水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」
第九章(6)
無眼界乃至無意識界
毎日、生活している。
暮らしている。
それが、生きている状態だ。
日々の営みがあって、生きている。
それは、病床にある状態でも同じだ。
健康で働く事も、悩みで閉じこもる事も生活だ。
その人が生きているなら、それが現状の生活だ。
生活は同一ではない。
その本人だけしか認識できない世界だ。
十八界というのは、日々の生活の事だ。
つい、眼根と色境と眼識を同一だと思ってしまう。
それは、他のモノ達とも同一だと思ってしまう。
だが、生活は一人一人違う世界だ。
そして、その全てが、とても不確かな世界だ。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
第九章(5)
無眼界乃至無意識界
十八界(眼界から意識界)にこだわるなよなぁ。
自分の世界(十八界)を愉しみなよ。
苦しむ為の世界じゃねぇぜ。
苦しみは「こだわり」で生まれるんだ。
不確かな感覚。
不確かな対象。
不確かな心。
だから、どうにでもなる。
歩き方は自分で決められる。
不確か(空)は、選択肢が多いのだ。
決まっている事なら、説明などいらない。
説明しても同じだ。
知っても知らなくても同じだ。
だが、不確かなら、知る事が活きる。
選択する事が、生きる事となる。
ブッちゃんは、生きる勇気を与えてくれている。
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第九章(4)
無眼界乃至無意識界
話し言葉は易しく、優しい。
だが経に記すと、こうなる。
しょうがないじゃないかぁ。
だから訳は元に戻す必要がある。
経の字を、そのまま訳したのでは意味が無い。
ブッちゃんの心を伝えられない。
(と、独善家のワシは思っている・・・)
ブッちゃんは確かに高度な話をしている。
高度な話というのは広く応用できる話だ。
一部の人しか理解出来ない話ではないぞ。
階段の上からは下の段も見渡せるのだ。
心経を小難しい理屈話と誤解しないでね。
ブッちゃんは確かに優れたオッサンだ。
だから凡人や凡人以下の我々に判るように話す。
ケモノや妖怪が納得できるように話す。
心経は誰でも理解できるように話した内容なのだぜ。
優れたという字は、優しいという意味になる。
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第九章(3)
無眼界乃至無意識界
「眼界」から「意識界」までが十八界。
十八界は我々が認識できる世界。
我々だから世界というのは「煩悩世界」だぜ。
そう理解できれば「無」の訳が活きる。
「こだわるなよ」という訳が、より活きるのだ。
「こだわるなよ」を更に深く観る。
すると「愉しめよ」という意味が底にある。
「十八界を愉しめよ」
「この世界に生きる事を愉しめよ」
ブッちゃん(仏陀)らしい言葉だ。
優しさに満ち溢れた言葉だ。
ここは話し言葉の部分だぜ。
ブッちゃんが誰に、何を、どんな風に言ったか。
同調(シンクロ)してみれば、わかるだろ。
ブッちゃんと同調するのは難しくないぜ。
ブッちゃんは、我々凡人に合わせてくれているんだ。
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第九章(2)
無眼界乃至無意識界
この「十八界」が我々から知る世界だ。
それにしても・・・感心するなぁ・・・。
「六根」「六境」「六識」という区別。
感覚器官と対象物と心を分けた洞察力。
冥想という方法無しでは観えないだろうなぁ。
まぁ、通常の我々が知る世界観だ。
だから、これを「煩悩」と表現する事もある。
つまり、我々は煩悩の世界で生きているのだ。
煩悩、万歳なのだ。
煩悩を否定するのなら、存在も否定する事になる。
煩悩は、気づきを含めて、とても大切な土台なのだ。
「無」を「なし」と訳すと、煩悩を否定する。
「この世には煩悩など無い!」などと言ってしまう。
言った人は心の中で煩悩が渦巻いているのを知っているのに。
あるいは、無理やり「ない!ない!」とする。
だから、少しも幸せになれない。
煩悩を否定すれば、幸せにはなれないのだ。
こんなの、当たり前なのになぁ。
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第九章(1)
無眼界乃至無意識界
一応直訳するのだけど、その前に・・・。
仏教用語の説明だぁ。
これを先に説明しないと解説にならない。
(話す時はこんなメンドウな説明はしないだろうなぁ)
第八章の「六根」と「六境」で「十二処」という(らしい)。
それに、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の「六識」を加える。
それが「十八界」という言葉だ。
順番も「六根」「六境」「六識」で整列している。
勝手にアチコチになったりしないルールらしい・・・。
その為、一番最初が「眼界」(界をつける)
(最初からゲンカイ(限界)かよ!)
