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水上陽平の独善雑記

水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」

「迷想中・迷走中・1317」

2024-08-11 21:21:14 | Weblog


ある気功師・922

心は広がるほど、
柔らかくなるほど、
明るくなるほど、
愉しく生きられる。
難しい哲学は要らない。
愉しい人生を体験する為に生きている。

「相思」がオープン系ならば、
「相思」の癖を付ければいい。
思う相手が多いほど幸せな時を過ごせる。
コツは「多くの相手」であり、限定しない。

相手は人に限らない。
人相手は「愉しくない相思」になりやすい。
壮大な「相思」は宇宙や自然。
無人島でも多くの「相思」に満ちている。


(本館は、HP「気の空間・気功療法院」検索
 ブログだけなら楽天「水上陽平の独善世界」検索が読みやすい)

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「迷想中・迷走中・1316」

2024-08-10 20:57:47 | Weblog


ある気功師・921

「相思」は閉じた関係だと思われてしまう。
「男女の秘めた想い」のイメージを引きずる。
ところが、これが全くの逆!
「相思」はオープン系の行動なのだ。
「共通の通路」が出来てしまうのだから、
否応無しに、心を開けてしまう行為だ。

人間の生き方なんて「癖」で左右する。
心で思っていても、理屈で解っていても、
「癖」が優先してしまう哀しい動物なのだ。
振り返ってみれば思い当たる事ばかりだろ?
ならば「癖付け」で新たな方向にもいける。
しかも・・・付けてしまえば「楽」だ。


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「迷想中・迷走中・1315」

2024-08-09 21:25:06 | Weblog


ある気功師・920

「生命」は「興味津々」に贔屓をする。
いろいろに反応するほど、イキイキする。
赤ちゃん、幼児、子供の頃を思い出すがいい。
何にでも関心を示す事は生命力に満ちている。

知りたがり。
やりたがり。
想像したがり。
夢をもちたがり。
それが生命力を上げる。

逆に無関心が増えるほど「生命」は衰退する。
早く老化し、早く長く苦しみたかったら、
遠慮せず「無関心」に励めばいい。
表面(世間)だけ関心があるフリをしても意味がない。
無関心はその人だけが知っている。


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「迷想中・迷走中・1314」

2024-08-08 20:53:43 | Weblog


ある気功師・919

この世に生まれて意味の無い行為が一つだけある。
その他は、どんな行為にも意味がある。
意味は過去か今か未来かに分かれる。
今、意味が解らなくても、未来に解る事など沢山ある。
否、そのほとんどは未来に意味が生じるのだ。

たった一つの「意味無い行為」は「無関心」
意味とは存在の価値。
生きる事に関係する質と量。
意味が無いのであれば、存在の価値も無い。

だが、この世は意外と親切な仕組みでもある。
アホが前提の人間を創ったのだから間違いばかりだ。
その「方向性の間違い」の自動アラーム装置がある。
「苦しみ」という装置が備わっている。


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「迷想中・迷走中・1313」

2024-08-07 20:36:03 | Weblog


ある気功師・918

「相思」は「相愛」と熟語になる。
「相思」は表面の意味でなく、深い意味で「相愛」になる。
どんな思いでも「相思」は「相愛」だ。
憎い、嫌な相手でも「相愛」になる。

「好き」なだけが「愛」ではない。
嫌な相手、憎い相手を思う事は、
「愛したい、仲良くしたい」からなのだ。
(認めたくないかもしれないけど、ホントだよ)

「愛」の反対は「憎しみ」ではない。
「愛」の反対は「無関心」なのだ。
どんな内容でも「思う」のは「愛」と同じ。
「相思」は「相愛」の意味を含んでいる。


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「迷想中・迷走中・1312」

2024-08-07 00:00:17 | Weblog


ある気功師・917

言葉はウソで飾れる。
心はウソがつける。
顔も行動もウソが出来る。
でも「氣」はウソが付けない。

そして「通路」は「氣」しか通れない。
この通路は誤魔化しが出来ないのだ。
真の世界に秘密もウソも通用しない・・・
表の世界は秘密とウソで成り立っているのだが・・・

嫌な相手と「相思」になってしまうなら、
ウソも付けない「通路」が開いてしまうなら、
開き直ってしまおうぜ。

「こうなりゃ、ヤケだぁ・・・。
好きな事、好きな相手、明るい思いで生きてやる!」
開き直るって、こういうことだ。
暗く生きる事じゃない。


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「迷想中・迷走中・1311」

2024-08-05 20:55:14 | Weblog


ある気功師・916

ネットワークとなると責任重大だと思わんか?
個人的な「相思」によって開いた通路。
「相思通路」を次々に渡り歩く可能性がある。
世界中に影響する可能性がある。

個人から発する「明るい思い」は「明るい氣」となる。
「暗い思い」は「暗い氣」となって通路を走る。
同波動は共鳴する。
類は友を呼ぶ。

「明るい氣」は「明るい氣」を呼び、
「暗い氣」は「暗い氣」と共鳴する。
「明るい氣」に囲まれた個人と、
「暗い氣」に閉じこもる個人。
世界は個から創られ、個に戻る。


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「迷想中・迷走中・1310」

2024-08-04 20:59:14 | Weblog


ある気功師・915

世界がどう創られているか?
いろいろな表現があるだろうが、
「相思」によるネットワークともいえるだろう。
多種多様なモノ達が、それぞれに繋がっている。
そして、そこから先も「相思」で繋がっている。
離れて観れば、世界は丸いネットワークだ。

人であろうと動物であろうとモノであろうと、
「相思」関係の無い存在はありえない。
孤独というのは心の中の勘違いの言葉だ。
この世にあるモノ全て「思い合って」いる。
だから、それぞれは共通の「通路」がある。
その双方向に「氣」が行き来している。


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「迷想中・迷走中・1309」

2024-08-03 22:07:53 | Weblog


ある気功師・914

この仕組みには、さらに困った事がある。
片方からだけなら「一方通行の思い」のはずなのに、
相手側の通路のドアを叩いてしまうのだ。
ドアも叩かれ続ければ、つい、開けてしまう。

「片側からの思い」も続ければ「相思」になりやすい。
必ずなる、わけじゃない。
気にしない、氣の相手をしない場合は世界が違う。
だが現代は他の評価、他の言行ばかり気にしている。

「好い思い」より「嫌な思い」を優先しがちな現代人。
「アホな陽気」より「考える陰気」な優秀者ばかり。
一人からでも「相思」が始まるとしたら、
普段の意識の使い方で、大きな差が出来てしまう。


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「迷想中・迷走中・1308」

2024-08-02 21:04:28 | Weblog


ある気功師・913

嫌よ、嫌よ、は好きの内。
「相手を思う」事に「嫌」も「好き」も区別ない。
「思えば叶う!」これはウソだが、
(それぞれの欲が叶って世界は成り立つわけがない。
こんな当たり前の事に騙されるなよなぁ・・・)
「思えば通路が出来る」のはホントなのだ。

ただし、思った事が通じる路ではない。
願っている事が通じる路ではない。
「思い」の根元の「氣」が通る路だ。
そして「思い」と「氣」は正反対だったりする。

例えば・・・
「来ないで!」と思う事の裏側の「氣」は、
「来るかもしれない」の「恐れの氣」だ。
「恐れの氣」が共鳴するなら「来る」だろうね。
嫌な相手は寄って来る・・・


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