水上陽平の独善雑記

水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」

「迷説般若心経・106」

2007-11-20 10:30:33 | Weblog



  第九章(6)
  無眼界乃至無意識界 

毎日、生活している。
暮らしている。
それが、生きている状態だ。
日々の営みがあって、生きている。

それは、病床にある状態でも同じだ。
健康で働く事も、悩みで閉じこもる事も生活だ。
その人が生きているなら、それが現状の生活だ。
生活は同一ではない。
その本人だけしか認識できない世界だ。

十八界というのは、日々の生活の事だ。
つい、眼根と色境と眼識を同一だと思ってしまう。
それは、他のモノ達とも同一だと思ってしまう。
だが、生活は一人一人違う世界だ。
そして、その全てが、とても不確かな世界だ。
 
      
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
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「迷説般若心経・105」

2007-11-19 12:06:10 | Weblog



  第九章(5)
  無眼界乃至無意識界 

十八界(眼界から意識界)にこだわるなよなぁ。
自分の世界(十八界)を愉しみなよ。
苦しむ為の世界じゃねぇぜ。
苦しみは「こだわり」で生まれるんだ。

不確かな感覚。
不確かな対象。
不確かな心。
だから、どうにでもなる。
歩き方は自分で決められる。
不確か(空)は、選択肢が多いのだ。

決まっている事なら、説明などいらない。
説明しても同じだ。
知っても知らなくても同じだ。
だが、不確かなら、知る事が活きる。
選択する事が、生きる事となる。
ブッちゃんは、生きる勇気を与えてくれている。
 
      
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「迷説般若心経・104」

2007-11-18 19:27:24 | Weblog



  第九章(4)
  無眼界乃至無意識界 

話し言葉は易しく、優しい。
だが経に記すと、こうなる。
しょうがないじゃないかぁ。
だから訳は元に戻す必要がある。
経の字を、そのまま訳したのでは意味が無い。
ブッちゃんの心を伝えられない。
(と、独善家のワシは思っている・・・)

ブッちゃんは確かに高度な話をしている。
高度な話というのは広く応用できる話だ。
一部の人しか理解出来ない話ではないぞ。
階段の上からは下の段も見渡せるのだ。
心経を小難しい理屈話と誤解しないでね。

ブッちゃんは確かに優れたオッサンだ。
だから凡人や凡人以下の我々に判るように話す。
ケモノや妖怪が納得できるように話す。
心経は誰でも理解できるように話した内容なのだぜ。
優れたという字は、優しいという意味になる。
 
      
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「迷説般若心経・103」

2007-11-17 18:53:36 | Weblog



  第九章(3)
  無眼界乃至無意識界 

「眼界」から「意識界」までが十八界。
十八界は我々が認識できる世界。
我々だから世界というのは「煩悩世界」だぜ。
そう理解できれば「無」の訳が活きる。
「こだわるなよ」という訳が、より活きるのだ。

「こだわるなよ」を更に深く観る。
すると「愉しめよ」という意味が底にある。
「十八界を愉しめよ」
「この世界に生きる事を愉しめよ」

ブッちゃん(仏陀)らしい言葉だ。
優しさに満ち溢れた言葉だ。
ここは話し言葉の部分だぜ。
ブッちゃんが誰に、何を、どんな風に言ったか。
同調(シンクロ)してみれば、わかるだろ。
ブッちゃんと同調するのは難しくないぜ。
ブッちゃんは、我々凡人に合わせてくれているんだ。

 
      
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「迷説般若心経・102」

2007-11-16 12:45:18 | Weblog



  第九章(2)
  無眼界乃至無意識界 

この「十八界」が我々から知る世界だ。
それにしても・・・感心するなぁ・・・。
「六根」「六境」「六識」という区別。
感覚器官と対象物と心を分けた洞察力。
冥想という方法無しでは観えないだろうなぁ。

まぁ、通常の我々が知る世界観だ。
だから、これを「煩悩」と表現する事もある。
つまり、我々は煩悩の世界で生きているのだ。
煩悩、万歳なのだ。
煩悩を否定するのなら、存在も否定する事になる。
煩悩は、気づきを含めて、とても大切な土台なのだ。

「無」を「なし」と訳すと、煩悩を否定する。
「この世には煩悩など無い!」などと言ってしまう。
言った人は心の中で煩悩が渦巻いているのを知っているのに。
あるいは、無理やり「ない!ない!」とする。
だから、少しも幸せになれない。
煩悩を否定すれば、幸せにはなれないのだ。
こんなの、当たり前なのになぁ。

      
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「迷説般若心経・101」

2007-11-15 10:28:47 | Weblog



  第九章(1)
  無眼界乃至無意識界 

一応直訳するのだけど、その前に・・・。
仏教用語の説明だぁ。
これを先に説明しないと解説にならない。
(話す時はこんなメンドウな説明はしないだろうなぁ)

