中共のチベット征服に言及し、「野蛮」な社会を征服しても問題ないというかごとき見解を示していて、興味深い;

西園寺 :  まぁ、これは適当かどうかは別として、チベット問題というのがよく報道されていますね。
  日本の一般の国民の中にはこういう認識があるんです。チベットの人たちは抑圧されている人たち。 中国人とか中国共産党は抑圧者。ダライ・ラマは民主主義と人権の代表者だと。これを中国が虐めてると。 こういう図式で報道しているんですよ。 ところが私はある時に、私が元居た新聞社の後輩の若い記者に、君ね、1959年にチベットで何があったか知ってるか? と聞いたところ、知らないと答えました。1959年以前のチベットというのは農奴性社会だったんだよと。 酷い農奴性社会で、その頂点にいたのがダライ・ラマだと。そんなことがあったんですか?と言う訳ですよ。 まったく何も知らないんです。だから記者もね、若返っちゃって歴史を知らない。 だから非常に問題があります。

(引用元; 西園寺一晃 院長 インタビュー 2012年)リンク切れ

1959年以前のチベットというのは農奴性社会だったんだよと。 酷い農奴性社会で、その頂点にいたのがダライ・ラマだと。

そう云っているのである。 西園寺公望の御子孫さまがである。

ところで、他人のこと(=支那共産党国家=共産帝国主義)はさておき、やはり、関心事はわれらが日帝である。

われらが日帝の「琉球王国併呑」(関連愚記事; うたかたの琉球領  )について、

ある人々、特に、現状沖縄県の「保守派」= 愚民党 自民党系の論客は云う;

Google [琉球 農奴] と。

おいらの記憶では、この人=惠隆之介[wiki]さんが、云っていた。

琉球王朝は農奴社会だった、と。

● まとめ

「野蛮」な社会を征服しても問題ない、のだろうか? それとも、当然なのだろうか?、いや、文明社会の義務![1] なのだろうか?

やはり、日支は、糾える縄の如し!

[1]  文明社会の義務!

 


呉智英さんのお父さんはトヨタに勤めていたのかな?

2016年07月19日 23時00分25秒 | 日本事情

 

今夜もどうでもいいことです。

 父がいつも留守がちだったのは、海外出張が多かったからである。
 私の小学生である五〇年代は、いわゆる「戦後復興期」であるが、その五〇年代の大半を、父は、中南米ですごしていた。父の勤めていた会社は、現在でも日米貿易摩擦の中心と見られる会社で、当時から、海外進出に力を入れていた。ただし、その頃は、アメリカのような先進国にはまだ進出せず、中南米が中心であった。父が二年行っては三カ月帰国し、三年行っては半年帰国するというように、いつも単身出張していた国は、メキシコだった。
呉智英、『大衆食堂の人々』、12 オルテガたち―少年の、そして大人の、1984年

1970年代後半、1980年代初盤は日米貿易摩擦が絶頂に達した。1979年に大来外務大臣はワシントンの雰囲気を開戦前夜といった。上の呉智英さんの文章はそういう時代のもの。日米貿易摩擦の最大懸案が自動車問題。上の文章から呉さんのお父さんは自動車会社に勤めていたと推定できる。そして、呉智英さんは尾張の出身だ。もう、トヨタに間違いない(???)。

話が飛んで、津村喬さんは呉智英さんの「天敵」だ(愚記事呉智英さんから全共闘の恥部と呼ばれていた津村喬)。

その津村喬さん(1948年生まれ、当時22歳)の1970年に書いた本に、「関 曠野」(1944年生まれ、当時26歳)[wiki]が引用で出て来た。

なお、もし、呉智英さんのお父さんがトヨタに勤めていたとしたら、こういう文章がある。関 曠野による1985年のもの。

日米貿易摩擦の深刻化とともに、一九八五年は日米関係が戦後最大の転機を迎える年となることがはっきりしてきた。ちょうど戦後四十年にしてこうした事態が起きていることは、偶然とは思われない。(中略)
 私がこんなこと[戦争は資本主義経済に深くビルト・インされた現象である]をいうのも、戦後日本の「平和と民主主義」とか「繁栄」なるものが、やはり二重三重に戦争に規定され戦争の影の下にあることを改めて強調しておきたいからに他ならない。(中略)
 今日の超大企業トヨタ自動車を倒産寸前の状態から救った朝鮮特需については、今さらいうまでもないだろう。
関 曠野、「小判ザメ民族の戦後の終わり」 『野蛮としてのイエ社会』

