水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」
第一章(7)
摩訶般若波羅蜜多心経
「思う」から「想う」にしてみなよ。
そうすりゃ「苦」から離れられる。
「想う」事を「冥想」っていうんだ。
簡単にいえば、心経はそういっている。
「思う」は自分事。
それぞれの「自分の思い」がある。
当然、それぞれの「思い」は同じじゃない。
「思い」は個独自のモノだから他と衝突する。
あのコが欲しい。
オレもあのコが欲しい。
実は、ボクもなんだ。
決闘だぁ!
(あのコは、他のオトコが欲しい・・・)
そして「思い」は一部の満足と多くの「苦」を産む。
圧倒的に「苦」が多いし大きい。
「思は叶う」なんて言葉に、浅く反応しないでね。
自分だけの地球じゃないのだぜ。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
第一章(6)
摩訶般若波羅蜜多心経
小学校一年生が読む物語がある。
その字がスペイン語だと難しいと思ってしまう。
だが、スペイン人の子供にとっては簡単なのだ。
ワシはそうでもないが、フランス語でも難解に感じるようだ。
当然、フランス人のガキはスラスラ理解できる。
そのフランス人のソルボンヌ大学教授がいる。
大学教授も様々だが、一応、頭が良いとしよう。
でもスワヒリ語で書かれた小学生用の物語は難解になる。
心経も同じなのだ。
日本人は漢字に馴染みがあるほうだ。
それでも漢字ばかりだと難しく思ってしまう。
「思う事」「考える事」など間違いだらけだ。
自分の判断は・・・ほとんど誤りなのだ。
ほとんどの人間の判断は間違っていた。
正しければ、今の地球のようにはならない。
戦争で苦しむ地球人だらけの星は卒業している。
「思う事」と事実は別な次元にある。
アナタの思いや考えは・・・間違いだらけだ。
心経が難しいと考えるならば、それは間違いだ。
心経は「思う・考える」から解放しようぜ、と書いてある。
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第一章(5)
摩訶般若波羅蜜多心経
「摩訶般若波羅蜜多心経」は題字だ。
題字は大事だ。
この題字は大慈でもある。
駄洒落と高度な洒落の差は微妙だ・・・。
もちろんワシが目指すのは駄洒落だ。
だが教養がジャマして上手く駄洒落ない。
頭が悪い人がうらやましいなぁ・・・。
この題字を見ただけで難しいと勘違いする人がいる。
難しそうな漢字が10個も続いているからだ。
だが、よ~く考えよう・・・。
書いたのは玄奘さんだ。
通称、ゲンちゃん。
ゲンちゃんの日常字は漢字なのだ。
我々は日本人。
漢字も少しは読めるが「ひらがな」が主なのだ。
漢字だけの文章なんて、難しく思えてしまう。
難しく思えるのと、難しいのは別な次元だぜ。
心経は、難しくないのだ。
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第一章(4)
摩訶般若波羅蜜多心経
「経」の意味は「本道」だ。
その更に中心の部分だけを書いた。
だから「心経」という。
誰でも利用できるように簡潔にした。
決して難しくないのだ。
「心経」はホリスティック(全的)でもある。
一部が全部を顕している。
理解度によって、意味は幾らでも深くなる。
だから万人が理解できるようになっている。
これが真説だぁ!なんて意気込まなくてもいい。
誰が、どのように訳してもいいのだ。
だから、ワシだって訳していいのだ。
ワシのようにイイカゲンな訳は少ない。
だが、世の中にはイイカゲン者は少なくない。
ワシはイイカゲン党の辺鄙地区一人親方なのだ。
モンクがあっても、聞く耳は持たない。
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第一章(3)
摩訶般若波羅蜜多心経
「経」の意味を誤解している。
坊さんの唱える「お経」だと思われている。
あれは「経」の一つにすぎない。
「経」とは「万物の道」を意味する。
直接訳は「たていと」だ。
経営・・・。
「経」を営む経営者は少ない。
皆無とはいわないが、皆無に近いかも・・・。
経営者はエラソウな言葉が好きだ。
人生訓のような言葉を多様する。
商人タイプの特徴だ。
教育じみた言葉が好きだ。
法則が好きだ。
でもワシは知っている。