第八章の「六根」と「六境」で「十二処」という(らしい)。
それに、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の「六識」を加える。
それが「十八界」という言葉だ。
順番も「六根」「六境」「六識」で整列している。
勝手にアチコチになったりしないルールらしい・・・。
その為、一番最初が「眼界」(界をつける)
(最初からゲンカイ(限界)かよ!)
最後が「意識界」となる。

「六根」が五感覚器官とそれを認識する脳。
「六境」が「六根」の対象相手。
「六識」は「六根」で認識した後の心の動き。
つまり「六根」が感情抜きの心。
「六識」は、それに基づいての感情有りの心。

例えば「眼界」で桜の花を認識。
「色界」は桜の花という物質。
「眼識界」は「わぉ~、なんて綺麗なんだろう!」
という心の動き。
「ぁぁ・・・儚く散る運命なのね、まるで私のよう」
と嘆く人もいるかもしれない、心の動き。


      
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「迷説般若心経・100」

2007-11-14 23:07:21 | Weblog



  第八章(11)
  無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法

ワシ的訳。
「自分の眼にこだわるなよ。
正確に見えているわけじゃねぇ。
だから、眼が悪くても大丈夫だ。
例え、見えなくても大丈夫だぜ。
耳だって同じだ。
鼻なんて犬の方がすげぇ。
自分の鼻にこだわる程じゃねぇんだ。
舌にも、こだわるなよ。
皮膚の感覚もアテにならねぇんだ。
そして、最もアテにならねぇのが心だ。
コイツはいつも揺らいでいる。
まぁな、こだわらなけりゃ、使えるぜ」

「見えるモノも確かじゃねぇんだ。
声も条件で変わる。
香なんて、変わりながら漂っているんだ。
味は受ける人によって大きく違う。
触覚や圧覚もそれぞれなんだ。
それらの思い込みは、仮だと思ってくれ。
共通しているのは、こだわらない、って事だ。
それを『無』っていうんだぜ。
こだわらなけりゃ、愉しめるし、楽しめるぜ」


      
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「迷説般若心経・99」

2007-11-13 10:40:01 | Weblog



  第八章(10)
  無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法

六根も六境も無(こだわるなよ)という。
もう一段深く(高く)観てみよう。
五蘊(色受想行識)が皆空(イイカゲン)といった。
イイカゲン(空)は救いだといった。

六根も六境も個人的な世界だ。
その個人的な世界で我々は判断して暮らしている。
その個の世界が空(イイカゲン)だと気づく。
空だからこそ、他のモノ達との共生ができる。
活かすのは無(こだわるなよ)。
こだわれば・・・争いとなる。

イイカゲンという幅の広さは、他の個の世界まで覆う。
他の感覚(六根)や対応する対象(六境)も認める事ができる。
無(こだわるなよ)ならば、他を認められるのだ。
個人的感覚が、他の感覚と共生できるのだ。
イイカゲン(空)の仕組みは、救いなのだぜ。

      
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「迷説般若心経・98」

2007-11-12 10:36:35 | Weblog



  第八章(9)
  無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法

お前ぇの眼が狂っているんじゃねぇぞ。
お前ぇの耳が偏っているんじゃねぇ。
鼻がひん曲がっているせいじゃねぇ。
味オンチだっていいんだ。
触覚が鈍いのは・・・垢のせいかも。
心は元々ヒネクレているんだ。

人(動物・妖怪含む)は正確な感覚を持ってねぇんだ。
六根の特徴は正確さじゃねぇんだ。
それぞれの感じ方が違うのは、幅の広さだぜ。
六根は受け入れ幅が広く出来ているんだ。
だから、正確を期待するのは間違いだぜ。
正確な性格じゃねぇんだ・・・
(またまた、下手なダジャレ・・・)

それに、な、
見えるモノは光によっても変わる。
方向によっても変わる。
時期によっても変わるんだぜ。
同じ人が同じ眼で見ても、変わっちまうんだよ。
六根が仮に一定しても意味が無ぇんだ。
だから正確を求めたら、苦しみだけだぜ。

      
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「迷説般若心経・97」

2007-11-11 12:41:50 | Weblog



  第八章(8)
  無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法

「見る事(眼の能力)にこだわるなよ。
眼なんて、メじゃねぇ・・・」
ブッちゃん(仏陀)は、下手なダジャレを言った。
当然、う、うけない・・・
少し・・・くやしい・・・

眼に対応する、見える対象物。
それを「色(いろ)」としたが、色(しき)と混同しそうだ。
(ちなみに、読み方は「しき」で同じ・・・ややっこしい)
色(しき)は物質で眼に見えるモノだから、同じといえば同じ。
でも、ここでは眼に対応するモノとして、ちょっと区別しようね。

「眼の能力なんて、イイカゲンだから固執するなよ。
(見える)モノ側も、すぐ変化するから固執するなよ
この世は自他の両方がイイカゲンなんだ。
だから、二重に無(こだわるなよ)だぜ。
色なんて、シキくねぇ・・・意味不明だぁ!」
ブッちゃんは・・・少し・・・壊れた。

      
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
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