こういう左翼流が嫌で、封建主義者になったのかな?呉智英さん。

呉智英さんのお父さんの話にもどって;

1950年代で中南米に貿易の仕事。すなわち、スペイン語屋さんだったのだろうか?そして、呉智英の生年1946年から推定して、呉智英の御尊父は戦争に行った世代の可能性がある。少なくとも、教育は戦前に受けて、戦前に職業についていたのだろう。呉智英さんの御尊父は戦前何をしていたのだろうか?呉智英さんの「インテリ」性は生育環境のものと思われる。つまり、呉智英さんの御尊父も何かインテリ、あるいは戦前では少数派の中産階級だったと思われる。そして、スペイン語。呉智英さんの御尊父はこれ関連?。大きく邪推してみた。

● まとめ

呉智英さんは黒類。津村さんは赤類。

なので、呉智英さんは、サラリーマンにやさしい;

資本主義の会社に勤めている人。何の恥ずかしいことがあろうか。がっちり儲けて、そして読書をしてほしい」(呉智英、『読書家の新技術』、1982年刊行)[愚記事]

でも、全く恥ずかしさのないものに「何の恥ずかしいことがあろうか」とはいわないよね。やっぱ、...

 

 


ホワイトハウスに行きたかった毛沢東と周恩来 @1945

2016年07月17日 19時50分06秒 | 中国出張/遊興/中国事情

およそ六十年間にわたる公人としての生活の中で、私は周恩来よりも人の心をつかんで離さない人物に会ったことはない。
  『キッシンジャー回想録 中国 (上)』 第9章 関係の再開 [愚記事]

本に書いてあることなので、とっくに公知なのですが、ネットにあまり見ない情報なので、コピペします;

下記コピペの前述要約: 1944年6月 [まだサイパン島は陥落していない頃] 米国大統領は副大統領を中国に派遣。蒋介石と協議。対日戦争について。米国は国共軍支援のため米軍の中国大陸上陸を考えていた。この時、米国は、蒋介石が反対しなかったので、米国使節団(正式名:合衆国陸軍監視団)が延安(毛沢東がいた中国共産党の拠点です;[十八君のために])との接触を始めた。

 以上のような積極的な米国側の提案に勇気づけられ、毛沢東と周恩来は、一九四五年一月九日、延安のデキシー・ミッションを介して重慶のアルバート・C・ウェデマイヤー司令部宛てに、直接「最高の合衆国公官」に次の申し入れを行うことを求めた。すなわち、毛沢東と周恩来がワシントンを訪れ、「第一の中国政党の指導者」としてホワイトハウスでローズベルト大統領と会談したい旨の明確な意思表示であった。
永井陽之助、『冷戦の起源』

ちなみに、この時点で毛沢東は外国というものに行ったことはない。毛沢東の生涯 一度 二度の海外旅行はモスクワ参りのみ。なお、周恩来はわれらが筑波山にも来ている (愚記事; 中国の故周恩来元首相が日本留学中、茨城県の筑波山に登ったと、故木村 操元つくば市長が自伝に記していることが分かった)。


白亜館に行きたかった二人


心をつかまれなくて済んだ人

 


新しい街でもぶどう記録;第90週

2016年07月16日 21時54分15秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫


ベールに覆われたるみけちゃん


顕わになったみけちゃん

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の西班牙料理屋


料理屋 コシード


 

関連愚記事; 立ち食い生ハム屋

■ 今週の反立憲主義

臣民をして法改正をせしむように発意。

もちろん、この発意は国事行為ではないし、政治的行為なので、憲法違反。

やった。 ついに、すめろぎさん、マッカーサー憲法の踏みにじることに!

関連愚記事もちろん、おいらはマッカサー憲法なんてろくに読んだことないし、心底、憲法や教育基本法なぞ踏みにじればいいのだ!と常日頃考えていてやむことがない。

もっとも、この報道(生前退位)がデマかもしれない。

■ 今週の古本屋


高原書店

絓秀実ではなく、糸圭秀実 さんの対談が載っている雑誌『状況』も買う。

■ 今週の50年; 毛沢東長江を泳いで見せる

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