エラソウな言葉を言うのは誤魔化しからだ。
政治家や官僚だって立派な言葉を言う。
言葉が立派だと、腹は闇が多いかも・・・。
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第一章(2)
摩訶般若波羅蜜多心経
もともとは古代インド語で書かれていた。
サンスクリット語(梵語)というやつだ。
古代インドでは、特別な人達がいたのだ。
特殊な世界(見える世界と見えない世界の間)に繋がった。
特殊な世界に繋がる事を「冥想」という。
訳せない言葉がある。
あるいは、言葉そのものの音に意味がある場合がある。
その為サンスクリット語をそのまま音読みし、漢字に当てはめた。
心経には、そういう箇所が幾つかある。
特に最後の「呪(冥想の一方法)」は音に意味がある。
音に意味がある場合、訳は不要になる。
玄奘訳は「仏説般若心経」ともいわれる。
玄奘が仏教系の坊さんだからだが、
般若経は既成の仏教という枠を超えた智恵だ。
全ての生物に共通した道標の一つだ。
(元々、仏陀は鳥やケモノに話をしていたのだ。
仏教は仏教徒への教えじゃないのだぞ)
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第一章
摩訶般若波羅蜜多心経
大般若波羅蜜多経は600巻もの膨大な経だったらしい。
よほどの変人か物好きかマニアでないと読まない。
ほとんどの人が読まない経など、役に立たない。
役に立たないモノは存在の意味さえ危うい。
他人事じゃない。
ワシだって、役に立つのか・・・不安だぁ。
だが、不安を続ける根性は無い・・・。
そこで玄奘は考えた。
誰でもは無理かもしれないが(字が読めない人もいる)
多くの人が大般若経の智恵を使って欲しい。
それには、短くすることだ。
長けりゃいいって、ものじゃない。
玄奘には短小コンプレックスが無かったのだ。
ビバ!短小!
玄奘だけじゃない。
大般若経を短小にした優れた人達は幾人もいる。
チベット訳の心経もある。
中国訳も幾つかある。
(漢訳の一つに玄奘訳がある)
日本で一般的に知られているのが玄奘訳の心経なのだ。
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「冥想」
心経のもう一つの意味と目的。
方法は幾つかある。
「瞑想」も「呪」も一方法だ。
心経の最後の部分は「呪」だ。
プロローグで終わってしまった・・・。
迷解説だが、終わってしまった・・・。
まぁ、いいかぁ。
ほとんどのモノは蛇足なのだ。
蛇足を使って、少し進める。
足を使わないで進めるのは蛇。
だから蛇は「智」の象徴。
人は蛇じゃない。
だから、足を使って前に進む。
というわけで、
まだまだ蛇足を書いていこう。
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人のまま、上には行けない。
(何にでも例外はあるが・・・)
上になれば、下の手助けはしない。
(手助けは妨害になるから)
それでも、上の独り言や雰囲気を知る事がある。
通路(空気)に触れる事がある。
それを知る方法がある。
「冥想」というヤツだ。
(冥想の一方法に「瞑想」がある)
これは世界共通。
生物皆共通で出来る方法だ。
自分の中の底の底。
それは上の扉に繋がっている。
最初から、扉は誰にでもある。
生物はどんなモノでも扉を持っていた。
それが、生物の生物である印。
だが、使うモノ達は少ない・・・。
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人は階段を上がると、人以上の存在になる。
それを仏教的には「菩薩」といった。
更に上ると「如来」といった。
だが、人ではいられなくなる。
階段は自力で「気づき」自力で上がるモノ。
だから、上から手助けをしない。
手助けは、手助けにならないのだ。
上には簡単に行けない。
何度も生まれ変わって上れるようになる。
それを「輪廻」という言葉で示した。
上には簡単に行けないが、下には行ける。
下には落ちる事が出来る。
下は、下種だから下にいる。
騙すのは得意なのだ。
そして、言う。
「ワシは神だ」
騙されるのは、自分で下を向いたからだ。
上だと勘違いして。
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