水上陽平の独善雑記

水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」

「迷説般若心経・248」

2008-04-10 23:17:51 | Weblog



  第二十章(3)
  合掌

無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法

(自分の眼にこだわるなよ。
正確に見えているわけじゃねぇ。
だから、眼が悪くても大丈夫だ。
例え、見えなくても大丈夫だぜ。
耳だって同じだ。
鼻なんて犬の方がすげぇ。
自分の鼻にこだわる程じゃねぇんだ。
舌にも、こだわるなよ。
皮膚の感覚もアテにならねぇんだ。
そして、最もアテにならねぇのが心だ。
コイツはいつも揺らいでいる。
まぁな、こだわらなけりゃ、使えるぜ

見えるモノも確かじゃねぇんだ。
声も条件で変わる。
香なんて、変わりながら漂っているんだ。
味は受ける人によって大きく違う。
触覚や圧覚もそれぞれなんだ。
それらの思い込みは、仮だと思ってくれ。
共通しているのは、こだわらない、って事だ。
それを『無』っていうんだぜ。
こだわらなけりゃ、愉しめるし、楽しめるぜ)

 
                              
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
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「迷説般若心経・247」

2008-04-09 23:15:50 | Weblog

  第二十章(2)
  合掌

舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減

(お前ぇ等、よ~く聞けよぉ。
これから、この世のイイカゲンさを説明すっからよ。
まず、いろいろなモノは生まれるよな。
命だけじゃなく、悩みも病も楽しさも地位も財産も。
それらは、いつかなくなる。
いろいろなモノは汚れたり間違ったりする。
だけど、綺麗になる事も修正される事もある。
いろいろなモノは増えることもあるけど、減ることもある)

是故空中無色 無受想行識

(このように仕組みはイイカゲンだからよ、
この世の出来事に、こだわる事ぁねぇぜ。
自分の心や行いだって、イイカゲンなんだぜ。
失敗や間違いなんて当たり前なんだ。
そんな事にも、こだわらなくて大丈夫だぁ。
苦しみや病だって、こだわるなよ。
大丈夫。何とかなるぜ)
 
                              
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
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「迷説般若心経・246」

2008-04-08 23:21:36 | Weblog



  第二十章(1)
  合掌

最初からの迷訳を再び書いてみる。
(迷訳は・・・迷惑に近い・・・)

摩訶般若波羅蜜多心経
(超スゲェ楽になれる方法を簡単にまとめたぜ)

観自在菩薩 行深般若波羅密多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄

(力を抜いて楽になろうぜ。
もっと力を抜けば、超楽な状態(時)になるぜ。
すると、この世は全部イイカゲンだぁ~、と解るぜ。
苦しさや辛さは、皆幻みたいなもんだ。
だから、どうにかなるから安心しなよ)

舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是

(お前ぇよ~、この世は空しいよなぁ~。
だけどよ、空しいって事はさぁ、
苦しさだってイイカゲンってことだろ。
ならば、空しさが救いになるじゃねぇか。

この世ってのはよ~、常に変わっているんだぜ。
何とかなる、と思えば、それっぽく変わるのさ。
お前ぇ次第で、身体や心の苦しみだって無くなるんだぜ。
大丈夫だぁ)
 
                              
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
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「迷説般若心経・245」

2008-04-07 22:58:44 | Weblog



  第十九章(12)
  般若心経

いいかげんな訳だが、ここまできた。
ワシは深い人間ではない。
自信を持って断言できる。
だが、この般若心経は深い。
ホンモノの深さは、優しさに通じる。

最後の四文字。
これだけで、般若心経を語る。
般若心経の文字で般若心経を語る。
ストレート。
純。
そして・・・ヒネクレている。
ヒネクレは素直と同類なのだ。

最後の四文字で全てを語る。
最後の四文字で全てを認める。
最後の四文字で全てを許す。
最後の四文字で・・・
完成された。

 
                              
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
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「迷説般若心経・244」

