水上陽平の独善雑記

水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」

「迷説般若心経・15」

2007-08-21 22:51:09 | Weblog




   第一章(7)
   摩訶般若波羅蜜多心経

「思う」から「想う」にしてみなよ。
そうすりゃ「苦」から離れられる。
「想う」事を「冥想」っていうんだ。
簡単にいえば、心経はそういっている。

「思う」は自分事。
それぞれの「自分の思い」がある。
当然、それぞれの「思い」は同じじゃない。
「思い」は個独自のモノだから他と衝突する。

あのコが欲しい。
オレもあのコが欲しい。
実は、ボクもなんだ。
決闘だぁ!
(あのコは、他のオトコが欲しい・・・)

そして「思い」は一部の満足と多くの「苦」を産む。
圧倒的に「苦」が多いし大きい。
「思は叶う」なんて言葉に、浅く反応しないでね。
自分だけの地球じゃないのだぜ。


(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
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「迷説般若心経・14」

2007-08-20 22:37:17 | Weblog




   第一章(6)
   摩訶般若波羅蜜多心経

小学校一年生が読む物語がある。
その字がスペイン語だと難しいと思ってしまう。
だが、スペイン人の子供にとっては簡単なのだ。
ワシはそうでもないが、フランス語でも難解に感じるようだ。
当然、フランス人のガキはスラスラ理解できる。
そのフランス人のソルボンヌ大学教授がいる。
大学教授も様々だが、一応、頭が良いとしよう。
でもスワヒリ語で書かれた小学生用の物語は難解になる。

心経も同じなのだ。
日本人は漢字に馴染みがあるほうだ。
それでも漢字ばかりだと難しく思ってしまう。
「思う事」「考える事」など間違いだらけだ。
自分の判断は・・・ほとんど誤りなのだ。

ほとんどの人間の判断は間違っていた。
正しければ、今の地球のようにはならない。
戦争で苦しむ地球人だらけの星は卒業している。
「思う事」と事実は別な次元にある。
アナタの思いや考えは・・・間違いだらけだ。
心経が難しいと考えるならば、それは間違いだ。
心経は「思う・考える」から解放しようぜ、と書いてある。


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「迷説般若心経・13」

2007-08-19 20:55:20 | Weblog




   第一章(5)
   摩訶般若波羅蜜多心経

「摩訶般若波羅蜜多心経」は題字だ。
題字は大事だ。
この題字は大慈でもある。
駄洒落と高度な洒落の差は微妙だ・・・。
もちろんワシが目指すのは駄洒落だ。
だが教養がジャマして上手く駄洒落ない。
頭が悪い人がうらやましいなぁ・・・。

この題字を見ただけで難しいと勘違いする人がいる。
難しそうな漢字が10個も続いているからだ。
だが、よ~く考えよう・・・。
書いたのは玄奘さんだ。
通称、ゲンちゃん。

ゲンちゃんの日常字は漢字なのだ。
我々は日本人。
漢字も少しは読めるが「ひらがな」が主なのだ。
漢字だけの文章なんて、難しく思えてしまう。
難しく思えるのと、難しいのは別な次元だぜ。
心経は、難しくないのだ。


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「迷般若心経・12」

2007-08-18 15:09:28 | Weblog



   第一章(4)
   摩訶般若波羅蜜多心経

「経」の意味は「本道」だ。
その更に中心の部分だけを書いた。
だから「心経」という。
誰でも利用できるように簡潔にした。
決して難しくないのだ。

「心経」はホリスティック(全的)でもある。
一部が全部を顕している。
理解度によって、意味は幾らでも深くなる。
だから万人が理解できるようになっている。
これが真説だぁ!なんて意気込まなくてもいい。
誰が、どのように訳してもいいのだ。

だから、ワシだって訳していいのだ。
ワシのようにイイカゲンな訳は少ない。
だが、世の中にはイイカゲン者は少なくない。
ワシはイイカゲン党の辺鄙地区一人親方なのだ。
モンクがあっても、聞く耳は持たない。



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「迷般若心経・11」

2007-08-17 10:52:00 | Weblog



   第一章(3)
   摩訶般若波羅蜜多心経

「経」の意味を誤解している。
坊さんの唱える「お経」だと思われている。
あれは「経」の一つにすぎない。
「経」とは「万物の道」を意味する。
直接訳は「たていと」だ。