最後が「意識界」となる。
「六根」が五感覚器官とそれを認識する脳。
「六境」が「六根」の対象相手。
「六識」は「六根」で認識した後の心の動き。
つまり「六根」が感情抜きの心。
「六識」は、それに基づいての感情有りの心。
例えば「眼界」で桜の花を認識。
「色界」は桜の花という物質。
「眼識界」は「わぉ~、なんて綺麗なんだろう!」
という心の動き。
「ぁぁ・・・儚く散る運命なのね、まるで私のよう」
と嘆く人もいるかもしれない、心の動き。
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第八章(11)
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
ワシ的訳。
「自分の眼にこだわるなよ。
正確に見えているわけじゃねぇ。
だから、眼が悪くても大丈夫だ。
例え、見えなくても大丈夫だぜ。
耳だって同じだ。
鼻なんて犬の方がすげぇ。
自分の鼻にこだわる程じゃねぇんだ。
舌にも、こだわるなよ。
皮膚の感覚もアテにならねぇんだ。
そして、最もアテにならねぇのが心だ。
コイツはいつも揺らいでいる。
まぁな、こだわらなけりゃ、使えるぜ」
「見えるモノも確かじゃねぇんだ。
声も条件で変わる。
香なんて、変わりながら漂っているんだ。
味は受ける人によって大きく違う。
触覚や圧覚もそれぞれなんだ。
それらの思い込みは、仮だと思ってくれ。
共通しているのは、こだわらない、って事だ。
それを『無』っていうんだぜ。
こだわらなけりゃ、愉しめるし、楽しめるぜ」
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第八章(10)
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
六根も六境も無(こだわるなよ)という。
もう一段深く(高く)観てみよう。
五蘊(色受想行識)が皆空(イイカゲン)といった。
イイカゲン(空)は救いだといった。
六根も六境も個人的な世界だ。
その個人的な世界で我々は判断して暮らしている。
その個の世界が空(イイカゲン)だと気づく。
空だからこそ、他のモノ達との共生ができる。
活かすのは無(こだわるなよ)。
こだわれば・・・争いとなる。
イイカゲンという幅の広さは、他の個の世界まで覆う。
他の感覚(六根)や対応する対象(六境)も認める事ができる。
無(こだわるなよ)ならば、他を認められるのだ。
個人的感覚が、他の感覚と共生できるのだ。
イイカゲン(空)の仕組みは、救いなのだぜ。
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第八章(9)
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
お前ぇの眼が狂っているんじゃねぇぞ。
お前ぇの耳が偏っているんじゃねぇ。
鼻がひん曲がっているせいじゃねぇ。
味オンチだっていいんだ。
触覚が鈍いのは・・・垢のせいかも。
心は元々ヒネクレているんだ。
人(動物・妖怪含む)は正確な感覚を持ってねぇんだ。
六根の特徴は正確さじゃねぇんだ。
それぞれの感じ方が違うのは、幅の広さだぜ。
六根は受け入れ幅が広く出来ているんだ。
だから、正確を期待するのは間違いだぜ。
正確な性格じゃねぇんだ・・・
(またまた、下手なダジャレ・・・)
それに、な、
見えるモノは光によっても変わる。
方向によっても変わる。
時期によっても変わるんだぜ。
同じ人が同じ眼で見ても、変わっちまうんだよ。
六根が仮に一定しても意味が無ぇんだ。
だから正確を求めたら、苦しみだけだぜ。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
第八章(8)
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
「見る事(眼の能力)にこだわるなよ。
眼なんて、メじゃねぇ・・・」
ブッちゃん(仏陀)は、下手なダジャレを言った。
当然、う、うけない・・・
少し・・・くやしい・・・
眼に対応する、見える対象物。
それを「色(いろ)」としたが、色(しき)と混同しそうだ。
(ちなみに、読み方は「しき」で同じ・・・ややっこしい)
色(しき)は物質で眼に見えるモノだから、同じといえば同じ。
でも、ここでは眼に対応するモノとして、ちょっと区別しようね。
「眼の能力なんて、イイカゲンだから固執するなよ。
(見える)モノ側も、すぐ変化するから固執するなよ
この世は自他の両方がイイカゲンなんだ。
だから、二重に無(こだわるなよ)だぜ。
色なんて、シキくねぇ・・・意味不明だぁ!」
ブッちゃんは・・・少し・・・壊れた。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)