僕のブログが最近かなり説教じみてきた。一番嫌がられるパターンだ。説教は人にするものではない。説教は自分にするものだ。僕のブログを読み返しながら自問自答して自責した。お前は何様のつもりだと。もっと明るく、希望に燃える、おもしろい話題の展開に方向転換しなきゃあダメですね。浦島太郎は助けた亀の背中に乗って溺れてしまった?とか・・神が人間を創り、人間がアンドロイドを創り、アンドロイドが創るものは???とか・・テレビを見るのを一週間止めると、頭の中がとても聡明になる?とか・・なぜウサギと亀は競争しなければいけなかったのか?とか・・、僕の様々な珍体験?とか・・読者の皆さん!ご意見は? やっぱり、僕のブログは説教じみてるのかなあ???
フランスの哲学者、パスカルは、「人間は考える葦」であると説いた。風になびき、直ぐに折れてしまう葦のように弱い人間だが、考えることで偉大になれるという教えである。ところが、最近、人間は、考えなければいけない分野は考えなくなった。掃除・洗濯・料理ですら、自分で考えることが少なくなった。衣食住は人間が生きていくための原点である。如何に整え、如何に育て、如何に作るかを考えることで喜びを感じてきたはずだ。悲しいかな今の世の中では、考えることなしに、ほとんどのものが、完成した姿で目の前に展開する。ボタン一つで大抵の事はまかなえる。考えに考え抜いて、もっと便利なものを造っていこうとする人々と、全く考えないで、造られた便利な世界だけで生きていく人々と、思考の格差が大きく広がっていく。でも、考えるのが人間だから、代わりに、考えなくてもよいことを考えるようになる。自分を不幸にしたり、他人を悩ましてしまうようなことを考えるようになる。大災害が起こって便利が消えたとき、考えるべき分野を考えてこなかった人々の苦しみが目に見えてくる。考える事を間違えてはいけない。
人は人に感謝しなくなった。昔は極道の道ですら仁義があった。人の道に筋道が通っていた。一宿一飯の仁義もそのひとつだ。たった一度のことであっても、宿に泊めてもらい、食事を施して貰ったという恩を受けると、その恩を忘れることはなかった。その恩義を返すために命を張ることさえあった。今の世は難しい、感謝するのもされるのも面倒だと思う人が多い。「ほっといてくれ!」、Leave me alone. こんな感じだ。無償の愛が消えた。「おかげさま」の心も消えた。代わりに、駆け引きの優しさと、社交辞令の感謝が往来している。忘れてはいけない。人は人によって生かされている。感謝したい人、感謝できる人を見つけよう。見つけられなかったら、自分が感謝される人になればいい。努力すればいい。感謝という言葉は、生きているという事実を、喜びで実感できる魔法の言葉だ。