経営・・・。
「経」を営む経営者は少ない。
皆無とはいわないが、皆無に近いかも・・・。
経営者はエラソウな言葉が好きだ。
人生訓のような言葉を多様する。

商人タイプの特徴だ。
教育じみた言葉が好きだ。
法則が好きだ。
でもワシは知っている。
エラソウな言葉を言うのは誤魔化しからだ。
政治家や官僚だって立派な言葉を言う。
言葉が立派だと、腹は闇が多いかも・・・。



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「迷般若心経・10」

2007-08-16 23:38:51 | Weblog



   第一章(2)
   摩訶般若波羅蜜多心経

もともとは古代インド語で書かれていた。
サンスクリット語(梵語)というやつだ。
古代インドでは、特別な人達がいたのだ。
特殊な世界(見える世界と見えない世界の間)に繋がった。
特殊な世界に繋がる事を「冥想」という。

訳せない言葉がある。
あるいは、言葉そのものの音に意味がある場合がある。
その為サンスクリット語をそのまま音読みし、漢字に当てはめた。
心経には、そういう箇所が幾つかある。
特に最後の「呪(冥想の一方法)」は音に意味がある。
音に意味がある場合、訳は不要になる。

玄奘訳は「仏説般若心経」ともいわれる。
玄奘が仏教系の坊さんだからだが、
般若経は既成の仏教という枠を超えた智恵だ。
全ての生物に共通した道標の一つだ。
(元々、仏陀は鳥やケモノに話をしていたのだ。
仏教は仏教徒への教えじゃないのだぞ)



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「迷般若心経・9」

2007-08-15 23:15:48 | Weblog




   第一章
   摩訶般若波羅蜜多心経

大般若波羅蜜多経は600巻もの膨大な経だったらしい。
よほどの変人か物好きかマニアでないと読まない。
ほとんどの人が読まない経など、役に立たない。
役に立たないモノは存在の意味さえ危うい。
他人事じゃない。
ワシだって、役に立つのか・・・不安だぁ。
だが、不安を続ける根性は無い・・・。

そこで玄奘は考えた。
誰でもは無理かもしれないが(字が読めない人もいる)
多くの人が大般若経の智恵を使って欲しい。
それには、短くすることだ。
長けりゃいいって、ものじゃない。
玄奘には短小コンプレックスが無かったのだ。
ビバ!短小!

玄奘だけじゃない。
大般若経を短小にした優れた人達は幾人もいる。
チベット訳の心経もある。
中国訳も幾つかある。
(漢訳の一つに玄奘訳がある)
日本で一般的に知られているのが玄奘訳の心経なのだ。


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「迷般若心経・8」

2007-08-14 23:05:38 | Weblog


「冥想」
心経のもう一つの意味と目的。
方法は幾つかある。
「瞑想」も「呪」も一方法だ。
心経の最後の部分は「呪」だ。

プロローグで終わってしまった・・・。
迷解説だが、終わってしまった・・・。
まぁ、いいかぁ。
ほとんどのモノは蛇足なのだ。
蛇足を使って、少し進める。

足を使わないで進めるのは蛇。
だから蛇は「智」の象徴。
人は蛇じゃない。
だから、足を使って前に進む。

というわけで、
まだまだ蛇足を書いていこう。


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「迷般若心経・7」

2007-08-13 23:37:19 | Weblog



人のまま、上には行けない。
(何にでも例外はあるが・・・)
上になれば、下の手助けはしない。
(手助けは妨害になるから)

それでも、上の独り言や雰囲気を知る事がある。
通路(空気)に触れる事がある。
それを知る方法がある。
「冥想」というヤツだ。
(冥想の一方法に「瞑想」がある)
これは世界共通。
生物皆共通で出来る方法だ。

自分の中の底の底。
それは上の扉に繋がっている。
最初から、扉は誰にでもある。
生物はどんなモノでも扉を持っていた。
それが、生物の生物である印。
だが、使うモノ達は少ない・・・。


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「迷般若心経・6」

2007-08-12 22:40:54 | Weblog


人は階段を上がると、人以上の存在になる。
それを仏教的には「菩薩」といった。
更に上ると「如来」といった。
だが、人ではいられなくなる。

階段は自力で「気づき」自力で上がるモノ。
だから、上から手助けをしない。
手助けは、手助けにならないのだ。
上には簡単に行けない。
何度も生まれ変わって上れるようになる。
それを「輪廻」という言葉で示した。

上には簡単に行けないが、下には行ける。
下には落ちる事が出来る。
下は、下種だから下にいる。
騙すのは得意なのだ。
そして、言う。
「ワシは神だ」
騙されるのは、自分で下を向いたからだ。
上だと勘違いして。


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