2008-04-06 18:44:22 | Weblog



  第十九章(11)
  般若心経

何が無くても、大丈夫。
般若心経は、誰でも、どんなモノでも大丈夫。
呪が唱えられなくても、大丈夫。
何も解らなくても大丈夫。

生きる心があれば大丈夫。
幸せになりたければ大丈夫。
愉しく生きたければ大丈夫。
皆で楽しくなりたければ大丈夫。

身体も心も何とかなる。
壁があっても何とかなる。
苦しくても何とかなる。
未来も何とかなる。
般若心経に関われば、何とかなるぜ。

                              
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「迷説般若心経・243」

2008-04-05 22:38:56 | Weblog



  第十九章(10)
  般若心経

何の為に最後に「般若心経」を加えたか?
誰も解説しなかった。
呪の最後にはスヴァーハ(僧婆訶)が使われる。
いろいろな真言(呪)に必ず使われる。
「成就・到達・完成」そんな意味でもある。

最後の「般若心経」の訳。
「こうして般若心経は完成された」
これは、苦し紛れの訳だろう。
美人の美しい人、みたいな訳はいらない。
蛇足にもならない。

完成された呪だった。
その後に、呪ではない四文字。
ある意味、ドンデン返し。
呪は完成されているが、呪が無くても大丈夫。
優しさの更に上を行く優しさ。

                            
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「迷説般若心経・242」

2008-04-04 10:46:10 | Weblog



  第十九章(9)
  般若心経

最後の四文字も心経の全てを語っている。
もともと、この般若心経はホリスティックな構成だ。
一部でも全体を表す。
どの部分からでも全体を感じる事ができる。

一言一言の分析をすると、全体を歪めてしまう。
仏教用語がアチコチにあるから、ワナにはまる。
ワナにはまるのはいい。
だが、はまったままで気づかぬのでは用が足りぬ。
仕掛けたゲンちゃん(玄奘)も苦笑する。
ワナだと気づき、抜け出して、心経が活かせる。

高僧はイタズラ坊主だぜ。
真に優しいから、ワナを仕掛ける。
一部にとらわれるから、ワナにかかる。
全体をみてくれよなぁ、とワナを仕掛けた。
心経は全的(ホリスティック)な経だ。

                           
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「迷説般若心経・241」

2008-04-03 21:13:31 | Weblog



  第十九章(8)
  般若心経

智恵は真理を解く鍵じゃない。
智恵は暮らしを楽にする方法だ。
真理は解いても解かなくても変わらない。
だが、暮らしを変えるのは生きている目的の一つだ。

基本は暮らしにある。
それを説いたのが般若なんだなぁ。
宇宙の真理。
人生の真理。
そんなモノはクソにも成らない。
クソになるのは、日々の食べ物と生き方だぜ。

たった四文字の般若心経。
この言葉を冥想す。
それが心経でもある。
呪も心経。
だが、最後の四文字も心経なのだ。

                           
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「迷説般若心経・240」

2008-04-02 19:14:20 | Weblog



  第十九章(7)
  般若心経

「智恵」という言葉が小さな意味に誤解される。
頭が良くなければ使えないイメージがある。
頭が主体のイメージがある。
だが、ホンモノの智恵に頭は関係ない。

「幸せ」に成る、あるいは近づく方法や気づき。
それが「智恵」というものだ。
暮らしに密着しない智恵など、ニセモノなのだ。
人間には人間の暮らしがあり、ケモノにはケモノの暮らしがある。
それぞれが、暮らしの中で「幸せ」を見出す。

こういう基本的な事が判らないで「智恵」を語る。
だから「経」が曲がってしまう。
優れた般若心経も偏屈な解説になってしまう。
「空」がどうとか、「無」がどうとか・・・。
そんな言葉にこだわるからツマラン人生になるのさ。

                           
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「迷説般若心経・239」

2008-04-01 22:26:32 | Weblog



  第十九章(6)
  般若心経

般若ってのは、とてつもなく大きく深い。
人間の一部の小利口な識者だけが理解するモノじゃない。
最初からタヌキも小鳥も妖怪も霊魂も対象だ。
意味なんて解らなくてもいい。
意味の解明などという小さな出来事じゃないのだ。

まぁ、ゲンちゃん(玄奘)は人間の坊さんだった。
だから人間の言葉で心経にまとめた。
だが人間の般若心経だけが般若じゃない。
人間の般若心経だけが、般若心経でもないのだ。

「サトリ」を目的の境地としている。
人間の坊さん達が好む言葉だからだ。
だが般若心経からは、サトリも方便だ。
一応、そういう言葉でないと理解できない人用だ。
ケモノや妖怪はサトリを求めてない。
全てが共通して求めているのは「幸せ」だ。

                           
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
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